活字版印刷術の伝播 ~15世紀後半~ 02 

その2 15世紀後半に活躍した代表的な印刷・出版業者

<商才に富んだ印刷・出版・販売業者ヨハネス・メンテリン(1410-78)>

グーテンベルクがシュトラースブルクにおいて印刷術の発明をひそかに準備していたころに、その助手として仕事を手伝っていたとみられるのが、ヨハネス・メンテリンと、次の項で述べるハインリヒ・エッゲシュタインの二人であった。

ヨハネス・メンテリンの肖像画

メンテリンはシュトラースブルク出身で、はじめは筆写の仕事で生計を立てていた。そしてある時期に、グーテンベルクのもとで印刷技術を習得した。グーテンベルクから、彼がいつ離れたのかは定かではないが、すでに1458年には自分の印刷工房を持っていたとみられている。元来ものを書くのが得意で、書類の扱いにもたけていたメンテリンは、1463年には司教の公証人にもなっている。

メンテリンは全部で40点の書物を印刷・出版しているが、そのうち4点には自分の名前を書物の中に入れている。このように自分が印刷したものに名前を入れるという習慣は、師匠のグーテンベルクにはなく、同じ弟子のペーター・シェッファ-に見られることである。その点からもこの二人の弟子は、師匠とは違って、近代的な考え方の持ち主であったといえよう。

さらにメンテリンは書籍販売にも力を入れるようになって、自分が刊行した作品の目録(出版目録)も作っている。ただそれは簡単なパンフレット状のもので、販売する書物の間に挟み込んでいた。これは現代の日本の出版社もやっていることであるが、メンテリンはそうしたやり方の元祖だったといえよう。たとえば1469年に出版された『スンマ・アステクサナ』の中に挟み込まれた出版目録は、まさにこのようなものであった。

ヨハネス・メンテリンは、主として神学および哲学関係の書物を出版した。そのいっぽう古代ローマの詩人ヴェルギリウスやテレンティウスなどの作品も出している。それと同時に、中世ドイツの詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの「パルチファル」なども手掛けるなど、幅広い出版活動を見せていた。そして1473年、ライヴァルの登場によってシュトラースブルクでの競争が激しくなった時には、表紙に赤い彩色を施したり、木版画を挿入したりするなど、販売するための工夫もいろいろ行っている。

そのためもあってか、メンテリンは短期間で出版業によって大金持ちになっている。そして1466年には、時のドイツ皇帝フリードリヒ三世から、紋章を授与されている。このことからも、彼は抜け目のない商売人であったことがうかがえる。

メンテリンが刊行したもので特に注目されるのは、1466年6月に出版された、最初のドイツ語版聖書である。ルター訳のドイツ語聖書に先立つこと半世紀のことであった。ただその原本として、異端とされたヴァルド派の人によって14世紀に翻訳されたものを使用したために、そのドイツ語が良くないと、批判されてきた代物ではあった。

メンテリンが印刷した最初のドイツ語版聖書(1466年)

それはともかくとして、メンテリンは名声と財産を維持したまま、1478年に亡くなっている。その後を継いだのは義理の息子のアドルフ・ルッシュであったが、この人物はもっぱら人文主義と古典文学の作品を出版した。

<最初期の最も重要な印刷・出版業者ハインリヒ・エッゲシュタイン(1415/20- ?)>

メンテリンとともに、シュトラースブルクの最も初期の印刷・出版業者であったハインリヒ・エッゲシュタインは、アルザス地方(当時はドイツ帝国領)のロースハイムに生まれ、1441年にシュトラースブルクに移った。そしてシュトラースブルク司教ルーブレヒトのもとで、印章を守る官職についていた。またこの地で彼はグーテンベルクと知りあった。

それが縁となって、エッゲシュタインは印刷術を習得するために、のちにグーテンベルクを訪ねてマインツへ移住した。そして1454年12月中旬、グーテンベルクの「トルコ・カレンダー」の印刷に際して、中心的な役割を果たした。

「トルコ・カレンダー」の最初のページ(1455年)   

しかしグーテンベルクが例の訴訟に敗れたのち、1457年に彼は再びシュトラースブルクに戻った。そして先のメンテリンとともに印刷所を設立した。この二人の間には緊密な関係があったことは確かで、当時シュトラースブルクでは彼らしか知らなかった印刷術の秘密を守ることを、二人は約束しているのだ。

このころ印刷された作品としては、ラテン語の『四十九行聖書』(二巻本)を挙げることができる。その後エッゲシュタインはメンテリンと別れて、1464年に自分の印刷所を設立した。この印刷所においてエッゲシュタインは、1466年に再びラテン語の聖書を出版している。そしてその第二版と第三版が、その後一、二年
の間隔で刊行されている。

このラテン語版聖書の第三版の販売促進のために、1468年、彼は最古の宣伝広告文を、パンフレットの形で印刷している。その少し後になって、その例に倣ったのがヨハネス・メンテリンとペーター・シェッファ-だったのだ。

エッゲシュタインによる最古の宣伝広告文(1468年)

その後エッゲシュタインは出版物の幅を広げるようになった。ラテン語による神学書と並んで、今や彼は主に法律関係の書物を印刷するようになったが、この分野でマインツのペーター・シェッファ-と競合関係に立つようになった。そして1470年代に入ると、人文主義的な作品やドイツ語の書物にも手を出すようになった。例えば、古代ギリシアの風刺作家ルキアノスの『黄金のロバ』のドイツ語版である。

そうした営業努力にもかかわらず、彼は1470年代の末には、経営危機に陥った。そのために1478年にはバーゼルの製紙業者アントン・ガリチアーニから、多額の借金をしている。そしてその借金を返済できなかったため、ガリチアーニから1480年にバーゼル裁判所に提訴されている。

このように晩年には営業面での成功は得られなかったものの、エッゲシュタインの印刷工房では、何人もの職人が印刷術を習得していたのだ。彼が活字版印刷術の初期の最も重要な印刷者の一人であったことは、間違いない。なおその没年は不明である。

<芸術家的才能と技術的能力を兼ね備えた初期印刷出版業者ニコラ・ジェンソン(1420-81)>

この人物は初期印刷本の有能な印刷出版業者の一人であった。そしてその芸術家的才能と技術的能力によって、とりわけ美しい活字書体を発明した人物として、近代において再評価されているのだ。

ニコラ・ジェンソンは1420年ごろ、パリの南東240キロにある、フランスのソムヴォア村に生まれた。塗装工として働いた後、パリ王立造幣局の金型彫り職人になり、1450年ごろにはトゥール造幣局の局長に就任している。

そのころパリ大学から、フランス国王シャルル七世に、グーテンベルクによって印刷された聖書が献上された。この最新技術の成果であった印刷物に、国王はすっかり感銘を受け、その技術をフランスに導入しようと考えた。そして金属加工の技術と文字についての知識を兼ね備えていたジェンソンに白羽の矢が立った。そして1458年10月4日に勅命を出して、彼をマインツのグーテンベルクのもとに派遣した。当時のグーテンベルクはフストとの訴訟に敗れ、「グーテンベルク屋敷印刷工房」で仕事をしていた。そのためにジェンソンはこの印刷工房で、グーテンベルクから印刷術を習得し、併せて巨匠の信頼も獲得した。

その後1461年にフランスではシャルル七世が亡くなり、ルイ十一世が即位することになり、彼は印刷術を故郷に持ち帰る必要がなくなった。そしてその翌年の1462年にはマインツで例の騒乱が起きた。この時は師匠に対する尊敬の念から、ジェンソンは巨匠とともにエルトヴィルへ移ったものとみられている。そして1463年に師匠のために、エルトヴィルで小さな印刷工房の設立を手助けしたと思われる。ちなみにこのエルトヴィルの近くにこのころ建てられたマリーエンタール修道院には、ニコラ・ジェンソンについての記述が残されている。彼はドイツではニコラウス・イェーンゾンと呼ばれていた。

その後ジェンソンがいつごろまでグーテンベルクのもとにいたのかは明らかではない。しかし1468年にはヴェネツィアに移り、グーテンベルク工房の同僚だったシュパイヤー(スピラ)兄弟のために活字を作っていたものと推測される。このシュパイヤー兄弟は、1469年にヴェネツィア大学から公認された活字版印刷術の独占権を持っていた。ところが翌1470年に、兄のヨハネスが死んでその権利を失った。

ニコラ・ジェンソンだとされる数少ない肖像画(左)
ニコラ・ジェンソンの印刷者標章(右)

その時ジェンソンは用意していたかのように、商人から資金援助を受けて、自らの印刷工房を設立したのであった。そして自ら考案した素晴らしい完成度のローマン体活字で、印刷業務を開始した。この時以来ジェンソンは、目覚ましい活躍を示すようになった。1471年には一年間で20点もの書籍を印刷したのであった。それらはキケロをはじめとする古代ローマの古典であった。そしてその翌年には、西暦1世紀のプリニウスが著わした名高い『博物誌』を刊行した。

ジェンソンが印刷したプリニウス著『博物誌』(1472年)

その印刷の出来栄えは実に精巧で、独特の気品をたたえている。総じてジェンソンが印刷した書物は、当時のイタリアの貴族や人文主義者から、大きな支持を受けていたといわれる。

やがてジェンソンは優れた商才を発揮していった。1470年代前半には会社を設立して、フランス市場に向けた書物の配送拠点をイタリア西北部に置くなどして、その事業をさらに拡大していった。そして1474年には、アルプスの向こうの北ヨーロッパの需要に合わせて、ゴシック文字(ブラック・レター)の活字も作った。

1475年にはローマ教皇シクトゥス四世によってローマに招聘され、教皇から報酬とパラティン伯爵の称号が与えられた。その後競合会社だったケルンの印刷者と合弁会社を作ったりした。このように独立してからわずか十年という短い歳月で、集中的に多面的な活躍をして、素晴らしい業績の数々を遺していったが、このころから本人は事業から手を引くことになった。そして1481年にその生涯を閉じたのであった。

ジェンソンは記念碑としての意味合いもある自らの墓石に、形見の言葉を記すのに際して、虚飾を配して質素にするよう依頼している。このことからも、活字に対するジェンソンの独自の造形感覚を垣間見ることができる。

ジェンソンの活字は、その後ヴェネツィアのアンドレア・トレッサーニという印刷者に売られた。このトレッサーニは、のちに項を改めて述べることになるルネサンスを代表する印刷・出版業者アルドゥス・マヌティウスの義父にあたる人物である。このことからアルドゥス工房で使われた活字は、ジェンソンから少なからず影響を受けていた、と考えられるのである。

またニコラ・ジェンソンの活字は、近代になってから、改めて注目されるようになったことも、ここで付け加えておきたい。

ジェンソンが印刷した『プルターク英雄伝』(1478年)

<イギリスに活字版印刷術を導入した印刷者ウイリアム・カクストン(1422-91)>

これまで述べてきた15世紀後半の初期印刷者たちは、ペーター・シェッファ-であれ、ヨハネス・メンテリンやハインリヒ・エッゲシュタインであれ、はたまたニコラ・ジェンソンであれ、すべてグーテンベルクから直接に活字版印刷術を習得した人物であった。

ところがこれから紹介するイギリス人のウイリアム・カクストンは、世代の点では以上述べてきた初期印刷者たちとほぼ同じであったが、印刷術の元祖グーテンベルクとは直接的なかかわりを全く持っていない人物であった。それにもかかわらず彼は、島国のイギリスに活字版印刷術をもたらし、同国の出版産業の基礎を築いたのであった。

カクストンは1422年、イングランド南東部のケント地方で生まれ、1438年から繊維商組合の有力者ラージに徒弟奉公をした。その前半生は毛織物輸出商組合の商人として活躍した。1463年にはその前進基地であったフランドル地方(現在のベルギー)のブリュージュで、イギリス商人コミュニティーの総督になっている。

このころカクストンが、写本の取引に従っていたのは確かで、さらに印刷本の取り引きもしていた可能性があるといわれている。同時に彼は、毛織物取引を有利に行うために、総督としてしばしば困難な外交交渉にもあたっている。その後彼はイングランドとハンザ都市のひとつケルンとの関係を取り持つために、1471年から翌1472年まで、この町に滞在している。そしてこの間に、ケルンの印刷者兼活字鋳造者ヨーハン・ヴェルデナーの工房で印刷術を習得した。

ウイリアム・カクストンの肖像画

その後彼は、印刷設備一式と職人数人を引き連れて、ブリュージュに戻って、印刷所を設立した。そして1473年末に、英語の最初の活字本といわれる『トロイ歴史物語』を印刷・発行した。港町ブリュージュのあったフランドル地方は、当時ブルゴーニュ公国の支配下にあった。そして商業上の利害からイングランド王国とブルゴーニュ公国の関係は緊密であった。さらにブルゴーニュ公爵とイングランド国王の妹マーガレットとの結婚によって、その関係は一層深められていた。そうしたことから、カクストンはこの公爵夫人マーガレットの勧めに従って、いま述べた物語を自らフランス語から英語に翻訳して、出版したというわけである。

その後1476年に、イングランドに戻ったカクストンは、商業の中心地であったロンドン市中ではなくて、宮廷と議会の所在地であったウエストミンスター(現在はロンドンの西部にある)に、印刷所を建てた。彼は元来は商人であったが、外交官としてイングランド王国とブルゴーニュ公国の宮廷に出入りしていたために、貴族や宮廷人との間に緊密な関係を築き上げていたからであった。そこで最初に印刷したものは免罪符であった。印刷所がおかれていたウエストミンスター寺院に集まっていた聖職者のために、彼はまず免罪符や祈祷書、信仰論文などを印刷したわけである。

それと同時に、貴族や宮廷人のために当時宮廷でもてはやされていた物語(ロマンス)や詩なども、フランス語の原書から自ら翻訳して出版した。それによって彼はその後の英語の発展に決定的な影響を与えたといわれる。イングランドにおいて、それまで地域によってさまざまに話されていた英語の方言は、カクストンの出身地ケント訛りの英語を通じて、初めて統一的な書き言葉へと発展したわけである。そして次の時代にイギリス文学の盛況をもたらしたのであった。

いっぽう中世イギリス文学の傑作で、14世紀イギリスの詩人チョーサーによって書かれた『カンタベリー物語』も、取り上げて、1476年に印刷・出版した。さらに14世紀から15世紀にかけて活躍した、同じくイギリスの詩人ジョン・ガウアーとジョン・リドゲイトの作品や、『アーサー王の死』などの写本市場の有力商品なども活字化していった。

そのほか学校の教科書や、英語で最初の法律書としてのヘンリー七世の法令集なども出版した。その際ラテン語の作品はゴシック書体で、英語の作品は折衷書体で印刷された。これらはイタリアやフランスで使用されたローマン体と比べると、中世以来の黒々とした印象を人に与えるために、「ブラック・レター」と呼ばれるようになった。イギリスではこのブラック・レターが、17世紀まで続くことになる。

ともかく多くの初期印刷者が経済的な困難に陥っていく中で、経験豊かな商人であったカクストンは成功をおさめ、その作品の多くは版を重ねた。彼が印刷した書物の前書きや後書きには、翻訳者や出版者としての彼の活動についてもいろいろ書かれていて、後世の研究者にとって大変有益である。

<出版事業を社会的に認知された産業へ育てたアントン・コーベルガー(1440/45-1515)>

初期の大出版業者コーベルガーはドイツ人であるが、グーテンベルクとの直接的なつながりはない。彼がどのようにして活字版印刷術を習得したのかは、明らかではない。しかし1470年には南ドイツのニュルンベルクにおいて印刷業を開始している。

当時ニュルンベルクは中央ヨーロッパ最大の商業都市で、ヨーロッパ各地から商人や銀行家が集まっていて、資材・製品の取引が極めて盛んであった。ワーグナーの楽劇として名高い『ニュルンベルクのマイスタージンガー(職匠歌人)』が活躍したのも、このころであった。

余談になるが私は一昨年の夏のドイツ旅行の際にニュルンベルクの町にも立ち寄った。中世からの城壁がぐるりと旧市街を取り囲み、その外側に市電が走っていた。この旅行については、「2019年夏、ドイツ鉄道の旅」として、このブログでも取り上げているので、興味のある方はお読みくだされば幸いである。ただ一つ、コーベルガーと同時代のドイツの画家アルブレヒト・デューラーの生家を訪問したことだけをここでは、お伝えしておきたい。

さてコーベルガーはやがて印刷者、出版者、書籍販売者を一身に兼ねた偉大な事業家となった。つまり都市貴族と組んで市参事会員の一人となり、出版事業を社会的に認知された立派な産業の一つに育て上げたわけである。その意味ではイギリス人のカクストンと相通ずるところがあるといえよう。

当時ニュルンベルクの彼の印刷工場には、24代台の印刷機があり、植字工、校正係、印刷工、彩飾工、製本工など100人余りの職人が働いていた。そしてそこの植字工は、30種類の異なった活字書体を使用することができたという。さらに彼はニュルンベルクのほかにも、スイスのバーゼルやフランスのリヨンでも、自分のところの出版物を印刷させていた。と同時にほかの印刷所の書物を販売していたりした。例えば1498年-1502年には、7巻本の注釈付き聖書の印刷を、バーゼルのヨハネス・アマーバッハ印刷所に頼んでいる。

そうした書籍販売のために、見本市の町フランクフルト・アム・マインをはじめ、アウクスブルク、バーゼル、ウルム。ウィーン、ヴェネツィアのほか、国の内外に数多くの販売店を持っていた。それは西はオランダから東はポーランドまで、北はドイツ北部の町から南はイタリア北部の町まで達していたのである。

その取引の範囲が広くて経営法が優れていた点では、コーベルガー社は他を大きく引き離していた。ほかの印刷所からの書籍は、あるものは委託で引き取り、またあるものは自社の出版物との交換で受け取っていた。

その印刷物は主として中世後期の学術書、とりわけラテン語の神学書や法律書であった。ギリシア・ローマ時代の作品は少なかった。またドイツ語の作品も多くはなかった。しかしその中には1483年製作のドイツ語版聖書や、ニュルンベルクの医学者で歴史家のハルトマン・シェーデルが編纂した1800枚以上の木版画入りの大部の書物『世界年代記』(1493年)といった重要な作品が含まれていた。

 

コーベルガー刊行のラテン語聖書(1481年ごろ)。
本文に注釈が付いているのが特徴

『世界年代記』は初めラテン語で出版されたものを、のちにドイツ語に翻訳して出版したものである。内容的には中世に好まれた一種の歴史書で、天地創造から世界の終末までを扱っている。編集者が住んでいたニュルンベルクの町をはじめとして、数多くの都市図や図版を多く含んだ大型の書物であった。そのため中世末期の最大の出版事業だといわれているのだ。コーベルガーが印刷・出版した書籍は、全部で200点から250点に達するものと推定されている。

シェーデル編集の『世界年代記』(ドイツ語版)。
旧約聖書のノアの箱舟を扱った

図版と説明書き

<南フランスのリヨンを出版都市にしたバルテルミー・ビュイエ(?-1483)>

ビュイエは南フランスのリヨンに初めて印刷工房を作り、出版都市としてのリヨンの基礎を築いた人物である。

15世紀半ばのリヨンの町は繁栄のただなかにあり、そこの太市(おおいち)は当時のヨーロッパ世界の商人たちの出会いの場所であった。イタリアの諸都市やドイツ語圏の諸地方から、商人たちは年に4回リヨンにやってきて、取引の決済をしていた。この町はドイツにもイタリアにも近く、パリ周辺地域と地中海沿岸の諸地方とを結ぶ街道に沿っていた。そのため地理的にも有利な交通の要衝であった。同時にリヨンは人文主義の精神が大司教を取り巻く人々の間に浸透するなど、知的な面でも一つの中心をなしていた。

ビュイエが生きていたのは、このような環境の中であった。初めは法学の道を進んで、一定の社会的な地位と財産を築いた。この人物が出版業に身を投じたのは、文物に対する愛好心からといわれている。1460年に彼はパリにいて、そこの大学に最初の印刷工房を作った。そこで例のギヨーム・フィシェーとヨハン・ハインリンと出会ったものと思われる。ともかく彼は印刷術が文明の利器であると同時に、資本に実りをもたらす手段でもあることを理解していた。

そこで彼はフランドル地方のリエージュ出身で、バーゼルをはじめとするスイスの各地を渡り歩いていた放浪の印刷工ギヨーム・ル・ロアを雇って、自宅に印刷工房を作った。そして1473年に、ロタリウス枢機卿の『教義の小道』というラテン語の書物を世に出した。これはリヨンで印刷された最初の書物であった。

ビュイエは印刷業に出資すると同時に、印刷すべきテクストを選んだ。彼が手掛けた書物は10年間で16点と、決して多くはなかった。そしてそれらに対してゴッシック書体の活字を用いた。書物の種類としては、法律書と医学書そして仏訳聖書であった。

ただし彼は自分の工房から生まれた印刷物が地元で流通するだけでは満足しなかった。幸いこのころ書籍商たちはリヨンの太市に集まり始め、その販路拡大が確実なものになった。そのためにビュイエはさらにパリ、トゥールーズ、アヴィニヨンに支店ないし倉庫を作った。

このビュイエのケースは、印刷術の初期の時代に、大きな資産を持っていた人物が、書物の商いにどのようにして関心を持ち、印刷術の発展に寄与するようになっていったのかを、よくわからせてくれる。