その1 ドイツの他の都市並びにヨーロッパ諸地域への伝播
<マインツにおけるその後のフスト&シェッファー印刷工房>
先に「グーテンベルクと活字版印刷術」の項目で述べた1462年のマインツ騒乱によって、一時閉鎖されていたフスト&シェッファー印刷工房は、二年後の1464年には、豊富な資金のおかげで、立派に再建された。
ここでは当初、免罪符の印刷を行っていたが、その経営は困難を極めたようである。しかし優れた商売人であったフストはこの受難の時代を無為に過ごすことなく、各地を旅して自分の工房の製品を売り歩いていた。当時のフストは印刷本の聖書を写本だと称して、しかも50クローネという安価で売ったという。当時はまだ印刷本に対して世間では、正当な評価が定着していなかったためだと思われる。
そのために書写本の製作に従事していた写字生たちによって、不当な安価を攻撃されたりした。あまつさえフストは魔法を使う者だと告訴されたとも、伝えられている。何しろ当時の聖書の彩飾写本は、一部400~500クローネはしたからである。その後ヨハネス・フストは、1466年にパリへの出張旅行中に、当時流行していたペストにかかって死亡した。
その後フスト&シェッファー印刷工房は、もっぱらペーター・シェッファ-が、その全体の経営にあたった。そしてこの工房はその頃から再び、輝かしい発展を見せるようになった。
そこではもっぱら神学書が出版されていた。たとえば「ミサ典書」などは、地元のマインツだけではなくて、かなり離れたマイセン、ブレスラウ、クラカウなどの東部地域にまで売られていた。こうした神学や宗教関係の書物は、カトリックの各司教管区の事務局によって一括して引き取られ、次いで司教管区内の教会や聖職者に引き渡された。これを現在の状況に置き換えてみると、学校を通じて教科書を売るようなもので、販路としては確実で、経営面での危険が少ない商売だったといえよう。
教皇グレゴリウス九世の教令(シェッファー工房で、1473年に印刷)
とはいえシェッファーは、印刷や書物づくりに誠意をもって、良心的に取り組んでいた。そのうえグーテンベルクについての項目で述べたように、書物づくりのうえで、巨匠グーテンベルクがなし得なかった、様々な改良と工夫を加えたのであった。
たとえば書物にページナンバー(ノンブル)を付け、刊記(奥つけ)を記し、印刷者の標章(プリンターズ・マーク)を入れ、さらに色刷りの印刷を行い、行間を適当な広さにあけるために挿入する薄板(インテル)を開発し、欄外に注記を入れる方法を創案しているのだ。
そしてフストの死後には、印刷技術者から印刷本販売者へと、その活動の重点を移していた。そのことによって商売は再び軌道に乗っていったわけだが、1470年には、書物の宣伝広告用に、一枚刷りの出版目録を発行している。これには本文に用いたのと同じ活字を使用したため、世界で初めての<活字書体見本帳>ともいわれている。
当時のシェッファーは、パリをはじめとしてヨーロッパの各地に、支店や販売店を設け、自家出版物だけではなくて、ドイツの他の印刷業者の手になる書物も、広く売りさばいていた。また当時ようやくドイツ書籍販売の中心地になりつつあったフランクフルト・アム・マインへも進出していた。
さらにシェッファーは、フランクフルトの市民権を入手して、事業の本拠地をそこに移す計画も立てた。しかしこれは実現せず、その事業は1480年ごろから、ようやく衰えの兆しを見せ始めた。そして同年以降、刊行書の数は減少の一途をたどった。これは同業の強力なライバルの出現によるもので、もはや昔の盛況を取り戻すことはできなかった。こうしてペーター・シェッファ-は、1503年にこの世を去った。
その後事業は息子のヨーハン・シェッファーによって継承されたが、この人物は祖父や父の収めた成果をわずかに守っていくのが、精いっぱいだったという。そして1531年に子供がいないまま死亡したため、その後継者はいなかった。
マインツにはほかにこれといった印刷工房がなかったために、誇り高き印刷術誕生の地マインツも、印刷・出版業の中心地としての名声を失い、その地位をほかに譲ることになったのである。
<バンベルク>
グーテンベルクがまだマインツで活動していたころ、そこからマイン川に沿って東へ200キロほど行ったところにある町バンベルクで、「三十六行聖書」が印刷された。その意味でシュトラースブルクを除けば、このバンベルクという町はドイツにおける二番目の印刷地ということになる。
この町と私の個人的なつながりで言えば、ドイツの冒険作家カール・マイの作品をもっぱら出版している「カール・マイ出版社」がこのバンベルクにあるため、私はこの作家の作品の日本語への翻訳・出版の交渉のために、何度も訪れた懐かしいところである。そして中世の面影がいまなお色濃く残っている静かな古都である。結局私は「カール・マイ冒険物語~オスマン帝国を行く」全12巻を2017年に完成させている。
さて本題に戻って、「三十六行聖書」の印刷のことであるが、グーテンベルクとフストとの裁判の際に公証人を務めたバンベルク出身のヘルマスペルガーという人物が、その裁判を通じて知ることができた印刷術について、同郷の芸術に関心のある司教に語って聞かせた。そしてそのバンベルク司教が同じ町の印刷者プフィスターという人物に、聖書の印刷の注文を出した。しかしこの印刷者にはその能力がなかったために、グーテンベルクの信頼の厚かった弟子のハインリヒ・ケッファーが、「グーテンベルク屋敷印刷工房」から改良されたDK活字を運び込んで、聖書の印刷を行ったわけである。
この聖書の印刷にあたってケッファーは、一ページの行数を、全体の視覚的なバランスを考えて、三十六行にした。そのために「三十六行聖書」と呼ばれているのだが、行数を減らしたために、ページ数が増え、全部で1768頁となり、三巻本になっているものである。
その推定発行部数は、羊皮紙製20部、紙製60部といわれている。これは当時のバンベルク司教区の直接の需要を満たす数字である。マインツの「四十二行聖書」に比べれば見劣りするものの、それでもなお、この「三十六行聖書」は傑作だといわれている。この印刷工程全体の監督にあたったケッファーは、この時グーテンベルクの弟子の地位から、一人の独立した親方の地位へとあがった、と見るべきであろう。ケッファーの「三十六行聖書」は、完本として13冊が現存しているほか、断片のかたちでも何枚か残っている。
「三十六行聖書」(バンベルクで、1458-60年ごろ印刷)
この二つの聖書の印刷の時期についてであるが、グーテンベルクの原活字であるDK活字で印刷されている「三十六行聖書」のほうがやや見劣りすることから、研究者の間では、「四十二行聖書」よりも古いものと長いこと信じられていた。
しかしながら後になって、そのテキストがマインツの「四十二行聖書」を原稿として用いていることが発見され、印刷の時期は「四十二行聖書」のほうが先であることが確認された。またパリ国立図書館所蔵の「三十六行聖書」の断片には、イニシャルなどを彩飾する人のメモ書きが記されていて、そこには彩飾の仕事が1461年に終了したと書かれている。そこから逆算して「三十六行聖書」は、1458年から1460年の初めころにかけて印刷されたものと推定されているのだ。
さらに「三十六行聖書」がバンベルクで印刷されたことへの傍証として、使用された紙の製造地の問題があげられる。15世紀後半に作られた印刷本は印刷の揺籃期に製造された本という意味で、「揺籃期本」と呼ばれているが、この時代に用いられた紙には透かし模様が入っていた。そのためこの透かし模様の形によって、紙の製造地を割り出すことができるのである。その結果、使用された紙のほとんどすべてがバンベルク周辺の紙すき所で作られたものであることが明らかになった。
さて「三十六行聖書」の印刷終了の後、ケッファーはバンベルクを去った。そしてその印刷工房は、再びアルブレヒト・プフィスターが運営していくことになった。この印刷者はその後、活字版印刷と木版イラスト画とを組み合わせた方法で仕事をしていった。たとえば寓話集『宝石』という作品を出版したが、それはグーテンベルク工房やフスト&シェッファー印刷工房の作品から見れば、質の点でぐんと見劣りした。しかしテキスト内容の易しさとイラスト入りのために、売れ行きは良かったという。
ここには印刷・出版業がその後たどった二つの行き方が、先駆的な形で現れているといえよう。つまり美学的・内容的に質が高く、後世に残るものの、高価で発行部数が少ない作品の印刷が第一。そのいっぽう、質は劣るが、内容的に易しく、値段も安いために、多くの人に売れる作品の印刷が第二である。
それはともあれこのバンベルクのアルブレヒト・プフィスター印刷工房を通じて、活字版印刷術はマインツの域外へと飛び出していったのである。
また「三十六行聖書」の製作に関与したとみられるヨーハン・ゼンゼンシュミットは、その後ライプツィヒ出身の修士ペッツェンシュタイナーとともに、バンベルク近郊のミヒェルスベルク修道院の中に、印刷工房を作った。そして1481年に最初の書物として、ベネディクト派の美しいミサ典書を印刷したが、これは高い評価を受けた。そのために最初の出版者兼販売人といわれるペーター・ドラッハから注文を受け、その委託販売人によって、現在のチェコにあたるベーメンやメーレン地方で売りさばかれた。当時それらの地方はドイツ帝国の領内にあった。
このゼンゼンシュミットはいわゆる遍歴印刷工であり、遍歴しながら場所を変えて「ミサ典書」を印刷していった。こうして1485年にはレーゲンスブルクで、1487年にはフライジングで、さらに1489年にはディリンゲンにおいて「ミサ典書」を印刷していったのであるが、それらの場所はみなバンベルグからそれほど遠くない南ドイツの諸地方にあったのだ。
さてアルブレヒト・プフィスターの死後、バンベルクではヨハネス・ファイルが典礼書や小規模印刷物の刊行を続けた。もう一人の印刷者ハンス・シュポーラーは、所によって既に発生していた農民戦争を告知した民衆向けの小刊行物を、印刷・発行した。しかしこの印刷者は、バンベルク司教選挙に落選したザクセンのアルブレヒト公を嘲笑する詩を印刷したため、バンベルクを追放され、エアフルトに逃れた。
<シュトラースブルク>
シュトラースブルクは、かつてグーテンベルクがひそかに印刷術の発明を準備していた場所であり、初期の習作「ドナトゥス」などがここで印刷されたことについては、「グーテンベルクと活字版印刷術~その01 印刷術発明への歩み~」の項目で、すでに述べた。
そのころグーテンベルクの助手として仕事をしていたとみられるのが、ハインリッヒ・エッゲシュタインとヨハネス・メンテリンの二人であった。この二人は後にグーテンベルクから独立して、シュトラースブルクにおいて自らの印刷所を作って活動しているが、そうしたことについては項を改めて、詳しく述べることにする。
この二人のほかには、力強く、表現力豊かな木版画で知られた書物の印刷者であったハインリヒ・クノープロホツァーと、ヨハネス・グリュニガーの名前を挙げておこう。
いずれにしても15世紀の末までに、シュトラースブルクでは50軒ほどの印刷所が仕事をしていたのである。
<ケルン>
15世紀のころは、交通路としては陸路よりも水路、つまり川の上を船で移動するほうがはるかに楽であったようだ。そのために活字版印刷術の伝播も、マインツからまずはライン川やその支流のマイン川に沿って行われている。先のバンベルクへはマイン川に沿って、シュトラースブルクへはライン川に沿って移動したわけである。
そしてこれから述べるケルンの町は、マインツからライン川に沿って160キロほど北上したところにあるのだ。古代ローマ時代、軍の駐屯地があった古都であるが、私にとっては最もゆかりの深いドイツの町である。というのは1970年代と80年代の6年間、この町にある海外向け放送局の日本語番組を担当していたからである。旧市街の中心にはゴシックの大聖堂がそびえ、その隣には「ローマ・ゲルマン博物館」がある。そして旧市街をぐるりと取り巻く環状道路の各所には、中世来の城門が遺跡として残されている。またカトリックの伝統によって、毎年冬にはカーニバルが盛大に祝われている。
余談はこれくらいにして本題に戻ろう。このケルンにウルリヒ・ツェルが初めて印刷所を設立したのは、1464年のことであった。この人物は1453年にエアフルト大学の学籍簿に登録している。そしてマインツの「フスト&シェッファー印刷工房」で印刷術を習得したのち、ケルン大学の学芸学部に登録してから、ケルン市において印刷所を設立したのだ。その翌年から最初の印刷物を世に出しているが、彼が出版したのはおおむねカトリックの神学書とギリシア・ローマの古典書であった。
その他のケルンの印刷者としては、バルトロメウス・ウンケル及びハインリヒ・クヴェンテルの二人が、木版画がたくさん入った低地ドイツ語およびニーダーザクセン語による聖書の印刷によって知られている。とりわけクヴェンテルは、1479年から1500年までの22年間に、およそ400点の書物を出版して、この時代の最も生産力の高い印刷者の一人とされている。
この時代のケルンには、30軒ほどの印刷所が稼働していたといわれる。
ケルンの印刷者ハインリヒ・クヴェンテル印刷の聖書。
木版画がたくさん入っている(1478年)
<バーゼル>
グーテンベルクも若いころに滞在していたといわれるバーゼルの町は、マインツからライン川に沿って300キロほど南に行った所にある。この町は現在スイス領の北端に位置しているが、ライン川をはさんで北がドイツ領、西がフランス領になっている。スイスのおよそ7割がドイツ語を話す人で占められていて、ドイツ文化圏に属している。その北端にあるバーゼルの町のはずれのライン川に面した場所に、スイス、ドイツ、フランスの三か国が相接している地点があるので、私は好奇心でその場所を訪れたことがある。そしてしばし感慨にふけったものである。ライン川は源流を発して、いったんボーデン湖に注いでから、ドイツとスイスの国境を西へと流れ、このバーゼルで北へと向きを変え、独仏の間を北上していくのだ。
さて印刷の話に戻すと、このバーゼルにグーテンベルクの昔の仲間のベルトルート・ルッペルが印刷所を作り、1468年には大型のラテン語聖書を印刷している。その商売は一時は順調に進んだが、やがて現れてきた新興のライバルによって追い抜かれてしまった。
またシュトラースブルクから移ってきた印刷者ミヒャエル・ヴェンスラーは、「ミサ典書」を印刷して、バーゼル、ケルン、マインツ、トゥリア、ソールズベリーなどで販売した。このヴェンスラーも最初のうちは結構な商売をやっていたが、やがて経済的な破局に見舞われ、印刷所は倒産して、夜逃げをしなければならなかったという。
バーゼルの印刷者としては、もう一人ヨーハン・ベルクマンの名前を挙げることができる。ベルクマンは若きアルブレヒト・デューラーの木版画をおさめたゼバスティアン・ブラントの「愚者の船」を出版したことで知られている。
ブラント作「愚者の船」
(1494年、ベルクマンが印刷。木版画は若きデューラーが描いたもの)
次いで15世紀末から16世紀の初めにかけて、二人の印刷・出版業者ヨハネス・アマーバッハ及びヨハネス・フローベンが、ここバーゼルで、当時の精神界の新潮流ともいうべき人文主義のために尽くすことになる。ただこの二人については、項を改めて詳しく述べることにする。
ともあれ以上あげてきたドイツ語圏の諸都市のほかに、南ドイツのアウクスブルク、ニュルンベルク、ウルムからさらに、ヴィーンへも活字版印刷術は伝播していったのである。
そして西暦1500年の時点で見ると、当時のドイツ帝国領には、あわせて62か所に印刷所が存在していたのである。
<ヨーロッパ諸地域への伝播>
1462年のマインツ陥落以降、ドイツの印刷工はドイツの各地に移っていったばかりではなくて、近隣のイタリア、フランス、スペインその他の諸国へも散っていった。
彼らは初め印刷の知識や経験を各地に伝え、商売のうえでも成功を収めた。しかし見知らぬ土地や環境の下で、印刷業を永続させていくのはなかなか困難なことであった。やがて新しい技術を習得した現地の人間が印刷業に進出してきて、次第に競争相手として成長するようになった。こうした全般的な状況の下で、しばしばドイツから移った印刷者は、地元の印刷者によって、とって代わられることも珍しくなくなっていったのである。
活字版印刷術のヨーロッパ諸地域への伝播の様子(15世紀後半)
上の地図をご覧になれば分かるように、15世紀後半には、ドイツ各地の諸都市をはじめとして、周辺諸地域へも活字版印刷術は伝播していったのだ。その中でもまずは、イタリアのローマ及びヴェネツィアそしてフランスのパリについて、ご紹介していくことにする。
<ローマ>
アルプスを越えて、イタリアに初めて活字版印刷術をもたらしたのは、コンラート・スヴェインハイムとアーノルト・パナルツという二人のドイツ人印刷工であった。この二人は1465年に、ローマ近郊のスビアーコにあった修道院の中に印刷所を開いた。そして1467年にローマに移って、そこに新しい印刷工房を建てた。
そこで彼らはイタリアの読者に合わせて、人文主義の手書き文字を基にして、新たに活字を作った。それはゴシック体からローマン体に移行する過渡期のものであるために、一般に「プレ・ローマン体」と呼ばれているが、すでにゴシック体の黒々とした威厳を脱し始めている。こうして二人は1472年までに28点の作品を、12、475部印刷した。
このような細かい数字が分かっているのは、実はこの二人が商売に困った末に、時のローマ教皇に嘆願の手紙を出しており、それが今に残っているからである。書物の売れ行きが悪くて、生活にも困るほどなので、何とか保護してくれるよう、二人はローマ教皇に訴えたのである。
これに対して教皇からは何の援助もなかったという。その後パナルツは1473年にスヴェインハイムと別れて、一人で仕事を続けたが、活字を更新することもできず、その印刷物は質的な低下をきたした。このように生活に困った末に、パナルツは1476年に死亡した。スヴェインハイムのほうはカード印刷に従事して、生活を支えたという。
同じドイツ人の印刷工でも、ウルリヒ・ハーンの場合は成功を収めている。彼は1443年にライプツィヒ大学で学び、バンベルクの「アルブレヒト・プフィスター印刷工房」で仕事をしたのちにローマに移った。
最初は枢機卿トゥレクレマータの注文を受けて仕事を始めたが、その作品『瞑想録』のために、当時イタリアで好まれていたロトゥンダ書体による金属活字を用い、34枚の木版画を添えた。おそらくはフラ・アンジェリコが描いたと思われるフレスコ画のシリーズをコピーしたものである。
後になってハーンは、教皇の勅書、演説集、規定集などを印刷した。そして1476年には楽譜付きの歌の本を印刷している。大部分が聖職者か修士であったドイツ人印刷者たちは、ローマでは15世紀末までは何とか優位を保つことができたという。
ところが人文主義が特に保護奨励され、印刷に関してイタリアにおけるもっとも重要な場所へと発展しつつあったヴェネツィアでは、ドイツ人印刷者に対して、イタリアの同僚が強力なライヴァルになってきたのである。
<ヴェネツィア>
ヴェネツィアの最初の印刷者は、ドイツ人のヨハネス・フォン・シュパイヤー(イタリア語ではスピラ)であった。シュパイヤーはおそらくグーテンベルクのもとで印刷術を習得したものと思われる。そしてヴェネツィアでは弟のヴェンデリンとともに仕事をしたが、兄が亡くなってからは弟がその仕事を受け継いだ。
二人は当時のヴェネツィアの人文主義者の間で起きていた書体の変化に対応して、新たな活字を作った。つまり人文主義者たちは、碑文に残されていた古いローマ時代の大文字を、彼らの理想的な書法とみなして、ペンで書かれることによって成立した小文字との間に調和を見出そうとしたのであった。
こうした考え方に合わせるようにして、シュパイヤー(スピラ)兄弟は新たな活字書体を作り上げたわけである。この場合、小文字も大文字と同様に、一つ一つのキャラクターがベースラインにセリフをもつことによって、独自のスペースをもって、全体として明るい紙面の形成ができるようになった。
また、それまで手書き文字の模倣にすぎなかった活字が、手書き文字から独立した印刷用の文字活字としての形態を、初めて持つことになったといえる。ともあれ彼らの注目すべき業績としては、1471年にイタリア語で書かれた聖書を初めて出版したことである。
シュパイヤー(スピラ)兄弟のローマン体活字(1471年)
ついで南ドイツのアウクスブルク出身のエアハルト・ラートルトも、ヴェネツィアで大きな名声を獲得した。彼は同郷の二人の手助けを得て、学術書を60点ほど印刷した。その作品の多くは縁取りの装飾が施されていたが、画家ベルンハルト・マーラーがその装飾模様を飾った。また木版画のうちのいくつかは、数枚の版木を重ねるようにして印刷された多色刷りのものであった。
ラートルトは年を取ってから故郷のアウクスブルクに戻ったが、そのヴェネツィアの装飾縁取りが、それ以後ドイツの各都市にも普及していった。当時アルプスを越えて、ヨーロッパの北と南で文化の相互交流が盛んだったことが、このことからもうかがえる。
ヴェネツィアで活躍した印刷出版業者としては、このほかにもフランス人のニコラ・ジェンソン(ドイツ語ではニコラウス・イェーンゾン)と、イタリア人のアルドゥス・マヌティウスがいるが、この二人については項を改めて述べることにする
ローマン体活字の比較(1464年から1470年まで)
ともかくもこの時代にイタリアで出版業が最も盛んだったのが、このヴェネツィアであった。ここでは西暦1500年までの揺籃期印刷時代に、150の印刷所において4、500点の書物が、一点200部から500部の発行部数で出版されていたという。
さらにローマとヴェネツィアのほかに、51のイタリアの都市で印刷が行われていたのだ。当時経済発展の著しかったイタリアは、かくして15世紀末までに、書物の量及び質の点で、活字版印刷術の発祥の地ドイツを追い越したのであった。
<パリ>
ドイツ以外でヴェネツィアに次いで、二番目に重要な印刷地は、当時人口20万人を擁していたフランスの首都パリであった。このころパリには6千人ほどの写字生がいたといわれる。彼らはドイツで印刷された「聖書」を目にして、失業の危機感を感じて抵抗を示した。
それでもパリ大学の二人の教授ギョーム・フィシェーとヨーハン・ハインリヒは、1470年にドイツ人の印刷者3人つまりコンスタンツのゲーリング、コルマールのフリブルガーそしてシュトラースブルクのクランツを、パリへ招へいした。
印刷所は大学図書館の隅に設置され、ハインリヒが出版すべき書物の選定を、フィシェーが財政面を担当した。印刷業務にともなうもろもろの職人はパリ大学側で用意した。
おそらく最初のうちは、校正職としてドイツ出身の教授資格を持ったマギステルが働いていたと思われるが、やがてフランス人の校正職も出てくるようになった。このあたりは明治時代の初めにわが国でも、欧米の専門家を「お雇い外人」として招へいしたが、やがて日本人がとって代わっていったときの事情と似ていて興味深い。
ところで3人のドイツ人印刷者はフランスの事情を考慮して、当時まだ勢力のあったゴシック体をやめて、スヴェインハイムとパナルツの活字を手本にした活字を用いて印刷を行った。フランス人はこのローマで流行していた活字書体を、「ローマの活字書体」略して「ローマン体」と呼び、それ以降この名称が定着することになった。
やがてパリでは、大学内の印刷所のほかにもいろいろな印刷工房が、市内に作られるようになった、そうした工房の一つを経営したのが、のちにパリの代表的な印刷者になったドイツ人のティルマン・ケルファーであった。ケルファーは自分の好きな「時祷書」の印刷に対してたくさんの注文を受け、そのために他の印刷者にも作業を頼んでいるぐらいだ。
いっぽうフランス人の印刷者ジャン・プティも成功をおさめ、自分のところだけでは印刷しきれずに、よその印刷者に仕事を頼んでいる。フランスでは当時中央権力が強化されていったが、そうしたことも追い風となって、やがて書籍の印刷も花盛りを迎えるようになっていった。そして16世紀後半に至って、ブックデザインの面で指導的な国になったのである。
パリのほかには、南フランスのリヨンの町が、もう一つの中心地になったが、それについては項を改めて述べることにする。ただ一言だけ先に言っておくと、リヨンでは多くのドイツ人印刷者がフランス人書籍販売者と良好な協力関係にあったという。そのことを証明するものとして、ドイツ人印刷者ヨハネス・トレクセルが、自分の刊行した書物の終わりに記した次のような言葉がある。
「私の周りには常にドイツ人のほかに、フランス人もいる。私が出した本はフランス中で称賛され、愛好され、買われてもいる。多くのフランス人が、私の本を求めて手を差し出してくれるのだ」
<ヨーロッパのその他の地域への伝播>
活字版印刷術は15世紀のうちに、スイス、オーストリア、ハンガリー、ポーランド、ベルギー、オランダ、デンマーク、スウェーデン、イギリス、スペイン、オランダその他へと伝わっていき、やがて全世界を征服したのである。
15世紀後半の50年間に、255の場所で印刷された揺籃期本(インキュナブラ)の総点数は、2万7千点とされている。これを使用された言語別にみると、77・5パーセントが、当時のヨーロッパの共通語であったラテン語で書かれ、残りの22・5パーセントが当時のヨーロッパの各国語で書かれている。
それらを列挙すると、ドイツ語、フランス語、オランダ語、スペイン語、英語、カタロニア語、チェコ語、ポルトガル語である。さらにごくわずかながらヘブライ語、ギリシア語、教会スラブ語で書かれた書物もあった。
次に印刷された書物の内容に目を向けると、そのおよそ半分はキリスト教関係の宗教書(神学書)であった。第二位はギリシア・ローマ時代の古典書であったが、これはイタリアでは第一位であった。さらにラテン語の文法書や辞書、各国の民衆本や暦などの実用書から、政治的なパンフレットまでが印刷されていた。
最後に当時の新しい職業だった初期の印刷者には、いったいどのような人がなったのであろうか? 一番多かったのは聖職者であり、ついで金細工師であった。さらに写本時代の筆写生や彩飾画家、活字鋳造人などであった。