ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その9 歴史研究者ニコライ

1 啓蒙主義と歴史研究

従来の見解とそれへの反論

「歴史は啓蒙の先頭に立って松明を掲げて進む」
ニコライはその晩年に当たる1806年に、こう書いている。ドイツにおいては、十九世紀から二十世紀前半にかけて、「啓蒙主義は非歴史的である」といわれ続けてきた。これは十九世紀初頭のロマン主義やランケを開祖とする歴史学派などによって広められてきた見解であるが、その影響力は強く後を引き、現代の歴史家ホルスト・メラーによれば、今なお多くの歴史学ハンドブックや一般の個別論文の中に、この見解は残っているという。

しかし歴史哲学者E・トレルチュは十九世紀末に発表した論文「啓蒙主義」の中で、十八世紀や十九世紀のフランスやイギリスと並んでドイツにおいても、歴史研究や歴史叙述が行われていたことを明らかにしている。そこではとりわけゲッティンゲン学派のガッテラー、シュレーツァー、ヘーレン、マイナース、ミヒァーエーリス、シュビットラーなどの名前があげられている。そして十七世紀の自然法学者プーフェンドルフによって歴史が神学から解放された後を受けて、彼らは新しい理念を歴史資料に適用していった、と述べている。

そして「もし啓蒙主義を非歴史的だと呼ぶとするならば、それは啓蒙主義が歴史をそれ自体ではなくて、それに基づいて行う立証や攻撃の手段として、あるいは政治的・道徳的教訓のために研究していたという、ただそのためだけからだと言えよう。この意味において歴史研究は著しい影響力を周囲に及ぼしてきたのだ。啓蒙主義は・・・それまで知られていなかったか、注目されていなかった世界を発見し、歴史の予測できない時代を切り開き・・・」と、トレルチュは続けているのだ。

続いて二十世紀前半には、メラーによれば、三人の歴史家ないし思想家「ディルタイ、マイネッケ、カッシーラーその他の偉大な人物による理念的解釈を通じて、十八世紀に目覚めた歴史的意識は新たなる再評価を体験した。それにもかかわらずとりわけ啓蒙主義にたいしてはなお<非歴史的>という厳しい裁断が下され続けた」という。

しかし現代の歴史家ヴァイグルはその『啓蒙の都市周遊』の中で、トレルチュがあげたゲッティンゲン学派のことをディルタイが高く評価していたとして、次のように述べているのだ。{それゆえにヴィルヘルム・ディルタイは、イギリスの啓蒙主義に連なることによって人間と世界を歴史的に見ることに寄与したゲッティンゲン学派の功績を強調して以下のように書いている。<十八世紀後半を通じてゲッティンゲン学派の人々から、歴史的学問にとっておおきな影響力を持った、相互に連関した一連の研究が生まれている。イギリス及びフランスの啓蒙主義の仕事がここで、ドイツの大学の研究活動が持つ学問的でまとまりのある体系的なやり方で、推し進められたのであった>。またヴァイグルは同書で「歴史的思考なるものは、ロマン派の世代が発見したというように記述されることが多いが、実際にはロマン派の世代がゲッティンゲン学派の啓蒙主義から学んだものなのである」とも書いている。

啓蒙主義と歴史との強い結びつきについては、現代の歴史家ユルゲン・コッカも、その『歴史と啓蒙』という書物の中で強調している。そこでは冒頭に掲げたニコライの言葉を引用した後、次のように述べられている。「我々の多くが歴史のプロ・ゼミナールで学んだかもしれないものとは逆に、いっぽうでは歴史は多くの(すべてのではないが)啓蒙思想家にとって中心的意義を持っている。・・・歴史学は、十九世紀の歴史主義の所産にすぎないといったものではなく、啓蒙とりわけ後期啓蒙の所産なのである。歴史学の創設者を探す際には、クラデニウスやガッテラー、シュレーツァー、イグナーツ・シュミットのような歴史家たち、ヴィーコやヘルダーのような思想家たち、メーザーやニコライのような実際家たち、ギボン、ヴォルテールあるいはファーガソンといった西欧からの影響を見落としてはならない。近年の史学史研究がそのことをあきらかにしている」

ニコライと歴史研究のつながりについて

ユルゲン・コッカはさらにニコライと歴史研究とのつながりについて、次のように述べている。「人は、社会の理性的な進歩を人類史的な尺度で期待しただけではなく、まさしくそれらすべてを通じて促進しようと欲したのである。すでにライプニッツとダランベールまたはニコライとメーザーは、有益で現在にかかわりを持つ、すぐれて批判的な歴史学を要求したのだ。・・・人は現代への歴史の批判的なかかわりを要求したが、現代のために歴史を手段化し歪曲することを求めはしなかった。そして歴史学について、社会-文明史という意味での極めて広い概念が抱かれていた。・・・後年に歴史主義が試みたような政治史への矮小化とは、啓蒙期の歴史はいまだ遠く離れていた」

以上利用してきたコッカやヴァイグルあるいはメラーの著作は、1970年代から1990年代にかけて刊行されたものであるが、ドイツ啓蒙主義に対する再評価の動きは、1960年代から西ドイツや西欧の研究者の間で見られるようになった「ドイツ十八世紀史見直し」の中で、全般的に行われてきたものである。ドイツの文学史や一般の歴史概説書の中ではなお啓蒙主義を非歴史的なものとする見解や叙述がみられるものの、すでに専門の歴史学者の間では「歴史と啓蒙」の深いつながりについては、常識化してきたといえよう。

このような流れの中で、従来ほとんど顧みられることのなかった歴史研究者としてのニコライの業績についても、研究する動きが出てきたわけである。そのなかでもドイツの歴史学者ホルスト・メラーは、この点について最も詳しい研究を遺している。この人物は1974年刊行の大著『プロイセンの啓蒙主義、出版者、ジャーナリスト、歴史叙述者フリードリヒ・ニコライ』のなかで、620頁のうち200頁を「啓蒙と歴史」の項目に費やしている。そしてさらに1983年には、そのダイジェスト的な単独の論文「歴史家としてのフリードリヒ・ニコライ」を発表している。私としては、このメラーの著作によって、ニコライの歴史研究者としての側面を知ったわけである。
以下の叙述では、ニコライが遺した歴史叙述に関する業績に基づいて、「歴史研究者としてのニコライ」について、さまざまな側面から考察していくことにする。

2 ニコライの歴史関連著作

ニコライが遺した作品を見渡すと、そのほとんどすべての著作の中に、歴史的テーマに対する所見や、歴史に対する際立った関心をうかがわせるような、ささやかな研究がみられる。そして啓蒙的思考の奥深くに歴史が定着していることについて、そうした所見や研究のなかでいろいろな言明が行われているのだ。これらの研究は、時間的にはまず地誌的な研究と重なった形で行われている。それは1770年代後半に始まり、1780年代、1790年代と続けられ、晩年の1806年の著作をもって終了している。

これらの歴史関連著作を内容別に分類すると、大きく四つの分野に分けられよう。
① ベルリン・ブランデンブルクの歴史的地誌
ー『王都ベルリン及びポツダム並びにそこにあるすべての珍しい事物についての
叙述』第二版(1779)、第三版(1786)の中の序章「ベルリンの
歴史」
② フリードリヒ大王に関する研究
ー『プロイセン国王フリードリヒ二世およびその周辺の人物に関する逸話並び
にすでに公刊されている逸話の訂正』(1788)
ー 『フリードリヒ大王に関するツィンマーマン氏の断編についての率直な所
見』(1791-92)
③ テンプル騎士団、薔薇十字団およびフリーメーソンに関する研究
ー 『テンプル騎士団に対してなされた弾劾並びにその秘密に関する試論。フ
リーメーソンの成立についての付論を添えて』(1782)
ー 『薔薇十字団及びフリーメーソンの起源と歴史に関するいくつかの所見。
このテーマに関する宮廷顧問官ブーレ氏の。いわゆる歴史的・批判的研究
に触発されて』(1806)
④ 文化史上及び言語史上の著作
ー 『古代及び現代における鬘(かつら)の使用について。一つの歴史的研究
』(1801)

次に以上の歴史関連著作の概要を、順次見ていくことにしよう。

(1)ベルリン・ブランデンブルクの歴史的地誌
『王都ベリリン及びポツダムについての叙述』の第二版
序章「ベルリンの歴史」

ニコライの歴史研究の初期段階にあっては、地誌的な研究を補完するような形で進められた。それは初版の序章として書かれた、ベルリン地域の淵源からニコライの時代までの歴史に関するごく短い素描であった。その後広範で徹底的な史料研究に乗り出し、十年後の1779年に内容的に全面的に書き換えて、第二版を刊行した。

社会・経済史的叙述

ここでは十二世紀におけるベルリン入植からニコライの時代までの発展の歴史が、様々な史料や文献に基づいて詳細に跡付けされている。ベルリン入植は西部ドイツ地域の人々による東方植民の一環として行われたものであるが、その後の移住の発展とそれに結びついたブランデンブルク・プロイセンの経済的興隆の様子が、詳しく叙述されている。それは政治・外交史的なものではなくて、「社会・経済史」的なものであった。

そこで彼はキリスト教会が実施し、保管していた住民の婚姻・誕生・死亡に関する諸記録など統計的記録を主たる史料として用いた。そして歴代の君主による重商主義的「植民政策」を肯定的に評価している。その際ニコライは、教会記録簿に基づいて一般的な人口発展のモデルを作り出した、ベルリンの牧師で統計学者のジュースミルヒの手法を用いたのだ。しかしニコライはそれぞれの歴史的背景との関連でこうした統計データを分析できるようにするために、たとえば人口数を戦争、疫病、凶作、物価高騰などと結びつけて、歴史事象の因果関係を説明している。

またニコライは史料を入手するにあたって、その豊富な人的ネットワークを利用することができた。その間の事情について彼は次のように説明している。
「その後の十年間に私はわが町の歴史や現状についての知識を深めるために、努力を重ねてきた。その際ヘルツベルク大臣閣下のご厚意により、王立文書館を使用する許可が得られた。さらにあらゆる身分の愛国者の方々が、ベルリンに関する様々なことどもについて、熱心に情報をお寄せくださった。かくして私は、1779年に二巻の新しい版を刊行することができたのである」

史料収集と編纂の仕事

ニコライの歴史に対する強い関心は、やがてまたベルリン地誌との関連でべつの発展をみせた。それは十七世紀の大選帝侯以後の「芸術家・職人一覧」を独立した書物として刊行させたのである。それは歴史叙述というよりは、史料の収集と編纂の仕事であったが、それらは現在なお史料的価値を有するものがすくなくない。史料収集の苦労についてニコライは次のように書いている。{それらの情報を私は、王立文書館史料、ベルリン所在の様々な教会の記録簿、市民の古い記録簿、その他の手書き及び印刷の史料を通じて集め、さらに部分的には自ら芸術作品を見に行くことによって収集したのであった」

ニコライの「ベルリンの歴史」は、可能な限り多くの史料を方法論的に正確に使用し、その基盤の上に立って、一つの時代の生活全般を広範にとらえようとした点に、特徴があった。その意味でこの作品は「十八世紀の模範的な地域史の一つに数えられるばかりでなく、ドイツの歴史叙述上の画期的な業績の一つにも数えられる」と、現代の歴史家メラーは高く評価しているのだ。そしてそうした十八世紀の地域史の傑作として、そのほかニコライの友人メーザーが書いた『オスナブリュック史』及びゲッティンゲン学派のシュピットラーによって著された『ハノーファー侯国史』を挙げている。

(2)フリードリヒ大王に関する研究

これに関連してニコライは1788年から1792年にかけて、前述した二冊の著作つまり『プロイセン国王フリードリヒ二世及びその周辺の人物に関する逸話並びにすでに公刊されている逸話の訂正』(以下『フリードリヒ大王に関する逸話』と省略)、及び『フリードリヒ大王に関するツィンマーマン氏の断編についての率直な所見』(以下『ツィンマーマン氏の断編についての所見』と省略)を公刊した。この二つの著作は互いに緊密な関連を持ったものであるが、まず『フリードリヒ大王に関する逸話』の方から、取り上げていくことにする。

A 『フリードリヒ大王に関する逸話』

本作品の成立の経緯

こらは1788年3月にまず第一分冊が刊行されてから順次発行が続けられ、1792年3月の第六分冊をもって完了している。この著作はフリードリヒ大王(1712-1786)に関する逸話をニコライ自身が収集した部分と、それ以前に出回っていた逸話を訂正した部分とからなっている。その成立の経緯については、ニコライが第一分冊の前書きに書いているところから、明らかである。

それによると1787年7月ニコライが転地療養のために滞在していたヴェーザー川流域の保養地ピュルモントで、滞在客がそろってフリードリヒ大王ゆかりのケーニヒスベルゲへ出かけた時、人々がめいめいその前年に亡くなった大王をしのんで、様々な逸話を披露したという。それ以前から大王に強い関心を抱いていたニコライは、そうした逸話の多くが間違ったものであることに気づき、それらを訂正していった。それを聞いていたニコライの長年の友人で宮廷顧問官のツィンマーマン氏は、大王についての逸話をまとめ、あわせて世に出ている間違った逸話を訂正して一冊の書物にしたらどうかと、ニコライに提案したという。その時ニコライは時間的な余裕がなかったためあきらめていた。しかしその時の提案はいつまでも彼の脳裏に焼き付き、やがて多忙な出版社の仕事の合間を盗んで、それを実行することにしたのであった。

ニコライの大王への敬愛の念

ベルリンに生まれ育ったニコライは、若い時からこの大王を敬愛して、その行為や性格に強い関心を抱いていたという。「フリードリヒ大王が統治していた時代は、わが青春の幸せな歳月であり、また熟年の黄金時代でもあった。私が精神の陶冶と世界認識に関して身に着けたいと思っていたことを、私はこの時代に、大王の率直で偏見のない思考法の影響の下で獲得したのである」。このように「前書き」の中で青春を振り返り、国王による思想の自由の保証をニコライは称揚したのであった。そして本文の中では、七年戦争(1756-63)および戦後の時代の苦しい状況の下で大王が成し遂げたことどもを、社会経済的な側面を含めて記述しているのだ。

その際彼は、そうした大王の統治の偉大な実績が世にほとんど知られていないことを嘆いている。つまり世の多くの人々は大王のことを戦争に強い、単なる軍人だと思っているというのだ。しかし注意深く観察していたニコライにとっては、大王は戦時における軍事的才能や英雄的な勇気と並んで、平和時には国家の繁栄と人々の福祉の増大に尽力を惜しまない善行の人だったのだ。さらに人間味があり、ユーモアを解する人物で、フルートを吹き、作曲もする文化人であり、さまざまな著作をものする哲人ないし思想家でもあったのだ。

逸話の出所の吟味~史料批判の厳しさ~

ところでニコライは逸話の真実性を高めるために、その出所を慎重に吟味した。つまり史料批判にも彼は厳しかったのだ。その際彼は、国王の周辺に長いこといて、国王のことをとてもよく知っていた三人の男と親しくしていたことを、明らかにしている。その三人とは、音楽家のクヴァンツ、ダルジャン侯爵そしてイツィリウス大佐であった。「前書き」の中で三人のことが。次のように書かれている。「クヴァンツは1734年に国王の面識を得て、1740年以降(戦時を除いて)毎日二~三時間国王の部屋にいた。・・・この老人から私はとても注意深く話を聞き、いろいろ質問し、それにたいして非常に詳しい回答をえていた。・・・国王の音楽にまつわる逸話をクヴァンツ及びその音楽仲間からとても詳しく聞いていたが、それらはハンブルク在住のエマヌエル・バッハを除いて、おそらく現存する誰からの話より詳しいといえるだろう。ダルジャン侯爵はその治世の初めから国王の話相手で、王の信頼の厚い人物であった。イツィリウス大佐はちょうど七年戦争の危機の時期に王の周りにいたが、戦争によってひっ迫した財政を立て直そうという時でもあり、当時進行中の諸計画に彼は参画していた。・・・この三人から私は、国王の本当の性格について多くの事例との関連の中で、光を与えてくれた実に様々なことを聞いたのである」。

この三人以外からもニコライは多くの人々にいろいろ尋ね、さらに関連した書物や手書きメモや文書に当たって、ちょっとした逸話でもそれが真実であるかどうか検証に努め、叙述に際してはその出典を明示している。彼の「真実への愛好癖」は、それ以前に世に出回っていた逸話を放置しておくことができず、それらをできる限りの範囲で取り上げ、間違った個所を指摘し訂正しているわけである。

逸話の概要

  『フリードリヒ大王に関する逸話』への挿絵(コドヴィエツキー作)

うした逸話の中身を見ていくことにしよう。ニコライが集めた逸話の数は94に及び、訂正した逸話は29に達している。彼が収集した逸話は多岐にわたっているが、あえてそれらを分類してみると、おおむね次のようになろう。
イ 七年戦争中の大王の生活を示すもの。陣営でのエピソードなど。
「ロイテンの戦いの勝利の後、国王が陥った二重の危機」、「行軍中の兵士た
ちが疲れた時に行われた国王の演説」、「ナッサウ竜騎兵隊創設に関する
国王の勅令」、「国王がライプツィヒの陣営で犬に餌をあげているときの
ダルジャン侯爵との会見」
ロ 国王の民衆に対する公正さ、やさしさを示すもの
「農場経営の失敗により追放された入植者を、国王が呼び戻した話」、「ある
貴族の夫人が、借金返済の件で国王に裁きを願い出た話」、「食器を壊した
り、客にスープをかけてしまった召使への優しい思いやり」など。
ハ 国王の統治に関するもの
「学校教育に関して自ら出した勅令」、「ハレの孤児院や教育施設の視察」
「裁判の短縮及び迅速化についての大臣との会話」、「イギリス艦隊を巡っ
ての部下との議論」など。
ニ 国王の知性・学識並びにユーモア・機知を示すもの
「教父の全作品についての国王の冗談半分の思い付き」、「国王は地上における
神の似姿であるとの考えについての、国王の愉快な思い付き」、「神聖ローマ
帝国に存在する三つの宗教に関する国王の見解」、「国王自筆の、様々な欄外
の書き込み」、「国王、無限小や微分計算について尋ねる」、「(ローマの)
トラヤーヌス帝と大王の手紙の類似性」など。
ホ 著名人との交際
「哲学と宗教についてのズルツァーとの対話」、「モーゼス・メンデルスゾー
ン、国王からポツダムへ招請される」、「ゴットシェート教授との対話」、
「イギリス公使との対話」
ヘ 国王周辺の人々について
「ダルジャン侯爵ほか数人の国王の話相手の横顔」、「ブラウンシュヴァイク
公爵未亡人にあてた国王の手紙」、「ダルジャン侯爵のフランスへの旅とそ
れに続く彼の死」、「イツィリウス大佐の人間模様」、「クヴァンツ、国王
に仕えることになる」
ト サン・スーシー宮殿を巡る話
「国王、新宮殿内に天井画を描かせる」、「庭師、庭園内の大理石彫刻の苔を
はがそうとする」、「宮殿内の小さな城壁の修理」、「サン・スーシー新宮
殿の造営について」
チ 国王の乗馬について
「国王の乗馬法、乗馬の数、馬の調教の仕方」、「自分の馬に名前をつける時
の国王の癖」、「国王、何度も馬もろともに倒れる」、「怠け者の白馬」、
「普段着の国王が乗るコサック馬」、「戦争中に国王の馬が受けた災難」など
リ 音楽をめぐる話
「国王のフルート演奏」、「国王の作曲」、「フルート演奏の際に見られる
国王とクヴァンツとの意見の相違」、「プロイセン王国の最初の二人の国王
時代の音楽状況」など
ヌ 大王の皇太子時代の逸話
「皇太子として父王の前でフルート演奏して、驚かせる」、「1730年のフ
リードリの逃亡と逮捕に関する信頼できる情報」、「フリードリヒ、キュス
トリンの官署で事務官として執務」、「「キュストリンの官署の長、皇太子
のために便宜を図り、先王により解雇される」

B  『ツィンマーマン氏の断編についての所見』

本作品成立の経緯

これは前述の『大王の逸話』を順次刊行していた途中に、ニコライの長年の友人であったスイス人の著作家リッター・フォン・ツインマーマンが世に出した『フリードリヒ大王の生涯・統治・性格に関する断編』(1790)を読んで、その書評として自ら編集した書評誌『ドイツ百科叢書』に掲載したものを、その後独立した書物の形で刊行したものである。ツインマーマンはハノーファー侯国在住のイギリス王の宮廷顧問官兼侍医をつとめていたが、フリードリヒ大王の死の直前に、その相談相手になっていた。そして前述したように、ニコライに「逸話」を書くよう勧めた人物であった。この時の彼の意図がどのようなものか定かではないが、この伝記を刊行してからは、ニコライ及びその周辺の<ベルリン啓蒙派>の人々との仲は、悪くなってしまった。

ニコライの本著作がどのようにして生まれたのか、その経緯についてニコライは次のように述べている。「フリードリヒ大王に関するリッター・フォン・ツィンマーマン氏の断編は、刊行された時ドイツ人の間にセンセーションを巻き起こしました。この著者の著名さ、手に入れた素晴らしい諸史料、彼の他の書物にも見られた膨大な量の新しい情報は、当然のことながら世の注目を浴びたのです。そしてとりわけプロイセン王国以外に住む、少なからぬ読者は、今やこの断編こそは、フリードリヒ大王の生涯に解明の光を与えるもの、と信じたのです。しかしやがてよその国よりも多くの事情を知ることができ、十分検証しることができるプロイセン王国に住む多くの読者の間から、疑問の声が発せられようになりました。さらに『ノイエ・ドイチェ・ムゼウム』(1790)やビュッシング氏の著作の中でも、たくさんの間違いや矛盾が指摘されるようになりました。またベルリンの諸官庁の方々から、自分たちの部局に関係して、その人たちが最もよく知っている事柄について、少なからぬ誤りがみられるという指摘が私の手元に届きました。そして『ドイツ百科叢書』の書評の形で、それらを報告したいとの希望が伝えられました。そこで私としては感謝の念をもって、この申し出を受け入れたのです」

これでわかるよに、本作品はここで言及されている官吏のほか影響力のある政治家など多くの人々の所見を、ニコライが編集者としてまとめたものであったのだ。しかし本文の中では、「我々は」とか「編集者は」という表現が用いられて、所見を寄せた人の名前は記載されていない。そして作品の構成や史料の吟味・補完などはニコライ自身で行っている。

本作品の内容

本著作はツィンマーマン氏の三巻に昇る作品について、「第一章 断編の概観、目的及び史料について」から始まって、「第三十二章 フリードリヒ大王の、なお十分には解明されていない側面・・・について」に至るまで、原文の章立てに即して、一つ一つ大変詳しい批評と所見を掲載している。そして第一部、第二部合わせて321頁にも及び、巻末には人名索引までついている。つまりこの作品は通常の意味での書評の枠をはるかに超えて、ニコライ自身の歴史観や歴史方法論まで織り込んだフリードリヒ大王時代のブランデンブルク・プロイセンの歴史研究となっているのだ。

ニコライはまず、「第一章 断編の概観、目的及び資料について」の個所で、ツィンマーマンの原文の四~五ページから次のように引用している。「民間伝承によるでもなく、ベルリンの酒場に取材したものでもなく、第一次史料から入手したことに基づいて、あのように偉大な対象について何か書くということは、全く他意のない試みなのである。・・・私はフリードリヒ大王の生涯からこの断編において、記憶すべき事柄を取り上げるが、それらの大部分は書物や外国の伝承に基づくものではない。それらはフリードリヒの手書きの手紙、彼の近くで彼とともに生活していた高貴な人々からのとても多くの手書きのメモ類、彼の事業への参画者からの口頭による情報、そして長年彼の話相手であった大臣に対する私の書簡による質問への回答などから成っている。これら全ての情報や事実を、私は人々がフリードリヒの驚くべき性格について、いささかなりとも誤解しないという、唯一の目的に向けて用いていく所存である」

この一次史料に基づいた叙述という姿勢そのものは素晴らしいものとして認めたニコライは、それにもかかわらずツィンマーマンの作品には、いたるところで時、名称、場所などを含めて、事実誤認や不正確な表現、一見して分かる誤りが多いと述べ、その理由ともいうべきことを次のように記している。{歴史に対して豊富な史料を見つけ出すことは、とても価値のあることだ。しかし史料を十分評価するためには、それにふさわしい知識と才能を持たねばならない。・・・史料だけでは、まだ歴史叙述者になれないのだ」。「彼自身の知識や判断力や厳密さの不足、たくましい想像力や過剰な感情移入そしておそらく彼のうぬぼれや気性の激しさなどが、素晴らしい史料を適切な形で用いることを妨げているのであろう」。

このようにツィンマーマンを批判する一方、ニコライは一般にフリードリヒ二世及びその時代について書こうとする歴史叙述者が満たさねばならない前提条件を次のように提示している。「フリードリヒ大王の生涯について書こうとする者は、まずすべてのヨーロッパ諸国の歴史と統計に関する知識を持たねばならない。とりわけその長い在位期間中に王が直接衝突した国々についての知識が重要である。・・・また商業、工業、マニュファクチャー、工場とかかわりがあると思われる事柄について、把握していなければならない」

この言葉から分かることだが、ニコライが目指した歴史叙述の在り方は、先に「ベルリンの歴史」で実行したような人口学的・統計学的な手法による社会経済史的な叙述であったのだ。

社会経済史関連でのニコライの見解披瀝

ニコライは続く第二章から第三十二章まで、ツィンマーマンの作品の誤りについて、彼の協力者の指摘を具体的に記すのと同時に、原作のテーマに即してそれらに対する自らの評価や所見を、かなり詳しく述べている。例えば第二章の父王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世に関する箇所では、軍人王ないし兵隊王などと呼ばれ、とかく評判が悪かったこの国王に対して、ニコライは大変肯定的な評価を与えている。「国家行政における秩序と著しい節倹、個々に見られた有益な勤勉の促進、とりわけマニュファクチャーの奨励は、フリードリヒ・ヴィルヘルム一世の大きな功績であった」。この後ニコライは、この国王が家屋、教会、橋梁の建設を支援し、沼沢地帯の開墾を促進し、農業と王領地経営の改善を進め、とりわけプロイセン領リトアニアに再び入植を行ったことを、この国王のさらなる業績であった、と称賛しているのだ。

このようにニコライはツィンマーマンの原作に対する所見という形から出発しながら、書評の枠組みをはるかに超えて、社会経済史上の様々な領域に関して、自らの見解を披歴しているわけである。そこには国家の経済・社会政策の重要分野がほとんど網羅されている。そうしたニコライの研究成果は、フリードリヒ二世の歴史に関する第一級の歴史家ラインハルト・コーザーが言うように、あるいは最近の研究水準との比較が示すように、事実に即していて大変価値があるものなのだ。

その際上に述べた領邦君主は、当時一般的であったと思われる宮廷生活の価値基準ではなくて、労働と達成された業績という啓蒙化された市民身分の「職業倫理」によって、その価値が判断されたのであった。ニコライのような啓蒙市民は、聖職者や貴族あるいは教会や政治権力の干渉からすでに自由を獲得していた。そしてこうした観点から、フリードリヒ大王のような啓蒙専制君主は<国家第一の僕>となったわけである。この場合専制君主ではあっても、原則として批判可能な存在となり、君主はその業績によって評価されたのであった。

いっぽうニコライは、一国における経済的・文化的進歩は、単に君主の功績に属するものでない事も、強調した。それはニコライの歴史叙述の重点が、君主と戦争の歴史から、経済・社会・精神の歴史へと移っていたことにも示されていると言えよう。こうして歴史叙述の中に、君主だけではなくて、臣下(一般民衆)も登場してきたのである。この意味でニコライはずっと以前の1774年に、『ドイツ百科叢書』に「改革者ヴォルテール」と題する書評を掲載して、民衆の登場を強調しているのが注目されるのだ。

ヴォルテールにせよニコライにせよ、これらの著作家たちは宮廷歴史家ではなくて、彼ら自身の身分(市民身分)の業績を歴史の中に探し求めて、叙述したのであった。こうした関心領域の拡大は、歴史方法論の決定的進歩と手を携えるようにして行われたのであった。

(3)テンプル騎士団などに関する研究

  A    「テンプル騎士団、薔薇十字団およびフリーメー
     ソン研究」

 本作品成立の経緯

本著作の正式な表題は『テンプル騎士団に対してなされた弾劾並びにその秘密に関する試論。フリーメーソンの成立についての付論を添えて』(1782)である。ニコライ自身その会員であったことがあり、のちに脱会したフリーメーソン協会の成立とテンプル騎士団との関連を探ろうとしたことが、本著作執筆の動機であったという。

ニコライの時代、フリーメーソンの起源としてテンプル騎士団の名前を挙げる書物もたくさんあり、そのことを口にする人も少なくなかったという。そうしたことが契機となってニコライは本書を書くことになったのであるが、その本論の部分で彼はテンプル騎士団の歴史を叙述したのではなく、十四世紀初頭に起きたその悲劇的結末にまつわる事情を研究したわけである。専門家によれば、約二百年に及んだ騎士団の歴史そのものよりも、異常な結末を迎えた同騎士団の最後に関する研究の方が盛んなのだそうであるが、ニコライもそれに倣ったものと思われる。というよりもむしろ強制的に廃絶された後の騎士団の運命や、地下で連綿と続けられてきたといわれる動きとフリーメーソンの成立との関連に、ニコライは強い関心を寄せて本書を執筆したようである。
ちなみに二十世紀イタリアの作家ウンベルト・エーコが書いた『フーコーの振り子』という作品は、私も読んだが、まさにテンプル騎士団のその後の運命にまつわるミステリー風の物語なのである。

本論に入る前にまずニコライとフリーメーソンとの関係について、簡単に触れておきたい。プロテスタント正統主義の立場に立っていたニコライは、1781年に行った南ドイツ及びオーストリア地域への大旅行の際に、カトリック教会というものに初めて肌で感じるほど生々しい形で接触した。以前からカトリックに批判的であったニコライは、この時以来その神学上のカトリック批判を強め、とりわけ戦闘的なイエズス会にその批判の矛先を向けるようになった。イエズス会は1773年にローマ教皇クレメンス四世によって廃止に追い込まれたが、ニコライの見解によれば、その廃止以後一般社会から身を隠しながらも、秘密のヴェールに包まれた部分の多かったフリーメーソン協会にひそかに潜入して、そこに広まっていた秘密儀式に携わるようになっていた、というのだ。

ニコライが所属していたのは、ベルリンにあった「三つの地球儀」というロッジであった。当時ヨーロッパ中に広まっていたフリーメーソン協会は、ロッジと呼ばれる支部によってその実態はかなり異なっていたようだ。ニコライは自分が所属していたロッジでの経験から、この教会内部では厳密な会則に従った階層的な構造が支配していたことを明らかにしている。この高度位階制といわゆる「未知の上位者」への絶対的服従といった協会内部の秘密主義は、本来あるべき啓蒙主義の公開への要請という根本原理に反するものだ、というのがニコライの立場であった。彼の眼には、位階制や絶対服従は、公平な批判、真理の探究そして健全な理性の普及などを、妨げるものに見えたのだ。そして秘密保持のヴェールの陰に隠れて闇の力が結束して、啓蒙に戦いを挑んでいるようにも見えたのだ。

ところでフリーメーソンの起源を巡っては、古来様々なことが言われているが、1717年にロンドンに「思弁的」フリーメーソン団が誕生する以前には、いわゆる「実践的」フリーメーソン団として、数多くの中世的な同業・同職組合との関係が指摘されている。その一つに「フラン・メチエ」と呼ばれる同業信心会があったが、これの発生にあずかって力があったのが「テンプル騎士団」であったという。この騎士団は十字軍の時代の1118年に聖地防衛を目的としてエルサレムに設立された。そしてその周辺に城砦を作ったり、教会を建てたり、道路や橋梁の建設に従事したりした。

その間に彼らは東方の建築術をこととする諸集団と密接な関係を結んだ。そしてやがて習得した建築術を西方のヨーロッパへともたらした。こうしてヨーロッパのいたるところでテンプル騎士団は、ギルドや同職組合に入り込み、重要な役割を果たすようになった。そして石工(メーソン)、大工、モルタル職人などはほとんど全員、テンプル騎士団の領地に居を構えるようになった。「実践的」フリーメーソンの中核に「石工(メーソン)」の組合があったことは、一般的に認められている。この点にもフリーメーソンの起源としてテンプル騎士団の名前が出てくる所以があったと言えるのではなかろうか。

テンプル騎士団の悲劇的結末

西暦1307年10月、フランス在住のテンプル騎士団全員が逮捕されるという事件が発生した。推測と強い疑惑に基づいて行われたこの逮捕に続いて、命令を出したフランス王フィリップ四世の宣言文がパリで配布され、一般公衆に逮捕命令書に盛られた告発事項を知らせている。これらの告発事項は、テンプル騎士たちの背教、猥褻な典礼,男色、偶像崇拝などの罪状を連ねたものである。この告発に基づいて、テンプル騎士たちに対する異端審問官による尋問や教皇クレメンス五世による裁判などが行われる。そしてヴィエンヌ公会議が開かれ、1312年フィリップ四世の強い要請によって、テンプル騎士団の廃止とその財産をヨハネ騎士団に移すことが決定される。その際騎士団長ジャック・ド・モレー以下数人の幹部が火刑に処せられ、それ以前の拘留中に行われた拷問によって多数の騎士が命を落としている。

以上がテンプル騎士団の悲劇的な結末の概要であるが、こうした残虐な仕打ちは、十八世紀の啓蒙主義者にとっては、中世的な非人道的な行為の典型的な例とみなされた。たとえばトマジウスやヘルダーもこの問題に取り組み、非人道的な裁判を非難して、騎士団を弁護する論調を展開している。

啓蒙主義者ニコライも、本著作において騎士たちに科せられた数々の罪状を分析し、検討しているのだが、その際ニコライが取った態度は、批判・実証的な歴史研究者としての態度だった。つまりニコライは歴史研究に当たっては、啓蒙的道徳的判断を排除し、党派性や感情移入を拒否して、歴史認識の客観性を保とうとしたのであった。そのためにここでニコライが行った分析や叙述は、イデオロギー的・道徳的評価がもたらす影響への批判にもなっているのだ。

とはいえ啓蒙主義者ニコライにとっては、人道主義の絶対的要請というものも無視することはできなかった。そうした微妙なバランスの上に立って、彼はこの問題を論じていったのであった。

騎士団弾劾に対するニコライの所見

ニコライは本著作の第一部の前半で、騎士団員に向けられた非難・告発の一つ一つを取り上げて、子細に検討し適切な所見を述べている。そこでニコライは、極めて特殊なまさに骨董品的な、深く細部に立ち入った興味と関心を示している。この研究を通じてニコライは、カトリックの教義の歴史に対する驚くべき知識を披露してもいるのだ。

付論『フリーメーソンの起源』

第二部の後半でニコライは、本作品執筆への動機づけとなったフリーメーソンの起源についての研究を、付論の形で掲載している。当時フリーメーソンの上層部によって、フリーメーソンは廃絶されたテンプル騎士団と直接関係があった、という主張がなされていた。彼らは秘密主義と神話形成の力によって、自分たちの影響力を拡大するために、一つの伝説を作り上げようとしていたわけである。こうした動きに触発されて、ニコライもその起源を研究しようという気持ちになったのである。

この論文のはじめにニコライは、その少し前に亡くなった友人のレッシングが書いたフリーメーソン談話『エルンストとファルク』を取り上げている。そこでは暗号化された形ではあるが、「新しいテンプル騎士団員」が話題となっていたからである。ニコライによれば、その中でレッシングは、テンプル騎士団の組織はその後ずっと存続してきたが、その組織から十七世紀末に建築家クリストファー・レンによってフリーメーソン協会が創設されたと主張しているという。それに対してニコライは、テンプル騎士団の後継の秘密組織が何らかの重要な意図なしに、四百年間も存続してきたとは、自分にはとうてい考えられないとしている。

そして十七世紀のロンドンで何かが発見されたとするならば、それは古い組織を模範にして新たに創設されたものと考える方が、自然であるとしている。続けてニコライは自分で集めた史料を基に、十七世紀のイギリスに焦点を合わせた自己の研究成果を明らかにしている。そして建築家レンに先立ち、古典古代の研究者アシュモールがすでに1646年にフリーメーソン協会に加入していたと記述している。この人物はイギリス国王チャールズ二世の寵臣で、薔薇十字思想を非常に礼賛していた。そうした秘儀参入者たちが自然の秘密を探求し、霊的にソロモンの館を建築することを目的とする結社を、1646年にロンドンに組織したという。

テンプル騎士団とフリーメーソンをつなぐ薔薇十字団

ここからニコライはテンプル騎士団とフリーメーソンをつなぐ存在として、この薔薇十字思想ないし薔薇十字団というものに注目し、「フリーメーソンの起源を詳しく知るには、私としては別の、これもとても有名な薔薇十字団の起源を探る必要がある」と述べている。この後ニコライは、南西ドイツ、ヴュルテンベルク出身の神学生アンドレーエを薔薇十字思想の生みの親だとして、1616年に発表された彼の小説『1459年のクリスティアン・ローゼンクロイツの化学の結婚』に触れ、そこに現れた薔薇十字思想について詳しく解説している。

当時のドイツは、カトリックとプロテスタントの両勢力が激しく対立し、三十年戦争が勃発する前夜の状況にあった。このころ起きた薔薇十字団騒動については、実にたくさんの文書や史料が遺されていたが、ニコライは「アンドレーエの書いた著作及び薔薇十字文書の多くを読んだ。そして・・・私のようにしようとする者は、アンドレーエがこの協会を道徳的・政治的意図から、一つの詩(虚構)として考えたことを理解するに違いない。しかし彼の詩(虚構)は多くの同時代人によって真実として受け止められ、各人が自分流のやり方で解釈し、その結果一部に全くばかげた事態が発生したのであった」。全く真摯な情熱をもって教会を改革しようとして薔薇十字思想の普及を考えていた若き善良な神学者アンドレーエは、自分が著した著作が思いもかけぬ熱狂と反発を引き起こしたことにおどろいた。そして自分への迫害も痛切に感じたため、自分の計画を取り下げ、薔薇十字騒動から身を引いた。しかし一度世の中に広められたその思想は消えることはなく、様々な形で後世に影響を及ぼすことになったのである。

ニコライは薔薇十字思想の中核にパラケルススの思想や錬金術的ないし占星術的思考があったことに触れた後、この思想がやがてイギリスにわたって、当時の政治や宗教とのかかわりの中で、やがてフリーメーソンへとつながっていく道程を、先のアシュモールの役割や1660年の<ロイヤル・ソサエティ>(王立協会)の創立に絡めて詳述している。
ニコライはその後の薔薇十字思想の流れを、大きく四ないし五のグループに分けているが、イギリスへの影響の点で重要な人物として、ミヒァエル・マイヤーとロバート・フラッドの二人を挙げている。マイヤーはドイツ皇帝ルドルフの侍医で錬金術師であったが、その思想はアンドレーエのものとはかなり違っていて、神秘主義の装いをより強く持っていた。もう一人フラッドはロンドンの医者であったが、その思想はパラケルススの医学とグノーシスの哲学に自らの物理学的要素を加味したものであった、とニコライは述べている。

次にニコライは近代哲学の先覚者の一人であったフランシス・ベーコンを登場させている。そして自然科学の進歩に壮大な夢を託したユートピア物語『ニュー・アトランティス』のあらすじを紹介して、自然研究の場としてのソロモンの館に関する記述が当時、一般に大きな注目を浴びたことを指摘している。次いでこのベーコンの思想が薔薇十字の思想とまじりあって、十七世紀半ばのイギリスの内乱の時代に多くの知識人に強い影響を及ぼした、としている。当時のイギリスの知識人の多くは、革命や凄惨な戦乱の渦中にあって、神秘的でほとんどグノーシス的な哲学思想を胸に抱いていたという。占星術や呪術はなお人々の心を強くとらえていた。そうした情勢の中で当時唯一の実験的な科学であった化学も、こうした色彩に彩られていたのだ。

学者の教えや実験は、錬金術師の具象的な比喩をもって初めて当時の人々の理解が得られたという。薔薇十字思想の原典といわれるアンドレーエの『化学の結婚』も、錬金術に深くかかわっている。この事からも分かるように、自然科学研究という近代への第一歩は、なお薔薇十字思想に結集していた中世的な神秘主義的彩りを媒介して、初めて記されたわけである。

フリーメーソンへの歩み

こうして前述したアシュモールは、占星術師、医師、数学者、聖職者などを集めて、霊的にソロモンの館を建築することを目的とする結社をロンドンで組織したわけである。この後ニコライはこの知識人の組織がフリーメーソンへと発展していく経緯について、次のように述べている。「ロンドンで市民権を有する者はだれでも、何かのギルドに属していなければならないことは、周知の事実である。・・・この協会の何人かの会員は石工(メーソン)のギルドに属していた。このことによって彼らはその会合の場所として、石工のギルド会館(メーソンズ・ホール)を利用する機会を得た。そしてその他の会員も石工のギルドに加入し、<フリー・アンド・アクセプティッド・メーソン>と称し、石工ギルドのシンボルを用いた。ここではフリーという英語は、誰かがある協会またはギルドの会員としての権利を有している、という意味なのである。・・・アクセプティッドという言葉は、この特別の協会が石工ギルドによって受け入れられたことを意味しているのだ。このようにして後に有名になったフリーメーソンという言葉は、元来偶然生まれたものなのだ」

このようにしてフリーメーソンの、いわば原型が誕生したわけであるが、初期のうちはあくまでも石工職人ないし自然研究者の、とらわれのない会合の場であったことを、ニコライは強調している。しかし同時にこの団体に集まった人々は、政治的には、反議会の王党派であったため、クロムエルを中心とした清教徒・議会派と、チャールズ一世を中心とした王党派の間の政治的争乱に彼らも巻き込まれた経緯が、その後かなり詳しく叙述されている。しかし様々な紆余曲折を経て、1660年に王政復古がなり、チャールズ二世が即位するの及んで、この王党派の組織であるフリーメーソンから、自然研究を目的としたアカデミー(ロイヤル・ソサエティ)(王立協会)が生まれることになったわけである。

そしてこのころになると、自然研究をひそかに行う傾向が強かった初期の会員の多くは死亡し、新しい世代の会員の考えは以前とは著しく違うものになっていったという。その表れとして、ひそかな研究という事を好まなかった建築家のクリストファー・レンが、1663年にフリーメーソン協会の上級監督者、1666年に本部長代行そして1685年には本部長の地位についていることがあげられる。つまりニコライはここで、従来の秘密のヴェールを脱いで、より開かれた組織へと変質したことを強調しているのだ。そして1723年にフリーメーソン憲章が、有名な物理学者で本部長代行であったデザギュリエによって書かれ、さらに1725年にパリにフランス最初の支部が設立されたことを記している。そしてこれ以後この協会は大々的に発展し、それに伴い著しい変貌をとげていった、との記述でニコライのフリーメーソン成立史は終わっている。

第二部の概要 

続いてニコライはその翌年の1783年に、その第二部を刊行している。これは三章からなっているが、まず第一章「テンプル騎士団の秘密に関するアントン氏の研究について」は、ヴィーラント編集の雑誌『ドイツ・メルクール』に掲載されたニコライ作品への批判的論文に対する再批判である。第二章「テンプル騎士団への弾劾及びその秘密に関しての匿名氏の反論について」は、同じ雑誌に掲載された別の論文へのニコライの対応である。そして第三章「フリーメーソン協会の成立に関する匿名氏の反論について」は、同じ匿名の人物に対するこのテーマに関する再批判である。ここではこれらの著作の内容に立ち入ることは避けるが、ニコライに限らず啓蒙期の知識人の間では、こうした論争が絶えず行われていた、という事だけをここでは述べておくことにしよう。

ニコライがこれらの著作を発表したとき、彼はまだフリーメーソン協会の会員であった。それだけに彼に対する圧力は、陰に陽にいろいろあったようであるが、それだけに一層歴史研究に当たっての客観性への彼の努力は、称賛さるべきであろう。ニコライの試みはフリーメーソン史の「脱神話化」にひとしく、その意味で「啓蒙的目標」を追求したものであったと言えよう。

   B   『 薔薇十字団及びフリーメーソンの起源と歴史に関
   する所見』

本作品成立の経緯

『薔薇十字団及びフリーメーソンの起源と歴史に関する所見』

これは先の著作が刊行されてから実に23年後になって発表されたものであるが、ニコライはこの作品の成立事情について、その序文の中で詳しく述べている。まず本書の正式な表題は『薔薇十字団及びフリーメーソンの起源と歴史に関するいくつかの所見。このテーマに関する宮廷顧問官ブーレ氏の、いわゆる歴史的・批判的研究に触発されて』(1806年)である。この副題の中に本書執筆の動機が示されているわけである。

ただ執筆に至るまでにニコライは、多少の紆余曲折を経験している。そうした事情について序文の中で記している。それによるとブーレ氏の著作が1804年の秋に刊行されたとき、ニコライはすでにこのテーマについては知り尽くしているので、わざわざ読むことはしなかったという。そして少し後になってこれへの書評が出た時はさすがに目を通した。そしてブーレ氏が自分の本をいろいろ利用しておきながら、あたかもそれを本人の自説であるかのように述べ、あまつさえ自分に対して論争を挑んでいることを知った。それでもブーレ氏の本を精読するのは時間の無駄であるので、あえてしなかったという。その理由としてニコライは、次のような譬えを用いている。「文学の世界には、乳を飲ませてくれた乳母のことを、後になって殴りつけるようなぶしつけな子供がいるものだ!」

しかしその後、『ドイツ百科叢書』の協力者の一人から、このまま放置しておくとブーレ氏が行っているニコライ非難を認めてしまうことになるので、まずいのではないかと言われ、ニコライもようやく重い腰を上げたという事である。こうしてニコライは1805年の10月末になってブーレ氏の著作を読み、自分に向けられた非難・攻撃が思っていた以上だったのに驚いて、本作品を書いたという訳である。この作品は本文180頁とかなりな分量のうえ、さらに88か所に詳細な註が、67頁にわたってついている。一度取り組んだ仕事は中途半端に済ませないニコライの粘液質の性格が、そこにはよく表れているといえよう。

執筆の動機とブーレ氏への反論

ニコライはブーレ氏の著作への批判ないし所見を述べる前に、まずその本文の50ページほどを費やして、どのような動機から自分がこのテーマに取り組むようになり、その後長年にわたって、いかに深くこの問題を研究してきたかということについて詳述している。その冒頭で彼は、1781年の南ドイツ旅行の際にミュンヒエンのアカデミーの会員に推薦されたことのお礼として、それまでの研究をまとめて『テンプル騎士団に対してなされた弾劾に関する試論』を提出したことを記している。またその付論として添えられた『フリーメーソン成立史』が生まれたのも、アクチュアルな動機によることが明らかにされている。つまり自分が所属していたフリーメーソン協会の中に、とりわけ1775年ごろから「未知の上位者への盲目的服従」や「秘密教団」的色彩が強化されるようになったことに、危機感を抱いてその源をたどることを決意して書いたというわけである。その後ニコライの筆はこれらの著作の具体的な内容に触れながら、当時彼の周辺で目に付いた「黄金薔薇十字団」のことにも及んでいる。

そしていよいよニコライはブーレ氏の著作に対して、具体的に反論を加えていく。そこでは、このテーマについては自分は第一人者であるという自信に満ち溢れ、微に入り細を穿ったやり方で、個々の問題に深く立ち入っている。それはまさに圧巻といえるものであるが、ここではそれに触れることはできない。ただそこで展開されているブーレ氏の作品に対する批判の重点は、「自ら称している歴史的・批判的研究」に向けられていて、それがいかにその名に値しないかを、これでもか、これでもかといった調子で検証しているのだ。
長年歴史研究に携わったニコライであったが、円熟の境に達した晩年に書かれた本作品の中には、彼の歴史方法論が十二分に記されていることは、注目に値しよう。

(4) 文化史上及び言語史上の著作

『古代及び近代における鬘(かつら)の使用について』

『古代及び近代における鬘(かつら)の使用について』の見開き

ニコライは言語の歴史にも興味を持っていて、様々な機会に散発的にその成果を発表しているが、まとまった著作にはなっていないので、ここでは彼の文化史上の主著ともいうべき『古代及び近代における鬘(かつら)の使用について。一つの歴史研究』(1801)を取り上げることにする。

この作品はもっぱらニコライ自身の資料研究から生まれたものである。その扱う時代は、ギリシア・ローマの古典古代時代から、ヨーロッパの中世・近世を経て、彼が生きていた十八世紀末までとなっている。史料としては、ギリシア・ローマの学者・作家の著作、キリスト教の教父たちが遺した言葉や説教、教会会議の決議、中世の記録史料、領邦君主の勅令や税に関する指令などの文字資料のほかに,硬貨やメダル、記念碑に描かれた図像などが用いられている。

そしてこれらの図像は本書の中に掲載されていて、本文への読者の理解を助けている。この作品は、歴史事実に対するニコライの「骨董的」ともいうべき、細部に対する強い興味と関心によって彩られている。そのためか、本文126頁,註224頁項目53頁、図像66点・17頁という構成になっている。

ギリシア・ローマ時代

まず前半のギリシア・ローマ時代については、我々にもおなじみの学者や作家、皇帝、英雄などが、いろいろ登場している。アリストテレス、クセノフォン、アリストファネス、トゥキディデス、オヴィディウス、ヴィルギリウス、ホラティウス、アプレイウス、キケロ、イシドールなどである。これら古代の作家や学者の著作から、頭髪や鬘に関連した叙述がギリシア語とラテン語のままで引用され、さらにラテン語の聖書の記述も援用しながら、それらに自らのコメントを記し、叙述を進めている。またカエサル、ネロ、カリグラといった皇帝たちが描かれた硬貨の図像も用いられている。そうしたコメントや叙述の中から興味深いものをいくつか拾い上げて、ご紹介することにしよう。

まずローマの詩人マリニウスの占星術風の詩の一部が引用され、「プレアデス星団(すばる)の下に生まれた人は、鬘をかぶるよう定められていた」と歌われているが、この習慣はギリシアから来たものではないかとニコライは疑問を呈している。また同時代のドイツ人ヴィンケルマンが「エジプトのイシス神の頭部を描いた図像から、これこそ史上初の鬘についての図版である」と書いているのを引用して、自分もそれを信じるとしてその図像を掲載している。さらにローマ人の場合、鬘は禿頭を隠すためだけではなく、皇帝ネロやカリグラなど有名人が顔を悟られないために使用していたとも書いている。そしてローマの仇敵カルタゴにも鬘は知られていて、歴史家ポリュビオスによれば、ハンニバルは鬘をたくさん持っていて、やはり変装用に用いていたとしている。

いっぽうローマ人の女性は髪型にも大変気を使っていて、たいていの女性が正真正銘の鬘をかぶっていたという。その際彼女らはゲルマン女性の金髪をたいへん好んでいて、それらを取り寄せていたという。そして「公娼はブロンドの鬘、堅気の娘や中年女性は褐色や黒色の鬘をかぶっていたとの説をしばしば見受けるが、そうしたことを立証する史料は見当たらない」としてニコライはその説を退けている。

語源的考察と中世

次いでニコライは十八世紀当時「鬘」を意味していた”Perrucke” という言葉がいつごろから使われていたかという語源的考察に入り、「この言葉が十六世紀以前に使用されていたと考えることは難しい」としている。言葉の歴史にも強い興味を抱いていたニコライは、この語源的考察に16ページも費やしている。

この後ニコライの筆は中世に入る。そこではビザンティンの僧侶ゾナラスの言葉を引用して、「この時代オリエントのキリスト教徒は好んで鬘をかぶるために、髪の毛の多くを刈り取った。とりわけそれは男性に多く見られた。ある者は自分の黒髪 を金色ないし金褐色に染めた。そしてそれを真夏には漂白するために、太陽にさらした」と書いている。いっぽう十三世紀のスコラ哲学者アレキサンダー・フォン・ハレスは、鬘の使用に強く反対しているが、当時フランスやその他の国々で、たぶん鬘が使用されていたのであろうと書かれている。

近 世

やがてニコライの筆は近世に進み、十六世紀にはオランダ、フランス、ドイツなどでは男性が鬘をかぶることはたぶんなかったようだ、と書いている。そしてこの時代の男性は一般に髪を短くしていたが、エラスムス、カルヴァン、ツヴィングリをはじめとする学者方は、縁なし帽子をかぶっていたとして、それらの図版を掲載している。それに対して十六世紀から十八世紀にかけて、ヨーロッパの女性の間では、鬘が用いられていたとしている。そして十六世末にイギリスのエリザベス女王は、65歳の時金髪の鬘をかぶっていたと述べられている。

その後ニコライは、男性の間で鬘の使用が流行するようになったのには、何か特別なきっかけがあったに違いないと考察し、それは十六世紀の最後の四分の一の時期に起こったと書いている。それはフランス国王アンリ三世が、性病にかかって髪の毛の多くを失ったため、それを隠すために鬘をかぶったことが、きっかけであったと述べている。それからニコライはイギリス、スペイン、イタリア、フランス、オランダ、北ドイツにおける事情を考察した後、十七世紀後半のルイ十四世の時代に、鬘の栄光の時代が訪れ、国王自らがかぶり、それを宮廷人が真似をし、かくして鬘をかぶる習慣は、ヨーロッパ中に広がっていったとしている。

十七・十八世紀のドイツ

最後の部分でニコライは、自分の国ドイツにおける鬘事情について詳述している。この時期の鬘の使用は、十七世紀の最後の三分の一の時期に、フランスから南ドイツやイギリスに普及し、さらにイギリスから特別な関係にあった北ドイツのハノーファーやブラウンシュヴァイク地方に移っていったという。ベリリンにおいては、1675年以降、政治家、法学者、医者などがとても大きな鬘をかぶっている図版が存在するが、十七世紀にはまだほとんどすべての牧師や学校教師は鬘を使用していない。ところが十八世紀の最初の四半世紀には、ドイツの全プロテスタント地域(主として北部及び東部)において、すべての聖職者、学校教師が鬘をかぶるようになっていた。

この傾向は当然のことながら、地位や身分が高まるほど、早い時期に見られる。すでに1656年に、プロイセン大選帝侯の鬘姿が硬貨に刻まれているが、彼はたぶんその妃ルイーゼ・アンリエッテの影響を受けて、この流行を取り入れたのであろう、とニコライは述べている。そしてその息子たちカール・エーミール、フリードリヒ(のちのプロイセン王国初代国王フリードリヒ一世)、ハインリヒなどは、二歳から十歳の間に鬘をかぶせられていたのだ。幼少のころから鬘をかぶっていたフリードリヒ一世は、成人後の肖像画でも立派な鬘姿で描かれている。またプロイセンの宮廷にしばしば出入りしていた有名なが学者ライプニッツも、大きくて立派な鬘をかぶっていたわけである。

こうした伝統を破ったのが、軍人王と呼ばれていたプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム一世であった。彼は1713年の国王就任の日に、鬘をかぶっていた88人の侍従及びその他大勢の宮仕えの人々を解任し、自らもその数か月後に鬘を脱ぎ捨てた。そして質素な軍服に身を包み、髪は束ねて後ろで黒紐で結んだ。この弁髪は当時、国王としては全く異常な姿であったため、ヨーロッパ中で注目を浴びたという。この国王はさらに1717年にには、従来からあった鬘税を廃止した。これに関連してニコライは、「大きな鬘と一緒にフリードリヒ・ヴィルヘルム一世は、その他すべての奢侈と儀式も捨て去った。それらは莫大な時間と金を費やすものであったから、国土改革以上に重視されたものであろう」とのコメントをつけている。とはいえ彼の統治下にあっても、あらゆる身分の男性はなお、鬘をつけたままであった。

そしてその後のフリードリヒ二世の統治前半には、プロイセン国の男性は若者に至るまで鬘をかぶるのが普通であったという。1740年にはハレ大学では、教授といわず学生といわず、鬘をつけていない者を探すのは大変であったのだ。またプロイセンの軍人の間では、七年戦争(1756-63)のころまでは先代国王によって導入された小さな弁髪鬘がん見られたが、大臣や政府高官は大きく立派な鬘をつけていた。ニコライの知人のフルート奏者クヴァンツは、1720年には立派な鬘をつけていたが、1760年にはプロイセン国王の首席音楽奏者として、当時フランスから伝わってきた、後ろに垂らした髪を袋になったリボンで包む「袋鬘」をかぶっていたという。その後ニコライの筆は、フランス革命時に見られた髪型の流行の変化に触れ、それをもって「鬘の歴史」の結びとしている。

3   ニコライの歴史方法論

前述したように、歴史研究者としてのニコライの側面に注目して、最も詳しい研究を遺したのが現代ドイツの歴史学者ホルスト・メラーであった。その中でもメラーが特に力を入れて取り組んだのが、ニコライの歴史方法論であった。メラーはニコライの歴史関連著作について具体的に触れた後、彼の歴史方法論について、実に整然と体系立てて分析・説明している。そこでここでは、メラーの分析を要約した形で、紹介していくことにする。

1) 史料批判と解釈

メラーはまず、「史料」の価値及びその評価方法に関するニコライの見解をただしている。それによると、すべての歴史著作の中でニコライは、集中的に資料研究を行ったという。そしてその一例として次のような具体例が挙げられている。「テンプル騎士団及びフリーメーソンに関する彼の研究を、事実に即さず、十分な史料的知識なしに攻撃したヘルダーに対して、ニコライは次のように反論した。<・・・根拠なき啓蒙、記録史料なしの研究的啓蒙は、啓蒙などではない>と」。

またテンプル騎士団の歴史研究に関してニコライに先行していた著作家たちのやり方を、彼は次のように批判したという。「ニコライは次にあげる言葉の中で、彼独自の原則をまとめている。<もし真実の歴史を述べようとするならば、歴史的証拠を出せないものについては、確実なこと以外には、主張してはならない。推測や仮説は歴史的証拠ではない。それらは史料不足の場合には、歴史の暗闇の中に何らかの痕跡を見出す手がかりになるかもしれないが、それは他の確実な情報と一致する限りにおいて、有効なのだ>」。

次いでメラーはこれに関連して次のように述べている。「要するにこの文章はニコライの歴史叙述の本質を表明しているものである。歴史著作の基礎としての同時代史料、特殊なコンテキストにおけるそれらの解釈、史料によって証明できるものと単なる憶測や仮説との違い、そして年代研究と因果関係の分離。これらもろもろの問題点は、たしかに同時代史料に権威を与えるものではあるが、それでもって学問的歴史叙述の諸問題が解決された、と彼が考えていたわけではない。むしろ彼は現代歴史学のさらなる構成要素である次の点も認識していたのである。つまりまず第一に徹底した<史料批判>、そして第二に<史料解釈>の問題を論じたのである」

この関連でメラーはさらに続けている。「ニコライがその<フリードリヒ二世の逸話>及び<ツィンマーマン氏に関する所見>の中で、出来事に直接関与した同時代人に部分的に依拠せざるを得なかった。そしていくつかの逸話の真実性について、直ちにその出所を調べた時、証人の供述の持つ問題性を認識した。それらは一般に後から勝手に付け加えられたり、あるいは削られたりして、結局は雪だるま式に膨らむか、霞のように消え去るかして、確かなものは何も残らないのだ。<ツィンマーマンに関する所見>の中で、彼は例えば文体調査を援用したり、性格上の特徴を考えたりして、ある歴史上の人物の特定の供述が、ツィンマーマンが主張したように、本当に本人の口から出たものかどうか、調べようと試みた。そしてツィンマーマンは史料評価に当たって、<慎重に、歴史批判の立場から作品に取り組まねばならなかったし、少なくともいわゆる信頼性に対する彼の理由付けを明瞭に表明するか、もしくは信頼できるものではない、と表明すべきであったのだ>と非難した。史料批判に対する同様の発言は、ニコライの歴史著作のいたるところに見られる」

(2) 仮説の構築

次いでメラーは史料が不足した状況での仮設構築の問題を扱っている。「ニコライがその独自の研究において、とりわけフリーメーソンとテンプル騎士団の歴史に関する研究において、しばしば指摘しているように、史料を巡る状況はしばしば、調査すべき問題に対して間違いなく一次史料から説明できるとは限らないので、歴史家は類推を含めた仮説の構築を必要とするのだ。ここでは史料評価に対するのと同様に、その仮説は立証された事実や確実な史料と矛盾してはならない、という原則が当てはまる。史料研究と仮設構築を結び付けるニコライのやり方は、次の引用の中に表明されている。

<人は様々な原則の蓋然性と非蓋然性について、既知の事柄との慎重なる比較によって、判断することができる。とはいえ全く記録史料がなく、純粋に仮設だけから成り立っている歴史というものは、まずないと言いていい。(しかし)記録史料のみによって構築された歴史というものも、ごくわずかか、あるいはまったくないとも言える。・・・もし昔のことや新しいことについて、二、三の信頼すべき語り手の供述が食い違っていたとするならば、その時は最も蓋然性の高いものを選ぶか、もしくは様々な情報を総合しようとすべきではないのか? それはただ仮説を検証することを通じてのみ可能なのだ。仮説の価値は疑う余地がない。しかもまさにそこでこそ、本当の史料批判が適用されねばならないのだ。

(3) 説明と理解

さらにメラーはニコライの歴史叙述の根本に触れて、次のように書いている。
「ニコライにとっては常に、物事が如何にして生起したか、それはどのようなものであったか、歴史的人物の行動はどのような動機でなされたか、そしてその動機はどのように説明されうるか、という事が問題なのであった。これはまさにのちのランケの歴史研究に対する批判実証的な基本的態度と共通するものだといえよう。メラーはさらに論を進めている。
「これらの問題 に関しては、彼は実用的手法の信奉者であったが、これこそは啓蒙的歴史叙述の不可欠の要素だったのであり、またこれはポリュビオス(古代ギリシアの歴史家)が創り出していたものでもあった。・・・その目的は、歴史上の出来事の原因とその内的連関を発見することであった。そしてさらに実用的歴史叙述は、後世の人々に教訓を与えることを課題としていた。歴史にこうした目的を与えることについては、ニコライのほかにも、何人かの名前を挙げるとすれば、カント、メーザー、ガッテラー、ヨハネス・ミュラーなども、このことを公言していたのである」。

次いでメラーは、ニコライが歴史上の出来事の因果関係の分析だけでは満足せずに、歴史上の人物が抱いていた意図というものにも注目したことに触れている。それはその人物の行動を説明すると同時に、歴史的対象を時間的へだたりと、未知のものの個別的相違に基づいて「理解」するためだという。その意味でニコライは、ツィンマーマンに対して、まさにフリードリヒ大王の視点に立たねばならない、としたのだ。その関連でメラーは次のように続けている。

「・・・テーマを経済史的・人口史的問題ならびに宗教史的・文化史的問題に拡大することによって、原因と結果のシェーマでは部分的にしかとらえることができなかった歴史的生活や個別的状況の複合体が生まれたのである。・・・過去のなかには数多くの歴史的主体と名の知れない原因が存在し、数多くの歴史的問題とあまりにも多くの未知の存在があった。原因と結果のカテゴリーの助けによる単なる因果論では、個々の原因を十分説得力を持って説明することはできないのだ。・・・なぜならその超時間的・論理的性格は、歴史の特殊性を適切に表現するのに向いていないからだ。

・・・ニコライは、彼の著作の数多くの個所で、時代的制約に縛られた自己の基準を、過去の時代に適用することを批判した。例えばフランス人のミラボーはその著書『プロイセン王朝』の中で、フリードリヒ大王の経済政策を、その重商主義的原理によらないで、自己の重農主義的前提に立って判断したため、誤解したのだと、ニコライは非難している」。

この後メラーは次のような言葉で、この項目を結んでいる。「疑いなくニコライは、歴史の独自性や・・・歴史はそれ自体の価値を持つという考えを理解していた人物であった。そしてそのことによって、彼は新しい認識に道を開いたのであった。<それが次第次第に現在に至るまでどのように変化してきたのか、そしてまた各時代の習俗やその段階的発展あるいは急激な変化など>を把握しようとした彼の努力は、歴史的思考の二つの決定的な前提ー歴史事象の特殊性と全体性ーを把握すべくニコライを運命づけたのであった」。

(4) 客観性の原理

メラーは、この客観性の原理をニコライが歴史叙述の義務的目標とみなしていたとして、次のように述べている。「研究対象に対する時間的な距離がニコライの歴史的思考において、質的な距離になった。この認識からニコライの歴史研究の最後の中核的思考は刺激を受けたのだが、それはつまり客観性の原理なのである。・・・ニコライは歴史叙述者に対して、次のように要求した。<歴史叙述者は、抑制された想像力と並んで勤勉さ、真実への愛好そして公平さを持たねばならない。こうしたことこそが、その者にとって、正しい情報を探し出し、慎重に点検し、その後で出来事を、いかにそれが本当にこれらの情報によって規定されているのか、厳密に叙述し、その際それに何か付け加えたり、差し引いたりしないことに役立つのだ>

この文章によってニコライはすでに、ランケが後に歴史叙述の役割として規定したこと、つまり<それは元来どうであったか>という事を叙述するという立場に近づいていたのだ」。ニコライがこのことを強調したのは、当時啓蒙主義陣営の内部でも外部でも、言論活動や学問研究の場において、客観的というよりも党派的な実例がことかかない、といった状況にあったからである。

そのためこの時代の歴史研究の内部で、そもそもこうした要求を掲げたこと自体が重要なのである、と述べてメラーはこの点を高く評価している。しかし同時にニコライが客観性の基準を問題にしなかったことを、彼の哲学的思考の限界が示されたものとして、次のように批判しているのだ。「いかなる経験的認識も認識対象の外にある前提によって規定されているという事、そしてまた<真理への愛>や<公平さ>への要求だけでは<客観的>認識を保証するには不十分であることを、ニコライは考えなかった。・・・カントの認識批判を跡付けることは、ニコライには不可能であった。彼は生涯カントと論争を続けたが、熟考の不十分な経験主義の信奉者であり続けた」

このように哲学的思考がニコライの弱点であった事を指摘したメラーであったが、それが歴史研究者としての資格の欠如を意味するものでない事は、メラーも十分認めている。そこには歴史家と哲学者の立場の相違という、根本的な問題が横たわっているのだ。同じ歴史家であるメラーはこの点を十分理解していて、最後にこの項目を次のように結んでいる。「客観性基準についての立ち入った議論には欠けていたものの、ニコライがそもそもこの要求を掲げたこと、中でも彼がその客観性をその研究と原理的言及の中で、実際的作業のためのに明らかにし、未来志向的基準を含んだ方法論の構築とむすびつけたことこそは、歴史叙述の学問性にとって大きな収穫であったのだ」。

ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その8 ニコライとベルリン啓蒙主義

1 ニコライにとっての啓蒙主義~人間中心主義~

ベルリン啓蒙主義の中心人物ニコライ

ここではベルリン啓蒙主義運動の中心人物としてのニコライの思想の特徴とその具体的な啓蒙活動について見ていくことにする。
周知のように、啓蒙主義は十七世紀から十八世紀にかけてイギリス及びフランスを中心として展開され、その他のヨーロッパ諸国へも及んでいった壮大な思想運動であった。スイスの啓蒙主義研究者ウルリヒ・イム・ホーフはその特徴を、次のように簡潔に記している。「啓蒙は、理論を実践へと移し、批判を改良・改革する行動へと移すのだ。教育においても、家政においても、思想的な興隆においても、そしてまた政治においてもである。啓蒙は絶対主義を解明的なものにし、北アメリカとフランスに、大きな共和国を生み出した。啓蒙は、バロック、宗教上の正統主義、反宗教改革に対する反動である」

この啓蒙主義は十七世紀末にドイツへももたらされたが、当時のドイツはまだ単独の国民国家になっていず、その長い歴史と伝統の中で、さまざまな特徴を持った領邦国家と都市に分かれていた。こうした事情からドイツの場合、啓蒙主義と一口に言っても、その様相は地域によって、著しく異なっていた。
ちなみにエンゲルハルト・ヴァイグルはその『啓蒙の都市周遊』の中で、ドイツの啓蒙主義をいくつかの都市の分けて、その多彩な実態を紹介している。同氏によれば、「啓蒙主義の様子は国によって変化するばかりではなく、特にドイツ語圏に関しては、感動的なまでに見ることができるが、都市によって種々さまざまである」と述べている。そして同書では、ライプツィッヒ、ハレ、ハンブルク、チューリヒ、ケーニヒスベルク、ベルリン、ゲッティンゲンそしてウィーンといった具合に分けて、ドイツの啓蒙主義の多様な姿が叙述されているのだ。

そこではベルリンの啓蒙主義は、その第六章で、「ベルリン、分割された首都」として紹介されている。そしてその冒頭には次のように書かれている。「ベルリンにおける啓蒙の中心人物は出版業者のフリードリヒ・ニコライで、彼の雑誌がベルリンをドイツ啓蒙主義の中心にしたのである。ボイエの日記は、この啓蒙主義者グループの密度の濃い交際ぶりを反映している。・・・すでにこの時期において、このグループとユダヤ人との緊密な関係がはっきりとわかる。つまり楕円形の環の二つの中心をなすのは、<ユダヤ人>のメンデルスゾーンと<ドイツ人>のニコライであり、・・・」

啓蒙運動の推進者

ヴァイグルは前述の著作が扱う時代として、「十七世紀末のライプツィッヒから始まり、一七八十年代のヨーゼフ二世の治下で、短期ではあったが啓蒙が隆盛を極めたウィーンで終わる」としている。ニコライが著作家として活躍した期間はかなり長く、一七五十年代半ばから一八一O年ごろにまで及んでいる。しかしその活動の頂点は一七八O年代にあった、と言って差支えなかろう。
ニコライの著作家ないし思想家としての業績について本格的な大著を著した歴史家のホルスト・メラーは、これに関連して次のように記している。

「このころは全ヨーロッパ的観点に立てば、啓蒙が終末期を迎え、それに続く時代が迫っていた時期であった。したがって啓蒙の最も独自性の強い時期ではなかったのである。別の言葉で言えば、一七八O年の啓蒙主義者は、他のアクチュアルな潮流から強い影響を受けていない場合、あるいはカントのように啓蒙自体を克服した場合を除けば、啓蒙という精神的潮流の遺産相続人だったのだ。それだけに啓蒙思想の所産が守られ、同時代人によって理解ないし評価されることが大切だったのである」

たしかにニコライ自身は独自の啓蒙思想を考え出したわけではなかった。その啓蒙哲学は、十七世紀末から十八世紀前半に活躍したK・ヴォルフなどの啓蒙哲学者の書いたものを折衷したものであった。しかし若き日に文芸評論家として出発したニコライは、それ以前に支配的だったゴットシェートの啓蒙的文学理論の解体に貢献しているのだ。また中年以降幾多の著作を発表し続けた「歴史解釈」の分野では、啓蒙の諸原理を単に受け継いだにとどまらず、はるかにそれを越えたのであった。
とはいえ啓蒙家としてのニコライの本質は、できる限り広範囲の人々に啓蒙主義を普及させ、具体的に社会変革を促すことにあったというよう。

十八世紀の最後の三分の一の期間に、ドイツでは、その精神的潮流の大転換が行われた。それまでのかなりゆっくりした精神の歩みは、このころになって急にそのテンポを速めだしたのである。ニコライ自身の精神的形成はすでに一七五O年代に行われ、一七七O年代には啓蒙主義者としてその名はドイツ中に知れわたっていた。しかも啓蒙思想はこの時代になってもなお国民のごく一部にしか浸透しておらず、政治や経済あるいは社会の情勢は、旧態依然たるものだったのだ。そのためニコライにとっては、新しい精神の潮流を追い求めるよりも、従来からの啓蒙主義をできる限り広く深く浸透させ、具体的に社会に影響を及ぼして改革を推進することの方が重要だったのだ。

たしかにニコライの時代には啓蒙「思想」に対して疑問を呈する潮流も強まっていたが、その一方で啓蒙「運動」の方は、具体的な成果もあげていたのだ。この点について歴史家のユルゲン・コッカは次のように記している。「その運動は時として革命的だったが、たいていの場合は改革を志向しており、頂点に達したのは十八世紀後半のことであって、様々な生活領域に深い影響を残した。すなわち農奴制の廃止や端緒的なユダヤ人解放、アメリカ合衆国やフランスにおける人権宣言や最初の憲法、フンボルトの大学、そこで間もなく力強く開花した諸科学。ライン川以東でも封建制を徐々に終結させ、絶対主義を抑制し、市民社会に道を開いた様々な法改革は、いずれも啓蒙の所産であった」

人間中心主義

これによって分かることは、啓蒙運動がもたらしたものは、一口で言えば近代市民社会だという事である。ヨーロッパ中世はキリスト教が支配していた社会であったが、そうした宗教支配は近世に入ってもなお根強く残り、それを打倒すべしという啓蒙思想が生まれたのはようやく十七世紀のことであった。啓蒙主義以前には、真実の基準はもっぱらキリスト教の神学ないし形而上学によって決められていた。啓蒙主義者は真実の認識権限をそれらから取り上げて、その基盤を人間に置き換えたのであった。ニコライの場合もこれが当てはまるが、メラーによれば、ニコライは啓蒙という概念を「状態」ではなくて、「過程」として理解していたという。そして「啓蒙は一般に、宗教的、精神的、政治的、社会的な潮流であり、…その最も具体的な敵は、一貫して教会権力と教会の後見人である。啓蒙の仲介人は、支配的で伝統的な偏見から自らを解放し、生の全基準を、真実、思慮分別、自然らしさという三つの点に照らし合わせて、点検するものである」

啓蒙論争

1783年、創刊間もない『ベルリン月報』において展開された有名な啓蒙論争においても、人間中心主義が議論の中核を占めた。この雑誌はベルリン啓蒙主義の、いわば機関誌的存在へと発展していくが、この時の論争のきっかけを作ったのは、教会上級役員会会員ツェルナーであった。彼は同誌において、次のような呼びかけを行った。「啓蒙とは何か? これは真実とは何かという問いかけと同じくらい重要なものだが、この質問に対しては、本当は啓蒙活動を始める前に答えておかねばならないことであった。しかるにこの問いかけに対しては、どこにも私は答えを見出していないのだ」

この問いかけに対しては、イマヌエル・カントとユダヤ人の哲学者モーゼス・メンデルスゾーンの二人が、同じ雑誌にそれぞれ回答を寄せている。まずカントは、これまでしばしば引用されてきた有名な言葉でもって、応えている。「啓蒙とは人間が自ら招いた自己の未成年状態から脱却することである」。この冒頭の定義に続いてカントは、人間に対して自ら悟性つまり思考力を用いよという課題を与えている。しかしこうした思考力を公共の場で使用できるのはさしあたり学識者に限られる、と彼は考えていたのだ。とはいえカントは、十八世紀末のドイツの一般的状況を、啓蒙に向かって進行中と見ていたようだ。

この点は彼の次の文章にも現れている。「もし今、我々は啓蒙された時代に生きているのか、と問われたら、その答えは、そうではないが、確かに啓蒙されつつある時代に生きているのだ、ということになる。…また一般的な啓蒙、つまり人間自身に責任のある未成年状態からの脱出の妨げになるものが次第に少なくなってゆくこと、これについてははっきりした印があるのだから、この点では今の時代は啓蒙の時代なのである・・・」
いっぽうメンデルスゾーンの方は、「啓蒙とは何かという問いについて」という論文の中で、「常に人間が下す決定こそが、我々すべての努力の基準であり、また目標である、と私は考えている」と記している。そして彼にとって啓蒙は、教育の一要素であったのだ。

人権と社会改革

この時代のあらゆる問題は、それが人権に関するものであれ、社会的、経済的、宗教的、政治的な問題であれ、すべて啓蒙に対して人間的な問題設定をもって、答えられている。そして教会とりわけカトリック教会との論争を通じて、次第に彼岸(あの世)は此岸(この世)に優先権を与えるようになってきたのである。啓蒙主義の人間学は、明白に人間中心的なものである。これはもちろんニコライだけに当てはまるものではなく、およそ啓蒙主義者にとって人間こそはすべての事物の基準だったのである。そこからすべての人間的事物への関心が生じたわけである。

ニコライは出版業者という職業柄、一年のうち四分一に当たる期間を旅で過ごしていたが、その旅行の間、興味を引く様々な人々やいろいろな事物を観察することを、何よりも楽しみにしていたという。またニコライは当時秘密結社の傾向を強めていた「フリーメーソン」に加入したことに関連して、それが「人間の研究」に役立ったことを挙げている。

さらに人間に対する強い関心から、人権の問題が出てくる。アメリカ独立革命やフランスの大革命で高らかに宣言された人権は、ドイツの啓蒙主義者にとっても重要なことであったのだ。この点についてニコライは次のように記している。「啓蒙の人権面での要求で重要なことは、身分上ないしツンフト上の規制から免れた(裸の人間)であることである。社交性は精神の啓蒙に対して、重要な一歩をしるすものである」。
啓蒙が目指したもう一つの大切なことは、人間の幸福をこの世に実現することであった。そのために人間が住んでいる世界や社会を、あるべき方向に改革することこそが啓蒙の大きな役割となったのである。

啓蒙主義者の考えによれば、当時の哲学や国家には、人間の幸福を実現すべき任務がある、とされていたのだ。十七世紀の哲学者ライプニッツは、「世界は万物照応の普遍的秩序(予定調和)の原理のもとに、無限の発展・永遠の進歩の途上にある」として、すべて神の善意に委ねるよう説いた。しかし十八世紀の啓蒙思想家ヴォルテールは、その哲学的風刺小説『カンディード』の中で、「この世は、ライプニッツが主張するようには、決して可能な限り最善なものではない。現存する世界よりも良い世界を作り出す必要がある」と述べているのだ。改革こそは生のあらゆる領域において、啓蒙の主たる基準になったのであり、ニコライにとって社会改革は自ら目指すべきおおきな目標になったのである。

2 宗教と教育

ニコライの宗教観

前にも述べたように、啓蒙はあの世(彼岸)のことよりも、この世(此岸)のことに優先権を置くようになったのであるが、それは決して彼岸やそれを扱う宗教ないし神学を否定したり、それらに対して無関心になったりしたわけではなかった。啓蒙主義者が批判したのは、むしろこの世におけるその代表者を自任してきたキリスト教会や聖職者なのであった。ニコライの場合は、批判の対象はとりわけカトリック教会の位階制(ヒエラルヒー)とプロテスタント正統主義であった。そのため宗教や神学はいかにあるべきかという事が、啓蒙全体の中心テーマだったのだ。
そしてそれらはニコライが書いた人気小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』や『南ドイツ旅行記』においても、中核的なテーマとなっていたのだ。またカントの『啓蒙とは何か』という論文においても、同様に宗教は中核的な問題であったのだ。さらに「もし神が存在しないとするならば、それは作られねばならない」というのが、ヴォルテールの考えであったのだ。

ニコライは最終的には、「神は我々が客観的に何ら認識することのできない超越した存在である」としている。ロックの思想を受け継いだ啓蒙主義者たちは、結局超越的なものの認識は断念して、この世における神の実効性を大幅に制限したのであった。ニコライも宗教的無関心には反対しており、宗教の新たな役割を道徳と教育の分野に求めている。「真の宗教は健全なる良識と調和せねばならず、そのただ一つの目的は人間の幸福と神の愛なのである」。ニコライは宗教を人間中心的なものにし、市民身分的な道徳・価値観によって、その仲介を行ったのである。その際ニコライにとってその試みは、プロテスタントの教えの中で成功している。というのは、彼の考えによれば、プロテスタントの教えには多分に人間の本性に帰するところが多く、また書かれたもの(聖書)と理性に基づいているからである。

教育能力への信頼性と現状への嘆き

ところで啓蒙的人間中心主義の中核は、人間の教育能力への信頼性の中にある。啓蒙主義者の進歩思想、その実践そして改革への努力は、そこから栄養をとっているのである。しかし人間は形成可能であるという命題は、(洗脳も可能である)という否定的な意味合いでも当てはまるのだ。そのため当時のドイツ、とりわけ南部および西部で盛んであったカトリック教会の活動並びに当時積極的に展開されていた教会主導の教育政策というものが、対決すべき存在として、ニコライの時事評論の中で一つの重要な位置を占めているのだ。なぜならニコライもカントの啓蒙に関する見解に同意して、その時代が啓蒙された時代にあるわけではなく、なお啓蒙されつつある時代なのだ、と考えていたからだ。とはいえこのことは、逆にこの時代はなお心の啓蒙には程遠いという事も意味していたのだ。

人々を取り巻く環境や教育あるいは長く続いてきた歴史的経緯によって、人間の行動は規定されているのだから、数百年にわたる偏見や慣習を、真理との直接対決によって直ちに変えられるなどという事は、土台無理なことである。これについてニコライは「迷信と坊主の権力が数百年にわたって結託して、人間の良識を抑圧してきたために、それが今いかにひどい状況になっているのか、知れば知るほど情けない」と書いているのだ。

それでもニコライは飽くことなくカトリック教会への批判を続けていった。彼に言わせれば、カトリックの学校での長年にわたる劣悪な教育や「形式的な宗教上の訓練」が人々の性質に強い刻印を記してきたために、そこでは啓蒙がほとんど浸透していないということになる。そしてカトリックの僧侶の生活様式を自然に反したものと非難し、のちに(1796年)に修道院の修道院の世俗(国有)化に、はっきり賛成している。
人間は無意味な宗教的訓練の代わりに、自らの幸福と社会の福祉を向上させるために行動すべきであり、同時に良き市民的秩序のために尽力すべきである、とニコライは強調しているのだ。

社会的存在としての人間

ところでニコライや教育学者のペスタロッチなどの人間中心主義者は、人間は純粋に理性的な存在ではなく、一人の人間にとって理性と感情とを分離することなど、無理なことだとみなしていた。そのためニコライはカントに反対して、その倫理学は「人間の本性」に向いていないとした。そしてさらに次のように続けている。「現実に行動する人間は、その純粋理性という抽象概念を、その実践理性という抽象概念から区別することはできない。そしてしばしば純粋理性の代わりに、不純な主観的理性に従うのである。総じて人間の精神力というものは、行動する際には一緒に作用しあうのであって、決して別々に作用することはないのである」。さらにニコライは人間を、本来の自然な人間と、文化や歴史、社会などの産物としての人間という風に区別して考えている。そしてニコライにとっては、社会的存在としての人間だけが問題なのであった。彼にとっては「自然な人間」というものは、あくまでもひとつの虚構にすぎなかったのである。

いっぽうニコライの時代に先駆けて、すでに敬虔主義のある分野で、「社会的存在としての人間」という考え方への方向転換の動きが、見られるようになっていた。それはすなわちキリスト教を人間的なものにしようという試みであった。そこからキリスト教が「教え」ではなくて、「生活」なのだという考え方が生まれてきたのである。こうした考え方の延長線上に立って、ニコライは従来の不毛な空理空論や教条主義を拒否したのであった。

そのことによって、教会権力に体現されてきた過去からの解放と、寛容への要求という二つのことが現れてきた。教条主義はそれまで思想の自由を狭め、それによって啓蒙の普及を妨げてきたわけである。そして「宗教が人間を支配する手段になってからというもの、人間にとって本来は有益であった性質を、宗教は失ってしまったのである」。けっきょくニコライは、宗教の支配要求に対して、(宗教上の)寛容の原理を対置したのであったが、彼の場合信仰の自由は、自然法的に理由付けされている。「寛容の真の根源は、各人が信仰の問題で、自分の心情に従って行動する権利を有している、というところにあるのだ」。

啓蒙主義者と啓蒙専制君主との同盟

ところでニコライが生きていた時代のベルリンは、プロイセン王国の王都であり、そこには一般に啓蒙専制君主として知られているフリードリヒ大王が統治していた。そのためベルリン啓蒙主義を考えるうえでは、このプロイセンの政治体制との関係が重要な要素となってくる。ニコライはこの大王をたいへん尊敬していて、基本的にはフリードリヒ二世の考え方に同調している。そこから「少なくとも宗教上の考え方は、決して強制されてはならない。もし国家の良き市民であるならば、誰でも欲するところに従って信仰せよ!」というニコライの文章は、フリードリヒ大王の言葉といってもおかしくないのである。

長い間伝統的な権威として人々を支配してきたキリスト教会は、啓蒙専制君主にとっても煙たい存在であり、その力が衰えることは望ましい事であった。そこで教会の権威に対抗して、啓蒙主義者と啓蒙専制君主との同盟が成立したわけである。しかしそこでは思想や信仰の自由は許されたが、政治的行動の自由まで許されたわけではなかった。このことは大王の「好きなだけ議論せよ、ただし服従せよ!」という言葉に端的に表されていた。現存の政治体制を批判したり、攻撃したりすることまでは、啓蒙主義者もできなかったのである。

啓蒙と教育の密接な関係

実は啓蒙と教育とは、切っても切れない関係にある。啓蒙とは、長期にわたる教育のプロセスだといわれているぐらいなのだ。これに関連してニコライは「人間の考えというものは、その外見とは異なって、命令や禁止によって変えることはできないのだ。人はその思考力を啓蒙しなければならないが、このことは実はそれを禁止することよりも難しいのだが」と書いている。そして教育のプロセスには、経済的・社会的条件が伴わねばならないことも、ニコライははっきり認識していた。人々のものの考え方を変えるためには、人々を取り巻く外的条件も変えねばならない、というわけである。

また啓蒙のプロセスはすでに子供の時に始まっているのであるから、ニコライは、従来からの教育法や学校の現状に対して、厳しい批判の目を向けたのであった。そして彼の友人たちのうちの啓蒙主義的(汎愛的)教育家カンペ、トラップ、レーゼヴィッツ、ロホウ、バーゼドウ、ザルツマンなどの教育理念や実践活動を支援して、自分の書評誌や著作の中で、大いに宣伝したのであった。かれらはルソーの『エミール』の影響を受けて、母国語教育、自然科学の授業に力を入れ、教科書を子供の受け入れ能力に見合ったものにせよと要求して、それらを実現していったのであった。

とりわけバーゼドウによって1774年にデッサウに設立された汎愛主義的教育施設は、彼らの理想を実現した模範学校であった。知識の有用性、生活への実際的準備、そして批判的思考などが、この学校の基本理念であった。「将来の世代をより良きものにするために、この学校において若者はより良き人間へと教育されるのである」とニコライは書いている。啓蒙家にとって未来という次元は、人間が教育可能で、教化の見込みがあるという意味を含んでいるのだ。

ニコライは具体的には、当時ドイツの多くの領邦国家に存在していた民衆学校の信じられないぐらい哀れな状況を批判してやまなかった。また孤児院や子供向けの教育施設での実情を目撃して、「子供は機械のように扱われている」として、その「軍隊調の教育」を弾劾している。彼に言わせれば、「ちょうど兵士が国家のために犠牲にされているように、子供は軍隊式の教育の犠牲になっている」というわけえある。そして「子供は本来持っている素質や能力を伸ばすべきであり、民衆学校の暴力的なやり方は、子供の発展を阻害するものである」としている。

いっぽう高等教育についてもニコライは、ヴィーン大学の例を取り上げて、発言している。そこでの授業については、まず根本的なこと、つまり自由に考えるという姿勢が欠けていることを指摘している。彼によれば「そうした姿勢があってこそ思考の恒常的発展が可能になり、それによって学問の進歩も促進される。大学の主な目的は、若者が勤勉に学問を習得して、それを国家にとって役に立たせることだ」ということになる。とはいえニコライは単なる実用主義だけに固執していないことを、しばしば明らかにしている。彼はいかなる種類の研究も軽蔑していないことを明言し、例えばヴィーン大学にギリシアに関する研究を導入することに賛意を示しているのだ。

成熟した市民社会のための民衆教育

以上述べてきたニコライの学校・教育制度批判の根底には、彼の思考の中に含まれている社会的次元というものが、重要な位置を占めていることが分かる。つまり彼が考えていたのは、当時の国民の大多数を占めていた一般民衆への教育つまり国民教育なのであった。そしてその指導理念は、ペスタロッチと同様に、人間中心的な教育原理であった。
それは一時代後の古典主義の教育理念やヴィルヘルム・フォン・フンボルトの新人文主義とは、はっきり区別されるものであった。古典主義や新人文主義にあっては、高貴な人間性の持ち主へと個人を教育ないし陶冶することが理想であった。そこでは一人一人の個人が、高度な教養を身につけ、人格を錬磨し、高い文化を形成していくことが求められた。その際純粋に精神的なものこそが本来的に価値が高いものとされていた。しかし現実にこうした教育を受けることができたのは、一部の選ばれた者つまりエリートだけであった。そして実際にドイツでは十九世紀に入って、こうした古典主義的・新人文主義的なエリート教育が行われ、ドイツ特有の教養市民層というものが形成されていったわけである。その結果、エリートではない大多数の国民ないし民衆は、こうした教育の理想から必然的に抜け落ちたのであった。

これに対してニコライが唱えていた啓蒙的教育論が目指したものは、一般民衆に対して実生活中心の教育を施し、一人一人の個人の幸福が社会の公益の枠内で実現されるような、成熟した市民社会の形成なのであった。しかしイギリス、フランス、オランダなどの西ヨーロッパ諸国に比べて、政治・社会・経済の各方面で遅れていたドイツでは、その後の歴史が示すように、なお成熟した市民社会の形成、あるいは自由や民主主義の精神の浸透は、容易に実現しなかったのである。

とはいえニコライをはじめとする啓蒙主義者が目指した民衆への実践的な教育は、長い時間の経過の中で徐々に社会の底辺にまで浸透していき、紆余曲折を重ねながら、最終的には第二次世界大戦後の西ドイツで、成熟した市民社会を実現させたのであった。その意味で、十九世紀から二十世紀前半までドイツのエリート社会を支配してきた古典主義ないし新人文主義の理念が色あせた二十世紀後半のドイツ大衆社会において、啓蒙主義のかつての教育的実践が、再びその影響力とアクチュアルな意義をもって、社会の前面に登場してきたのだといえよう。ここにニコライの今日的意義がある、と私は考えているのだ。

3 批判と認識原理

啓蒙と批判

批判こそは啓蒙を理解するためのキーワードであり、批判の基本原理は啓蒙主義の基本原理でもある。啓蒙主義者ニコライの全業績は、批判という視点のもとに眺められる、と言っても過言ではない。十七世紀フランスの哲学者であり、亡命ユグノーであったピエール・ベールの『歴史批評事典』(1696~1697)からカントの諸批判に至るまで、啓蒙と批判とは切っても切れない関係にあった。ベールの場合には、批判はまだ国家に干渉されない「文芸共和国」に限って用いられている。しかしヴォルテール、カント、ニコライその他の場合になると、批判は公共的すなわち政治的意味合いを持つようになる。

ここではニコライにとっての批判の意味づけを、カントの場合と比べることによって、その考え方の違いについて見てみることにしたい。その際その内容ではなくて、主に批判の概念及びこの言葉を用いた意図が問題になる。まずニコライにとって批判は、進歩の原動力なのである。彼によれば、「批判は、よからぬ状況を公然と非難することによって、その廃止に貢献するわけである」。そして批判は真実の発見手段としてプラスに働くものであるが、その勢いと効果を上げるために、批判は公共のメディアに頼ることになる。カントの『純粋理性批判』の前書きからの次の文章は、ニコライの意図と全く同じものである。「我々の時代は、すべてはそれに従属しなければならない批判の本来の時代である。宗教はその神聖さを通じて、律法はその威厳を通じて、一般に批判から逃れようとする。しかしその時には彼らは正当な疑惑を呼び起こすことになる。その場合彼らは、自由にして公共の試練に耐えられるもののみに理性が認める、偽りのない尊敬の念を要求することはできないのだ」

しかしそのすぐ後の個所で、両者の基本的な違いが明らかになる。カントの場合には、批判はあらゆる経験と切り離されて、獲得しようとするすべての認識に注視して、批判を理性能力一般へと拡大した。ところがニコライの場合には、批判は認識の理論を目的にするものではなくて、啓蒙の実践そのものなのである。そのため批判に関する定義または批判の理論がニコライには欠けていて、それによって批判そのものがイデオロギー(空理空論)化する危険性をはらんでいたのだ。つまりある時点に来て、批判が不十分になり、批判はその機能を停止するという危険性があったのだ。ニコライ及びその同志は、批判について吟味することなしに、実態化した人間の良識というものを、いわば金科玉条としてすべての分野に押し広げていったのであるが、そのため反対派からその根底を突かれたのであった。

ニコライの認識原理

ここではニコライの認識原理に目を向けることにしよう。これはいわば彼のアキレス腱なのであるが、認識に到達する途上にあって、ニコライはその論理的な前提を明らかにしていないからだ。彼は認識を理論的に考察せずに、漠然と人間の認識は様々な要素によって規定されていると考えた。それらはつまり出身、教育、身分、経済状況、宗教、歴史などである。彼の考えによれば、観察と経験は実生活に向けて精神を形成することになる。そのため対象を具体的に観察することが必要となる。彼にとっては認識は経験を通じてのみ可能となるのだ。主観的誤謬の要素は、経験的実験的手段によって除去されねばならない。ひとつの経験が確固たるものになる前に、極めて様々な状況の下で繰り返されねばならない。そしてあらゆる状況においてそれは厳密に観察されねばならないのだ。真理に至る唯一の道など存在しない。思考のあらゆる可能な結果を、唯一の原理に還元しようとするのは誤りである。

神学及び哲学における独断的な主張は、歴史によってもっとも確実に相対化されるであろう。さらにすべての経験的なものを冷笑的な軽蔑の目で眺め、経験がすべてである現象界ではほとんど何も寄与することができないカント派の人々を、次のような譬えでニコライは批判した。「彼らは靴というものは足に合わせて作らねばならないことを忘れて、先験的なフォーマルな靴を作るのだ」

形而上学の拒否と敬虔主義の導入は、そもそもイギリスのロックの遺産なのだが、ニコライはそれをそっくりそのまま受け継いだのである。この点について歴史家のH・メラーは次のように述べている。「ニコライの場合、認識理論はロックの影響の下で、認識心理学となった。哲学史的に見れば、ニコライはロックによって導入された啓蒙的認識論の中の経験主義的感覚論的分派理論とライプニッツ=ヴォルフ路線から導き出された合理主義理論を折衷している」
どうやらこの経験主義的感覚論的分派理論というのは、経験という現象自体を原理的に突き詰めたものではなかったようだ。そのためニコライとその同志は、反対派から「経験の形而上学」だと批判されたのであった。

とはいえニコライにとっては、そうした理論の問題や原理の問題よりは、現実の社会や人間の方が重要なのであった。つまりニコライはカントの「批判哲学」それ自体に反対しているわけではなく、その哲学が「他の学問や現実世界の出来事」に乱用されることを、何とか防ごうとしたわけである。そうすることによって、彼のいう「健全な良識の権利」を救おうとしたのである。

ところでニコライとしてもカントの批判哲学は、ずいぶん研究もした。しかしそれはニコライに、カントの経験への反省を追体験させることにはならなかった。カントの「我々全ての認識は経験とともに始まるとしても、認識がすべて経験に起因するというわけではない」という『純粋理性批判』の中の一文は、ついにニコライによって受け入れられなかったのである。経験を越えて進む認識を、人は何故持っているのかという点を、カントは説明しようとしたのであるが、こうしたことをニコライは把握しなかったのだ。そのためニコライはカントによって、「先験性」の持つ意味を理解していないと非難されたのだ。

4 啓蒙の社会的担い手

国家と社会とを分離する意識の欠如

十八世紀になってもドイツにはなお一つの国民国家というものが成立していず、ドイツは大中小三百あまりの領邦国家の寄り合い所帯なのであった。そのためドイツでは、国家とか社会のことを明確に人々の意識に乗せるという動きが、なかなか生まれてこなかった。ドイツで「国家」と「社会」とを明確に分離する意識が出てくるのは、ようやく十九世紀に入ってからのことであった。
つまり十八世紀のドイツの多くの啓蒙主義者にはまだ、これを区別する意識がなかったのである。フランスにおいて第三身分によって担われ、絶対主義国家と意識的に対立関係にあった、相対的に閉鎖的な「市民社会」は、ニコライの時代のプロイセンには、まだ出来上がっていなかったのである。前に述べたようにプロイセンでは啓蒙主義は絶対主義と部分的な協力関係にあったわけである。

そもそも国家と社会に関する問題は、イギリスとフランスの啓蒙思想家ロック、モンテスキュー、ルソーなどによって徹底的に研究された。とはいえ多くの啓蒙主義者は、当初は非政治的な『文芸共和国」を形成していたが、やがて時とともに政治的な影響力を及ぼすようになった。そして文芸的・言論的討論の中から生まれてきた「公衆」は、次第に国家権力と並ぶ第二の「公的」権力を形成するようになった。ただしこの「公衆」はなお国民一般をさすものではなく、一部の「学識者の共和国」であったのだ。

しかしこの共和国は自然法を基盤として、人間の原則的な平等を出発点としたものであった。そしてこれは「公益性」と結びついて、新たな社会的価値を持つようになった。つまり古い身分制の「宮廷社会」とは正反対の「市民社会」というものが想定されるようになったのだ。こうした動きは先進的なイギリス、フランスからドイツへも入ってきた。そしてその結果として、変貌した社会的・精神的現実に見合った新しい「社会」概念が芽生えることになったのである。こうした動きの中で、啓蒙主義者の思考の中には、社会的諸グループの問題が視野に入り、さらに啓蒙の社会的基盤を問う動きも出てきたのである。

啓蒙の社会的担い手

一般に啓蒙主義の社会的担い手は、旧体制下の第三身分、つまり市民身分であったと思われている。フランス革命前の旧体制下では、中世以来の身分的区分けが残っていて、第一身分の聖職者、第二身分の貴族にたいして、都市商業ブルジョワジーが第三身分と呼ばれていた。ドイツにおいてもこのフランスでの身分的区分が用いられているので、ここでも第三身分という言葉を使うことにする。

さてドイツにおける啓蒙主義の担い手であるが、結論から先に言えば、実は第三身分に限られていたわけではなかったのだ。たとえばニコライは彼が所属していた月曜クラブや水曜会といった啓蒙主義協会に関連して、次のように述べている。「思慮があり、立派な人物であれば、身分や宗教その他のことには関係なく、これらの会員になれるのだ」。実際彼が所属していた啓蒙主義協会の構成員について調べてみると、第三身分以外の人もたくさんいたことが分かる。それにはとりわけ二つの理由があった。その第一は、啓蒙主義が持っていた普遍的な人道主義の意図ないし理想からくるものである。その第二は啓蒙の主たる担い手たるブルジョワジーとしても、目的達成のためには同盟者を獲得する必要があった、ということである。

ニコライも所属していたフリーメーソン協会には、君主や貴族、市民などが混在していて、まさに身分の垣根を越えた会員構成を示していた。そしてそのことは、啓蒙主義が人間一般に共通した全社会的なものであって、単なる一身分の運動ではないという風に、他の身分の人々からも見なされていた、ということも示しているのだ。というよりもむしろ啓蒙主義教会内部における身分の同権を、啓蒙主義は目指していたわけである。

同権の受益者~第三身分の上層部~

そしてこの各身分の同権という考え方から、まず第三身分の上層部にいた人々が実際に利益を得たのである。たとえばプロイセン国家の行政部門では、貴族身分出身の高級官僚と並んで、ブルジョア身分出身の高級官僚が一緒に仕事をしていたわけである。また国家の法律を作成し、運用する人々の間にたくさんのフリーメーソン会員がいたことが、レッシングの『エルンストとファルク』の中に記されている。このころドイツでも、都市商業ブルジョワジーの中で社会的上昇を成し遂げた人々は、啓蒙主義協会に加わって、生まれながらの王侯貴族や聖職者の一部と、対等の付き合いをしていたのである。その意味で彼らは「精神の貴族」などと呼ばれたりしている。

ニコライは職業としては成功した出版業者つまり都市商業ブルジョワジーだったのだが、その多彩な著作活動によって啓蒙主義の普及に貢献することを通じて、精神貴族の一員になったわけである。ちなみに「伝統的な社会的閉鎖性の中に閉じこもっていた中間身分ではなくて、精神の貴族及び生まれながらの貴族こそが、進歩の本来の担い手であった」という見方もあるのだ。ここでいう中間身分というのは、都市の小商人や手工業者を指すものと思われる。そしてここでは進歩の担い手と啓蒙の担い手とは同義と考えられる。いっぽう啓蒙の担い手とか受け取り手について考える場合、中世以来の古い「第三身分」とか「市民身分」あるいは「中間身分」といった概念だけでは、十分その実態を把握することはできない。そこで担い手や受け取り手の社会階層や職業などについて、もっと厳密に見ていく必要があるのだ。

啓蒙から除外されていた階層

まず当時、啓蒙の担い手でないのはもちろんのこと、その受け手ですらなかったのが、「第三身分」の下に位置していた一般民衆であった。数のうえでは国民の中の圧倒的多数が、これに属していたといえる。ニコライはその人気小説『ノートアンカー』の中で、「二万人の学識者と二千万人の一般大衆」という事を言っているが、当時の一般民衆には啓蒙主義の書物や雑誌は高級すぎて、高根の花であった。たしかに当時無学文盲な人の割合は相対的に減少し、文字を読める人が増大したために、いわゆる「読書革命」という現象がドイツで起きていた。しかしこうした人々が当時読んでいたものと言えば、イギリス、フランスからの翻訳本を含めた悪漢・犯罪小説などの大衆小説や娯楽作品の類いであった。啓蒙主義者が期待したような教育的・啓蒙的著作物ではなかったのである。

「多くの民は、残念ながら信心だけに凝り固まっている」というニコライの見方は、彼がその大旅行を通じて見聞した南ドイツのカトリック地域だけに当てはまるものではなかった。プロテスタントのベルリンの1770年代における状況も、それと大差なかったようだ。

そうした下層民に日常的に接触し、かれらに直接影響を及ぼしていたのは、小説『ノートアンカー』にも登場しているような、教会の説教壇から呼びかけていた牧師たちであった。その大部分はあまり学識や教養のないルター正統派ないし敬虔主義の牧師たちであった。彼ら牧師たちは啓蒙主義とは無縁な存在であったようだ。クニッゲのような時代批判的な啓蒙主義の著作家は、これらプロテスタントの牧師の大部分を、啓蒙主義の支持者の中には数えていない。南部や西部に比べて当時進んでいたドイツの東部や北部ですら、こうした状況にあったのであるから、ドイツの一般民衆への啓蒙はほとんど絶望的な事態にあったことが、よく理解できよう。

啓蒙の受け取り手拡大への努力

とはいえ民衆啓蒙への地道な努力は、十八世紀を通じて続けられていた。たとえば同じプロテスタントの聖職者の中にも、学識や教養を身につけた神学者もいて、啓蒙主義の立場から活動していた。ニコライと関係の深い「水曜会」の会員構成や彼が編集していた『ドイツ百科叢書』の協力者のリストを見れば、このことはすぐわかる。しかし彼らの絶対数は少なく、当時の先端的存在だったようだ。ドイツ啓蒙神学の第二段といわれる「ネオロギー(新解釈)」などは、その重要な成果と言われる。さらにドイツのプロテスタント神学者は、イギリスにおけるほどではなかったが、世俗的著作の普及に際しても、大きな貢献をしたといわれる。こうした著作の普及及び道徳週刊誌をはじめとする雑誌の増大を通じて、十八世紀の半ばから後半にかけて、批判的な内容のかなりの水準の本や雑誌を読むことができる「読書階層」が一定程度成立していたのだ。まさにこの読書階層こそが、啓蒙の普及にとって前提条件であったのだ。

当時二千万人と推定されているドイツの総人口のうち、本来の読書階層である学識者の数をニコライは二万人とみているのだが、これは総人口のわずか0・1%に過ぎない。ニコライはこの読書階層の拡大を目指して、啓蒙的な著作や雑誌を通じて、高度の内容の知識・学問をできる限り平易に多くの人々に提供したわけである。

いっぽう十八世紀の半ばから末にかけてドイツ各地に生まれた読書協会ないし読書サロンを通じても、新しい読書階層が形成されていったのだ。こうしたクラブは場所によって細かい点では異なっていたが、共通点の方が多かった。それがどんなものであったのか、1795年のシュトゥットガルトの読書サロンの規約をみてみよう。「何人も読書サロンは、精神文化を求める人にとって重要な場所であると心得ている。ここでは、高貴なる知的好奇心の満足のため、多様な知識の普及のため、趣味嗜好を洗練させるため、そしてさらに社交生活の喜びにために、もっとも目的に叶った手段が提供され、計り知れない利益が得られるのだ」

ベルリンにおける啓蒙の度合いは他の地域より大きかったが、そのために当然のことながら、読書協会も大いに発達していた。そしてこうした教養ある読書階層は当時の世論を形成し、その他の一般大衆の間では数十年後になってようやく根を下ろした行動の規範や社会的・精神的目標設定を、先取りしていたのである。

啓蒙の担い手の職業

次に啓蒙主義の担い手つまり啓蒙思想の普及・宣伝者の職業について見ていくことにしよう。厳密な職業分類はなかなか難しいが、おおざっぱに言ってそれは学識者、言論人、中級・高級官僚及び啓蒙的原理を自己のものとした聖職者などである。これを全体として実証するのは容易ではないが、一つのモデル・ケースによって、考察することはできる。それは十八世紀の最後の三分の一の時代における啓蒙主義の最も重要な雑誌であった『ベルリン月報』(1783~1796)の協力者(寄稿者)の身分上・職業上の所属を調べることによってである。

そのリストを見ると、寄稿者の数はおよそ三百人であったが、そのうちほぼ四分の一が、この時期の全部または一時期ベルリンに住んでいたことが分かる。次に彼らの職業であるが、このリストに記された肩書から、すべてを明瞭に分類することは困難である。この雑誌には匿名の記事もあり、その場合は属性はわからない。また何人かの寄稿者は、一つないし二、三の論文を発表したにすぎず、これらの人をここに含めるべきかという問題もある。それから著作家というグループを設定しようとすると、この雑誌への寄稿者の大半は広い意味での著作家なので、この分類は無意味となる。また職業や専門についての記述が重複していたり、途中で変わったりしていることもある。さらに教員と書いてある場合、大学教授なのかそれ以外なのか、はっきりしない。

ともかくこうした留保付きで、大体の傾向を見ていくことにしたい。まず一番大きなグループは、間違いなく大学教授やその他の教員で、その数は80人であるが、その中にはギムナジウム校長やギムナジウム教授が含まれている。その次に大きなグループは、中級及び高級官僚約60人、それから高位聖職者20人と牧師・説教者30人を合わせて聖職者50人である。そのほか高級将校が約10人、商人・銀行家が5人、書籍商2人、手工業親方1人、それからほかに職業を持っていない「独立の」著作家が10~15人ということになる。

この分類から分かることは、公的職業についている人の割合が圧倒的に多いのに対して、「独立の」著作家の数が極めて少ないという事である。当時のドイツには、それだけで生計を維持していけるような独立した存在の著作家が、まだ少なかったことが分かる。そしてまた実業的な職業の人はきわめてわずかだった。

一方職業的観点から離れてみると、貴族身分に属する人が45人もいて、そのうち5人が女性であること及びユダヤ人が10人もいたことも注目される。

彼らが目指したもの

以上の叙述から分かるように、啓蒙の担い手たちの体制的な色彩や、貴族の参加などから見て、啓蒙主義者が目指していたものは、反体制運動ではなかった、と結論づけてもよいであろう。前述の諸グループの社会構成、意図、活動などを考慮に入れれば、活動的な啓蒙家たちが、国家や社会、宗教などの改革を目指していたことが確認されるのだ。ニコライを含めたベルリン啓蒙主義の担い手たちは、啓蒙思想の所産を大衆化、一般化する試みを行った。そして啓蒙的な言論人(ジャーナリスト)は、啓蒙主義者の輪を広げようと努力した。ニコライは「ドイツの学識者(著作家)は自分のためにだけ書いている」と主張してやまなかった。ベルリンの啓蒙主義者たちはそうした「象牙の塔」に閉じこもったやり方には、満足できなかったのである。彼らの言動の中には、文学を含む社会的な実践に結びつく可能性もあった。しかしそうした方向に向けた彼らの努力は、ついに成功しなかったのである。

5 啓蒙主義協会からロマン派サロンへ

両グループの比較

ここでは水曜会などの啓蒙主義協会の特徴をより鮮明にするために、それより一時代後のロマン派サロンと、様々な観点から比較してみることにする。まず啓蒙主義協会は会員の数、種類、身分などの組織の点でも、またその意図や目標設定の点でも、ロマン派サロンに比べて、より閉鎖的であった。その会員の数は限られていたし、とりわけ水曜会の場合は、その会合の在り方、会員・テーマの設定、協会の目標設定などの点で、すべて堅固な形がとられていた。また啓蒙主義協会の会員は皆、名を成していた人々であり、水曜会の場合は国家的・社会的に影響力の強い人々であった。

ロマン派のサロンにもそうした人がいなかったわけではないが、その会員は一般により若く、1770年代生まれの人が多かった。そのためその多くは、職業上、社会生活上、まだ駆け出しで、彼らは貴族社会の成員でもなかった。啓蒙主義協会にも文学者はいたことはいたが、その数はわずかだった。それに比べてロマン派のサロンでは、文学者や芸術家の数がはるかに多かった。そしてそのサロンは、知的な女性たちの独擅場であった。

啓蒙主義協会は、国家、社会、法律、教育などの分野で実践的改革にとりくんでいた男たちの集まりで、そこには女性の姿は見られなかった。サロンの方は、フランスの伝統を取り入れたものであり、その中身も言葉もそれに合わせ、しばしば外国人とりわけフランス人がたくさん見られた点に特徴がある。さらに十八世紀ドイツの宮廷におけるフランス文化の影響を受けた団体と、ある種の共通性を持っていた。つまりロマン派のサロンは、フランス百科全書派の啓蒙思想の所産並びに終末を迎えた宮廷的伝統という二重の伝統の中にあったのだ。そしてそれは啓蒙思想の克服ないし放棄あるいはとりわけ市民的・プロイセン的ベルリンからの方向転換を意味していた。

ロマン派のサロンは、啓蒙主義協会に比べて、会員数、会員の社会的地位、出身国、会合の形態などから見て、はるかに緩やかな構造を持っていた。そして会合に当たって、そのたびごとに何かテーマを決めて議論することもなかった。つまり大勢集まって談笑するパーティーなのであった。そこには貴族とりわけ上級貴族やユダヤ人そして女性の姿もたくさん見られた。ベルリンの十八世紀末のサロンは、金持ちの美しいユダヤ人女性なしには考えられなかったぐらいである。たとえばユダヤ人の哲学者モーゼス・メンデルスゾーンは啓蒙主義協会に属していたが、その娘のドロテーア・ファイトは、ベルリンのロマン派サロンの花形だったのだ。

啓蒙主義の尽力の賜物

ここに十八世紀ドイツの身分制社会では社会の表面に出ることができなかったユダヤ人と女性とが、華やかな表舞台に飛び出してきたのであった。しかしそれこそはベルリン啓蒙主義の尽力の賜物だったといえよう。ドイツの他の領邦国家に比べて、多少寛容であったフリードリヒ大王時代の啓蒙絶対主義プロイセンに置ける状況が、そうしたことを許したわけである。ベルリン啓蒙主義はユダヤ人と女性の解放をもたらし、その成果をベルリンのロマン派サロンが享受したという事である。

それではこうしたロマン派サロンに顔を出すことができる条件とは、いったいなんであったのか? それは一言で言えば、「教養」であった。そこでは古くからの人種的、身分的、宗教的相違というものは、たいして重要ではなかった。それに代わって新しい社交の場であったロマン派のサロンへの加入条件は、文学的・芸術的な教養だったのだ。そのため貴族であれ、市民であれ、またドイツ人であれ、ユダヤ人であれ、フランス人であれ、さらに男性であれ、女性であれ、等しく文学的・芸術的教養という資格を身に着けていれば、このサロンに入ることができたのである。こうした教養はもちろん本来的な個々人の才能による部分もあったが、それは後天的に身に着けることもできたわけである。その意味で、人種、身分、宗教といった生まれながらにして決まっているものよりは、個人の努力による部分も大きかったといえるであろう。

個人の内面に向かったロマン派サロン

後天的な個人の努力によって社会的な進出を図るという意味では、学識と教養を武器にして社会階層の上昇を図ることができた後の教養市民層の先駆けであったと言えなくもない。しかしロマン派サロンが意図的にそうした状況を作り出したわけではなかった。彼らはけっして市民社会を前進させたのではなく、国民全体から見ればごく一部の人々にすぎなかったのだ、本格的な市民解放への動きは、ようやく1815年のヴィーン会議後になって見られるのであるが、ロマン派サロンがそれを促進したわけではなかった。たしかにサロンの中ではフランス革命のような世界政治的大事件に対しては、啓蒙主義者よりも肯定的な見方がなされ、発言もされていたが、さりとて彼らが具体的な行動に出ることはなかったのである。

啓蒙主義の人道的・人権的意図はサロンによって受け継がれたが、その中の社会的要素は部分的に拒絶されたのである。彼らは、啓蒙主義者にとって極めて重要な要素であった「公益的」テーマや活動について、話し合うことをしなかった。そうしたことよりも、ポエジー、個性、独創性といったことに強い関心を抱き、それらこそ自分たちが追い求めるべき理想であるとしたのであった。ロマン派サロンは、啓蒙主義グループに比べて、外面へではなく内面へ、社会的参加ではなく個人的問題に閉じこもる方向を、意図的にとった。例えば結婚については、啓蒙主義者の社会的・市民的慣習から距離をとるようになった。啓蒙主義者にとっては社会的有意性が行動の原理であったが、ロマン派の人々にとっては、個人の可能性や権利が行動の主な動機となったのであった。

ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その7 熟年期の生活と交友

1 ニコライの家族関係と交友

結婚生活

フリードリヒ・ニコライは兄の突然の死によって書店を継いだ二年後の1760年12月12日に27歳で結婚することになった。相手は、かつてプロイセン国王の侍医を務めた生理学・病理学博士のS・シャールシュミット教授の娘エリザベート・マカリア・シャールシュミットであった。片や国王との関係が深いベルリンの名士、片やベルリン有数の出版社の跡継ぎという事もあってか、両家の結婚の祝いは盛大であったようだ。その時の婚礼の模様については、版画となって残されている。夫人はとても良い教育を受けていて、教養豊かな女性だったので、ニコライの伴侶としては申し分のない人物と言えた。

ニコライ夫人の肖像

そして結婚二年後の1762年には、長男ザムエルが生まれている。この長男は11歳の時、父の40歳を祝って自ら描いた水彩画にフランス語の言葉を添えたものを贈っている。また19歳の時には、前にも述べたように、父親について7か月に及ぶ南ドイツ旅行に同行している。これは父親のいわば助手としての旅行であった。長男誕生の5年後の1767年10月には、長女のヴィルヘルミーネが生まれた。

その後ニコライ夫妻の間には6人の子供が生まれたが、これら8人のうち3人は幼児のうちに死に、息子3人と娘2人が育った。ニコライは書籍商という仕事柄一年のうち四分の一は旅行に費やしていたが、エリザベート・マカリアとの結婚生活はとても幸せなものだったという。それは出版業者として富を蓄えた、ベルリンの大市民のものであった。ニコライの家族の群像を、今日の我々にもっともよく残してくれているのが、ベルリンの女流画家テールブッシュによって1780年に描かれた油絵である。これは結婚後20年たった時のものであるが、広々としたサロン風の居間に、家族が勢ぞろいしたものである。前列左に座っているのがニコライ、その右に夫人、ニコライの右手奥に立っているのが長男、そして夫人の右に立っているのが長女で、右奥に夫人の母親がいる。あと三人小さな子供の姿も見える。そこには落ち着いた一家の主人として、大勢の家族に囲まれているニコライの姿が見事に描かれている。

ニコライ一家を描いた油絵(テールブッシュ作、1780年)

銀婚式の祝い

その5年後の1785年12月12日、ニコライ夫妻の銀婚式が盛大に祝われた。この時フリードリヒ・ニコライは52歳であったが、さまざまな意味で、その人生の頂点に立っていたといえる。祝いのテーブルには、夫妻の友人・知人が百人ほど集まった。ニコライと親しかったベルリン啓蒙主義の同志たちが多かった。その際友人・知人たちは夫妻に、「結婚・家庭カレンダー」というものを献上した。この印刷物の表紙には、先にテールブッシュが描いた家族の油絵を、コドヴィエツキが銅版画にしたものが刷り込まれていた。カレンダーは両開きになっていて、その左側には家族及び友人・知人たちの生年月日が印刷されていて、右側にはニコライ家のお祝い事が刷り込まれていた。

「結婚・家庭カレンダー」

このカレンダーは結婚した日の翌日である12月13日の土曜日から始まっていて、この日はニコライ家の所帯のはじまりと書かれている。15日の月曜には、ニコライ氏はクラブに出席、夫人は社交の会に出かけるとある。さらに19日の金曜にはコルシカという所でアマチュア・コンサートが開かれ、ニコライ氏は長男とともにヴァイオリンを演奏すると書かれている。そして20日の土曜日はニコライ家の小清掃日だが、ニコライ氏の部屋だけは例外とされている。またこの日には親友たちがニコライ家で夕食をとることも書いてある。そのあとは自由に書き込めるように、空欄となっている。

またこのカレンダーとは別に、ニコライ家の家族、親族、友人・知人たちからの祝いの言葉や詩句などを集めた印刷物も残されている。これらにはニコライの仕事のうえでの協力者たちの名前も書きこまれている。これらの人々とはニコライは、その書評誌『ドイツ百科叢書』への原稿依頼を通じて知り合ったものと思われる。いずれも18世紀後半に活躍したドイツ精神界の代表者たちであった。

ブリューダー街の大邸宅への移転

ニコライはポスト街にあった自分の生家に長いこと住みながら、その商売の方はベルリン城の斜め向かいにあったシュテックバーンの店で営んでいた。しかし1787年、54歳の年になってブリューダー街13番地の家を買い取った。そして晩年の24年間をこの大邸宅で過ごすことになった。そこはベルリン城からすぐ近くの都心の一等地にあり、その道路は人や馬車でたいへん賑わっていた。そして「英国王」とか「パリ市」といった名前の有名なホテルも建っていた。そこにはさらにフリーメソンのワイン酒場や、かつてニコライが若いころレッシングやメンデルスゾーンとしょっちゅう出会っていた、かのワインレストラン「バウマンスヘーレ」もあった。

1800年ごろのブリューダー街の賑わいを描いた絵画

1730年に大臣フォン・クニュハウゼンによって建てられ、ツェルターによって大祝祭用に整備されたこの大邸宅を、ニコライは買い取った後、自分の目的に合わせて改造させた。そしてそれ以来1811年に亡くなるまで、この家に住み続けたのだ。しかし妻や子供たちより長生きしたニコライが死亡した後は、この建物は別人の手に移った。とはいえこの建築物自体はその後の幾星霜を経ても生き残り、1910年には二階にレッシング博物館が作られた。

そしてこの建物は第一次・第二次世界大戦を生き延びた。さらに東独時代を経て、ドイツ再統一後再び首都となったベルリン中心部ウンター・デン・リンデン大通りの裏手に立っているのだ。この建物を私は1999年に訪れた。それはニコライの名前を引き継いだ出版社の社長ボイアーマン氏の案内によるものであった。建物の正面には、ここに住んだ歴代の居住者の氏名と居住期間とを記した記念銘板がはめ込まれている。しかし同時にそこには大きな文字で「ニコライ・ハウス」と記されたレリーフも見え、ベルリンの市街地図にはこの「ニコライ・ハウス」も記載されている。

1999年のニコライ・ハウスの入り口前(私が撮影したもの)

再びニコライの時代に話を戻すと、その大邸宅は当時のベルリンの精神的な中心の一つでもあったのだ。一時的にベルリンに滞在した学識者や文筆家も、この精神の王国の帝王に敬意を表するために、この邸宅を訪れたのであった。後にニコライと対立するようになったフリードリヒ・シラーですら、ベルリン滞在中に妹に次のように書き送っているのだ。「ベルリンに到着してすぐ、私は固定収入を当てにすることができるようになりました。というのは、ここで文学界の帝王といわれているニコライへの推薦状を、さしあたり受けたからです。この人物は、頭脳ある人物を注意深く引き付け、事前に評価し、それによってドイツの学識界全体に巨大な影響力を有しているのです」

ブリューダー街十三番地の邸宅の文化的雰囲気については、訪問したすべての人々によって証言が残されている。ニコライはそこに蔵書一万六千巻以上の私的図書館を有していたいただけではなく、数多くの愛書家向きの貴重書やおよそ六千八百枚に上る版画(グラフィック)も所蔵していた。さらに数多くの楽譜も持っていたが、その中には後に王立図書館に遺贈された、選り抜きのものも含まれていた。

社交家ニコライ

音楽が好きだったニコライはその最良の歳月には、自分の家で定期的に家庭音楽会を開いていた。その際彼自身、ヴィオラを演奏することもあった。ちなみに次女のシャルロッテ・マカリアは、ベルリン合唱協会所属の歌手になっていた。ニコライの家は社交サロンになっていたわけであるが、そこにはニコライの交際の広さを反映して、さまざまな分野の人々が訪れていたのだ。

そうした一例として、はるか遠方からやってきた客人との交際について、一つのエピソードをご紹介しよう。1784年から1786年にかけて、バルト地方の町ミタウ(現在ラトヴィア領)から二人の女性がはじめてドイツ旅行に出かけた。一人は牧師の娘ゾフィー・ベッカー、もう一人はその友人の作家エリーザ・フォン・デア・レッケといった。二人は数多くのドイツの作家や芸術家と会っていたが、ベルリンではニコライ家も訪れ、その家族とも親しくなった。ちなみに当時ラトヴィアのリーガやミタウはドイツ系の書店もあるなど、ドイツ文化圏に属していたのだ。二人のうちの一人フォン・デア・レッケはニコライ家を訪問したときの様子を、次のように記している。

「ニコライ氏の家を私はしばしば訪れました。・・・彼は家族に囲まれて幸せに暮らしていました。仕事の重圧にもかかわらず、精神活動があのように活発な人を、私はまだ見たことがありません。夜、選ばれた友人たちのサークルのテーブルについているとき、この人物は申し分のない社交家ぶりを発揮しています。ここでは様々な話題をめぐって、知的世界の重要な発見や最新の出来事を知ることができます。ニコライ氏はその抜群の記憶力で、いろいろな分野での博識ぶりを示し、会話に豊かな材料を提供しています。彼はとても早口にしゃべり、しばしば本題から外れて様々なエピソードへと脱線します。これは彼の豊富な知識の、くめども尽きせぬ泉からほとばしり出てくるのです。このことは、知識欲があり長く沈黙を守れる人にとっては、楽しい事です。」

女流作家フォン・デア・レッケの肖像

その優雅な振る舞いでニコライの仲間たちからも注目されていた、女流作家のフォン・デア・レッケは、ニコライ夫人をはじめ家族全員と、その後も親しく交際を続けていた。そして知り合ってからだいぶ時間がたった1793年5月、彼女はニコライ夫人にあてて親しげな手紙を出した。しかしその数日前にニコライ夫人は死去していたのであった。

ちなみにこの女流作家に対しては、ロシアの女帝エカチェリーナから自筆の手紙が寄せられている。エカチェリーナ女帝はニコライとも、商売上、文学上の関係があったが、この1788年6月付けの手紙は、女流作家から贈られた二つの作品に対する礼状であった。これは同じ年に『ベリリン月報』に掲載された。

「フォン・デア・レッケ夫人、貴女から贈られた二番目の作品は、一番目と同様に、私にとってとても楽しいものでした。両方とも真実に深く感ずる心と同時に啓蒙化された広範な精神の刻印が感ぜられます。十八世紀末だというのに、数千年来理性に反し、分別ある人々から誤りだとされている見解が、新たに広まっているのは本当に嘆かわしい事です。・・・」

いっぽうニコライは出版業者として、当時中央ヨーロッパで最大の規模を誇っていたライプツィッヒ書籍見本市を、春と夏二回訪れていた。そして温泉湯治のためにヴェーザー川流域の保養地ピュルモントに17回も行っている。さらにマルク・ブランデンブルクのシェーンアイヒェルに住んでいた友人の牧師の客人として、その牧師館を訪れている。これに関連してニコライは1794年11月に、長女のヴィルヘルミーネにあてて次のような手紙を書いている。「昨日無事到着しました。今日は一日中持参した書物や書類の整理に追われていました」

そしてニコライ自身もベルリンの郊外に別荘を持っていて、そこで家族と一緒に夏の時期を過ごすのを常としていた。商売上の必要があるときは、ニコライだけ町中へ出かけていた。この郊外の別荘を訪れた客人の中には、翻訳家のJ・J・ボーデ、化学者のM・B・クラープロートそして地理学者で大旅行家のアレキサンダー・フンボルトなどがいた。

2 啓蒙主義の同志との交友

友人たちへの追悼の辞

ニコライはもともと友情への高度の才能というものを有していた。そして死んだ友人に対しても彼はなお崇敬の念を持ち続け、しばしば追悼の辞をしたためている。例えばまだ二十代後半の1760年には、友人のエヴァルト・フォン・クライストが七年戦争で戦死したとき、ニコライは早速「エヴァルト・フォン・クライストの追憶」という文章を書き、これを出版している。これは同じ年のうちに第二版が出され、新しいスタイルの伝記のモデルとして長い間評価されてきた。この作品の特別な意義は、それ以前にゴットシェートによって書かれていた大時代で、悲壮な調子と比べてみた時、示されたといえる。ニコライの追憶の書の、心のこもった、悲壮に陥らない人間的な調子は、信頼すべき史料に基づいて読者の前に提示された伝記的なデータとともに、すくなからず人々を驚かせた。

長生きしたニコライは多くの啓蒙主義の同志を見送っているが、同様の追悼の辞をその人の伝記としてささげた相手は何人もいる。それらは『祖国のために死ぬことについて』でデビューし、雑誌「文学書簡」の共同編集人であったが、1767年に亡くなったトーマス・アプト、若いころからのニコライの同志でユダヤ人哲学者のモーゼス・メンデルスゾーン、そしてオスナブリュック在住の歴史家・思想家でニコライとは互いに尊敬しあっていたユストゥス・メーザーであった。とりわけメーザーの伝記は分量的にも長く、力の入ったもので、作品としても優れたものであった。

さらにその死亡に当たって追悼文を捧げた相手は、文芸学者J・J・エンゲル、啓蒙的神学者としてニコライが高く評価していたW・A・テラーそして神学者のJ・A・エバーハルトの三人であった。ニコライの追悼の辞は、賛辞だけでおおわれていたわけではなく、特にエンゲルの場合などは、もっと己を持して業績をあげるべきであったと、厳しく批判もしている。とはいえこれらの著作者たちに対しては、出版者としてニコライは、それぞれの全集を出すなどによって、その友情に報いたのであった。

月曜クラブ

ニコライの交友関係にとってとりわけ重要であったのが、この月曜クラブとのちに述べる水曜会であった。さらに1780年代まではフリーメーソンのベルリン支部「三つの地球儀」の会員でもあり、また「啓明結社」にも所属していたが、さしたる活動はしていない。

そこでまず「月曜クラブ」であるが、これはスイスの神学者ヨーハン・ゲオルク・シュルトヘスによって1749年にベルリンで設立された協会で、会員数は二十四人に制限されていた。そして会員の補充に当たっては、現会員の黒白の球による秘密投票によって決められた。このクラブにニコライは若いころレッシングに誘われて入会したのであるが、死ぬまでこのクラブに所属し、最後には最長老としての役割を果たした。その会員は身分としては貴族と大市民であったが、職業は高級官僚、学識者、文筆家、芸術家などであった。一口に言って、彼らは当時のベルリンの精神貴族であったといえよう。

ニコライが支払った月曜クラブ会費に対する領収書(1792年)

大市民であったニコライは、その交友を通じてプロイセン王国の高級官僚と深く結びついていた。その縁でニコライの子供たちは、婚姻を通じて高級官僚と結ばれていた。長男ザムエルは司法官僚クラインの娘と、自ら官僚の道を進んだ三男ダーフィットは枢密財務官アイヒマンの娘と、そして長女のヴィルヘルミーネは財務局長パルタイと結婚している。

次にニコライ五十五歳の時つまり1788年における月曜クラブの会員を列挙してみる。まずプロイセン王国の後の国務大臣ヴェルナー、警察長官アイゼンベルク、上級宗教局顧問官シュパルディング、同ツェルナー、司法官僚クライン及びバウムガルテン、次いで教会上級役員会会員テラー、王立図書館司書ビースター、ギムナジウム校長ゲーディケ、博物館長フォン・オルファース、王立国民劇場総監督エンゲル、さらに通俗哲学の代表者ズルツァー、文筆家のラムラー、彫刻家シャードー、銅版画家マイル、音楽家クヴァンツ、ベルリン合唱協会会長ツェルターそしてフォン・ゲルラッハなどであった。さらにこの時点では故人となっていた文筆家のレッシングとアプトの名前も忘れることはできない。

会合は毎週月曜日に、レストラン内の集会室で開かれたが、各会員は自由に友人を連れてくることができたため、しばしば外部の学識者が客人となっていた。ひとびとは夕方の6時と7時の間に集まり、8時に食事をして、10時に散会した。このクラブの目的といえば、ただ自由に屈託のない会話を交わすだけだった。とはいえ会員の中にはこのクラブでゲームをやりたいという強い欲求を持つ者もいたが、そこではチェスだけが許されたという。つまりそこでは、互いによく知り合った、啓蒙的な志を抱いたベルリンの精神貴族たちが、一緒に食事をしながら、様々な話題を巡って歓談し、中にはチェスを楽しむ者もいたというわけである。その意味で「月曜クラブ」は、会員資格の点でかなり厳しい、閉鎖的な高級クラブであったといえよう。ちなみにこのクラブでは政治的論議はなされなかったが、「文芸的公共性」への志向があったことは明らかだったといわれる。

水曜会

ニコライは、もう一つベルリンにあった「水曜会」の会員でもあった。このクラブの元来の名称は「啓蒙友の会」というが、その設立はずっと遅く、1783年のことであった。会員数は当初は12人であったが、のちに24人になった。とはいえこちらの方は排他的な秘密結社といった性格を持っていた。そしてその会員は高級官僚と学識者であった。

最盛期の会員の名前を挙げると、プロイセン王国の国務大臣フォン・シュトゥルーエンゼー、枢密法律顧問官スヴァレツ、枢密財務顧問官ゼレ、国王侍医メーゼン、司法官僚クライン、教会上級役員ディートリヒ、同テラー、王立図書館司書ビースター(会の秘書役)、軍事顧問官ドーム、軍事・王領地顧問官ジープマン、カンマー裁判所判事ベネッケ、さらにギムナジウム校長ゲーディケ、上級宗教局顧問ツェルナー、同シュパルディング、王立国民劇場総監督エンゲル、大学教授シュミット、説教師ゲープハルト、そしてアーヴィング及びニコライであった。またメンデルスゾーンは名誉会員であった。後に枢密顧問官フォン・ゲッキングおよび大学教授マイヤーの二人が加わった。これらの会員は、① 司法・行政の高級官僚、② 聖職関係の官僚、③ 哲学者・万能学識者・ジャーナリストに分けられるという。ニコライがこの③に属することは、言うまでもない。

「ベルリン水曜会」の前身は、同じベリリンに1749年に作られた月曜クラブである」と西村稔氏は『文士と官僚』の中で述べられている。確かに会員の顔ぶれを見れば、両クラブに重複して所属している人もかなり見られる。西村氏は先の著書の中で、「月曜クラブの文芸的論議への限定が、水曜会の発足に向かわせたのでないか」と推測されているのだ。とはいえ水曜会の成立とともに、月曜クラブが消滅したわけでもなかった。両クラブの性格の違いを考えれば、このことは理解できよう。

水曜会の実態

さて水曜会の会員は、順番にそれぞれの邸宅に集まり、誰かがかならず自分の論文を読み、その後で討議が行われたという。つまり「月曜クラブ」のような自由な会話を楽しむといった集まりではなくて、いわばプロイセン王国の非公式な審議会といった性格を持っていたようである。そのため国家の「顕職にある高官」や学識者が、外部へは非公開の形で集まり、秘密裏に講演を聴き、議論がなされたようだ。その間の事情を、会員の一人でのちにニコライの伝記を書いたフォン・ゲッキングが、一般的な形で次のように述べている。

「会は毎水曜日の6時に、会員の一人の家で順番に開かれた。そしてその家の主人が一つの論文を読んだ。それはたいていは国家行政、財務行政、立法あるいは思弁的もしくは実際的哲学に関するもので、文学は極めてまれであった。朗読がおわると、めいめいの会員は偶然に座った順番に、それについて自分の意見を述べていった」「私としてはこの会が良い影響を及ぼした例について、いくつか紹介できるが、ここではその中の一つについて述べるにとどめよう。それはプロイセン一般ラント法が、ある程度この会から恩義を受けているという事である。つまりこれに深くかかわったスヴァレツは、そのアイデアの多くの部分を、この会を通じて修正したのである」

ちなみに枢密法律顧問官スヴァレツはプロイセン王太子(のちのフリードリヒ・ヴィルヘルム三世)への御前講義を受け持っていた。その彼も王太子の前でよりも、はるかに踏み込んだ、次のような見解を水曜会では示すことができたのだ。「この一般法典では、公正と不正について、堅固にして永続的な基本原則を定めねばならない。この法典はとりわけ本来の基本法がない国においては、ある程度その代わりを果たすべきものである。つまりこれは立法者自身にとっても、それに違反してはならない諸原則を含んでいるのである」

またニコライと縁戚にあった司法官僚クラインは1790年に出した『自由と所有権~フランス国民公会に関する八つの対話』の中で、対話形式で七人の人物を登場させ、自由な論議こそ政治問題に関しても真理性を保証するものだとしている。そしてこの本の登場人物を提供したのは、水曜会であることを認めている。

これに関連して現代の歴史家のH・メラーは次のように書いている。「スヴァレツとクラインという、この時代のプロイセンの最も影響力をもった国制理論家は、政治的自由と市民的自由とを理論的に区別することを要請した。政治的自由はフランス革命の後になっても獲得できなかったが、市民的自由の方はますます明瞭に認識されるようになった。パリで起こった出来事を聞きながら、人々はフランス革命について、あたかもドイツで起きている出来事であるかのように議論した。その意義を人々は、不可欠の人権の確保にあると見ていた。」

ところで一般ラント法制定への過程において、「最も注目に値するのは、本来の学者ではないけれども、真の実践的哲学の勉学に身を捧げている人々に、意見が求められたという事である」。さらに「いわゆる学識者身分には属さないが、読書と熟慮によって自分の分別を磨き、市民生活の様々な仕事の中で、豊かな知識と経験を集積したひとびとにも、意見の開陳が求められた」という。このように一国の立法作業の過程で、法律の専門家にだけ任せておくのではなく、広く公衆の代表にまで意見聴取を行ったことは、この時期のプロイセンの法典が、まさに「啓蒙主義的思想の所産であり、自然法の成文化といわれる」所以をなすものだといえよう。ここにニコライのような法律家以外の様々な分野の精神貴族の集まりであった水曜会の面目躍如たるものがあったわけである。

ところでこの会の秘書役であったビースターが1783年にモーゼス・メンデルスゾーン宛に出した手紙が残っているが、そこからも水曜会について貴重な情報が得られる。
「そしてここで私は貴殿にもう一つ提案があります。少し前に設立された学識者の協会では、会員の数を増やす試みをしましたが、その時貴殿は断られました。・・・そこで当協会としては別の要望をお伝えしたいと思います。・・・実は当協会において行われます講演は、単にそこで話して終わるのではなくて、さらに熟考していただくために、すべての会員にその原稿が回覧された後、会員の記名の判定を受けて返却されます。そこで貴殿にお願いしたいことは、重要な講演につきまして、貴殿の意見を聞かせていただきたいという事です。その際講演会原稿はカプセルに入れてお送りします。・・・その場合貴殿は当協会の名誉会員になられるのです。」

結局メンデルスゾーンはこの要望を受け入れて、名誉会員になった。この時の手紙には、協会会員の氏名と規約が添えられていた。その規約の第三条と第四条は、会員の秘密保持に関するものである。「第三条 用心のために氏名の代わりに、数字を記されたし。この回状のリストの末尾に、その数字を書かれたし。第四条 用心のためには十分な措置をとることが必要なので、部外の人間には・・・論文(の内容)を知らせてはならない」。これを読むと極度の秘密保持が図られていたことが分かる。講演原稿は会員だけがそのカギを所持していたカプセルにしまわれて、回覧されていたわけである。

啓蒙主義協会としての「水曜会」の役割

ニコライ自身も後になると様々な機会に、この会について発言している。
「会員達は興味深い学問的な話題について分別ある議論を交わしたが、それは親しく意見を交換することを通じて、互いに精神を啓蒙しあい、それらを通じていくつかの概念をおのずから明瞭にし、かつ公平公正な点検を行うことを目指したのである。・・・すべての会員は正真正銘、真実の友である。したがって各人は自分が真実だと思ったことを、有無を言わせぬ断定によったり、内面の声に耳を傾けたりするのではなくて、理由を明らかにすることによって、主張したのである。」
そこではニコライはこの会の秘密結社的側面には触れずに、その明るい面だけを強調している。

それはともかく、水曜会が様々な意味合いにおいて、啓蒙主義を特徴づける存在であったことは間違いない。まず第一に、一国の政策を決定することにつながるような重要な事項について、責任ある人々が強い好奇心をもって、活発に議論を重ね、互いに批判しあいながら真実に近づくという、そのやり方はまさに啓蒙主義の特徴であったからだ。第二に、そこには単なる知的興味ではなくて、実際的な問題への具体的対処という啓蒙主義的な志向がみられるからだ。そして第三に、影響力のある同志が、一つのグループに集まろうとする意志が認められるからである。

結局この「水曜会」は、社会や国家に対して影響力を行使し、改革を推進していくという啓蒙主義の実践を表明しているものだといえよう。しかしその運営については、極度の秘密保持が図られていたわけである。その最も大きな理由としては、革新的啓蒙主義官僚が、政府内の保守派ないし反対派に対して極めて強い警戒心をいだいていたことがあげられる。

プロイセン国家の当時の状況

水曜会の会員達は、その行動の基準として公益性を掲げ、公共のために意味ある行動を目指した。しかしその活動に当たっては、公共性の原理にそむいた「秘密保持」の行動とらざるを得なかったのである。それはこの協会にはプロイセン国家の高級官僚がかなりの比重を占めていて、その談合はいわば非公式の政府審議会といった様相を呈していたからである。

とはいえ会員達の意識は、あくまでも国家の外側に身を置いて、国家を改革することをめざしたのである。たとえば「一般ラント法」制定の意図に見られるように、この協会は国家や体制に反対してことを進めていたわけではなく、ただその絶対主義的なやり方に反対したのであった。つまり国家権力の中枢部にいて、旧来の硬直したあり方を改革すべきだと考えていた高級官僚の中の進歩派ないし改革派の人々が、一種の隠れ蓑として「水曜会」というものを作り、政府の内部では議論できない本質的な問題について、様々な分野の啓蒙的学識者を含めて自由に討論し、実りある結論を出そうとしていたわけである。しかし政府の中には、絶対主義的なやり方を続けていくべきだと考える保守派ないし守旧派もいて、自由な改革論議が政策に反映されることに、脅威を感じていたのである。

とはいえ「水曜会」の秘密保持のやり方が極めて用心深かったためか、クラブ結成三年後の1786年に啓蒙主義に理解のあったフリードリヒ大王が亡くなり、神秘主義に傾倒していたフリードリヒ・ヴィルヘルム二世(在位1786-1797)が王位を継いだ後も、特に弾圧されることはなかった。新王は性格的に弱く、側室たちやお気に入りの取り巻きが政治を牛耳る傾向が強かったといわれるが、それだけいっそう水曜会としては、秘密結社的側面を維持しなければならなかったのであろう。

しかし新王が傾倒した「黄金薔薇十字団」や「フリーメーソン」も、同じく秘密結社的傾向の強い団体であった。とりわけ黄金薔薇十字団の方は、はっきりと反啓蒙主義的な神秘主義団体なのであった。つまり水曜会とこれらの団体とでは、その志向や目的などでは、全く異質な存在なのであった。ところが一般の社会から身を隠すという点では、両者は同じになってしまった。とりわけ公共性を重視していた啓蒙主義協会にとっては、このこと自体がやはり大きな矛盾であった、と言わざるを得ない。絶対主義国家のやり方に反対して公共性を唱えていた啓蒙主義協会が、公共性に反して秘密主義をとっていくという矛盾に満ちた態度をいつまでも続けていくことは、個々の会員にとっても耐えられない事であったと思われる。

皮肉なことに、反動的で秘密結社を容認していたフリードリヒ・ヴィルヘルム二世の時代には存続できた「水曜会」であったが、1797年に開明的なフリードリヒ・ヴィルヘルム三世が後をついで、その翌年の1798年に秘密結社禁止令を出すに及んで、ついに「水曜会」は1800年の5月、会員の多数の決定によって、みずからその組織を解散したのであった。

この年ニコライは67歳になっていた。ニコライと啓蒙主義の同志たちはみな、それまでフリードリヒ大王とともに、多かれ少なかれ、ヨーロッパの中でのプロイセン国家の興隆、その首都ベルリンの名声の上昇と啓蒙の中心地としての誇りなどを共有してきた。その意味でこの年の「水曜会」の解散は、ベルリン啓蒙主義の終焉を告げる、一つの象徴的な出来事であったのかもしれない。

ドイツ啓蒙主義の巨人フリードリヒ・ニコライ その6『南ドイツ旅行記』

1 本作品の概要

学術調査報告書としての旅行記

ここで表題として掲げた『南ドイツ旅行記』という名称は、私がその特徴をつかんでつけたもので、ニコライが付けたその正式な表題は『1781年におけるドイツ・スイス旅行記。学識、産業、宗教、風俗習慣に関する所見を添えて』である。1781年5月1日、四十八歳のニコライは、十九歳の長男ザムエルを伴って、七か月に及ぶ大旅行に出かけた。行き先は南ドイツ・オーストリア・スイス地域で、特別に自家用に調達した旅行用馬車に乗っての長旅であった。ニコライはこの旅行の間、毎日詳しい日記をつけていたが、この日誌が大著の原資料になったことは言うまでもない。しかし本作品は普通の意味での旅行記といったものではなかった。

端的に言えば、広い意味での南ドイツ地域の実情について、彼が滞在した大都市及び中小都市の社会的、経済的、文化的生活に即して、記したものである。その際旅行の途上あるいは事前事後に集めた数多くの図版、統計資料、付録が付け加えられ、さらに自身の所見が添えられていた。そのため全十二巻、総ページ約六千ページという怪物のような膨大な作品になったのである。

旅行した地域と旅行記の対象地域

ニコライはまず北東ドイツに位置する故郷のベルリンを出発してから南に向かい、ライプツィッヒを経て、南ドイツのニュルンベルク及びレーゲンスブルクに到着した。そしてそこからドナウ河を船に乗って東へ向かい、オーストリアのヴィーンに長期滞在した後。ハンガリーへも少し足を延ばした。その後一転して西に向かい、バイエルン地方のミュンヒェン、アウクスブルクから西南部シュヴァーベン地方のウルム、シュトゥットガルト、チュービンゲンを通ってからシュヴァルツヴァルト(黒い森)地方のザンクト・ブラージエンに達した。
その後、スイスに入り、チューリヒ、ベルン、バーゼルなどドイツ語圏の北半分を旅行した。それからライン河に沿って北上し、シュトラースブルク、マンハイム、ハイデルベルク、フランクフルト、ハノーファー、ブラウンシュヴァイクなどを経てベルリンに戻った。

ところが旅行記の対象地域としては、諸般の事情からスイス地域は落とされている。その代わり旅行記の表題には含まれていないオーストリアのヴィーンにかなり長期間にわたって滞在し、この都市について極めて詳しく(全体の三分の一に相当)記している。周知のように本作品が書かれた18世紀末には、オーストリア帝国は広い意味でのドイツ語圏の中で、政治的には北のプロイセン王国と並び立つ大国であったが、文化的、社会的、経済的にカトリックの南ドイツと共通する地域だと、ニコライは考えていたようだ。

刊行の経緯

次にこの作品がどのようにして刊行されていったのか、見ることにしよう。この大作も自らのニコライ出版社から発行されたのだが、最初の第一巻と第二巻は旅行の二年後の1783年に発刊され、以後第三巻と第四巻が1784年に、そして第五巻と第六巻が1785年に、第七巻と第八巻が1787年に、という具合に順調に刊行されていった。ところが第九巻と第十巻が刊行されたのは1795年で、この間に8年の空白期間があり、最後の第十一巻と第十二巻が刊行されたのは、旅行開始から実に15年後の1796年のことであった。

この空白期間が何によるものかははっきりしないが、ともかくもこの作品は一気に書かれたものではなく、「学術報告書」といった性格のためか、勤勉と忍耐力によってもたらされた連続作品なのであった。このように息の長い出版が可能であったのも、この作品の著者が自ら発行者であった事によるわけである。

執筆の動機と意図~啓蒙精神~

ニコライの研究者 W.マルテンスは、その「旅する市民」という論文のなかで、この作品について次のように述べている。「ニコライは書くにあたって、旅の日記帳を利用しただけではなかった。同時に彼は自分で準備しておいた読書の成果を披露し、その後関連して読んだことを書き加え、さらに信頼すべき情報提供者の情報を活字化し、他人の論文をすべて公開した。その結果彼の旅行記は、時として雑誌のような様相を呈するようになったわけである。」

マルテンスはまたこの著作を書いた動機や意図について、次のように書いている。「これは人を楽しませるという意図を全く持たずに、もっぱら学問的な情熱に動かされて、旅行した地域についてのデータ、事実、統計、地勢などをまとめたものである。こうした企ての根本に横たわっている意図について考えるとき、そこには啓蒙的衝動というものが歴然と感じられる。つまり公共の利益のために、知識を広めようという意図である。そしてニコライは、ドイツ諸国における生活状況について、世人の関心を呼び起こし、批判的意見を通じて改革をもたらそうとしたのである。」

ニコライが使用した馬車と距離測定器

ドイツは地図作成などの精密作業が得意な国であるが、ニコライは地勢記述の正確さを期して、自らの馬車に、上の図に見るような特別製の距離測定器を取り付けさせ、ある場所からある場所までの距離を測定して、いちいち記していった。ドイツ各地の精密な地図がまだ存在していなかった18世紀末の時代にあっては、このようなデータも十分有用性を持っていたのだ。百科全書的な知識をどん欲に求めたニコライは、またそれらを社会に還元することこそ重要である、と考えたのであった。

現代の一般読者のために、この作品のダイジェスト版を編集した U. シュレンマーは、これに関連して次のように述べている。「ニコライにとっては、個人及び国家全体の福祉の増進こそが、人間的並びに社会的営みの第一目標でなければならなかったのだ。その後であれば、精神的な喜びや、信心の喜びを人が享受するのもかまわない、というわけである」。まさに「衣食足りて、礼節を知る」の主張であるが、18世紀後半におけるドイツ社会の全般的立ち遅れや、それに伴う低い福祉水準を、書籍出版業の見習奉公などを通じて若いころから痛切に体験していたニコライが、この目標の達成をすべてに優先させたのは、十分理解できることである。

シュレンマーによるダイジェスト版の表紙

ニコライ自身は第十一巻の前書きで、「わが祖国にとって有用であると思われた、あらゆる種類の観察や考察あるいは提案などを、私はこの作品の中に織り込んでいったが、その際私の日記は、それらを互いに結びつける糸の役割を担うべきものであった」と書いている。

市民精神の発露としての旅行記

ニコライは成功した出版業者であったのだが、その彼はこの旅行で、「経験豊かな商人の視点で世界を観察した」といわれる。当時商人の視点で観察し、旅行記を著した人物はほかにはいなかったと思われる。ニコライは商人つまり市民の一人として、自己主張しているわけである。市民的視点はこの旅行を企てたやり方そのものに現れている。彼が企てたのは、出張旅行で、計画的に準備され、何事も偶然に委ねることをしなかった。これは現在のビジネスの世界では当たり前のことであるが、18世紀後半の啓蒙絶対主義の時代のドイツにあっては、極めてユニークなものであったと思われる。

当時は王侯貴族の青年たちの教養を広めるための見学旅行が流行していた。また冒険や気晴らしを求めて、旅をする人もいた。ロマンチックなことに憬れての旅や物見遊山の類いはいくらでもあった。しかしニコライの旅行は、これらとは全く性質を異にするものであったのだ。

旅行の準備と同様に合理的であったのが、世間との出会いの仕方と経験したことの処理の仕方であった。つまり自分で集めたデータ、事実、情報、地勢上及び統計上の資料の山は、同時に彼の世界理解にとって重要なのであった。当時まだキリスト教的世界観が根強くはびこっていたドイツにあっては、こうした考えにはなお極めて抵抗が強く、その意味でまさに「現代を先取りした」世界認識であったといえよう。前に述べたように、ニコライは距離測定器を馬車に取り付けて旅行したが、それは車輪の回転によって距離を正確に測定するものであった。現代の自動車に取り付けられた距離計を先取りするものだったのだ。この工夫にとんだ発明品について、誇りをもって彼は語っているが、それは測定することができ、自分の意のままになるものである。そこにあるのは此岸(この世)の次元だけである。

この現実重視、経験重視の啓蒙的市民ニコライは、観念的な思弁に対しては極めて敏感に反応した。あらゆる機会を利用して、ニコライはそれらを批判し、反感を表明している。世の中を理性的認識の対象として、また有用な行為の場として眺めたのだ。

本作品の具体的内容

今まではこの旅行記の特徴を、概念的にとらえてきたが、次にその具体的内容について見ていくことにしよう。とはいえ全部で六千ページにも及ぶ大作の内容を紹介するのは容易ではない。しかし幸いそのダイジェスト版を編集したシュレンマーが、原作についての解説の中で、各巻に共通する項目をいくつかに分類しているので、次にこれを紹介することにしたい。シュレンマーが分類した項目は、以下のとおりである。

1 視察・調査した都市の実情
地誌ないし地形測量、統治形態、警察制度、公安、救貧院、孤児院、人口とその発展状況、商業、工業、交通状況、出生・死亡統計(統計の分野ではニコライは先駆的な仕事をしている。当時はまだ国家による統計調査が行われていなかった)
2 ジャーナリズムの分野の実態(ニコライが専門としていた得意の分野)
新聞・雑誌、図書館、書店、印刷所、出版社
3 学校・教育制度(ほとんどの都市において、厳密に、批判的に点検している)
4 宗教(確信的なプロテスタント教徒であったニコライは、南ドイツでカトリックが繁栄している状況に直面、時として不当ともいえるぐらい厳しい批判・判断を下し、感情的な反発をしている)
5 社会学や民俗学への貢献。方言の観察や犯罪問題。
6 バイエルン人やシュヴァーベン人の国民性、地域的特性(民俗学的見地から見て興味深いデータの宝庫。風俗習慣、服装・民族衣装など)
7 シェリングの思弁哲学への批判・攻撃

2 啓蒙的市民としての主張~本作品におけるニコライの立場

前項で全巻にわたる項目別の概要を見てきたが、ここでは本作品におけるニコライの所見ないし主張の特徴を、具体的な引用によって明らかにしたい。

教育について

まずニコライにとって啓蒙の観点から重要な関心事であった教育についてみることにしよう。彼にとっておよそ教育施設というものは、公共の福祉向上のために有用かつ実際的なものでなければならなかった。このことを彼はどの中小都市を視察したときにも強調している。例えば図書館は誰でも入れなければならず、古色蒼然とした特権的学識にだけ奉仕するものではなく、その建物も空虚な豪華さを誇ってはならないとされている。

また当時なおドイツの大学で大きな力を持っていたラテン語についてニコライは、「ラテン語を書くことだけが学生や学士の価値を規定することになっているのは、実におかしなことだ」(第十一巻64頁)と書いている。彼の考えでは、ラテン語は細事拘泥者を作り、市民にとってはほとんど無用の長物なので、ラテン語学校はなくてもよい代物だったのだ。

さらに美術教育との関連で、ニコライは次のように書いている。「アウクスブルクの美術アカデミーでは、造形美術だけではなく、機械技術もそのカリキュラムに組み込んでいるが、私の考えでは、これは大いに是認されるべきことだ。・・・普通の頭の人が普通に図画や絵画を習ったとしても、国にとって大して得にはならない。しかし普通の人間はすぐれた指物師、金細工師、石工になれるのだ」(第八巻134頁)。
美術つまり美の世界を彼は否定しているのではなく、そうしたことは特別な才能がある者だけがやればいい事で、普通の若者は市民生活において有用なことに従事したほうが良いと言っているのだ。今日の言葉で言えば、なお「開発途上」のレベルにあった当時のドイツの実情を考える時、これは至極まともな発言だといえよう。

宗教について

次いで批判的見地からニコライが強い関心を向けていた分野が宗教であった。ベルリン在住のプロテスタント教徒であった彼は、この旅行を通じて初めて南ドイツ地域で広くカトリック教が栄えているのを、目の当たりにしたわけである。ニコライはプロテスタント教徒とはいえ、とりわけ頑迷なルター正統派に対しては、小説『ノートアンカー』などでも厳しい批判の矢を放っている。啓蒙的市民であったニコライが考えていたのは、人間に義務の観念を思い起こさせるような理性的宗教であったのだ。

そうした立場からは、バイエルン地方やオーストリアで観察した恭順の儀式や宗教的慣習は無用であり、有害ですらあったのだ。聖画・聖像の崇拝、行列、巡礼、ミサ、連祷などは、啓蒙された市民にとっては、時間の浪費に見えたわけである。オーストリアにおける巡礼行について彼はたいへん興味深い特別報告(第二巻付録35~45ページ)を行っており、社会史の貴重な史料になっている。ここでも彼は「巡礼などに出かける代わりに、農地や庭の手入れをしたり、子供の養育や家族の面倒を見た方が良い」という所見を記している。

また修道院の諸施設にも批判の矢を向け、そこでの瞑想が何の役にも立たず、病人の世話をしているのは僧侶の中の四分の一に過ぎず、残りは聖歌を歌って過ごしている、と非難している。その一方で、「修道院の中で修道士が、博物誌、物理学、生物学、気象学、化学、鉱物学などの研究に従事しているのは好ましいことだ」(第十二巻141頁)としている。また神学者についてもニコライはしばしば言及しており、「ヴュルテンベルクでは、神学者教育に重点が置かれているのは残念である。本当は、法学者、医者、官房学者、経済学者、技術者そして国家にとって有用な市民などが必要なのだが」(第十巻70頁)と書いたりしている。・・・またキリスト教神学の元来の対象であった「救済」は、ニコライにとっては明らかに空虚な観念となっていた。

生活習慣について

ニコライが信奉していたのは、勤勉、節約、経済観念、活動などの徳目を中心とした市民道徳であった。この基準によって彼はドイツの各地域をふるいにかけている。「プロテスタント教の地域であるエアランゲンでは、宗教行事はそれほど多くなく、活発な産業活動がみられる。(カトリック教の地域である)バンベルクでは、街頭で彩色された聖画像、祝祭的行列、ゆっくりと祈りを捧げる顔、司教座教会参事会会員、その他の聖職者などを多く見かける。エアランゲンでは、こうしたものはなく、マニュファクチャー工場主は家の中で仕事をしているし、街頭で見かけるのは、商売のために働いている人々だ。また人々の往来もこちらの方が、生き生きしている」(第一巻161頁)。エアランゲンとバンベルクはともに南ドイツの、現在で言えばバイエルン州の北部に位置しているが、当時この辺りはプロテスタント教徒とカトリック教徒の地域分布が、モザイク状に入り組んでいた。そのため地理的にはすぐ近くにありながら、宗派の違いによって、このように異なった生活習慣が支配していたのだ。

ニコライにとって全く不可解で、憂慮すべきことに思われたのは、勤勉に働き、財産を築き確保する代わりに、生の享楽に身をゆだねている人々の、のんきな暮らしぶりであった。そのためニコライは、ヴィーンっ子の人生享楽的性向に対して、大いに苦言を呈している。「とりわけ華美で贅沢な生活、享楽、柔弱さ、気晴らし、安楽さ、軽薄への好みといったことが、昔からヴィーン住民の性格的な特徴となっている」(第五巻187頁)。「ヴィーンで一般的にみられる欲望の充足という現象は、最下層の住民にまでゆきわたっている。そしてこのたえざる欲望の充足は、それに伴う時間の損失によって、人々から営業活動への努力を全く奪っている。(第四巻486頁)。それでもニコライは、あたかもヨーゼフ二世によってはじめられた啓蒙的改革に、大いに期待した。「幸いにもヨーゼフ二世は、その臣下を長い太平の眠りから目覚めさせようとしてくれている」(第二巻507頁)。

ニコライは享楽的なヴィーンっ子だけではなく、当時生まれてきたばかりの社会層であった労働者の場合でも、南ドイツでは全般的に、非市民的なのんきさや経済観念の不足を確認している。ウルムでのマニュファクチャー労働者とその経営者との関係についての叙述の部分で、このことが記されている。「労働者たちは一般に明日のことを考えないが、経営者は数年にわたって考え続け、いろいろ心配しなければならないのだ。・・・労働者は経済的観点に立って仕事をすることはまれで、将来に向かって何かを遺すことをしない」(第九巻61頁)。経済的に生活せよ、財産を築け、必要な準備をせよ、といったプロテスタント的倫理観に対して、カトリック教会は神の約束を信じて、「わずらうなかれ!」という山上の垂訓を提示してきた。ところがニコライのような啓蒙市民は、もはや教会にこの世の生活への実際的指針を求めたりしないのだ。ちなみに啓蒙の世紀である18世紀に、最初の保険会社が生まれているのだ。

その一方ニコライとしても、この世の楽しみをすべて捨て去れなどと要求してはいない。正しく、経済的に見合った、分別あるやり方での楽しみは、誰でも享受してよいのだ。ニコライは旅の初期、中部ドイツのテューリンゲン地方の歳の市での、民衆の喜びと楽しみに対して、賛意を表しながら次のように記している。「この淋しい峡谷で、かくも多くの喜びに満ちた人々の顔を眺めるのは、私にとっても愉快なことだ。石造リの堅牢な町役場の一階では、吹奏楽を合奏する音が聞こえた。皆かいがいしく、一同楽しそうだ。女の子たちは贈り物をもらい、代わりにその恋人たちに贈りものをあげている。彼女たちは特に美しいわけではないが、健康そうでぴちぴちしている。おそらくこの地方のマニュファクチャーで働いているのだろう。」(第一巻66頁)。

ニコライのような市民にとっては、地上における楽しみの場所は、何よりも家庭であった。これは当時の貴族や聖職者たちの生活とは、対照的なものであったろう。秩序立ち、結婚を通じての愛の生活の場所としての家庭こそは、祝福されるべき場所だったのだ。旅の途上、パッサウ付近のドナウ河の船上での出来ごとについて、ニコライは次のように記している。「このドナウ河の船上での夕食の際、私は愛する旅の道連れであった長男の誕生日を祝った。そして私たちは、ベルリンに残してきた家族が同様にこの夕べ、誕生日を祝っているに違いないと語り合ったものだ」(第二巻475頁)。

政治体制・身分について

次に当時のドイツの政治体制や身分上の立場などについてのニコライの見解を見ることにしよう。この点に関しても、それぞれの実情に対して様々な批判が加えられている。しかし暴力的な政体の変革という事を、ニコライは全く考えていない。第八巻(1787年)と第九巻(1795年)の発刊の間に隣国で起こったフランス革命(1789年)も、彼に対しては何の影響も与えていない。ニコライが欲したのは、何よりも啓蒙的な改革であったわけで、そのための方策を彼は十分持ち合わせていた。初期の革命に熱狂したり、その後の暴力的な経過に失望したり、恐怖感を感じたりするといった心の揺れは、彼の場合全く見られないのだ。

もともとニコライにあっては、特権的な身分としての貴族の排除や王政的原理の廃止への要求は、どこにもなかった。18世紀末の他の市民啓蒙家とは違って、かれは保守的な改革への姿勢を終始一貫示し続けたのである。彼が理想としたのは、すべての国民すべての身分のもとに、発展の可能性と幸福とを保証する福祉国家なのである。プロイセン王国のフリードリヒ大王の下で自ら体験していて、またその旅の途上オーストリアのヨーゼフ二世の下で始まった啓蒙絶対主義的改革は、彼にとって多くの利点があったのだ。彼が尽力した公益的な行為は、この政体のもとでも実現可能であると、ニコライは考えたようだ。

一方身分による相違は、かれにとっては、一人の人間の本来の価値とは関係のない、歴史的に規定された悪であった。とはいえニコライは旅行記の中で、貴族批判自体はやっていない。それよりも貴族に列せられたか、もしくは列せられたいという願望を持った市民に対する批判の方が多い、「よく見られることだが、金によって貴族に列せられた人は、愚かな振る舞いをするものだ。つまり人間の価値がどこにあるのか知らない者に対する、そうした格上げは無意味なのだ」(第五巻286頁)。
啓蒙市民ニコライはベルリンでの日常生活において、「月曜クラブ」や「水曜会」などでの社交的な交際を通じて、かなりの貴族とも対等に接触していたが、こうした経験を通じて得ていた自信がニコライに、貴族を特別視しない習慣を身につけさせていたのであろう。

市民としての自信

ニコライが貴族や宮廷世界を観察する際には、しばしば距離を置いた形で、市民としての自信が見え隠れしていた。しかしそうした自信は時として、直接現れることもあった。それは有用で、実用的な仕事において価値を生み出している市民身分こそは、一国の力の源泉であるとの自信であった。市民的勤勉、市民的倹約の精神、市民的秩序愛好、発明の才能そして企業家精神といったものこそが、社会改革を促進するものだと、ニコライは信じていた。

その一方農村住民に対しては、ニコライはほとんど関心を示していない。そして農民身分だけが生産階層であるとする重農主義者に対して、全く注意を払っていない。彼によれば、第三身分つまり市民身分こそは一国の経済を動かす存在であるばかりでなく、一国の文化や啓蒙を担っているのも、市民身分ないし中間階層なのであった。

その際、啓蒙絶対主義の要請に従って、まずは官僚指導によって社会改革や文化的進歩を推進していかねばならないという矛盾に、ニコライは突き当たった。官僚指導の限界を知っていた彼は、上からの啓蒙や改革に抵抗する態度を示していたのだ。そして旅行記の中で次のように述べている。「この善意による改革が永続的な影響力を保持すべきものだとするならば、国民の中の中間階層によって担われるのが、最も確実なやり方なのである。・・・こうした方向へと導くことこそ、一国の君主の最高の技なのである。これは君主による直接の命令や勅令よりもはるかに確実に一国の永続的な豊かさを促進するものである。この中間階層から、文化や啓蒙は下級階層へと速やかに浸透していくことであろう。もし貧困や迷信、怠惰、鈍感さなどによって、彼らの精神が麻痺しまっていなければの話だが。一方文化や啓蒙は、中間階層から上流階層へも普及していくはずである。ただしこの階層が、高慢、金、迷信、怠惰、洗練さなどによって無感覚になっていなければだ。いずれにしても、少なくとも最初のきっかけは、宮廷から導入されねばならないのだが」(第四巻923頁)。

ここでニコライが念頭に置いていたのは、オーストリアのヨーゼフ二世による上から指令した改革であった。この改革自体をニコライは支持していたものの、その効果については疑問視していたのだ。彼によれば、賢明な君主の役割は、中間階層が活動できるように物質的条件を整えてやることで、あとは市民の自由なイニシアティブに任せるべきなのであった。この関連で彼は孤児院内での軍隊調の調教を否定している。「子供は教育機関において、命令されてはならない。そこではむしろ子供の適性や、持っている力を伸ばすべきなのだ」(第三巻230頁)。

同時代の啓蒙家で、旅行家でもあったゲオルク・フォルスターは、「市民の自由な活動性」という事を、その著書『ライン河下流紀行』の中でしばしば書いているが、これはニコライの見解と一致したものである。このことはとりわけ経済領域に当てはまるもので、経済や企業活動に対する国家介入に、ニコライはしばしば反対を表明している。彼の見解では、重商主義政策は市民的活動を麻痺させてしまうほどには行われてはならないのだ。ニコライはオーストリアの国営作業着製造工場を視察したとき、次のようなコメントを残している。「軍隊調の規律のもとに行われている大ホールでの製造業務は、分散させて、個々の手工業工房に任せた方が良い」(第二巻555頁)。

商工業活動について

自ら成功した書籍商兼出版業者であったニコライは、有能で意欲ある商人に対して大きな共感を示していた。彼によれば、市民たる者まずホモ・エコノミクスでなければならなかったのである。それゆえニコライは、経営や商売のことをほとんど知らない王侯貴族や高級官僚、大学教授、聖職者といった読者に対して、価格、賃金、関税、手形、信用、通貨制度などについても説明している。彼にとっては、商人こそ市民的な自覚を持つのに最適な存在なのであった。こうした商人の実例として、アウクスブルクの見聞に基づいて、次の所見を述べている。「シューレ氏のコットン・プリント工場は、ドイツ中に知れ渡っていた。この勤勉で、有能な企業家は、彼を通じて仕事を得ることになった数千という人々にとって、いわば慈善家になった。彼自身は、全くわずかな資本を基に、勤勉、規律、企業家精神などを通じて、大変な財産を築き上げた。と同時に、彼はアウクスブルクの産業を、信じられないやり方で振興させた人物でもあったのだ」(第八巻24頁)。

資本投下と企業家利益の擁護に関する彼の論調は、極めて明確である。旅行記のほかの場所でも、これについて次のように述べているのだ。「企業家ないし大商人と労働者たちとの間に横たわっているマニュファクチャー事業について、どちらの側に正当性がるのか判断するのは、しばしば困難に見える。一般的な声は、もちろん企業家に対して厳しい。彼が裕福で金持ちだという事は、一見して明らかだから。・・・しかし企業家は例えば職工に賃金を支払うために、常に金を用意せねばならず、しばしば大きな危険負担もしなければならないことが忘れられているといえよう。それに対して労働者の方は、何の負担もなく、仕事が終わり次第、賃金が支払われるのだ」(第九巻59頁)。

とはいえニコライは、あくなき利潤追求ということは、一言も言っていない。彼にとって商業活動は、公益の枠内にある限りにおいて、健全なものなのである。のちの時代になって見られるようになった、際限なしの資本主義的利潤追求といった事態は、マニュファクチャー時代のニコライにとっては、まだ無縁なものであった。啓蒙の時代の市民が目指した「黄金の中庸」は、経済生活にも当てはまり、それが国家の手にあろうとなかろうと、大きすぎる企業はニコライにとって悪であったのだ。

独立した商人によって営まれる、全体を見渡すことができる商売こそ、有益かつ満足のいく経営形態なのである。そこでは労働者が搾取されて、甘い汁を吸われることがない。その反対にリンツの大規模な織物マニュファクチャーでは、不法なやり方で常に労働者の賃金が引き下げられていることを、ニコライは伝えている。(第六巻468頁)。一握りの大金持ちが所有するいくつかのマニュファクチャーではなく、豊かで企業家精神に富んだ市民による、数多くの中規模マニュファクチャーこそが、ニコライが理想とするものであった。そこでは自己責任とイニシアティブとが可能であり、公共の利益が正しいものの手にあるからだ。市民的啓蒙の中に初めから内在していた道徳的衝動が、十八世紀末のニコライの旅行記のなかで、経済の領域に関してもなお生き続けていたことが、分かるのである。

3 本作品への同時代の反響

本書の読者層

本作品の読者層は、いったいどのような人々であったのだろうか。これに対する手がかりを与えてくれるのが、第一巻と第二巻の合本の目次の後に印刷された予約購読者(前払い)のリストである。予約購読者の数は、1783年4月13日の締め切りの時点で702人、その後の追加で95人、合計797人となっている。リストの冒頭にはプロイセン国王陛下及び王妃陛下の名前、次いでドイツ各地の大貴族(王侯及び王侯夫人)15人の名前が、予約番号とともに記されている。それに続く人々の身分、職業を見ると、決して安くはなかったはずの、この書物を予約購読できる財力のあった階層つまり上流及び中流の上に属する人々であった。

およそ800人の予約購読者の肩書をすべてここで列挙するのは煩雑すぎるのでやめておくが、ごくおおざっぱに色分けしてみると、つぎのようになる。
高級官僚(大臣、枢密顧問官、参事官、書記官、裁判官、宮内長官、官房事務官、公使など)、大学・ギムナジウム教員(教授、副学長、博士、ギムナジウム教授など)、軍人(中将、少将、中佐、少佐、大尉など)、聖職者(神学者、牧師、宮廷付き司祭、説教師など)、医師、弁護士、家庭教師、図書館司書、商人、工場主、地主その他。また法人として図書館も購入している。購読者の数はその後千人が加わり、さらに第一・第二巻の合本は、1788年までに第二版及び第三版が出版されている。

以上の数字は現在の基準に照らせば微々たるものに見えようが、本作品が一般大衆向けのものではなく、広い意味での学識者向けのものであったことを考えると、決して小さな数字とは言えない。ニコライはそれ以前にも人気小説や評論の数々を発表していて、すでにベストセラー作家になっていたので、今回の旅行記が全体としてどの程度の規模になるのか分からないながらも、その前評判は大変高いものだったのだ。

本作品への同時代の評価

次に本旅行記に対する同時代の評価は、どうだったのだろうか。まず啓蒙主義陣営からの肯定的な評価を紹介しよう。啓蒙主義団体「啓明結社」の発展に尽力した作家クニッゲは、旅行記の最初の二巻について、ニコライ宛の手紙の中で、次のように述べている。「私はこの本を強い関心をもって読みました。そしてあのように楽しいスタイルのうちに、重要な情報と並んで、すべての善と美に対する暖かい心遣い、素晴らしい美術評論、啓蒙及び真実の普及に対する有益な示唆などを見出して、心から喜びました。」
次いで聖書の批判的研究を行ったプロテスタント神学者のアイヒホルンは、ニコライ宛の手紙の中で、第八巻と第九・十巻の間の発行空白期間に関連して次のように訴えている。「最初の数巻の偉大なる啓蒙精神が、すべての郷土愛に満ちたドイツ人をして、その続きの発刊を切望させるのです」

この手紙では、すべてのドイツ人の切望という事が書かれているが、実際にカトリック教が支配している南ドイツに関する北ドイツのプロテスタント教徒の蒙を啓くことが、本作品の主目的なのであった。ニコライはヴィーンに滞在してはじめて、カトリックの中でもとりわけイエズス会こそが啓蒙主義の主たる敵であるとの、明瞭な認識を得たのであった。そして南独のカトリック信仰に対して厳しい批判を展開した。このことはカトリック領邦諸国では激しい怒りを呼び起こした。それにたいしてプロテスタント領邦諸国では、ニコライが書いたことはありえないこと、あるいは誇張されたことだとして、驚きの念を呼び起こしたのであった。このことから分かるように、当時ドイツでは自分たちの地域以外の実情について、互いにあまり知らなかったわけである。

ニコライは各巻の「前書き」の中で、自分の旅行記の意図や目的について説明しているが、それらはたいてい自分の本にたいする批判への反論の形をとっている。こうして1783年の第一巻から1796年の最終巻の発行までの間に、知らず知らずのうちに、本書の内容も即物的な調子から、様々な論敵との論争の調子へと、比重が移っていったといえる。

4 後世における本作品の評価

十九世紀末のリューメリンによる再評価

本旅行記の第一巻が世に出てからおよそ百年たった1881年、テュービンゲン大学事務局長G・リューメリンは、『ニコライとその旅行記』と題する論文を発表した。この論文は、ニコライ旅行記のシュヴァーベン地方に関する部分を分析したものである。そこでリューメリンは、この作品の本来の意義は、単なる印象記や見聞録ではなくて、そこに社会学的、国民経済学的データが豊富に盛り込まれている点にある、と指摘したのであった。
ニコライに関する評価は、とりわけその晩年にニコライが行った様々な論争の相手方によって形成された悪意にゆがめられたマイナス・イメージが、その後の文学史家によって受け継がれ、広められたものであった。しかしリューメリンはこうした偏見から全く自由であった。そしてニコライは実は極めてモダンな人物であって、19世紀に通ずる頭脳の持ち主であったと、ニコライ再評価を打ち出したのであった。彼の論文の要旨を次に紹介しよう。

「ニコライは自由思想家で、国民経済学者、そして統計学者であった。彼は公共機関における階層的要素に反対し、出版の自由、民衆教育の拡大と時代への適応、農業及び産業における規制撤廃、ドイツの学問の大衆化などのために闘った。彼は生まれつき極めて利口な人間で、真に驚嘆に値する博学博識の実際的な思想家であった。そのことは、偉大なる出版業、長年にわたる書評誌編集の仕事、おおいなる勤勉そして軽やかな思考法などの結合によってのみ、理解できるのである。・・・・

美的尺度をもってニコライの仕事を評価してはならない。小説を書こうと、本の書評をしようと、あるいは旅行記を書こうと、常に彼はジャーナリストであった、そして物事の乱用と闘い、改革を促していた。・・・・・

この旅行記のシュヴァーベン地方を扱った個所を読む人は、この本の全体の立場や実際的志向が大変新しいことに驚くであろう。・・・・・
個々の点ではもちろん古臭くなった部分もあるが、時代の社会的状況の中で新しい思想を直接現実のものにしようという勢いなどの点で、ニコライはまったく現代的で、19世紀に身を移したような頭脳の持ち主である。・・・・この時代を研究している歴史家にとって、ニコライのこの作品は極めて価値の高い史料に数えられるであろう。その理由は彼がすぐれた観察者だったというだけでなく、数多くの信頼すべき資料が彼の手元にに届けられたという事にもよる。」

以上リューメリンの論文の要旨を紹介したが、少し補足すると、当時なおとても若い学問であった統計学を、ニコライは利用することができた。その際ベルリンの統計学者ジュースミルヒの先駆的試みを、実際に応用したのである。この統計学者は牧師でもあったが、教会記録簿に基づいて、一般的な人口発展の統計モデルを作り出した。ニコライはこの統計学の応用にあたって、極めて厳密なやり方で取り組んだ。疑問のある個所について執筆する時は、信頼できる専門家に手紙を出して問いただしている。さらに彼は新しい都会に到着すると、まず初めに出生及び死亡に関するリストを見せてもらい、人口動態を追求し、その経済的、政治的、社会的原因を調べている。

二十世紀における本作品の取り扱い

第二次世界大戦後、本旅行記について触れているのは歴史家のE・ケーバーであるが、彼は一般的な狙いから1956年に概説的な論文を書いている。次いで伝記作者G・ジヒェルシュミットの『フリードリヒ・ニコライの生涯』(1971年)において、本旅行記は相応の扱いで紹介されている。そして歴史家H・メラーの研究書『プロイセンにおける啓蒙主義。出版業者、ジャーナリスト、歴史叙述者フリードリヒ・ニコライ」(1974年)においても、本作品は批判的な見解を含めて紹介されている。

そして比較的最近になって本旅行記のダイジェスト版を編集したのが、U・シュレンマーであった。この作品の表題は『フリードリヒ・ニコライ著。バイエルンとシュヴァーベンを行く。私の南ドイツ旅行記。1781』となっている。これは1989年に刊行されているが、現代の読者のために、冗長で錯雑した原文を現代風に書き直してある。そして内容的には、第六巻の後半ミュンヒエンから最後第十二巻のザンクト・ブラージエンまでを扱っている。また原書ではかなりの部分を占めている付録が省略され、図版なども必要最小限だけ採録されている。その分現代の読者にとっては、ずっと読みやすいものになっている。
その一方、1985年から専門家のための学術目的用に編集・刊行され、1999年に完結を見た『ニコライ全集全二十巻』の中では、本旅行記は第十五巻から第二十巻までの六巻分を占めている。

社会史史料としての宝庫

本旅行記はドイツ18世紀の文化や社会を知るうえで, 史料としての貴重な宝庫となっている。その意味で本作品の記述は、これまでに色々な書物に引用されてきた。なかでもその叙述の中に、本作品からの引用を豊富に行ったのが、二十世紀前半に活躍したドイツの文化史家M・v・ベーンであった。ベーンは1922年に刊行したドイツ語の著書(その日本語版が、『ドイツ十八世紀の文化と社会』(飯塚信雄ほか共訳、三修社、1984年)において、1ページにわたってニコライの人物と業績を紹介している。そして同書の他の部分でニコライ旅行記から、21箇所にもわたって引用しているのだ。

その後出されたE・ヴァイグルの著作においても、本旅行記は八箇所にわたって引用されている。この書物は『啓蒙の都市周遊』(三島憲一・宮田敦子訳、岩波書店)と題して、1997年に日本で刊行された。

ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その5 流行作家としての活動

人気小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』

この人気小説の概要

多彩な才能の持ち主であったフリードリヒ・ニコライは、人気小説や他人の小説のパロディー作品もいくつか書いた。なかでも小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』が、この分野での彼の代表作であった。これは1773年から1776年にかけて、ニコライ出版社から三巻本として順次刊行されたもので、三巻あわせて716頁の長編である。現在ゲオルク・オルムス出版社から発行されているニコライ全集の第三巻に、オリジナルのまま収められている。またドイツの「レクラム百科文庫」にもおさめられ、今日なお大勢の人が読める状況にある。

さて1773年春にこの小説の第一巻を発表したが時、ニコライはそれまでの文芸評論よりも広い文学の世界に、第一歩を記したといえる。当時の最も緊急なテーマに敢然と挑んだ、この作品はただちに大きな評判を呼んだ。1799年までに四版を重ね、総発行部数は一万二千部に達した。この数字は現在の基準からすれば、微々たるものに見えようが、当時としては十分ベストセラーに数えられるものであったのだ。この数字はニコライ出版社からの正規の分だけであるが、当時は人気作品の翻刻版(いわゆる海賊版)が当たり前であったことから、この小説の海賊版が三種類、そして模倣作品が数種類刊行されている。さらにやがてフランス語、英語、オランダ語、デンマーク語、スウェーデン語に翻訳出版されている。これらのことを考えてみれば、この人気小説がいかにもてはやされたか、分かろうというものである。

成功の秘密

『ゼバルドゥス・ノートアンカー』の成功の秘密は、とりわけこの小説の中に、当時のドイツ人の生活ぶりが説得力をもって描かれていたことにあった。その意味でこれはドイツ初の写実小説といわれているのだ。作家のヴィーラントは『ドイツ・メルクーア』誌の中でこれを知ったとき、思わずこれに拍手喝采したといわれる。また啓蒙主義の仲間であったボイエはこれを、「ドイツ最初の長編小説である」と称えている。そしてドイツ人作家がやっと外国の模範から解放されて、生活の実態に即したドイツ人の性格を描いたことは、歓迎すべきことであると、人々は感じたといわれる。実際そこには18世紀ドイツ社会の様子が生き生きと描かれていて、われわれがその時代を知るうえでの貴重な社会史の史料にもなっているのだ、

ただその文学的な評価には問題があるものの、これを高く評価する人もいる。「ニコライの文章は軽妙で明晰であったが、ややドライで、単調であった。しかしその文体は前時代の古臭い散文に比べれば、はるかに進歩したものであった。そこにはレッシングの厳しい教えが守られていて、小説全編をつうじて、レッシングの息吹が漂っている」とまで、ニコライ研究者のジヒェルシュミットは書いているのだ。

しかしニコライ自身は若き日の文学評論活動を経て、この小説執筆に至った四十歳のころには、純粋な意味での文学的ないし美学的な面での質的向上よりは、当時のドイツ社会の実態や弊害などを、小説という手段を通じて人々に伝え,警鐘を鳴らすことの方に、より強い関心を向けていたといえる。その結果この小説の中には、強度の啓蒙主義的傾向がみられるといわれているわけである。

それにもかかわらず、この小説は決して無味乾燥なものではなく、そのストーリーの展開と数多くの興味深い細部描写に、同時代の人々は魅了されたのであった。ニコライは大変器用な人間で、その啓蒙的な意図を生の形で伝えるよりは、小説仕立てにした方が、より効果的であることを十分心得ていたように見受けられる。そのため災難、強盗の出現、船の難破、決闘、誘拐といった冒険小説の諸要素を、巧みに調合して利用したのであった。

またニコライは強い諷刺精神の持ち主でもあったので、この小説の中でも諷刺の笑いを通じて読者を説得し、状況を改善しようとしたわけである。ともかくこの小説は上質な娯楽小説の要素を持っていたため、当時の人々の人気を博したのであったが、ニコライは一体どこからそうしたものを学んだのであろうか。

まず一見して分かることであるが、この小説の『・・・・の生活と意見』という表題は、18世紀イギリスの作家ローレンス・スターンが、その少し前に発表した『紳士トリストラム・シャンデイ氏の生活と意見」からきている。またニコライの諷刺の笑いも、スターンのこの小説に通じるところが少なくない。例えば主人公のノートアンカーが馬鹿みたいに黙示録を勉強するのも、スターンの小説に見られる奇癖の数々の影響ともいわれる。とはいえニコライの諷刺精神は決して借り物ではなく、その確かな観察眼、ユーモア、自己に対する皮肉などは、文章表現上の欠陥を補って、彼の長編小説の長所となっている。

いっぽう登場人物の選択や筋書きにヒントを与えたのは、同時代の作家M・A・v・テュンメルが1764年に発表した人気小説『ヴィルヘルミーネあるいは結婚した細事拘泥者』であった。この小説は18世紀に流行した、例の「道徳週刊誌」に掲載された小説が用いていた常套的なトリックを使って一定の読者を確保していた。ニコライもこれに倣って、いわばその続編として『ノートアンカー』を書いたともいわれている。

小説のテーマ

ニコライのこの小説は、当時のドイツ社会の実態を写した鏡であったのだが、そこに写し取られたものは、まず何よりも社会に根強くはびこっていた宗教的慣習であった。実際にニコライは、この小説の中で、その時代に活発に展開されていた宗教論争に具体的に介入した。その際彼は、なお根強く残っていた迷信、精神的隠ぺい、信心家ぶり、宗教的不寛容などの実態を暴き、それらと断固闘う姿勢を見せている。後にニコライは南ドイツ地域を旅行して、そこで行われていたカトリック信仰の実態を親しく見聞して厳しく批判したのだが、この小説では彼自身が住んでいた東部および北部ドイツで行われていたプロテスタント信仰の実態を弾劾したわけである。

周知のように、16世紀前半に行われた宗教改革によって、ドイツの社会はカトリックとプロテスタントの両勢力に大きく分裂し、苛烈な宗教戦争にまで発展した対立抗争を繰り返していた。そして同じプロテスタントの中でも、ルター派正統主義、敬虔主義、カルヴァン主義等に分かれ、それぞれが地域的に細分化された領邦君主その他の世俗勢力と密接に絡み合って、18世紀後半になってもなお総体として地方ごとの狭い視野に閉じこもった状況を作り出していた。

ニコライの啓蒙主義が目指したのは、一言で言えば、脱宗教支配の近代社会の実現であったが、その当面の敵として攻撃の矛先を向けたのは、宗教的過激主義の代表としての敬虔主義とルター派正統主義なのであった。具体的には例えば、地獄の劫罰の教えといった、理性的解釈からは逸脱し、近代の世俗化した人間にとってはほとんど受け入れがたい、個々のドグマと闘ったのである。

またニコライは当時のドイツ社会に見られた別の側面にも目を向け、痛烈に批判した。例えばドイツ人貴族の様々な弱点や、地域ごとに散在していた彼らの宮廷生活に見られた愚かしい風習などを、批判の矢面に立たせたのであった。つまり彼らの贅沢三昧で自堕落な生活ぶり、浅薄な行動、身分上のうぬぼれ、腹立たしいフランスかぶれ、さらにドイツ語・ドイツ文学の軽蔑やドイツ人としての国民感情の欠如といったことを、持ち前の諷刺と皮肉を交えてこきおろしたのである。これはドイツ人の一般読者に対して、少なからぬ効果を上げたといえる。その際ニコライは返す刀で、役人たちの卑屈な態度も弾劾してやまなかった。

この小説のもう一つの特徴は、登場人物の中の幾人かを、実在の人物を戯画化した形で登場させていることである。そのパロディー化された人物は、当時の教養人にとっては、誰であるのかすぐに見分けがつくような人物だったのだ。そのため小説発表の後、いろいろ物議をかもした。

物語の筋書き

さてここで長い物語の筋書きを、できるだけ要領よく紹介することにしよう。主人公の名前はゼバルドゥス・ノートアンカーといい、大学出の学士であったが、中部ドイツ、チューリンゲン地方の村の牧師として、長年村人たちの尊敬を集めていた。そしてドイツのある地方君主の宮廷で宮仕えをしていたヴィルヘルミーネを妻に迎え、子供もでき、幸せな結婚生活を送っていた。

ところが六十歳という老境に達したとき、ルター派教会の管区総監督で上司にあたる人物と、神学上の見解を巡った議論に巻き込まれる。主人公は長年真摯に神学研究を行ってきたのだが、この時いわゆる地獄の劫罰期間の問題で、上司と対立した。村の牧師は、「神の善意に限度を設けるのは、人間にふさわしくない」といったのだが、これに憤激した上司は、「神を信じぬこの男は信仰の基本原理に反した主張を行ったのだから、牧師の地位をはく奪されるべきだ」と述べた。

そして正直そのもので、世間知らずの牧師は数時間のうちに牧師館を立ち去るよう命令された。そして所用で留守中に彼の家は他人のものになり、妻と赤子の末娘は別の小さな小屋に移された。運悪くその妻と赤子は病の床に伏していたが、この騒ぎがもとで死んでしまった。

挿絵(病の床に臥すノートアンカーの妻と赤子)

そして家と妻子を失ったゼバルドゥス・ノートアンカーは故郷の村を離れることになった。彼にはもう一人息子がいたが、兵役にとられてこの時不在だった。また長女のマリアンネはある身分の高い夫人のお相手役として、やはり故郷を離れていた。

続く第二章では、主人公は友人で書籍商のヒエロニムスから、ライプツィッヒの印刷所の校正係の仕事を世話してもらう。この書籍商はその際世間知らずの主人公に、ドイツの書籍出版業界の実情について詳しく説明している。しかしやがて意地の悪い者たちによって校正係の職を奪われる。そのため主人公はライプツィッヒを離れたが、ふとしたことで知り合った陸軍少佐の紹介状を携えて、プロイセン王国の王都ベルリンへ向かうことになった。郵便馬車に乗って旅立ったゼバルドゥスは日が暮れてから、とある森の中で強盗の一味に襲われ、頭を殴られ意識を失った。翌朝意識を回復したとき、彼は傍らに御者が死んでいるのを見た。彼自身は上着をはぎ取られ、わずかな小銭を遺して金と紹介状も奪われていた。しかし生来楽天的な主人公は、自ら研究を深めていた黙示録の言葉に励まされて、いずことも知らずに歩き出すところで第二章が終了している。

第三章では一転して、ゼバルドゥスの長女マリアンネの物語となる。彼女は書籍商ヒエロニムスの仲介で、身分の高いフォン・ホーエンアウフ夫人のお相手役となるのだ。マリアンネのフランス語の能力が証明されて、晴れて彼女はこの貴族の家に入ることができたわけである。当時のドイツ人貴族の間では、フランス語が常用されていたからである。
このマリアンネは物語のもう一人の主人公として、とりわけ女性読者の関心を狙った恋愛小説仕立ての中で活躍するのだ。と同時にニコライは、もともとは市民身分から成りあがったフォン・ホーエンアウフ一家の、虚飾に満ちた贅沢三昧の生活ぶりを、その独特の諷刺をきかせて描くことも忘れていない。

さてマリアンネがこの家に来て三か月したとき、フォン・ホーエンアウフ夫人の甥にあたる若い男がこの家にやってきた。彼は織物商人の息子で大学生であったが、柔弱な文学青年であった。ニコライはこの男にわざわざ「ゾイクリング(赤ん坊)」という名前を付けているが、これは同時代の作家ヤコービを戯画化したものであった。思考力が弱く、甘い感傷に熱中し、当時その名声も消え失せていた、この作家へのあてこすりや風刺は実に巧みである。

この文学青年はこの家の社交の場で、マリアンネの存在を知る。そして黒髪で青い眼、美しい顔立ちをした娘が良い趣味を持っていて、自分の朗読した詩に心から賛同するのを見て、マリアンネに恋心を抱く。彼女の方もこの母性本能をくすぐるようなところがある男から、はっきり美しいといわれて彼を好きになる。こうして彼らはフォン・ホーエンアウフ家の庭を散歩したりしながら逢引きを重ねた。しかしふとしたことから夫人の知るところとなり、甥と侍女とが交際するのを嫌った夫人は、結局マリアンネを夫人の知り合いの某伯爵夫人のところへ追いやってしまう。

第四章は再びゼバルドゥスの物語となる。彼は強盗に襲われた後、行方も知れぬ旅を続けていたが、その途中一人の男と知り合う。この旅人はベリリンへ向かうところだと聞いて、ゼバルドゥスは同じ目的地まで旅の伴侶ができたことを喜ぶ。この男は敬虔主義の信奉者で、強盗に襲われたことを話したのがきっかけで、二人は神や宗教を巡って議論を始める。敬虔主義に批判的なニコライはここで、その性善説が実は欺瞞に満ちていることを、様々な実例を通して暴いている。

しかしいろいろな経験をした後、ある日曜日の午後、二人はやっと目的地のベルリンにたどり着く。そして二人は西部の郊外に広がっている広大な公園「ティアガルテン」に足を踏みいれる。そこで展開されている日曜日の午後の活気に満ちた光景に関する描写には、なかなか捨てがたいものがある。ところが道連れの敬虔主義者は、「都会はソドムとゴモラのようだ」として、ベルリンの喧騒を忌み嫌う態度を示し、二人は別れることになる。

挿絵(ティアガルテンでの一場面)

ゼバルドゥスは乞食のような哀れな姿となっていたが、ふとしたことから学校の校長と知り合い、その家に温かく迎えられる。そしてそこの家の子供たちにピアノを教え、併せて楽譜を写す仕事にありつく。またこのベルリン滞在中、主人公はF氏と知り合い、その身の上話を聞くが、この人物もゼバルドゥスと同じように、聖職者の不寛容と暴力の犠牲者であることを知る。F氏と主人公はシュプレー河畔を散歩しながら、宗教的不寛容が人々の実生活に及ぼしている弊害などをめぐって、いろいろと話し合う。

その後ゼバルドゥスは長い間娘のマリアンネの消息を知らなかったこともあり、ベルリンを離れ、友人のヒエロニムスを訪ねることになる。そこでヒエロニムスは主人公のために、あらたにホルシュタイン地方の図書館の司書の仕事を斡旋することにして、一通の推薦状を書く。絶えず各地に所要のあった書籍商のヒエロニムスは、この度もマグデブルクに用事があるというので、二人は郵便馬車に乗り、途中まで旅を共にすることになる。その途上、馬車の行く手に大声が上がり、何か出来事の発生を予感させるところで、第四章が終わっている。

第五章は再びマリアンネとゾイクリングをめぐる物語となる。その後マリアンネは某伯爵夫人に温かく迎えられ、彼女の屋敷で幸せに暮らすことになった。この章では新たにゾイクリングの家庭教師ランボルトという若い男が登場する。マリアンネと引き離されてからも彼女への思いを忘れることができなかったゾイクリングは、この家庭教師に何とかして彼女の消息をつかんでくれるよう頼みこむ。ランボルトはやがて彼女の消息を知り、一計を案じてマリアンネを誘拐することに成功する。

馬車に乗せられた彼女は逃亡の機会を狙っていたが、ちょうどそこへ通りかかった郵便馬車の姿を見つけたマリアンネは、勇敢にも馬車から飛び降りた。その時あがった叫び声を、第四章の終わりでゼバルドゥス一行が耳にしたわけである。こうしてマリアンネは長いこと離れ離れになっていた父親とヒエロニムスに偶然、再会することになった。このようなストーリー展開は、まさに大衆小説の常套手段であるが、それはともかく父と娘は抱き合ってその再会を、心から喜んだ。ところがその再会の喜びもつかの間、ゼバルドゥスは娘とヒエロニムスの眼前から消えてしまう。

第六章では、二人と別れた主人公のその後が語られている。単独で馬に乗っていたゼバルドゥスは自分の研究テーマである黙示録のことに没頭している間に、道を間違えてしまったのである。しかしヒエロニムスが書いてくれた推薦状とたっぷり残っていた路銀に安心した主人公は、何とか目的地のホルシュタインにたどり着き、お目当ての宮廷侍従に会うことになる。当初目指していた図書館司書のポストには既にほかの人が就いていたため、ある牧師の息子の家庭教師の職で我慢することになる。

ところがゼバルドゥスはこの牧師とも、宗教上の見解を巡って対立することになる。その際主人公は次のように自説を主張した。「上位の聖職者の要求に盲目的に従うことは、プロテスタンティズムの真の精神に反することです。我々が信仰すべき教えについて、我々は納得していなければなりません。それが聖書であれ、信条書であれ、その他のものであれ、ある本に書いてあるからと言って、それを盲目的に受け入れることは、納得したことにはなりません。真実についての理性的な探求を通じて我々が納得したときにはじめて、道徳的な効果を発揮できるのです。」ここには啓蒙主義者ニコライの宗教観が、主人公の口を通じてそのまま示されているといえよう。

このように自己の信念に忠実なために、行く先々で衝突を繰り返していた主人公であったが、息子の消息は長い事途絶え、せっかく再会した娘とも離れ離れになり、その日々はみじめになっていた。そうした生活に倦みつかれた主人公は、遠く海のかなた東インドに行ってしまおうと決意する。そして東インドへの出発基地であるアムステルダムへ向けて、北海に臨む北ドイツのクックスハーフェン港を船出するところで、第六章が終わる。

次の第七章では、主人公は様々な運命のいたずらにもてあそばれ、波乱万丈の体験を重ねることになる。ゼバルドゥスを乗せた船はオランダ沿岸に近づいた時、突然の嵐に出会い、座礁してしまう。彼は何とか砂浜に泳ぎ着いたが、そこで意識を失う。数時間後一人のオランダ人漁師が彼を見つけて、自分の小屋まで連れていく。意識を取り戻した主人公は、ホルシュタインで習った低地ドイツ語の助けで、この漁師となんとか意思の疎通を図る。

漁師はゼバルドゥスがルター派の牧師であることを知って、アルクマールのルター派の説教師のところへ連れていく。同じルター派の聖職者との度重なる衝突や身の不幸のために、かなりの程度ひねくれていた主人公はこの人物に対しても初めは挑戦的な態度をとっていたが、善意の説教師に説得されて、その家に数週間泊めてもらうことになる。

こうして数週間が過ぎた時、一人の商人がロッテルダムからやってきたが、主人公はこの人物の次男の教育の面倒を見るという約束で、一緒にロッテルダムへ向かう。実はこの商人は、妻との結婚契約によって、最初の子は改革派の、そして二番目の子はルター派の教育を受けさせることにしていたのだ。かくして次男は主人公に預けられたが、それまで長男と次男の両方の面倒を見ていた改革派の家庭教師は、次男を自分の所有物のように見なしていたため、新しい家庭教師の登場には、不審の念を抱くことになった。

ここでニコライは、オランダにおける宗教状況について詳しく説明している。そして商人、その妻、改革派の家庭教師そしてルター派の家庭教師となった主人公の四人それぞれの宗派上の見解と立場の違いなどについて、具体的に叙述している。そしてこれらの人々の議論は、やはり神学論争となって妥協の許されない状況となっていった。その結果ゼバルドゥスは、数多くの宗派が共存している自由の土地アムステルダムへ移ることとなる。

商人からの紹介状を携えて意気揚々と主人公は朝の5時にユトレヒト門にたどり着いた。そこへ一人のドイツ人が現れ、手ごろな宿泊所へ連れて行ってやると申し出る。言葉が不自由で不安な思いに駆られていたゼバルドゥスにとっては、この同胞の出現はありがたい思いであった。そのため言われるままにこの男について行き、とある家の中に入った。その地下牢の中にはおよそ三十人ほどの哀れな人々が、わらの上に横たわっていた。

挿絵(アムステルダムの地下牢)   

この光景を見た主人公は男に抗議したが、その答えとしてこん棒で殴られ、わらの上に倒れてしまった。実はこのドイツ人は植民地行きの兵士や船員を募集する一種の奴隷商人だったのだ。未経験な外国人とりわけドイツ人をだまして、家の中に連れ込み、東インドへと売り飛ばすのを仕事にしていたのだ。この後豚小屋のような地下牢の悲惨な有様が具体的に描写される。主人公はこの地下牢に数日間過ごした後、彼を含めて数人が、外の空気を吸うために、監視付きで戸外へ出ることを許される。そしてその帰途、運よく以前世話になったアルクマールの説教師に出会い、この聖職者が金を払ってゼバルドゥスは奴隷商人の手から解放される。

そのあと主人公はロッテルダムの商人から預かっていた紹介状を持って、一人の裕福な人物を訪ねた。この人物は幅広い学識と高潔な志の持ち主で、さまざまな貴重な著作を、自分の費用で印刷させていた。彼は主人公をことのほか信頼して、やがてその方面の仕事を主人公に任せるようになった。ところがこの誠実な男は、しだいに体が衰えていって、数か月後に死んでしまった。ただ亡くなる前にその全ての作品の残部と版権を主人公に遺贈した。

ゼバルドゥスはその後、冬の夜長を若い時から親しんできたイギリスの本を読んで過ごした。そしてその中の一冊を翻訳して、亡くなった人物の全作品の販売を行ってきた書籍商の所へ出向いた。このイギリスの書物は宗教的にかなり大胆な内容を含むものであった。はじめ書籍商はこの本の出版に乗り気であったが、知り合いの改革派の説教師がこの本を見て、危険な内容を含んでいる旨伝えたために、結局この本の出版はご破算になってしまった。

せっかく高揚していた気持ちに冷水を浴びせられて、落胆した主人公は、もはやその土地にいることがつらくなった。そこで結局版権代として百グルデンをもらって、ドイツとの国境に近いアーネム行きの郵便馬車に乗って、アムステルダムを離れた。ところが途中高熱が出て、馬車から降り、最寄りの土地で病気療養せざるを得なくなった。彼の病気は重篤で、旅費と宿泊代と医者の費用で、所持金の大半を使い果たしてしまった。ここで第七章は終わる。

次の第八章では、新鮮な空気と穏やかな日の光のおかげで、主人公の健康は回復する。そして滞在先の家の道路に面した生垣のところに出て、道行く人々からわずかばかりの喜捨をもらって生活するようになった。そしてある日彼は馬に乗った二人の人物を見た。例のゾイクリングとその家庭教師のランボルトの二人であった。世にも哀れな姿で生垣にたたずんでいたゼバルドゥスの姿を見かけたゾイクリングは、馬のうえから憐みの表情をうかべ、老人の手に一グルデンを握らせた。老人のお礼の言葉を聞きながら、馬を走らせる青年の目には涙が浮かんでいた。マリアンネと突然引き裂かれた後、この感傷的な青年は父親の家で過ごしていたのだ。彼は家に帰ってからも哀れな老人のことが忘れられず、翌朝再び同じ場所に行き、老人に頼んで身の上話を聞いた。そしてゼバルドゥスを父親の家に連れてきた。こうして主人公はゾイクリングの父親の家の居候となった。

この家の主人は戦争の際、軍隊への物資補給で思わぬ利益を得た。そして戦争が終わりそうになった時、ある騎士領を購入して邸宅を建てた。そしていろいろな美術品で邸宅内を飾り、有閑人としての暮らしをするようになっていたのだ。ゼバルドゥスとはほぼ同じ年齢だったこともあり、彼を話し相手として格好の人物とみなした。そこで主人公に住まいを与えたうえ、年俸まで支給した。主人公がやるべき仕事といえば、朝食の際に彼のためにあらゆる新聞を朗読することぐらいだった。そうした新聞には、この家の主人の好きな数字合わせのロッテリー(宝くじ)も載っていた。

いっぽう父親と再会したのもつかの間、再び離れ離れになった娘のマリアンネは、その後村から村へと渡り歩き、ある嵐の日に森の中の一軒の農家に身を寄せることになった。そして居候ながら安定した日々を過ごすようになっていた。その頃彼女はゾイクリング宛に自分の現在の身の上を手紙に書いた。ところがその手紙を家庭教師のランボルトが盗み読みして、ひそかにマリアンネに会って、ゾイクリングは死んだと嘘をついて、彼女の心を自分の方に向かわせようとした。

その間ゾイクリングの方は、父とゲルトゥルーティン夫人が引き合わせた彼女の娘アナスターシアと、しばしば言葉を交わすようになる。アナスターシアは彼の気持ちを自分の方に引き付けるために、いろいろと手を尽くすが、彼の方は動かない。そんな時彼は偶然、森の中でマリアンネに再会し、互いに今でも気持ちが変わらないことを確認して、指輪を交換する。そこへランボルトが現れ、怒りのあまりゾイクリングを襲うが、その場にいた農民によって撃退される。

最後の第九章では、その翌朝ゾイクリングの父親は息子を呼び寄せ、アナスターシア嬢を花嫁に迎えるよう提案する。しかし息子の方は森の中で、以前から愛していた娘に再会したことを告げる。それを聞いて父親は狼狽したが、息子の指の指輪に気が付く。そこに居合わせたゼバルドゥスは、その指輪から相手が自分の娘であることを知る。そしてゾイクリングに案内してもらって、森の中の小屋へと急ぎ、マリアンネに出会う。その後一同、ゾイクリングの父親の家に戻り、マリアンネを紹介する。そして父親の了解を得ようとするが、拒絶される。

その時ゼバルドゥスは、この父親の弱点を思い出した。そしてちょうど新聞に掲載されていた宝くじで自分は、一万五千ターラーの賞金が当たったことを告げる。花嫁の父親となる人のこの幸運にゾイクリングの父親の気持ちはなごみ、結婚は許可される。そしてさらにその場にランボルトが現れ、実は自分は長いこと消息を絶っていたゼバルドゥスの息子で、マリアンネの兄であることを告げる。

こうして物語は、最後になってすべてハッピーエンドとなる。宝くじの賞金は支払われ、ゾイクリングはマリアンネと結ばれた。また金持ちになったゼバルドゥス・ノートアンカーは義理の息子であるゾイクリングの隣人から小さな土地を買って、そこで幸せな老後の生活を送ることになった。

この小説への反応

以上の筋書きでお分かりいただけたかと思うが、娯楽人気小説の要素をふんだんに取り入れたものであったため、その人気の点では、ほぼ同時期に発表されたゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』をはるかに凌駕していたという。ニコライのこの小説は、なんといってもその神学上のテーマ(問題性)によって、人々をもっとも刺激したのであった。実際ニコライは、この成功によってその啓蒙思想を人々に伝える可能性が生まれた、と当時は思っていたようだ。そのため彼に反対する立場の人々は、「迷信の神の代わりに真実の神を置こうとする」彼の試みに、強く反発した。

ニコライは当時、キリスト教の存在、あるいは西欧の文化そのものが存続できるのか、それとも没落してしまうのか、という瀬戸際の認識を抱いていたようだ。そのため彼は真実のキリスト教を知らせることによって、迫りくる不可知論を撃退しようとしたのだ。それにもかかわらず彼に反対する立場の人々は、その真意を理解しようとはせず、彼のことを無神論者であると非難したのだ。

その一方、のちにニコライと対立するようになったゲーテやヘルダーといった作家は、この時はこの小説を少なくとも成功した「時代のドキュメント」として、受け入れたのであった。同じくのちにニコライと激しく対立した哲学者のフィヒテでさえ、「この本は時代の精神と傾向を十分反映したものである」としたのだ。

つまりこの時反対派の中心を形成したのは、同じプロテスタント信仰ながら過激な考えや行動が見られたため、小説の中でこっぴどくやっつけられた敬虔主義者やルター派正統主義者たちなのであった。彼らを代表する敬虔主義者ユング=シュティリングは、「『ゼバルドゥス・ノートアンカー』の著者たる軽蔑すべき俗物に対する牧童の投石器」という一書をものした。この書は、小説の第二巻が出る前の1775年に世に現れた。その前書きには次のように書かれている。「『ゼバルドゥス・ノートアンカー』の著者氏ならびにその塩見のきいていない殴り書きを嘲笑している人々の双方に対して、はっきりとこういわざるを得ない。つまり彼は宗教に対する厚顔無恥な嘲笑者であり、同時にへたくそな小説書きであると」。そしてその本文で、ニコライはプロテスタント教会の教えを笑いものにしたと非難し、宗教界の利益のために、説教者身分に対する嘲笑を嘆いている。

しかしこのユング=シュティリングは、本来ニコライが攻撃した論点には、十分説得力ある反論をすることができなかった。ニコライはもともと反動的な人々によってキリスト教が浅薄になていることに反対して声をあげたのだが、まさにその批判を通じて多くの同時代人の代弁をしたわけである。当時人々は漠然と教会のヒエラルヒーの硬直化を、悲しむべき退行現象だとみていた。そしてそれこそ真のキリスト教精神に永続的な障害をもたらすに違いない、と考えていたのだ。人々はまた、心の内面では次第に拒絶するようになっていた封建的社会秩序を管理面で支えていたのが教会である、とも次第に思うようになっていたわけである。まさにニコライはその『ゼバルドゥス・ノートアンカー』において、市民階級の自立解放を謳っていたために、この小説は多くの読者から歓迎されたのである。彼の封建制批判は、まさに正鵠を得たものと言える。

ところがこうした点には関心を持たずに、もっぱら哲学思想、文学、形而上学など、人間の心や魂など内面の問題に、その関心を集中させていた当時の思想家や文学者のなかには、この小説ないしニコライの立場に反発する者も出てきた。例えば北方の魔術師と呼ばれていたハーマンは、その『カドマンバールの魔女』と題した小冊子の中で、「ニコライは正統主義のドグマとなんら異なることのない合理主義のドグマに陥っている」と批判した。

これに対してニコライはハーマンと何度も文通したのちに、『ドイツ百科叢書』の第二十四巻の中で、ハーマンの著作の総合書評という形で反論した。そしてその中で彼の曖昧で不明瞭な文章を容赦なく批判し、分析している。これによってニコライは大家ハーマンと決定的に断絶することとなった。遠くケーニヒスベルクの地で執筆活動をしていたハーマンは、ニコライに言わせれば、文学界全般を見渡せる都会性というものを持ち合わしていない田舎者なのだ。そしてその作家活動を、社会全般への責任感なしに、ある種の近親交配の中で、自己満足に浸って行っている、ということになる。

しかしこの小説の出現の後、ニコライに反発して、たもとを分かった、かつての協力者もいた。それまでニコライは主としてその『ドイツ百科叢書』の書評者として多くの学識者を探し求めて、協力を依頼していた。しかしこの小説が出た後、例えば作家のヘルダーは書評誌への協力を断っている。またかつてその観相学研究に対してニコライが常に強い関心を抱き、文通をつづけてきたラーヴァーターは、これ以後二人の道は別であると認識して別れていった。さらに小説の中で兄弟のことをこっぴどく暴かれたと思った哲学者のF・H・ヤコービは、やがてこの攻撃的な小説家ニコライに対して結束するグループを結成した。そしてその陣営に、グライム、ヴィーラント、ゲーテなどを引き込むことに成功したのである。

こうして『ゼバルドゥス・ノートアンカー』の出現以降、ニコライを中心としたベルリン啓蒙主義の陣営と、あらたな敵陣営との戦線の位置が明瞭になったわけである。

ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その5

『ドイツ百科叢書』

『ドイツ百科叢書』とは何か ?

これはフリードリヒ・ニコライによって、1765年から1805年までの40年間にわたって発行された、様々な知の領域にわたる総合的な書評誌であった。言葉を変えて言えば、当時のドイツにおける学問・芸術上のあらゆる進歩発展の歩みを、啓蒙主義の視点から概観しようとした、気宇広大な試みでもあったのだ。そして同時にニコライの名を今日に至るまで不朽ならしめている巨大な業績なのである。

この書評誌『ドイツ百科叢書』(Allgemeine deutsche Bibliothek)で取り上げられた書籍の数は、実に8万冊に及ぶという。書評者はのべ433人で、大学教授、医師、教師、牧師、その他一般的な学識者であったが、皆ニコライの忠実な友人あるいは協力者であった。

当時ドイツには統一した国家がなく、こうした学識者もその広いドイツ語圏の各地に、散在して住んでいたのであった。つまりイギリスにおけるロンドンやフランスにおけるパリのような、精神文化面でも中心的な役割を演じていた首都の存在が、ドイツには欠けていたのだ。ドイツ語圏の二大領邦国家オーストリアのヴィーンも、プロイセンのベルリンも、ともにドイツ全体の政治的・経済的・文化的な中心地ではなかったのだ。それぐらい当時のドイツ語圏の領域は、イギリス、フランスに比べても広く、多様だったわけである。

この広大な国土の各地に住んでいたドイツの知識人は、お互いの意思の疎通を図るためには、まずは郵便という手段を用いていた。そのため当時、ドイツを中心とした中央ヨーロッパ地域には、郵便馬車を用いた、非常に緊密で能率の高い郵便網が整備されていたのだ。フランクフルト・アム・マインに本拠が置かれていた帝国郵便網を使って、ドイツの知識人たちは、互いに書簡その他のやり取りをして、ドイツ全体の知的・文化的水準を高めていたわけである。

こうした状況の中で、ニコライは『ドイツ百科叢書』の編集発行という仕事を通じて、知識人の「知のネットワーク」を築き上げ、そのことを通じてそうした知的交流の中心に立ったのである、そのネットワークは、部分的にはドイツ帝国の枠を越えて、ラトヴィアのリーガやロシアのサンクト・ペテルブルクにまで及んでいた。

本書評誌の外形的側面

『ドイツ百科叢書』の各号は、厚さが平均320ページ、出版部数はおよそ2500部、そして40年間に256号に達した。この書評誌はもともと季刊誌として、つまり年に4回発行されることで始まったが、やがて新刊書の洪水のような増大という事態に直面して、年に6~8回の発行になっていった。さらに後から届いたものを収録するために、補巻も必要になった。

次にこの雑誌の形状について見てみよう。この点私は、幸いなことに、この雑誌の原本(Allgemeine deutsche Bibliothek) を直接手に取って調べられる状況にあった。つまりその原本は、私がかつて勤めていた日本大学経済学部の図書館に、貴重図書として保管されていたからだ。というよりも1995年に日本大学経済学部図書館がこの書評誌のオリジナル版全135巻を購入するにあたって、私が推薦状を書いたのが縁となって、いらい私がいつでも利用できるようになったからである。

これは本巻115巻、補巻20巻,計135巻であるが、原本の全てではないものの、その大部分を含んでいる。それぞれ1巻に雑誌の2号分が収められている。そのため各巻のページ数は、ばらつきはあるものの、600~800ページといったところである。その外観は、我々が書評誌として一般に考えているものとはかなり違っている。つまり雑誌の形状ではなくて、一見したところ立派な装丁の文学全集といった感じなのである。その判型はタテ20センチ、ヨコ13センチで、ハードカヴァー製である。ただ40年間にわたって発行され続けた雑誌であるため、表紙の材質や厚さ、紙の質などは異なっている。文字は原則としてフラクトゥーア体のドイツ文字(いわゆるヒゲ文字)である。ただしラテン語や、数は少ないがフランス語で書かれた書物の表題などは、ローマン体で印刷されている。

『ドイツ百科叢書』全135巻(日本大学経済学部所蔵)

 

第1巻と第2巻の見開き

発行への直接の動機

ニコライが本書評誌を発行しようとした直接の動機は、その少し前にイギリスで創刊された書評誌から刺激を受けた事にあった。それは『マンスリー・レビュー』(
Monthly  Review    1749年創刊)と『クリティカル・レビュー』(Critical  Review  1756年創刊)であった。

これらイギリスの書評誌の性格について、ニコライの研究者で、18世紀の英独関係に詳しいドイツ人のB.ファビアンは次のように言っている。当時イギリスでは、おおむね特殊専門的な傾向を持った書評誌から、一般的な性格の文芸書評誌への移行が見られた。そしてこうした移行が可能になったのは、その読者がより幅広いテーマや対象をも受け入れる用意のできた教養ある階層に属していたからであるという。またこうした文芸書評誌の書評は、はじめのうちは作品の特徴や内容を要約したものが多かったが、やがて次第に独自の批評のスタイルが確立されていったという。

ニコライのイギリスへの傾倒

ニコライはごく若いころに独学で英語を学び、二十代のはじめに17世紀イギリスの詩人ミルトンの『失楽園』について文芸批評を書くなど、総じてイギリスの文芸に傾倒していた。18世紀半ばのドイツではなおラテン語やフランス語が、学識者や上流階級の間に幅をきかせていて、英語を学ぶことは一般には容易ではなかったという。当時英語の授業が行われていたのは、比較的少数の大学やアカデミーにおいてだけであった。こうした困難な状況の中で、苦心して習得した英語を通じてニコライは文芸作品のみならず、イギリス文化一般に強い関心を抱いて、イギリスの様々な文化や思想を習得していったのであった。

彼はまたイギリスの事情に通じるようになってからは、当時のヨーロッパ諸国の中で唯一、自由と寛容の国としてイギリスを高く評価するようになっていた。自分の国ドイツのみじめな状況に失望していた若きニコライは、その地にあこがれ留学することさえ真剣に考えたが、諸般の事情であきらめていたぐらいなのだ。こうしたイギリスへの傾倒から本書評誌が生まれたわけであるが、こうしたことを含めて、先のファビアンは、ニコライのことを「ドイツにおけるイギリスの発見者の一人」と呼んでいるのだ。

ヨーロッパにおける雑誌の発生

ここでヨーロッパにおける雑誌の発生に目を向けると、それは17世紀半ばのことであった。当時の学識者たちは、かなり多くの著者に様々なテーマの事柄について寄稿してもらい、出版社から定期的に発行して、一定の読者層を確保することにメリットを感じていたという。こうした考えに基づいて、1665年にロンドンで
<Philosophical Transactions>, 次いでパリで<Journal des Savants>が、そして1668年にローマで<Giornale de’Letterati>が、さらにドイツでも1682年にライプツィッヒで、パリの前掲雑誌に倣って<Acta Eruditorium>(学識者の報告)というラテン語の雑誌が創刊された。当時のドイツでは学識者の用いた言語はドイツ語ではなくて、ラテン語だったからである。これらは学識者の狭いサークルに対して、学術関係の新刊書や同時代の学者たちの生活についての情報を提供していたのである。

ドイツでは今あげた学術雑誌(Acta Eruditorium)の流れの中から、1700年ごろには、専門分化した様々な学術雑誌が生まれていった。それはつまり医学、法学、神学、歴史学などの学術雑誌であったが、それらは個別科学のその後の発展に大きく貢献し、その伝統は今日まで連綿として続いている。

その一方で、より広い観点に立った一般的な性格の文芸評論誌というものも、18世紀の前半に現れた。その一例としては、1739年創刊の<Goettingische Zeitung  von gelehrten  Sachen> を挙げることができる。ちなみにこの雑誌はその後名前を少し変えて、18世紀の伝統を今日に伝えている。

啓蒙のメディアとしての雑誌

こうした一般的な評論誌は18世紀も後半に入ると、さらにその輪を広げ、ニコライが編集発行に携わった数点の雑誌を始めとして、啓蒙主義のメディアとして、様々な発展を見せるようになった。それらは1750年ごろにはじまり、1780年代にその最盛期に達し、18世紀の末になって新しい形へと変質していったのである。それは外部の世界に対して影響力を行使することを重要視した啓蒙主義の活動であった。

その時代は、著作家や時事評論家やその他の学識者が、雑誌への寄稿者または編集者としてその真価を発揮した数十年間であった。そしてそれはまた啓蒙への一般的な努力が、著作者をして雑誌への支援へと突き動かした数十年間でもあった、と言われている。なかでもレッシング、ヤコービ、ボイエ、ヴィーラント、リヒテンベルク、ゲーディケ、ビースターといった人々がその代表であったが、わがニコライもその重要な一員であったのだ。

それが18世紀末の時点でどのような評価を受けていたのか、同時代の証言に耳を傾けることにしよう。1790年、二人の教師ボイトラー及びグーツムーツは、『ドイツ重要雑誌事項索引』という出版物を刊行したが、これは「現在までに至るこの世紀に現れたすべての定期刊行物に関する理路整然たる文献目録」なのである。その前書きには次のように書かれていた。

「雑誌というものは、人間の知識の宝庫となった。そこには人間精神を全体として用いるための、計り知れない宝物が詰まっている。何かのテーマについて知りたいと思うものは誰でも、安心してこの知識の宝庫に逃げ込むことができる。そして間違いなく豊かな気持ちで、満足して戻ってこられるのだ」

この二人は18世紀における出版界の発展について、結論を出したのだ。つまり彼らははじめて雑誌というものが、啓蒙のメディアとして、いかに不可欠の存在になったかということを示したのである。その前書きにはさらに、いかに人々が雑誌の公益的目的を認識するようになったかという点について、次のように書かれている。

「それまでもっぱら学者たちの所有物として書物の中に蓄えられていたものが、今や雑誌というものを通じて一般にもたらされるようになった。それは国民の大部分が理解することも読むこともできず、また読もうとも思わなかった知識だったのだ。それらが今や国民が理解できる一般的な言葉に移し替えられたのだ。そしてそれらは、すべての人々が使える小額通貨になったわけである。」

ニコライがその編集発行に携わった『ドイツ百科叢書』も、こうした啓蒙のメディアの中の一つの大きな柱であったことは、言うまでもない。ただここで言われている「すべての人々」というのは、当時の実態としては、庶民を含めた国民全体を指すものではなく、少数のエリート層つまり様々な職業の有識者であったことに、注意しなければならない。そのことは当時刊行されていたこの種の個々の雑誌の発行部数が3千部程度であったことからも理解されよう。ちなみに当時のドイツの総人口は、ざっと2千万人であった。

『ドイツ百科叢書』の発行計画

本書評誌がどのようなものであるべきか、という点については、創刊号の冒頭に掲載された序文の中に、編集者であったニコライ自身の筆で詳しく書かれている。そこで次にこの創刊号の序文を紹介しることにしよう。

序 文

ここにドイツ人の読者に、『ドイツ百科叢書』の第一号をお届けします。これは年に4回、ほぼ同じ厚さの本として発行されます。2号で1巻となりますが、各巻には有名なドイツの著作家の肖像画が添えられます。
この第一号には、編集者の意図するところでは、1764年に発行された最新の著作物に関して、一般的な情報が盛り込まれるはずです。つまりここでは、ドイツで新たに発行されたすべての書物や関連した出来事について、情報を提供しようというわけです。いくつかの重要な著作物、とりわけドイツのオリジナル作品は詳しく書評されることになりますが、その書評を通じて読者は、その作品の全体像について、正しい概念を得ることができるでしょう。重要度が低い著作物や翻訳ものは、短い評価が添えられます。学位論文、個々の説教書、その他の小冊子については、掲載しません。
この計画の気宇広大さのゆえに、その完全な遂行の前に立ちはだかっている幾多の困難につきましては、あらかじめ予想しています。だからと言って編集者は、この事業から決してしり込みする者ではありません。これらの著作物はドイツの数多くの都市に、場合によっては書店が一軒もないような都市に、散在しているのです。したがって新刊本の存在やその価値について、信頼すべき情報が得られることは、読者にとって大変有益なことに違いないと思います。・・・
この目的を達成するためには、編集者は労力も費用も惜しむものではありません。まさにそのためにこそ、この定期刊行物に協力してくれる優秀な人材を探し求めてきたのです。・・・その結果かなりの数の学識者のみならず、その作品があまねく知られているような人までも、この仕事に協力を表明してくださったのです。とはいえあらゆる学問領域の書評に対して、本格的な協力者を満足のいく形で集められたわけではありません。・・・
私たちの計画の規模の大きさと起こりうる様々な困難とを認識されている諸兄は、直面しているいろいろな課題を一度に達成できないとしても、大目に見ていただけることと願っています。例えばこの第一号では、法学に関する書評がありませんが、それは今後の号で取り戻せるはずです。・・・・
最後になりますが、読者諸兄の協力と賛同の気持ちだけが、もっぱら読者のために捧げれれている一つの事業の存続を保証してくれるのです。そのために私どもは、読者諸兄からそうした賛同を得るべく、なお一層尽力していく所存です。

ベルリン、1765年4月20日」

編集方針と編集上の苦労

ニコライは1765年4月の創刊号を出してからも、その協力者たちとたえず連絡を取り、彼らに再三再四手紙や回状を送っていた。そうしたものの一つに、「『ドイツ百科叢書』への協力者各位」(1776年12月12日)がある。そこにはニコライの編集方針が極めて具体的に書き連ねてあり、さらに批評の対象となる書物の入手方法から原稿送付の仕方を経て、郵便料金の精算の仕方まで48項目にわたって、実際的な指示が記されている。その中から重要と思われるものを選んで、次に紹介することにする。これを読むと、18世紀後半のドイツにおける書籍雑誌の出版実務に関連したもろもろの事柄や、雑誌編集の様々な苦労が手に取るようにわかって興味深い。

『ドイツ百科叢書』への協力者各位

「『ドイツ百科叢書』の執筆者全員にあてられた備忘録」
~もっぱらこの事業の外面的処置について~

1 幾多の協力者が迅速にして誠実にその書評原稿をお送りくださっていることには深甚なる感謝をささげるものですが、・・・多くの協力者の原稿の遅れが本誌の発行に次のような害悪を及ぼしていることにも、注意を喚起したいと思います。つまりそれによって多くの書物の紹介が著しく遅れ、読者の不興を買うこと、原稿不足によって、ある号の発行が行えなくなること、そしてそれによって書評誌全体が不完全なものになることです。
しばしば繰り返し督促状を送っても、効果がない場合も多いのです。これは全く割に合わない仕事ですが、この仕事をこれまでなさってくださったのは、一人の尊敬すべき学識者です。この学者としても一流の人が、この仕事のためにいかに多くの時間を費やしているかという事、そしてその時間をもっと有益な仕事に振り向けることもできたという事を、期限を守らない協力者の方々は、とくとお考え下さいますよう。

2 幾多の協力者の方々は安請け合いし、いくつもの分野を引き受ける方もおられます。ところが原稿は送ってこないのです。いったん引き受けると約束した人には、(書評対象の)本を送ってしまいますので、別の人に頼むわけにいきません。
原稿の到着をを待つ側の心配や、督促その他にかかる費用のことも考えてください。

4 受け取りました原稿が、直ちに次の号に掲載されないこともあります。私としましては、常に2~3号分の原稿の在庫がほしいのです。さもないと印刷所との関係で、本誌を切れ目なく定期的に発行していくことが困難になります。

7 一般に質の高い本は少なく、質の悪い本が多いものです。ですから内容の良くない本を引き受けたからといって、別の本に乗り換えるのは無理です。そういう場合には、短評で済ましてくださって結構です。

9 私としましては書評の分量については、特に基準を設けません。とはいえざっと見積もって、一つの書評は16頁以内でお願いします。特に重要な本の場合は、その限りではありませんが。

12 ・・・たいていの読者が求めているのは、その本の全体的で忠実な紹介だと思われます。と同時に単なるダイジェストではなく、的確な評価をつけることも必要です。

14 似たような内容の数冊の本を、一つの書評として取り上げることも、有益でしょう。それによってページ数の節約が図られますし、また読者の方も似たような本を互いに比較することができるからです。

16 長い表題(半ページから一ページに及ぶ)は短くさせていただきます。書評のはじめに記すべき項目は、著者の氏名、身分・職業、印刷地、出版業者、判型、出版年、ページ数としてください。

18 多くの書評には、原著者の書いていることと、評者の書いたこととの区別がはっきりしないものがあります。原著者の言葉を引用する時は、引用符をつけて区別してください。

22 書評原稿はきれいな字で書くか、もしくは清書してからお送りください。それによって多くの誤植が避けられます。ゴタゴタした手書き原稿は、植字工にとっても校正係にとっても、大変面倒なものです。

31 私宛に原稿の小包を送られる場合には、印刷物と上書きして、郵便馬車がとまる場所に出してください。さもないと手紙用の料金を請求されますから。

35 書評用に受け取られた本は、書評原稿と一緒に受取人払いで、私宛に郵便馬車で送り返してください。あるいはライプツィヒ見本市の会場で返してくださっても結構です。また別に日時を取り決めて、返してくださっても結構です。

36 返送用の書物は、包装用布とわらで包んでくださいますよう。また内側に包む紙は、色刷りですと本が汚れてしまいます。

ベルリン、1776年12月12日  フリードリヒ・ニコライ 」

編集発行の実務と刊行の経過

以上みてきた書評者各位への回状によって、この事業を恒常的に続けていくことの困難さについて、ご理解いただけたかと思う。みずから無類の勤勉な人間であったニコライは、書評を依頼された人の中に、怠惰であったり、いい加減であったりという人が含まれていることについて、当初はかなり過小評価していたようだ。皆、自分と同じように勤勉に仕事をしてくれるものと、期待しすぎたようである。

それでもニコライは持ち前の粘り強さで、この大事業をやり遂げたのであるが、多忙なニコライは編集助手として、F・G・リュトケ牧師の助けを得ていた。この人物はベルリンのニコライ教会の牧師であったが、書評原稿の整理やそれに伴う様々な事務的な仕事を引き受けていた。さらにニコライの長男ザムエルも、不定期ではあったが、この雑誌の編集の仕事を手伝っていた。一方印刷の方は、たいていはヴィッテンベルクにおいて、ニコライのもぅ一人の友人で歴史家のJ・M・シュレックの監督のもとに行われていた。

次に刊行の経過についてみると、当初は季刊雑誌として年4回発行というペースで始まったが、新刊書の発行ラッシュという状況の中で、雑誌創刊4年後には早くも6回発行ということになった。何しろ新刊書の年間発行点数は、1763年に1360点であったものが、1805年には4181点に増大しているのだ。1770年発行の第11巻第1号では181点の書物が書評されているが、年間6号の発行として、ざっと一年に1100点も書評されているわけである。大変な努力といわねばなるまい。そして新刊書発行の圧力に押されて、その後は年に、7号、8号、10号、12号、13号、14号と増え続け、ついに1791年には17号にまで達している。そのピークには月刊誌以上のペースだったといえる。さらに1771年以降は、ほぼ5年おきに補巻が発行されているのだ。

このように本誌は順調に発展していったのであるが、1786年にフリードリヒ大王が死去し、フリードリヒ・ヴィルヘルム二世(在位1786~1797)がその後継者になるに及んで、変調をきたすことになった。この人物は性格的に弱く、神秘主義に傾倒していたため、側室たちやお気に入りの取り巻きが政治を牛耳ることになった。そして次第に反動的な風潮が強まり、出版物への検閲の強化という事態のもとに、この雑誌も何度か発行停止の危険に見舞われた。そしてついに1792年からは、その発行を北ドイツのキール在住の出版者K・E・ボーンに任せることになった。それは手元のバックナンバーによれば、第107巻からである。これ以後本書評誌は『新ドイツ百科叢書』と称するようになったが、編集自体はニコライが依然として引き受けていた。そのため内容の点では継続性が保たれたわけだが、その後状況が好転して、1800年からは再びニコライ出版社が引き取り、1805年の最終巻まで自ら発行を続けたのであった。

啓蒙の仲介者としてのニコライの功績

『ドイツ百科叢書』は、この時代の知のあらゆる領域についての紹介と報告によって、特徴づけられていた。この中で書評の対象として取り上げられた書物は、神学、法学、医学、文学、哲学・教育学、文献学、理学・博物学、歴史学・地理学、美術、家政学、音楽など広範な分野にわたっていた。

そこで注目されるのは、とりわけ初期のころに神学書が多い事である。啓蒙主義者のニコライが目指したものは、何よりも宗教支配の打破という事であたから、キリスト教を学問的に批判する立場から、神学書が書評の対象として大きく取り上げられたものと思われる。これに関連してニコライ研究者のジヒェルシュミットは、次のように書いている。
「もちろん道徳家のニコライは、そのライフワークの発行に倫理的な意図も結び付けていた。ハイネは『ドイツ百科叢書』を、ニコライ及びその仲間が、迷信家、イエズス会士、宮廷の取り巻き連中などと闘った雑誌と呼んでいる。・・・ニコライはこの雑誌の中で、とりわけカトリック正統主義と敬虔主義とに対して、断固たる闘いを行った。そのため60年代、70年代においては、神学の著作物が彼の関心の中心を占めていた。自由な合理主義宗教に関する事柄を社会の中で代表するためだけにも、ニコライは編集という重労働を引き受けたのである」

ここで取り上げられているハイネは、わが国では一般に抒情的な詩人として知られているが、実は少年時代にフランス革命の思想的洗礼を受けた戦闘的な文学者で、のちにパリに亡命したコスモポリタンだったのだ。

それはともかく、ニコライは先に挙げた様々な知の分野に対して、書評者の手持ちがあった。そしてそうした400人を超す学識者たちは、広大なドイツ帝国のあらゆる地域に散在して住んでいたのだが、彼らは一部を除いて、最後までニコライのこの啓蒙的な偉業を支援し続けたのであった。

それはまさに壮大な「知のネットワーク」であったといえようが、このネットワークをニコライはどのようにして築き上げていったのであろうか。「一年のうち4か月は、自分のスタンドがある(ライプツィヒ)書籍見本市や北ドイツの歳の市を訪ね歩いていた」ほど旅行好きなニコライであったから、こうした旅行のたびにドイツ各地に住んでいた友人たちを直接訪ねたこともあったろう。あるいは筆まめなニコライは、手紙のやり取りを通じて、絆を強めていたものとも考えられる。これに関連してドイツ書籍史の専門家ゴルトフリードリヒは、「彼の冷静な性格並びに時代と人間とを巧みに利用した、確実で断固とした組織力」という指摘を行っている。

ニコライは、その40年にわたる書評誌の編集発行の仕事を終えるにあたって、その最終巻の前書きの中で、自分の仕事について次のように自負している。「ドイツ百科叢書によって、無関心や無関心からくる無知から読者が本当に目覚めたとするならば、それこそ私が目指したものなのです。・・・自分は真実と無党派性と有用な知識の普及を求めてきたのだという気持ちこそが、私に力を与えてくれたのです。・・・」
そして彼はそうした人々の意識の変革に、自分は貢献したのだという正当な思いのうちに、その回顧を次のように締めくくっている。「私はこの仕事に対して朗らかな勇気をもって、私の人生の最大にして最善の部分を捧げてきたのです。・・・私はこれまでの人生を、決して無駄に生きてきた、とは思っていません。なぜならわが同胞の最善の人々は、次のことを知っているからです。つまりこの仕事は、ドイツにおける学問知識の進歩発展の途上にあって、異端迫害者、盲目的信仰、書きなぐり、細事拘泥、知ったかぶりの不遜などの減少のために、そしてその反対に理性的自由と人間的で分別のある文化の増大のために、良い影響を与えてきたという事を。」

本書評誌に対する同時代の反応

ベルリン啓蒙主義の機関誌ともいうべき『ベルリン月報』の編集者であったJ・E・ビースターは、ニコライに対する追悼文の中で、この書評誌の功績を次のように称えている。
「われらが祖国ドイツに関する、このように大規模で、あらゆる地域に大きな影響を及ぼした作品は、よその国には全く見られないものである。今初めてドイツは、文献(著作物という意味)の面で、いったい何が起きているのかという事を、知ったわけである。ドイツはそのことを知り、それによって互いにより緊密に結ばれるようになった。その任務は決して小さくはなかったし、また当時全く新しいものでもあった。その任務とは、百マイルも離れた所で印刷された一冊の書物に、ドイツ全土に住んでいる著名人を結び付けることであった。・・・またそれは、それぞれの地域の学問の現状に関する情報を集めることでもあったのだ。」

ニコライの同志であったビースターは、まだ統一国家のなかったドイツにあって、本誌が文化・思想面で、全ドイツ共通の基盤を作り上げるのに貢献するものだという事を、強調しているわけである。

その一方、伝統的・保守的な立場の人々の目には、『ドイツ百科叢書』は一方的な判断によって、刊行されるすべての書物をいわば独裁的に裁定していく巨大な「批評機関」であると、映っていたようだ。そのためそうした敵陣営からは、ニコライに向けてあらゆる種類の誹謗中傷、侮辱が加えられたという。とりわけこれらは啓蒙専制君主フリードリヒ大王の死後に起きた、潮流の変化の中で行われた。そうした時代背景について、ジヒェルシュミットは次のように書いている。

「ニコライがその考えを妨害されずに広めることができたのは、とりわけフリードリヒ大王時代のリベラルな雰囲気のおかげであった。・・・国王に対するニコライの尊敬の念は、王の死に至るまで続いた。・・・実際どれだけ大きな恩恵をこの国王に負っていたかという事を、国王の死後まもなく彼の雑誌がその敵たちによって厳しく弾圧されたとき、ニコライは感じたのであった。人々はニコライ及びその仲間たちを、反逆者、国王の敵、ジャコバン派の手先などと非難した。フランス革命の恐ろしい有様を伝え聞いた人々の耳には、そうした非難は受け入れやすくなっていた。かつてのニコライの友であり、『ドイツ百科叢書』の協力者でもあった国務大臣ヴェルナーも、背教者の不誠実を地で行くように、この雑誌を迫害した。雑誌は1794年4月17日の閣議決定で、プロイセン地域において発禁処分となった。」

実際の話、大王在世中の1775年には、国王勅令によって招集された枢密院の決議によって、『ドイツ百科叢書』は有益な作品である、と宣言されたことを考える時、時代の変化という事を思わざるを得ない。本書評誌が発刊されていた1765年から1805年までの40年間は、極めて変化の激しい時代であった。その最初の20年間にはプロイセン王国の興隆がみられ、同書評誌は『ベルリン月報』とともに、ベルリンをドイツ啓蒙主義の中心にした。そして1770年代末から1780年代初めにかけて、その最盛期をむかえたのである。このことはその発行部数が最大になったことにも現れている。そしてこの時期本書評誌の編集発行人は、ドイツの「学識者共和国」においても、また故郷の町ベルリンにおいても、最も影響力の大きな人物であったのだ。

しかしその後ドイツには、疾風怒濤、古典主義、ロマン主義、観念論など新しい思想や文芸の潮流が相次いで起こり、次第に啓蒙主義は新しい世代から見捨てられるようになっていった。かつて『ドイツ百科叢書』は思想と知識のフォーラムとして、ドイツ啓蒙主義のために統合的な役割を果たした。しかし1780年代後半以降、その影響力は色あせるようになっていった。それは特に神学の分野においてその使命を達成してしまったからだともいえる。本書評誌は長い間、世俗世界における教会の支配と闘い、宗教的寛容を生まずたゆまず訴え続けてきた。しかしその要請がようやく達成されたとき、啓蒙主義はとりわけ若い世代にとって魅力を失ったわけである。

とはいえニコライが1805年に『ドイツ百科叢書』の廃刊を告げた時、ハンブルクのある新聞は、40年にわたる彼の苦労をねぎらって、その功績を次のように称えたのであった。
「40年間続いてきた『ドイツ百科叢書』が今年で 廃刊となる。ドイツの最も重要な学識者たちによって支持されてきた、あらゆる観点から言って極めて重要なこの雑誌は、1765年の創刊以来、啓蒙主義の普及とドイツにおけるあらゆる文化・学問の振興に、計り知れない影響を及ぼしてきた。この雑誌を創刊し編集発行してきた人物は、苦労の多い仕事を倦まずたゆまず勤勉にこなし、その人生の最良の歳月を捧げてきた。そしてそれによって自ら未来に対して不滅の記念碑を築いたのである。」

本書評誌に対する後世の評価

本誌への後世の評価はいろいろあるが、全体としてドイツ啓蒙主義を代表する機関誌として、高い評価が与えられている。その中で主なものをいくつか選んで、次に紹介しよう。
まず19世紀ドイツの歴史家のF・C・シュロッサーは、その『18世紀の歴史』の中で次のように述べている。「ニコライはフランスのディドローやダランベールに倣って、ドイツ流のやり方で、知のあらゆる領域にわたって、新しい啓蒙主義を広めようとしたのである。」
次いで現代ドイツの歴史家で、ニコライ研究家でもあるH・メラーは、ニコライの業績に対して厳正な態度で臨み、批判すべき点は批判しているが、全体として彼を高く評価している一人である。彼はその分厚い研究書の中で、次のように書いている。「『ドイツ百科叢書』は紛れもなく、その多面性、書評者の精神的性向、その情報の規模と質の点で、フランス啓蒙主義の<百科全書>に対抗せんとするものであった。同書評誌は、ニコライやその多くの協力者の考えでは、ドイツにおいて「神学・哲学革命」を引き起こしたのである」
最後にニコライ研究者ジヒェルシュミットの言葉を紹介して、この項目を閉じることにしよう。{ニコライの広い視野は、いずれにしても当時のドイツ文学(学識全般)の狭い辺境的枠組み、つまり(教会の塔あら見渡せる程度の狭い範囲)を越えて注がれていた。ドイツの学識社会の近親交配に対して、彼が常に警告の声を発していたことは、ドイツ社会に対する彼の少なからぬ貢献であった。基本的に言って、彼の『ドイツ百科叢書』は、ドイツ人にとって、(当時欠けていた)精神的な首都の役割を、数十年年間にわたって果たしていたのだ。」

いずれにしてもニコライは、本書評誌の編集者であることを通じて、実践的啓蒙主義のオルガナイザー、宣伝家そして普及者として、ドイツにおいて唯一無二の地位を獲得したのである。

中欧見聞録(後編)

はじめに

「中欧見聞録」前編では、ポーランドのワルシャワ、クラクフ、ザコパネ及びハンガリーのデブレツェン、ホルトバジー、ブダペスト、ドナウベントなどを旅した記録をご紹介した。

今回の後編では、北イタリアのトリエステ、スロヴェニアの首都リュブリアーナおよびチェコスロヴァキアのブラティスラヴァ、プラハ、カルロヴィ・ヴァリについて、ご紹介することにする。

北イタリアのトリエステ

アドリア海北東部のトリエステ及びリュブリアーナ

8月21日: 5日間にわたるブダペスト滞在を終え、東駅からオーストリアのク ラーゲンフルトを経て、イタリア北東部のトリエステへ向かう。列車の都合でクラーゲンフルトに一泊した後、ユーロシティに乗り、オーストリア国境の町フィラッハからイタリアへと入る。途中列車はアルプスの折り重なる山並みの間の狭い土地を縫うようにして南下していく。時に道路と並行し、時に清流を横切り、また短いトンネルを十数回にわたってくぐりながら、列車は次第に下降していく。左手には切り立った峨峨たる山頂も見えたが、やがてアルプスを最終的に潜り抜けたかと思うと、もうそこは北イタリアの平野であった。

ウディネで列車をローカル線に乗り換え、ようやく目的地のトリエステに到着した。ここはアドリア海の北岸に面し、ユーゴのスロヴェニア共和国との国境の町である。ここを訪れた目的は、トリエステがかつてオーストリア・ハンガリー帝国の海への玄関口だったので、現在どの程度その痕跡が残っているものか、知りたいことにあった。

午後4時近く中央駅に降り立つと、強烈な日差しが照り付け、朝方セーターが必要だったクラーゲンフルトとは大違い。ベルリンの旅行社で予約したホテルの名前を告げてタクシーに乗り込んだが、着いた所は駅から西へ20キロも離れたドゥイノという海べりの小さな町のホテルであった。駅で100マルクを両替えして74,000リラを受け取ったが、タクシー代に37,000リラ(50マルク)、そして薄っぺらな市街地図に8,000リラ(9.3マルク)取られ、イタリアの物価高にびっくりする。おまけにトリエステ見物に不便極まりない所へ連れていかれ、一時は途方に暮れたが、結局二泊の予定を一泊にちじめ、トリエステ見物は翌日の午前中だけにする。そして一時はあきらめていたスロヴェニア共和国の首都リュブリアーナへ、午後から行くことに決心する。

8月23日: トリエステは数時間かけて、海を一望のもとに望む丘の上の城や港の周辺一帯を見て回った。しかしそこにはハプスブルク時代の面影を残すものは、これといって何一つなかった。しかし『中欧の復活』にも書かれている通り、ウィーン風カフェーハウスの老舗「サンマルコ」の再開、トリエステとリュブリアーナを結ぶ運河を建設するプロジェクト、アルペン・アドリア同盟など、最近ではイタリアも中欧諸国との結びつきを強めつつあるので、今後の成り行きではこのトリエステの町がどのような役割を果たすことになるのか、興味深いところではある。またこの港がアドリア海を通って、ユーゴのクロアチア共和国の海岸諸地域とも結ばれていることを、港周辺の散歩で確認した。その意味でイタリアは今後、オーストリアやドイツと協力して、スロヴェニアやクロアチアの西側への組み込みに積極的な姿勢を示すことが予想される。

そのスロヴェニアの首都リュブリアーナ行きを決心させたのは、ドゥイノのモーテルのフロントの女性だった。幸いこの女性はドイツ語を話し、いろいろ親切に教えてくれたので、ついでにスロヴェニア情勢について尋ねたところ、もう戦争は終わり、今では平和なので旅行は問題ない、との返事が戻ってきた。こうして午後1時40分の列車でトリエステ中央駅を出発して、リュブリアーナへ向かう。

スロヴェニアの首都リュブリアーナ

列車はアドリア海の真夏の太陽が照り付けるトリエステから、次第にカルスト台地の石灰岩がごろごろしている山地へと入り、やがてかなり広々とした盆地につく。そこにリュブリアーナがあったのだが、わずか3時間の行程であった。しかし気候風土はアドリア海岸一帯とはまるで違い、もうそこはアルプスの国なのだ。現にこの国では「アルプスの南側にある国」として、バルカンのセルビアその他と違って、中欧に属することを売り込んでいるのだ。

スロヴェニアは1991年6月末から7月初めにかけて、セルビア軍と戦ったが、この戦争は幸い短期間で終わり、戦火は隣のクロアチアに移ったわけである。リュブリアーナの町を散歩中、本屋のショーウインドーで、『スロヴェニアを巡る戦争、1991年6月26日~7月8日』という写真入りのドキュメントを見かけた。本屋に入り、この本をぱらぱらめくってみたが、分厚い立派な体裁の書物で、戦況その他が詳しく叙述されていた。スロヴェニア語、独語、英語の3種類が出ていたが、独立を宣言したスロヴェニアがそのことを、ヨーロッパや世界に向けてアピールした本なのである。

さて時間は前後するが、中央駅で降りてから案内書に書いてあった代表的なホテルの中で一番駅に近いコンパス・ホテルに入り、空き室を訪ねたところ、一人部屋が簡単に取れた。普段ならドイツ,オーストリアをはじめ、西ヨーロッパ諸国から大量に観光客が押し寄せる時期なのだが、戦争の終了を知らないために、ぐっと減っているのだ。

ホテルで一休みしてから、夕暮れのリュブリアーナの町へ散歩に出る。街並みは一見してオーストリアの町とそっくりであることに気づく。市域は狭いので、見てまわるのに時間がかからない。オペラハウス、博物館、美術館が集まっている地区を歩いてから、旧市街との境をなす川のほとりに着く。すでに日はとっぷりと暮れて、旧市街の中心を占める丘の上にある城の時計台が照明されて、美しく浮かび上がって見える。そして川辺のレストランは、夏の宵を楽しむ人々で賑わっている。私もそうしたレストランの野外テラスで食事をとる。

たっぷり飲み食いし酔い心地の中で、請求書を見てその安さにびっくりする。イタリアの物価高に逃げ出してきたばかりのことでもあり、なおさらのことであったのだ。ちなみにユーゴでは近年ものすごいインフレで、桁数のやたらと多い紙幣を発行してきたが、少し前にデノミを実施して、桁数の少ない新紙幣に切り替えた。しかし古い紙幣もまだ出回っている。

現に私もホテルでマルクをユーゴ通貨のディナールに交換したが、新旧の紙幣を混ぜて渡されたので、一瞬頭が混乱した。その時の説明では、桁数の多い紙幣例えば
100,000ディナールは、0を4つ取って10ディナールに読み替えよ、というのであった。その後スロヴェニアでは独自の通貨を発行したと伝えられているが、新旧のディナール札はどうなったのであろうか。

スロヴェニア、オーストリア、チェコ・スロヴァキアあたりの地図

チェコスロヴァキアのブラティスラヴァ

僅か一泊とはいえ大変印象深かったリュブリアーナ滞在を終え、昼過ぎに出発して、こんどは南から北へとオーストリアのウィーンに向かう。途中、マリボルやグラーツを経由しての路線だが、クラーゲンフルト~フィラハ~ウディーネの路線ほど険しい山中を走るというものではなかった。地図を見ると、マリボル辺りでアルプスの東端が終わって、ハンガリーに続く平原が始まろうとしている。列車はオーストリア東部を北上して、6時間半かかってウィーンに到着した。この町には二泊したが、ここでの体験は省略して、チェコスロヴァキアのブラティスラヴァへと進むことにする。

8月26日:このスロヴァキアの大都会はドナウ川に面した町なので、ウィーンからドナウ汽船を利用することにした。午前8時45分高速の遊覧船は大きな橋の傍らの発着所を出発し、ドナウ川を東へと向かう。もうこの辺りは平地で、両岸は緑の生い茂る所ばかりで少々退屈したが、わずか1時間でブラスティラヴァに到着した。船着き場の建物の中で旅券の検査。ビザは必要だったが、通貨の強制交換制度はなくなったと見えて、何の指示もなかった。しかしチェコの通貨コルナは必要なので、5日分としてとりあえず200マルクを交換する。

1981年にプラハを訪れた時に比べて係の人の態度が柔らかく、愛想がよくなっている。直ちにタクシーをつかまえて、予約しておいたホテル・フォーラムへ向かった。そこは旧市街の北の端に位置し、ブラスティラヴァで最高級のホテル。ひときわ目立つ所に建っている。一泊87ドル=148マルクとさすがに高いが、設備はよい。

一休みしてから旧市街見物に出かける。今まで幾つとなく見てきた旧市街と比べると、格段に見劣りする。泊まったホテルの豪華さと釣り合いが、取れていない。かつては素晴らしかったと思われる古い建物が老朽化して薄汚れ、観光用に目玉となるいくつかの記念建造物を除いては、ひどい状態にある。各所で工事中の足場が組まれ、空き家や崩れかかった家もある。案内書に書かれているような「落ち着いた雰囲気」どころではなく、はなはだすさんだ感じだ。

次いで旧市街の端にある丘の上の城へ登ってみる。この城も修築中で、中に入れない。長く放置されたままになってきた旧市街の由緒ある建物や城など、今ようやく改修工事に手が付けられたといったところだ。ただ丘の上からの眺望だけは文句なしに素晴らしい。ドナウ川の向こうには高層の住宅団地がたくさん立ち並び、市街地のかなたには工場の煙突群が林立しているのが見える。ハンガリーのエステルゴムの大聖堂横から対岸のスロヴァキアを眺めた時も、工場施設が目に付いた。しかも両者ともかなり旧式な重工業施設のようである。ここはチェコではなくて、スロヴァキアなのだ。最近になってチェコ(プラハ)の中央政府に対するスロヴァキア側の不平不満の声が時に報道されているが、この辺りの実情を見た者には、こうした不満の声(分離独立ないし大幅な自治の要求)もよく理解できる。

8月27日:翌日ホテルでの朝食時、日本人のビジネスマンと同席し、いろいろ話す。日本企業のドイツ支社に勤務していて、東欧諸国へは仕事で出張するとのこと。この日も朝9時からドナウ川の船上で、ビジネスの会合があるとのこと。チェコスロヴァキアへの日本企業の参入は、これからのようだ。

この人と別れて、朝食後大急ぎでタクシーに乗り、ブラスティラヴァの中央駅に駆けつける。ちょうど朝のラッシュ時に当たり、駅構内は大混乱。中央駅といっても、小さく粗末な建物で、しかも工事中のためここも荒れていて、終戦後の上野駅といった感じだ。

チェコのプラハ

午前9時過ぎ列車は西へ400キロ離れたプラハへ向け発車。この日は朝からどんより曇っていて、憂鬱な気分。車窓の景色もハンガリーに比べると、やや自然が荒れた感じだ。この区間は特に工業地帯はないらしいが、建物が老朽化した印象をあたえる。ようやくのことで3時過ぎに列車はプラハ本駅に到着した。

空腹を感じたので構内レストランへ入る。室内は堂々たるホールで、柱にはユーゲントシュティル風の女性像が描かれているが、テーブルや椅子などの調度品が粗末きわまわりなく、安食堂の感じだ。かつては豪華だったホールを、大衆用の食堂として長年使ってきたのであろう。もちろん党役員などはこんな所を利用しなかったであろう。後に述べるようにブルタバ(ドイツ語でモルダウ)河畔や旧市街の広場に立ち並ぶ優雅な建造物は、きちんとした改造が施され、以前にもまして光り輝いている。観光客が集まる所だから当然の措置であろうが、その他の建物は取り残されているのだ。さて駅の構内食堂では、粗末な身なりの人々が、ほとんどすべてビールの大ジョッキを傾けている。私もビールと簡単な肉料理を注文した。出てきたビールは、さすがピルゼンなど本場も近いだけあって、大変うまい。ただしナイフやフォークなどは、日本でも終戦直後には見られた安手のアルマイト製だった。

食後表に出てタクシーに乗り、予約したトランジット・ホテルへ行くように告げる。旅行社のリストには住所と1泊100マルク程度と書いてあるが、返事が届いていないので、とにかくホテルに行くよう指示されていたのだ。しかしホテルは本駅からかなり離れた郊外にあり、しかもホテルというよりは粗末きわまりない木賃宿といった所であった。だまされたように感じながらも、確かに予約だけは通じている。部屋には粗末なベッドと洗面台に壊れかかった衣装戸棚があるだけで、一泊の値段も朝食なしで1,700円とめちゃくちゃに安い。それだけに水回りの設備から、壁紙、ドアの取っ手に至るまで、粗末極まりない。ブラスティラヴァのホテルが最高級であっただけに、天国から地獄へ堕ちた思いがした。

プラハはもともとホテルが少ないところへ、改革以来トゥーリストが殺到して市内にホテルをとるのは難しいとは聞いていたが、その通りなのだ。つまりチェコの庶民が利用する宿屋を紹介されたというわけだ。しかし私にとっては、チェコスロヴァキアの庶民の生活水準の一端を知るうえで、大変貴重な経験ができた点、ありがたいと思っている。

さて宿にいても仕方がないので、教えてもらったバスと地下鉄を乗り継いで、30分ぐらいで都心部に出る。地下鉄の駅を上がると、ベルベット革命のときに大集会が開かれた目抜きのバーツラフ大通りへ出る。さすがにこの辺りは観光客でいっぱいだ。そこから古い石畳の道を幾つも通って、ブルタバ河畔に着く。そこには「5月1日橋」という名前の、川中島をはさんで架かった、とても趣のある優雅な橋があった。

斜め向かいの丘には王城が聳え、隣には有名なカレル橋が見える。橋を渡ってから、川に沿ってカレル橋まで歩いていく。あたりの川岸には、柳の木が並んでブルタバの川面にその姿を映していて、とてもロマンティックな景色だ。カレル橋に着くと、案内書の説明通りに、周囲の風景を描いた絵を自分で売っている人、土産物売り、あるいは橋の欄干に寝そべっている若者たちの姿が見え、その間を縫うようにして大勢の観光客が往来している。

橋の欄干には一定の間隔を置いて、それぞれ15の彫像が立っている。これは映画やテレビなどで幾度となく紹介されてきたプラハの代表的な風景なのだが、近づいてよく見ると、これらの彫像には鳩の糞やクモの巣が付いていて、かなりすすけた印象を与える。写真やフィルムに撮るときは、離れた所からシルエットにして浮かび上がらせれば、こうした汚れは隠されてしまうのだ。

ともかく夏も終わりの午後7時半、落日に映えるカレル橋とブルタバ川そしてその背後に控えた丘の上の城の眺めは、やはり一級品の名画だ。しかしブダペストのドナウ河畔の眺めが、スケールも大きく、あくまで華やかにきらきらと輝いているのに対して、ここプラハのブルタバ河畔は、もう少し抑制のきいた、渋くしっとりとした、いぶし銀の美しさといえよう。

8月28日:翌朝くだんの安宿の食堂に出向く。ここは朝食が別料金で、しかもバター、チーズ、ハム、ソーセージ、ジャム、卵、コーヒー、ジュースなどに、一つ一つ値段がついている。メニューに載ったこれらの品を全部注文しても、たいした値段にはならない。こうした節約した質素なやり方は、今回の旅行でももちろんこのプラハの安宿でしか経験していない。

二日目もバスと地下鉄を利用して旧市街に出て、昨日見なかった地域を中心に探索を続ける。そして夜になって旧市街の一角の大きなアーケードの中にあるLucerna
Bar を訪れる。Barといっても日本流の小さな店ではなくて、キャバレーかナイトクラブといった感じだ。ここで「ボヘミアン・ファンタジー」というディナーつきのショーを見る。もちろん外国人観光客用の催し物で、英・独・仏・伊・スペイン語を自由自在に操る男性が司会をして、ボヘミアの民族色を強く打ち出した歌や踊りを見せるものだ。ブダペストの初老のバスガイドの女性といい、ここプラハの男性司会者といい、小国には時として舌を巻くような語学の達人がいるものだ。

地下三階の大きなホールの平土間にテーブルが並び、食事をしながらショーを見る仕組みになっている。私が同席した相手はカナダ人の父子で、父親はカナダ西部のヴィクトリア近くに住む海洋学者で、北海道大学、東北大学、京都大学の同僚を訪ねるために、すでに何度も日本へ行ったことがあるという。偶然とはいえ、とても良い同席者を得たことと、チェコ産のシャンパンに快い酔いが回って、話に弾みがつく。

チェコ西部のカルロヴィ・ヴァリ

 

プラハ、カルロヴィヴァリ周辺

8月29日:翌日はチェコスロヴァキア最後の滞在地であるカルロヴィ・ヴァリ(ドイツ語ではKarlsbad カールスバート)へ向かう。ここは言うまでもなく西ボヘミア(チェコ西部)にある世界的に名の通った温泉保養地で、ゲーテ、シラー、ベートーベン、ゴーゴリ、ショパンなどが訪れ、またメッテルニヒ主導の反動的なカールスバート決議がなされた場所としても知られている。18世紀以来ハプスブルク帝国支配下の高級温泉保養地として、ヨーロッパ中の王侯貴族や有名人を集めてきたこの場所が、現在どうなっているのか知りたくて、カルロヴィ・ヴァリへ向かったわけである。

朝9時半、プラハのターミナルから出発したバスは、全席指定で、満席だった。バスはボヘミアのゆるやかな丘陵地帯を快調に飛ばし、二時間ほどで目的地に到着した。バスターミナルで市内バスに乗り換え、美しい森の中を通って目指すグランドホテル・プップにたどり着く。このホテルは当温泉でも歴史が古く、最高級のレベル。昨日のプラハの安宿とは雲泥の差だ。地獄から再び天国に昇った感がある。

5階の部屋に入り、窓から外を眺めると、眼下には清流が流れ、この川に沿って両側に色とりどりのファサードを持った建物がずっと並んでいる。川のそばには湯が出る所もあり、見たところ日本の山間の温泉街に地形的には似た点もある。しかし両側に立ち並ぶ優雅で堂々とした建造物などのため、全く違った雰囲気を醸し出している。それはかつて王侯貴族が訪れた時代をしのばせるもので、ここばかりはほとんどの建物が修復を終えていて、鮮やかな色彩を見せている。

天気が悪くやや肌寒い感じもするが、ホテルにいてもつまらないので、川に沿って町の方角へ降りるようにして散歩する。やがて案内書にもある湯元の建物に着く。ヨーロッパには温泉の湯を飲む治療法があるが、そうした飲料用の温泉がそれぞれ温度を変えて、5本ほど湧き出ている。これらは建物の中のホールのような所にあり、温度は50度から70度のものまである。近くで飲むためのコップを数種類売っていたが、私はその中から陶器製の花模様の取っ手付きのコップを買って、みなと同じように飲んでみる。これは周辺のカルロヴィ・ヴァリ山塊に源を持つ鉱泉で、飲用のほかにももちろん浴用にも用いられ、そのための立派なKurhaus(クーアハウス)もある。

こうしたクーアハウスは、以前ドイツ西部のBaden Baden(バーデン・バーデン)で十分堪能したことがあるので、今回は入らず、代わりに温水の水泳プールに入る。プールは坂道を上がった高台の上にあり、そこからは対岸の家々や眼下の川の流れがよく見える。カルロヴィ・ヴァリの主なホテルや施設、公園、クーアハウス、土産物店などは、たいていこの川の両側にある。

日暮れが近づき、再び川に沿ってゆっくりホテルに戻る。そして今回の中欧の旅の最後を飾る夜の食事は、グランドホテル・プップの豪華なレストランでとることにする。食事といいピルゼンのビールといい、申し分のないものであった。

食後は部屋に戻り、テレビのスイッチをつけると、ドイツ語の放送が2~3局みられる。そこで久しぶりにZDF(ドイツ第二テレビ)のニュース番組”Heute”を見る。ここはもうドイツとの国境も近く、チェコの中でも最もドイツ的な所であることを、改めて確認する。やはりKarlsbad(カールスバート)なのだ。ホテルをはじめ土産物屋からさまざまな施設に至るまで、たいていの所でドイツ語が通用した。

8月30日:カルロヴィ・ヴァリの最高級ホテルで二度にわたり食事をし、ゆったりとした温泉気分を満喫して、翌朝はすっきりした気分で、この温泉保養地をあとにすることができた。バスは再び低い丘がうち続くボヘミアの緑野を疾走して、プラハのターミナルに到着した。そこから地下鉄に乗り換えて、鉄道の本駅へ向かう。こうして三週間にわたるわが中欧の旅に終わりをつげ、列車はいよいよ隣国ドイツのドレスデンへ向けて発車した。

最後にチェコスロヴァキアについて、感想を一言述べるとすると、チェコ地域とスロヴァキア地域の間の大きな格差、並びに観光への重点的な力の投入と庶民の生活水準の予想外の低さ、ということになろうか。(完)

中欧見聞録(前編)

はじめに

1991年8月から9月にかけて2か月間、中欧諸都市とドイツを旅行した。このうち中欧領域の旅は3週間であったが、この地域とドイツ・オーストリア地域との関係が現在どうなているのかこの目で確かめてみたい、というのが旅の目的であった。かつて広い意味でのドイツ(ハプスブルクのオーストリアを含めての)の影響圏にあったこの中欧に対しては、加藤雅彦氏の『中欧の復活』などによって私自身強く啓発され、深い関心を寄せるようになった。

この中欧という概念は1989年の「東欧」の大崩壊以降、日本でも一般に紹介されるようになったが、まだわが国では定着していない。また「中欧」自体が復活したばかりであり、今後徐々に定着していくことが期待されるが、はげしく揺れ動く現在のヨーロッパ情勢の中では、いまだはっきりとした実体として把握することは困難である。

しかし長い目で見れば今後少しづつ「中欧」は固まってくるように思われる。つまり従来東へ向かわされていた「中欧」地域の姿勢は、今やかなり明白にロシア離れをして、西へ向かっていることは間違いなく、その際もっとも近いドイツ・オーストリア地域との関係が少しづつ深まってきている点も疑いを入れない。しかしそれはなお政府レベルないし「上」のレベルの動きであって、日常のレベルや文化面でどんなつながりが生じているのかは明らかではない。

こうした点を少しでも自分の目で確認してみたいというのが、前述した通り、私の今回の旅の目的であった。ただし僅か3週間という短い旅ではあり、以下の印象記も時間的。空間的に極めて限られた個人的な体験記に過ぎないことを、あらかじめお断りしておく。そしてその目的がどれほど達成されたかもよくわからないが、何かの参考にはなるのではないかと思い、できるだけ具体的に多少の感想を交えてつづった次第である。

「中欧見聞録」を掲載した『ドイツ研究』(日本ドイツ学会機関誌)第13号
1992年1月10日発行

旅を始める前に

今回私は加藤氏の助言などを受けて、中欧諸都市を鉄道で旅行したが、その範囲は『中欧の復活』(NHKブックス594)で述べられている小中欧に相当する地域にほぼ見合っている。同書によれば小中欧とは、旧ハプスブルク帝国の領域つまりオーストリア、ポーランド南部、ソ連ウクライナの一部、チェコスロヴァキア、ハンガリー、ルーマニアの北西部、イタリアの東北部を指すものとされている。

当初の計画ではこれらの地域に含まれる中心的都市を鉄道でくまなく回るつもりであった。しかし現在の政治情勢や各国鉄道事情、ホテル事情などの制約を受けて、三週間ていどでこれら地域をすべて回ることは不可能であることが明らかとなった。そのため今回はソ連ウクライナの一部、ルーマニア北西部そしてユーゴ北部のザグレブは割愛せざるを得なかった。

この結果私が実際に旅した諸都市は次のような所である。まずベルリンを出発点としてポーランドの首都ワルシャワに向かい、そこから本来の小中欧に属する地域へと移った。以下訪れた都市名と国名を時間的推移に従って列挙しよう。クラクフ(ポーランド南部)、ザコパネ(ポーランド南部)、デブレツェン(ハンガリー東部)、ブダペスト(ハンガリー西部)、クラーゲンフルト(オーストリア南部)、トリエステ(イタリア東北部)、リュブリャーナ(ユーゴスラヴィア北部)、ウイーン(オーストリア東部)、ブラティスラヴァ(チェコスロヴァキア東部)、プラハ(チェコスロヴァキア西部)、カルロビヴァリ(チェコスロヴァキア西部)。

今回の中欧旅行に先立ち、各都市のホテル予約をベルリンのAlexsanderplatz(アレキサンダー広場)にあるEuropaische  Reiseburo Gmbh(ヨーロッパ旅行社)に手紙で依頼した。ここは旧東独時代の国営旅行社で、旧東欧地域への旅行には最適と聞いていたのであるが、いつまでたっても返事が来ず、ベルリン在住の東京新聞特派員辻通男氏(学会員)を通じて調べてもらったところ、同旅行社では現在東欧地域のホテル斡旋はしていないという。やむなく辻氏を通じて、やはりベルリンにある別の旅行社に依頼して、ようやく予定目的地の大部分の宿泊所を予約してもらった次第である。

また通貨もドイツ・マルクを携帯して、それぞれの国で必要に応じて交換していった。実際に泊まった所は各国の一流ホテルが多く、こうした所や買い物に当たっても大きな店では、クレジット・カードが通用した。、また旧社会主義国に属するポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキアではなおビザが必要であったが、各国通貨への一定額の強制交換制度は、すでに撤廃されていた。さらに従来西ヨーロッパ地域でのみ通用していた鉄道のユーレイルパスが、近年になってハンガリー、そして1991年1月から旧東独地域にも適用されるようになったので、今回の旅行に当たっても、ハンガリー、オーストリア、イタリア、旧東独地域などに対しては、このユーレイルパスを活用した。

中部ヨーロッパ地域の地図(昭文社の世界地図帳、2013年2版)

ポーランド(ワルシャワ、クラクフ、ザコパネ

8月8日:さて前置きが長くなったが、わが中欧の旅はベルリン中央駅を出発点とした。かつて東ベルリンの OSTBAHNHOF(東駅)と呼ばれていたこの駅は、今や大ベルリンの  HAUPTBAHNHOF(中央駅)に衣替えして、東西ヨーロッパを結ぶ要衝の駅へと脱皮しつつある。しかし現状においてはなお首都の表玄関というには、その実体は淋しすぎる。ともあれ列車は北ドイツからポーランドへかけての大平原を一路東へ向かって進行。どこまで行っても平らな土地で、森と林と畑が延々と続き、時折小さな町が現れては消えていく単調な景観。しかも手入れの良く行き届いた西ドイツの美しい風景とは比べようもない、どこかうら淋しい景色だ。国境での40分ほどの停車時間のほか、途中思わぬ場所での徐行、停車があり、結局ベルリンからワルシャワまで9時間かかって、ようやく到着。

ワルシャワ中央駅のホームは地下にあり、下車した途端に大変な混雑に巻き込まれ、盗難の心配などで思わず緊張。構内の両替所で100DM=620,000ズオティ(ZT) を交換。この数字を見てもお分かりの通り、ポーランドは大変なインフレなのだ。しかしマルクから交換すれば、大変使いでがある。すぐに駅前のタクシーに乗り込んで、予約したGRAND  HOTEL に入る。都心部にある四つ星のホテルで、人々の目に付くフロントや諸設備は立派だが、全体として古くなっており、風呂場の水回りも古くさく、貧弱。それでも長旅の疲れをいやすべく、まずは風呂につかって汗を流す。

さっぱりしたところで5時過ぎ、ホテルを出て町を散歩。中央駅前にそそり立つスターリンの遺産として評判の悪い豪華けんらんたる「文化科学宮殿」の中のレストランに入る。メニューはポーランド語とロシア語で書かれていて、ウェイトレスとは何とか英語で話が通じた。ドイツ語はワルシャワではまだ通用していないようだ。しかし料理の方はグラーシュスープ、シャシュリック料理、チェコ産ビール、コーヒーで 82,000ZT つまり1,000円ほどで、かなり安いといえる。

8月9日:ワルシャワは二泊なので翌日は朝早くから一日中、旧市街を中心に見て回る。まずホテルから地図を頼りに旧市街へと向かったが、途中コペルニクスとヴィシンスキー枢機卿の立像が目に入る。旧市街の入り口のザムコピイ広場には、首都をクラクフからワルシャワへと移したジギスムント三世王の、塔のように高い記念像が立っている。普通、観光客が見て回る所は、ワルシャワ市全体から見ればごく一部の旧市街の一角が中心になっている。広場から一歩入ると右手にワルシャワで最も古いといわれる聖ヨハネ教会があり、中に入ってみる。教会に入る時ポーランドの人は素早く十字を切り、また中に入ってから中央祭壇に向かって片膝を地面につけて礼をする人が多い。また子供の一群も入ってきたが、皆しつけが良く、小さな女の子が膝を軽く折って十字を切る様子はなんとも愛らしい。さらに祭壇に向かって熱心に祈りを捧げている人もいた。カトリック国といわれるポーランドだけあって、教会にくる人々の姿勢が真剣なのには、心打たれれる。最近のドイツではあまり見かけない風景ではなかろか?

教会からさらに進むと旧市街の中心地MARKTPLATZ(市場の立つ広場)がある。その広場の一角にある歴史博物館に入り、第二次大戦時における ワルシャワ市への爆撃と戦後の復興の様子を描いたドキュメンタリーフィルムを見る。ワルシャワはナチスドイツ軍によってほぼ完全に破壊し尽くされたが、中世の面影を残す美しい旧市街の街並みを、戦後、市民が一致協力して汗水たらして再建した様子が同フィルムに描かれていて、心打たれる。旧西ドイツにも戦災で破壊された街並みを昔通りに復興した町は数多くあるが、ヨーロッパに共通する市民精神なのであろうか? またこのフィルムは事実を淡々とした調子で伝えていて、ドイツを非難するような感じは、そこにはなかった。

ワルシャワの旧市街は小高い丘の上にあり、やや離れた所にビスワ川の光った川面が見える。中世さながらの童話の国のような旧市街から坂道を降りていくと、そこはもう大型トラックがブンブン走り過ぎていく現実の大都会だ。川は増水していて茶色に濁り、今にもあふれんばかり。

しかしワルシャワの市内も、他のヨーロッパの都会と同様に緑は多く、公園もかなり数多くある。なかでも市の南方にあるワジェンキ公園は、18世紀後半にポーランド王によって作られたものと言われ、緑の小道が縦横に走り、横に細長い池ではボートでのんびり遊ぶ人の姿も見られる。かつての王侯貴族の離宮の庭が、今では市民の憩いの場になっているのだ。真夏のためか女性の着ているものが薄く、肉感的で着こなしも洒落ている。若い男女の生態は自由奔放の感がある。もちろん中央駅前広場の青空市では、独特の形をした開閉式の屋台が無数ともいえるほど立ち並び、むんむんとした生活の熱気にあふれる光景が展開されていたことも、付け加えておかねばなるまい。

8月10日:2日間のワルシャワ滞在が終わり、列車で南部の古都クラクフへ向かう。途中、平原から次第に低い丘陵地帯へと入り、周囲の景色が立体的に変化の富んだものへと変わっていく。この路線はポーランドでも幹線の一つで、座席の作り方はベルリン–ワルシャワ間より良いが、ドイツの二等車並み。3時間ほどで着いたクラクフの中央駅はワルシャワに比べればずっと小さく、駅前も雑然としていて、バスターミナルやタクシーの列、それに人々の雑踏などで、その周辺では、とても古都のたたずまいを感じることはできない。

ポーランド第三の都市だけあって、現在の市域はかなり広く、周囲には工業施設も見られる。ここでもやはり観光名所は全体のごく一部なのだ。そのため予約してもらったホテルは旧市街はおろか新市街からもかなり離れた郊外にあった。ホテル自体は最新式の設備で気持ち良いのだが、旧市街見物にはバスやタクシーを使わねばならない。

ホテルで一休みしてから、それでもバスに乗って旧市街へと向かう。やがてそこの中央にあるMARKTPLATZ(市場の立つ広場)にたどり着く。広場の真ん中に横に長い織物会館の建物があるが、広場自体は旧市街のものよりずっと広い。しかし周囲の建物はあまり装飾的なものはなく、全般に平凡といえる。また織物会館の一部に工事用の足場が付いていたり、反対側の角近くに木製の仮設舞台が組み立てられていたりして、案内書の記述とは違って、雑ぱくで、ほこりっぽいという第一印象を受けた。道路にも各所に水溜まりができたり、石畳が土に埋まっていたりで、ベルギーはブリュッセルのグランプラス(建物に囲まれた大きな広場)やブルージュの壮麗な広場に比べれば、ずっと見劣りする。

この町は戦災に会わなかったと聞くが、古い建物や施設の保守整備が立ち遅れているようだ。この点は首都ワルシャワの方がずっと進んでいる。さて織物会館の1階はアーケードになっていて、土産物屋が軒を連ねているが、並んでいる商品は全体として安っぽく、買う気になれない。広場の一角にあるマリア教会に入ると、折りしも結婚式の最中で、前方の席には司祭と新郎新婦のほかに関係者が陣取り、その後方には敬虔なカトリック信者らしい一般の人々や、筆者のような観光客が見物している。こうした風景はその後ハンガリーでも目撃したが、このような開かれた結婚式は格式張らないで、とても好ましく思えた。

8月11日:翌日はチェコ国境に近いポーランド人の休暇保養地ザコパネへの日帰り旅行をする。全般として広大な平原の国ポーランドにあって、ベスギデイサン山脈の麓一帯は夏なお涼しい避暑地なのだ。クラクフ駅前のバスタ-ミナルを出発し、周囲の工場地帯を抜けるとやがてあたりは田園地帯となり、ゆるやかな丘陵地帯を上がったり下がったり、景色はバイエルン南部やオーストリアに似てくる。ベルリンからワルシャワへ向かう時の平坦な土地柄とはずいぶん違う。ザコパネはポーランドで最も南に位置した高原の町で、背後には2000メートル級の山並みが見えている。

南ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンあたりに雰囲気が似ている。途中、別荘風の家々が点々としている。鉄道の駅前にあるバスターミナルで下車。折りしも列車が到着して、駅の出口からは人々がどっと吐き出されてくる。駅前からは広々とした並木道が四方八方に通じていて、いかにも高原の保養地といった感じ。少し町を歩くと外に開かれた形の教会堂で日曜の昼のミサが行われており、中に入り切れない人々が外で立ったままミサに参列していた。

そのまま歩いて見て回ろうとしたが、思い直して駅前に戻ると観光用の馬車がいたので、話しかけると御者のじいさんがドイツ語で返事をしてきたので、たちまち話はまとまり1時間かけて町を一周回ってもらうことにする。ちょうど日曜日のせいか子供連れの家族や若者のグループ、中年夫婦に老人たちといったふうに、様々な年齢層の人々が歩いている。昨今の軽井沢や清里のように若者たちに占領されているといったことは決してない。ポーランドはなお生活水準が低く、経済は低迷していると言われているが、人々の暮らしはのんびりしていて、生活を楽しんでいる様子がうかがえる。

8月12日:クラクフ三日目は夜行列車でハンガリーのデブレツェンへ向かうので、ホテルをチェックアウトした後中央駅に荷物を預けて、もう一日旧市街を見物する。まず旧市街入り口の外側に立つ大きな彫像が目にとまったが、その台座にGrunwaldという文字が見えた。案内書によればこれはドイツ語のTannenbergのことで、1410年ポーランド軍がドイツ騎士団を破った所として史上名高い地名だ。つまりこの彫像はこの戦いで戦功をあげた祖国の英雄というわけだ。

ついで小雨の降る中を旧市街の端の丘の上に立つWawel 城へと向かう。下から見上げる城郭はなかなか立派なもの。坂を上って城の構内に入ると、眼下にビスワ川が蛇行している風景が目に入る。城の前庭や中庭は大勢の観光客でいっぱいだが、ポーランド王が1683年ウィーン郊外のトルコ軍陣営から奪ってきたという天幕や略奪品を飾った宝物館ともなっている城の内部への扉は堅く閉まっていて、あかない。ヨーロッパでは博物館や城の内部を見学しようという時、よくこういう目にあうものだ。

やむなく旧市街に戻ったが、そこの一軒の祭礼用具専門店で、清楚な顔立ちのマリアの石膏像をみやげに買う。その店でローマ法王の顔が入った小旗が飛ぶように売れているので、理由を英語で尋ねたところ、若い女性が、明日法王ヨハネ・パウロ二世がやってくるからだと答えてくれた。中央広場に建てられた仮設舞台や数多くの鉄柵は、法王歓迎用のものだったのだ。ちなみに法王はこの町の近くの出身だし、クラクフのヤギェウォ大学を出ている。法王にはまた数日後にハンガリーですれ違うことになる。

僅か5日という短いポーランド滞在であったが、初めての訪問という事もあって筆者にとっては、新鮮で強烈な印象が残った。小中欧も北の端に位置し、かつてハプスブルク王朝下にあったクラクフではあるが、今日その跡を具体的に見つけ出すことは難しい。14世紀から300年にわたってポーランド王国の首都であり、18世紀末からオーストリア支配下に入ったとはいえ、1866年の普墺戦争でオーストリアが敗れてからは、生活のあらゆる分野においてポーランド化が認められた所であるから、それは当然のことであろう。

それよりはむしろつい最近社会主義を脱却したばかりのこの国で見た、人々の宗教との結びつきの方に深い感銘を受けた。日常生活における強い消費生活への欲求と伝統回帰の姿こそ、ポーランドをはじめ、のちに訪れるハンガリー、チェコスロヴァキアでも感じた最も強い筆者の印象であった。

ハンガリー(デブレツェン、ホルトバジー、ブダペスト、ドナウクニー)

8月13日: さてクラクフを夜行列車で出発した筆者は、スロヴァキア東部を通って翌朝ハンガリー東部の町デブレツェンに到着した。直ちに案内書に載っている、この町第一のホテル Aranybika (黄金の牛)に赴き、空き室を尋ねたところ、幸いにも空いた部屋があり、セセッション様式の優雅なホテルで三泊することができることとなった。ホテルに荷物を預けて早速市内見物に出かける。

まずホテルのすぐ近くにあるカルヴィニスト大教会へ。ドイツ語の説明書によれば、St.Andreas Kirche(聖アンドレアス教会) とあり、新教の教会と書かれている。萌黄色の外壁に二本の塔が聳え、落ち着いた重厚な感じを与える建物だ。教会前の広場には反ハプスブルク闘争の指導者コシュート(Kossuth  Lajos) の立像が立っている。1849年5月、ハプスブルク支配からの解放闘争の最中に、この教会の中でハンガリー議会が開かれたという。そしてここで独立宣言のテキストが起草され、コシュートによって読み上げられたという。教会内部は座席がタテの方向だけでなく両翼にもついており、これなら議会場としても使えたことが、十分納得できる。ポーランドでカトリック教会の装飾過多ともいえる、きらびやかな内装をいやというほど見せつけられた後だけに、この新教教会の純白の内装は、誠に清楚な感じを人に与える。もう一度1944年のソ連軍による解放の時の計2回、ハンガリーの臨時政府が置かれたことが案内書に書かれている。

教会を離れ、市電の通る大通りをどこまでも真っすぐ進んでいくと、やがて広大な市民の森にたどり着いた。ウイークデーだというのに、池でボートを漕ぐ者、ベンチでお喋りしたり散歩したりする者、そして近くのプールにやってくる者などさまざま。森の中にはドイツの Kurhaus のような建物も見られた。ハンガリーは16世紀の前半から150年間、オスマン・トルコの支配を受けたため、国中の各所にトルコ風の温泉やプールがあるのだ。

夜はホテルの裏手のナイトクラブを訪れる。2時間ほどバンドの演奏とミラーボールのきらめく光の中で、アルコールを傾けた後、12時ごろからショーが始まった。期待にたがわず素晴らしく可愛らしく、同時になかなか妖艶な女の子たちが、きびきびとまた雰囲気たっぷりに踊ってみせる。かなり官能的で、しかもくどくはない。おまけに料金が、おそらく東京やパリでは考えられないくらいに安いのだ。

8月14日:翌日ハンガリーの大平原 Puszta  の中心地ホルトバジー へと汽車に乗って向かう。駅から7,8分すると賑やかな所に出て、ドイツ語の表示からそこが観光の基地であることを知る。観光客も大勢おり、みやげ物屋も立ち並ぶ中で、「Pusztaを2時間、馬車で見て回りませんか?」というドイツ語の宣伝文句が目に入る。英語やフランス語はなくて、ドイツ語だけなのだ。その理由は明らかで、ここを訪れる観光客の中心が、ドイツ人かオーストリア人だからだ。他の観光客にならってドイツ語でこの遊覧馬車を申し込む。ただ馬車の乗り場はそこから2キロ離れた所にあるという。一瞬ずいぶん遠い所だと思ったが、他の観光客のほとんどはマイカーでそこまで飛ばしている。こちらはタクシーに乗るにもタクシーの姿は見えず、仕方なく田舎道を歩いて乗り場まで行く。

そこには大きな駐車場があり、観光客でごった返している。近くにはホテルや民宿も点々としている。午後2時、二十台ぐらいの馬車に皆が乗り始め、次々と出発していく。一台の馬車には20人ぐらい乗っている。ハンガリーの大平原は地域的にかなりの広がりをを持っているが、そこには現在なお羊・馬の放牧にしか使えない荒地 Puszta が、あちこちに点在している。そうしたものの一つが現在筆者がいるホルトバジーにあるのだ。疾走する馬を追う牧童、水飲み場で馬に水をやっている風景、羊のいる大きな小屋そして水牛の大群などを見ながら、馬車は荒地のデコボコ道をガタガタ揺れながら、進んでいく。その揺れ方はものすごく、身体が跳び上がらんばかりになることもある。御者のほかにガイドも馬車に乗っているが、使う言葉はもちろんドイツ語である。筆者の馬車にはフランス人の家族もいたが、父親はドイツ語ができるので、奥さんや子供たちに通訳していた。

やがて Puszta 観光のハイライトがやってくる。カウボーイならぬ馬追いの牧童が正装して現れ、観光客にいろいろサービスするのだ。あるいはスナップ写真の対象としてポーズをとったり、あるいは馬車の回りを20頭ばかりの馬を追って疾走して見せたり、はたまた馬を地面の上に横たえさせて、そのうえでバーン、バーンとピストルのような音をたてながら、鞭を振り回したりする。

こうして2時間足らずの馬車観光は終わり、こちらは2キロの田舎道を元の方向へと戻る。そこには博物館があり、この大草原での人々の昔からの暮らしぶりが展示されていて、興味深かった。ハンガリー語とドイツ語の説明がついていた。その博物館の向かいに Tscharda (チャルダ)と呼ばれる茶屋があり、そこの屋外テラスで一休みする。こうしたチャルダでは、日暮れともなればジプシー音楽の哀愁に満ちたメロディーが聞かれる所なのだ。

建物の壁には、ハンガリーの国民的詩人で1848/49年の革命の際に活躍したSandor  Petoefi  (サンドル・ペテフィ)の肖像がはめ込まれている。博物館で買ったドイツ語の説明付きの Puszta 写真集には、その詩人の美しい詩がドイツ語訳で掲載されていた。デブレツェンへ戻る車中でこの写真集を読んで過ごしたが、そこには Puszta の四季折々の自然の豊かさが描写されていた。そして「Pusztaは文明化した社会の真っただなかに浮かぶ陸の大きな孤島だ」とも書かれていた。

8月16日:ハンガリー東部の町デブレツェンで三日間過ごした後、列車で首都のブダペストへと向かう。この時からユーレイルパスを使い始めたのだが、デブレツェンの駅の窓口の女性はこのパスのことを知らず、しかもハンガリー語しか話せないので、仕方なく身振りとドイツ語を交えて日付とスタンプのことを説明して、むりやりスタンプを押してもらう。3時間足らずでブダペスト西駅へ到着。首都だけあってさすがに賑やかだ。駅の構内は極めて広く、奥行きが深い。また鉄枠とガラスでできた正面ファサードはなかなか洒落ている。

ただ駅前大通りは車が多く、大変な渋滞ぶり。この大通りはブダペスト目抜き通りの一つで、以前はレーニン通りと呼ばれていたものが、改革以来Erzsebet(エルゼベート)通りと変わっている。古い赤枠の道路表示の上に、黒枠で新しい通りの名前が書いてある。町の第一印象は、混沌とした活気と華やかさという事だ。夏のこととて道行く女性が肌をあらわにしており、大変肉感的な感じ。ミニスカートも多く、色とりどりにユニークで、しかも魅力的。着こなしの大胆さには、ついこちらの目も平静さを失いかねない。

午後1時ころ、先の大通りに面した Grand Hotel Royalに入り、一休みしてから町の見物に出る。ブダペストへは1984年にドイツから車で入ったことがあるが、その時と比べても町は格段に賑やかになっている。まずホテルを起点にペスト側の繁華街を、Erzebet通りからAndrassy通りへと曲がる。このAndrassyは19世紀ハンガリーの著名な政治家の名前で、彼はハンガリーの繁栄はオーストリアとの結合が良いと主張した現実主義者だという。

周知のとおりハンガリーは1867年にオーストリアとの間に、オーストリア=ハンガリー二重帝国を作り、以来かなりの独立性を獲得したのと同時に、オーストリアとも強い友好関係に立った。Andrassyはこの時代に活躍したしたわけだが、現在のブダペストの美しい街並みや建造物は、19世紀後半から世紀転換期にかけて作られたものと言う。さてブダペスト随一の美しいAndrassy通りに面した国立オペラ劇場は、ウィーンのStaatsoper(国立オペラ)に比べても遜色のない堂々たる建物で、1884年の建造だ。

またそこからほど遠からぬ所に立つセント・イシュトバーン大聖堂は工事中であったが、中に入ってみる。これもウィーンのStephans Dom(シュテファン大聖堂)に負けない壮麗な建築物で、やはり19世紀後半に建てられたという。この大聖堂の鐘は昨年ドイツからの寄付で新しく設置されたことが、写真入りで説明してある。また1989年夏から秋にかけて国外移住を希望する東独市民に通行許可を与えたハンガリー政府の措置が、最終的にドイツ統一へと結びついたことに感謝する旧西ドイツのコール首相の言葉もそこには掲示されていた。

大聖堂を出てからしばらく歩くとやがてドナウ川の川岸に着く。対岸にはブダの丘が聳え、右手には名高い鎖橋が見える。このあたりに来るとさすがに観光客であふれかえっている。鎖橋の所まで来ると、警官が立ちはだかって、そこから先は通行禁止だという。言葉が通じなかったのでよくわからなかったが、どうも法王の来訪に備えてのものらしい。このことは後に別の筋から確認された。

ドナウの川岸から一歩裏通りに入ると、歩行者天国もあり、一帯に華やかな商店やレストランが立ち並んでいる。ここもトゥーリストでいっぱいだ。さらに歩いて、やがて筆者の泊まっているホテルのあるErzsebet大通りへと戻る。そこで偶然以前から一度入ってみたいと思っていた有名な”Cafe-Restaurant Hungaria”を見つける。

ちょうど外装工事中で足場が組まれ、外側は混乱した印象を与えているが、一歩内部に入ると別世界。思っていた通りの華麗で重厚な室内装飾に満足して、中央の階段を下りて昔から”Tiefwasser”(水底)と呼ばれていたレストランにたどり着く。1894年に建てられ、当時は New York と呼んでいて、当時の著名人が大勢集まったという因縁のある店なのだ。食前酒にトカイワイン、次いでスープ、サラダ、コイのフライ、食後にコーヒーというコースで、ざっと三千円程度なのだから、割安といえよう。もちろん味の方も大満足であった。

また数年前西ドイツに住んでいた時、西ドイツのテレビ番組でこの”Hungaria”からの中継を放送していたのを思い出す。詳しい内容は忘れたが、西ドイツとハンガリーとの関係について、ドイツ側のインタビュアーがハンガリー市民にいろいろ尋ねていたことを覚えている。

8月17日:翌日はドナウベント一日トゥアーに参加する。ドナウベントとは日本の案内書に書いてある表記で、ハンガリー語では Dunaukanyar,ドイツ語ではDonauknieという。ベントは英語のBend(湾曲)のことなのだ。つまりブダペストの北方でドナウ川が東西から南北の方向へと大きく湾曲している一帯のことを指すわけだ。石灰岩の低い山々がドナウ川に迫る景勝の地でもあり、9~10世紀にハンガリー建国の舞台となった所だという。

ドナウ川が東西から南北方向へ曲がっているドナウベント周辺

さて朝の9時から夕方6時までの日帰り トゥアーのバスは、市内の有名ホテルから集まった外国人を乗せて、ブダペストの都心部から出発。ガイドは感じの良い初老のハンガリー女性だが、独語、英語、イタリア語が堪能で、同じことをこの三か国語でいちいち繰り返し説明してくれる。その手際の良さと内容の濃い話ぶりには、全く舌を巻くばかりだ。現在のハンガリーの社会情勢や政治情勢まで説明してくれたのだから。

バスはまずブダペストから20キロ離れたセンテンドレ(Szentendre)に到着。この町はドナウ川の岸辺から丘の中腹にかけて発達しており、坂道を上るとたちまち中世風の美しい街並みにぶつかる。ここは17世紀後半にオスマントルコによってバルカン半島から追われてきたセルビア人によって築かれた町で、小さな地域にセルビア正教の教会4,カトリック教会2,新教会1が立っている。風光明媚な土地柄に魅かれて集まってきたのか、この町は今では若き芸術家が大勢住む所となっている。

コヴァーチ・マルギット(Kovacs  Margit) 陶芸美術館に入ってみたが、宗教的題材のものも含めて、ヒューマンな暖かい眼差しで作られた作品が多かった。またこの町には華やかで女性好みの人形や刺繡、民族衣装を売っている土産物店も多く、家々の壁も含めて、全体としてカラーフルで色彩豊かな町だ。

次いでバスは60キロ離れたエステルゴム(Esztergom) の町に着く。ここでの見ものは何といってもハンガリー最大といわれる大聖堂(Basilika)だ。丘の上に高く聳えたち、その堂々たる姿は周囲を圧倒している。この大聖堂は初代ハンガリー王イシュトヴァーン一世の創建になるものと言われ、以後ハンガリー・キリスト教の総本山となっている所だ。

聞けば昨日ローマ法王がこの大聖堂を訪れた後、ヘリコプターでヴィシェグラードまで飛び、そこから船でブダペストへ向かったという。昨日ドナウ岸辺で見た交通規制は、法王来訪に備えてのものであったのだ。クラクフに次いで二度目の法王とのすれ違いだ。現在の大聖堂は1825年に建設が始まり、ベートーベンがその落成を祝して鎮魂ミサ曲の指揮を申し出たが、工事が遅れ落成したのはその没後の1856年。このため落成祝いには際しては、ハンガリー人のリストのエステルゴム・ミサ曲が演奏されたという。聖堂内部の宝物館には、金細工や法衣、織物などのコレクションがあった。

大聖堂見物後、丘の下のレストランで昼食をとったが、その時そのトゥアーに参加した人々が、ドイツ人、オーストリア人、イタリア人、イギリス人、フランス人、それに日本人(筆者1人)と、国際色豊かな顔ぶれであることを、あらためて確認する。現在アメリカ人はヨーロッパにはあまり来ていないようだ。

エステルゴムのあたりでドナウ川はハンガリーとチェコスロヴァキアの国境となっているが、大聖堂横手から対岸のスロヴァキアが見える。工場の煙突が林立し、ごみごみした灰色の建造物が密集しているさまは、ゆるやかな丘の斜面に別荘風の家々が点々としているハンガリー側の牧歌的な風景と対照的だ。後に訪れたスロヴァキアの首都 ブラティスラヴァの郊外も工業地帯となっていたが、これらは遅れた重厚長大産業の典型のように思えた。

ドナウベント第三の訪問地はドナウ川を眼下に望む 丘の上の廃墟の古城だ。ここはヴィシェグラードといい、先のセンテンドレとエステルゴムの中間に位置している。この辺りでドナウ川は東西から南北へと大きく湾曲している。16,17世紀にトルコ軍がウィーンに迫ったとき、この城でも攻防戦が行われたという。しかし1683年トルコ軍の最終的なウィーン攻略が失敗して退却してからは、この城も役割を終え、以後廃墟になったという。現在この城は廃墟とはいえ、石壁や石の床などが残っている。そしてここからは大きく屈曲するドナウ川の雄大な眺めが、手に取るように見て取れる。

8月19日:次の日は雨が降ったので、ホテルにこもって原稿書きに専念する。そして翌々日は再び快晴となり、ブダペストの観光名所の一つである英雄広場を訪れる。中央に高さ36mの天使像が聳え、その足元にマジャール部族の首長だったアールバートと6人の部族長の騎馬像がある。そして周囲には、ハンガリーに貢献した歴代の王や英雄の像が半円形に並んでいる。建国一千年を記念して1896年に作り始め、1929年に完成したといわれるが、バチカンのサンピエトロ寺院前の広場と同じぐらい広々とした壮大な広場だ。

この広場に続いて市民公園があり、そこには温泉、動物園、植物園、遊園地があって、市民の憩いの場となっている。この日はハンガリーの祭日に当たっていたらしく、市民公園は大変な賑わいを見せていた。そして広場の一角にはまたもや仮設舞台が作られ、広場からその周辺一帯は鉄柵で仕切られていたが、法王歓迎用であることは言うまでもない。

公園の一角にあるトルコ風呂セーチェニ温泉に入ろうとしたが、その日は女性専用だというので、川向こうのルダシュ温泉へ向かう。オスマントルコ支配150年の影響でハンガリーにトルコ風呂が多いことは先にも書いた通り。ブダペストにも数多くあるが、ルダシュ温泉は400年の歴史を誇る由緒正しい所という。建物の中央が丸屋根になっていて、外観内装とも以前訪れたイスタンブールのトルコ風呂と同じ感じだ。

温度の異なるいくつかの蒸し風呂に入ってから、八角形の大きな湯舟を中心に周囲に小さな4つの湯舟がある。中央ドームの下の風呂場に入る。中央のは36度、周囲のは28度から42度まである。こうして蒸し風呂と湯風呂を何度か往復した後、屈強な男が石鹸で体をごしごしこすりつけるマッサージを受ける。

8月20日:ブダペスト最後の日、まず国立博物館を訪れる。ハンガリーの歴史にまつわる展示が実に多岐にわたっていて、興味深いものがあったが、中でも見ものは有名な聖イシュトヴァーン一世の王冠であった。改革後ハンガリーでは、それまでの赤い星、ハンマー、麦の穂をあしらった社会主義リアリズム風の紋章から、この王冠をあしらった国家紋章へと、国民投票によって変更した。社会主義離れと伝統回帰を示す象徴的出来事といえよう。

ついで川向こうのブダの丘の上にある歴史博物館へと向かう。ここは沢山ある博物館群の一つだが、天候にも恵まれた丘の上は、観光客で賑わっている。ここからは対岸のペストの街並みが一望のもとに見渡せる。博物館群から王宮、漁夫の砦、マーチャーシ教会にかけての一帯は、トゥーリストが最も多く集まるブダペスト観光のメッカだ。屋外の仮設舞台では弦楽四重奏団が、ハンガリーの歌も交えて、民族音楽をたっぷり聴かせてくれる。さらに別の場所では民族舞踊が披露され、人垣でいっぱい。その少し先の丘の端の門に差しかかった時、道路わきに人垣ができ、警官の姿が見えたが、しばらくして法王を乗せた黒い車が通り過ぎていった。

人垣が崩れてからタクシーに乗り、ドナウ川に浮かぶ川中島のマルガレータ島へ行く。この島は古代ローマ時代から人々の保養の地となってきたという。島全体が緑に覆われ、車もシャットアウトされているのだ。広々とした「リゾートセンター」になっているわけである。太陽がさんさんと降り注ぐ真夏の午後のこと、公園の一角にある広々としたプールに入り、暑さをしのぐ。ポーランドでもそうであったが、ここハンガリーではなお一層のんびりとした時を過ごす人の姿を多く見かける。西欧や日本に比べて、経済や生活水準は低いのかもしれないが、日本などよりはよほど生活を楽しんでいるように見受けられる。

夜になってドナウ河畔の最も華やかなプロムナードに面した劇場へ行き、オペレッタコンサートを聴く。対岸のブダの丘や鎖橋が夜空に赤々と浮かび上がり、やはり心を浮き立たせる美しさだ。開演は8時半。隣席には可愛らしい中国人の女性。向こうから英語で話しかけてきたので尋ねると、外国貿易の仕事をするために北京からブダペストにやってきたところだという。コンサートはレハール、カルマン、ヨハン・シュトラウスの曲がびっしり組まれ、楽団のほかに女性歌手3人、男性歌手2人。皆ハンガリー人。歌と踊りを交えてのウィーン風オペレッタの雰囲気がそのまま再現されていて、実に楽しい。オーストリア・ハンガリー帝国時代へのノスタルジーがひしひしと感じられ、聴衆の方も年輩のひとから中年にかけて、多くの人が陶然として聴きいっていた。

しかし途中で楽しいハプニングが起きた。対岸の丘から9時-9時半にかけて花火が打ち上げられるので、コンサートをその間中止して、劇場の廊下の窓から見物してくださいとの粋な計らいがあったのだ。一同大喜び。見れば劇場前の広場や川岸のプロムナードは見物客でぎっしり埋まっている。こちらはいわば特等席を与えらたわけだが、ブダの丘やゲレルトの丘が夜間照明の上にさらに花火の光で、煌々と夜空に浮かび上がり、華麗なる陶酔の30分間ではあった。筆者にとってはブダペスト最後の夜への楽しい贈り物であった。

かなり以前から始まっているハンガリーの市場経済化へのさまざまな試みが、最近では必ずしもうまくいってない事など、マスコミの報道で知ってはいたが、首都ブダペストをはじめとする各地での外国人観光客誘致の動きは、以前にもまして活発になっている。ご多分に漏れず日本人観光客の姿もブダペストではずいぶん大勢見かけたが、なおビザが必要とはいえ、ユーレイルパスが有効なことなど、西側体制への組み込みは、ますます拍車がかかっていくことであろう。オーストリアやドイツとの交流は、すでに日常茶飯事化している。こうした交流を通じて中欧の中でもハンガリーが一番早く、西側に組み込まれていくことと思われる。(前編の終わり)

後編では、イタリア東北部のトリエステ、ユーゴ北部のリュブリアーナ、スロヴァキアのブラティスラヴァ、チェコの首都パラハそしてチェコ西部のカルロヴィ・ヴァリを旅します。

 

ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その3

啓蒙主義出版業者としてのニコライ

1 ニコライ、書籍出版販売業を引き継ぐ

「ニコライ書店」の引継ぎ

それまで父親のあとを継いで書店経営を担当していた長兄が1758年10月に突然死去した。そのため書店見習いなどの経験を通じて出版や書籍販売の実務にも明るかった弟のフリードリヒが、25歳で「ニコライ書店」を引き継ぐことになった。

一度は書店の実務から離れ、好きな文芸評論や著作の仕事に専念していたためか、「全く不承不承ニコライは商売の継承を決意した」という。とはいえ父親譲りの実務能力を十分備えていたニコライは、書籍出版販売業を引き継いでからは、自らのやり方で、父親の書店を大きく発展させることに成功するのである。

ニコライはその活動を開始するや、学校時代から愛読し、崇拝していた古代ギリシアの「文芸の父」ホメロスの胸像を自分の書店の入り口の上に掲げた。そして初期の出版物のたいていの表紙に、やはりホメロスの胸像を<出版社標章>として印刷させたのである。

初期出版物のホメロス胸像付き表紙

十八世紀ドイツの出版界

ニコライが成人に達した十八世紀半ばごろ、ドイツの出版界は先進的な北部・東部地域と、後進的な南部・西部地域に分裂していた。北部・東部のプロテスタント地域の書籍出版活動は、古くからの見本市都市で、すでにドイツ随一の出版のメッカになっていたライプツィヒを中心に動いていた。この都市があるザクセン地方では、世紀の前半から道徳週刊誌やポピュラー哲学から文学、自然科学の分野に至るまで、その書籍市場には新しい時代の息吹が感じられた。そして書籍取引の方法としては、古くからの交換取引制度が廃止され、新たに現金取引による正価販売が導入されていた。ここではドイツ出版界の合理化、近代化への第一歩が記されていた。

しかし遅れた南部・西部地域では、なお古い交換取引制度が残り、先進地域で出版された書籍の翻刻版(いわゆる海賊版)が花盛り、といった状況も見られた。こうした過渡的な状態はかなり長い間続き、ドイツに統一的な書籍市場が生まれ、出版界が全体として近代化したのは、ようやくナポレオン戦争後の1825年にライプツィヒに「ドイツ書籍商取引所組合」が誕生したときであった。

ベルリンに生まれ育ったニコライが活躍したのは、この十八世紀後半から十九世紀初頭にかけてのことであった。この時期にベルリンは、ドイツ北部ブランデンブルク・プロイセン地方の中心都市として、ライプツィヒに次ぐドイツ第二の出版都市へと成長していったのである。ドイツ出版史の古典といわれる『ドイツ書籍出版史』の中で著者のゴルトフリードリヒは、「北部ドイツの出版界で全面的に進行した最も重要な変化の一つは、ベルリンの輝かしい興隆であった。それはおよそ七年戦争の終結とともに始まった」と書いている。

この時プロイセンには、のちに大王と呼ばれるようになった国王フリードリヒ二世が関与した七年戦争(1756ー1763年)の終結によって、平和な時代が訪れていて、次のナポレオンによる占領までの四十年間、各方面での発展がみられたのであった。ベルリン出版業界の興隆もその一環とみることができるが、その原動力になったのが、わがニコライその人だったのである。

啓蒙主義の普及に果たした出版業者の役割

この時代のドイツ北部・東部地域は、啓蒙主義によって刻印されていたが、そこで果たした書籍出版や読書の役割には、極めて大きなものがあった。ちなみに研究者ラーベは『十八世紀の出版業者』という論文の中で、次のように述べている。「啓蒙主義は、1764年以降のドイツにおいて、文化的展開も見られたひとつの枠組みであった。増大する書籍出版量と読書への欲求の高まりの中で、同時代の人々が体験したこの変化は、平和的な<文化革命>と呼ばれた。そこでは社会的経済的諸関係が以前に比べて透明度を増し、人々は様々な要求を掲げるようになっていた。また文化的領域では、<シュトルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)>に始まり、のちに<古典主義>へと流れ込んでいった、ひっとつの美的運動が勃発し、さらに啓蒙化された市民社会が生まれてきたのである」

そうした新しい市民社会の形成に向けての啓蒙活動に参加したのは、学識者、著作家、教育学者、経済学者、神学者そして都市及び宮廷で政治活動を行っていた官僚などであった。その際こうした広い意味での学識者の著作活動が大きな役割を果たしたのであったが、これらの著作者と読者の間の仲介という新しい役割を担ったのが出版業者なのであった。そして十八世紀末には、出版業者の存在が重要性を増し、彼らは啓蒙家となり、「国民の恩人」となったのである。

またE・ヴァイグルはその『啓蒙の都市周遊』の中で、啓蒙主義にとっての出版業者の重要性について、次のように述べている。「ある都市が啓蒙主義の中心地になるかどうかは、経済的前提条件とともに、最終的には近代的な出版事業を効果的に起こすことができたかどうかにかかっていた。啓蒙思想の普及は、新しい文学や哲学を新しい形式ーつまり短い論述の形式(随筆、パンフレット、「道徳週刊誌」への寄稿文など)で引き受けることができた出版業者の存在とむすびついていた。」

当時の出版業の実態

十八世紀ドイツの出版業者は、身分としてはいわゆる第三身分の中の「商人」であった。そして世紀の最初の三分の二ぐらいまでの時期には、その顧客の大部分が学識者であった。出版業者はとりわけ学識者が書いたものを扱っていたが、よその出版業者の本の販売も取り扱い、それらを別の学識者に売っていた。

しかしこうした状況は十八世紀の最後の三分の一の時期に大きく変貌するようになった。翻刻版の普及と読者層の拡大、「物書き」の増加、出版量の増大など、一般に「読書革命」と呼ばれている状況が現出したのである。とはいえ書籍取引の面では、北部・東部と南部・西部とでは事情が異なり、なお長い過渡的な状態の中にあったといえる。

ニコライが出版業の道に入った1750年代には、まだ新しい動きは起こっていなかった。当時ドイツの出版業者は、長いこと変わることのなかった都市的秩序の中に組み込まれていた。とりわけ大学、アカデミー、上級学校が存在し、学識者の顧客が住んでいた都会で、彼らは活動していた。

この世紀の前半、ドイツの出版業者の数はわずか100軒から120軒ぐらいだったという。当時のドイツの総人口は二千万人ほどであったことを考えると、この数は極めて少ないといわざるをえない。出版業者という職業が当時いかに特権的なものであったか、ということがよくわかる。そしてこれに対応して、年間の出版点数も極めて少なく、1765年で1517点であった。この時ようやく1600年の水準に回復したのであった。三十年戦争(1618-1648年)後のドイツの経済的・社会的衰退、とりわけ書籍出版の分野における衰退というものは、にわかには信じられないくらいひどいものであったのだ。

それはともかく当時の出版業者は、薬剤師や外科医と同様、アカデミックな教育を受けたエリートであった。書籍の顧客の大部分が学識者であったから、出版業者としても取り扱う商品である書籍の内容によく通じていて、相談相手になったり、良書を推薦したりできなければならなかったからである。またたいていの書店は、代々受け継がれていく家族経営体であった。そうした書店の店内の様子について、ラーベは次のように、生き生きとしたタッチで描いている。

「書店主は、我々が当時の木版画や銅版画から想像できるような施設、出入りの自由な書店というものを経営している必要があった。そこには天井まで届くような本棚があり、印刷された紙を積み重ねた未製本の書物でいっぱい詰まっていた。一部には製本された書物も本棚には見られた。カウンターの後ろには、書店主が座っており、その店の主な書物に書き込みをしたり、お客と話し合ったりしていた。しばしば店の中には、製本業者が仕事をする場所もあり、お客が未製本のまま購入した本を、その場で製本していた。また書店の中では、店員や徒弟が働いており、お客のためにサービスしていた」

ニコライ書店の様子を描いたものは、残念ながら、残っていないが、おそらく今紹介したものに近いと思われる。ニコライが引き継いだ当時のベルリンには、13の書籍出版販売店が存在していた。その中でニコライ書店は3番目に大きな規模の店であった。また当時のベルリンにはフランス人がたくさん住んでいたので、フランス系書店が5軒あった。それが十八世紀の末になると、ベルリンには全部で30軒に増えていた。こうした出版業界の隆盛には、フリードリヒ・ニコライの活躍とその影響が、しっかり結びついていたのだ。

2 ニコライの初期出版活動

従来の経営方針の継承と新たな発展

ニコライは書店を引き継いだ1758年から1810年ごろまで、ほぼ50年にわたって、書籍出棺販売の経営に携わっていたわけだが、まずは父親の方針を継承することから始めた。例えば父親が行っていた教科書の出版販売は、安定した販路と再販という点で、経営的に利益と継続性をもたらすものであったから、継承することにした。これと関連して教育関係の出版にも極めて熱心に取り組んだが、その際父の時代からの著作者に加えて、新たに何人かの学校教師を獲得することができた。また父の時代からの神学関連の書物の出版も店にとって安定した財源となった。さらに数は少なかったが、歴史学や文献学関連の著作物の出版も続けた。

その一方、書店経営を引き継ぐ以前から著作活動に入っていたニコライは、自らの出版社の著作者としても、しばしば登場するようになった。それは初期には、名のある著作者を記念して発行した著作物の中での伝記的評価という形で現れた。その最初のものは、『春』の詩人作家E・v・クライストに捧げられた(1760年)。

また若き日のニコライの出版計画には英仏文学の紹介という仕事もあった。まず仏文学では、百科全書の編纂の仕事で名高いディドローの作品やマリヴォーの小説などが出版された。そしてヴォルテールの個々の著作物のジュネーヴ版を、委託で受け取り、しばしば自分の店のカタログに載せた。次いで英文学に関しては、A・ポープの作品10編とJ・トムソンの何編かの詩を刊行している。これらの著作物の選考には、啓蒙主義の普及という観点が反映しているのだ。

文芸批評活動と出版業

いっぽうニコライが早くから始めていた文芸批評活動も、ニコライ出版社の営業にプラスに作用した。ニコライは1753年、二十歳にして最初の著作『ジョン・ミルトンの失楽園について』を公刊した。またその二年後には論文「ドイツにおける文芸の現状に関する書簡」によって、1750年代のドイツの文芸批評界で名を成したのである。そしてこの論文がきっかけで知り合ったレッシングとメンデルスゾーンと共同で、ニコライは1757年、評論誌『文芸美術文庫』の編集に携わるようになった。有能な二人の友人の協力を得て、ニコライは文芸批評誌の編集発行という仕事でも、経験を積むことができたのである。

こうした経験を生かしてニコライは、こんどは自らの出版社から、新たな文芸批評誌を編集発行することになった。これが1759年に創刊された『最新文学に関する書簡』であったが、この雑誌は24巻にわたり、1765年まで発行が続けられた。「同時代文学の振興に重要な貢献を行っている出版社という名声」は、ニコライの出版活動にとってもプラスになったことは言うまでもない。

このように文芸批評誌の発行という仕事は、ニコライの出版活動や書店経営をも活気づけ、同社に繁栄をもたらしたのである。この時期ニコライはもう一つ別の評論誌を発行していた。それは『文芸美術振興のための様々な著作集(1759-1763)というものであるが、そこでは同時代の文学、美術及び音楽の批判的摂取を自己の課題としていたという。

このような評論活動の延長線上に生まれたのが、ニコライの主要業績の一つになっている『ドイツ百科叢書』である。これは1765年から1805年まで、実に40年間にわたって発行が続けられた書評誌であった。この書評誌については、書くべきことが山のようにあるので、独立した一章として扱うことにする。

3 本格的な出版活動

ベルリンにおけるニコライ出版社の位置づけ

ここではニコライ出版社がベルリンにおいてどのような位置を占めていたのか、考えてみたい。その際、代表的な出版社の出版量の比較によって、それを見ることにする。ただそれぞれの出版社が出していた全出版物に関する統計資料は、残念ながら見つからないので、ここでは書籍見本市カタログに掲載されていた数字によって、比較することにする。以下の表は、1764-1788年の期間について、ベルリンの十大出版社の出版点数を比べたものである。
出版社名                                 出版点数
1  ゴットロープ・アウグスト・ランゲ             524
2  ゲオルク・ヤーコプ・デッカー               464
3  フリードリヒ・ニコライ                  434
4  ハウデ・ウント・シュペナー                358
5  クリスティアン・フリードリヒ・フォス           342
6  アルノルト・ヴェーヴァー                 335
7  クリスティアン・フリードリヒ・ヒンブルク         267
8  アウグスト・ミューリス                  263
9  実科学校出版会                      240
10 ヨアヒム・パウリ                     239

この表からみて、一位のランゲ社及び当時宮廷書籍印刷所として知られていたデッカー社と並んで、ニコライ社がベルリンにおいて指導的な地位を占めていたことが分かる。

エカチェリーナ女帝との関係

ここでは、ニコライ出版社の著作家であると同時に、最も名の知られた重要な顧客でもあったロシア帝国の女帝エカチェリーナとの関係について、見ていくことにしたい。この女帝はニコライが支店を出していた北ドイツのシュテティンの領主の娘として生まれ、のちにロシアの首都ペテルブルクに赴き、やがてクーデタによって帝位についた女傑であった。

その反面彼女は、若いころから啓蒙思想家と文通し、教育と学芸を奨励し、自らもペンをとって、社会教化を狙いとした論文や作品を発表していた。こうした背景を知れば、この女帝がベルリンの有力な啓蒙出版人フリードリヒ・ニコライと関係を持っていたとしても、なんら不思議はない。女帝はニコライの小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』の愛読者の一人でもあった。また女帝のために営んでいた書店は、ニコライが経営していた全ての店の中で最も儲かっていたという。

これに関連してニコライの伝記作者ゲッキングは1820年に出した『フリードリヒ・ニコライとその文学的遺産』の中で、ニコライと女帝との間に起きた興味深いエピソードを伝えている。

「女帝はその孫たち、つまり現に統治している皇帝アレクサンドル及びコンスタンティン公のために、歴史関係の書物を集めようと思った。そして1783年5月、ニコライに、ドイツ語およびフランス語で出版されたあらゆる歴史関係の作品・・・年代記、年報、古文書の類いまで含めて、しかも世界の全ての国のもののリストを作成してくれるよう依頼した。この膨大な規模の仕事に対して、ニコライが要したのはわずか数か月であった。そして同年9月には、そのリストは女帝のもとに送り届けられた。それは手書きで、かなりびっしり書かれた二つ折り判のものであった。

ついでエカチェリーナ女帝は、これら歴史関係の書物を、すべての国で本当に購入して、彼女のもとに届けてくれるよう依頼した。ニコライはこの要請を受け入れ、その調達の仕事を数年間にわたって続けたのであった。

さらに女帝は1784年の末頃、死んだ言語も生きている言語も含めてあらゆる言語の比較辞典を編集発行しようとして、この大事業に必要な書物のリストを送るよう依頼した。ある学者の手助けによって、これも数か月後には完成して、彼女のもとに送付された。そのタイトルは「世界の全言語リスト、それぞれの言語の語源、起源およびつながりに関する各言語の主要辞書についてのカタログ付き」というものであった。これらの書物もニコライは出来る限り早急に調達しなければならなかった。この極めて膨大な規模の書物の送付は、1787年8月まで続いたが、ロシアとトルコの間に戦争が勃発したため、中断されることになった。

こうした仕事をできる限り完璧に遂行しようとしたニコライの尽力に対して、女帝は満足された。その一方彼女は若き大公殿下たちのために彼女が書いた物語のドイツ語訳の手書き原稿をニコライのもとに送り届けた。これらはニコライ出版社から全8巻の全集として出版された。これにはコドヴィエツキの銅版画が添えられ、美しい装飾的な書物に仕立て上げられた。そして『アレクサンドル及びコンスタンティン大公文庫』(1784-1788年)という表題をつけて刊行された。」

『アレキサンドル及びコンスタンティン大公文庫』

ニコライ出版社の経営と書物づくり

ここでニコライ出版社の経営に目を向けると、そこでは主として予約先払い制度が取られていた。出版物は、フリードリヒ大王をはじめとする高位の貴族や名士たちに献呈されていたが、これらの人々を含めて顧客は、出版に先立って支払いをしてくれていた。そのため出版社としては、事前に十分な出版計画を立てることができたのであった。その前払い人のリストを眺めると、ニコライ出版社の読者層のおよその実態が読み取れる。それは主として学識者を中心とした固定読者層であった。

いわゆる「読書革命」によって新たに生まれていた大衆的な読者層は、ニコライ出版社の場合には、対象外であった。ドイツの書籍取引方法が変わりつつあった過渡期の初めにニコライは位置していたのだが、彼自身は旧来の出版業者の、最大にしてもっとも代表的な一人なのであった。このことは、彼が自分の出版物には、書物の宣伝広告を一切載せないという事にも現れていた。当時他の出版社は本の宣伝広告をよくやっていたのだが、ニコライはこれをやらなかった。それにもかかわらず、ニコライ出版社の出版物はしばしば版を重ね、売れ行きは良かったという。

次にニコライ出版社から出されていた出版物の外形についてみておきたいそれらは十八世紀のたいていの書物と同様に、原則として飾り気がなく、たいていは素朴な灰色の紙に、フラクトゥーア体(いわゆるヒゲ文字)の活字で印刷されていた。そして判型としては、『ドイツ百科叢書』(当時のオリジナルが存在している)と同様の大型二つ折り判であった。

『ドイツ百科叢書』の外形

またニコライは同業者にならって、輸送費を節約するために、ベルリンからあまり遠くないライプツィヒ周辺で印刷させていた。つまりウィッテンベルクのデュル印刷所、ライプツィヒのゾルブリヒ印刷所そしてヘルムシュテットのフレックアイゼン印刷所などであった。

ただ十八世紀も末になると、ベルリン改革派印刷所J・F・ウンガーも、ニコライのために仕事をするようになった。そこで印刷されたものは他の印刷所のものより、はるかに良かった。美麗な判型に印刷されたエカチェリーナ女帝の作品などは、毎ページが枠の中に収められていた。そして作品の中に数枚の銅版画が添えられていた。これら銅版画は書物に品格を与えていたので、その画家としては、当時のベルリンで最も著名な人物であったダニエル・コドヴィエツキとJ・W・マイルが選ばれた。

銅版画家ダニエル・コドヴィエツキ

なかでもコドヴィエツキは、啓蒙主義時代のベルリンっ子であり、ニコライの友人でもあり、またその同志でもあった。そのためニコライ出版社の文学作品には多くの挿絵を描いているが、ニコライが書いたベストセラ-小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』には、15枚の銅版画の挿絵を描いている。

『ノートアンカー』の挿絵(コドヴィエツキー作)

文化史家マックス・フォン・ベーンはその著書『ドイツ十八世紀の文化と社会』の中で、コドヴィエツキについて次のように書いている。

「彼には注文が多くて、どんなに努力しても、それらの注文に応じられないほどの(売れっ子画家)であった。出版社は皆、出版する長編も短編も、年鑑やポケット本も、コドヴィエツキの描く挿絵か、せめてタイトルか扉絵を欲しがった。当時の全ての大衆文学は彼の手によって生命力を与えられていた。また彼は驚くべき現実感覚を持ち、鋭い目と暖かい心でもって現実を観察した。そして常に喜ばしい点を強調し、苦しいところでも一種のユーモアを引き出すすべを知っていた。彼は学者の仕事場にも親しくなかったわけでないが、妻と子供たちの世界である家庭にこそ、彼の心情が込められていたのである。」

ベーンが描くコドヴィエツキは、家庭を中心に据えた健全な良識を訴えてやまなかったフリードリヒ・ニコライとは、まさに肝胆相照らす仲だったのではなかろうか。ちなみに1999年秋にフランクフルトで開催された「ヨーロッパ啓蒙主義美術」に関する展覧会で、ベルリン啓蒙主義を代表する画家として、このコドヴィエツキの作品が十数点にわたって展示されていた。私もこの展覧会を見る機会を得たが、従来注目されることのなかった十八世紀後半の啓蒙主義美術について、ロンドン、パリ、ローマ、サンクト・ペテルブルクなどの主要都市で、新たな視点から光を投げかけたものである。

4 ニコライ出版社の分野別出版物

ジャンル別出版物とその規模

ここではニコライがその長い活動を通じて、どのような出版物をどれぐらいの規模で出版していたのか、見ていくことにしよう。その際長男ザムエルによって経営されていた1779年から1790年までの間も含めて、1759年から1811年までの52年間にわたるニコライ出版社の出版状況をしめす統計資料に基づいて、分析することにする。それは私がこれまでたびたび引用してきたP・ラーベの「出版者フリードリヒ・ニコライ」の中に掲載されているものである。

次の表は、ニコライ出版社のジャンル別出版物を、出版点数と出版巻数に分けて記したものである。これは1作品が1巻の場合は、点数と巻数が一致する。しかし小説などの長い作品の場合は、1点で2巻ないし数巻になる。

分 野                  出版点数     出版巻数
1  小説・詩・戯曲            77      167
2  神学                 68      100
3  教育関連               59       78
4  ブランデンブルク・プロイセン     52       98
5  数学・自然科学            39       57
6  医学                 39       53
7  哲学                 30       37
8  技術・経済              30       55
9  旅行記・地理・国家学         27       47
10 時事問題・論争書           26       34
11 歴史                 25       38
12 文芸学                24       96
13 古典文献学              19       26
14 一般                 16      198
15 言語学                 7        8
16 趣味                  5       25
合 計                  543     1117

各分野の主な著作物

総体としてニコライが出版した著作物には、知識を普及し、偏見を取り除くことを通じて、国民の啓蒙に貢献するという啓蒙主義者の意図が、それぞれの分野で見て取れる。つぎにニコライ出版社から刊行された数ある出版物の中から、分野をやや大きくまとめて、それぞれの主な著作物を取り上げてみることにしたい。

     A  小説・詩・戯曲

この分野は点数及び巻数の点で、彼の出版物の中でトップを占めていた。若いころ熱心に文芸批評活動に取り組んでいたニコライは、1760年代には英語やフランス語の主な文学作品を出版し続けていた。そして1770年代になって、自ら書き自分の出版社から刊行した小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』は、大いに人気を博し、ベストセラーになった。それによってニコライは作家兼出版者として、出版のメッカであったライプツィヒに進出することができた。さらにゲーテの『若きヴェルテルの悩み』のパロディーとしてニコライが書いた『若きヴェルテルの喜び』という短編小説も出版している。これは啓蒙主義者を喜ばせたが、ヴァイマルの文学者たちを怒らせ、以後ニコライへの風当たりが強くなった。

      B       神 学

二番目に多い神学書については、不寛容と盲目的な信仰に対する闘いといった観点から、刊行されている。その際彼が住んでいたベルリンないしプロイセンの牧師及び神学者の著作が優勢を占めている。それらはプロテスタント神学に関連したものであったが、一般に想像されるよりはるかに古めかしさのない、理性的な著作であった。

神学上の作品は100巻(68点)を数えたが、ニコライ家と親しい友人でもあったJ・S・ディートリヒの『イエスの教えによる至福への授業』やF・G・リュトケの『堅信礼の本』は、ニコライ出版社のベストセラーであった。さらにニコライの個人的な友人であったJ・A・エバーハルトやJ・A・ヘルメス、J・M・シュヴァーガー、G・F・トロイマン、R・ダップといった牧師の書いた説教集も出版された。

この分野での最後の作品は、友人で宮廷牧師のW・A・テラーの『プロイセン国における理性と理性的宗教の自由な発展』であった。これは著者が亡くなった後、追悼記念作品として出版されたものだが、刊行後数十年にわたってドイツ人に影響を与え続けた書物であったという。

       C       教育関連

言うまでもなく教育は国民啓蒙の重要な分野であり、ニコライ出版社にとっても欠かすことのできないジャンルであった。教科書は、父親の時代からニコライ出版社の重要出版物であった。毎年のように需要があり、しじゅう再販や改訂版が出されていたから、店の健全な財政基盤になっていたのだ。

その一方ニコライは、プロイセンの改革教育学の振興にも尽力した。こうした改革教育に熱心な人物にF・E・フォン・ロホウという大地主がいたが、この人物が書いた『子供と農民のための教科書の試み』という原稿が、1772年にニコライ出版社から刊行された。また新しい教授法のために尽力したF・G・レーゼヴィッツも、ニコライのもとで『公教育改革のための理念、提言及び要望』(1~5巻、1778-1786年)を刊行している。

     D    ブランデンブルク・プロイセン

このジャンルの著作物は98巻と、巻数の点で第3位を占めている。これに属するものとしては、ニコライ自身の作品『王都ベルリン及びポツダムについての記述』をまず挙げねばならないが、これは彼の重要業績の一つなので、独立の一章として扱うことにする。またニコライが崇拝していたフリードリヒ大王に関連した数多くの著作が編集発行されていた。彼自身もこの啓蒙専制君主に関するエピソードを集めて編集した作品を著わしているので、私も「歴史研究者ニコライ」の個所で論じている。次いで人文科学の分野では、ベルリンで最初の芸術家事典(1786年)が編集刊行されたほか、ブリューメックの『ベルリン演劇史草稿』およびマンガーの3巻本のポツダム建築史関する書物が出版されている。

目を法律や行政の分野に向けると、ニコライと縁戚関係にあったE・F・クラインの法律書が大きな部分を占めている。それらは絶対主義官僚国家プロイセンの官吏たちのための法律ハンドブックといったものであった。さらにプロイセン国家全体に適用される新しいプロイセン一般ラント法に関する教科書も刊行されている。

    E       数学・自然科学、技術・経済

数学・自然科学関連の著作物も、その刊行を通じて、広く知識を普及させ、偏見を取り除き、国民の啓蒙に貢献しようというニコライの尽力の一環に数えられよう。この分野の著作物も全体として、かなりの分量刊行されている。クリューゲルが編纂した四巻本の『百科事典』(1782-1784年)は三版を重ねたが、これは自然科学の領域を越えて、科学技術上の全ての重要な事実を伝えたもので、人々から大変愛読された実際的な事典であった。

またこの分野では、当時の先進国イギリス及びフランスの自然科学上の作品が、ドイツ語に翻訳されてニコライ出版社から刊行されていたことが注目される。

いっぽう技術と経済(ここでは産業というほどの意味)の分野では、およそ30点の著作物が発行されている。ここでの最も重要な作品は、J・K・ヤコブセンが編纂した『科学技術事典』であった。そこには機械技術、マニュファクチャー、工場、手工業に関連したすべての実用的な知識並びにそこに登場するあらゆる作業、施設、道具、専門用語についての記述がなされている。つまりこの実用的な事典は、前工業時代における技術についての極めて有益な参考書なのであった。

         F        医 学

医学の分野の著作物は53巻を数えるが、なかでもプロイセン王室外科医J・A・シュムッカーの作品が目に付く。また彼の同僚であったテーデン及びハーゲンが書いた『外科学及び外科薬品学のためのハンドブック』も注目された。そしてゼンフトが書いた『農民のための健康教理問答』は、健康と病気に関して農民を啓蒙するための典型的な著作であった。ここでも日常生活の改善に資する実用目的への配慮がうかがえる。

              G       旅行記、地理

この分野ではハンガリー、ロシア、東洋、セイロン、シベリア、スペイン、オランダ、イギリスなどの諸地域に関する旅行記や地理学上の論文、統計的著作が、オリジナルな報告または翻訳ものとして刊行されている。
いっぽうドイツ国内の地域事情に関する報告も出版されている。しかしドイツの地域事情については、ニコライ自身の『1781年におけるドイツ・スイス旅行記』が最も重要な作品であった。そのため私としては、『南ドイツ旅行記』という表題の下に、独立した一章として詳しく述べることにする。

    H     文芸学、古典文献学、言語学、哲学

若いころ文芸批評活動に熱心に取り組んでいたニコライは、友人の作家兼学者のエッシェンブルクに文芸学関連の著作をいろいろ書いてもらった。それが『文芸理論草稿』、『学問方法論教程』および9巻ものの選集『文芸理論への先例集』であった。

ついで古典文献学では、5版を重ねたエッシェンブルクの『古典文学ハンドブック』および『ギリシア・ローマ寓話史概観』そしてヘルマン著『神話学ハンドブック』が主な作品であった。

言語学の著作物では、数人の専門家による言語学史ならびに方言の歴史があげられる。

哲学については、数量的にはあまり多くないが、ユダヤ系のドイツ人でニコライの親友であったモーゼス・メンデルスゾーンが書いた『ファイドンまたは霊魂の不滅』が最も重要な作品である。オリジナル版はドイツ語で書かれ、4版を重ねている。またこれは英語、フランス語など九か国語に翻訳され、彼の名声はヨーロッパ中に広められた。

メンデルスゾーンの『ファンドンまたは霊魂の不滅』の見開き

       I      歴 史

この分野では、北獨オスナブリュック在住の注目すべき歴史家ユストゥス・メーザーのいくつかの主要作品がニコライ出版社から刊行されていることを、まず強調しておきたい。『祖国愛の幻想』(四巻、1775-1788)は、週刊誌『オスナブリュック・インテリゲンツブレッター』に連載されたものを、のちにまとめて刊行したものである。後世に大きな影響を与えた作品である。さらに彼の代表作『オスナブリュック史』(三巻、1780年、再版1824年)は、ドイツの社会経済史ないし歴史法学の先駆者の地位を彼に与えたものといわれるぐらい重要な作品であった。

 ユストゥス・メーザーの肖像

そのほかJ・C・マイヤー著『十字軍史の試み』、ハイネス著『トルコの戦術についての論考』、レーマー著『全世紀を通じての歴史世界の叙述』などの著作も出版されている。

なおニコライ自身、歴史には強い興味と関心を抱き続け、歴史関連著作を数冊刊行しているが、その詳しいことについては、独立した一章「歴史研究者ニコライ」の項目で述べることにする。

      J     時事問題・論争書

啓蒙主義者フリードリヒ・ニコライは、何事によらず、学問上、宗教上、倫理上の時事問題に強い関心を抱いていた。そしてこれらのテーマについて、自ら、あるいは他の執筆者が書いた文章を、自分の出版社の雑誌や小冊子に掲載していた。それらは十八世紀の後半になってもなお根強く残っていた迷信や秘密めいた習俗を打ち破って、理性と分別への道を切り開こうという努力のあかしだったわけである。当時自意識を持つようになってきた、精神的、知的問題に関心ある市民層は、これらの時事問題をめぐって、いろいろ議論するようになっていた。こうした背景のもとに、ニコライ出版社の雑誌や論争的小冊子も読まれたものと思われる。

その具体的なテーマをいくつか列挙すれば、「宗教的偽善やいかさまに対する闘い」、「悪名高いヘッセンの上級牧師シュタルクの秘密カトリシズムとの論争」、「薔薇十字団、テンプル騎士団、フリーメーソン及び啓明結社をめぐる論争」といったものであった。

またユダヤ人の啓蒙哲学者モーゼス・メンデルスゾーンの友人であったニコライにとっては、ドイツに住むユダヤ人の運命を、啓蒙主義運動の中で、改善していくことは、極めて切実な問題なのであった。この関連で出版された、軍事顧問菅C・W・ドーム著『ユダヤ人の市民的地位の向上について』は、ドイツにおいて最終的なユダヤ人解放へと導いた初期の文献に属する。

十八世紀後半の啓蒙主義の時代以降、二十世紀前半30年代のナチスによる迫害に至るまでの時期は、ドイツにおいてユダヤ人が各方面で活躍した時代なのであった。

5 啓蒙主義出版業者としての理念

出版業についての冷徹な考え

間違いなくニコライは成功を収めた書籍業者の一人であった。しかし同時にドイツ出版史を通じて、最も確かな理念を有していた出版業者でもあった。彼の全作品に散見される書籍出版業に対する理論的見解は、ドイツの出版に対する極めて貴重で、かち文化史的に見て最も重要な史料であるといえよう。それらはとりわけ彼の小説『学士ゼバルドゥス・ノートアンカー氏の生活と意見』、一種の自伝『私の勉学修業時代』そしてカントの『本屋稼業』への反論に中に見られるものである。

ニコライはしばしばレッシングやメンデルスゾーンと、自主出版の可能性について議論したり、海賊出版の搾取から著作家を保護することに関心を抱いたりした。その際彼は書籍出版業についての専門的知識の重要性を訴え、それの欠如は結局経済的な破綻につながることを指摘した。また「文学的に優れたものは買い手が付く」というレッシングの考えに反論するなど、リアリストの本領を発揮していた。この点についてニコライは次のように書いている。
「書籍業者という者は文学的な質の高いものによってではなく、多くの読み物が氾濫している都会の読者によって生活しているのである。またわが友レッシングなどついぞ見たこともないような愚か者や、彼の書いたものなど読もうともしない田舎者によっても生活しているのだ。」 優れた書物は大衆性を欠き、人気のある作品は質を欠いている、という古くて永遠に新しい命題について、ニコライは優れて現代的な仕方で対処していたわけである。

十八世後半のドイツには、「物書き」が急激に増え、また読者の数も同じく増大した。しかしこの人たちが読んでいたものの大部分は、後世に名を遺したような大作家の作品ではなかった。この点経験豊かな商売人でもあったニコライは、どんな種類の文学が一般読者の関心を引くかという点について、何らの幻想も抱いていなかった。つまり当時の読者の大部分は精神的な訓練を積んでいなかったために、すぐれた作品に無関心であることを十分知っていたのだ。そして文学的な野心におぼれてはならず、一般大衆の残念ながら極めて低い水準に合わせていくべき、との結論に達したのである。そうして築かれた安定的な基盤の上に立って初めて、ニコライが目指した啓蒙的出版販売も可能になったわけである。

啓蒙的出版の理念

当時プロイセン王国では、フリードリヒ大王の指示によって大規模な法典の編纂作業が着手されていた。ただその作業が軌道に乗り出したのは、ようやく1780年代になってからのことであった。これにはベルリン啓蒙主義を奉じていたニコライの仲間の学識者も多数関与していた。ニコライはこの「プロイセン一般国法典」の中の版権に関する部分を担当していた。そしてそれに関する鑑定書(1790年)の中で、社会一般に対する出版業者の文化的重要性について、再三再四強調している。

「出版者自身が一つのアイデアを持っていて、このアイデアに対して著作者をいわば道具として用いるような著作物が、世にはきわめて多く存在している。・・・私は例のベルリンにかんする記述に対して、最初のアイデアを抱いた。そして他の人々をそのための道具にした。私は彼らに手引きを与えて、コストを負担した。今や私は、私の収穫の果実(成果)を享受する時が来たのだ。出版業者というものは、一般に読者が求めているものを、著作者よりもよく知っている。公衆の利益になる多くの本が、そうした出版業者の発案によって生まれている、と断言できる。」

このような言葉から、公益の代表としての自信がうかがえるが、そうした立場から文学の大量生産化に反対すると同時にドイツ文学の特権化にも、彼は反対していた。それに関連して、「ドイツ人の著作家は、フランス人やイギリス人の著作家のように、大衆向けにわかりやすく書くことができない」という嘆きの言葉を、ニコライは繰り返し。用いている。

自分が書いた小説『ノートアンカー』の中でも、友人の書籍商ヒエロニムスが主人公の問いに答える形で、説明しているので、少し長くなるが引用することにする。

「ノートアンカー: イギリスやフランスの書籍商は、良書に大変恵まれていると聞いていますが。
ヒエロニムス: それはフランスやイギリスでは、作家の層が読者の層に対応しているからです。作家は、読者が必要とし、読むことができるものを書いているのです。
ノートアンカー: ドイツではそうではないのですか?
ヒエロニムス: そういうケースはとても稀ですね。ドイツでは作家の身分の者は、ほとんど自分自身のためか、あるいは学識者身分の人のために書いています。我々のところでは、学識者が文筆家であることはとても少ないのです。ドイツでは学識者というのは、神学者、法律家、医学者、哲学者、大学教授、マギステル、研究所長、学長、副学長、バチェラーなどです。そして彼らは自分の聴講生か従属している人たちのために書いているのです。およそ二万人を数える、こうした学識ある教師やが学生は、残りの二千万人のドイツ語を話す人々を、軽蔑しています。そして彼らのために書くという労をとろうとはしないのです。・・・二千万人の学識のない人々は、この二万人の学識者に対して、軽蔑と忘却の念をもって報いています。彼らは学識者がこの世にいることさえ、ほとんど知らないのですから。・・・学識者は一般向けに書くことを、怪しげな作家、説教集の書き手、あるいは道徳週刊誌の記者といった素人に任せているのですよ。」

ニコライは学識ある著作家に対して、何よりもまず学問性を損なうことなく、一般向けに分かりやすく書くことを要求したのであった。彼によれば、いかなる学問もそれ自身のためにあるのではなくて、他者のためになり、ひいては人間社会全体の公共性に寄与すべきものであったのだ。その意味で彼にとって理想的な出版物というのは、当時隣国フランスやイギリスで発刊されていた百科事典であった。ニコライはこれらを、「哲学的かつ人類愛的な意図から生まれ、様々な学問を同時に概観し、各人の意識を一般的な認識と同調させようとする試みである」として、高く評価していた。

結局ニコライが目指していたものは、まちがいなくまともな書物の読者階層を、それまでそこに属していなかった人々の範囲にまで拡大することであった。その際彼は、いわゆる読書革命によって増大した低俗な読み物の読者を考えていたわけではなかった。質を落としたり、短縮したりしたダイジェスト版の概説書によって、書籍の発行部数の増大を狙ったりはしなかった。
彼にとって大事なことは、あくまでも学問上の専門知識を、大衆化した形で普及させることであった。書物の数の増大だけではなくて、とりわけその内容に誰でも近づけるということが、大切なのであった。そこにこそ彼の言う書籍出版の公共性が存在し、そうしてこそ個々の学問が社会一般に向かって、開放されることになるわけである。

 

ドイツ啓蒙主義の巨人 フリードリヒ・ニコライ その2

その青少年時代

1 生誕から書店見習い時代まで

父親クリストフ・ゴットリープ・ニコライ

わが主人公クリストフ・フリードリヒ・ニコライは、1733年3月18日、プロイセン王国の王都ベルリンで、書籍商クリストフ・ゴットリープ・ニコライの息子として生まれた。4人の男兄弟の末の男子であったが、このほか4人の姉妹も含めて何人かは、早死にしていた。ベルリンからあまり遠くないヴィッテンベルク市の市長を務めていた彼の祖父も、本業は書籍商であった。

この祖父の店で働いていたのが父親であったが、祖父の娘と結婚したとき、そのベルリンの支店を結婚持参金として与えられたのであった。この書店には国王から特権が付与されていたが、書店を受け継いだ父親は、やがてその書店にいくらかの名声を付け加えていった。当時プロイセン王国を統治していたのは軍人王と呼ばれているフリードリヒ・ヴィルヘルム一世であった。そしてその後継者となったフリードリヒ大王は、皇太子時代にこのニコライ書店をしばしば訪れていたことを、のちにわが主人公フリードリヒ・ニコライと会見したときに明らかにしている。

当時ドイツの書籍商は一般に書店経営と出版業を兼ねていたが、父親のゴットリープ・ニコライは、出版業の面で、時代の文学的要請に対して確かな勘と才覚を有していた、といわれる。つまり当時大きな発行部数を見込め、儲けも大きかったドイツ語・ドイツ文学関係の書物に目をつけていたのだ。これらと「当時評判の良かった学校の教科書は、彼の名声を高めるのと同時に、その経営基盤を改善した」わけである。

この父親の性格は、倹約、勤勉、厳格そして道徳心や宗教心の厚さ、といった言葉で表現できるものであった。そしてそれらはまたプロイセン王国に生きていた中流市民のプロテスタント的な生活信条そのものであった、といえよう。これはまたプロイセン王国を軍事官僚国家に仕立て上げた軍人王の統治方式に倣ったものともいわれる。

忠実な臣下であったニコライの父親は、時代とその身分に見合った形で、その家族と奉公人と商売を取り仕切っていた「家父長」だったのだ。

ニコライの幼少期

この父親の性格のいくつかを、いくぶん薄めた形で息子のニコライも受け継いでいる。ただ宗教に対しては息子はやがて父親とは大きく異なる立場をとるようになった。またニコライは原ベルリンっ子の典型として、仕事熱心さ、批判精神そして現実感覚の三つを併せ持っていた。これらの三つの要素がやがて彼の運命を大きく左右するのであるが、この点については徐々に明らかになっていくであろう。

権威主義的な父親の厳しさを和らげてくれたのが、母親であったが、この母親をニコライは5歳の時に失うなど、その幼少時代から彼は家庭の温かさには恵まれなかった。この家庭的な保護の欠如が、やがて彼の生涯に大きくかかわっていくのである。そしてその精神生活にも影響を与えたのであった。

中等教育期

幼少期を過ぎて、やがてニコライは教育熱心な父親によって、三つの中等教育機関に通うことになった。まず1746年、13歳でベルリンのヨアヒムスタール・ギムナジウムに1年間通ったのち、ハレにあった孤児院の学校に移り、さらに1748年にはベルリンの実科学校へと転校した。最初に通ったギムナジウムでは、上級生による新入生いじめが、やりたい放題に行われていた。新しく入ってきた生徒は、上級生から好き勝手に殴られたり、いじめられたりしていたが、それに対して教師はなすすべがなかった、という状況にあった。

この学校での息子の発展が望めないことが分かり、父親はハレにあったフランケ財団経営の孤児院の学校に息子を移した。この学校はもともと敬虔主義者のA・H・フランケによって17世紀末から、キリスト教の敬虔な精神の育成と有用な知識の獲得をその教育の最終目標に掲げて作られた一連の学校の一つであった。

しかしニコライがこの学校に移されたときには、フランケの創設から半世紀が過ぎていて、敬虔主義のうわべとかたくなな形式主義に支配されていた。これはニコライの父親の見込み違いであったのだ。敬虔主義を嫌っていたフリードリヒ大王に言わせれば、ただ「偽善的な坊主ども」と「プロテスタントのイエズス会士」を作っていたことになる。ニコライ自身は、のちにこの学校について次のように振り返っている。

「教育のやり方もまたその中身も、すべて伸びようとしている若者の精神の力を抑圧することに向けられていたようだ。魂の抜けた無為無策とうわべを取りつくろった態度が、信心深さなのであった。監督官や教師の下での奴隷的な服従と、信心深さだけが称賛されていたのだ」

ただニコライもシュタインというギリシア語の教師については良い印象を持っていて、彼がいたおかげでギリシア語を勉強したのだと、述べている。このシュタイン先生からニコライは、ギリシア語で書かれた新約聖書の一部を習い、さらにホメロスの『イリアス』から数節を教わったとき、ハレ大学で哲学を勉強していた兄のザムエルにこのホメロスがいったいどんな人物なのか、問い合わせている。それに対して「彼は私にホメロスが文学の頂点に立つ人物であることを教えてくれたが、当時15歳の少年だった私にとっては、ホメロスはまだ早すぎたようだ」と書いている。

とはいえホメロスの存在はその後もニコライの心に残り、のちに出版業を受け継いでから発行した、初期のたいていの出版物には、出版社の標章としてホメロスの肖像が印刷されていたのである。

初期出版物のホメロス胸像つき表紙

しかしシュタイン先生に代わって、細かなことにうるさい教師になってからは、この学校はニコライにとってますます息苦しいものになったようだ。

文学への開眼

学校の中の、こうした息苦しさから、ニコライは、もっと自由で開かれた世界にあこがれ、世俗的な文学を読みたいという欲求にかられるようになった。そんな時、兄のザムエルからニコライのもとに、一冊の文芸雑誌が送られてきた。この雑誌は『ブレーメン寄与』という名前であったが、そこには新しい啓蒙主義文学が紹介されていた。この雑誌を通じてニコライは初めてドイツ詩の概念を得たというが、それはまさに彼の「文学への開眼」であったのだ。

しかしニコライはこの雑誌を学校で自由に読めたわけではなかった。そのことについて彼は次のように書いている。

「敬虔主義に凝り固まったこの学校では、・・・世俗的な本、とりわけドイツ語の本は読むのを禁じられていた。それでも私は何人かの友達に、私の宝物ともいえる『ブレーメン寄与』を持っていることを打ち明けた。ところがそのことがやがて露見してしまった。当時は監督官に対しては、頭を垂れて密告するのが一番だと勧められていたのだ。そのため互いに信頼できる生徒は少なかった。もっとも信心深そうに見せかけていた者が、一番信頼できなかったのだ。私は自分の宝を、人の目につかないところ、つまりわら布団の中に隠したが、それでも見つかって、没収されてしまったのだ」

実科学校への転校

こうした状況を知った父親は息子を再び、ベルリンに新設されて間もない実科学校に転校させた。まさに中国の故事にみえる「孟母三遷の教え」を、地で行くものであったといえよう。

この学校はJ・J・ヘッカ-によって、1747年5月に設立されたものであった。「ヘッカーはハレの教育施設で教師としてフランケ流の教授法を徹底的に学び、1738年から説教者としてベルリンに招聘され、そこでも引き続き研究を行った人物である。・・・1747年ヘッカーはコッホ通りに、図工、幾何、技術、建築、手工芸、家政などを教える最初の小さな実科学校を開設し、翌年にはその学校の教師の数はすでに20名を数えるようになっていた」

この学校は「本来、職人養成学校として設立された学校であったが、しまいには神学、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、地理、歴史、正書法、実業書簡の書き方、数学、算術、音楽、植物学、解剖学、商学、鉱山学などが教えられるようになった。こんな状況だったので、口の悪い人からは、子供たちにこれだけのものを学ばせ、専門家の先生より利口にさせて、どうしようとするのだ、と非難された」

それはともかく、ニコライはこの実科学校に入学したのであったが、ここでの1年間に彼は、その前の二つの学校で得たものよりも、はるかに多くのものを得たという。その具体的な様子を、少し長くなるが、ニコライの自伝から引用することにする。

「私は実科学校に入学したが、そこは全く新しい世界であった。前に通った学校での授業が、わたしには全く面白くなく、無意味であったのに、この学校で学ぶことはすべて興味深く、変化に富んでいるように思われた。そのため最初の一か月、私は喜びのあまり我を忘れた。

植物学の授業では、春から秋にかけて、遠足が行われた。いろいろな雑草、花、木の葉を、家に持ち帰り、乾燥させ標本として、各自が保存することによって、植物の名前を覚えた。
解剖学は、骨格の模型と銅版画によって学んだ。冬になると数回、大学の解剖学教室に連れていかれ、死体を通じて内臓の位置や脳の構造などについて学んだ。
農業経済は、かつて実際に農場を経営していた人から教わった。この先生は私たちを外に連れ出して、農作業の実態を見せてくれた。
理化学では、まず一般的な知識が教えられ、また実験も行われた。理科学教室には、空気ポンプや気圧計、温度計、その他の物理の実験機材が置いてあった。さらに電気は当時まだ全く新しいものであったが、私たちは電気で動く機械のある場所に連れていかれ、当時としては最高級の実験を見せてもらった。
つぎに銅版画や石膏像を見ながら、人間の身体を描いた。最終段階では、一か月かかって、実物のモデルを使って人体をスケッチした。またあらゆる種類の建築学の製図の描き方を教わった。そしてかなり大きな実科学校の校舎を実測させられたし、建物の全体と個々の部分の平面図と立面図を素描し、仕上げをさせられた。
天文学は、ツィンマーマンの天体儀によって教えられた。冬の澄み切った大空にちりばめられた星がくっきり見える夜、戸外に出て星座を観察した。また何度か大学の天文台に連れていかれ、天文学の計測機器や天体観測に関する知識を習得した。

最高に面白かったのは、製作実習の時間だった。この時間には国王の法令に従って、当時ベルリンで親方になろうとする職人全ての資格審査合格作品が、生徒たちのために提示されねばならないことになっていた。クラスの全員が週に2回、ベルリンにあるマニュファクチャーや工場の見学に連れていかれた。そして各人が自分の目で見たものを記録しなければならなかったが、これは同時にわかりやすく明瞭な文章を書く練習にもなった。

必要な場合には、それに製図もつけられた。私がこの製作実習のクラスに出ていた年には、織物と羊毛製品の全工程について学習した。つまり羊毛の洗浄や紡績から布地の仕上げや羊毛製品の光沢仕上げに至るまでである。同様にして帽子や金銀などの貴金属の加工といった家内工業とか、針金製造やモールとか縁飾り加工に至るまでを学習した」

好奇心の目覚め

以上、実科学校の授業についてニコライの生き生きとした報告でお伝えしたが、さらに数学の授業では、機械的な訓練ではなくて、思考の訓練を学ぶことができたという。それはつまり知識の詰込みではなくて、物事の原因と結果について考えさせるという、やりかただったのだ。この原因と結果についての思考訓練は、のちにニコライが歴史の研究に携わったときに、大いに役立ったといわれる。

実科学校でのこのような教授法は、のちにスイスの有名な教育学者ペスタロッチによって形成された「観察こそあらゆる認識の基礎である」という理論を先取りしたものものであったといわれる。こうした状況の中で、少年ニコライの好奇心が、多くの分野で呼び覚まされた。

とりわけ数学の教師ベルトルトから大きな感化を受けた。この教師は生徒の中に、大きな感受性を見出して、数学以外でもニコライを手助けした。一緒になってヴェルギリウスやホラチウスといったローマの作家の古典作品を読んだり、ミルトンの『失楽園』のドイツ語訳を与えて、その語句の美しさにニコライの注意を向けさせたりした。後に彼がイギリス文学に傾倒するようになった、その基盤もこのあたりにあったようだ。

さらにその文章のスタイルを磨かせるために、ベルトルト先生は毎日ニコライ少年に対して、手紙を書かせもした。そして先の孤児院の学校で、宗教というものに懐疑心を抱くようになっていたニコライに、のちに村の牧師になったベルトルト先生は、真の宗教心を目覚めさせたのである。

ところが、おそらくニコライにとって「夢のようであったと思われる」勉学時代は、わずか一年で打ち切られることになった。厳しい父親の有無を言わせぬ命令によってニコライ少年は、現在はポーランドとの国境をなしているオーダー川に面した町フランクフルトの書店に送られることになったからである。今では、フランクフルトというと、国際空港があり、日本人の観光客やビジネスマンにもおなじみの商業都市フランクフルト(アム・マイン)のほうを考える日本人が大半ではないかと思われるが、オーダー川のほとりのこの町は、18世紀には大学もある、かなり重要な町であったのだ。

彼の一生に強い刻印を遺したこの実科学校、とりわけ素晴らしい恩師ベルトルト先生との別れを強制された少年ニコライの心は、「筆舌に尽くしがたい苦痛にみちていた」という。

書店での見習い時代

このフランクフルトの書店でニコライは、1749年から1752年まで、年齢にすると16歳から19歳までの3年間、見習いとして過ごしたのであった。この書店見習いとしての3年間に、ニコライは実科学校で身に着けた勉学の習慣を、さらに本格化させた。

しかしそれはまさに苦学生としての期間であった。父親としては、将来自分の書店を確実に継いでくれる後継者を養成するために、長男だけではなくて、末の弟のフリードリヒに対しても、修業を命じたのであった。その際厳しい家父長であったニコライの父親は、修業中の若者には小遣いを与えず、書店員としての仕事の習得に専念するよう指示した。そのためニコライにとって大学へ進む道は閉ざされたわけであるが、向学心に富んでいたニコライ青年は、まさに疲れを知らぬ熱意をもって、朝の早い時間や営業中の暇な時間を利用して、勉学に励んだのであった。そのころの様子をニコライは、晩年に記した自伝『私の勉学修業時代』の中で、次のように書いている。

「確かに私はそのころ、あらゆる苦労をなめた。冬には大変な寒さにさらされた。店の中も家の中も、部屋は暖房されてなく、夜も朝も明かりというものがなかった。しかし私はこうした苦労を克服することができた。・・・商売上のことには、昼間の三分の二の時間を費やすだけでよかった。そのため余った時間を利用して、あらゆる種類の知識を習得すべく務めた。

私が実行した最初の勉強は、英語の文法書と店の中で見つけた古ぼけた英語の本を頼りに、誰の指導も受けづに英語を学ぶことであった。かなり長い事私は朝食代その他を節約して、照明ランプ用の油を買っていた。それによって私は、冬でも寒い部屋で、朝も夜も勉強できるようになった。夏になってもその節約の習慣は続き、私はミルトンの作品に原文で取り組めるようになった」

勉学修業の継続

こうして彼は独学者の疲れを知らぬ熱意をもって、一歩一歩精神世界へと近づいていったのである。そして様々な領域にわたる彼の傑出した知識の基礎が徐々に形成されていった。新聞・雑誌や、あらゆる種類の書物を手当たり次第に読破していくことによって、のちの彼の博学の基盤が築かれたのだ。

その際かつての恩師ベルトルト先生によって切り開かれたギリシア・ローマの古典への関心は、作家エーヴァルトとの交友を通じて、さらに深まった。当時ニコライはフランクフルト大学の学生たちと知り合ったが、エーヴァルトはそうした学生の一人であった貴族青年の家庭教師をしていたのだ。ニコライは彼から与えられたホメロスのオリジナル版をはじめ、ギリシアの抒情詩人の作品を夢中になって読んでいった。この時以来ホメロスは、ニコライにとって切っても切れない存在になっていくのだ。

さらにニコライは、それまで近づきにくい存在だった哲学も、学生の講義ノートを通じて、瞥見することができた。当時、同大学で哲学を講義していたのは、A・G・バウムガルテンであった。彼は啓蒙哲学者クリスティアン・ヴォルフの弟子で、ドイツ美学の始祖として知られている人物である。独学者のニコライはその講義の一部を盗み聞きするために、教室の扉に忍び寄ったりしたという。そのいっぽう神学の学生パッケと知り合ったが、その講義ノートを通じて、バウムガルテンの論理学、形而上学及び美学を学んだのであった。

これらは全く新しい精神の領域へと彼を導いた。またペスラー教授や法律顧問のフォン・トルといった学識者も、この独学者を受け入れて、その図書室を利用させた。これらの勉学、とりわけバウムガルテンを通じて、習得したヴォルフの哲学から、ニコライは啓蒙思想の豊かな所産を手に入れていったわけである。

しかし学識に対するニコライの姿勢は、大学でのポストを得るために研究を続けている大学教員の細事拘泥主義とは根本的に異なっていて、「現実生活に役に立つか」とか「社会や公共の利益にかなうか」といった基準に基づいていたのだ。つまり彼にとっての学識の意味は、あくまでも社会性、公共性、実用性のはかりにかけられたものであった。こうした基本姿勢をニコライは、すでにこのフランクフルト時代から身に着け始めていたのだ。

これに関連して歴史家のホルスト・メラーは次のように述べている。「ニコライは早い時期から、実生活に即したあり方と実際活動の中での学識とを結び付けていた。彼は前者からは逃れられず、その一方後者なしでは済ますことができなかった。実現不可能な理論を考え出す学者の、誤ってそう思われていたり、あるいは実際に存在する世間知らずな態度こそは、(のちに)彼が哲学論争する時に、(相手を非難する言葉として)持ち出した決まり文句なのであった」

彼が後に信条とするようになったのは、「健全な良識」であったが、そのために彼が身に着けた知識は、あらゆる分野にわたる広範なものであった。それらは、学者・知識人に言わせれば、深く熟考されたものではなく、いわば知識の折衷主義だということになる。しかしそれは死んだ知識ではなくて、社会や公共の役に立つ生きた知識なのであった。その意味でニコライは「象牙の塔」に閉じこもった学識者ではなくて、「生きた社会」のために、その知識を生かそうとした「優れたジャーナリスト」であったのだ。

ニコライが世の中に提供しようとしていたものは、啓蒙の時代にふさわしく、まさに「百科全書的な」知識なのであった。このような姿勢はすでにフランクフルト時代にその萌芽がみられており、そのころ図書館にこもってニコライが考えていたことは、当時の重要な著作家とその作品をまとめて、ある種の事典を作ろうという構想だったのだ。

2 青年時代の活動

ベルリンの実家への帰還

父親の計画では、フリードリヒの書店見習い期間は、1752年の末までであったが、一つには体調を崩したために、もう一つには軍隊勤務から逃れるために、彼はその年の1月にベルリンへ戻り、父親の書店の手伝いをすることになった。ニコライはこの時19歳になっていた。

ところがその数週間後の2月22日に父親が死亡し、その書店は4人の息子たちが所有することになった。ただ書店経営は、長男のゴットフリート・ヴィルヘルムが受け継ぎ、書店見習いをして実務に通じるようになっていたフリードリヒは、全力で兄を助けていくことになった。

そのため彼には、それまでのように勉強していく時間が、ほとんどなくなってしまった。それにもかかわらず、彼は寸暇を惜しんで、勉学を続けたのであった。「朝の早い時間か、夜遅くにしか勉強の時間はなかった。その時間に私は、むさぼるように勉強を続けた。そしてやがて日中にも商売の支障にならないように気を付けながら、本を読んだ。店内の騒音などは気にせずに、読書をしたり、思索にふけったりする術を、身に着けたのである」

やがて父親の遺産をめぐって兄弟たちの間で争いが起こり、結局書店は長兄が単独で受け継ぐことになった。そのためフリードリヒは商売から手を引くことになったが、遺産の自分の取り分とその利子で、質素ながら暮らしていくのに十分な経済的な保証は得られたのであった。

自由の身になって

晴れて自由の身になったニコライは、この後しばらくの間、念願であった学問や文学の研究や、友人たちとの交際に専念できることになった。このころニコライは、ドイツの啓蒙期の最重要な合理主義哲学者といわれるクリスティアン・ヴォルフの教えに取り組むことになった。

「今や私はヴォルフのドイツ語の著作を勉強し始めた。そしてそれを数年間続けた。今や私は、彼の概念規定や彼のとった態度について考えることのできる年齢に達していた。」

ニコライはヴォルフ哲学だけでなく、それまで欠けていた教養を、体系的に身につけようとして、その全エネルギーを注ぐことになった。彼はギリシア語を勉強しなおすと同時に、ヴィンケルマンの著作から刺激を受けて、美術史の勉強にも励んだ。また音楽史の勉強でも、さらに磨きをかけた。以前から和声学を学んでいたが、ビオラ奏者としてもかなりの腕を示した。そのため後年家庭音楽会を開いた時には、ビオラのパートを受け持った。

その一方、この時期に彼は私設図書館の設立も始めている。啓蒙主義の時代は、まさに百科全書の時代でもあったので、ニコライの広範な分野にわたる書籍収集活動は、彼自身の生き方の現れであったのと同時に、時機に叶ったものでもあったのだ。

文芸評論活動の開始

こうした多方面にわたる勉学と並行して、ニコライはすでに執筆活動にも乗り出していた。その手始めとして彼は、学校時代に発見していたイギリスの作家ミルトンの『失楽園』に関する評論を、早くも1753年(20歳)に匿名で発表した。当時ミルトンは、ドイツ語圏の啓蒙の中心地であったライプツィッヒとチューリヒの文芸界で、論争の中心に位置していた作家であったため、この評論は注目を浴びたのである。

その中でニコライはライプツィッヒ在住で、当時ドイツ文学界で帝王と呼ばれていたゴットシェートを批判したのだが、それによってこの人物と対立関係にあったボードマーをはじめとする人々の拍手喝采を浴びたのであった。ともあれこの処女作が文芸界で一定の評価を受けたため、ニコライは自分の作品を公表することに、物おじしないようになった。この時彼は弱冠20歳であったから、書店員としての仕事の傍らに書いたものとしては、かなり早いデビューであったといえよう。

その後ニコライは、当時すでに名声を得るようになっていた作家のレッシングの作品から影響を受けるようになった。レッシングの文体の優雅さと気品が、彼に強い感銘を与えたのである。そしてその軽快な手紙の調子を取り入れて、ニコライは次の作品を1754年にものした。それが『ドイツにおける文芸の現状に関する書簡』で、これは翌1755年に出版された。ニコライの伝記を書いたグスタフ・ジヒェルシュミットによれば、この作品は前述した「ライプツィヒとチューリヒとの間の文学論争に最終的な決着をつけるうえで、少なからず貢献した」という。

ちなみに「18世紀最大の美学論争」といわれている、このミルトンをめぐる争いは、合理主義的かつ擬古典主義的な規範詩学の信奉者たち(ゴットシェート派)と、空想や感情の権利を重視する傾向のあった人々(ボードマー派)との間の典型的な争いであったのだ。またジヒェルシュミットは「この作品の出現によって、ドイツにおける文芸批評不在の時代に終止符が打たれた。ニコライのような、ものにとらわれない、自由な精神の持ち主だげが、名のある人々に対しても批判的に対峙する権利を有した。・・・彼は同時代の、なお地方的なドイツ文学に新たな可能性を切り開くために、両者に対して、容赦ないが、正当だと信じた批判を加えたのである。」とも書いている。

こうしてニコライは文芸評論家としての第一歩を記したのであるが、そこには後年論争家として、様々な論敵と闘っていく自信が、すでにみられるのである。

レッシング及びメンデルスゾーンとの出会い

レッシングの肖像

『ドつにおける文芸の現状に関する書簡』は、のちの大作家ゴットホルト・エフライム・レッシング(1729~1781)の注意を引き付けた。その内容に注目したレッシングは、ただちにその作者と知り合いになることを求めた。当時すでに成功した作家となっており、著名なジャーナリストとしても広く世間に影響を及ぼしていた人物が、緊密な精神的な結びつきを求めてきたことは、若きニコライの自尊心を著しく高めた。

彼は他人との精神面での接触や人間的な付き合いというものを常に大切にしていたので、この人物と親しく過ごしたその後の数年間というものは、まさに陶酔的な気分に満たされていたという。収穫の多かったこの時期を振り返って、ニコライは晩年に次のように記している。

「レッシング及び彼を通じて、モーゼス・メンデルスゾーンとも、1755年の初めに知り合った。そしてこの二人と私は親しい友情で結びつけられた。この友情は、これら偉大な男たちの死に至るまで続いた。・・・我々三人は、当時その花盛りの時にいた。真実への愛と熱意に満たされ、三人は何ものにもとらわれない自由な精神のもと、学問上のさまざまな想念を自らの中に育てること以外に、何の意図も持っていなかった。

二十年以上にわたる我々の親密な交際にあって、一度たりとも誤解が生じたことはなかった。我々の会合では、たいていの場合、活発な論争が起こった。しかし互いに何らかの独善的態度や教師面をとることなしに、多くのアイデアが生まれたのである」

レッシングは各地を転々とする定職のない生活を送っていた。しかしベルリンの滞在中には、これら三人の友人たちは、あるいはニコライ家の庭での朝の集いで、あるいはベルリンの有名なワイン酒場「バウマンスヘーレ」での夜の集まりで、親交を重ねていたのである。ニコライはこのころの三人の談話について、次のように書いている。

「レッシングはベルリン滞在中、しばしば我々の哲学談議に加わった。彼がいるとその談義は、一層盛り上がった。彼は議論をするとき、弱いほうに肩入れするか、誰かが賛成論をぶつと、ただちに独特の鋭い調子で、それに反論を加えたからだ。・・・とはいえレッシングのこの流儀は、ただ反論するのが好きだからだというのではなくて、それによって概念をより明瞭にさせようという意図によるのだ」

この時期ニコライは、傾倒していた寛容と自由の国イギリスへ移住して、みじめなドイツから永遠におさらばしようという思いに取りつかれたことがあった。しかしレッシングとメンデルスゾーンとの精神共同体を捨てたくなかったので、結局この考えをあきらめた。この二人と出会った1755年には、ニコライは22歳、レッシングとメンデルスゾーンは26歳であった。

この後三人はドイツの文芸界、思想界に新たな息吹を吹き込む具体的な活動に乗り出すが、彼らは新しい世代感情を代表していたともいえる。これら三人の啓蒙家が作り出した、実り豊かな精神共同体は、ドイツ文化史上これまで以上に高く評価されるべきであろう。

メンデルスゾーンとの交友

モーゼス・メンデルスゾーンの肖像

モーゼス・メンデルスゾーン(1729~1786)はユダヤ人で、1743年以来ベルリンに住んでいた。その息子は後に、銀行家として経済界で活躍することになり、また孫は日本でもよく知られた音楽家のフェリックス・メンデルスゾーンである。

14歳の時、モーゼス・メンデルスゾーンは、その先生 D・フレンケルがベルリンに新設したタルムード研究のための高校に移るために、生まれ故郷の町デッサウを離れて、プロイセン王国の王都ベルリンにやってきたのだ。当時のプロイセン王は、啓蒙専制君主として知られているフリードリヒ大王(在位:1740~86)であった。この国王はフランスの名高い啓蒙主義者ヴォルテールを呼び寄せるなど、学芸の振興に努めていた。そしてユダヤ人に対しても寛容な態度をとっていたのだ。

さてメンデルスゾーンは生計のために、はじめヘブライ語のテキストを清書する仕事についた。ついで家庭教師をやり、1754年からは絹取引商 I・ベルンハルトの簿記係として働いていた。そして商売に熱心に打ち込み、やがてそこの共同経営者になった。

彼はニコライ同様、大学には行かずにいわば独学で、M・マイモニデス、キケロ、ユークリッド、スピノザ、ライプニッツ、ヴォルフなどの哲学を熱心に学んだ。と同時に数学も勉強し、さらに住んでいた国の言語ドイツ語のほかに、ラテン語、フランス語、英語も習得した。ユダヤ人であったメンデルスゾーンの母語は、西部イディッシュ語であった。

レッシング及びニコライと初めて会ったときは、著作活動を始めたばかりのころであった。後にレッシングはその劇詩『賢者ナータン』の中で、メンデルスゾーンの面影を描き、この人物の姿を後世に伝えている。しかしニコライとしては、同じ商人であり、同時に学識がある人物という共通性から、彼に親しみを感じたようである。この点についてニコライは次のように書いている。

「我々が知り合ったばかりのころ、対象を考察するその仕方において、私はM・メンデルスゾーンに近いものを感じた。なぜなら彼は、その知識の大部分を人から教えてもらったのではなくて、自らの努力を通じて獲得したからである。彼も、私同様に商人であった。そして我々二人は、様々な対象を、もっぱら大学教育を通じて習得した人とは違った観点から考察することを学んだのである」

ニコライとメンデルスゾーンの二人は、1755年、ベルリン在住のミュヒラー教授によって作られた「学識者のコーヒーの会」の会員となった。会員数は百人で、七年戦争(1756~63)の中ごろまで存続したという。そこでは4週に一度、数学、物理学、哲学などの分野の会員の論文が発表されたという。

またこの時期にニコライはレッシングの手引きで、「月曜クラブ」という会にも入っているが、この会については後述することにしよう。

『文芸美術文庫』の発行

休みを知らないニコライは、知識の吸収・習得に励むかたわら、まずは文芸の世界で世の中に働きかけることを始めた。先の文芸批評の中で、彼は「客観的批評ををすべきである」と主張したのであったが、いまやこのことを自ら雑誌を発行することを通じて、実現しようとしたのである。それがつまり1757年創刊の『文芸美術文庫』なのであるが、メンデルスゾーンやレッシングもこの雑誌の発行に賛成してくれた。そしてライプツィヒのデューク出版社が紹介された。

当時のドイツには、医学、法学、神学、歴史学などの専門的な学術雑誌や、人の役に立ち、道徳を奨励することを狙った、一般市民向けの道徳週刊誌などがあった。これらに加えて、1750年ごろのドイツに入ってきて、1780年代にその最盛期を迎えた文芸評論誌が、啓蒙主義のメディアとして、実にさまざまに発行されていた。ニコライのこの雑誌は、いわばそれらの先駆的存在だったのだ。

ニコライはこの文芸評論誌の編集を担当するとともに、その主要な寄稿者としても、まさに水を得た魚のような活躍を示した。彼はドイツ文学のあらゆる分野に目を光らせたばかりでなく、イギリス、フランス、イタリアにおける新刊書をも批評の対象にしようとして探し回った。またニコライはドイツ人の間に文学とよき趣味を育てることを目指して、絵画、銅版画、彫刻、建築、音楽、バレーなどを、考察の対象に含めた。

彼の本質に深くかかわっていた百科全書性が、すでにこの雑誌にも現れたというべきであろう。彼はこの雑誌を一つのフォーラムと考えていたが、その一例として、ドイツでそれまで長年にわたって続いてきた演劇改革に関する議論に対して、この評論誌を通じて決着をつけようと考えたことがあげられる。

そしてそのために第一号で、ドイツで最良の悲劇に対して、50ターラーを授与するという懸賞募集を行った。この募集を通じて、レッシングはその『エミリア・ガロッティ』の構想への刺激を受けたという。そしてそのほか数人の作家が悲劇作品をものしている。ニコライ自身は第一号に、「悲劇について」というエッセイを発表しているが、それに先立って、彼はレッシング宛の手紙の中で、新しい悲劇の在り方について、次のように書いている。

「・・・悲劇の目的は情熱を浄化し、道徳を形成することだという命題を、私は論破しようと思っています。・・・悲劇の目的は情熱を刺激することだと、私は考えます。もっともすぐれた悲劇は最も激しく情熱を揺さぶるものであって、情熱を浄化するものであってはならないのです」

いっぽうこの評論誌を支援していたレッシングは、1757年8月26日付けのニコライ宛の手紙の中で、友人としての率直な忠告を行っている。

「親愛なるニコライ。今回は少しだけにしておこう。私の考えが、いろいろと貴君の気に入ってくれて幸いです。貴君がそこから使えるものすべてを、役立ててください。ただその前に、われらの愛するモーゼスと一緒に考えてほしいのです。というのは、現在私が陥っている混乱した状況の中では、何か役に立つことを考えるのは、ほとんど不可能だからです。
・・・ただ愛するニコライ、誤植が多いのは自分の責任だと思いますか? これからは貴君の原稿は、もう少し読みやすくしてほしいものです。私がそちらにいないと、どんなおかしな誤植が忍び込むやら!・・・お元気で。たびたびお便りを下さい。貴君の真の友、レッシングより」

やがて歳を重ねるにしたがってニコライは、次第に市民的な健全な良識という事を、文学の在り方としても主張するようになっていくが、それは若き文芸評論家時代の考え方とは、著しく異なるものだといえよう。

それはともかく、この文芸評論誌を始めて二年足らずの1758年秋に長兄が亡くなり、ニコライは25歳で出版社の経営を引き受けざるを得なくなった。それを理由にニコライはこの雑誌の編集の仕事を退き、その仕事をヴァイセという人物に譲ることになった。この人物は雑誌の名称を、『新文芸美術文庫』と改めたが、これは1806年まで続いた。

『最新文学に関する書簡』

その後ニコライは商売のために以前にもまして多忙となったが、レッシングの強い勧めもあって、新しい雑誌を、今度は自らの出版社から発行することになった。これが『最新文学に関する書簡』(以下『文学書簡』と省略)で、1759年1月から1765年7月まで、毎週木曜に発行された。今回はレッシングの忠告に従って、ドイツのことだけを扱い、また内容的にも文学だけに集中することになった。「この賢明な自己抑制から、『文学書簡』は驚くべき魅力を発揮して、人の心に強く訴えることができた」という。

文芸批評誌であるのに、文学書簡という名称がついているのは、七年戦争で負傷した友人の詩人エーヴァルト・フォン・クライストに、最新の文学状況を知らせるという形式をとっているためである。プロイセン王国ににとって運命的であったともいえるこの七年戦争(1756~63年)中の高揚した雰囲気が、この『文学書簡』から今日なお伝わってくる。また書簡という形式はこの時代のごく一般的な文学形式でもあったのだ。

レッシングは初期のころはこの雑誌にたくさん寄稿したが、ブレスラウへ移ってからはそれも不可能になった。その代わりに、責任ある編集者としてニコライは、合計335編の書簡のうち64編、つまり五分の一を自ら書いていた。しかしメンデルスゾーンと二人だけでは、この仕事を長く続けられないと感じたニコライは、第8号から常勤の協力者としてトーマス・アプトという人物を迎えることになった。『祖国のために死ぬことについて』という著作によって文芸界にデビューしたアプトは、ニコライにとって頼もしい味方となったのである。

当時のベルリンの文学界の生きた証言になっていたこの『文学書簡』の中では、様々な文学問題が扱われていた。しかしその率直さが、例えば神学に関することでは、正統派神学者の強い反発を呼んだ。その結果この雑誌は一時ベルリンで、発禁処分を受けたりした。

当時すでにニコライは、正統信仰派や敬虔主義者から自由思想家ないし異端者と見なされるようになっていたのだ。そして彼や彼の仲間たちは、侮蔑的に「ニコライ派」と呼ばれていた。このころからニコライは終生、様々な文学上・思想上の敵と立ち向かうことになったわけである。

それはさておきジヒェルシュミットによれば、『文学書簡』は商業的にも成功をおさめ、「今日なおドイツ文学史上に確固たる地位を主張できる」という。そして「そこには文学上の啓蒙主義が高らかに宣言されている」とも彼は書いているのである。またH・メラーも、「・・・文学史的に見れば、(のちの『ドイツ百科叢書』よりも)実り多いものであり、レッシング、メンデルスゾーン、アプトの協力を得て、内容面でも、言語面でも、高い水準にあった」と述べている。

とはいえ、あらゆる困難や停滞にもめげずに、雑誌の発行という事業を推進したのは、ニコライなのであった。啓蒙主義の文学や思想を広く一般に普及させて、ドイツの一般的な文化風土を変革していくことこそ、ニコライがその後終生にわたって、目指したものであった。一般に啓蒙主義の普及に果たした出版業者の役割は大きかったが、出版業者で同時に雑誌編集者でもあったニコライの二重の役割は、格段に評価されてしかるべきであろう。