16~17世紀の出版業の諸相 01

その01 印刷術とヨーロッパ各国語の形成

<中世から近世への移行と各国語の形成>

先に述べたように、活字版印刷術は宗教改革の発展に大きく貢献したのであるが、同様に印刷術は、西ヨーロッパ各国の国語の形成とその固定化に対しても、本質的な役割を果たしたのであった。

キリスト教が支配原理となっていたヨーロッパ中世の時代、千年の長きにわたって各地域の共通語としての役割を果たしていたのが、基本的に書きことばであったラテン語であった。ところが、まさに活字版印刷術が発明された15世紀半ばから、16世紀の初頭にかけて、大きな変化がみられることになったのだ。西ヨーロッパ諸国においては、それぞれの地域の民衆が話していた俗語が「書きことば」として表わされるようになったわけである。そしてそれが各国の共通語として役立てられたのであった。その際それらの書きことばは印刷物の形で人々に提供され、普及していったのである。つまり千年の長きにわたってヨーロッパの共通語としての役割を果たしてきたラテン語に代わって、この時期に、各地域の民衆が用いていた言葉がそれぞれの地域の共通語になっていったわけである。

イタリア語版『アイソポスの生涯と寓話』
(1485年、ナポリの印刷業者
トゥッポによって印刷)

こうした各国語形成の流れは16世紀の全期間を通じて続き、17世紀には西ヨーロッパ諸国の国語はほぼ結晶化されていた。それらはフランス語、ドイツ語、イタリア語、オランダ語、英語、スペイン語、ポルトガル語など今日においても用いられている言語であるが、それらの言語はそれぞれの地域に対応するようにして使われているわけである。ただしそれらの言語は、今日においては厳密にいえば「国語」とは呼ばないほうが良いと思う。というのは現在の日本人が普通に考えているようには、国家と言語は厳密に対応しているわけではないからである。たとえばスイスという国にはスイス語というものはなく、ドイツ語、フランス語、イタリア語そして少数のレト・ロマン語などが用いられている。またベルギーには、ベルギー語というものはなく、オランダ語系のフラマン語、フランス語系のワロン語、そしてドイツ語も使われているからだ。

ところでヨーロッパの中世から近世への移行を象徴するものとしては、ルネサンス、人文主義、宗教改革などがあるが、ヨーロッパ各国語の形成も、その一つの重要な要素だったといえよう。ただ各国語の形成を促したのは、もちろん活字版印刷術だけではなかった。それ以前からも、各地の宮廷書記局はさまざまな語法を一般化しようと努めていたわけで、多くの場合これらが文章語の語法になったといわれる。中央主権を推進する各国の王権が16世紀に出現して、それが強化される中で、この言語の統一も推し進められたのである。とりわけフランスやスペインの国王の政策は、この観点から見る時極めて明確であった。

それでも印刷術が果たした大きな役割には、なんら疑いはなかったといえる。先に述べたフランスのエティエンヌ一族のロベール一世やアンリ二世の著作や出版活動は、まさにフランス語の形成に大きく貢献したのであった。この二人に限らず、この時代の出版業者はこぞって、多くの領域でラテン語ではない自国の国語が発展していくように努力したわけである。

<ラテン語のゆっくりとした衰退>

16世紀はギリシア・ローマの古典古代文化が再生した時代であると同時に、中世に栄えたラテン語がその地歩を失い始めた時代でもあった。この傾向はとりわけ1530年ごろから明白となった。書籍商の顧客は、従来の聖職者や学者や高級官僚などの知識人のほかに、少しづつ俗界の人間によって占められてゆき、時にはそれが女性であったり、商人であったりした。

これらの人々の多くはもともとラテン語に縁がなかったので、宗教改革者たちは断固として近代の自国語を用いたのであった。また人文主義者たちも、広い範囲にわたって読者を獲得しようとして、自国語を援用することをいとわなかった。そのためにこの時代には、ヨーロッパ各国語で出版される書物の割合が増加していったのである。

たとえばフランドル地方(現在のベルギー)の新興都市アントウエルペン(アントワープ)は商人の町であっため、そこの出版業者の顧客のある部分は、金持ちになったばかりで、ほとんど教養のない市民によって構成されていた。そのためもあってか、1500-40年にかけてアントウエルペンで出版された書物のかなりの部分が、彼らが使っていた言語であるフラマン語で書かれていたのだ。つまりその間に出版された2254点の書物のうち787点がフラマン語(35%)で、そのほか148点が近隣のフランス語、88点が英語、そしてデンマーク語、スペイン語、イタリア語がそれぞれ20点ほどで、残りの半数あまりがラテン語であった。

これほど顕著ではないにしても、西ヨーロッパの多くの都市で、同様の報告がなされている。パリの場合は、16世紀の初頭と同じ世紀の四分の三が過ぎたころとでは、フランス語の書物とラテン語の書物との割合が大きく変化しているのだ。1501年には、刊行された総数88点のうちフランス語の書物はわずかに8点(約1割)に過ぎなかった。それが1549年になると、総数332点のうちフランス語の書物は70点(約2割)となり、1575年には総数445点のうち245点(半数以上)がフランス語の書物になっていた。この四分の一世紀の間に、ラテン語とフランス語の割合が逆転したわけである。たしかにこれらの数値の中には、宗教戦争の間にばらまかれた宣伝文書やチラシなど書物とは呼べない代物が含まれてはいる。しかしフランスでの宗教戦争が終わった後でも、パリでは相変わらず過半数の出版物がフランス語で出版され続けたのである。

近代の各国語の台頭の前に、ラテン語が後退していく様子はドイツでもうかがわれた。先に述べたようにルターによる宗教改革の影響で、それまで俗語であったドイツ語の書き言葉が発達した。この時代のルターによる聖書のドイツ語への翻訳などを通じて、文章語としてのドイツ語が形成されていったといわれる。その際ルターがとりわけ注意を払ったのは、語彙(ごい)であったという。彼は、翻訳にあたって最も適切な単語を探したが、多数ある同義語の中から、民衆が使用することの最も多い単語を選び出すという選択に意を用いたのであった。こうしてルターが編み出した言語は、あらゆる分野において、近代ドイツ語の形成へと向かっていったわけである。

<イギリス及びスペインにおける事情>

16世紀の初め、いわゆる大航海時代の幕開けの時代、イギリスとスペインの両国は、ヨーロッパにおいては、なお辺境国であった。もちろんこの世紀の間に両国は大きな発展を遂げたが、印刷・出版業に関しては、この世紀を通じてもなお、「補完的」な地位にあったのだ。

当時はまだ国際語(共通語)であったラテン語の書物については、イギリス、スペイン両国とも、フランスやドイツ、イタリアといったヨーロッパの中核国で出版されたものを輸入していた。それでもイギリスにおいては、ドイツと同様に、宗教改革運動が聖書の翻訳や宗教関連書の出版を促し、そこに使われた英語が、その後のイギリス文学や文化全般に大きな影響を及ぼしたのだ。その時聖書の翻訳を刊行したのは、ウィリアム・ティンダルであり、それに続いたのがマイルズ・カヴァーデールであった。

とはいえ、何よりも国語としての英語の尊厳をイギリス人に意識させた書物は、1549年に刊行された『通常祈祷書及び秘跡の授与』ならびにスターンホールド及びホプキンズが共同で翻訳した『詩篇全書』(1567年)であった。これらの書物の大きな特徴は、なによりも使われていた語彙が、わかりやすく簡明なことにあった。たとえばあのシェークスピアが使った語彙が全作品で2万1000語にも及んだのに対して、こちらのほうは6500語であった。シェークスピアが、その高度な文学作品の中で駆使した言葉の数々は、当時の一般民衆にとっては難解な代物であったに違いない。それに比べれば、こちらのほうはわかりやすく、多くの人々に受け入れられたわけである。

さらに英語散文の記念碑的作品と呼ばれている『欽定訳聖書』が、時の国王ジェームズ一世の命によって1611年に完成した。これはイギリスの近代散文の発展に大きな影響を及ぼしたといわれているものである。また16世紀には、イギリスへはフランスやスペインなどの大陸からたくさんの書物が流れ込み、それらの多くは英語に翻訳されていた。と同時にギリシア・ローマの古典作品も、どんどん翻訳されていた。そしてフランス語、スペイン語、ラテン語から成句類を借り入れて、英語は言語として豊かになっていったのである。しかしそれらの豊富な語彙は、日本人にとっては、英語学習の難しさに結びついていると、私は考えている。

いっぽうスペインでは、15世紀の末にアラゴン王国とカスティーリャ王国が合併して、スペイン王国が生まれている。それはコロンブスが新大陸の近くの島にたどり着いた1492年に先立つころのことであった。まさに大航海時代の幕開けのころであったが、ヨーロッパにおいては、そのスペイン王国はイスラム勢力を追い払った直後の時代で、まだ強国ではなかった。そしてまだ統一国家の実態ができていない頃であった。

その片割れのアラゴン王国についての記録が残っているので、次に紹介する。この王国では1501-10年に、ラテン語で25点、スペイン語で15点の書物が出版された。それに続く30年間には、ラテン語が115点、スペイン語が65点刊行された。そして次の1541-50年には、ラテン語が14点と減少し、逆にスペイン語の出版物が72点へと増えている。ここでもラテン語の衰退が如実にみられるのだ。

その02 この時代の書籍取引

<書籍の発行部数>

活字版印刷術が発明されてから2-30年間の草創期にあっては、まだ書物の市場が十分には組織化されていなかったために、一点あたりの発行部数もささやかなものであった。たとえば1469年、ヨハネス・シュパイヤーは、ヴェネツィアで、古代ローマの作家キケロの『親しき者への手紙』を、わずか100部しか刷っていない。また1471年にフィレンツェの修道院で出版された作品も、同じく100部であった。

さらに1471年にフェラーラで、200部印刷されたことが記録に残っている。そしてイタリアに印刷術をもたらしたドイツ人印刷工のスヴェインハイムとパナルツの二人は、一点あたり275部から300部を印刷していたが、それらの本の売れ行き不振を、時の教皇に訴えている。

ところが先にも述べた、ニュルンベルクを本拠地とした国際的な出版業者アントン・コーベルガーが大活躍を始めた1480年ごろから、書籍市場は組織化され始め、それに伴い書物の価格が低下し、平均発行部数も急速に伸びるようになった。

書誌学者ヘーブラーによると、このころから平均発行部数が400部から500部になったという。さらにコーベルガーのような幾人かの大出版業者の場合は、このころすでに発行部数1500点を達成していたという。しかしその後は長い間、発行部数はこの程度で固定化していたようだ。ちなみに人文主義者エラスムスが著わした『痴愚神礼賛』の初版(1515年)の発行部数は1800部であった。

宗教改革者ルターのドイツ語訳聖書の初版発行部数が4000部だったのは、まさに例外といえた。16-17世紀を通じて、2000部を超えた書籍といえば、はじめから固定客が見込めた宗教書か教科書に限られていたようだ。

<書物の輸送と販路>

当時の印刷・出版業者は、自分の居住地だけでは買い手を確保することができなかった。そのために互いに離れ離れになっていた印刷・出版業者同士で書物を送りあって、販路を確保していた。その際、産業革命以前のヨーロッパでは、書物の輸送手段としては、水路を船で運ぶか、もしくは陸路を荷車で、または人間が背負って運ぶしかなかった。写本ではないにせよ、印刷された書物もまだまだ高価で、貴重な商品であった。そして同時に重くかさばるものでもあった。そのために輸送費がしばしば書物の価格に跳ね返った。

そこで少しでも重さとかさばりを少なくするために、書物は「未製本のまま」で輸送される場合も少なくなかった。もちろん製本されて運ばれる場合もあったが。そうした印刷された紙は船倉でぬれたり、雨風で台無しになる危険にさらされていた。

未製本の刷り紙は、一定数を束にして箱に詰められた。また荷造りした貨物である梱(こり)にして紐をかける場合もあった。そうした書物の梱や製本された書籍は、雨風や水に濡れるのを防ぐために、木樽の中に詰める必要があった。

書籍業者が本を樽詰めにしているところ。
背後の道具は製本機と思われる。
(1698年の銅版画。ドイツのレーゲンスブルク)

とはいえ、それほどまでに用心しても、書物が目的地に着いた時には水をかぶっているか、破損していることが、まれではなかったという。しかも書物の入った樽は、目的地に着くまでに何度も輸送手段を変える場合も少なくなかった。現在ならトラックでなんの困難もなく運べるような西ヨーロッパの比較的狭い地域の輸送でも、当時は大変なことだったのだ。

フランドル地方(現在のベルギー)のアントウエルペン(アントワープ)の書籍商が、パリへ書物を送る場合は、普通は専門の運搬人が陸路を荷車で送っていた。しかし船のほうが大量に運搬できるために、時として、船でイギリス海峡から少し入った港町ルーアンまで運んで行って、そこからセーヌ川の平底船に引き継がれて、運ばれることもあった。

ヨーロッパ西部の地図

またアントウエルペンから南フランスのリヨンあての書物は、たまにはリヨン直行の輸送人にゆだねられることもあった。しかし通常は、先ほどのルートでまずパリまで運ばれて、そのあとはリヨンの書籍商の代理人が引き取って、最終目的地であるリヨンへと、水上や陸路の運搬手段で送っていた。

あとで項を改めて詳しく紹介するが、16世紀後半から17世紀にかけて活動したアントウエルペンの大出版業者プランタンの場合、スペイン向けの書物は、まずルーアンかブルターニュ地方のどこかの港に運ばれ、そこからスペインの港へと運搬されていた。(ヨーロッパ西部の地図参照) そしてスペインからさらに大西洋を横断して、アメリカ大陸まで向かう場合もあった。プランタン社の販路は実に広く、ノルウエーのベルゲンやバルト海南岸のダンツィヒにまで及んでいた。その際同社の人々は、船の出港のタイミングを絶えず気にかけ、嵐を心配し、海賊が出るのを恐れていたという。

いっぽう陸路の場合も困難は大きかった。南仏リヨンの書籍商がイタリア方面へ書物を輸送する時、荷車でアルプスを越えるときの苦労は並大抵のものではなかったという。(ヨーロッパ西部の地図参照)

さらに、様々な輸送手段を用いる場合には、荷物の積み替えに対して、十分な対策を準備しておく必要があった。現場では積み替え作業をする人が文字を読めないため、代わりに大樽に絵文字を書いて目的地を表していた。しかしそれが紛らわしい場合もあって、書籍商の人が現場監督する必要があった。さもないと手違いが起こって、目的地につかない時もあったという。

こうした理由から、一般に印刷・出版業は、外部との交通・通信が容易な港町や、大商業都市に発達したわけである。

<この時代の取引方法
ー書物の交換と為替手形>

これまで述べてきたように、苦労を重ねて書物が取引先に届いたとして、その代金の支払いはどのようにして行われていたのであろうか? 当時の銀行組織は、このような取引にはほとんど適合していなかったという。

貨幣による現金払いはまず不可能であった。当時、外国や遠隔地に住む書籍商が、書籍を受け取るたびに送金するのは容易ではなかったのだ。そのために17世紀末まで広く用いられていた方法は、書物の交換と為替手形であって、普通はその両者が組み合わされていたらしい。

つまり書籍商は、書物を受け取ったときは支払うべき金額を帳簿に控えた。そして書物を送ったときは、取引先が支払うべき金額を帳簿に記入した。しかしその決済は通常かなり長い期間をおいて行われ、債務者は差し引き残高を、三者間の決済という方法で精算していた。

例えば、パリのAはアントウエルペンのBから書物を余計に受け取っているために、Bの債務者ということになる。いっぽうこのAはブリュッセルのCに多数の書物を送っていたので、Cの債権はAに委譲される。その際アントウエルペンとブリュッセルは近隣の都市で直接接触できるので、この三者間の決済はうまくいくというわけである。

しかし互いに遠隔地である場合や、取引相手がもっと増えた場合には、複雑さがまして、危険を伴ったようだ。例えば二国間の通商が中断すると、支払いができなくなり、倒産に追い込まれる出版業者も出てきた。それを防ぐために、書籍商たちは倒産のおそれのある同業者に資金を出して、救うという方法をとったという。

以上述べてきたやり方は、互いに離れたところに住んでいた出版業者が書物を取引するという、いわば卸の段階の話である。

<書籍市場の組織化>

それでは次に印刷業者ないし出版業者は、どのようにして書物を買い手に販売していたのであろうか。そのためには書籍販売人というものが必要であった。この書籍販売人は印刷・出版業者の委託を受けて、大小さまざまな都市を訪ね歩き、書物を買ってくれそうな客を一人も残さず、探し出そうとした。そのため彼らは書籍移動販売人とも呼ばれていた。

彼らが訪ねた場所は、人々が多く集まる教会、市庁舎、ラテン語学校から居酒屋まで、さまざまであった。彼らは持参した書物の一覧表を印刷したビラを携えており、泊まる宿の名前と住所を書き添えて、人々に配ったり、目立つ場所に掲示したりした。

このようにして買い手に密着した販売方法によって成果を上げた場合、そうした代理販売人は何度もその町を訪れるようになり、ついにはそこに常駐するようになった。そしてその町で書籍店を開くようになった。こうして大出版業者が刊行した書物を一般の客に売ることを専門とする小売りの書籍商が、ヨーロッパの多くの都市に現れたのであった。

そしてヨーロッパ各地を結ぶ書籍市場が、急速に組織化されていったのである。マインツのペーター・シェッファーやヴェネツィアのニコラ・ジェンソンなどの、ごく初期の印刷・出版業者も、すでにこうした販売網を利用していた。そしてリヨンのバルテルミー・ビュイエやニュルンベルクのアントン・コーベルガーが、1485年以前に極めて広範な取引網を持っていたことについては、すでに述べたとおりである。こうして1490年ごろには、書物の取引網はヨーロッパ各地に、くまなく張りめぐらされていたのである。

その03 書籍取引の場としての書籍市

<大市(おおいち)から書籍市(いち)へ>

ヨーロッパの中世にあっては、物資の大規模な取引の場として、大市というものが発達していた。そしてすでに写本の時代から、書物はそうした大市で売られていた。この習慣は例えばパリ地方の大市や、英国のスターブリッジの大市で長く続いていた。

その際、書物は移動販売人によって、他の商品と一緒に売られていたのだ。たとえば1462年には、ある大市で、一人の移動販売人によって、聖書2冊、祈祷書15冊、大砲20門が売られたことが記録に残っている。しかし活字版印刷術が発明されて、書物の生産が増大するに及んで、そうした販売人は、その扱う商品を書物だけに限定するようになった。

大市に出向いてくる商人には特権が与えられていたので、商品の輸送は楽だった。またそこには両替商が姿を見せていたので、取引がしやすく、人がたくさん集まるために、書物はよく売れた。こうして主要な大市は、書籍商と印刷・出版業者の落ち合う場所となった。そこでは定期的に会うことができたし、決済したり、借金を返済したりすることもできた。

さらにそこには活字鋳造人や活字父型彫刻師まで来ていたので、必要な印刷用資材を買うこともできた。そして各地からやってきた出版業者は、互いに共通の問題を論じ、近刊書を予告し、書籍商と取引条件を決めることもできたのであった。つまりそこはもはや様々な物資を扱う大規模な市としての大市(おおいち)ではなくて、書籍関係者だけが一堂に会する大規模な「書籍市(いち)」になっていたのだ。このような書籍市としては、とりわけ南フランスのリヨンとドイツのフランクフルト及びライプツィッヒが著名であった。

<リヨン書籍市>

初期のころに最も重要な書籍市であったのは、リヨンであった。当時この都市は、国際的な大市の開催地であった。リヨンの大市が栄えたのは、まず何より商業活動にとっての立地条件の良さにあったといえよう。リヨンはその頃フランス王国の南東の国境近くにあって、イタリアに接していた。そしてスイスを経由してドイツとも結ばれていた。もちろん北のパリへも道は通じていたし、トゥールーズを経由して、南のスペイン・ポルトガル方面へも道は開かれていたのである。まさに物資の集散地として、理想的な位置にあったわけである。(ヨーロッパ西部の地図参照)

リヨンには、絹製品や香料をはじめとして、当時のヨーロッパで取引されていた商品は、すべて入ってきていた。コメ、アーモンド、香辛料そしてイタリア・ポルトガル・中近東産の薬用・染色用植物なども、ここを通ってフランス全土に流れていったのだ。

歴代のフランス国王と市当局は、商業活動を振興させるために、そこへ出向いてくるすべての商人に、最大限の特権を与えた。こうして年に4回、それぞれ2週間にわたって、商人たちが荷車をひかせて、この町に押し寄せてきたのだ。取引の中心地は、ソーヌ川にかかる橋の上とサン・ニジェ教会周辺の路地界隈であった。

リヨンの大市はやがて書籍市としても大規模なものになっていった。リヨンの印刷業者と書籍商のほとんどは、メルシエール街に店を構えていた。そして彼らは書籍市での取引の中心に位置していたのだが、そこに集まった書籍関係者には外国人も多かった。ちなみに1500年以前にこの町で営業していた49人の内訳をみると、フランス人が20名、ドイツ人が22名、イタリア人が5名、ベルギー人が1名、スペイン人が1名となっていた。

様々な物資の集散地であったリヨンは、書物の国際的な集散地の一つでもあった。リヨンの書籍商は、当時イタリア、スイス、ドイツなどで大量に出版されていた書物を輸入していたばかりか、それらの書物の海賊版を平気で作っていた。そしてそれらの書物をさらにフランスやスペインへ発送する交渉もそこで行われていた。

その一方、リヨンで印刷された書物とりわけ大部の法律書を、イタリア、ドイツ、スペインへと送る商談も進められていた。さらに民衆でごった返していたこの書籍市では、挿絵の入った暦、占いの本、薄手の民衆本なども売られていた。とくにラブレーの『ガルガンチュア大年代記』が大当たりして、聖書が9年間もかかった部数を上回る量が、わずか2か月で売れたという。

以上のような書物の売買の陰では、先に述べたような支払方法が行われていた。つまり売買の後に支払いという段になると、成立した商取引はおおかた債権相殺の形で決済された。ただ為替の取引がある場合には、純然たる商取引の後にそれは行われた。つまり2-3日の間に支払いをすべき者によって、為替手形の引き受けが行われた。それが終わると、商人の代表が寄り集まって、他の場所で支払われる為替手形の支払期限と次回の書籍市までの公定利率が決められた。そして3日後に、過去の債権の決済が、現金払いあるいは相殺の形で行われたのである。

こうした金融取引にひかれて、イタリア人の銀行家をはじめとして、大勢の銀行家がリヨンにやってきた。この伝統は書籍市が衰退した後まで残り、そののちこの町はフランス最大の銀行業の中心地となったのである。

16世紀前半に大いに栄えたリヨンの書籍出版業は、この世紀の中ごろになると、カトリック陣営からの対抗宗教改革の運動の余波を受けて、衰退し始めた。リヨンの書籍商と出版業者の大半は新教のカルヴァン派を信仰していたために、カトリック側からいろいろ迫害を受けるようになった。そのため彼らは、こうした迫害をのがれ、落ち着いて仕事ができる場所を求めた。その場所が、リヨンから近く、カルヴァンがその教えを広めていた町ジュネーヴであった。

書籍出版業者がいなくなって仕事にあぶれたリヨンの職人たちも、やがてジュネーヴへ向かうようになった。かくして、かつて栄えたリヨンの書籍出版業も、16世紀の後半から徐々に衰退していったのであった。

次回は、「その04 フランクフルト書籍見本市の繁栄」について、お伝えする。

15世紀末から16世紀前半の出版業

その02 ドイツ宗教改革と印刷物の普及

ルターの改革思想の急速な普及

イタリアのヴェネツィアやフランスのパリ、リヨンそしてスイスのバーゼルで、人文主義をてこに出版業が繁栄していたころ、アルプスの北のドイツでは、マルティン・ルター(1483-1546)がひき起こした宗教改革が印刷物の普及に大いに貢献することになった。

マルティン・ルターの肖像画。
同時代の画家ルーカス・クラーナハによって
1521年に描かれた銅版画

つまり同じドイツ人のグーテンベルクの発明した活字版印刷術は、そのほぼ半世紀後になって、ルターが発表したキリスト教の改革思想を広く民衆の間に急速に普及させるための、極めて有効な手段となったのである。

よく知られているように、ルターが始めたキリスト教の改革運動は、単にドイツだけではなくて、ヨーロッパ全体に激動を生み出した。そしてそのことは、印刷物の広範な普及なしには考えられなかった、といわれている。つまり印刷物こそは、当時の最先端のメディアだったわけである。

ルターの宗教改革500年祭見聞(2017年8月)

ところでルターが宗教改革を起こしたのは、1517年のことであった。そしてその500年祭が2017年にドイツの各地で、大々的に祝われたが、私はその年の8月に、その様子を見聞するために、ドイツを訪れた。その時のことは、「ルターの宗教改革500年祭見聞記(2017年8月)」と題して、写真入りで発表し、親しい人たちにメールでお送りした。詳しいことはその見聞記にゆだねることにする。その時の旅では、アイゼナハ郊外の丘の上にある「ヴァルトブルク城」(ルターがこの中で聖書を翻訳)、ルター生誕の地アイスレーベンその他ルターゆかりの地を見て歩いた。そしてその後、宗教改革の発祥の地であるヴィッテンベルクを訪れたのであるが、その時の事を、次にごく簡単に紹介する。総じてルターゆかりの場所は中部ドイツ一帯にある。

さてヴィッテンベルクは北ドイツを流れる大河エルベ川のほとりにある小さな町である。首都ベルリンの南西に位置しているので、興味のある方は地図で探していただければ幸いである。ちなみに私が愛用している昭文社の世界地図帳(2013年2版)の76ページ(中部ヨーロッパ)では、カタカナで「ルターシュタット ヴィッテンベルク」と記されている。シュタットはドイツ語で町の意味であるが、町の名称の一部にルターという文字が入っているぐらい、ドイツ人はこの町とルターとまずの結びつきを重視しているわけである。

私はまず、鉄道の駅前の特設案内所で、一人当たり19ユーロ(約2500円)の一日見学券を購入。それで市内の主な見学施設に入場できるのだ。つまりこの町は500年祭の期間中、宗教改革一色に塗りつぶされていて、町中に様々な仕掛けやプロジェクトが待ち受けているわけだ。駅前から向かい側をみると、巨大な建物が目に入り、側面に大きく「ルター聖書」と書かれていた。

ルター聖書とルターのバラが描かれた建物

近づくと、それは鉄骨組の構造物の周りを覆ったもので、上へは階段でもエレベーターでも上がれるようになっていた。恐る恐る登ってみると、ヴィッテンベルク旧市街の素晴らしい眺望が得られた。そして美しい甍(いらか)の波の一番奥に、「95か条の論題」で有名な城教会の尖塔が見えた。

 城教会の尖塔(左)            ゲートが連なる参道(右)

そこを降りると鉄道の線路沿いに、旧市街の入り口まで、人々を歓迎するための参道ができていて、鳥居のようなゲートが連なっている。そこを通りぬけて旧市街に入り、まず大きく立派な「ルターの家」に入った。

ルターの家の前(左側が私) 

そこはルターが、妻や6人の子供たちと一緒に住んでいたところだ。家の中では、ルターとその家族の日常生活の様子が、様々な模型やジオラマや絵画などを援用して、生き生きと再現、説明されていた。「見聞記」には、そのほかいろいろと詳しく書いたが、ここでは省略して、先ほど遠くからその先頭を眺めた「城教会」へと急ごう。

城教会の青銅製の扉の前(右側が私)

この写真の扉は、ルターの時代には木製であったが、その後消失して、現在は青銅製になっている。世界史の教科書などでは、この扉の上に有名な「95か条の論題」が書かれた、と記されている。しかし現在の研究では、それは出来事を劇的に盛り上げるための後世の作り話だという。それはともかく、この日は城教会のなかは大勢の観光客でにぎわっていた。

小冊子「95か条の論題」

いま紹介した「95か条の論題」は、ヴィッテンベルク大学で神学の教授を務めていたルターが、1517年秋に発表したもので、一般に宗教改革の発端を告げるものとされている。それは学者や僧侶向けにラテン語で書かれた神学論争の文書であった。しかしその翌年の1518年春には、ルターはこれの最も重要な項目をドイツ語で要約して、『免罪符と神の恵みに関する説教』と題した小冊子にして発表し、これが印刷されて世に出たのである。

ラテン語で書かれた「95か条の論題」

このドイツ語版は、一般向けに分かりやすく書かれた小冊子であった。前に紹介したバーゼルのヨーハン・フローベン社で印刷されたが、わずか数か月の間に売り切れてしまったという。

それは当時、カトリックの総元締めとしてのローマ教皇の権力によって、精神面のみならず、間接的ながら政治。経済。社会面でも支配を受けていたドイツ人一般の間に、広範で根強い不満が広がっていたためである。ちなみに免罪符というものは、当時ローマ・カトリック教会が教会財政をまかなうために、それを買えば罪が免除されるとして大量には発行していたものである。

免罪符売りを嘲笑した木版画(1617年)

小冊子は翌1519年2月に、同じ出版社から第2版が発行されたが、これもまた
瞬く間に品切れとなった。こうして1518-20年の間に、実に25版を重ねたことから見ても、ルターの書いた小冊子がいかに多くの人々の心をとらえたか、という事が理解できよう。

このドイツ語版と並んで、ラテン語版のほうも同じフローベン社から1518年秋に出版され、こちらも売れ行きが良かったという。フローベン社からルターにあてた手紙の中で、これがドイツ国内にとどまらず、フランス、スペイン、イタリア、オランダ、イギリスなどでも一定数、売れたことが伝えられている。同社の出版物の中で、これほどよく売れたものは、それまでにはなかったという。いうまでもなくラテン語は当時のヨーロッパの教養人であった学者・僧侶の間の共通語だったのである。

ドイツ語印刷物の増大

以上のようにして、ルターが提起した問題は、活字版印刷を通じて、より速くより広く人々の間に普及し、それをめぐる論争はどんどんその幅を広げていった。それに応じてルターの著作へのエネルギーも爆発的な勢いをつけていったという。

ルターは1520年にはいわゆる三大改革文書をあいついで書いていき、それらは直ちに出版された。その中の一つの『ドイツ国民のキリスト教貴族に告ぐ』は、社販が4000部印刷されたが、わずか5日で品切れとなり、以後も15版を重ねた。

ルター著『ドイツ国民のキリスト教貴族に告ぐ』の表紙(1520年)

これら三大改革文書はドイツ語で書かれたが、その読者である当時の世俗貴族が一般にあまり教養がなく、ラテン語が読めなったからであった。文化的レベルでは、貴族といっても、民衆とあまり隔たりがなかったようだ。

ルターの宣伝用小冊子

これらの宣伝用の小冊子は、外形のうえからも、従来の学者向けのラテン語文献とは異なっていた。従来の大型の二つ折り本に代わって、手軽な四つ折り本や八つ折り本が登場したのだ。また書体もラテン語用のローマン体ではなくて、ドイツ語特有の書体であるシュヴァーバッハ体が採用された。これは中世ゴシック体の変形といえる書体であった。

こうした状況の中で、当時の民衆のことばであったドイツ語の印刷物一般の出版にも、有利な状況が生まれてきた点も注目される。ちなみにドイツ語印刷物の出版点数は、ルターによる宗教改革開始の年とされる1517年には81点だったが。6年後の1523年には10倍以上の944点にまで増大しているのだ。

ドイツ語本の内容は、時代の枠を16世紀後半にまで拡大すれば、まずは教訓物語、滑稽物語、騎士道小説。そして家庭医学宝典や算術書。さらに料理宝典や植物の本、耕作に関する本、書式集、酒税法に関する本など実用書が目に付く。

ヴィッテンベルクの繁栄

ルターの登場によって、当時小さな田舎町にすぎなかったヴィッテンベルクは一挙に国際的な学者・僧侶の論争の中心地になった。同時に印刷および書籍販売の世界にも、ルターは大きな影響を与え、そこに巨大な変化を起こしたのであった。そのためヴィッテンベルクは、それ以後100年以上にわたって、ドイツの印刷及び書籍販売の一つの中心地になったのである。

この町には1502年フリードリヒ選帝侯によって大学が設立されたが、大学そのものは印刷出版界に対して、さしたる役割を果たさなかった。ライプツィッヒの印刷御者W.シュテッケルがここで印刷所を開いたが、わずか2年しか続かなかった。

ところが1508年になって、ラウ・グルーネンベルクと称する印刷業者が来るに及んで、この町の印刷事情は大きく変わることになった。ルターが1523年までに公表したものは、この印刷業者によって出版されたが、その活字版印刷の能力は不十分で、その仕事ぶりは粗雑であった。そのためルターはこのことを嘆いて、次のように述べている。

「もしそうした不注意な印刷の結果、ほかの印刷業者がオリジナル版の誤りを何倍かに拡大してしまうとすれば、そこにはいかに大きな危険が生ずることか。そうした場合には、著者が払った多大な努力は水泡に帰すことになろう」

この「ほかの印刷業者が・・・」という事は、海賊版に関連したことなのだ。19世紀の前半に著作権の制度ができるまでは、ドイツでは海賊版はごく普通のことであったのだ。このこともあってルターはライプツィッヒの著名な印刷業者メルヒオール・ロッター社が1519年末にヴィッテンベルクに開設した支社とも関係を持つようになった。そして三大改革文書のうち、『ドイツ国民のキリスト教貴族に告ぐ』と『教会のバビロン捕囚について』を、このロッター社から刊行したのである。

ルターによる聖書の翻訳とその出版

ロッター社とのつながりの中で、今日にまで最も広範な影響力を保ち続けてきたルターの仕事といえば、なんといっても聖書のドイツ語への翻訳とその出版である。聖書のドイツ語への翻訳そのものは、すでに中世にも行われていた。ところが当時は、まだ写本で、その数量はごく限られていたため、一般にはほとんど普及していなかった。

そして15世紀後半になって、シュトラースブルクのヨハネス・メンテリンによって、ドイツ語訳聖書が印刷出版された。その際その100年ほど前にバイエルン地方で翻訳された、質の点でいろいろ問題のあるテキストが使用された。とはいえその後もルター訳が現れるまでは、そのテキストに基づいて13回にわたってほかの出版社からも刊行されたのであった。

さてルターがヴァルトブルク城内で、1521年12月中旬から翌年3月までのわずか11週間という信じられないほどの短期間に行った新約聖書のドイツ語への翻訳は、1522年9月にヴィッテンベルクで印刷・出版されたのであった。印刷所は前述のメルヒオール・ロッター社、出版社はデ-リング・クラーナハ社であった。初版の発行部数は3000部と推測されている。これは瞬く間に売り切れ、3か月後の同年12月に第2版が発行された。そしてルターの新約聖書は、1522年ー33年の間に、高地ドイツ語で14回、低地ドイツ語で7回印刷された。そしてルターの生存中に,合わせて10万部以上出版されるという、当時としては破格のベストセラーになったのである。さらに数多くの海賊版も出たため、実際の数はもっと多かったといえる。

このルター版新約聖書は、ルターがエラスムスの忠告に従って、ギリシア語のオリジナル・テキストからドイツ語に翻訳したものであった。そしてそのドイツ語のテキストは、当時まだ地域によってさまざまであったドイツ語表現に対して、一つの基準を作ったものとして、文化史の面でも高く評価されているものである。

その後ルターは旧約聖書の翻訳にも取り掛かり、1534年になって新約聖書と旧約聖書を合わせたものが、ハンス・ルフト社によって印刷・出版された。これは1534-1626年の間に、都合84版を重ねるという息の長い大ベストセラーになったのである。

ルター訳新約・旧約聖書。
1534年にハンス・ルフト社から印刷・出版されたもの

このルター訳新約・旧約聖書も、初版発行の翌年には早くも海賊版が出されたが、それ以後にも様々な出版社からこうした海賊出版が繰り返された。こうしたルター人気によって、教会の神父や学者たちの著作はおろか、それまで人気のあった人文主義者エラスムスさえ、影が薄れてしまった。ルターを出版しなければ古い出版社といえども経営が危うくなったほどだという。その逆にルターを出版することによって、新しくエネルギッシュな多くの出版社が誕生したのであった。

「ルターの新約聖書が出てからというもの、出版業全体が全くルターによって支配されるようになった」
とエラスムスもこぼしているぐらいである。

カトリック側の聖書翻訳と出版

以上みてきたように、マルティン・ルターが翻訳したドイツ語版聖書は、それ以後100年にわたって、ドイツのプロテスタント教徒の「家庭の書」となった。
ドイツでは、1517年にルターが宗教改革を行った後、旧来のカトリック信仰を維持した地域とあらたなプロテスタント信仰に乗り換えた地域とに分裂した。
そのためこの二つのキリスト教信仰に基づいて、精神・文化面のみならず、政治・社会面でも大きく二つの勢力に分かれたのである。

つまり16世紀前半以降のドイツ社会は、カトリック陣営とプロテスタント陣営に分かれて、対立していったわけである。そのことを知っていないと、カトリック側の聖書翻訳と出版という動きも、よく理解できない。

さてルターに基づくプロテスタント陣営の動きに対抗するようにして、カトリック陣営でも、同様の聖書翻訳と出版が行われた。例えば、当時北ドイツのザクセン公国を支配していたゲオルク大公は、カトリックの信奉者であったが、この大公の指示に従って、司祭のヒエロニムス・エムザーが、まず新約聖書の翻訳を行った。その際エムザーは、ずっと以前にヘブライ語からラテン語に翻訳されていた、いわゆる「ウルガタ聖書」からドイツ語への翻訳を行ったのである。それは重訳だったわけである。

これは1527年にドレスデンのシュテッケル出版社から発行されたが、その後カトリック地域のケルンやフライブルクでも何度か版を重ねて出版され、その動きは18世紀に至るまで続いた。しかしこれは旧約聖書を欠いていたため、コブレンツのドミニコ派修道院長のヨハネス・ディーテンベルガーが、新旧両約聖書のカトリック版作成に乗り出した。その際彼は新約聖書は先のエムザー訳を引き継いだ。そして旧約聖書のほうは、ルター訳のほか、ヘツァー・デング及びツュルヒャーが訳していた聖書を合わせて仕上げた。出版はケルンのクヴェンテル社、印刷はマインツのペーター・ヨルダン社であった。

これは初版が1534年に出版された後、16世紀の間に17版を重ねた。そしてさらに18世紀に至るまで、このディーテンベルガー版は100版を重ね、プロテスタントのルター約聖書に対抗する形で、カトリックの家庭で読み継がれたという。

印刷物の普及と書籍行商人の活躍

ルターをはじめとする当時の宗教改革者は、活字版印刷を一つの奇跡ないし神からの贈り物と考えていたようだが、同時に彼らは、印刷物が国中に広がっていった、その速度に驚嘆の念を抱いていたという。当時としては短い三か月以内に、印刷物はドイツ帝国の隅々にまでいきわたっていたのであるが、その頃の交通事情の悪さや、物資の運搬配達に伴う様々な困難さを考えて、驚いたのであろう。

当時印刷物を読者の手元に届けるうえで大いに貢献したのが、書籍行商人であった。彼らは書籍移動販売人とも呼ばれているが、遠いところからやってきて、町や村の週市を訪れたり、学校に潜り込んだり、一軒一軒戸口をたたいて個別訪問したりして、精力的に印刷物や書物を売りさばいていたのだ。

ルターの『ドイツ国民のキリスト教貴族に告ぐ』は、初版4000部のあと、実に15版を重ねたが、これなども書籍行商人の存在なしには考えられないことであった。彼らは印刷物や書籍を背中に担いで、ドイツの各地を渡り歩いていたわけであるが、この移動販売システムは、その後も19世紀に至るまで続いていたという。

15世紀末から16世紀前半の出版業

その01 ルネサンス人文主義と出版業者

<ルネサンス人文主義と出版業>

中世ヨーロッパでは一般にキリスト教が深く人々の生活に浸透し、さまざまな面で人々の意識を支配していた。そのいっぽう一部には9世紀のカロリング・ルネサンスや12世紀ルネサンスなど、ギリシア・ローマの古典精神や文化を見直す動きも見られた。

とりわけそうした動きが活発になったのは、15世紀ルネサンス期であった。この時期には人文主義が人々に新鮮な関心を呼び起こし、活発な人間意識を目覚めさせ、新しい生活態度を生み出すもとになった。

つまり「神」中心の中世キリスト教世界から、「人間」中心の近代社会への移行を促したのが、ルネサンス人文主義だったのである。このルネサンス人文主義の特徴として、ギリシア・ローマの文学的研究という側面と、よりよき人間を形成するための知識追求という側面とがあげられる。そして古典研究に没頭するのと同時に、明確に人間尊重の姿勢を打ち出したペトラルカの態度にならって、15世紀のイタリアに、このルネサンス人文主義が開花したのであった。

この時代、ギリシア・ローマ時代の古典文献を研究することを通じて人文主義を推進しようとしていた人々にとって、その頃に生まれた活字版印刷術は、復元された古典文献やそれへの注釈を、より多くの人々の間に広めるためのまたとない手段になったわけである。

つまりギリシア・ローマ時代のオリジナルどおりに復元された古典のテクストを広めることこそ、印刷術の使命であると認識され、それらのテクストが元通りのものかどうかを調べる文献批判学というものが、学問の中心に据えられたのであった。

そのためにおびただしい数の学者や著述家が、出版者のもとで校正係として働いたり、さらにその中の多くが自ら印刷者や出版者になっていったのであった。彼らは人文主義者であると同時に、行動の人でもあった。そして経済の繁栄期に生き、彼らの才能を認めた出版者や出資者に支持されて、しばしば輝かしい成功を収めたのである。

そして類を見ない経済的な繁栄と人文主義の時代となった16世紀前半には、書籍産業はかつてなく強大な資本家が牛耳る大産業になったのである。これらの大出版業者は、ヨーロッパ全域において通商関係を結び、それらは教養人の知的ネットワークの媒体ともなっていた。この時代、書物の取引は、大規模な国際貿易の観を呈し、印刷業は黄金時代を迎えていた。そして依然として小さな工房があちこちに誕生し続けたものの、これらの大資本家出版者の主導のもとに、書籍産業は大学都市と商業都市で集中化に向かっていったのである。

<人文主義者が印刷業者になった最初の人物~ヨハネス・アマーバッハ(1443/45-1513)>

ヨハネス・アマーバッハは南ドイツのロイトリンゲンに生まれたが、グーテンベルクとはかかわりがなく、パリ大学で学んでいる。そしてそこでほどなく印刷工房を建てることになるヨーハン・ハイリンリンに師事している。そこの同窓には、のちに著名な人文学者になるヨハネス・ロイヒリンがいた。その後人文学士になったアマーバッハは、ニュルンベルクの大出版業者コーベルガーに雇われて、働くことになった。この時彼ははじめて書物にかかわる仕事に従事して、文献を世に広めるには印刷術がいかに大きな可能性を秘めているかを知ったわけである。

やがて1475年ごろに彼はロイヒリンとともにスイスのバーゼルに移住し、そこに小さな印刷所を開いた。その際援助をしたのは、おそらくコーベルガーであろうとみられている。そして1478年にはロイヒリンが編纂したラテン語の辞典を出版した。その後彼はラテン語の注釈付き聖書、キリスト教の教父、スコラ哲学者、ギリシア・ローマの著作家そして彼と同時代の人文主義者の著作を、立派な大型二つ折り判に仕上げて、出版した。

その際彼は、それらの著作が原本に忠実なものであるように心がけた。そのために、ドイツの最も優れた学者たちが写本との照合の仕事を引き受けている。また若き日にともに仕事をしていたロイヒリンは、1510年から再びアマーバッハの家に住み込んで、協力するようになった。また同じ人文主義者のベアトゥス・レナヌスは、イタリア旅行を取りやめて、彼のところで校正係を務めた。

さらにオランダのロッテルダムからバーゼルに移り住んでいた著名な人文主義者のエラスムスに協力を求めて、4世紀にヘブライ語からラテン語に翻訳されたヒエロニムスの「ウルガタ聖書」の出版に着手した。

エラスムスの肖像画。
アルブレヒト・デューラーによって1526年に描かれた銅版画

アマーバッハの息子たち、ブルーノとバジリウスはパリで学んだのちに故郷に戻り、ニュルンベルクの名高い修道士ヨハネス・クーンのもとでさらに学ぶと同時に、古典出版の仕事にも協力した。そして二人は父親が死亡したのちには、引き続きエラスムスの協力を得て、「ウルガタ聖書」を、同じバーゼルのフローベン印刷所から出版した。

いっぽう書体に関しては、1486年にイタリア以外では初めて、アマーバッハが純粋なローマン体の活字を用いて、書物を出版したことが注目される。またコーベルガーとの関係から、同じニュルンベルクに住んでいた高名な画家アルブレヒト・デューラーのバーゼル滞在を支援したことが知られている。

<エラスムスとの協力のもとに仕事をしたヨーハン・フローベン(1460-1527)>

アマーバッハよりやや遅れてバーゼルで活躍した人文主義出版者が、ドイツ人のヨーハン・フローベンであった。彼は1491年に最初の印刷物として、小型のラテン語聖書をゴシック体活字で世に出した。ついで1494年からフローベンは、同じドイツのフランケン地方出身の同業者ヨーハン・ペートリ及びアマーバッハと手を結んで、印刷を進めた。そして1502年から1512年までの間、この三人は一種の共同事業として神学や教会法関係の書物を出版していった。

ペートリ及びアマーバッハが相次いで死去すると、フローベン印刷所は比類のない独自性を発揮するようになり、ドイツ人文主義の中心となったのである。それは1513年からロッテルダム出身の高名な人文主義者エラスムスとの間に、友情と実り豊かな協力関係が生まれたことによるのだ。はじめ数日間のつもりであったというエラスムスのバーゼル滞在は、3年間にも伸びた。その間二人の協力によって、人文主義の薫り高い作品が、内容にふさわしいローマン体の活字によって、次々と生み出されていった。またフローベンはアマーバッハにやや遅れて、ローマン体やイタリックの活字を採用したのであった。

ヨーハン・フローベン印刷の書物の表紙(1513年)

1515年、エラスムスの代表作『痴愚神礼賛』の初版が、1800部印刷されて、世に出た。ついで1516年にはギリシア語版新約聖書の初版が、出版された。そしてさらにエラスムスが翻訳または編集したギリシア・ローマの著作家やキリスト教の教父たちの作品が、刊行されていったのであった。

ヨーハン・フローベン印刷の『ギリシア語とラテン語による新約聖書』
(エラスムスによる校訂)

そうした作品の刊行にあたって、フローベンは名のある学者たちに校正の仕事を依頼して、テキストの質の確保に腐心した。それと同時に書物の見た目の美しさにも、特別の配慮をした。それは活字自体の美しさから始まって、本扉の縁飾り、挿絵などの装丁を含めた造本への並々ならぬ尽力であったといえよう。

そうした仕事を彼は当時の優れた画家グラーフや、ドイツ・ルネサンス絵画の代表の一人ハンス・ホルバインやその兄アンブロジウスに依頼している。そのためにフローベンが本格的な出版活動をした1513年から1527年までの時期は、バーゼルにおける美しい本づくりの黄金時代といわれているのだ。フローベンは宗教改革とのかかわりは薄かったが、それでもルターのラテン語の著作をすこし出版している。またフローベン社はステッキに二匹の蛇を絡ませた印刷者標章で知られている。

<人文主義出版業者の中で最大の人物アルドゥス・マヌティウス(1450ころー1515)

人文主義印刷・出版業者の中で最大の人物は、ヴェネツィアで活躍したアルドゥス・マヌティウスであった。

アルドゥス・マヌティウスの肖像

彼はその後半生の20年に及ぶ出版業者としての活動において、後世に残る様々な業績を生み出した。それらの業績を初めに列挙すると、以下のようである。

(1) 中世の写本文字の模倣ではない新たな活字書体を生み出して、
後世に残したこと。

(2) ギリシア・ローマ時代の作品の学問的な校訂版を
生み出したこと。

(3) 小型のポケット版を出して、ヨーロッパ中に新たな読者を
獲得したこと。

(4) アップライト・ローマン体、イタリック体、ギリシア語文字を
作ったこと。

ところでアルドゥス・マヌティウスは、1450年ころローマ近郊の寒村バッシアーノに生まれた。長ずるに及んで彼はローマ大学に行き、そこでガスパーレ・ダ・ヴェローナ及びドミッツイオ・カルデリーニに学んだ。とりわけガスパーレ晩年の弟子として、1467年から74年まで、ラテン語とギリシア哲学、特にアリストテレスの理論を習得した。

当時の彼は人文主義の学者になることを目指していたが、ローマに活字版印刷術をもたらしたスヴェンハイムとパナルツが印刷した書物を、師匠のガスパーレが称賛するのを耳にした。さらにこの印刷者に印刷を注文した学者や聖職者などの知人たちとの交流を通じて、アルドゥス・マヌティウスの心に印刷術のことが刻まれたのであった。

ついで1475年、言語学的な教養や理論をさらに磨くために、彼はフェラーラへと向かった。そしてそこの大学でグアリーノ・ヴェロネーゼからギリシア語を学び、ジョバンニ・ピコ・デラ・ミランドラという友人を得た。この人物は後にアルドゥス工房で編集者としての役割を果たすことになる。このころアルドゥスはジョバンニの出身地ミランドラで、その甥や隣国カルビの公爵の姪や甥の教育係を務めたりしている。

この間、彼はさまざまな貴族や知識人との交流を重ねたが、彼らとの会話の中から、ギリシア語やラテン語の古典作品を、学術的に完ぺきなものとして出版するための印刷所を設立する計画が出てきた。そのきっかけの一つとして次のようなこともあった。

つまり1453年にビザンチン帝国(ギリシア的文化の継承国家)の首都コンスタンチノープルがオスマン・トルコによって征服されたのちに、多くのギリシア人学者がイタリアに亡命してきていた。そうしたことがイタリア人とギリシア人の直接的な接触を促し、それを通じて当時、古代ギリシアの古典作品へのイタリア人の関心が高まっていたのである。

<アルドゥス、ヴェネツィアで印刷・出版業を始める>

こうしてアルドゥス・マヌティウスは、ギリシア語の古典作品を印刷・出版することを目指して、すでに印刷・出版の中心地のひとつとなっていた北イタリアのヴェネツィアへと向かったのである。それは1489年ないし1490年のことといわれている。

それに先立って彼は、何人かのパトロンから印刷所設立のための財政的な援助と協力を得ていた。そしてヴェネツィアに入ってからは、かつてグーテンベルクがやったように、活字父型彫刻師、活字鋳造者、組版工といった職人たちや、編集者、監修者、校正者などの有能な学識者を集めた。さらに紙の仕入れ、書物の販売、経理事務などは、のちに義父となるヴェネツィアの印刷者アンドレア・トッレザーニに依頼した。

グーテンベルクの項目で詳しく述べたように、印刷・出版業というものは、ある程度以上の規模で行なおうとすると、いま述べたような様々な職種の人間を束ねていかねばならないわけである。アルドゥス・マヌティウスの場合も、大規模な印刷・出版業者として、このような総合的な役割を果たしたのである。

ヴェネツィアに現存するアルドゥス工房跡

ともあれ用意周到なこの人物は、こうした設立準備期間に4,5年の歳月を費やして、本格的な印刷に取り掛かったのは1494年ないし95年のことといわれる。ところがいったん仕事を開始してからというもの、アルドゥス印刷工房は休むことなく活動を続けた。そしてそのおよそ20年間に及ぶ活動期間に出版された書物は134点にも達した。

これは単純に計算して、およそ2か月に一点の割合で書物が刊行されていたことになる。この間、ギリシア・ローマの古典文献に詳しい人文主義者でもあったアルドゥスは、そうした古典文献の写本などを収集して選び出したり、新刊書のために著者を探したりした。そして時には編集や校閲の仕事もこなし、活字のデザインにまで注文を出したり、印刷現場に出向いて、立ち会ったりした。

アルドゥス社から出版された書物には、有名な印刷者標章(プリンターズ・マーク)が記されていた。それは熟慮と正確さをあらわす「錨」を中心に据え、その回りに速さを象徴する「イルカ」がからみついた絵柄であった。これはアルドゥスが好んだラテン語の格言「ゆっくり急げ」という言葉を具体的に視覚化したものといわれる。

アルドゥス・マヌティウス社の各種印刷者標章(プリンターズ・マーク)。
現在までに56種類ものマークが確認されている

<アルドゥス工房20年の歩み>

それではアルドゥス・マヌティウス印刷工房の20年の歩みを、順次見ていくことにしよう。まず1495年11月から1498年6月にかけて、大規模な「アリストテレス全集」がギリシア語のオリジナルで刊行された。しかもこれには人文主義学者による学問的な注釈がつけられていた。それ以前の中世を通じて、西ヨーロッパ地域では、アリストテレスをはじめとするギリシア古典は、ラテン語に翻訳されたものを読んでいて、それに基づいていろいろ解釈や議論がなされていたのであった。

しかし翻訳という作業を通じて解釈することには、問題も出ていたために、それらをオリジナルで知る必要性が当時の人文主義者から叫ばれていた。そしてそうした要請がアルドゥス・マヌティウス社によって叶えられたというわけである。その際アルドゥスは才能豊かな若いギリシア人に協力を求めた。その一人にクレタ島の出身で、のちには大司教にまでなったマルクス・ムスルスがいたが、この人物はアルドゥスが死ぬまで学問上の問題に対して助言を与え続けたという。

アルドゥスはまた、自分が出版する作品についてその意図を「出版者前書き」の形で書いて、作品の初めの部分に掲載するというやり方をとっていた。これ自体には既に先例があったが、彼によってはじめて高い水準に達したのであった。その意味でアルドゥスは単なる印刷者の域をはるかに超えて、一流の出版者になっていたといえる。

アリストテレス全集以外の初期のギリシア語の作品としては、ムサイオスの詩、聖書の『詩篇』、『お魚の戦争』、ラスカリスの『ギリシア語文法書』、ガザの『ギリシア語文法書』そして『テオクリトス作品集』などを挙げることができる。

ギリシア語で書かれた聖書の『詩篇』(1496/98年)

ところが高い理想のもとに刊行されたギリシア語の作品の売れ行きは悪く、長いこと出版社の倉庫に眠るといった状況が現れた。そのことは、例えば1498年の同社の出版カタログでも確認されているのだ。そのためにアルドゥス社の出版方針は変更を余儀なくされ、以後ラテン語の人文主義作品、それも文学作品を中心に刊行されることになった。ついでに言えば、このころ彼は書物にページナンバー(ノンブル)をつけることを始めている。

1495年には、今日専門家の間でいろいろ取りざたされている名高い作品『ポリフィラスの夢』が出版された。これはフランチェスコ・コロンナによって、ラテン語とギリシア語の混じったイタリア俗語で書かれたものなのだが、一般には挿絵として掲載されている作者不明の華麗な木版画によって有名になっている作品なのである。

ついで1500年、『聖カタリーナ書簡集』の刊行にあたって、今日「イタリック体」として知られている斜めの活字が初めて使われた。この活字は手書きの文字にも似た親しみやすさがあった。しかもこのイタリック体で印刷された書物は、それまでの大型判ではなくて、八つ折りの小型判となっていた。

この小型のポケット・ブックは、当然のことながら持ち運びやすく、どこででも読めるという特徴があった。これは現在世界中にあまねく普及している文庫本のいわば先駆をなすものだが、今から500年も前にこれが存在したことは、本当に驚くべきことといえよう。

この小型判で刊行されたのは、ヴェルギリウス、ホラティウスをはじめとした古代ローマ文学の著名な作品や、ルネサンス時代のイタリアのダンテ、ペトラルカ、ボッカチオなどの作品であった。

イタリック体活字が本格的に使われた
ヴェルギリウス著『作品集』(1501年)

これらはラテン語であったために、当時の学生や教養人がいわば気晴らしや娯楽として読むことができたものであった。当時のイタリアの教養人の間でも、ギリシア語が読める人はそう多くはなかったものと思われる。こう考えると、イタリック体による小型判シリーズの刊行は、アルドゥス出版社の経営戦略の転換を示すものと言えよう。

しかしその後アルドゥスは、古代ギリシアのトゥキディデスやヘロドトスなどの歴史家、あるいはソフォクレス、エウリピデス、ホメロスなどの詩人の作品も、小型判で出版するようになった。これは多少の経営上の困難は覚悟のうえで、より広い教養人の間にギリシアの古典を伝えようとの意図の表れであったのだ。

<アルドゥス工房を支えた学者たち>

自ら教養ある人文主義者であったアルドゥス・マヌティウスの周囲には、多彩な人文主義者が集まっていた。ヴェネツィアの元老院議員、未来の高位聖職者、大学教授、医師、ギリシア人学者など、名のある人から名もなき文学青年までが、朝から晩までひっきりなしに工房を訪れていたという。

そのためアルドゥス工房は同時に、ギリシア研究の成果の普及機関の役割をも果たしていたのだ。つまりそこには「アルドゥス・アカデミー」ができていたのだ。そしてそれらの人たちは、前にも述べたように、印刷工房の校正係や編集者といった実務に携わっていたわけだ。バーゼルの人文主義出版者フローベンやアマーバッハとの関係が深かった例のエラスムスも、アルドゥス工房にやってきて、『格言集』を出している。

とりわけアルドゥスと関係が深かったピエトロ・ベンボは、ヴェネツィア出身の学者、作家、詩人であった。この人はやがてヴェネツィア共和国の年代記の編集を手掛けたり、図書館長を務めたりして、のちには枢機卿にまでなっている。しかし若いころこのベンボはアルドゥス工房の発足の時から書物の編集を担当していた。詩人ペトラルカやダンテの著作の編集にも携わったほか、自らの著作『デ・エトナ』も、1495年に刊行している。これは友人と一緒にシチリア島のエトナ山に上った時のことを、父親に話すという対話形式のラテン語の書物であった。

<アルドゥス印刷工房と活字>

アルドゥス・マヌティウスは人文主義の思想を多くの人々に伝える際に、その活字の書体も大変重要であると考えていた。そして書物の内容に見合った活字の製作に腐心した。

その際工房のほとんどの活字を製作したのが、フランチェスコ・グリフォ(1450-1518)であった。この人物はもともと金細工師であったが、やがて活字父型彫刻師兼活字鋳造者となり、様々な印刷業者に活字を提供していた。その後グリフォはアルドゥスの求めに応じて、ギリシア語活字のデザインを考え、鋳造するようになった。その活字デザインの考案にあたっては、前にも述べたギリシア人のマルクス・ムスルスの助言ないしは彼自身の筆跡が、直接的ではないにしても、影響を与えたといわれる。こうして生まれたギリシア語活字はギリシア人の学者から高い評価を得て、後世に大きな影響を及ぼすことになったのである。

そのいっぽうアルドゥス工房では、新たなローマン体活字書体が生み出された。それが先にも述べたピエトロ・ベンボのラテン語による著書『デ・エトナ』に使われたものであった。これもやはりグリフォによって製作されたが、活字史ではその書名から「エトナ活字」と呼ばれ、今日に至るまでアルドゥスとグリフォの名声を伝えるものとなっている。なお現在では「エトナ活字」は、『デ・エトナ』の著者の名前から「ベンボ活字」とも呼ばれている。

エトナ活字によって印刷された『デ・エトナ』の本文(1496年)

それ以前のニコラ・ジェンソンなどによるローマン体活字は、ヴェネツィアン・ローマン体と呼ばれているが、そこにはまだ中世以来の手書き文字の個人性と芸術性が残っていた。ところがエトナ活字では、それらは抑制されて、はじめて普遍性と公共性を持った印刷用の書体が生まれたのである。

最後に、先に述べたイタリック体活字について、もう一度詳しく述べておきたい。実はこの斜めの活字は、当時のローマ教皇庁の公文書の書記官が非公式に用いていた筆記書体を印刷用活字にしたものであった。このチャンセリー・カーシヴとも呼ばれる活字は、草書体のように流麗で、しかも一文字一文字がつながらないために、一文字単位で鋳造していく金属活字にとっては、うってつけの文字なのであった。

この手書き文字の親しみやすさという特徴を持ったイタリック体活字は、またたくまにイタリアだけではなくて、周辺の国々へと伝わっていって、とりわけ詩や散文に使われるようになった。イタリア国内ではアルドゥスの活字という意味で「アルダーノ」と呼ばれているが、フランスではイタリア風の活字つまり「イタリック」と呼ばれるようになり、その後この呼び方が定着した。そしてその魅力のために、この活字体は多くの模倣者を生み出したのであった。

<パリの出版産業を牛耳った資本家ジャン・プティ>

パリにおいて人文主義を広めるのに最も貢献したのが、書籍商兼出版者のジャン・プティであった。この人物は15世紀末から16世紀初頭にかけて、パリ書籍市場で比類のない力を持った真の資本家であった。1492年ないし95年ごろ、彼はパリのサン・ジャック街において、はじめは銀獅子のちには百合の花をかたどった看板を出して商売を始めた。

ジャン・プティ社から出版された書物の表紙。
中央にその印刷者標章である二頭の銀獅子が見える。

彼はその先輩であるアントワーヌ・ヴェラールに倣って、印刷費を自分が持ち、印刷用具を準備し、必要があれば印刷機を貸与し、さらに資金の前貸しを行った。このようにして彼は1493年から1530年までの間に、じつに1400点もの書物を出版したのであった。その大部分は極めて重要な書物であり、この1400点という出版点数は、当時のパリの全印刷機が生み出した書物の十分の一に当たるといわれる。

この人物はもともと富裕な食肉業者の出であったが、自らは印刷業務につかず、しばしばほかの書籍商あるいは印刷業者と費用を分担して書物を刊行したのであった。こうして彼は、当時パリで活動していた最良の書籍商と、最も上手な印刷工のほとんどすべてをその傘下に集めたかたちで、それらのボスになったわけである。その活動範囲はパリに限らず、ノルマンディー地方の町ルーアン、中部フランスのクレルモン・フェラン、さらにリモージュやリヨンにも店舗や支店を持っていた。

印刷工との関連で言えば、その最も顕著な例が、リヨン出身の若き印刷技術者ジョス・バードであった。彼はリヨンで働いているときから、その名前がパリの人文主義者の間でよく知られていた。そのためジャン・プティは、彼の才能を見込んで自分の手元に置こうとした。こうして初めは校正の仕事を託したが、やがてプティは彼に印刷所を一軒任せることを考えた。このよにしてジョス・バード印刷所が誕生した。しかしこの二人の共同作業は排他的なものではなくて、とりわけ費用が少なくて済む場合は、バードは自分の金で仕事をした。そしてさらに同業の書籍商のためにも印刷の仕事をした。

ジャン・プティの長男も書籍商となり、1518年から父の仕事を手伝い始め、1530年に父親が死ぬと、その後継者となった。その次男も書籍商となり、1540年には兄の仕事を引き継いだ。しかし1567年に彼はプロテスタントに宗旨替えをしたために、書籍商の免許を取り上げられてしまった。

<国境を越えた出版業者の活躍~ジュンタ家の場合>

活字版印刷術が生まれて半世紀足らずの15世紀末には、出版業は、以上述べてきたフランスのジャン・プティのように、資本家の手中に入ることとなった。ドイツでも何人かの書籍商が多くの印刷業者を働かせていた。イタリアでも同様の現象が起きていた。次にその最も典型的な例を見ることにしよう。

それは中部イタリアの町フィレンツェから出たジュンタ一族であった。この一族は15世紀末から16~17世紀にかけて、イタリアで最も重要な印刷業者兼出版業者であった。その活躍の場はヴェネツィア、フィレンツェを本拠地としていたが、ローマ、ジェノヴァ、リヨン、パリ、フランクフルト、アントウェルペンからスペインのブルゴス、サラマンカ、マドリード、サラゴサに、代理店や外国支店を置いていた。

この全ヨーロッパをまたにかけた出版業者一族の開祖は、フィレンツェの豊かな織物の二人の息子ルカ・アントーニオ・ジュンタ(1457-1538)とフィリッポ・ジュンタ(1450-1517)であった。弟のルカ・アントーニオ・ジュンタは毛織物の商売を営むかたわら、1489年にヴェネツィアで印刷・出版業を始めた。彼はまずこの町の何人かの印刷業者に注文を出して、印刷させるというやり方をとった。しかし1499年には自分自身の印刷工房を作っている。その際彼は商人らしく、採算が取れるような売れるものを選んで、印刷させた。それはとりわけ需要がはっきりしているカトリックの典礼書などであった。

やがて毛織物の商売によって得られた利益を、書籍印刷に投資するようになっていった。このようにして彼は1489年から1538年の間に、およそ400点の書物を刊行した。こうして彼はヴェネツィアの大出版業者アルドゥス・マヌティウスやトッレザーニの強力なライヴァルになったのである。

その印刷者標章は、百合の花にルカ・アントーニオの頭文字LとAを配したものとなっている。

ルカ・アントーニオ・ジュンタの印刷者標章(1497年)

この創業者の死後には、息子のトマーゾが事業を受け継いでいる。そしてさらに、その子孫によってルカ・アントーニオ・ジュンタが始めた印刷・出版業は、うけつがれ、ようやく1670年に他人の手にわたっている。

ついでに言えば、当時のイタリアの都市国家では、政治的な抗争が盛んであった。そしてジュンタ一族は共和派に属していた。そのためにフィレンツェでそうした争いが起きて共和派の人々がヴェネツィアへ逃れてきたときなど、ルカ・アントーニオの店では、亡命者を積極的に受け入れていた。当時のフィレンツェの支配者メディチ家はルネサンス芸術の保護者として知られているが、反共和派であったから、次に述べる兄のフィリッポ・ジュンタの印刷・出版業を妨害していた。

そのフィリッポは、1489年に弟がヴェネツィアで始めた出版社に入って、書籍販売に従事していた。そして1497年には、故郷のフィレンツェに戻って、自ら出版業を始めた。フィリッポの場合も、自ら印刷工房を持つかたわら、よその印刷業者にもどんどん注文を出していた。そして刊行すべき書物の種類や内容の選択に当たっては、知り合いの文学者や人文主義者からいろいろ助言や助力を受けていた。

フィリッポ・ジュンタが出版した書物の表紙。
下のほうにその印刷者標章が見える。

このようにしてフィリッポ・ジュンタは、1502年以降、主にイタリア語やラテン語の古典書を、八つ折りの小型本で出版していった。その際、例のアルドゥス・マヌティウスが始めたイタリック体によく似た活字が使用された。そしてフィリッポ・ジュンタはアルドゥス・マヌティウスに次いで、教皇レオ十世から、古典書出版に対する特権を得ている。こうして彼は生涯におよそ100点の書物を刊行した。

フィリッポ・ジュンタが1517年に死ぬと、その二人の息子ベネデットとベルナルドが、父親が始めた古典書刊行という仕事を受け継いだ。そして1527年には有名なボッカチオの『デカメロン』を出版している。二人の中でもベルナルド(1487-1550)のほうが、最高責任者として刊行すべき作品の方針を定めた。それは父親がその路線を決めた人文主義出版社という性格に沿ったもので、それによって高い文化的水準が保たれたのであった。

いっぽう自分の出版社の社員は、主としてフィレンツェの都市貴族の家庭教師の中から、社主のベルナルドが選んでいた。このベルナルドが死んでからは、その二人の息子が仕事を受け継いだ。当初彼らは仕事の量を減らさざるを得なかったが、1560年代になると商売は回復し、ライヴァルが消えてからは、新たな発展を見せた。この時代、同社からは全部で350点の出版物が刊行された。

いっぽう開祖のルカ・アントーニオ・ジュンタの甥にあたるジャック・ジュンタ(1487-1546)は、1519年からヴェネツィアの叔父のもとで出版業を学んだ後、翌年には南フランスのリヨンに移って、印刷・出版業を始めた。自己資金の上に叔父の援助も受けて、その出版業は急速に発展し、リヨンでも重要な出版者の一人になった。そして1546年に死亡するまでの27年間に、20人以上の印刷業者に仕事を依頼して、神学、法学、医学関係の数多くの書物を出版した。

ジャック・ジュンタはリヨン大書籍商会の会長も務めたほか、商売上手のために、裕福にもなり、フランス国王や枢機卿に融資したりもしている。また彼が取り仕切っていた事業は、全ヨーロッパに及んでいた。

彼の死後はリヨンの書籍商と結婚した娘のジャンヌが、商売を引き継いだ。そして1599年まで同出版社はジュンタ一族のもとにあった。

<フランスの人文主義印刷者トリー及び活字父型彫刻師ギャラモン>

16世紀の初めに国王フランソワ一世によって、「王室御用印刷者兼製本師」に任命されたのが、ジョフロア・トリー(1480-1533)という多才な人文主義者であった。当時彼はイタリアの後期ルネサンスの息吹を、パリに持ち帰っていた。この人物にフランソワ一世は、フランス語の正書法の確立や文字改革を命じた。それに対してトリーは、当時のニューメディアであった印刷術を利用して、国王の要請にこたえたのであった。中央集権化を目指していた国王は、その一環としてフランス語の統一を図ろうとしたのであった。

ジョフロア・トリーの印刷物(パリ)

このトリーの指導ないし影響を受けて、フランスにおける新たな活字書体としての「オールド・ローマン体」を完成させたのが、クロード・ギャラモン(1500-1561)であった。彼は活字父型師としての腕の確かさから、「王の文字を彫る者」と称えられたのである。

その際ギャラモンはニコラ・ジェンソンの活字を参考にしたうえで、トリーの指導によって、アルドゥス・マヌティウスとグリフォの活字を研究して、最終的にフランス風に洗練された「オールド・ローマン体」を完成させたわけである。

左:ギャラモンの活字(1544年)  右:クロード・ギャラモンの肖像

この活字は、次の項目で述べる人文主義出版業者エティエンヌ一族によって、盛んに使われたのであった。さらにギャラモンは当初はギリシア語の活字も彫っていたが、それは「王のギリシア文字」とも呼ばれるほど評価の高いものであった。また彼のイタリック体は、大文字を傾けた最初の書体であった。

繊細で優雅なギャラモンの活字は、フランス国内ばかりではなく、やがてヨーロッパ中に広まって、その名声を確立した。彼の死後になって、彼の活字父型や活字母型は、イタリアへ逆流したり、フランクフルト見本市で売られたり、さらに後に述べるアントウエルペンのプランタンの手にわたるなどして模倣されていったのである。

<フランスの代表的な人文主義出版業者エティエンヌ一族>

エティエンヌ一族は、アンリ一世(1460-1520)を初代とし、1502年から1664年まで、五代にわたって出版業を続けたフランスの代表的な人文主義出版社の家系であった。

この家系はフランス語のステファヌスという名前でも知られていた。初代のアンリ一世は1502年から1520年までの活動期間中に、おもに神学と哲学の分野で、130点の書物を出版した。中でも同時代の著名な人文主義者ルフェーブル・デターブルやジョッセ・クリシュトヴなどの作品が代表的なものである。

このアンリ一世には3人の息子がいたが、3人とも父に倣って出版業を受け継いでいる。まず長男のフランソワ一世は、1537年に書籍業者としての活動を始めた。その際彼は義父のシモン・ドゥ・コリーヌや弟のロベールが経営していた印刷所に、印刷を頼んでいた。そして作品としては、もう一人の弟のシャルルの自然科学関連のものを出版した。

次に次男のロベール一世(1503-59)は、一族の中で最も活動的で著名な人物である。彼は人文主義の恩恵を十分に受けて育った。そのために真に学識のある印刷・出版業者といわれている。また彼は、ジャン・プティの項目で述べた印刷技術者ジョス・バードの娘ベレッテ・バードと結婚している。その仕事は、大きく分けて、聖書の出版、辞書の編纂・出版、そしてギリシア・ローマの古典作品を活字で刊行していくことであった。

まず聖書についてみると、1528年にはラテン語訳聖書を、次いで1539-44年の間にはヘブライ語原典による旧約聖書を、そして1546年にはギリシア語による新約聖書を出版している。

次に辞書出版についてみると、1531年に『ラテン語宝典』を編纂して出版したが、36年にはその増補改訂版を出した。次いで学生の便を考えて、1538-39年にかけて『羅仏辞典』と『仏羅辞典』をあいついで刊行した。こうした実績に基づいて、ロベール・エティエンヌは、1539年にはヘブライ語及びラテン語の、そして1444年にはギリシア語のための王室御用印刷業者の称号を与えられ、王権の庇護を受けるようになった。そしてその工房は人文主義者たちの交流の場ともなった。

いっぽうこうした辞書の編纂を通じて、彼はフランス語の正書法の問題に直面した。当時はヨーロッパ主要国において、聖職者や知識人の共通語であったラテン語とは別に、フランス語とかスペイン語とかドイツ語、英語といった各国語の文章語が形成されつつあったからだ。こうした状況の中にあって、人文主義者であったロベール一世は、フランス文章語の形成に、いやでも取り組まざるを得なかったといえる。その際彼は宮廷の大法官府、高等法院、会計院で採用されていた正書法に従おうとした。そうすることによって彼は、当時の法曹界や出版業界の要請にこたえようとしたわけである。そしてその意図は十分達成されたといえる。

また彼は、オリーブの樹木の横に使徒パウロが立っている図柄の印刷者標章を定めたが、これはその後長くエティエンヌ一族が長いこと用いるようになった。

ロベール・エティエンヌが出版した聖書の表紙(1540年)。
オリーブの樹木の横に使徒パウロが立っている
図柄の印刷者標章が、中央に描かれている。

ところがその後フランス国内で宗教弾圧の動きが激しさを増してきて、新教を支持していたロベール・エティエンヌは、1550年に、カルヴァン指導下のジュネーヴに亡命することになった。それ以後彼は同地で印刷出版に従事するかたわら、旧教側に一矢報いんとして、風刺文「パリ大学神学部の図書検閲を笑う」を著したり、『フランス語文法』を刊行したりした。

なおこの時代に彼が出版した聖書には、はじめて章節区分が導入されたことが、注目される。のちにこの区分はカトリック教会も正式に採用したために、現在に至るまで聖書の章節区分法は、彼が始めたものが踏襲されている。

次にアンリ一世の三男シャルル(1504-64)は、はじめ医学博士となり、ついで家庭教師をしながら自然科学関連の作品を著していた。ところが兄のロベール一世がジュネーヴへ亡命したのち、パリの印刷所を引き継いだ。そして1551年には王室御用印刷業者の称号を受けることになった。そこでの彼の出版活動を見ると、100点以上の作品を刊行している。

ロベール一世の長男アンリ二世(1528-98)は父に似て、若くしてギリシア・ラテン語に通じ、イタリアに留学している。やがて父親がジュネーヴに亡命すると、その後を追い、1556年には自分の印刷所を開いた。そして父親の死後には、その印刷所も受け継いだ。彼はさまざまな種類の聖書やプロテスタント教理問答集を刊行するかたわら、一家の伝統に従って、ギリシア・ローマ時代の作品も多数出版した。と同時に自らも著作家であったアンリ二世は、古典学者・国語擁護論者として、『フランス語の卓越性を論ず』や『フランス語とギリシア語の近似性を論ず』などの論文を著した。さらに彼は言語関係の主著として『ギリシア語真宝』全六巻の執筆に全力を注ぎ、それを1572年に出版した。

その一方カルヴァン支持者であったアンリ二世は、カトリック社会の腐敗に対する痛烈な風刺とラブレー流の奔放な逸話からなる『へロドトス弁護』なども著した。しかしやがて彼は旧教側からの検閲や、経済的な苦境に苦しむようになり、失意のうちにリヨンで世を去った。

ロベール一世の次男ロベール二世(1530-71)は、父に従っていったんはジュネーヴへ逃れたが、カトリック教を信仰していたために、再びパリへ戻って印刷業に従事した。そして叔父のシャルルが亡くなってからは、王室御用印刷業者の地位を引き継いだ。その出版点数は少なかったが、内容的には古典作品や同時代のフランスの詩人・作家の作品を刊行した。

ロベール一世の三男フランソワ二世(1536-82)も、父親に従ってジュネーヴへ亡命したが、父親が亡くなったのちの1562年に、自らの印刷所を設立した。そこでは主としてプロテスタント系の作品が出版された。

エティエンヌ一族の家系はさらにアンリ二世の長男ポール(1566-1637)が四代目として、その息子アントワーヌ(1592-1674)が五代目として印刷出版業を受け継いでいった。ポールは数多くの古典作品を刊行した。そしてアントワーヌは時代の風潮もあって、カルヴァン主義を捨ててパリに戻り、1612年フランス聖職者のための印刷業者として業務につき、翌年には王室御用印刷業者となった。そこで彼は古典作品、国王の勅令や規定、数多くの宗教的な作品を出版した。しかし彼は死の10年前の1664年にその活動を停止している。

活字版印刷術の伝播 ~15世紀後半~ 02 

その2 15世紀後半に活躍した代表的な印刷・出版業者

<商才に富んだ印刷・出版・販売業者ヨハネス・メンテリン(1410-78)>

グーテンベルクがシュトラースブルクにおいて印刷術の発明をひそかに準備していたころに、その助手として仕事を手伝っていたとみられるのが、ヨハネス・メンテリンと、次の項で述べるハインリヒ・エッゲシュタインの二人であった。

ヨハネス・メンテリンの肖像画

メンテリンはシュトラースブルク出身で、はじめは筆写の仕事で生計を立てていた。そしてある時期に、グーテンベルクのもとで印刷技術を習得した。グーテンベルクから、彼がいつ離れたのかは定かではないが、すでに1458年には自分の印刷工房を持っていたとみられている。元来ものを書くのが得意で、書類の扱いにもたけていたメンテリンは、1463年には司教の公証人にもなっている。

メンテリンは全部で40点の書物を印刷・出版しているが、そのうち4点には自分の名前を書物の中に入れている。このように自分が印刷したものに名前を入れるという習慣は、師匠のグーテンベルクにはなく、同じ弟子のペーター・シェッファ-に見られることである。その点からもこの二人の弟子は、師匠とは違って、近代的な考え方の持ち主であったといえよう。

さらにメンテリンは書籍販売にも力を入れるようになって、自分が刊行した作品の目録(出版目録)も作っている。ただそれは簡単なパンフレット状のもので、販売する書物の間に挟み込んでいた。これは現代の日本の出版社もやっていることであるが、メンテリンはそうしたやり方の元祖だったといえよう。たとえば1469年に出版された『スンマ・アステクサナ』の中に挟み込まれた出版目録は、まさにこのようなものであった。

ヨハネス・メンテリンは、主として神学および哲学関係の書物を出版した。そのいっぽう古代ローマの詩人ヴェルギリウスやテレンティウスなどの作品も出している。それと同時に、中世ドイツの詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの「パルチファル」なども手掛けるなど、幅広い出版活動を見せていた。そして1473年、ライヴァルの登場によってシュトラースブルクでの競争が激しくなった時には、表紙に赤い彩色を施したり、木版画を挿入したりするなど、販売するための工夫もいろいろ行っている。

そのためもあってか、メンテリンは短期間で出版業によって大金持ちになっている。そして1466年には、時のドイツ皇帝フリードリヒ三世から、紋章を授与されている。このことからも、彼は抜け目のない商売人であったことがうかがえる。

メンテリンが刊行したもので特に注目されるのは、1466年6月に出版された、最初のドイツ語版聖書である。ルター訳のドイツ語聖書に先立つこと半世紀のことであった。ただその原本として、異端とされたヴァルド派の人によって14世紀に翻訳されたものを使用したために、そのドイツ語が良くないと、批判されてきた代物ではあった。

メンテリンが印刷した最初のドイツ語版聖書(1466年)

それはともかくとして、メンテリンは名声と財産を維持したまま、1478年に亡くなっている。その後を継いだのは義理の息子のアドルフ・ルッシュであったが、この人物はもっぱら人文主義と古典文学の作品を出版した。

<最初期の最も重要な印刷・出版業者ハインリヒ・エッゲシュタイン(1415/20- ?)>

メンテリンとともに、シュトラースブルクの最も初期の印刷・出版業者であったハインリヒ・エッゲシュタインは、アルザス地方(当時はドイツ帝国領)のロースハイムに生まれ、1441年にシュトラースブルクに移った。そしてシュトラースブルク司教ルーブレヒトのもとで、印章を守る官職についていた。またこの地で彼はグーテンベルクと知りあった。

それが縁となって、エッゲシュタインは印刷術を習得するために、のちにグーテンベルクを訪ねてマインツへ移住した。そして1454年12月中旬、グーテンベルクの「トルコ・カレンダー」の印刷に際して、中心的な役割を果たした。

「トルコ・カレンダー」の最初のページ(1455年)   

しかしグーテンベルクが例の訴訟に敗れたのち、1457年に彼は再びシュトラースブルクに戻った。そして先のメンテリンとともに印刷所を設立した。この二人の間には緊密な関係があったことは確かで、当時シュトラースブルクでは彼らしか知らなかった印刷術の秘密を守ることを、二人は約束しているのだ。

このころ印刷された作品としては、ラテン語の『四十九行聖書』(二巻本)を挙げることができる。その後エッゲシュタインはメンテリンと別れて、1464年に自分の印刷所を設立した。この印刷所においてエッゲシュタインは、1466年に再びラテン語の聖書を出版している。そしてその第二版と第三版が、その後一、二年
の間隔で刊行されている。

このラテン語版聖書の第三版の販売促進のために、1468年、彼は最古の宣伝広告文を、パンフレットの形で印刷している。その少し後になって、その例に倣ったのがヨハネス・メンテリンとペーター・シェッファ-だったのだ。

エッゲシュタインによる最古の宣伝広告文(1468年)

その後エッゲシュタインは出版物の幅を広げるようになった。ラテン語による神学書と並んで、今や彼は主に法律関係の書物を印刷するようになったが、この分野でマインツのペーター・シェッファ-と競合関係に立つようになった。そして1470年代に入ると、人文主義的な作品やドイツ語の書物にも手を出すようになった。例えば、古代ギリシアの風刺作家ルキアノスの『黄金のロバ』のドイツ語版である。

そうした営業努力にもかかわらず、彼は1470年代の末には、経営危機に陥った。そのために1478年にはバーゼルの製紙業者アントン・ガリチアーニから、多額の借金をしている。そしてその借金を返済できなかったため、ガリチアーニから1480年にバーゼル裁判所に提訴されている。

このように晩年には営業面での成功は得られなかったものの、エッゲシュタインの印刷工房では、何人もの職人が印刷術を習得していたのだ。彼が活字版印刷術の初期の最も重要な印刷者の一人であったことは、間違いない。なおその没年は不明である。

<芸術家的才能と技術的能力を兼ね備えた初期印刷出版業者ニコラ・ジェンソン(1420-81)>

この人物は初期印刷本の有能な印刷出版業者の一人であった。そしてその芸術家的才能と技術的能力によって、とりわけ美しい活字書体を発明した人物として、近代において再評価されているのだ。

ニコラ・ジェンソンは1420年ごろ、パリの南東240キロにある、フランスのソムヴォア村に生まれた。塗装工として働いた後、パリ王立造幣局の金型彫り職人になり、1450年ごろにはトゥール造幣局の局長に就任している。

そのころパリ大学から、フランス国王シャルル七世に、グーテンベルクによって印刷された聖書が献上された。この最新技術の成果であった印刷物に、国王はすっかり感銘を受け、その技術をフランスに導入しようと考えた。そして金属加工の技術と文字についての知識を兼ね備えていたジェンソンに白羽の矢が立った。そして1458年10月4日に勅命を出して、彼をマインツのグーテンベルクのもとに派遣した。当時のグーテンベルクはフストとの訴訟に敗れ、「グーテンベルク屋敷印刷工房」で仕事をしていた。そのためにジェンソンはこの印刷工房で、グーテンベルクから印刷術を習得し、併せて巨匠の信頼も獲得した。

その後1461年にフランスではシャルル七世が亡くなり、ルイ十一世が即位することになり、彼は印刷術を故郷に持ち帰る必要がなくなった。そしてその翌年の1462年にはマインツで例の騒乱が起きた。この時は師匠に対する尊敬の念から、ジェンソンは巨匠とともにエルトヴィルへ移ったものとみられている。そして1463年に師匠のために、エルトヴィルで小さな印刷工房の設立を手助けしたと思われる。ちなみにこのエルトヴィルの近くにこのころ建てられたマリーエンタール修道院には、ニコラ・ジェンソンについての記述が残されている。彼はドイツではニコラウス・イェーンゾンと呼ばれていた。

その後ジェンソンがいつごろまでグーテンベルクのもとにいたのかは明らかではない。しかし1468年にはヴェネツィアに移り、グーテンベルク工房の同僚だったシュパイヤー(スピラ)兄弟のために活字を作っていたものと推測される。このシュパイヤー兄弟は、1469年にヴェネツィア大学から公認された活字版印刷術の独占権を持っていた。ところが翌1470年に、兄のヨハネスが死んでその権利を失った。

ニコラ・ジェンソンだとされる数少ない肖像画(左)
ニコラ・ジェンソンの印刷者標章(右)

その時ジェンソンは用意していたかのように、商人から資金援助を受けて、自らの印刷工房を設立したのであった。そして自ら考案した素晴らしい完成度のローマン体活字で、印刷業務を開始した。この時以来ジェンソンは、目覚ましい活躍を示すようになった。1471年には一年間で20点もの書籍を印刷したのであった。それらはキケロをはじめとする古代ローマの古典であった。そしてその翌年には、西暦1世紀のプリニウスが著わした名高い『博物誌』を刊行した。

ジェンソンが印刷したプリニウス著『博物誌』(1472年)

その印刷の出来栄えは実に精巧で、独特の気品をたたえている。総じてジェンソンが印刷した書物は、当時のイタリアの貴族や人文主義者から、大きな支持を受けていたといわれる。

やがてジェンソンは優れた商才を発揮していった。1470年代前半には会社を設立して、フランス市場に向けた書物の配送拠点をイタリア西北部に置くなどして、その事業をさらに拡大していった。そして1474年には、アルプスの向こうの北ヨーロッパの需要に合わせて、ゴシック文字(ブラック・レター)の活字も作った。

1475年にはローマ教皇シクトゥス四世によってローマに招聘され、教皇から報酬とパラティン伯爵の称号が与えられた。その後競合会社だったケルンの印刷者と合弁会社を作ったりした。このように独立してからわずか十年という短い歳月で、集中的に多面的な活躍をして、素晴らしい業績の数々を遺していったが、このころから本人は事業から手を引くことになった。そして1481年にその生涯を閉じたのであった。

ジェンソンは記念碑としての意味合いもある自らの墓石に、形見の言葉を記すのに際して、虚飾を配して質素にするよう依頼している。このことからも、活字に対するジェンソンの独自の造形感覚を垣間見ることができる。

ジェンソンの活字は、その後ヴェネツィアのアンドレア・トレッサーニという印刷者に売られた。このトレッサーニは、のちに項を改めて述べることになるルネサンスを代表する印刷・出版業者アルドゥス・マヌティウスの義父にあたる人物である。このことからアルドゥス工房で使われた活字は、ジェンソンから少なからず影響を受けていた、と考えられるのである。

またニコラ・ジェンソンの活字は、近代になってから、改めて注目されるようになったことも、ここで付け加えておきたい。

ジェンソンが印刷した『プルターク英雄伝』(1478年)

<イギリスに活字版印刷術を導入した印刷者ウイリアム・カクストン(1422-91)>

これまで述べてきた15世紀後半の初期印刷者たちは、ペーター・シェッファ-であれ、ヨハネス・メンテリンやハインリヒ・エッゲシュタインであれ、はたまたニコラ・ジェンソンであれ、すべてグーテンベルクから直接に活字版印刷術を習得した人物であった。

ところがこれから紹介するイギリス人のウイリアム・カクストンは、世代の点では以上述べてきた初期印刷者たちとほぼ同じであったが、印刷術の元祖グーテンベルクとは直接的なかかわりを全く持っていない人物であった。それにもかかわらず彼は、島国のイギリスに活字版印刷術をもたらし、同国の出版産業の基礎を築いたのであった。

カクストンは1422年、イングランド南東部のケント地方で生まれ、1438年から繊維商組合の有力者ラージに徒弟奉公をした。その前半生は毛織物輸出商組合の商人として活躍した。1463年にはその前進基地であったフランドル地方(現在のベルギー)のブリュージュで、イギリス商人コミュニティーの総督になっている。

このころカクストンが、写本の取引に従っていたのは確かで、さらに印刷本の取り引きもしていた可能性があるといわれている。同時に彼は、毛織物取引を有利に行うために、総督としてしばしば困難な外交交渉にもあたっている。その後彼はイングランドとハンザ都市のひとつケルンとの関係を取り持つために、1471年から翌1472年まで、この町に滞在している。そしてこの間に、ケルンの印刷者兼活字鋳造者ヨーハン・ヴェルデナーの工房で印刷術を習得した。

ウイリアム・カクストンの肖像画

その後彼は、印刷設備一式と職人数人を引き連れて、ブリュージュに戻って、印刷所を設立した。そして1473年末に、英語の最初の活字本といわれる『トロイ歴史物語』を印刷・発行した。港町ブリュージュのあったフランドル地方は、当時ブルゴーニュ公国の支配下にあった。そして商業上の利害からイングランド王国とブルゴーニュ公国の関係は緊密であった。さらにブルゴーニュ公爵とイングランド国王の妹マーガレットとの結婚によって、その関係は一層深められていた。そうしたことから、カクストンはこの公爵夫人マーガレットの勧めに従って、いま述べた物語を自らフランス語から英語に翻訳して、出版したというわけである。

その後1476年に、イングランドに戻ったカクストンは、商業の中心地であったロンドン市中ではなくて、宮廷と議会の所在地であったウエストミンスター(現在はロンドンの西部にある)に、印刷所を建てた。彼は元来は商人であったが、外交官としてイングランド王国とブルゴーニュ公国の宮廷に出入りしていたために、貴族や宮廷人との間に緊密な関係を築き上げていたからであった。そこで最初に印刷したものは免罪符であった。印刷所がおかれていたウエストミンスター寺院に集まっていた聖職者のために、彼はまず免罪符や祈祷書、信仰論文などを印刷したわけである。

それと同時に、貴族や宮廷人のために当時宮廷でもてはやされていた物語(ロマンス)や詩なども、フランス語の原書から自ら翻訳して出版した。それによって彼はその後の英語の発展に決定的な影響を与えたといわれる。イングランドにおいて、それまで地域によってさまざまに話されていた英語の方言は、カクストンの出身地ケント訛りの英語を通じて、初めて統一的な書き言葉へと発展したわけである。そして次の時代にイギリス文学の盛況をもたらしたのであった。

いっぽう中世イギリス文学の傑作で、14世紀イギリスの詩人チョーサーによって書かれた『カンタベリー物語』も、取り上げて、1476年に印刷・出版した。さらに14世紀から15世紀にかけて活躍した、同じくイギリスの詩人ジョン・ガウアーとジョン・リドゲイトの作品や、『アーサー王の死』などの写本市場の有力商品なども活字化していった。

そのほか学校の教科書や、英語で最初の法律書としてのヘンリー七世の法令集なども出版した。その際ラテン語の作品はゴシック書体で、英語の作品は折衷書体で印刷された。これらはイタリアやフランスで使用されたローマン体と比べると、中世以来の黒々とした印象を人に与えるために、「ブラック・レター」と呼ばれるようになった。イギリスではこのブラック・レターが、17世紀まで続くことになる。

ともかく多くの初期印刷者が経済的な困難に陥っていく中で、経験豊かな商人であったカクストンは成功をおさめ、その作品の多くは版を重ねた。彼が印刷した書物の前書きや後書きには、翻訳者や出版者としての彼の活動についてもいろいろ書かれていて、後世の研究者にとって大変有益である。

<出版事業を社会的に認知された産業へ育てたアントン・コーベルガー(1440/45-1515)>

初期の大出版業者コーベルガーはドイツ人であるが、グーテンベルクとの直接的なつながりはない。彼がどのようにして活字版印刷術を習得したのかは、明らかではない。しかし1470年には南ドイツのニュルンベルクにおいて印刷業を開始している。

当時ニュルンベルクは中央ヨーロッパ最大の商業都市で、ヨーロッパ各地から商人や銀行家が集まっていて、資材・製品の取引が極めて盛んであった。ワーグナーの楽劇として名高い『ニュルンベルクのマイスタージンガー(職匠歌人)』が活躍したのも、このころであった。

余談になるが私は一昨年の夏のドイツ旅行の際にニュルンベルクの町にも立ち寄った。中世からの城壁がぐるりと旧市街を取り囲み、その外側に市電が走っていた。この旅行については、「2019年夏、ドイツ鉄道の旅」として、このブログでも取り上げているので、興味のある方はお読みくだされば幸いである。ただ一つ、コーベルガーと同時代のドイツの画家アルブレヒト・デューラーの生家を訪問したことだけをここでは、お伝えしておきたい。

さてコーベルガーはやがて印刷者、出版者、書籍販売者を一身に兼ねた偉大な事業家となった。つまり都市貴族と組んで市参事会員の一人となり、出版事業を社会的に認知された立派な産業の一つに育て上げたわけである。その意味ではイギリス人のカクストンと相通ずるところがあるといえよう。

当時ニュルンベルクの彼の印刷工場には、24代台の印刷機があり、植字工、校正係、印刷工、彩飾工、製本工など100人余りの職人が働いていた。そしてそこの植字工は、30種類の異なった活字書体を使用することができたという。さらに彼はニュルンベルクのほかにも、スイスのバーゼルやフランスのリヨンでも、自分のところの出版物を印刷させていた。と同時にほかの印刷所の書物を販売していたりした。例えば1498年-1502年には、7巻本の注釈付き聖書の印刷を、バーゼルのヨハネス・アマーバッハ印刷所に頼んでいる。

そうした書籍販売のために、見本市の町フランクフルト・アム・マインをはじめ、アウクスブルク、バーゼル、ウルム。ウィーン、ヴェネツィアのほか、国の内外に数多くの販売店を持っていた。それは西はオランダから東はポーランドまで、北はドイツ北部の町から南はイタリア北部の町まで達していたのである。

その取引の範囲が広くて経営法が優れていた点では、コーベルガー社は他を大きく引き離していた。ほかの印刷所からの書籍は、あるものは委託で引き取り、またあるものは自社の出版物との交換で受け取っていた。

その印刷物は主として中世後期の学術書、とりわけラテン語の神学書や法律書であった。ギリシア・ローマ時代の作品は少なかった。またドイツ語の作品も多くはなかった。しかしその中には1483年製作のドイツ語版聖書や、ニュルンベルクの医学者で歴史家のハルトマン・シェーデルが編纂した1800枚以上の木版画入りの大部の書物『世界年代記』(1493年)といった重要な作品が含まれていた。

 

コーベルガー刊行のラテン語聖書(1481年ごろ)。
本文に注釈が付いているのが特徴

『世界年代記』は初めラテン語で出版されたものを、のちにドイツ語に翻訳して出版したものである。内容的には中世に好まれた一種の歴史書で、天地創造から世界の終末までを扱っている。編集者が住んでいたニュルンベルクの町をはじめとして、数多くの都市図や図版を多く含んだ大型の書物であった。そのため中世末期の最大の出版事業だといわれているのだ。コーベルガーが印刷・出版した書籍は、全部で200点から250点に達するものと推定されている。

シェーデル編集の『世界年代記』(ドイツ語版)。
旧約聖書のノアの箱舟を扱った

図版と説明書き

<南フランスのリヨンを出版都市にしたバルテルミー・ビュイエ(?-1483)>

ビュイエは南フランスのリヨンに初めて印刷工房を作り、出版都市としてのリヨンの基礎を築いた人物である。

15世紀半ばのリヨンの町は繁栄のただなかにあり、そこの太市(おおいち)は当時のヨーロッパ世界の商人たちの出会いの場所であった。イタリアの諸都市やドイツ語圏の諸地方から、商人たちは年に4回リヨンにやってきて、取引の決済をしていた。この町はドイツにもイタリアにも近く、パリ周辺地域と地中海沿岸の諸地方とを結ぶ街道に沿っていた。そのため地理的にも有利な交通の要衝であった。同時にリヨンは人文主義の精神が大司教を取り巻く人々の間に浸透するなど、知的な面でも一つの中心をなしていた。

ビュイエが生きていたのは、このような環境の中であった。初めは法学の道を進んで、一定の社会的な地位と財産を築いた。この人物が出版業に身を投じたのは、文物に対する愛好心からといわれている。1460年に彼はパリにいて、そこの大学に最初の印刷工房を作った。そこで例のギヨーム・フィシェーとヨハン・ハインリンと出会ったものと思われる。ともかく彼は印刷術が文明の利器であると同時に、資本に実りをもたらす手段でもあることを理解していた。

そこで彼はフランドル地方のリエージュ出身で、バーゼルをはじめとするスイスの各地を渡り歩いていた放浪の印刷工ギヨーム・ル・ロアを雇って、自宅に印刷工房を作った。そして1473年に、ロタリウス枢機卿の『教義の小道』というラテン語の書物を世に出した。これはリヨンで印刷された最初の書物であった。

ビュイエは印刷業に出資すると同時に、印刷すべきテクストを選んだ。彼が手掛けた書物は10年間で16点と、決して多くはなかった。そしてそれらに対してゴッシック書体の活字を用いた。書物の種類としては、法律書と医学書そして仏訳聖書であった。

ただし彼は自分の工房から生まれた印刷物が地元で流通するだけでは満足しなかった。幸いこのころ書籍商たちはリヨンの太市に集まり始め、その販路拡大が確実なものになった。そのためにビュイエはさらにパリ、トゥールーズ、アヴィニヨンに支店ないし倉庫を作った。

このビュイエのケースは、印刷術の初期の時代に、大きな資産を持っていた人物が、書物の商いにどのようにして関心を持ち、印刷術の発展に寄与するようになっていったのかを、よくわからせてくれる。

 

活字版印刷術の伝播 ~15世紀後半~ 01 

その1 ドイツの他の都市並びにヨーロッパ諸地域への伝播

<マインツにおけるその後のフスト&シェッファー印刷工房>

先に「グーテンベルクと活字版印刷術」の項目で述べた1462年のマインツ騒乱によって、一時閉鎖されていたフスト&シェッファー印刷工房は、二年後の1464年には、豊富な資金のおかげで、立派に再建された。

ここでは当初、免罪符の印刷を行っていたが、その経営は困難を極めたようである。しかし優れた商売人であったフストはこの受難の時代を無為に過ごすことなく、各地を旅して自分の工房の製品を売り歩いていた。当時のフストは印刷本の聖書を写本だと称して、しかも50クローネという安価で売ったという。当時はまだ印刷本に対して世間では、正当な評価が定着していなかったためだと思われる。

そのために書写本の製作に従事していた写字生たちによって、不当な安価を攻撃されたりした。あまつさえフストは魔法を使う者だと告訴されたとも、伝えられている。何しろ当時の聖書の彩飾写本は、一部400~500クローネはしたからである。その後ヨハネス・フストは、1466年にパリへの出張旅行中に、当時流行していたペストにかかって死亡した。

その後フスト&シェッファー印刷工房は、もっぱらペーター・シェッファ-が、その全体の経営にあたった。そしてこの工房はその頃から再び、輝かしい発展を見せるようになった。

そこではもっぱら神学書が出版されていた。たとえば「ミサ典書」などは、地元のマインツだけではなくて、かなり離れたマイセン、ブレスラウ、クラカウなどの東部地域にまで売られていた。こうした神学や宗教関係の書物は、カトリックの各司教管区の事務局によって一括して引き取られ、次いで司教管区内の教会や聖職者に引き渡された。これを現在の状況に置き換えてみると、学校を通じて教科書を売るようなもので、販路としては確実で、経営面での危険が少ない商売だったといえよう。

教皇グレゴリウス九世の教令(シェッファー工房で、1473年に印刷)

とはいえシェッファーは、印刷や書物づくりに誠意をもって、良心的に取り組んでいた。そのうえグーテンベルクについての項目で述べたように、書物づくりのうえで、巨匠グーテンベルクがなし得なかった、様々な改良と工夫を加えたのであった。

たとえば書物にページナンバー(ノンブル)を付け、刊記(奥つけ)を記し、印刷者の標章(プリンターズ・マーク)を入れ、さらに色刷りの印刷を行い、行間を適当な広さにあけるために挿入する薄板(インテル)を開発し、欄外に注記を入れる方法を創案しているのだ。

そしてフストの死後には、印刷技術者から印刷本販売者へと、その活動の重点を移していた。そのことによって商売は再び軌道に乗っていったわけだが、1470年には、書物の宣伝広告用に、一枚刷りの出版目録を発行している。これには本文に用いたのと同じ活字を使用したため、世界で初めての<活字書体見本帳>ともいわれている。

当時のシェッファーは、パリをはじめとしてヨーロッパの各地に、支店や販売店を設け、自家出版物だけではなくて、ドイツの他の印刷業者の手になる書物も、広く売りさばいていた。また当時ようやくドイツ書籍販売の中心地になりつつあったフランクフルト・アム・マインへも進出していた。

さらにシェッファーは、フランクフルトの市民権を入手して、事業の本拠地をそこに移す計画も立てた。しかしこれは実現せず、その事業は1480年ごろから、ようやく衰えの兆しを見せ始めた。そして同年以降、刊行書の数は減少の一途をたどった。これは同業の強力なライバルの出現によるもので、もはや昔の盛況を取り戻すことはできなかった。こうしてペーター・シェッファ-は、1503年にこの世を去った。

その後事業は息子のヨーハン・シェッファーによって継承されたが、この人物は祖父や父の収めた成果をわずかに守っていくのが、精いっぱいだったという。そして1531年に子供がいないまま死亡したため、その後継者はいなかった。

マインツにはほかにこれといった印刷工房がなかったために、誇り高き印刷術誕生の地マインツも、印刷・出版業の中心地としての名声を失い、その地位をほかに譲ることになったのである。

<バンベルク>

グーテンベルクがまだマインツで活動していたころ、そこからマイン川に沿って東へ200キロほど行ったところにある町バンベルクで、「三十六行聖書」が印刷された。その意味でシュトラースブルクを除けば、このバンベルクという町はドイツにおける二番目の印刷地ということになる。

この町と私の個人的なつながりで言えば、ドイツの冒険作家カール・マイの作品をもっぱら出版している「カール・マイ出版社」がこのバンベルクにあるため、私はこの作家の作品の日本語への翻訳・出版の交渉のために、何度も訪れた懐かしいところである。そして中世の面影がいまなお色濃く残っている静かな古都である。結局私は「カール・マイ冒険物語~オスマン帝国を行く」全12巻を2017年に完成させている。

さて本題に戻って、「三十六行聖書」の印刷のことであるが、グーテンベルクとフストとの裁判の際に公証人を務めたバンベルク出身のヘルマスペルガーという人物が、その裁判を通じて知ることができた印刷術について、同郷の芸術に関心のある司教に語って聞かせた。そしてそのバンベルク司教が同じ町の印刷者プフィスターという人物に、聖書の印刷の注文を出した。しかしこの印刷者にはその能力がなかったために、グーテンベルクの信頼の厚かった弟子のハインリヒ・ケッファーが、「グーテンベルク屋敷印刷工房」から改良されたDK活字を運び込んで、聖書の印刷を行ったわけである。

この聖書の印刷にあたってケッファーは、一ページの行数を、全体の視覚的なバランスを考えて、三十六行にした。そのために「三十六行聖書」と呼ばれているのだが、行数を減らしたために、ページ数が増え、全部で1768頁となり、三巻本になっているものである。

その推定発行部数は、羊皮紙製20部、紙製60部といわれている。これは当時のバンベルク司教区の直接の需要を満たす数字である。マインツの「四十二行聖書」に比べれば見劣りするものの、それでもなお、この「三十六行聖書」は傑作だといわれている。この印刷工程全体の監督にあたったケッファーは、この時グーテンベルクの弟子の地位から、一人の独立した親方の地位へとあがった、と見るべきであろう。ケッファーの「三十六行聖書」は、完本として13冊が現存しているほか、断片のかたちでも何枚か残っている。

「三十六行聖書」(バンベルクで、1458-60年ごろ印刷)

この二つの聖書の印刷の時期についてであるが、グーテンベルクの原活字であるDK活字で印刷されている「三十六行聖書」のほうがやや見劣りすることから、研究者の間では、「四十二行聖書」よりも古いものと長いこと信じられていた。

しかしながら後になって、そのテキストがマインツの「四十二行聖書」を原稿として用いていることが発見され、印刷の時期は「四十二行聖書」のほうが先であることが確認された。またパリ国立図書館所蔵の「三十六行聖書」の断片には、イニシャルなどを彩飾する人のメモ書きが記されていて、そこには彩飾の仕事が1461年に終了したと書かれている。そこから逆算して「三十六行聖書」は、1458年から1460年の初めころにかけて印刷されたものと推定されているのだ。

さらに「三十六行聖書」がバンベルクで印刷されたことへの傍証として、使用された紙の製造地の問題があげられる。15世紀後半に作られた印刷本は印刷の揺籃期に製造された本という意味で、「揺籃期本」と呼ばれているが、この時代に用いられた紙には透かし模様が入っていた。そのためこの透かし模様の形によって、紙の製造地を割り出すことができるのである。その結果、使用された紙のほとんどすべてがバンベルク周辺の紙すき所で作られたものであることが明らかになった。

さて「三十六行聖書」の印刷終了の後、ケッファーはバンベルクを去った。そしてその印刷工房は、再びアルブレヒト・プフィスターが運営していくことになった。この印刷者はその後、活字版印刷と木版イラスト画とを組み合わせた方法で仕事をしていった。たとえば寓話集『宝石』という作品を出版したが、それはグーテンベルク工房やフスト&シェッファー印刷工房の作品から見れば、質の点でぐんと見劣りした。しかしテキスト内容の易しさとイラスト入りのために、売れ行きは良かったという。

ここには印刷・出版業がその後たどった二つの行き方が、先駆的な形で現れているといえよう。つまり美学的・内容的に質が高く、後世に残るものの、高価で発行部数が少ない作品の印刷が第一。そのいっぽう、質は劣るが、内容的に易しく、値段も安いために、多くの人に売れる作品の印刷が第二である。

それはともあれこのバンベルクのアルブレヒト・プフィスター印刷工房を通じて、活字版印刷術はマインツの域外へと飛び出していったのである。

また「三十六行聖書」の製作に関与したとみられるヨーハン・ゼンゼンシュミットは、その後ライプツィヒ出身の修士ペッツェンシュタイナーとともに、バンベルク近郊のミヒェルスベルク修道院の中に、印刷工房を作った。そして1481年に最初の書物として、ベネディクト派の美しいミサ典書を印刷したが、これは高い評価を受けた。そのために最初の出版者兼販売人といわれるペーター・ドラッハから注文を受け、その委託販売人によって、現在のチェコにあたるベーメンやメーレン地方で売りさばかれた。当時それらの地方はドイツ帝国の領内にあった。

このゼンゼンシュミットはいわゆる遍歴印刷工であり、遍歴しながら場所を変えて「ミサ典書」を印刷していった。こうして1485年にはレーゲンスブルクで、1487年にはフライジングで、さらに1489年にはディリンゲンにおいて「ミサ典書」を印刷していったのであるが、それらの場所はみなバンベルグからそれほど遠くない南ドイツの諸地方にあったのだ。

さてアルブレヒト・プフィスターの死後、バンベルクではヨハネス・ファイルが典礼書や小規模印刷物の刊行を続けた。もう一人の印刷者ハンス・シュポーラーは、所によって既に発生していた農民戦争を告知した民衆向けの小刊行物を、印刷・発行した。しかしこの印刷者は、バンベルク司教選挙に落選したザクセンのアルブレヒト公を嘲笑する詩を印刷したため、バンベルクを追放され、エアフルトに逃れた。

<シュトラースブルク>

シュトラースブルクは、かつてグーテンベルクがひそかに印刷術の発明を準備していた場所であり、初期の習作「ドナトゥス」などがここで印刷されたことについては、「グーテンベルクと活字版印刷術~その01 印刷術発明への歩み~」の項目で、すでに述べた。

そのころグーテンベルクの助手として仕事をしていたとみられるのが、ハインリッヒ・エッゲシュタインとヨハネス・メンテリンの二人であった。この二人は後にグーテンベルクから独立して、シュトラースブルクにおいて自らの印刷所を作って活動しているが、そうしたことについては項を改めて、詳しく述べることにする。

この二人のほかには、力強く、表現力豊かな木版画で知られた書物の印刷者であったハインリヒ・クノープロホツァーと、ヨハネス・グリュニガーの名前を挙げておこう。

いずれにしても15世紀の末までに、シュトラースブルクでは50軒ほどの印刷所が仕事をしていたのである。

<ケルン>

15世紀のころは、交通路としては陸路よりも水路、つまり川の上を船で移動するほうがはるかに楽であったようだ。そのために活字版印刷術の伝播も、マインツからまずはライン川やその支流のマイン川に沿って行われている。先のバンベルクへはマイン川に沿って、シュトラースブルクへはライン川に沿って移動したわけである。

そしてこれから述べるケルンの町は、マインツからライン川に沿って160キロほど北上したところにあるのだ。古代ローマ時代、軍の駐屯地があった古都であるが、私にとっては最もゆかりの深いドイツの町である。というのは1970年代と80年代の6年間、この町にある海外向け放送局の日本語番組を担当していたからである。旧市街の中心にはゴシックの大聖堂がそびえ、その隣には「ローマ・ゲルマン博物館」がある。そして旧市街をぐるりと取り巻く環状道路の各所には、中世来の城門が遺跡として残されている。またカトリックの伝統によって、毎年冬にはカーニバルが盛大に祝われている。

余談はこれくらいにして本題に戻ろう。このケルンにウルリヒ・ツェルが初めて印刷所を設立したのは、1464年のことであった。この人物は1453年にエアフルト大学の学籍簿に登録している。そしてマインツの「フスト&シェッファー印刷工房」で印刷術を習得したのち、ケルン大学の学芸学部に登録してから、ケルン市において印刷所を設立したのだ。その翌年から最初の印刷物を世に出しているが、彼が出版したのはおおむねカトリックの神学書とギリシア・ローマの古典書であった。

その他のケルンの印刷者としては、バルトロメウス・ウンケル及びハインリヒ・クヴェンテルの二人が、木版画がたくさん入った低地ドイツ語およびニーダーザクセン語による聖書の印刷によって知られている。とりわけクヴェンテルは、1479年から1500年までの22年間に、およそ400点の書物を出版して、この時代の最も生産力の高い印刷者の一人とされている。

この時代のケルンには、30軒ほどの印刷所が稼働していたといわれる。

ケルンの印刷者ハインリヒ・クヴェンテル印刷の聖書。
木版画がたくさん入っている(1478年)

<バーゼル>

グーテンベルクも若いころに滞在していたといわれるバーゼルの町は、マインツからライン川に沿って300キロほど南に行った所にある。この町は現在スイス領の北端に位置しているが、ライン川をはさんで北がドイツ領、西がフランス領になっている。スイスのおよそ7割がドイツ語を話す人で占められていて、ドイツ文化圏に属している。その北端にあるバーゼルの町のはずれのライン川に面した場所に、スイス、ドイツ、フランスの三か国が相接している地点があるので、私は好奇心でその場所を訪れたことがある。そしてしばし感慨にふけったものである。ライン川は源流を発して、いったんボーデン湖に注いでから、ドイツとスイスの国境を西へと流れ、このバーゼルで北へと向きを変え、独仏の間を北上していくのだ。

さて印刷の話に戻すと、このバーゼルにグーテンベルクの昔の仲間のベルトルート・ルッペルが印刷所を作り、1468年には大型のラテン語聖書を印刷している。その商売は一時は順調に進んだが、やがて現れてきた新興のライバルによって追い抜かれてしまった。

またシュトラースブルクから移ってきた印刷者ミヒャエル・ヴェンスラーは、「ミサ典書」を印刷して、バーゼル、ケルン、マインツ、トゥリア、ソールズベリーなどで販売した。このヴェンスラーも最初のうちは結構な商売をやっていたが、やがて経済的な破局に見舞われ、印刷所は倒産して、夜逃げをしなければならなかったという。

バーゼルの印刷者としては、もう一人ヨーハン・ベルクマンの名前を挙げることができる。ベルクマンは若きアルブレヒト・デューラーの木版画をおさめたゼバスティアン・ブラントの「愚者の船」を出版したことで知られている。

ブラント作「愚者の船」
(1494年、ベルクマンが印刷。木版画は若きデューラーが描いたもの)

次いで15世紀末から16世紀の初めにかけて、二人の印刷・出版業者ヨハネス・アマーバッハ及びヨハネス・フローベンが、ここバーゼルで、当時の精神界の新潮流ともいうべき人文主義のために尽くすことになる。ただこの二人については、項を改めて詳しく述べることにする。

ともあれ以上あげてきたドイツ語圏の諸都市のほかに、南ドイツのアウクスブルク、ニュルンベルク、ウルムからさらに、ヴィーンへも活字版印刷術は伝播していったのである。

そして西暦1500年の時点で見ると、当時のドイツ帝国領には、あわせて62か所に印刷所が存在していたのである。

<ヨーロッパ諸地域への伝播>

1462年のマインツ陥落以降、ドイツの印刷工はドイツの各地に移っていったばかりではなくて、近隣のイタリア、フランス、スペインその他の諸国へも散っていった。

彼らは初め印刷の知識や経験を各地に伝え、商売のうえでも成功を収めた。しかし見知らぬ土地や環境の下で、印刷業を永続させていくのはなかなか困難なことであった。やがて新しい技術を習得した現地の人間が印刷業に進出してきて、次第に競争相手として成長するようになった。こうした全般的な状況の下で、しばしばドイツから移った印刷者は、地元の印刷者によって、とって代わられることも珍しくなくなっていったのである。

活字版印刷術のヨーロッパ諸地域への伝播の様子(15世紀後半)

上の地図をご覧になれば分かるように、15世紀後半には、ドイツ各地の諸都市をはじめとして、周辺諸地域へも活字版印刷術は伝播していったのだ。その中でもまずは、イタリアのローマ及びヴェネツィアそしてフランスのパリについて、ご紹介していくことにする。

<ローマ>

アルプスを越えて、イタリアに初めて活字版印刷術をもたらしたのは、コンラート・スヴェインハイムとアーノルト・パナルツという二人のドイツ人印刷工であった。この二人は1465年に、ローマ近郊のスビアーコにあった修道院の中に印刷所を開いた。そして1467年にローマに移って、そこに新しい印刷工房を建てた。

そこで彼らはイタリアの読者に合わせて、人文主義の手書き文字を基にして、新たに活字を作った。それはゴシック体からローマン体に移行する過渡期のものであるために、一般に「プレ・ローマン体」と呼ばれているが、すでにゴシック体の黒々とした威厳を脱し始めている。こうして二人は1472年までに28点の作品を、12、475部印刷した。

このような細かい数字が分かっているのは、実はこの二人が商売に困った末に、時のローマ教皇に嘆願の手紙を出しており、それが今に残っているからである。書物の売れ行きが悪くて、生活にも困るほどなので、何とか保護してくれるよう、二人はローマ教皇に訴えたのである。

これに対して教皇からは何の援助もなかったという。その後パナルツは1473年にスヴェインハイムと別れて、一人で仕事を続けたが、活字を更新することもできず、その印刷物は質的な低下をきたした。このように生活に困った末に、パナルツは1476年に死亡した。スヴェインハイムのほうはカード印刷に従事して、生活を支えたという。

同じドイツ人の印刷工でも、ウルリヒ・ハーンの場合は成功を収めている。彼は1443年にライプツィヒ大学で学び、バンベルクの「アルブレヒト・プフィスター印刷工房」で仕事をしたのちにローマに移った。

最初は枢機卿トゥレクレマータの注文を受けて仕事を始めたが、その作品『瞑想録』のために、当時イタリアで好まれていたロトゥンダ書体による金属活字を用い、34枚の木版画を添えた。おそらくはフラ・アンジェリコが描いたと思われるフレスコ画のシリーズをコピーしたものである。

後になってハーンは、教皇の勅書、演説集、規定集などを印刷した。そして1476年には楽譜付きの歌の本を印刷している。大部分が聖職者か修士であったドイツ人印刷者たちは、ローマでは15世紀末までは何とか優位を保つことができたという。

ところが人文主義が特に保護奨励され、印刷に関してイタリアにおけるもっとも重要な場所へと発展しつつあったヴェネツィアでは、ドイツ人印刷者に対して、イタリアの同僚が強力なライヴァルになってきたのである。

<ヴェネツィア>

ヴェネツィアの最初の印刷者は、ドイツ人のヨハネス・フォン・シュパイヤー(イタリア語ではスピラ)であった。シュパイヤーはおそらくグーテンベルクのもとで印刷術を習得したものと思われる。そしてヴェネツィアでは弟のヴェンデリンとともに仕事をしたが、兄が亡くなってからは弟がその仕事を受け継いだ。

二人は当時のヴェネツィアの人文主義者の間で起きていた書体の変化に対応して、新たな活字を作った。つまり人文主義者たちは、碑文に残されていた古いローマ時代の大文字を、彼らの理想的な書法とみなして、ペンで書かれることによって成立した小文字との間に調和を見出そうとしたのであった。

こうした考え方に合わせるようにして、シュパイヤー(スピラ)兄弟は新たな活字書体を作り上げたわけである。この場合、小文字も大文字と同様に、一つ一つのキャラクターがベースラインにセリフをもつことによって、独自のスペースをもって、全体として明るい紙面の形成ができるようになった。

また、それまで手書き文字の模倣にすぎなかった活字が、手書き文字から独立した印刷用の文字活字としての形態を、初めて持つことになったといえる。ともあれ彼らの注目すべき業績としては、1471年にイタリア語で書かれた聖書を初めて出版したことである。

シュパイヤー(スピラ)兄弟のローマン体活字(1471年)

ついで南ドイツのアウクスブルク出身のエアハルト・ラートルトも、ヴェネツィアで大きな名声を獲得した。彼は同郷の二人の手助けを得て、学術書を60点ほど印刷した。その作品の多くは縁取りの装飾が施されていたが、画家ベルンハルト・マーラーがその装飾模様を飾った。また木版画のうちのいくつかは、数枚の版木を重ねるようにして印刷された多色刷りのものであった。

ラートルトは年を取ってから故郷のアウクスブルクに戻ったが、そのヴェネツィアの装飾縁取りが、それ以後ドイツの各都市にも普及していった。当時アルプスを越えて、ヨーロッパの北と南で文化の相互交流が盛んだったことが、このことからもうかがえる。

ヴェネツィアで活躍した印刷出版業者としては、このほかにもフランス人のニコラ・ジェンソン(ドイツ語ではニコラウス・イェーンゾン)と、イタリア人のアルドゥス・マヌティウスがいるが、この二人については項を改めて述べることにする

ローマン体活字の比較(1464年から1470年まで)

ともかくもこの時代にイタリアで出版業が最も盛んだったのが、このヴェネツィアであった。ここでは西暦1500年までの揺籃期印刷時代に、150の印刷所において4、500点の書物が、一点200部から500部の発行部数で出版されていたという。

さらにローマとヴェネツィアのほかに、51のイタリアの都市で印刷が行われていたのだ。当時経済発展の著しかったイタリアは、かくして15世紀末までに、書物の量及び質の点で、活字版印刷術の発祥の地ドイツを追い越したのであった。

<パリ>

ドイツ以外でヴェネツィアに次いで、二番目に重要な印刷地は、当時人口20万人を擁していたフランスの首都パリであった。このころパリには6千人ほどの写字生がいたといわれる。彼らはドイツで印刷された「聖書」を目にして、失業の危機感を感じて抵抗を示した。

それでもパリ大学の二人の教授ギョーム・フィシェーとヨーハン・ハインリヒは、1470年にドイツ人の印刷者3人つまりコンスタンツのゲーリング、コルマールのフリブルガーそしてシュトラースブルクのクランツを、パリへ招へいした。

印刷所は大学図書館の隅に設置され、ハインリヒが出版すべき書物の選定を、フィシェーが財政面を担当した。印刷業務にともなうもろもろの職人はパリ大学側で用意した。

おそらく最初のうちは、校正職としてドイツ出身の教授資格を持ったマギステルが働いていたと思われるが、やがてフランス人の校正職も出てくるようになった。このあたりは明治時代の初めにわが国でも、欧米の専門家を「お雇い外人」として招へいしたが、やがて日本人がとって代わっていったときの事情と似ていて興味深い。

ところで3人のドイツ人印刷者はフランスの事情を考慮して、当時まだ勢力のあったゴシック体をやめて、スヴェインハイムとパナルツの活字を手本にした活字を用いて印刷を行った。フランス人はこのローマで流行していた活字書体を、「ローマの活字書体」略して「ローマン体」と呼び、それ以降この名称が定着することになった。

やがてパリでは、大学内の印刷所のほかにもいろいろな印刷工房が、市内に作られるようになった、そうした工房の一つを経営したのが、のちにパリの代表的な印刷者になったドイツ人のティルマン・ケルファーであった。ケルファーは自分の好きな「時祷書」の印刷に対してたくさんの注文を受け、そのために他の印刷者にも作業を頼んでいるぐらいだ。

いっぽうフランス人の印刷者ジャン・プティも成功をおさめ、自分のところだけでは印刷しきれずに、よその印刷者に仕事を頼んでいる。フランスでは当時中央権力が強化されていったが、そうしたことも追い風となって、やがて書籍の印刷も花盛りを迎えるようになっていった。そして16世紀後半に至って、ブックデザインの面で指導的な国になったのである。

パリのほかには、南フランスのリヨンの町が、もう一つの中心地になったが、それについては項を改めて述べることにする。ただ一言だけ先に言っておくと、リヨンでは多くのドイツ人印刷者がフランス人書籍販売者と良好な協力関係にあったという。そのことを証明するものとして、ドイツ人印刷者ヨハネス・トレクセルが、自分の刊行した書物の終わりに記した次のような言葉がある。

「私の周りには常にドイツ人のほかに、フランス人もいる。私が出した本はフランス中で称賛され、愛好され、買われてもいる。多くのフランス人が、私の本を求めて手を差し出してくれるのだ」

<ヨーロッパのその他の地域への伝播>

活字版印刷術は15世紀のうちに、スイス、オーストリア、ハンガリー、ポーランド、ベルギー、オランダ、デンマーク、スウェーデン、イギリス、スペイン、オランダその他へと伝わっていき、やがて全世界を征服したのである。

15世紀後半の50年間に、255の場所で印刷された揺籃期本(インキュナブラ)の総点数は、2万7千点とされている。これを使用された言語別にみると、77・5パーセントが、当時のヨーロッパの共通語であったラテン語で書かれ、残りの22・5パーセントが当時のヨーロッパの各国語で書かれている。

それらを列挙すると、ドイツ語、フランス語、オランダ語、スペイン語、英語、カタロニア語、チェコ語、ポルトガル語である。さらにごくわずかながらヘブライ語、ギリシア語、教会スラブ語で書かれた書物もあった。

次に印刷された書物の内容に目を向けると、そのおよそ半分はキリスト教関係の宗教書(神学書)であった。第二位はギリシア・ローマ時代の古典書であったが、これはイタリアでは第一位であった。さらにラテン語の文法書や辞書、各国の民衆本や暦などの実用書から、政治的なパンフレットまでが印刷されていた。

最後に当時の新しい職業だった初期の印刷者には、いったいどのような人がなったのであろうか? 一番多かったのは聖職者であり、ついで金細工師であった。さらに写本時代の筆写生や彩飾画家、活字鋳造人などであった。

グーテンベルクと活字版印刷術

その03 グーテンベルクのその後の活動

<「カトリコン」の印刷>

グーテンベルクが資金提供者ヨハネス・フストから提訴され、その訴訟に敗れたことは、前回の私のブログ(その02 活字版印刷術の完成と聖書の印刷)で記したところである。その後グーテンベルクは「フンブレヒト屋敷印刷工房」を立ち去り、元の「グーテンベルク屋敷印刷工房」に戻って、しばらくの間、小出版物の印刷に従事していた。しかし、おそらくそれだけでは満足できなかったのに違いない。何か新しいことを始めたいと思っていたことであろう。とはいえ新しい事業に取り組むためには、やはりかなりの額の資金が必要であったが、そうした資金の提供者を彼は再び見つけたのであった。その人物はマインツ市の書記官コンラート・フメリー博士であった。この時も印刷機と活字が抵当に入れられた。

こうして始まったのが久々の大作「カトリコン」の印刷であった。「カトリコン」というのは文法付きのラテン語大辞典であり、当時の教養人にとっては、一種の百科事典の役割を果たすものでもあった。これは1246年に編纂されて以来、数百回にわたって写本が出されてきたものなので、売り上げが当初から見込めるものでもあった。

二つ折り判744頁という大作で、その推定発行部数は300部とみられている。そのうち今日現存するのは、紙製64部、羊皮紙製10部である。そのテキスト量の多さから、当時使われていたものの中で、最も小さな活字が使用された。書体は当時の人文主義者が書いていたゴチコ・アンティクア体であった。

ラテン語大辞典「カトリコン」

聖書や詩篇のような宗教的な題材にはゴシック体が向いており、「三十行免罪符」のような一枚ものの印刷にはゴシック雑種体がふさわしかった。そして知識の宝庫「カトリコン」にはゴシック要素を少し残したゴチコ・アンティクア体がふさわしかったのだ。組版は、「四十二行聖書」と同様に、二段組みであった。ただし各行の長さはそろっていなかった。これは今日では雑な組版と呼ばれていて、消費財的作品に用いられているものである。

その意味では「カトリコン」は、時代とともに版を改めていく時事的な性格の出版物であったといえよう。それに対して、芸術的かつ美学的観点から永遠に残るものとしての「四十二行聖書」のほうは、数段美しく、調和のとれた組版になっているのだ。

そのために昔は「四十二行聖書」の印刷者と「カトリコン」の印刷者が同一人物であるわけがない、と主張されていた。グーテンベルクの全ての印刷物と同様に「カトリコン」にも印刷者の名前が記されていないために、古来この作品の印刷者をめぐって、いろいろ議論されてきたものである。しかしグーテンベルクがその内容に応じて、用いる活字を選んでいたことを考えれば、この点は解決されよう。

ところで「カトリコン」の末尾には、一種の「あとがき」のようなものが書かれている。それは全体として神や教会に感謝するといった言葉に満ちたものであるが、そこにはこの書物が「ドイツ人の母なる都市マインツで、1460年に完成した」ことが記されているのだ。と同時に、これが筆写によるものではなくて、新技術である活字版印刷術によって製作されたものであることも、強調されている。ただし印刷者の名前は記されていない。あるドイツ人研究者は、このテキストがその校正の仕事に携わったと思われる一人の司祭によって、グーテンベルクと相談のうえで書かれたもの、とみている。そしてこの研究者は、マインツ詩篇の刊記に印刷者の名前を明示したフスト&シェッファー印刷工房のやり方と、グーテンベルクの匿名性へのこだわりとを比較して、次のように述べている。

「カトリコン」の印刷者覚書と「詩篇」の印刷者覚書の異なったテキストは、ほとんど対立するような世界観を示している。こうしたことは、後期ゴシックから初期市民時代(ルネサンス)にかけての時期に典型的にみられたことである。「カトリコン」の印刷者はなお教会及び信徒の共同体と深く結びついていて、この者にとっては、印刷術の発明は感謝して受け止めるべき神からの贈り物であった。それに対して「フンブレヒト屋敷」内の印刷者は、個人的な業績に対して誇りを示している。商業的な宣伝の意味においても、その思考は中世的な価値体系から自由で、個人の商人的な発展を示しているのだ。

この文章からは、キリスト教的中世と深く結びついていたグーテンベルクと、初期資本主義的な姿勢を示していたフストという二人の人物の、対立した構図が浮かび上がってくる。しかしグーテンベルクも完全に中世人というわけではなく、資本や利益の持つ意味も十分に認識していたのだ。その意味でグーテンベルクは、まさに中世からルネサンスにかけての過渡期に生きた人物として、その意識も過渡的なものであったといえよう。

<巨匠の頭上に垂れこめる暗雲>

グーテンベルクが60歳のころ、ドイツ皇帝を選ぶ7人の選帝侯の中の第一人者だったマインツ大司教の座をめぐる激しい争いがおこった。1459年6月、ドイツに対するローマ教会支配に不満を感じていた、教会改革派のディーター・フォン・イーゼンブルクが、ドイツ人によってマインツ大司教に選ばれた。しかしこの決定にローマ教皇は反発した。こうしてマインツ大司教の座をめぐって、ドイツ人の中の教会改革派(ナショナリスト勢力)とローマ教皇派の間で激しい抗争が繰り広げられたのであった。

この時グーテンベルクはその教会改革的信条や愛国心から、ディーター・フォン・イーゼンブルク大司教の掲げた政治目標に大いに共感を覚えていたものと思われる。そのうえ彼に資金提供をしてくれたフメリー博士がディーター大司教の顧問になったこともあって、グーテンベルクもこの争いに間接的に巻き込まれた。

<印刷物による最初のプロパガンダ作戦>

16世紀前半のマルティン・ルター(1483~1546)による宗教改革の際に、彼の新しい教説をやさしく述べた小冊子やパンフレットが大量に印刷されて、多くの民衆の間に配られた。そのためにグーテンベルクの活字版印刷術は発明されてから半世紀余りたって、その威力を発揮したといわれている。しかしこうした印刷物によるプロパガンダ作戦は、実はグーテンベルクが生きていたマインツ騒乱の時期に、すでにその走りとでもいうべき形で展開されていたのである。

ディーター・フォン・イーゼンブルク大司教に不安を感じたローマ教皇は、その後大司教選挙に敗れたアドルフ・フォン・ナッソーを、新大司教に任命して、ディーター大司教を罷免する措置をとった。そして1461年9月、このアドルフがマインツ大聖堂で大司教に就任した。しかしマインツ市民の中にはなおディーター大司教を支持する人も少なくなかった。こうしてマインツでは、新旧の大司教を支持する二つの陣営に分かれて、激しい抗争が繰り広げられた。そして両陣営は新たなプロパガンダ作戦を展開したのである。

こうしたプロパガンダ作戦に用いられたビラやパンフレットの類いは、すべてフスト&シェッファー印刷工房で印刷されたのであった。最初のビラは同工房の新しい活字で印刷された皇帝フリードリヒ三世のアピールであった。ついで大司教の罷免に関する教皇ピウス二世の勅書のついた告知ビラがある。それに続いてアドルフを新大司教に任命することに関する教皇の小勅書がある。さらにアドルフの任命に関するマインツ大聖堂参事会にあてた教皇の小勅書を伝えた告知ビラが残っている。

いっぽうディーター前大司教も1462年3月には、その宣言書を印刷させている。それはたぶんフメリー博士によって書かれたものと思われるが、これらは各地の諸侯や都市の当局者ならびに都市のギルドにあてて送られている。この中では、発生した争いを、数人の選帝侯と司教によって構成された仲裁裁判所に持ち出すことが提案されている。また1462年春のビラの中にはアドルフ大司教の激しい争いの言葉を見ることができる。

これらの全ての闘争ビラは、世論を自分たちの陣営につけることを意図し、あわせて敵側の陣営を誹謗中傷するものであった。争いにあたって従来から使われてきた刀、槍、弓矢、火縄銃、大砲といった武器と並んで、ここに初めて印刷機から生み出された、新たな精神的武器が登場したのである。

<マインツにおける熱い戦い>

このようなプロパガンダ合戦の後、1462年6月、ついに熱い戦いが始まった。その後の戦闘の経過についてはここでは省略するが、同年10月28日に、マインツ市内で行われた激突の結果、教皇派のアドルフ陣営の勝利が確定した。

この日の戦闘で400人のマインツ市民が命を落とした。そして生き残ったディーター派の市民は、町から追放されることになった。彼らの家屋敷は収奪され、新しい大司教の支持者に与えられた。市の金庫の中の全ての金、店の商品、数えきれない宝物が侵略者の手に落ちた。いっぽうディーター前大司教はその地位を放棄したが、その代償としてかなりの額の補償を手にした。そして翌年には教皇特使から罪の許しを受けた。

<グーテンベルクとその弟子たちの消息>

この間活字版印刷術の発明者は、どうしていたのであろうか? ディーター派に属していたため、その運命は過酷であったものと思われる。グーテンベルクがその家屋敷を没収されたことは確かだとみられている。

巨匠とその従業員はマインツ陥落直後の1462年10月30日に、おそらく多くのマインツ市民と一緒に、武装したアドルフ側の傭兵の罵声を浴びながら、ガウ門を通って町を出ていったものと思われる。その折に授業員たちは市を取り囲む城壁の外でもう一度師匠の周りに集まって、将来のことをいろいろ語り合ったに違いない。

弟子たちのうちの何人かは、すでに印刷の経験があるシュトラースブルクやバンベルクへ、また何人かはライン川に沿ってバーゼルやケルンへ、そしてその他の者は国外とりわイタリアの諸都市を目指したことであろう。彼らは印刷術の秘密を守るという約束から、もはや自由になっていたのだ。またそのうちの何人かは、運よく印刷器具や印刷物などを持ち出すことに成功したかもしれない。しかしたとえそれができなかったとしても、グーテンベルクのもとで積んだ活字版印刷の経験とその技術こそが、彼らにとって何よりの財産であったのだ。

いっぽう「フスト&シェッファー印刷工房」も、おそらくマインツが陥落したときに破壊され、翌1463年の2,3月ごろまでは休業状態にあったと思われる。そしてそこの主であったフスとシェッファー及びその従業員も、一時的に町から追放されたであろう。しかし豊富な資金を持っていたフストとシェッファーは、町が平穏になると戻ってきて、再びその印刷工房をマインツ市内に再建して、仕事を開始している。ただその従業員の一部はマインツを離れたまま戻ってこなかったと思われる。

<グーテンベルクのその後>

兵火が消えやらぬマインツを後にしたグーテンベルクは、どこへ行ったのであろうか? その避難先はマインツの近郊ともいえるライン河畔の町エルトヴィルであった。そこには母親が相続した家屋敷があったために、彼も少年時代に家族と一緒に過ごした可能性があるのだ。ともかくそこは昔からグーテンベルク一族と縁の深い場所だったのだ。また彼が気を許すことができた友人たちも住んでいた。

その土地にもグーテンベルクは印刷所を設立した。新しいパトロンのフメリー博士からも財政援助があったものとみられている。そして活字鋳造器具、「カトリコン」用の活字やその母型、その他の印刷関連の道具類も持ち運ばれたものと思われる。その印刷所は、所有者の兄弟の名前から、「ベヒターミュンツェ印刷工房」と呼ばれた。

1465年1月14日、ヨハネス・グーテンベルクは、新しいマインツの大司教アドルフ・フォン・ナッソーから公印つきの一通の手紙を受け取った。それは彼を廷臣として大司教の宮廷に召し抱えるという内容の手紙であった。もともと彼はこの大司教と対立していたディーター旧大司教側の人物とみられ、そのためにマインツを追われてエルトヴィルへ逃れてきていたのだ。そういう関係にあった新しい支配者からの任官の申し出であったのだが、グーテンベルクはこの申し出を受けている。

任官といっても特別な仕事があるわけではなく、いわば名誉職であった。そのわりに待遇はよく、宮廷服、2180リットルの穀物、2000リットルのワインが支給されることになった。これには税金がかけられず、すべて自分で使うことができた。もともとワイン好きのグーテンベルクにとって、これはとてもうれしい事であったに違いない。再び友人や知人を招いて、一緒に杯を傾けることができ、長い苦労の歳月の後にようやく晩年の平穏な日々が訪れた、というところであろう。

大司教の宮廷人になったことで、再びマインツとの往来が自由になった。おそらくこの時から、多くの都市貴族が昔からしていたように、夏と秋をエルトヴィルで、その他の季節をマインツで過ごすことになったものと思われる。

新大司教アドルフは1462年10月末にマインツを制圧したのち、新しい秩序を打ち立てる必要を感じた。そのために対立していたディーター旧大司教とも翌年10月には講和を結んだ。そして例のフメリー博士に対しても、その損害に対する経済的な補償を行った。こうして自らが支配するマインツ大司教区内での政治的な分裂状態を克服していったのである。

このようにかつての敵との急速な和解の雰囲気が広まるのにつれて、マインツが生んだ偉大なる功労者であったグーテンベルクにも、光が当たってきたわけである。おそらくローマの枢機卿ニコラウス・フォン・クースやバンベルク司教あるいはパリ大学からも、活字版印刷術の発明者のほうに目を向けて、その功績を顕彰するようにとの示唆があったものとみられる。また大司教自らもその抗争を通じて、プロパガンダの新兵器としての印刷術に対して、認識を新たにしたに違いない。こうして初めに述べた公印付きの手紙の発送へと事態が進んだと思われる。そしてエルトヴィルの新しい印刷所も大司教の陰ながらの支援を受けることになって、なにかと商売がやりやすくなったと思われる。

いっぽうアドルフ大司教としてもグーテンベルクを顕彰することによって、「四十二行聖書」の出版以来、印刷術やその発明者に対して関心を持っていた教皇ピウス二世や枢機卿クースのいたローマ教皇庁に対して、自己の威信を高めることができたことだろう。

<その晩年と死>

巨匠に対する顕彰は、当時の政治情勢がもたらした幸運であったといえよう。60代半ばにしてようやく手にした経済的に恵まれた晩年の穏やかな生活ではあった。この間マインツでは以前住んでいた「グーテンベルク屋敷」からも遠くないところにあった「アルゲスハイム屋敷」が、アドルフ大司教から貸与された。マインツ滞在中にこの屋敷に住んでいたグーテンベルクは、先にも述べたように、友人や知人を招いてワインをふるまっていたと思われる。

そんな時、自分が発明した活字版印刷術がどんな都市や国へ、どんなふうに普及していったのか、ということもいろいろ彼の耳に届いていたことだろう。そしてそうした日々の中で、かつての共同事業者で訴訟の相手でもあったヨハネス・フストが、パリで死亡したという通知もその耳に入ったはずである。フストはグーテンベルクよりやや早く、1466年10月30日にペストにかかって亡くなっている。

グーテンベルクは、まちがいなく以前から、とりわけ聖ヴィクトーア兄弟団の団員として、死に対する準備をしていたものと思われる。この兄弟団はすべての団員に対して、敬虔なる埋葬と死者のためのミサの執行を保証していた。そのために活字版印刷術の父は、心安らかに最後の日を迎えることができたことであろう。

彼の死亡を公式に伝える役所の死亡証明書といったものは存在しない。しかし彼の死に関するメモ書きが、エルトヴィルの司祭で聖ヴィクトーア教会の参事会員であったメンゴスという人物によって残されている。このメモ書きは、グーテンベルクの死後に印刷された、ある書物の中に書き込まれているのだ。そこにはグーテンベルクが1468年2月3日に死去した、と記されている。生まれた年がはっきりしないため、死亡年齢は断言できないが、68歳前後だったと推定されている。

絶え間ない戦争、疫病、不慮の事故など、今日とは比べられないぐらいに死の危険にさらされ、平均寿命もずっと短かった15世紀に、この年齢まで生きたという事は、かなりの長生きだったといえるだろう。彼にとっての仕事とは、たえざる創造のプロセスだった。そうした目標追求の生の中にあってこそ、精神の若さと生き生きした意識を保ち続けられたのであろう。

マインツ市内に立つグーテンベルク像(私が撮影)

<グーテンベルクへの称賛の言葉>

活字版印刷術の父グーテンベルク、その発祥の地マインツあるいはドイツに対する称賛や感謝の言葉は、15世紀後半の時期にはまだ、様々な形で残されていた。パリ大学教授ギョーム・フィシェーは、グーテンベルクが死んだ三年後の1471年に、ある書物の前書きで、次のように記している。

「ヨハネス・グーテンベルクが活字版印刷術を最初に考え出した。それは書きペンや羽根ペンではなくて、金属でできた活字によって書物を作るというものである。これは今までよりも速く作れ、しかも美しく、趣がある。まことにこの人物は、すべてのミューズの神、すべての芸術愛好家、すべての書物の愛好家が、神への称賛にも似た賛辞をもって称えるのにふさわしい人物である」

またその少し前の1470年にパリで出版された書物の中には、次のようなラテン語の警句が載っている。

「ドイツは多くの不滅の業績を達成してきたが、その最大のものは活字版印刷術である」

さらにヴェルナー・ロヴェリングは、次のような言葉を残している。

「マインツにおいて発明された活字版印刷術は、芸術の中の芸術であり、また学問の中の学問である。その急速な普及によって、世界はこれまで隠されてきた知識と知恵の宝庫で満たされるようになり、明るく照らされるようになったのである」

長く苦しかったグーテンベルクの発明の仕事は、報われたのである。

マインツ市内にあるグーテンベルク印刷博物館

グーテンベルクと活字版印刷術

その02 活字版印刷術の完成と聖書の印刷

<筆写本と印刷本>

前回「その01 印刷術発明への歩み」の最後の部分で、グーテンベルクが手掛けてきた初期の印刷物を見てきた。しかしそれらのものはなお欠陥が多く、不完全なもので、巨匠がとうてい満足できるようなものではなかった。確かにラテン語教科書『ドナトゥス』の印刷を通じて、筆写とは比べ物にならないくらい速く、しかも安く、書物が仕上げられることを彼は知った。

とはいえグーテンベルクにとっては、印刷は筆写の安価な代用品であってはならないものであった。印刷はそれ自体として、完成されたものでなくてはならなかったのだ。優れた職人魂と求道者の心をあわせてもっていた発明者は、印刷技術の基盤を作った1440年ころからの10数年間、なお絶え間ない創造的不安の中にあったと思われる。というのは彼が模範にした筆写本はまさにこの時期にその花盛りを迎え、質的にも最高のレベルに達していたからである。

                 筆写による豪華な時祷書(1450年ごろ、フランス)

フランスとりわけブルゴーニュにおいては、祈りの時に用いる時祷書(じとうしょ)は華麗な色彩の絵や装飾的な頭文字などによって、特別に高価な豪華本に仕立てられていた。そうした挿絵や細密文字を描くために、当時有名な画家が活躍していたのだ。またイタリアの大商人や貴族たちは、えり抜きの豪華文学書や美しい豪華本のための図書館を作っていた。そしてゴシックの筆写芸術は、ドイツ、フランス、スペイン、イタリアなどの修道院内の筆写工房において、最高の水準に達していたのである。新種の技術が同時代の筆写芸術と、美的にも肩を並べることができるためには、それまで以上の高度な役割を担わねばならなかったのだ。

いっぽう当時キリスト教会の改革を目指していたドイツ人の聖職者、ニコラウス・フォン・クースの影響を受けていたとみられるグーテンベルクが、まず何よりも印刷したいと思っていたのは、均一の内容の「ミサ典書」を大量に作りだすことだった。ミサはカトリックの祭儀の中心をなすものであり、「ミサ典書」はそれを執り行う際のいわばハンドブックであった。そこには教会暦を含めた祭儀細則をともなったミサ典範、順番に並んだミサ手続き、詩篇、説教そして個々の日曜祭日用の聖書の一節などが書かれていた。

ところがこの大切な「ミサ典書」も、何度も書き写していく過程で、しばしば書き間違いや文章の潤色、あるいはテキストを故意にゆがめるという事態が起こっていた。そのためクースは、すべてのカトリック教会に通用する統一的な「ミサ典書」の出現を求めていた。そしてその期待に応えるべく、グーテンベルクはこの書物の印刷を志したものと考えられる。

しかしながらグーテンベルク屋敷内にある印刷工房には、そうした多種多様なものを含んでいた「ミサ典書」の印刷に必要なだけの十分な活字がそろっていなかった。とりわけ聖歌用の活字、極小の活字、教理典範用の小文字と大文字が欠けていたのだ。

そのためにグーテンベルクとしても計画の変更を余儀なくされた。つまり一つの大きさの活字だけで印刷できるような別の作品を探したものとみられる。この過程で彼は協力者たちと相当突っ込んだ議論をしたようである。そしてここでも結局クースの影響が決定的な動機となって、聖書の印刷を選ぶことになったのだ。

<聖書の印刷へ向けて>

今日の視点に立てば、「書物の中の書物」と呼ばれる聖書こそグーテンベルクが真っ先に目指すべき対象だったように思われる。ところが15世紀の中ごろには、聖書は宗教生活の中心に位置していたわけではなかった。当時のカトリック教会の司祭宗教がとっていた立場によれば、聖書というものは、司教や司祭を通じて一般民衆に説明されるべきもの、とされていた。つまり聖書そのものを民衆自らが読むことは、カトリック聖職者の権威を保つのに都合が悪かったわけである。そのために幾多の宗教会議を通じて、聖書を各国語に翻訳することが禁じられていた。したがってこうした当時の一般的風潮からは、聖書を印刷して普及させるという考えは生まれてこなかったといえる。

しかし当時のカトリック教会の内部にも、教会改革の立場から聖書の普及を奨励していたクースのような人物もいたのだ。1451年5月、クースは教皇特使としてマインツのベネディクト派修道会の70人の院長を前にして、よい翻訳によって編纂された聖書を修道院内の図書館に備えることが大切である、とその意義を説いたといわれる。

そしてクースとの関係が深いグーテンベルクは、このとき改革派修道会における聖書に対する需要を悟ったものとみられるのだ。聖書のような大型の書物は当然高価になるはずであったが、そうした負担に応ずることができる潜在的な買い手としては、そのほかにも司教、大学教授、世俗領主などが見込まれていた。

<グーテンベルクとフストの出会い>

こうして聖書の印刷を志すようになったグーテンベルクにとって、当面の課題となったのは、ラテン語教科書「ドナトゥス」のような小型印刷物とは違った大作としての聖書の印刷に必要な資金だった。それまでもたびたび各方面から資金を集めてきたのだが、この度融資を受けることになったのは、書籍印刷の歴史において重要な役割を演じたヨハネス・フストであった。

            ヨハネス・フストの肖像画

フストはマインツの商人で、それまで写本の「ドナトゥス」を売るために、各地の大学都市を渡り歩いたものとみられている。そして「グーテンベルク屋敷工房」では、印刷された「ドナトゥス」を販売してくれる商人を必要としていた。それが最初のきっかけとなって、グーテンベルクはフストと知り合うことになったのだ。そして1449年の夏にフストから800グルデンという大金を融資してもらった。おそらくフストはすでに印刷されていた「ドナトゥス」などの作品を見て、印刷業がもたらす可能性を信じて、これだけの大金をよそから借りて融資したものと思われる。

それはともかく、この金によってグーテンベルクは聖書を印刷するために必要な、従来の「グーテンベルク屋敷印刷工房」よりも立派な設備を備えた印刷所を建設することができたのである。その場所としては、遠い親戚のヘンネ・ザルマンが所有していた地所が選ばれた。その印刷所には、最初は3台、のちには6台の印刷機が設置された。グーテンベルク屋敷工房には1台の印刷機しかなかったのに比べると、大変な拡充といえる。さらに植字用の作業台が6台と羊皮紙や紙の保管庫も建てられた。

フストは融資に対する担保として、組み立てられた印刷機その他の機械設備一切と付属の材料並びに出来上がる予定の作品を指定している。二人はこれらを定めた契約を1450年に結んだ。こうして巨匠は念願の大作「聖書」の印刷という大事業に乗り出していったのである。

<「四十二行聖書」の印刷~発明のクライマックス~>

一般に「グーテンベルク聖書」と呼ばれているものは、この「四十二行聖書」を指している。「四十二行」とは一ページに収められた行数を言うが、「三十六行」その他の行数の聖書も印刷されているため、こう呼んでいるわけである。

さてグーテンベルクは念願の聖書を印刷するために、まずその活字製造に全精力を注いだものと思われる。従来からあった豪華で華麗な筆写による聖書に、美的観点からも匹敵するような書物を作り上げるためには、何よりも美しい書体の活字を鋳造することが肝要だったからだ。そのために彼は当時存在した筆写によるラテン語聖書を模範にした。そしてこの写本の中から最も美しい書体が選びだされ、合字や略字を含めた全アルファベットがトレースされた。(ちなみにドイツ語訳聖書の印刷本が世の中に出回るようになるのは、それから70年以上のちに、宗教改革者マルティン・ルターがドイツ語に翻訳したものが印刷されてからのことである。グーテンベルク以前にも、筆写によるドイツ語訳聖書は刊行されてはいたが、その数量はごく限られていたため、一般にはほとんど普及していなかったとみられている)

ついで活字父型が彫られ、それが活字母型の中に打ち込まれた。その活字母型は活字鋳造機の中に挟み込まれ、その中に溶かした鉛合金を流し込んだ。そして最終作業として高さが調整されて金属の活字が鋳造されていったのである。

活字鋳造工房の様子(これは1568年のものであるが、グーテンベルク時代   と変わっていない)

アルファベットは基本的には26文字であるが、活字としては、小文字、大文字、合字、略字、句読点などが作られ、その際組版の行の初めと終わりをそろえるための工夫として、幅の広い活字や狭い活字などいろいろ鋳造された。こうして字種の総数は290種類にも上ったのである。全体の組上がりの美しさを、こうした様々な文字や記号の組み合わせによって、生み出そうとしたわけである。こうして出来上がった聖書用の活字は実にエレガントである。そして大文字は創造力にあふれていた。これらの活字づくりの準備作業のために、半年の歳月が必要だったとみられている。

                             「四十二行聖書」に用いられた活字一覧表

いっぽう組版の作成には、同時に四人の、のちには六人の組版工がたづさわっていた。そしてそれぞれの組版工のために三つの組版ケースが用意されていた。聖書の一ページには2600文字が詰まっていたために、三つの組版ケースには7800個の活字が入っていた計算になる。組版が完了すると、紐できつく結わえられて刷り版として印刷に回された。印刷が完了すると、組版は解かれ、活字は再び活字ケースに戻された。こうして繰り返し使用された活字は摩耗するので、常に新しいものと取り換える必要があった。こう見てくると、必要とされた活字の総量は、膨大な数に上ったはずである。

       活字鋳造機,植字作業用ステッキ、組版など

さて印刷機を操作する印刷工であるが、一台の印刷機に対して二人の印刷工が必要だったので、六台分では十二人いたわけである。また一台に一人のインク塗工と、印刷機の上に紙を置く作業員がいた。そのほかにも、活字父型彫刻師、解版工、印刷インクを調合する者、校正係、その他の補助作業員がいた。つまり少なくとも二十人のレギュラーメンバーが、そこで仕事をしていた計算になる。これらの職人たちは、のちに述べるように、その後グーテンベルクのもとで仕事ができなくなり、ヨーロッパ各地に散っていった。そしてその中には1470年代になって、各地での最初の印刷者として名を挙げた者が少なくない。つまりマインツのフンブレヒト屋敷の印刷所は、初期印刷者にとっての研修所でもあったのだ。

<マインツのグーテンベルク博物館内に設置された印刷機による聖書印刷の実演>

グーテンベルクが生まれ育ったマインツ市の中心部に、「グーテンベルク印刷博物館」がある。私はこの建物を数回訪れたことがある。いうまでもなくこの博物館は、印刷に関する総合的な博物館で、印刷術の歴史から世界各国の印刷事情に関する豊富な展示物であふれている。とりわけ活字版印刷術の生みの親であるグーテンベルクの生涯とその業績に関しては、他に類を見ないほどの充実ぶりを示している。なかでもグーテンベルクが使用していた時代の堅牢で、堂々たる印刷機を中心にもろもろの関連設備を備えたコーナーが、この博物館の目玉になっている。そして定期的に、一人の印刷工による聖書の印刷の実演が行われている。私もこの実演を、ほかの見物客に交じって、まじかでじっくり観察したことがある。聖書の一ページの印刷が終わると、希望者には刷り上がった一ページが与えられるのだ。もちろん私もそれを一枚もらって、今でもわが書斎にしまってある。

その実演の様子を撮影した四枚の写真があるので、次にご紹介することにする。

           活字を鋳造しているところ

         組版上の活字にインクをつけているところ

            印刷作業をしているところ

        刷り上がった聖書の一ページを点検しているところ

<聖書印刷の工程>

ここでグーテンベルクが行っていただろう聖書印刷の工程に目を向けることにしよう。まず印刷の前に羊皮紙や紙に、適度な湿り気が加えられた。そして裏面や組版面をそろえるために、きちんと畳んだ紙の縁に、針で小さな穴があけられた。紙葉全紙(表裏合わせて16頁)で用意されたものが、複雑な手順を踏んで時間をかけて一枚、一枚印刷されていった。この印刷の作業は極めて面倒なもので、たった一か所にブレがあったり、十分インクが付いていないページがあるだけで、全紙全体がだめになって、もう一度初めからやり直さなければならなかった。

印刷のスピードは、印刷工二人を付けた一台の印刷機で、一時間あたり8~16ページといったところであった。「四十二行聖書」は二段組みであったので、二巻本あわせて1282頁にものぼった。そのため推定発行部数180部を全部刷り上げるためには、一日十時間という平均作業時間で、六台の印刷機が同時にフル稼働して、333労働日が必要という計算になる。

ところが中世には様々な祝祭日があったために、一年間の労働日は188日にすぎなかった。さらに当初は四台の印刷機しか稼働しておらず、仕事をしていない時間や職人が一時的に別の仕事をしていたこともあった。こうしたことを総合すると、180部の完成までにかかった時間は、およそ二年間と見積もることができよう。

さらに装飾的な要素の強いこの作品には、印刷されない部分つまり見出しのイニシャルを手書きで彩色する箇所が、170か所も残されていたのだ。それを彩色する時間と製本する時間は数か月から半年ほどかかったという。

推定発行部数は180部であったが、そのうち羊皮紙製のものが30部から35部、紙製のものが145部から150部ぐらい印刷されたものとみられている。ちなみに現存している「四十二行聖書」は、羊皮紙製が12部、紙製のものが35部である。現在日本には、1部だけ保管されている。

ついでながらこれまで羊皮紙と呼んできたものは、実は羊の皮ではなくて、ヴェラム(子牛の皮)が使われていたのだ。わずか30部から35部の「四十二行聖書」のために、五千頭の子牛の皮が必要とされたといわれる。そのほかにも鉛などの金属代、インク代、職人への賃金、印刷所の家賃などもグーテンベルクは支払わねばならなかったのだ。とにかく豪華本「四十二行聖書」製作のための全経費は、膨大な額に上ったものとみられている。

<最高の完成度を示した「四十二行聖書」>

以上みてきたように、「四十二行聖書」の印刷には莫大な費用と労力、そして長い時間がかかったのである。その際グーテンベルクが追求したのは、美的・芸術的観点からいっても当時最高のレベルに達していた筆写による聖書に匹敵する、あるいはそれを上回るような作品を、活字版印刷によって作り上げる事であった。最高の品質への努力の中にこそ、彼の絶え間のない注意の目がむけられていたのである。その際横310ミリメートル、縦420ミリメートルという大きな判型、並びに二段組みという書物の形態は、最良の筆写工房で作られた当時の写本聖書に倣ったものである。

        )

         「四十二行聖書」(ルカ福音書の一部)

         

            「四十二行聖書」の外観

このほかにもグーテンベルクの聖書には、様々な点で、早くも活字版印刷の最高の水準に達していたことが注目されるのである。たとえば初期の「ドナトゥス」はまだ各行の長さがまちまちで、行末が不ぞろいであったが、「四十二行聖書」にあっては、初めてすべての行が同じ長さで印刷されるようになったのである。これは模範とされた写本聖書でも見られなかったことである。これによって書物の視覚的な美しさは一段と増している。この点において、印刷本が写本を上回ったわけである。今日の印刷では、本文の行末がそろっているのは当たり前となっているが、当時は様々な工夫の末にようやく達成された成果であったのだ。

さらに組版の規則的な正確さ、印刷インクの色が均等になっている点、その他もろもろのことが、今日でも到達できないくらいの完成度を示しているのだ。このヨーロッパ最初の活字版印刷本が、限りなく上品な美しさと優れた技量を示したこと、そしてその水準に達するのがその後容易ではなかったことは、現在の我々にとっても奇跡に思えてくるほどである。

歴史に残る、このような最高度の業績は、最高の品質に対する情熱と責任感を持ち合わせ、その仕事熱心さをすべての仕事仲間に感化させることができた、一人の偉大な人物によってはじめて達成されたものと言えよう。

<フスト、グーテンベルクを提訴>

グーテンベルクはフストからの融資によって新しい印刷工房を作り、「四十二行聖書」を印刷したわけだが、その完成まじかという時期に、巨匠はこのフストから約束不履行で訴えられた。その訴訟の様子は、ある文書によって詳しくわかっているが、ここではその経過は省略して、その事情をごく簡単に要約して説明することにしよう。

結論から言うと、「聖書」の印刷がすべて完了する以前に裁判所の裁定が出され、グーテンベルクは敗訴したのであった。その結果、彼は抵当に入れていた印刷工房や印刷機器など、そして刷り上がっていた作品である「聖書」をフストに渡さざるを得ないことになってしまった。

この訴訟の結果はたしかにグーテンベルクにとって、大きな衝撃だったと思われる。何しろそのライフワークともいうべき「四十二行聖書」の印刷がようやく完了するというまさにその時に、それを売って利益を得るという手立てを奪われたうえに、印刷所や印刷機器まで取り上げられてしまったからである。

そのために古来グーテンベルクに関する通俗的な伝記や読み物では、ヨハネス・フストは冷酷この上ない金の亡者のように描かれ、グーテンベルクのほうは逆に悲劇の主人公として、同情が寄せられるといった具合であった。しかしここでは、あるドイツ人研究者の冷静な見方を紹介することにしたい。

それによると、金を貸したフストには、印刷術の完成とか、作品を芸術的・美的観点から完璧なものにすることへの関心は全く見られなかった。その関心はもっぱら多大な利益をもたらす高価な商品である「四十二行聖書」を、一刻も早く完成させて販売することにあったのだ。

そのためフストは二度にわたって大金を投入してその完成を待ったのだが、完璧主義を貫いてじっくり時間をかけていたグーテンベルクの態度に業を煮やして、提訴したのであろうという。そしてこうした態度は商売人としては当然であったとみている。またフストは、当時封建的秩序の中で目を出しつつあった初期資本主義の、成功した金融業者だったという。さらに当時の裁判官たちにとっては、印刷術発明の歴史的価値などは認識すべくもなく、ただその時代の法の規範に従ったまでであろうとしている。

<フンブレヒト屋敷印刷工房からフスト&シェッファー印刷工房へ>

「四十二行聖書」の印刷という世紀の大事業の舞台となった「フンブレヒト屋敷印刷工房」には、すでに大規模な書籍印刷を行うための、あらゆる前提条件が備わっていた。そこには、紙、羊皮紙、印刷インクが豊富にあり、活字鋳造機や性能の良い印刷機が4~6台設置されていた。そのうえ活字父型彫刻師、活字鋳造工、組版工、印刷工、校正係その他の専門家からなる有能な職人のチームができていた。

さらにグーテンベルクは、改良された二種類の書体の新しい活字を準備していたかもしくはすでに完成させていた。それは「マインツ詩篇」のための活字で、おそらく印刷も始められていたものとみられている。そこに欠けていたのは、印刷という仕事を全体として統率、指揮していく人物であった。

かつての主人のグーテンベルクは、大きな不満を抱きながらも、そこを去り、最初の「グーテンベルク屋敷印刷工房」へと戻らざるを得なかったからだ。彼に代わって複雑極まりない印刷という事業を、継続してやっていける人物が果たしていたのだろうか? 当時もっとも経験を積んだ印刷工としては、ベルトルート・ルッペルとハインリヒ・ケッファーの二人がいたが、この二人ともグーテンベルクの信頼厚い人物で、巨匠と行動を共にしている。

こうして今や工房の単独所有者となったヨハネス・フストが選んだ人物が、ペーター・シェッファ-であった。そして「フンブレヒト屋敷印刷工房」はこの後、「フスト&シェッファー印刷工房」と名前を変え、グーテンベルクの遺産を受け継ぎながら、さらにその事業を発展させていくのである。

ペーター・シェッファ-の青少年時代については、あまり知られていない。しかし1420年から1430年の間に、マインツとウオルムスの間にあるライン河畔の町ゲルンスハイムで生まれたことは確かである。そのためにゲルンスハイムの人々は、今から百年ほど前に、この郷土出身の有名人のために記念碑を建てている。

彼はやがてフストの養子になり、金細工師フストの家庭で、一定の金属加工技術を習得していたらしい。ついで1444年にフストはシェッファーをエアフルト大学へ入学させ、さらに1449年にはパリ大学に聖職者として登録させている。そこで彼はラテン語を習得しただけでなく、筆写生、能書家としても働いていたものと思われる。彼が書いた素晴らしい書は、オリジナルはなくなってしまったものの、ファクシミリを通じて知ることができる。

おそらく1452年ごろ、フストはシェッファーをパリからマインツへ呼び戻している。そして彼はグーテンベルクのもとで印刷技術を習得するようになった。師匠のグーテンベルクにとっても、彼は呑み込みの早い優秀な生徒だったようだ。そのために師匠のもとで、旧約聖書の一部である「マインツ詩篇」用の活字の製造に関与していたものと思われる。

       「マインツ詩篇」の、ある一ページ(1457年)

1457年8月、フンブレヒト屋敷内の「フスト&シェッファー印刷工房」で、豪華本「マインツ詩篇」の初版が印刷された。これは二つ折り判340頁のもので、すべてが羊皮紙に印刷された。そして特記すべきことは、この時初めて書物の中に印刷者の刊記がしるされたことである。そこには作り手として、マインツ市民ヨハネス・フスト及びゲルンスハイム出身のペーター・シェッファ-の名前が書きこまれたのだ。またフストとシェとッファーが考え出した、二人の印刷者標章(プリンターズ・マーク)が、赤い色で刷り込まれていた。

          ペーター・シェッファ-の肖像画(上のもの)

          フスト&シェッファー印刷者標章(下のもの)

これは世界で初めての印刷者マークで、これ以後初期の印刷者はこうした印刷者標章を作って、自分の印刷所で印刷した作品に刷り込むようになった。

ところでこの作品は、すでにグーテンベルクによってその印刷が始められ、フストとシェッファーのコンビによって完成されたものである。しかしこれだけの完成度を保証した技術的基盤は、やはりグーテンベルクの優れた金属加工技術にあった、という認識ではほとんどすべての研究者の一致を見ている。その準備作業はフストの提訴以前にすでに始まっており、裁判の進行中も続けられたと思われる。その意味で「マインツ詩篇」は部分的には、グーテンベルクの作品でもあったといえる。

それと同時に、巨匠のこの作品を、フストとシェッファーがいかに模範的に継続発展させることができたか、ということも確認されるのである。この二人としては自分たちの最初の作品であったから、古い主人に引けを取るものではないことを、従業員やマインツ市民に証明する必要があったのであろう。そしてさらに巨匠を乗り越えることによって、従業員の古い主人への思い出を払しょくしようとしたものであろう。

ところで詩篇というものは旧約聖書の一部をなすもので、150の詩歌から成り立っている。そしてそれらは教会の日々の典礼用詩歌や讃美歌として用いられていた。そのためにこうした書物は先唱者や、できれば合唱隊員も一緒に読めるように、大きな活字で印刷されねばならなかった。さらに書物のなかには、中世の音符であるネウマや定量記譜が、彩色工または合唱指揮者によって書き込まれていた。

  「マインツ詩篇」の一部分(中世の音符ネウマが上のほうについている)

とにかく詩篇はミサ典礼にとって欠かすことができないものだったので、修道院や教会で大きな需要があったものと思われる。そしてその素晴らしい出来栄えによって、フストとシェッファーは聖職者たちからお墨付きをもらっただけではなく、商売の点でも成功を収めたものと思われる。

次に印刷されたのは「カノン・ミサエ」と呼ばれる小さな作品であった。これは二つ折り判24頁のものだが、ミサ典書の中ですべてのカトリック教徒に共通するのが、この「カノン・ミサエ」だといわれる。それだけに大きな需要があったようだ。

さらに三番目の作品として、1459年に「ベネディクト詩篇」が出版された。これは「マインツ詩篇」を改編したものだが、聖歌の収集や順番はベネディクト派のブルンスト信心会の規定によって変更されていた。判型は大きくなり、大きな活字にふさわしいものになっていた。活字書体のデザインの美しさは、1457年の「マインツ詩篇」を上回っている。「ベネディクト詩篇」はベネディクト派修道会から直接注文を受けたものとみられている。グーテンベルクがフランシスコ派修道会との関係が深かったのに対して、シェッファーのほうはベネディクト派修道会とのつながりを深めていったようだ。

四番目に重要な作品として、典礼用規則集が1459年に出版された。これは当時教会当局から重視されて、その使用が奨励され、頻繁に用いられていたものであった。この作品のためにシェッファーはとても小さな活字を新たにデザインした。つまり当時の人文主義者の手書き字体をまねた読みやすい「ゴチコ・アンティクア体」である。さらに同じ活字によって、1462年に「四十八行聖書」が印刷されたほか、教会法を学ぶ学生たちが必要としていた教会法典に関する書籍数冊も印刷された。

こうしてシェッファーは、教会が必要とする書物の印刷者となっていったわけである。当時書物を必要としていたのは、教会関係の聖職者か大学の学者であったが、そのどちらかと固く結ばれることによって、売り上げも確保されたのであった。

これらの作品の印刷・出版をつうじて、ペーター・シェッファ-は師匠のグーテンベルクの真の後継者であることを実証した。とりわけブック・デザインの面では、数々の新機軸によって、師匠の果たせなかったことも成し遂げたのであった。

グーテンベルクと活字版印刷術

前回の「ヨーロッパ中世の書籍文化」に続いて、今回は「グーテンベルクと活字版印刷術」について、2004年10月に朗文堂から刊行された『ヨーロッパの出版文化史』に基づいて、本ブログに書いていくことにします。

その01 印刷術発明への歩み

<グーテンベルクについての常識>

活字版印刷術がグーテンベルクによって発明されたことは、わが国でもあまねく知れ渡っている。中学の社会科や高校の世界史の教科書にも、必ずといっていいぐらいその名前が記され、その業績も簡単ではあるが紹介されているからである。たとえば高校の世界史の教科書の一つには、次のように記されている。

「ルネサンス時代には、技術の開発や発明も盛んにおこなわれた。その中でも三大発明といわれる活字版印刷術・羅針盤・火薬の発明は、文化・社会全般の革新・発展に大きく貢献した。ドイツ人グーテンベルクの発明といわれる活字版印刷術がヨーロッパに広く普及したのは、良質の紙を比較的安く供給できる製紙法が知られていたからである。この結果書籍がそれまでの写本に比べると、速く正確にしかも安く作られた。人文主義・宗教改革の思想が各地にすみやかに伝播した理由もここにあった」

私自身もこうした内容のことを習ってきたが、多くの日本人にとっても受験などを通じて、このことはほぼ常識になっているのではなかろうか? しかしグーテンベルクの活字版印刷術というものが、具体的にはどのようなものであり、またこの人物がどのような生涯をたどったのかという点については、はたしてどれぐらいの人が知っているのであろうか? 現在わが国で発行されている百科事典を広げてみても、その記述はあまり詳しくはない。またグーテンベルクに関して日本語で書かれた文献や書籍も極めて少ない。

ヨーロッパの出版文化の歴史をたどるとき、やはり活字版印刷術の中身とそれを発明した人物について、ある程度詳しく語る必要がある、と私は考えている。そこで以下にグーテンベルクの生涯をたどり、あわせてその業績について紹介していくことにしよう。

<グーテンベルクの出生>

グーテンベルクの肖像画(1584年製作の銅版画。同時代の肖像画は存在しな    いので、この姿が本物にどれだけ近いのかは不明)

ヨハネス・グーテンベルクは、南西ドイツのライン川のほとりの町マインツで、西暦1400年ごろに誕生した。その正確な生年について記した記録文書は残っていないので、もろもろの傍証から推測したものである。

父親のフリーレ・ゲンスフライシュは豪商で、その家系はマインツの名門の都市貴族であった。おそらく父親は織物取引に従事していたとみられるが、数代前から市内に広大な家屋敷を所有していた。

        マインツ市の景観(15世紀の木版画)

マインツはライン川とその支流のマイン川が合流する地点にあり、古代ローマ軍の駐屯地であった。そして中世には「黄金の町」と呼ばれたほどの繁栄を見せていた。また8世紀にはカトリック大司教の所在地となり、それ以後も宗教的・政治的に大きな役割を果たしていた。やがてこの町はケルンとともに、ライン地方の商業の中心地としても重きをなした。それは主として大司教からの全国的規模の注文によって、織物や金細工製品などの取引が促進されたからだ。こうして大規模な遠隔地商業に従事する大商人の経済力が高まるとともに、大司教の支配から脱して、皇帝直属の帝国自由都市となった。そして「商人ギルド」に結集していた大商人階級は、マインツの都市行政を担う「市参事会」の中枢メンバーとして、特権的な都市貴族となっていったのである。

印刷術の発明者の父親はこうした都市貴族の一人だったが、その妻の父親は小売り商人で、都市貴族ではなかった。そのためにヨハネス・グーテンベルクには四分の一だけ違う社会階層の血が流れていた。そして当時はこうした社会階層の違いは、極めて大きな意味を持っていたのである。このころ小売商人や職人が作っていたギルドと都市貴族の間で、階級間の激しい闘争が繰り広げられていた。こうしたことが発明者の性格や行動に暗い影を投げかけていて、通常の都市貴族がたどる経歴とは違った、特異な人生を歩ませたものと思われる。

<その青少年時代>

ヨハネス・グーテンベルクが誕生したとき、父親はすでに50歳ぐらいだったが、母親のほうははるかに若く、発明者はこの母親の影響を強く受けて育ったとみられる。そしてマインツの修道院付属学校に通って、ラテン語も習得したものと思われる。

その後彼は創立間もない中部ドイツのエアフルト大学に通い、そこでラテン語に磨きをかけたものとみられる。後に彼は自分が発明した印刷術で聖書その他を印刷したのだが、これらの書物はラテン語で書かれていて、総監督であったグーテンベルクにとってラテン語の知識は必要不可欠だったからである。また当時のエアフルト大学にはカトリック教会の改革の精神が躍動し、イタリアからドイツへ流入していた新しい人文主義の理念についても語られ、さらに広く政治的・社会的な事柄にも目が向けられていた。

このころドイツに対して、ローマ教皇をはじめとするカトリック勢力の圧力が強まっていたが、エアフルト大学の周辺にはドイツ人の民族的権利を強調する動きがみられた。保守的なカトリックの聖職者は自分たちの権威を守るために、一般の民衆が聖書を読むのを禁じていたのだが、この大学に大きな影響を及ぼしていた進歩的な聖職者は、人々が聖書を直接読むことを奨励していたのだ。

このような進歩的な雰囲気に包まれていたエアフルト大学で、当然のことながら若きグーテンベルクは、各国からやってきた修士や学生たちと知り合ってその視野を広め、新しい思想や潮流の影響を強く受けたことと思われる。のちにグーテンベルクが印刷術を発明しようとした根本的な動機も、こうした思想的な背景と結びついていたのだろう。そのいっぽうこの大学生時代には、当時の学生がたいていアルバイトとしてやっていた筆写の仕事にも従事していたものと思われる。

1419年の秋、彼がまだ在学中に父親が死亡した。グーテンベルクは翌年学長から修了証書を授与され、故郷のマインツへ戻った。

<その後のグーテンベルクの歩み>

マインツに戻ったグーテンベルクは、その政治的な立場が異なるため緊張関係にあった実兄の家族とともに、広大な「グーテンベルク屋敷」に住んだ。そして活字の鋳造には決定的な意味を持つ金細工の技術を、二人の職人から習得したものとみられる。

いっぽう20代のころの生活を想像してみると、負けず嫌いで、鼻っ柱が強く、陽気な仲間とも付き合う青年貴族の面影が浮かび上がってくる。しかしそれ以上のことはわからない。そして1429年から5年間、マインツから姿を消している。その間どこにいたのか史料が残っていないので不明だが、ライン川上流のバーゼルの手工業職人組合の会員となって、金属加工の技術に磨きをかけていたともみられている。

      シュトラースブルク市の景観(15世紀の木版画)

そして1434年から11年間にわたって、同じくライン川に沿ったシュトラースブルクの町に住んでいたことが、記録によって知られている。この町は現在はフランス領のストラスブールだが、当時はドイツ帝国の一部だった。地図を見れば明らかだが、マインツ、シュトラースブルク、バーゼルは、ライン川に沿って北から南へと真っすぐつながっていて、当時としても比較的容易に移動できたものと思われる。グーテンベルクが生きていた15世紀の中頃にはこの町の人口は2万5千人で、ドイツ帝国有数の都会であった。そしてマインツ同様に商工業の盛んな町で、ライン川の西の支流イル河畔の建物が、水陸両用の貨物の積み替え地となっていた。また中心部には当時からすでに壮麗な大聖堂がそそり立っていた。

このシュトラースブルクの町でグーテンベルクは1434年から1444年まで過ごしたわけであるが、それは彼にとって34歳から44歳までの壮年時代であったといえる。この間、彼とエネリンという女性との関係について記した文芸作品が昔から数多く存在する。しかしこの女性との結婚などについて書いた記録文書は一切存在しない。おそらくグーテンベルクは一時期彼女と関係を持ったがそれも切れて、それからは印刷術の発明へ向けて没頭していったようである。

その時代、1438年の初め、グーテンベルクは手鏡を作るための共同事業に関して、三人の仲間とある取り決めを結んだ。当時アーヘン大聖堂への巡礼行が行われていたが、そこでは救済用の手鏡が聖遺物の奇跡的な力を集めて蓄えると信じられていて、巡礼者に売られていたのだ。グーテンベルクが結んだ取り決めとは、独特な生産協同組合ともいうべきものであった。アイデアと製造技術を提供したグーテンベルクが利益の半分を、出費をした人物が四分の一を、そして労力の提供を申し出た二人がそれぞれ八分の一を受け取るというものだった。こうして手鏡はかなり短期間に完成したが、巡礼行が二年先に延ばされたために、作った手鏡は手元に保管され、利益のほうはお預けとなった。

この手鏡の材質には鉛と錫の合金が用いられたが、これこそグーテンベルクが後に印刷業務に取り組んだ際に鋳造した活字の材料と同じものだったのだ。活字版印刷術発明への技術的な前提の一つが、この手鏡製造という形をとって、ひそかに準備されていたのである。

手鏡製造が終わってから、あるいはそれと並行して、彼は新たな事業に取り組んでいた。それは当時人に知られてはまずい、ある新しい技術ないし発明を、協同組合方式で生み出そうというものであった。当時「印刷術」はドイツでは長いこと「黒い魔術」と呼ばれて疑惑の目で見られてきた。その事業をグーテンベルクは協同組合方式で、成功させようとしたわけである。この発明のアイデアと資本と労働能率の三つを結集した共同事業の形態こそ、のちに彼が活字版印刷術の発明と実践の際に用いたやり方そのものだったのである。

こうして手鏡製造の時に労力を提供した二人の人物は、秘密の術を教わる形で新たな事業の助手の役割を務めた。さらに別の人物が圧搾機を組み立て、一人の金細工師が活字父型を彫る仕事を委託され、材料の金属も購入された。これらのためには資金が必要であったが、延期になっていた先のアーヘンの巡礼行がその後実施されて、予定されていた売り上げがグーテンベルクの懐に入ってきた。

このようにして新しい事業は順調に進んでいった。しかし協力者の一人の兄弟から、ある時秘密の事業に関連して訴えられたが、一定の金を支払うことによって決着を見た。これは秘密裏に進めていた印刷事業を世間に公表できないという弱みを突かれたものであった。

<シュトラースブルクでの印刷事業>

こうしたつまずきはあったが、その事業はさらに進展して、市内の各所に拠点が作られて、必要な人材が配置されるようになった。グーテンベルクが住んでいた家には活字鋳造所があり、先の金細工師が活字父型を彫る作業を手伝っていた。しかし印刷工房と組版の作業所は、市内の別の家にあった。このように各作業所が離れ離れだったことは、確かに不便ではあったが、秘密の保持という点ではかえって勝っていたというべきであろう。

1439年には新たに5年の有効期間を持つ契約が結ばれた。そして新しい場所にそれまでより大型で質の良い印刷機が設置された。また以前より大量に羊皮紙や紙が購入され、新しい活字の鋳造のために、大量の鉛、錫、アンチモンなどが運ばれてきた。これらのためには多額の資金が必要であったと思われる。とにかく当時としては巨大な一つの事業を立ち上げるためには、莫大な資本が前提となっていたわけである。

グーテンベルクは当時「黒い魔術」などと呼ばれて、胡散臭い目で見られていた印刷術の発明に向けて、長期にわたる努力を傾けていた。そしてすでに印刷事業にも取り組んでいたのであった。その意味ではすでに「印刷術」は発明されていた、と言えそうである。

ところがいったい何をもって活字版印刷術の発明とするのかを決めることは、そう容易なことではないのだ。後世の人々は、ある偉大な発明が決まった時期に行われ、それが世の中にはっきり宣言されるものと、とかく考えがちである。しかし19世紀や20世紀のことはさておき、15世紀という昔には、そういうことはなかったのである。グーテンベルク自身は、自ら印刷したものに自分の名前を入れたり、発行年月日を入れたりはしていない。そのため彼が印刷したものの製作時期については、副次的な史料からさまざまに推測しているわけである。

こうした事情があるうえに、グーテンベルクは印刷技術のいろいろな工程に、どんどん改良を加えていっている。そのために最初の印刷物がいったいいつ製作されたのかという事も、簡単には言えないのだ。しかし複雑な過程は省略して結論だけを言えば、1439年の12月ないしその少し後に、最初の出版物を世に出した、と推測されている。

ちなみにグーテンベルクが亡くなって少し経った1505年に書かれた書物の中では、
「ヨハネス・グーテンベルクが1440年にシュトラースブルクで書籍印刷術を発明し、のちにマインツでこれを完成させた」
と記されている。我々は1440年にはグーテンベルクはまだシュトラースブルクに住んでいたことを知っているので、この記述は正しいものと言えよう。

グーテンベルクの立像(シュトラースブルク市に現在立っているもの、私が撮影)

<東洋における活字版印刷>

いっぽう活字を印刷用の刷り版に用いた印刷の方法自体は、グーテンベルクよりずっと早く、中国や朝鮮半島で行われていた。中国では古くから木版印刷が盛んであったが、北宋の時代(960-1127)に、泥土を膠(にかわ)で固めて、その上に文字を彫り、それを焼いて作った、いわゆる「膠泥(こうでい)活字」が発明された。

印刷にあたっては、鉄板に蝋を流して温めながら活字を並べ、並べ終えると鉄板を火からおろして冷却させる。そして蝋で活字が固定されるのを待って、そのあとは木版印刷と同じように活字の上に墨を塗り、上から紙をあてて文字を写し取るのである。

この方法だと、活字を用いるとはいっても、実際には木版印刷とあまり変わるところがない。片面印刷だという点と、文字が象形文字で膨大な数の活字を必要とした点、そして一枚一枚の組版を作るのがかなり面倒な作業であった点などの欠点があり、極めて能率の悪いものであった。その後の中国では、木や金属を材料とする活字が考案されたが、ほんの一部で使用されただけで、印刷の主流はやはり木版であった。

また朝鮮では、1230年に鋳造銅活字の印刷が行われた。しかし銅活字の鋳造が盛んになったのは李朝時代(1392年以降)に入ってからである。1403年に太宗は朝鮮に書物が少ないことを遺憾として、数か月の間に数万個の活字を鋳造させたという。そしてその2,30年後に儒教を広めるために、その関連の書物の印刷が奨励された。

しかしながら印刷物の内容は、国が指定したものだけで、民間で自由に印刷することは許されなかった。こうしたことから印刷の普及には限度があった。そして印刷機が用いられずに、上からこすりつける方式だったために、やはり能率の悪いものであったと思われる。これはグーテンベルクの発明に先立つことわずか半世紀のことであるが、彼が果たして朝鮮の活字印刷方式やその印刷物を、知っていたかどうかを立証する史料は存在しない。

<グーテンベルク方式の優れた点>

これらの東洋の印刷方式と比べて、これから詳しく述べるグーテンベルク方式は、大量生産方式に極めて適した効率の良いのもであった。その際多くの研究者が指摘しているように、活字に用いられた文字が表音文字のアルファベットだったという事こそ、グーテンベルク方式を可能にした大きな利点であったというべきであろう。この表音文字の持つ特徴によって、それほど数の多くないアルファベット活字を、随時組み合わせて植字をして組み版が作られた。そしてそれを刷り版として印刷し、印刷が終わるとその組版を解体して、再び新たな組版を作るという方法がとられたわけである。

後に明治時代の初めに、西洋からこの活字版印刷術が日本に入ってきたとき、本木
昌造などの努力によって象形文字である漢字の活字が作られ、それを組版にして活字版印刷をするようになったわけである。しかし15世紀半ばという時代に、膨大な数の象形文字の活字を作って、さらにその組版を作ることを考える人が果たして現れたであろうか?

次に活字版印刷術のどういう点が、グーテンベルクの独創であり、発明だったのか、考えてみたい。
まず第一に活字であるが、金属活字の製造方法そのものは、ヨーロッパでもグーテンベルク以前から知られていた。鋳造業者は13世紀ごろから金属や木に文字を彫って砂の鋳型を作り、そこに溶けた金属を流し込んで活字を作っていた。ただこれらの活字はばらばらのままで、製本業者が書物の丈夫な背表紙にそれらの活字を打ち込んで、書物のタイトルを作っていたわけである。

グーテンベルクは活字の鋳造そのものに改造を加えたうえで、さらに活字を自由に組み合わせて組版を作って刷り版とし、その刷り版を用いて印刷する方法を考え出したわけである。この点にこそ彼の発明の独創性があったというべきであろう。

第二に、有名なグーテンベルクの印刷機がどのようにして製造されたかということである。この点においては、彼は地の利を得ていたといえよう。彼が生まれ育ったライン川中流域は、名高いワインの産地で、マインツやシュトラースブルクには、ブドウの実を絞るのに用いられた、らせん状の圧搾機があった。こうした圧搾機を、彼は子供のころからマインツやエルトヴィル近くのエバーバッハ修道院で見ていたはずである。また布の上に模様を押圧する機械や、写本を製本する工程で圧搾を加える機械もあった。グーテンベルクはこうしたものにヒントを得て、圧搾式(プレス式)の印刷機を発明することができたのである。ちなみにこの押し付ける圧搾機の意味から、のちにドイツ語のDruckや英語のpressという言葉が生まれたわけである。

第三に、彼が活字版印刷に適したインクを作り出したことも、やはり高く評価されよう。それ以前に筆写や木版印刷に用いられていたのは、油煙や煤煙を水と膠(にかわ)類で溶いた水性インクであった。これは金属活字にはのりが悪く、うまく印刷できなかった。ところが1401年に、フランドルの画家ヴァン・アイク兄弟によってワニスを用いた油絵具が作られた。そして煮沸アマニ油を用いた油性の印刷インクの製造も行なわれるようになっていた。グーテンベルクはこれらに改良を加えて、鉛合金活字にのりの良いインクを作ったのだ。

第四は、技術というよりは生産体制の問題であった。グーテンベルクは様々な職種の人々を一つの事業目的に結集して、効率よく生産していく共同事業体制を採用して、印刷の大量生産方式を確立したのである。こうした初期資本主義的な生産方式こそ、グーテンベルクが単なる技術者ないし職人ではなくて、優れた経営者でもあったことを証明するものだといえよう。

グーテンベルクの印刷機(マインツのグーテンベルク博物館内に展示されている復元された印刷機)

<グーテンベルク、マインツへ帰還>

その後、シュトラースブルクが外国勢力の略奪を受けるという出来事があったりしたが、グーテンベルクは1444年には11年間住んだこの町を離れている。そして空白の4年間の後、1448年に故郷のマインツに帰還した。故郷を離れた時は30歳前後の青年であった。それから20年近くたって、この時には既に48歳になっていた。活字版印刷術の原理をすでに発明し、その共同事業体において、ラテン語教科書「ドナトゥス」などの印刷・刊行は軌道に乗っていた。

マインツでは、昔住んでいた「グーテンベルク屋敷」に再び住むことになった。そこにはもともと仲の良かった義兄が住んでいて、この義兄がヨハネスに対して、屋敷への居住とその中に印刷工房を建てることを許可したのだ。そしてここでもシュトラースブルクでやっていたように、豊富な資金の融資を受け、印刷工房を建て、印刷機その他の設備を設置し、必要な備品を備える事ができた。

グーテンベルクはこの印刷工房で、ラテン語文法書「ドナトゥス」を、継続して印刷した。その後の10年間で「ドナトゥス」は実に24もの異なった版で発刊されている。しかしわずか28頁というこの小型の書物は、もともとが消耗図書であったためか、現存するものはすべて不完全なものばかりである。

とはいえこの小型の教科書は、マインツ最初の印刷工房の能力に見合ったものだったようだ。後の聖書やほかの作品が二段組みだったのに対して、この書物はまだ一段組であった。それは印刷機の加圧版の大きさや押し付ける力が限られていたことによるのだ。一枚の組版の中に、たくさんの文字を入れ込むのはまだ無理だったのだ。さらに高価な羊皮紙の在庫数や、活字が摩耗するまでの耐久度などから、一度の組版でたくさんの印刷部数を見込むことはできなかったのだ。

そのために「ドナトゥス」のそれぞれの版の印刷部数は、200部から400部だと推測されている。こうしてこの教科書は数年かけて、4800冊から9600冊が、「グーテンベルク屋敷印刷工房」で印刷されたものとみられている。

    ラテン語文法書「ドナトゥス」の一断片(パリ国立図書館所蔵)

ヨーロッパ中世の書籍文化

私はこれまでヨーロッパの書籍文化の歴史を研究してきた。その一環として、2004年10月に朗文堂から『ヨーロッパの出版文化史』と題する著作を刊行させていただいた。今回の「ヨーロッパ中世の書籍文化」は、その「第一章 グーテンベルク以前の書物の世界」に基づいて、その内容に多少の手を加えて書きあげたものである。

第一章 ヨーロッパ中世・写本の時代

<書物の製作は修道院で>

古代ローマ帝国が崩壊した5世紀末から12世紀まで、書物の世界はもっぱらキリスト教の修道院の中で展開されていたといえる。それに先立つ時代については、私がこのブログの中で5回にわたって書いてきた「ギリシア・ローマ時代の書籍文化」で詳しく述べているので、参照していただければ、幸いである。

それをお読みいただければ分かることだが、ローマ帝国後半の4世紀ごろから、書物の形態が、巻物状の「巻子本(かんすぼん)」から現在普通にみられる「冊子本(さっしぼん)」に大きく変化した。しかし書物は依然として、古代と同様に手書き(筆写)によって作られていた。ヨーロッパにおいては、15世紀半ばにグーテンベルクによって活(字)版印刷術が発明されるまで、基本的に写本の時代が続いていたのだ。

モンテ・カッシーノ修道院

たとえば西暦529年に聖ベネディクトゥスによって中部イタリアのモンテ・カッシーノに設立された修道院では、教会文書の書き写しが奨励されていた。この修道院はカトリック伝道運動の中心地となったのだが、創立者によれば、こうした筆写作業は神への奉仕事業の一つであったのだ。かくしてこの修道院の中には、立派な筆写工房が作られた。そして修道僧たちによって、キリスト教に関連した書物であった典礼書、聖者伝、聖書、教父の著作などが、せっせと筆写されていた。

やがて8世紀後半、フランク王国のカール大帝は、このベネディクトゥスのやり方を王国内のすべての修道院に見習わせた。そしてそれ以降に中・西部ヨーロッパに設立された修道院には、そうした筆写工房が作られるようになった。そこではキリスト教関連のものや、ギリシア・ローマ時代の古典作家の作品などが筆写された。そして製本された書物は修道院や聖堂内の図書館に保管された。これらの施設こそが、中世ヨーロッパにおける知識・教養及び伝統を保持し、後世に伝えていく文化機関だったのだ。

その実態については、日本でも翻訳書があるイタリアの作家ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』の中にいきいきと描かれている。ここでは北イタリアの修道院が舞台となっているが、当時の西ヨーロッパのほかの修道院でも、事情は大差なかったと思われる。この小説は1980年にイタリア語版が出版されたが、大評判となり、周辺のヨーロッパ諸国の言語に翻訳された。例えばその独訳は1982年に刊行されたが、その少しあとから私が長期滞在するようになった西ドイツでも、大ベストセラーとなっていたのをよく覚えている。西ドイツの高級週刊誌「デア・シュピーゲル」の書評欄では、『薔薇の名前』が数か月にわたってベストセラーの首位を占めていたからだ。その後日本語訳が1990年に刊行された。またこの小説は映画化され、「007」シリーズで名高いショーン・コネリーが主役を演じている。この映画のほうも、とても興味深い作品であったが、書籍のほうは一段と格調が高く、挑戦して読んでみる価値が十分あるので、お勧めする

『薔薇の名前』ウンベルト・エーコ著 河島英昭訳 東京創元社

ところがこうした知識や教養が宗教関係者によって独占されていたために、長い間これらは他の階層の人々から遮断されていた。そして写本としての書物も一般の人々の手の届くところにはなかった。ちなみに12世紀ごろの写本の販売量は、古代のヘレニズム時代(前334年-前30年、ギリシア風文化の時代)やローマ帝国時代(前27年ー後476年)の規模より劣っていたといわれる。

また13世紀に紙がヨーロッパに登場するまで、書写材料としては羊皮紙ないし子牛の皮紙が用いられていた。そしてこれらの素材は高価なものであったため、古いテキストを消してその上に新しいテキストを書くという事すら、まれではなかったという。

<大学の中に筆写工房が>

やがて12世紀になってヨーロッパに大学が生まれると、学問研究はもはや修道院や宗教関係者の独占物ではなくなり、大学の中にも筆写工房ができた。まず当時の先進地域だった北イタリアのボローニャやパドヴァ、あるいはフランスのパリなどの大学が、書物の生産と需要の新たなセンターとなった。

ローマ教皇の認可を受けて生まれた大学は、ラテン語を学ぶための文法書や、神学、哲学の書物あるいは医学や法学の著作を必要としていた。こうした書物は、修士や学士自身によって筆写され、さらに製本されて販売されていた。

中世の筆写生(木版画、パリ、1526年)

ただし、筆写生や製本工としての学生たちは、スタチオナリイと呼ばれた役人によって監督されていた。つまり出来上がった書物を学生たちが勝手に貸しあったり、コピーをとったりすることに対して、厳しい監視の目が光っていたわけである。現在の日本の大学で「コピペ」を悪用している大学生が問題となっているが、初期のヨーロッパの大学でも学生たちは、こんなことをしていたことが分かって、興味深い。それでも14世紀初めのパリ大学には、一定の範囲内で書物の販売を許可されたリブラリイという役職がうまれている。このほかパリには、民間の書籍販売人も出現していた。

当時のパリ大学は全ヨーッロパの知の焦点であったため、パリ大学の学者による著作物は、やがてそこに留学していた南独バイエルンやオーストリア地域出身の学生たちによって、故郷の修道院にもたらされた。そして14世紀にドイツ語圏の各地に大学が誕生すると、それら大学内の写本工房のスタチオナリイや写本販売者は、パリやイタリアの大学と同様の機能を持つようになってきた。

13世紀の写本(聖書の抜粋)

<その他の筆写工房>

いっぽう14,15世紀になると、修道院や大学のほかにも中級規模の都会に、一般の筆写工房が作られるようになった。その背景としては、主として都市において、書くこと(文章で表現すること)の重要性が増していたことがあげられよう。

都市間の争いごとや、都市、諸侯、聖職者間のもめごとは、しばしば公証人によって決着がつけられた。武器による戦争に先立って書類による戦いが行われたわけである。その際、争いの当事者は、教会法やローマ法を熟知していた大学出の法律家を、争いの場に送り込んだわけである。

この点でもイタリアが先んじていた。そのイタリアでは各地に都市が発達していて、都市の新興市民層は、言葉を操る術や博識の点で田舎貴族をうわまっていた。
そして彼らは一つの教養階層を形成するようになっていたのだ。そのため書物はこうした大商人階級にとって、実質的な意味を持つものとなっていた。かくしてイタリア各地の都市に筆写工房が生まれた。そこでは数多くの筆写生が、主として公正証書や商業文書の筆写を請け負っていた。また頼まれれば、彼らは一般の書物も筆写していた。

このころイタリアではすでに、マニュファクチャー方式で仕事をする巨大な筆写工房も出現していた。これらの工房では、装飾文字担当の画家が、筆写された書物に赤インクで見出しの文字や頭文字を描きこんでいた。高価な写本の場合は、さらに挿絵画家の仕事が加わり、芸術味豊かに、各章の飾りぶち、枠ぶち、装飾文字などが描かれた。

宗教関連ではない世俗的な文書や書物に対する要請は、アルプスを越えてドイツでも沸き起こり、やはり各地の都市で一般の筆写工房が誕生した。そして書物に対する需要の増大を促すことになった。そこでは12,13世紀の十字軍の遠征の後に各地に学校が設立されたが、その児童生徒用の教科書や読本も必要になっていた。

そのいっぽう、14世紀にはキリスト教徒の自由な協同組合組織ともいうべき「共同生活兄弟団」の手によって、宗教関係の聖書や祈祷書、さらには教科書などの筆写が商売として行われるようになっていた。その際ラテン語の宗教的文献は、当時の民衆が理解できる自国語に翻訳されたうえで筆写されていた。こうしたやり方で彼らは写本の売り上げを伸ばして、書物の民衆への普及を図ったわけである。この組織は1386年に設立され、オランダからドイツへ入っていった。そこには写本の正確さを監視する係もおり、彩色と製本はその技能をもった職人に依頼していた。こうした民間の聖職者による筆写工房は、一種の工場のような様相を呈していたといわれる。

「共同生活兄弟団」の筆写工房は、とりわけ当時のドイツで先進地域であった南ドイツの各地に点在していた。また南ドイツとはライン川をはさんで反対側にあったアルザス地方(当時はドイツ帝国領)にも、このような筆写工房はたくさんあった。なかでも大規模だったのが、同地方のハーゲナウで教師をしていたディーボルト・ラウバーが経営していたものであった。このラウバーが筆写工房を営んでいたのは、15世紀つまり1425-67年までの間であったが、この時期はまさにグーテンベルクが活(字)版印刷術の発明に取り組み、完成させた時期であったことが注目される。

ラウバー工房で製作された写本70冊が今日なお残っている。また読者向けの宣伝パンフレットの一つには、40点の作品が記載されている。そこには聖書、祈祷書、ドイツ語の叙事詩などのほかに、ラテン語で書かれた法律書や医学書などもみられる。ラウバー工房で製作された書物はアルザス地方にとどまらず、南はチューリヒ、コンスタンツ、東はヴュルツブルク、ニュルンデルク、そして北はライン川下流地域にまで運ばれていた。その生産量といい、販売ルートの広さといい、ラウバー筆写工房に匹敵するものは、当時のドイツには見られなかった。

グーテンベルクは若いころにこのアルザス地方の中心都市シュトラースブルクで、活字版印刷術のの発明に没頭していた。ここを含めた南ドイツ一帯には筆写工房が各地に点在していて、書物製作のための一種のマニュファクチャーも存在していたわけである。そしてこれによって需要の増大に見合った供給の増加がかなり図られたのだ。

  • このような一般的な環境の中で、書物の生産をさらに高めるための手段の改善つまり技術革新への要望が強まっていた、と考えてもおかしくはないであろう。印刷術の発明に対して、時代はまさに熟していたのである。

15世紀半ばの写本
(需要の増大に応えて製作された大量生品)

第二章 書体の重要性

<カロリングの小文字>

中世ヨーロッパでは、筆写するにあたって、文字の形というものが重視されていた。キリスト教(ローマ・カトリック)が浸透していた当時の西ヨーロッパでは、文字の形は、内面の姿勢や宗教的信条の表現であると、みなされていたからである。

そうした背景のもとで、キリスト教をフランク王国(カロリング朝)支配の要として重視していたカール大帝(在位768-814)は、イングランドの神学者ヨークのアルクィン(735頃ー804)に依頼して、文字改革を実行させた。その結果、カロリングの小文字と呼ばれる新しい書体が生まれた。これはカロリング・ルネサンスと称される文化運動の一環として行われたものであった。当時の俗化したラテン語に対して、古典を模範にした正しいラテン語を復活させるための運動だったのだ。

 

カロリングの小文字(9世紀、ザンクト・ガレン)

この結果ラテン語教育が盛んとなり、修道院ではこのカロリング小文字で多くの写本が作成され、古典文化の遺産が継承されることとなった。そしてこの書体は、やがてローマ・カトリック教会の影響力が及んでいたすべての地域(西ヨーロッパ地域)における統一文字となった。これはその後数世紀にわたって生き続け、ついには西ヨーロッパ諸国で用いられるアルファベットの小文字の基本形となったのである。

<ゴシック書体>

やがて13世紀になって、北フランスに初期ゴシックの書体が現れた。これは垂直方向に文字が屈折したもので、書き出しの細い線も、表現豊かに形成された。そしてゴシック建築と同様に、ゴシック書体も宗教的な効果を示して、内面化していった。つまり行と行との間隔、文字の上端と下端の間隔が狭くなり、ついには一ページ全体が、織物のように見えるようになった。このように成熟したゴシック書体に対して、テクストゥーラ(織物風)体という呼び名が生まれたのである。

テクストゥーラ体(15世紀半ばのラテン語聖書の一部)

この書体を使って、ミサ典書、詩篇、福音書などキリスト教の典礼文書が、ラテン語で書かれた。のちにグーテンベルクはその聖書を印刷するにあたって、このゴシック文字(テクストゥーラ体)に倣った活字を鋳造した。

いっぽうこの重々しくて読みにくいゴシック書体は、商人たちの書類や都市の裁判所の書類には向いていなかった。そこではもっと実用的で、速く書くことができる
書体を必要としていた。こうした要請にこたえるようにして、ゴシック書体の雑種やゴシックのドイツ書体が作られた。ゴシック書体の雑種は、表現力が豊かで、ラテン語ではない当時の各国語で書かれた世俗的な書物によく用いられた。またゴシック体のドイツ文字やイタリック体の文字は、公証人や商人によって、しばしば使用されるようになった。その後この二つの書体を基にして、ヨーロッパ各国の個性あふれる変種(ヴァリエーション)が生まれていったわけである。

<さまざまな書体>

いっぽうギリシア・ローマ時代の古典作品を研究していた人文主義者たちは、例のカロリング小文字を注意深く模倣して、それを洗練し始めた。この人文主義者の小文字が、今日一般にみられるローマン体の筆記体の原初形態だったのである。その一例がイタリア人文主義詩人のペトラルカの自筆の文字である。これはゴチコ・アンティクア体と呼ばれている。

人文主義詩人ペトラルカの自筆文字(1368年)

ペトラルカのゴチコ・アンティクア体から、さまざまなヴァリエーションが生まれていった。これはイタリアで出現したものだが、やがてドイツ人留学生によって、アルプスの北のドイツへともたらされた。

グーテンベルクは印刷用の活字を作るとき、その時代に存在していたさまざまな筆写文字の書体を用いていた。その際印刷すべき書物の種類に応じて、いろいろな書体を使い分けていた。ゴチコ・アンティクア体は、免罪符、小型の暦、大型のラテン語辞書などを印刷する際に使っていたのだ。

第三章 木版印刷の出現

<カルタと聖像版画>

グーテンベルクによって活字版印刷術が発明される少し前、ヨーロッパに木版印刷が現れた。それがいつ、どこで、どのよにして生まれたのか正確にはわからない。しかしその始まりがカルタや聖画像を大量に製作するという要請に従って、出現したものであることは、十分想像される。

カルタは西暦1120年、宋の徽宗皇帝治世下の中国ではじめて考案され、14世紀後半にヨーロッパに伝わったといわれる。そして14-15世紀世紀には、イタリアのヴェネツィアや南ドイツで、カルタの印刷は重要な産業の一つにまでなっていた。またこのころ宗教画の木版印刷がヨーロッパで盛んにおこなわれていた。その最初の製作年代は、14世紀の終わりの2,30年の間であったろうと考えられる。

木版「聖母像」(ブリュッセル図書館所蔵、1418年

印刷年代のはっきりした最古の木版画は、1418年という年号の入ったブリュッセル図書館所蔵の「聖母像」だとされている。そのほか聖像版画の多くは南ドイツの修道院から発見されている。それの初期製作の中心地のひとつがヴェネツィアであったことは、1441年の同市の議会布告によって明らかである。

以上のことから、カルタと聖像版画の印刷は、ほぼ同じころに、同じ地域で出現したものと考えられるのである。そして活字版印刷術が発明された1450年ごろには、木版による版画印刷の技術は、中央ヨーロッパ全土に広がっていたものと想像される。

初期の版画は「聖母像」、「聖クリストファ」、「十字架上のキリスト」など聖書の中の物語や、使徒の生涯からとったものである。ただその絵は極めて粗雑で、画線部分だけが印刷され、残りの部分はあとから着色されるか、または型紙で彩色されていた。これらはたくさんの信徒たちに売られていた大量生産品だったのだ。

いっぽうカトリック教会が金銭の支払いと引き換えに、宗教的な罪を許すための保証書として発行していた免罪符は、はじめは手書きであった。ところがこれもやがて木版印刷に変わり、素朴な聖像版画と一緒に、教会で売りに出されるようになった。聖像版画は、我が国の神社仏閣で売られている守り札と同じように、家内安全や商売繁盛を願うもので、旅の土産物として家に帰ってから、壁や戸口に貼られた。

これらの聖像版画は、画題から見て当然であるが、もっぱら修道院の内部で製作されていた。多年にわたって写本の製作に携わっていた修道院の写字僧の仕事であったのだ。同種のノウハウを持っていた者が、技術革新の波に乗って新たな分野に進出したわけである。

写字僧たちは、木に印刷用の版を彫り、印刷・着色の作業をしていた。ただ忙しい時には、修道院の外の画家に下絵を注文することもあった。そのようにして製作した聖画像を、彼らは教会の前に立つ市(いち)で大量に売りさばいて、修道院財政の確保に役立ていていたのだ。

<木版本の誕生>

15世紀後半の木版本の一部(文字はドイツ語)

以上のような版画から、やがてこれらを集めて一冊の本にした、いわゆる「木版本」が生まれた。この木版本は主としてドイツやオランダを中心に作られた。初期の版画には文字は伴わなかったが、やがて絵の下や絵の中に簡単な文章が書かれるようになった。そして一冊の書物に、そうした絵と文章が混じった版画がたくさん貼られていった。

それらの文字入りの版画は、我が国の和本と同じように片面刷りで、絵や文字が印刷されていない面を内側に二つ折りにして、書物の形態で製本された。これは紙を版木の上に置いてこすりつけて印刷するため、裏面には印刷できなかったのである。我が国の浮世絵などの版画を考えれば分かるように、この木版印刷は画像の印刷には適していたが、文字、とりわけローマ字のアルファベットの印刷には、一枚一枚版木に彫っていかねばならず、能率の悪いやり方であった。しかも版木は材質が柔らかくて、何度か印刷しているうちに摩耗して、文字や画像の輪郭がぼやけて、鮮明な印刷ができなくなるという欠点があった。

これら木版本の発行年月日を記したものを見ると、グーテンベルクの活字版印刷による初期の作品(1430年代)といくらも年月を隔てていないものもある。おそらく木版本と活字版本の最初の作品との間には、数年あるいは10数年の隔たりしかなかったとみるのが妥当なようである。

ギリシア・ローマ時代の書籍文化 05

その05 ローマ時代の図書館

第一章 ローマ人の私設文庫

<ギリシア文化の影響下に生まれた私設文庫>

ローマの場合、ラテン語による執筆行為は、ギリシアより数百年遅れて始まった。それは紀元前3世紀の末ごろのことであったが、最初はギリシア語作品の書き写しのようなものであった。とりわけギリシア出身のアンドロニクスやナエウィウスなどはギリシア語作品をラテン語に翻訳する形で、執筆していた。ローマ人がギリシア人と戦争したとき、ローマへ連行されてきた捕虜の中には、高い教養を持った一連の人々がいた。今あげた二人の人物は、いわばギリシア文化の使節として、略奪した多くの美術品に勝るとも劣らない重要な存在だったわけである。

共和政時代の政治家で文筆家の大カトー(前234-前149)のように、こうした傾向がローマの古くからの習俗にとって危険なものであるとした人もいた。しかし貴族層の中には、新しい思想を熱心に受け入れ、ローマ的なものと結びつけようとした人たちもいたのだ。たとえば政治家で将軍のスキピオ・アエミリアヌス(前185-前129)は、ギリシア人の歴史家ポリュビオス(前200-前118)を友人として自分の家に受け入れていた。彼とスキピオとの間の友情が、書物を一緒に読み始めたことから生まれた事を、ポリュビオス自身その著作(『歴史』)の中で証言しているのだ。これらのことからスキピオの家には、ギリシア文学の作品をたくさん集めた私設文庫が存在していたことが推測される。

またアエミリウス・パウルスが前168年にマケドニア王ペルセウスとの戦いに勝った時、その図書館の蔵書を略奪して、文学好きの自分の息子たちに贈ったことは、先に述べたとおりである。ペルセウス王のこの蔵書は、ローマ人の手に落ちた最初のまとまった文庫だったといわれる。

<スッラの私設文庫>

同じく政治家で将軍のスッラ(前138-前78)はアテナイにおいてアペリコンの文庫を手に入れたのだが、その中にはアリストテレス及びテオフラストスの書物が含まれていたため貴重なものであった。スッラはナポリ湾北岸のクマエに別荘を持っていたが、文庫はたぶんそこへ運ばれたものと思われる。そしてその息子のファウストゥス・スッラが、父親から別荘と文庫を受け継いだ。
この息子は貴重な蔵書を自分だけで独占しなかった。そのため同時代の名高い政治家で文筆家のキケロはその別荘を訪れて、私設文庫の蔵書を読むことができたという。「私はここファウストゥスの文庫を読んで、楽しんでいる」と、キケロは前55年4月に友人のアッティクスに書き送っているのだ。そのうえキケロは後に、この文庫から貴重な書物を手に入れている。それは大浪費家のファウストゥスが金に困って、その蔵書を競売にかけることになったからである。

<ルクルスの私設文庫>

スッラの忠実な部下として小アジアに遠征した政治家で将軍のルクルス(前117-56)も、ポントスのミトラダテス王からの戦利品として持ち帰った書物によって、その別荘に私設文庫を作った。そして政界から引退した後は、学問・芸術の愛好家として生活を楽しんだ。ローマで最も富裕で食通でもあったルクルスは、上流貴族の「殿様」であった。狭苦しい雑踏と古いしきたりに縛られた首都のローマから離れて、広々とした田舎の領地で、ギリシア的理想が刻まれた生活を送ったのである。豪壮な邸宅、柱廊玄関、庭園そして美術品を展示した広々としたホールを備えた別荘で、殿様たちは公務を離れて文学や芸術三昧の暮らしを享受していたのだ。

彼らは自ら朗読したり、文学奴隷に朗読させたり、詩や散文を作ったり、客人と知的な会話を楽しんだりした。ルクルスの生涯に関するプルタルコスの記述(『対比列伝』42)を見てみよう。「書物を得ようとする彼の努力には、真剣な配慮が感じられた。彼は多くの美しい書物を集めた。・・・そしてその文庫を誰にも開放し、屋敷内のロビーやラウンジにギリシア人がいつでも入れるようにしていた。その詩神の館にやってきた人々は、日常の仕事から逃れて、一日を互いに心行くまで過ごすことができた。しばしばルクルス自身そうしたロビーにやってきて、学者たちの議論に加わったりした。」

<キケロの私設文庫>

共和制末期(前1世紀)の代表的な政治家で文筆家であったキケロは、自分の私設文庫について友人のアッティクスとの文通の中で、再三にわたって触れている。スッラやルクルスのような将軍ではなかったため、キケロは戦利品としての文庫というものを所持していなかった。そのため彼は書籍を集めるために、相当の財政的負担を負わねねばならなかった。とはいえキケロは、ローマのパラティヌスの丘の上にあった住宅のほかに、少なくとも7か所の別荘を持っていた。そしてこれらの別荘に、その蔵書を分散して保管していた。

彼が前68年にトゥスクルムの別荘を買った時、数年前からアテナイに住んでいた友人のアッテイクスに、その別荘を飾るための美術品を探してくれるよう依頼したのと同時に、私設文庫のための書物をあつらえてくれるように頼んでいる。それに対して書籍商であったアッティクスは、ギリシアの作家たちの作品をひとまとめにしてキケロに送っている。その価格は相当な額になったはずである。そのためその費用をすぐには払うことができなかったが、それらを他人に手渡さないよう懇願しているのだ。その一方前60年には、友人のパエトゥスから、その異母兄弟の蔵書をそっくり贈与されるという幸運に恵まれている。

前58年に護民官ブルケルによってキケロは追放され、同時にその財産も護民官の暴力行為の犠牲になった。ところがその翌年には戻ることができ、元老院から活動再開のための補償金が支給された。こうした成り行きの中で、彼は再び私設文庫の蔵書を増やすために精力を傾けた。その手助けをしたのは、またしても友人のアッテイクスであった。その際図書整理の専門家として、ギリシア出身の文学奴隷二人が送られた。本箱および個々の巻物につける表題ラベルの製作の際に、彼らは大変な尽力をしたが、そのことについてキケロはアッティクスに感謝の言葉を伝えている。

<書籍発行者アッティクスの文庫>

これまでもたびたびキケロとの関連で登場してもらってきたアッティクスは、キケロとは縁戚があり、少年時代からの学友でもあった。そして古い家柄の貴族で、幅広く事業を営み、同時に学問的素養も深かった。そのため豊富な蔵書を備えた文庫を自ら所有しており、文化史的観点から見ても興味深い人物であった。ローマの七丘の一つクィリナリスにあった彼の邸宅には、文学的な素養を有し、同時に書誌学にも通じていたたくさんの奴隷が働いていた。キケロもこのアッティクスの文庫から、様々な恩恵を受けていたわけである。

キケロの兄弟クィントスは、自分のラテン語の書物を売って、ギリシア語の書籍を増やそうとした時、このアッティクスの援助を受けていた。その間の事情については、兄弟の間の文通にも表れている。

<その他の私設文庫>

もちろん当時のローマの百科全書的な大学者ウァッロも、大きな私設文庫を有していた。そしてキケロもそこの客人になったりしていた。しかしウァッロが前43年に追放の憂き目を見た時、その文庫も略奪にあったという。

帝政時代の数百年間、文学や学問に関心のあった人たちは、可能であれば、その都市の住宅または田舎の邸宅に、自分の私設文庫を持つことができた。文献上で伝えられている私設文庫の所有者だけでも、列挙すれば、次のような人たちの名前を挙げることができる。
ラテン文学第一級の詩人ヴェルギリウス、ペリシウス、シリウス・イタリクス、3世紀の無名詩人のサモニクス、顔の広い作家マルティアリスとその友人たち、さらにアヴィトス、小プリニウス及びその同時代人の学者セヴェレス、そしてアテナイオスとその「食卓の客人」ラレンシスなどである。それから注目すべきは、アウグストゥス帝の時代に活躍した建築家で建築著述者のヴィトルヴィウスが、ローマ人有力者の立派な邸宅を建てる際の設計プランの中に、当然のことながら、私設文庫を考慮に入れていたことである。

そのいっぽう多くの金持ちが知識人のふりをするために、自宅に立派な文庫をこしらえたりしていた。しかしその持ち主は邸宅に置かれていた書物をほとんど見ることをしなかったため、作家たちの格好の嘲笑の種にされていた。例えばペトロニウスの小説では、成り上がり者のトリマルヒオという金持ちが、ギリシア語とラテン語の蔵書を備えた文庫を自慢しているのだ。また2世紀にはルキアノスが、『たくさんの書物を買った無教養の人へ』という風刺的な小冊子を書いたりしている。そして哲学者のセネカは、書物の内容よりも、高価な巻物の輝く外観や象牙とヒマラヤスギでできた本棚を自慢する同時代に対して、厳しい言葉を投げかけているのだ。

ちなみにギリシア語の文庫とラテン語の文庫とを別々なものとみなすシステムは、都市ローマの公共図書館でも引き継がれた。そして古代末期になると、金持ちの教養人たちは、新しい信仰に帰依したにも関わらず、なお古い文化になじんでいた。そのため伝統的な分類のほかに第三のものとして、キリスト教の文庫というジャンルを作り出したのであった。

ローマ時代の私設文庫の蔵書規模については、古代からの伝承では、三つだけ数字が明らかになっている。まず後62年にわずか28歳で亡くなった詩人のペルシウスは、700巻の書物を残している。次いでスーダ百科事典によれば、文献学者のエパフロディトゥスは、3万巻の書物を所有していたという。いっぽう無名の詩人サモニクスは、父親から受け継いだ6万2千巻を、皇帝ゴルディアヌス二世に遺贈したという。ただこれらの数少ない事例だけからでは、一般的な結論をひきだすことは、もちろんできないが。

<ヘルクラネウムの「パピルスの館」>

紀元後79年に起きた南イタリアのヴェスヴィウス火山の噴火によって古代都市ポンペイが埋没し、その後の発掘によってその実態が解明されてきた。そのポンペイの近くにあった古代都市ヘルクラネウムもこの時埋没し、その後発掘された。そしてこの都市の一角にあった「パピルスの館」と呼ばれている別荘は、1750年代に地下の坑道の中から発見されたのである。その際豊富な美術品ならびに1800巻のパピルス文書(様々な大きさの巻物と断片)が取り出された。と同時に建物のしっかりした平面図を再現することができたのである。

     ヘルクラネウムにある「パピルスの館」の平面図。B=書庫

上の図面を見れば明らかのように、左側には左右に長く伸びたペリステュリウムと呼ばれる中庭があり、エクセドラと呼ばれる張り出しによって、右側の柱廊広間につながれている。そしてその横に居住部分のウィングが接している。これらペリステュリウムとエクセドラにおいて、数枚のパピルス文書が発見されたが、多くのパピルス文書は、右側のBと書かれた3メートル四方の小さな書庫で発見されたのだ。

発掘の状況については、イタリアの各地で古代遺品の調査にあたっていた有名なドイツ人の考古学者兼美術史学者ヴィンケルマンの報告から知ることができる。「文書保管庫に普通よく見られるように、壁の周囲には人間の高さぐらいの戸棚があった。そして部屋の中央には、両面に開かれたもう一つ別の戸棚があった。その周囲を人が歩いて回ることができた。」炭化して断片となった巻物を開いて、解読しようとする試みは、これまでたいてい失敗に終わってきた。しかし1969年になってナポリに、マルチェロ・シガンテを所長とする「ヘラクラネウム・パイルス文書研究国際センター」が設立され、パピルスを新鮮なパピルス溶液で扱うという方法が導入されてから、研究は大いに進展した。そしてパピルス文書の解読は、どんどん進むようになった。その推進役は、グリエルモ・カヴァッロで、パピルス学及び古文書学的視点から、研究が進められているわけである。

小さな書庫で発見されたパピルス文書の中身は、もっぱらギリシアのエピクロス派の哲学に関するもので、それらは大きく二つのグループに分類されている。一つは前3世紀から前2世紀にかけてのエピクロス及びその弟子たちの巻物であった。もう一つの大きなグループは、ガダラのフィロデモスの数多くの論文であった。このフィロデモスは前1世紀のエピクロス派の哲学者で、カンパーニャ地方に滞在していたことが確認されている。そしてこの人物の著作物の中からは、断片的なメモ、草稿から完成度のことなる様々な作品に至るまで、いろいろ見つかっている。そのためその部屋はフィロデモスの仕事部屋ではないかといわれているのだ。

フィロデモスはエピクロス及びその弟子たちの初期の作品を、たぶんアテナイでまとめて手に入れて、その別荘に運んだとみられている。またこの別荘のほかの場所で発見されたパピルス文書の中には、ギリシア語で書かれた、フィロデモスより後の時代の著作が数点と、わずかながらラテン語の作品が含まれていた。そしてそこには前31年にアントニウスとオクタヴィアヌスの間で行われた「アクティウムの海戦」を謡った詩もあったのだ。
このパピルスの館には、当時の習慣に従って、ギリシア語の書物とは別にラテン語の書物を保管した場所も作られていたことが、十分想像される。さらにフィロデモスの特別な仕事部屋のほかに、様々なテーマのギリシア語文庫が存在していたものと思われる。この別荘におけるさらなる発掘が期待されるところである。

<私設文庫の目録作成>

ところでこれらの私設文庫を整理分類するために、目録の作成が行われた。そうした目録はラテン語で  index(インデックス)と呼ばれた。これらのカタログは、ギリシア・ヘレニズム時代の「ピナケス」のような作り方がなされていた、と想像される。つまりそれらは単なるアルファベット順の著者別目録ではなく、書物の内容別の目録だったようだ。そうしたものとして例えば、悲劇作家の目録とか哲学者の目録などへの言及を我々は知っている。その際同じ著者の作品は、普通時代順に並べられている。小プリニウスは叔父の大プリニウスの作品を整理するにあたって、書かれた順に作品を並べて目録を作っていく、と述べているのだ。ともあれ個々の詩人の著作目録が普及し、例えば喜劇作家のブラウトゥスの作品目録などは、様々な文献学者によって作成されている、とゲッリウスは述べているのだ。

第二章 首都ローマにおける公共図書館

<カエサルの公共図書館設立計画>

共和制末期の混乱に終止符を打ち、独裁者になったのがユリウス・カエサル(前100年ー前44年)であった。そのカエサルが首都ローマに、最初の公共図書館を設立する計画を立てたのである。この図書館は、それまで私設文庫で行われていた習慣に従い、ギリシア語文庫とラテン語文庫の部屋を分けて作り、蔵書はできる限り広範に集めるべきとされた。そしてその図書館が公共のものであり、限られた学者層だけが利用できる(アレクサンドリアのムセイオンの図書館のような)ものであってはならないともされた。

その際独裁官カエサルは、書物の調達や整理分類の仕事を、ギリシア人の文献学者ないし作家ではなくて、ローマ人の偉大な学者ウァッロに委託した。ウァッロはそれまでに文庫について三巻にわたる専門書を書いていた人物であった。そこにカエサルの、ローマという国に対する愛国心が読み取れるのである。つまり新興のラテン文学をギリシア文学と肩を並べる同等の存在とみなしたわけである。
しかし独裁官カエサルが前44年に暗殺されてしまったため、この公共図書館設立の大計画は実現しなかった。そしてウァッロも身の危険にさらされたのであった。

その後、首都ローマの最初の公共図書館の設立者として、ポッリオという人物が歴史にその名を刻むことになった。ポッリオ(前76-前4)はカエサルの側近であったが、カエサル亡き後も、前40年に執政官にまで昇進した。そしてその翌年にはマケドニアに遠征し、イリュリア人を打ち負かして、ローマへ勝利の凱旋を行った。文献資料が伝えるところによれば、その時の戦利品を基にして、彼は前39年に図書館を設立することができたという。戦利品であった書物は、のちのトラヤヌス広場の近くにあった建物の一部をなしていたアトリウム・リベルタティスに運び込まれた。そしてポッリオはその建物を見事に改築して、立派な図書館にしたのであった。建物の中には、当時なお生存していたウァッロの彫像ならびに過去の偉大な著作者たちの彫像が飾られた。

<アウグストゥス帝の公共図書館設立>

首都ローマにおける第二の公共図書館は、カエサルの甥で、ローマ帝国の事実上の初代皇帝であったアウグストゥス帝(前63-後14年)がパラティヌス丘の上に建てたものである。そこには様々な私的な部屋の数々や、公共的性格の部屋を含んだアウグストゥスの館のほかに、前28年に建てられた豪華なアポロン・パラティヌス神殿と柱廊玄関施設があった。そしてこの柱廊玄関の東側に、二つの図書館の建物が接していた。ここでもギリシア文庫とラテン文庫が、別々の建物に収蔵されたのであった。

図書館が神殿や支配者の宮殿近くに建てられたのは、アレクサンドリアやペルガモンの場合と同じであったが、守護神はアテナ女神ではなくて、アウグストゥスによってとりわけ崇拝されていたアポロン神であった。この図書館の創設にあたっては、アウグストゥスはギリシア出身の詩人で、属州の総督を務めていたポンペイウス・マケルに全権を委任した。そしてパラティヌス図書館長の職は、文献学者のユリウス・ヒュギヌスに委嘱された。この人物は同時に多くの生徒に授業をしたり、時として友人の世話になったりして生活を支えていたという。つまり図書館長職というものには、あまり高給が支払われなかったようだ。そして図書館の下位の職務は、皇帝の奴隷たちによって遂行されていたのだ。

ラテン図書館の蔵書の重点は、明らかに法律関係の書物に置かれていた。とはいえそこには、同時代の文学作品も欠けてはいなかった。つまり当時の代表的な作家のホラティウスの作品は収蔵されていたわけである。ただ皇帝の不興を買って追放された詩人のオヴィディウスの著作は受け入れを拒否されていた。

いっぽうパラティヌス図書館には、有名な詩人や雄弁家の彫像あるいはアポロン神像などが飾られていたが、この建物は元老院の会議室としても使われていた。ところがネロ帝(在位:後54-68)ないしティトゥス帝(在位:後79-81)の時、この図書館は柱廊玄関を含めてすべて大火の犠牲になった。そしてドミティアヌス帝(在位:後81-96)によって再建された。その時同皇帝はアレクサンドリアに人を派遣して、書物の筆写を行わせ、図書館の所蔵書物にしたという。そののちこの新図書館は、後191年コンモドゥス帝の時に火事に会い、さらに後363年、アポロン神殿が炎上したとき、最終的に消失したという。

アウグストゥス帝の下では、もう一つ図書館が設立された。それは皇帝の姉君をたたえて「ポルティウス・オクタヴィアエ」と称した、四角いホール状の建物であったが、そこには名高い美術品が収蔵されていた。またそこに収められた書物は、ダルマティア征服の際の戦利品であった。この図書館の落成式は、前23年に亡くなった息子のマルケルスを記念して、姉君オクタヴィアによって、執り行われた。その初代館長には文法学者のガイウス・メリススが皇帝によって任命された。ここもやはりギリシア文庫とラテン文庫に分かれていた。

<ティベリウス帝の公共図書館>

第二代皇帝ティベリウスの下でも、公共図書館が造営された。それは神格化されたアウグストゥス帝のためにティベリウス帝によって建てられた神殿の近くに設けられた。そしてその名も「アウグストゥス神殿図書館」とか「新神殿図書館」とかと呼ばれることになった。その場所はフォルム・ロマーヌムの中の南に位置していた。この図書館も後79年に焼失し、のちに第11代ドミティアヌス帝(後81-96)の時に再建された。

ところでローマ帝国初期の公共図書館の収蔵図書選定にあたって、皇帝個人の文学的嗜好によって左右されるところがあったことを、スエトニススのティベリウス帝伝の記述が明らかにしている。「彼(ティベリウス帝)はエウフォリオン、リアヌス、パルテニウスを模範にして、ギリシア風の詩を書いていた。彼はこれらの詩人たちが大変気に入っていたので、公共図書館の中でも、それらの詩人の著作や肖像を、古典期の著名な著作家たちの間において、飾っていた。そのため数多くの学者たちは、できる限りたくさんこれらの作家について注釈して、ティベリウス帝にそれらを献呈していたのだ」

<平和神殿域内の公共図書館>

後75年に皇帝ヴェスパシアヌスは、平和神殿の落成を祝った。

        平和神殿と図書館ホール。復元された平面図。

上の図に見られるように、平和神殿の広大な敷地内には、平和の女神の聖域のほかに、二つの図書館ホール(公共図書館)が存在していた。その図書館の熱心な利用者であった作家のゲッリウスによれば、そこで彼は古い時代の文法学者の珍しい著作を閲覧することができたという。後191年、この平和神殿は、図書館ともども火災に見舞われたが、その際古代ローマ最大の医学者ガレノス(後130-200)の医学書も焼失した。この神殿の再建は、第21代セヴェルス帝(後193-211)のもとで行われた。この再建された平和神殿は、後4世紀の歴史家マルケリスによって、首都ローマの素晴らしい豪華建築物と呼ばれているのだ。またほぼ同時期の『ヒストリア・アウグスタ』の中でも、そこの図書館について触れられている。
前にも述べたように、とりわけこの平和神殿周辺の道路や小道には、数多くの書籍商が集まっていた。そして図書館で、ある著作を読んだ後その購買を決めた図書館利用者は、そのすぐ近くで自分の希望が叶えられたのであった。

<トラヤヌス帝の公共図書館>

トラヤヌス帝(在位:後98-117)は、ダマスクス出身の宮廷建築家アポロドロスの傑作ともいうべき巨大な公共広場の一角に、ローマで最も重要な図書館の一つを作った。この大建築プロジェクトを実現させるためには、カピトリヌスの丘とクィリナリスの丘を結んでいた丘の鞍部を平らにする必要があった。そのためポッリオが首都で最初の公共図書館を設立した場所であったリベルタティス・アトリウムも取り壊された。その際ポッリオの図書館の収蔵図書が、新しいトラヤヌス図書案に移し替えられた、という事も十分考えられる。

         トラヤヌス帝の図書館。復元された平面図。

上の図に見られるように、二つの図書館のあいだには、皇帝のダキア戦役の記念レリーフのついたトラヤヌス記念柱が建てられた。またこの二つの図書館には、それぞれギリシア文庫とラテン文庫の書物が収蔵されていたわけである。ただし建物のレンガに、後123年という刻印が刻まれていることから、その完成は次の皇帝ハドリアヌス帝の時であったことが推測される。そのことは、その正式名称が「神として崇拝すべき(つまり死せる)トラヤヌス帝の図書館」であることからも分かるのである。

この図書館の利用者の中に、またしても作家のゲッリウスの名前が登場する。彼はそこで元来別の文書を探していたのだが、思いがけず古い時代の法務官の告示(法令集)が手に入った、と書いているのだ。そしてトラヤヌス帝をたたえる神殿にちなんで「トラヤヌス神殿図書館」と記している。

<首都ローマのその後の公共図書館>

これまで首都ローマの代表的な公共図書館をいくつか紹介してきたが、全体としてその数は幾つぐらいあったのであろうか。コンスタンティヌス一世(在位:後306-337)の時代のローマ市に関する記述によれば、公共図書館の数は28を下らなかったようだ。ただしこの中には大きな浴場施設内の図書館も含まれていると思われるが。

後4世紀末に、歴史家アミアヌス・マルケリヌスは、その時代に良風美俗や古い文化が失われたと嘆いているのだが、その中で図書館についても触れている。「以前には学問の保護奨励に携わっていた数少ない家々は、今や気晴らしや退屈しのぎの営みに満たされ、そこからは歌や弦楽器をかき鳴らす音が響いてくる。そしてしまいには学者の代わりに歌い手を、雄弁家の代わりに道化師を呼んでくるといった始末だ。図書館は墓場と同様に、永遠に閉鎖されてしまった。」

このアミアヌスの記述は、ローマの公共図書館がこの時代にその門戸を永遠に閉ざしてしまったことを示すものとして、古代の図書館に関するたいていの著述に引用されてきた。しかしこの見解は訂正する必要がある。そこでアミアヌスは公共図書館について全く触れずに、元老院階級の金持ちの私設図書館について述べているわけである。しかも彼が描いた状況は過度に暗い。
ところがこうした上流階級に属した人々の中にも、古典文化の遺産を意識的に保存していた人もいたのだ。例えばシュマンクスとその仲間たちの存在を思い浮かべることができる。その際彼らはますますエリート化し、当時増え続けていたキリスト教信者の大衆からは、ほとんど共感を得られなかった。つまりこうした階級の人々の間で、異教的精神文化の遺産が、いわば遅咲きの花となって咲いていたわけである。しかしこれらのエリートの古典作家の著作物保存への努力によって、ホメロスやヴェルギリウスといった作家の作品の豪華冊子本のいくつかを、今日われわれは見ることができるのである。

ローマの公共図書館の一つが後5世紀になってもなお活動していたが、それはトラヤヌス広場の図書館であった。前にも述べたように、アポリナリスは、後450年ごろ、そこに立っていた著作家たちの彫像の中の一つを手に入れたのである。とはいえその直後に、都市ローマの一般的な窮乏化によって、古い公共図書館は終末を迎えることになった。

<キリスト教の図書館>

ローマにおいて古い皇帝の図書館が後5世紀まで存続していたとしても、新設のものはもうなかった。このころになるとキリスト教会だけが、精神的ならびに物質的財産を所有していたのだ。そうしたキリスト教の図書館は、もちろん意図的に、その蔵書の中身をキリスト教に合致したものにしていたことは言うまでもない。ただしその蔵書の分量はわずかで、主として聖書に限られていたと思われる。そしてそれらの書物は教会の内部に保管されていたのであろう。そうした実例としては、ノラのバウリヌスがカンパーニャ司教座のフェリックス・バジリカの中に作った図書館を挙げることができる。

しかし初期の教皇の伝記集に伝えられていることだが、教皇ヒラリス(在位:後461-468)が教皇宮殿の近くの洗礼堂のわきに建てた図書館は、そうしたものではなかった。そこには二つの図書館つまりラテン文庫とギリシア文庫の二つがあったが、それは都市ローマにあった皇帝の公共図書館の伝統を受け継いだものであったのだ。

後6世紀になると、そこからあまり遠くない現在のサンクタ・サンクトゥルム礼拝堂の地下の発掘によって見つかった、新しい図書館が建てられた。その発掘の際に、読書する聖アウグスティヌスを描いたフレスコ画の断片が発見された。古代末期及び中世には、ラテラノ大聖堂周辺には、歴代教皇の宮殿や仕事部屋があった。教皇ヒラリスの図書館及びサンクタ・サンクトゥルムの地下の図書館は、さしずめ後のヴァチカン図書館の先駆的存在だったわけである。もう一つ別の、少し規模の大きな図書館が、カウェリウスの丘の聖ジョバンニ・エ・パオロ教会近くに建てられた。この建物はその一部が現存している。

第三章 ローマ帝国の各地における図書館

<イタリア地域の図書館>

帝政時代、公共図書館の設立は首都のローマに限られてはいなかった。イタリアに関して言えば、例えばヘルクレス・ヴィクトル聖域であるティヴォリに、図書館があった。この聖域の施設については、すでに共和制の時代から知られていたが、図書館はもっと後になってから作られたようだ。そのことについては、例のゲッリウスがここを訪れた時の様子を書き残している。(『アッティカの夜話』) ゲッリウスはその図書館でアリストテレスの著作を借り出したという。

帝政初期の政治家で著作家の小プリニウス(後61-113)は、ドミティアヌス帝の時代に、生まれ故郷のコモ市に対して公共図書館の設立基金を出し、その落成式には市民に向かって演説している。小プリニウスに対する記念碑には、図書館の運用資金として10万セステルティウス、建物及び内部施設の費用として100万セステルティウスを拠出したことが記されている。これだけの巨額の費用が掛かった建物であったが、残念ながら現存していない。

比較的小さな諸都市においても、民間人の基金提供によって、図書館が設立されたことは、ウォルシーの碑文によって明らかである。その碑文には、建物だけではなくて、書物や飾られていた彫像についても記されている。また北イタリアのピエモンテ地方のデルトーナには、前22年という早い時期に、図書館が作られているのだ。さらに「ビブリオテカ・マティディアーナ」という名称の図書館が作られたが、その名称からトラヤヌス帝の妹マティディアの寄付によるものと思われる。この図書館のホールでは、市参事会の会議も開かれていたという。
ただこうした散発的で、いわば偶然われわれが知ることになった碑文史料や文字史料だけからでは、イタリア諸都市の公共図書館が実際には、どのくらい存在していたのかを、明らかにすることはできないが。

<西部地域の図書館>

図書館の存在に対する文字資料の数の点で、イタリア地域よりもさらに少ないのが、ローマ帝国のラテン語を話す西部地域であった。それでも豊かで、高い文化水準にあったガリアや北アフリカの大都市に図書館があったことは間違いない。ローマに次いでラテン語を話す最大の都市であったカルタゴの場合、『黄金のロバ』を書いた作家のアプレイウス(後123ころー?)によって、図書館の存在が確認されている。この作家は魔術に関する容疑で起こされた裁判に際しての弁明演説の中で、公共図書館において魔術についての書物を見つけたと語っているのだ。

北アフリカ地域には、アプレイウスが訪れたものを含めて、いくつかの公共図書館が存在していたことが知られている。なかでもアルジェリアのタムガディの図書館は幸運に恵まれたケースといえよう。碑文にはロガティアヌスと称する市民が、自分の町の図書館の建物のために、40万セステルティウスの基金を出したことが記されている。この建物は実際の発掘によって、その構造が調査されているのだ。

それに対して現在のチュニジアにあったブッラ・レギアの建物の場合は、図書館といわれているが、実際にその目的に使用されたかどうか、実証されていない。また小規模な図書館(図書室)ならば、ギュムナシオン(学校)にもあった。そしてこれへの基金を拠出した帝政時代の富裕な市民が北アフリカにもいたことは、しばしば碑文を通じて伝えられている。

<旧ギリシア地域の図書館>

うち続く災厄と苦難の後に、今やローマ帝国の支配下にはいることになった旧ギリシア地域の諸都市にも、「ローマの平和」が新たな興隆をもたらした。これら豊かな地域が再び経済的・軍事的危機に見舞われるようになった後3世紀までは、文化領域においてもレヴェル・アップを図るために、皇帝と富裕な市民たちが気前の良さを競い合ったのであった。かくしてこの地域では、劇場、ギュムナシオン、高等教育機関と並んで、図書館もその新設が続いたのであった。

アウグストゥス帝の神殿、貴重な奉納物、そして図書館を擁した聖域であった、アレクサンドリアのセバステイオンは別として、コス島出土の碑文は、ギリシア地域における図書館建設に対する初期帝政時代の史料の一つである。基金の拠出者として、ガイウス・ステルティニウス・クセノポンの名前が記されている。この人物はクラウディウス帝(在位:後41-54)の侍医であるが、この皇帝の暗殺に加わったとされている。彼は次のネロ帝の時、有名なアスクレピオス聖域のあった故郷のコス島に戻った。そこで彼は医術の神の神官及び慈善家として務める傍ら、「皇帝及び住民のために、自分の懐から図書館設立の基金を出した」という。しかしその建物は、今日まで発掘によって実証はされていない。

同様のことが現在のアルバニア領のドゥラッゾにあった図書館に当てはまる。この図書館建設のために、フラヴィウス・アエリミアヌスと称するトラヤヌス帝の将校が17万セステルティウスを出した。ただその建物の完成を、この将校は剣闘士の闘技をもって祝ったといわれている。

さらにこのトラヤヌス帝(在位:後98-117)の時代には、雄弁家クリュソストモスによって、小アジアのブルサに図書館が建てられている。われわれはこの図書館については、小プリニウスが小アジア地方の長官時代に、皇帝トラヤヌスにあてて書いた手紙を通じて知っているのだ。当時この図書館をめぐって法律上の争いが起きたのだが、それは図書館内の列柱に囲まれた中庭に、この雄弁家が妻と息子のために墓を作ったのは、不遜なことだというわけである。ちなみに図書館内にはトラヤヌス帝の彫像があった。

またギリシア有数の都市コリントスの図書館は、その設立の日付が不明である。基金拠出者のファウォリヌスは先の雄弁家クリュソストモスの弟子であったが、その活躍の時期はハドリアヌス帝(在位:後117-138)の時代であった。その図書館はおそらくギュムナシオン内の図書館だったろうと推測されている。そしてこの雄弁家がコリントスを最初に訪ねた時、町の人々は図書館の中に彼の彫像を置くことによって、たたえたという。しかし10年後に彼が再び訪ねた時には、その彫像は外されていた。そのことを知ってファウォリヌスは、そうした栄誉のはかなさを嘆いたといわれている。

<アテナイの図書館>

アゴラ(広場)周辺でのアメリカ隊の発掘によって、その存在が確認されたアテナイの図書館は、まちがいなくトラヤヌス帝(在位:後98-117)の時代のものであった。アッタロスの列柱廊の南にある古代末期の防壁の中から、再利用された建築資材として、碑文入りの梁が発見された。その碑文によれば、ムーサイの殿堂の祭司を自称していたパンタイノスという人物が自分の息子、娘ともども、「外側の列柱廊、中庭、図書並びに内部設備を含めた図書館」のために私財を投じて寄付したのだという。図書館創立の年号は、皇帝の称号からいって後102年以前になる。

いっぽう古代の「旅行案内人」といわれるパウサニアス(後115-?)は、アテナイについて極めて詳しく記述しているのだが、このパンタイノス図書館については、全く触れていないのだ。そしていま述べた碑文がなかったら、建物のわずかばかりの残存物だけでは、図書館であることを認識できなかったであろう。古代の図書館に関する我々の認識は、このように現在まで残ったものがあるかないかといった、偶然性に依存しているわけである。

<アテナイのハドリアヌス帝の図書館>

その規模からいってそれほど目立たないパンタイノス図書館を、パウサニアスは単に見過ごしただけだと思われる。それに対して、ローマ皇帝の中でも極めつけのギリシア愛好者であったハドリアヌス帝の記念碑的な図書館については、パウサニアスもはっきりと敬意を表して述べている(『ギリシア案内記』)。とはいえアテナイにおいてはこの図書館は、なお建物の残存物がかなりみられるとはいえ、オリュンピエイオン、ハドリアヌス門、ゼウス神殿及びヘラ神殿を伴ったパンヘリオンなど、市がハドリアヌス帝の恩恵を被っている巨大建築物の中の一つに過ぎないのだ。アクロポリスの北に位置しているこの図書館は、同皇帝のアテナイ滞在中の後132年に建てられたが、孤立してはいなかった。それは隣接した講義室、列柱廊とエクセドラを伴った広い中庭などとともに、記念碑的な複合建築物を形成していたのだ。

ギリシア本土にはほかにも図書館の存在が確認されている。例えばゲッリウスは港町パトラスの図書館を訪れ、そこにラテン初期の詩人アンドロニクスの「オデュシア」の写本を見つけた(『アッテイカ夜話』)。そこに古代ローマ文学の宝物があったという事は、パトラスという所が属州アカエアのローマ総督の所在地で、同時にローマ市民の植民市であったことを考えれば、それほど驚くべきことではないのだ。ギリシア北部のフィリピもローマ市民の植民市であった。後2世紀のある碑文によれば、そこである慈善家が図書館の建物に基金を出したのだが、その建物の一部は現存している。

<ギリシアの聖域内の図書館>

都市と同様に比較的大きなギリシアの聖域が、後2世紀に新たな花盛りを迎えた。当時再び知識人たちがたびたび訪れる集会所となっていたデルポイにも、図書館が建てられたが、おそらくギュムナシオンの付属図書館であったろう。ルフスという人物の寄付によって、エピダウロスにあった有名なアスクレピオス(治療の神として広く信仰されていた)の聖域も、図書館で飾ることができた。

エピダウロス、コスに次いで後2世紀に図書館が作られた第三のアスクレピオス聖域がペルガモンにもあった。そこでの基金拠出者は、ある裕福な婦人フラウィア・メリテネであった。ペルガモン市参事会及び市民は、この慈善家に感謝して記念碑を建てた。またドイツの発掘隊の調査によって、図書館のホールに、同じメリテネからの贈り物であった「神ハドリアヌス」の彫像が発見された。

また各地のアスクレピオス聖域には、医科大学も作られていた。それらの施設は一義的に、現代のサナトリウムに匹敵するような医療施設だった。そのためこうしたアスクレピオス聖域の図書館は、医学の専門書というよりは、むしろ保養客のための「読み物」を備えていたものと思われる。

<エペソスのケルスス図書館>

小アジア西岸にあるエペソスにも、ローマの属州アシアの州都として栄えていた時に、ある民間人の寄付によって建てられた図書館がある。この図書館の建物本体は、古代の図書館の中では最も保存状態が良いとみなされている。

エペソスのケルスス図書館の正面。その壁面などに基金拠出者に関する碑文が記されている

とりわけ豪華な建物正面の柱の上に水平におかれた角材の上の大きな碑文、並びに建物奥の壁面に詳しく書かれた碑文によって、我々は次のことを知っている。つまりティベリウス・ユリウス・アクィラ・ポレマエアヌスが、「その全ての装飾、奉納品、書物とともに、私財を投じて、ケルスス図書館を」、その父ティベリウス・ユリウス・ケルスス・ポレマエアヌスをたたえるために、建てたという事を。この建築物の完成前に亡くなった息子のアクィラは、遺言によってその相続人に、利子付きで2万5千デナリウスを遺した。この金で書物を買い、図書館員の給料を払い、ケルススの誕生日の祝祭日に、図書館内のケルスス及び他の家族の彫像を花輪で飾るようにとの遺言であった。

ケルスス及びその家族は、ローマ市民権を持ったギリシア人で、帝国貴族階級の頂点にまで上り詰めた一族であった。ケルススは後92年に執政官に、そして106年または107年に属州アシアの総督になり、114年に亡くなった。その息子のアクィラは後110年に執政官になった。20世紀の初め、この図書館の発掘調査の時、ケルススの徳をあらわす四つの女性の彫像が発見された。それはソフィア(賢さ)、アレテ(有能さ)、エピステーメ(知識)、エイノア(分別)の四つである。それらの彫像はかつてそこに置かれていたのだが、今では建物正面の壁のくぼみの中に、その複製が設置してある。また外側の階段のわきの所には、かつてケルススの騎馬像が置かれていた。

それから図書館内部の半地下の場所に、ケルススの大きな石棺が置かれている。この巨大な箱は、その大きさからみてすでに建築作業の初めに、その場所に持ち込まれたものに違いない。つまりこの図書館は、最初からケルススを称える施設として計画されたものなのである。

<東部地域のその他の図書館>

いっぽうコリントス及びデルポイの図書館は、ギュムナシオンの中にあった、と推測されてきた。同様のことが、小アジアのキリキア地方の町ハリカルナッソスの図書館に当てはまる。後127年、町の有力者たちは、今日では無名の偉人である詩人のロンギニアヌスに対して、「その様々な詩作の披露を通じて老人を楽しませ、若者を益したというので」、度重なる栄誉を与え続けた。彼はハリカルナッソスの市民権を授与されただけではなく、法律に記された最高の栄誉を受けた。そしてその銅像を町の最も目立つ場所やムーサイの聖域あるいはギュムナシオンの中の「ホメロス」の彫像の横に建ててもらったのであった。さらに彼の著作を図書館に正式に収めることも決定された。

また医者で詩人のシデ出身のマルケルスに対しては、もっと大きな栄誉が与えられた。この人物は動物、植物、鉱物の治療効果に関する42巻に上る教訓詩を著しているのだが、ハドリアヌス帝及びアントニヌス・ピウス帝が、この作品をローマ市の図書館に収蔵するよう指示したのであった。さらに富裕な同時代人で、マルケルスの同僚であったヘラクレイトスに対しては、「医学的詩作のホメロス」という尊称のついた記念碑が建てられた。そして彼の作品の写本を、故郷の町及びアレクサンドリア、ロドス、アテナイに向けて贈り物にしたのであった。そしてこれらの書物は間違いなくそれぞれの町の公共図書館に届いた。

ローマ帝政時代には、伝統的な中心地と並んで、ほかの地域も名声を博するようになった。例えばキリキア地方のタルソスは、文法、雄弁術、哲学で知られ、ベイルートは法学の大学で知られていた。それらの地域では、おそらくそうした学問に対応した図書館が存在していたはずである。
リュディア地方のニュサにも、そうした高度な学問センターの一つがあった。この大学で学んだギリシア人の歴史家兼地誌家であったストラボン(前64-後23)は、その町に関する記述では図書館については触れていない。しかしその後ニュサには図書館が生まれ、今日なお建物のかなりの部分が残っているのだ。たぶん後3世紀にユリウス・アフリカヌスが書いているアルケイオンが、それであると思われる。

<キリスト教の神学者オリゲネスとカエサレア図書館>

特別な種類の図書館が、パレスティナの地にあった「カエサレア・マリティマ」であった。初期の最も重要なキリスト教神学者オリゲネスは、長年故郷の町アレクサンドリアで活動していたが、その地の司教と意見が衝突した。そして後231年に、パレスティナの港町で、精神文化の中心地としても知られていたカエサレアへ移住したのであった。その地でオリゲネスは、従来の異教哲学の手法を用いて、神学上、解釈学上の教職活動を活発に繰り広げた。そのため異教徒の代表を含めて数多くの生徒が、各地から彼のもとに集まってきた。

彼の授業の基盤は、実に豊富な独自の著作物と並んで、アレクサンドリアで習得した精緻を極めた文献学を用いた聖書解釈であった。オリゲネスの最大の業績の一つは、ヘブライ語のテキストと5つの主要言語による翻訳を含んだ6言語による聖書解釈である「ヘクサブラ」であった。豊かな文献に基づいた、そうした授業には、速記者、筆記者、校正者を抱えた独自の筆写工房が不可欠であった。オリゲネスがデキウス帝のもとで行われた拷問によって後253年に命を落とすまで、主として彼の著作を中心とする内容豊かな文庫が形成されたのであった。

カエサレアの学校とりわけその図書館は、しばしの停滞期間を経たのち、3世紀の末から4世紀の初め、つまり長老パンフィロス及びその弟子で、有名な「教会史」の著者であったエウセビオスの時代に、新たな興隆を体験した。個人的に良い関係にあったコンスタンティヌス大帝(在位:306-337)から、エウセビオスは、コンスタンティノポリスの教会のために、50巻の聖書をカエサレアの筆写工房で製作するよう委託された。

パンフィロスの下で3万巻を下らないと言われた図書館の蔵書は、エウセビオスによって、伝統的な「ピナケス」という表題を付けたカタログが作られて整理された。そして4世紀の末頃、司教エウゾイオスは、図書館に収蔵されていた古いパピルス文書の巻子本を、羊皮紙の冊子本に作り直させた。
首都ローマや帝国のその他の諸都市にあった公共図書館とは違って、オリゲネスによってカエサレアに設立された図書館は、その神学校の付属施設として永続的に存立していった。多かれ少なかれ「内部の人たち」によって独占的に利用されていたカエサレア図書館は、昔のアレクサンドリアのムセイオン図書館のやり方を引き継いでいたわけである。

古代末期に、とりわけ帝国の東方で栄えていた修道僧の共同体の多くには、時として書き写すために友人や信仰仲間に貸し出すことはあっても、一義的には自分たちで使用するための書籍コレクションがあった。
その一方書籍の普及という観点から、一般に開放された文庫もあったのだ。そうしたものは比較的大規模な教会によって作られていった。例えばカンパニア地方のノラ近傍のフェリックス・バジリカは、そうした図書館を持っていた。ノラの司教バウリヌスは5世紀の初めに、この教会を建てたのだが、同時に優れた詩人でもあった同司教は、詩の形で次のような言葉を残している。

「法つまり神の言葉について熟慮し、聖なる意思を持てる者は、
ここに膝まづき、聖なる書物にその注意を向けること可なり」

つまりこの教会を訪れたものすべてに対して、信仰の書、とりわけ聖書を読む機会が与えられていたわけである。

<コンスタンティノポリス帝立図書館>

コンスタンティヌス大帝はボスフォラス海峡に臨むギリシアのビュザンティオンを、コンスタンティノポリスという新しい名称のもとに後330年、帝国東半分の首都に定めた。その時この「新しいローマ」は古いローマと、政治面、文化面で同等であるべき、あるいは古いローマを凌駕すべきものとされた。

この地の最初の大規模な図書館は、その息子コンスタンティウス二世(在位:337-361)のもとで設立されたようである。357年1月1日に行われた皇帝の執政官職就任の儀式の際、雄弁家のテミスティオスは長い賛辞を述べた。その中には、それまで私設文庫に散在していたギリシアの詩人、哲学者、文法家の著作物を書き写し、それらの作品の消滅を防ぐために、書写工房を設立すべく、コンスタンティウス帝は国家の金を投じた、ということが述べられているのだ。そうした委託は事実上、図書館建設を意味しているわけである。雄弁家の言葉からは、さらにこの図書館が何よりも、コンスタンティノポリスの大学の利益に供すべきものだったことが分かる。

後361年に新しい首都に住むことになった異教の皇帝ユリアヌスは、自ら高い文学的教養を備えた人物であったが、この図書館に書物を寄贈しただけではなくて、新しい建物の建設のために寄付を行っている。さらにヴァレンス帝は後372年に、筆写人の数を、ギリシア文献に対して4人、ラテン文献に対して3人と定めたが、そのほか数人の補助員もつけた。その際筆写の仕事の中身は、古いパピルスの巻物を、新たに羊皮紙の冊子に書き写すことであった。

こうして12万冊の蔵書を所蔵するようになったコンスタンティノポリスの帝立図書館であったが、やがて後473年に焼けてしまった。その直後に新しい図書館が建てられたが、その蔵書数は神学書を含めて36,500冊にすぎなかった。そしてこの図書館もレオ帝治下の後726年に崩壊した。
コンスタンティノポリスの帝立図書館は、かつてアレクサンドリアのムセイオン図書館がしたような、すべての文献を集め保存することを目指した、古代世界の人々の最後の試みだったのだ。