グーテンベルクと活字版印刷術

その02 活字版印刷術の完成と聖書の印刷

<筆写本と印刷本>

前回「その01 印刷術発明への歩み」の最後の部分で、グーテンベルクが手掛けてきた初期の印刷物を見てきた。しかしそれらのものはなお欠陥が多く、不完全なもので、巨匠がとうてい満足できるようなものではなかった。確かにラテン語教科書『ドナトゥス』の印刷を通じて、筆写とは比べ物にならないくらい速く、しかも安く、書物が仕上げられることを彼は知った。

とはいえグーテンベルクにとっては、印刷は筆写の安価な代用品であってはならないものであった。印刷はそれ自体として、完成されたものでなくてはならなかったのだ。優れた職人魂と求道者の心をあわせてもっていた発明者は、印刷技術の基盤を作った1440年ころからの10数年間、なお絶え間ない創造的不安の中にあったと思われる。というのは彼が模範にした筆写本はまさにこの時期にその花盛りを迎え、質的にも最高のレベルに達していたからである。

                 筆写による豪華な時祷書(1450年ごろ、フランス)

フランスとりわけブルゴーニュにおいては、祈りの時に用いる時祷書(じとうしょ)は華麗な色彩の絵や装飾的な頭文字などによって、特別に高価な豪華本に仕立てられていた。そうした挿絵や細密文字を描くために、当時有名な画家が活躍していたのだ。またイタリアの大商人や貴族たちは、えり抜きの豪華文学書や美しい豪華本のための図書館を作っていた。そしてゴシックの筆写芸術は、ドイツ、フランス、スペイン、イタリアなどの修道院内の筆写工房において、最高の水準に達していたのである。新種の技術が同時代の筆写芸術と、美的にも肩を並べることができるためには、それまで以上の高度な役割を担わねばならなかったのだ。

いっぽう当時キリスト教会の改革を目指していたドイツ人の聖職者、ニコラウス・フォン・クースの影響を受けていたとみられるグーテンベルクが、まず何よりも印刷したいと思っていたのは、均一の内容の「ミサ典書」を大量に作りだすことだった。ミサはカトリックの祭儀の中心をなすものであり、「ミサ典書」はそれを執り行う際のいわばハンドブックであった。そこには教会暦を含めた祭儀細則をともなったミサ典範、順番に並んだミサ手続き、詩篇、説教そして個々の日曜祭日用の聖書の一節などが書かれていた。

ところがこの大切な「ミサ典書」も、何度も書き写していく過程で、しばしば書き間違いや文章の潤色、あるいはテキストを故意にゆがめるという事態が起こっていた。そのためクースは、すべてのカトリック教会に通用する統一的な「ミサ典書」の出現を求めていた。そしてその期待に応えるべく、グーテンベルクはこの書物の印刷を志したものと考えられる。

しかしながらグーテンベルク屋敷内にある印刷工房には、そうした多種多様なものを含んでいた「ミサ典書」の印刷に必要なだけの十分な活字がそろっていなかった。とりわけ聖歌用の活字、極小の活字、教理典範用の小文字と大文字が欠けていたのだ。

そのためにグーテンベルクとしても計画の変更を余儀なくされた。つまり一つの大きさの活字だけで印刷できるような別の作品を探したものとみられる。この過程で彼は協力者たちと相当突っ込んだ議論をしたようである。そしてここでも結局クースの影響が決定的な動機となって、聖書の印刷を選ぶことになったのだ。

<聖書の印刷へ向けて>

今日の視点に立てば、「書物の中の書物」と呼ばれる聖書こそグーテンベルクが真っ先に目指すべき対象だったように思われる。ところが15世紀の中ごろには、聖書は宗教生活の中心に位置していたわけではなかった。当時のカトリック教会の司祭宗教がとっていた立場によれば、聖書というものは、司教や司祭を通じて一般民衆に説明されるべきもの、とされていた。つまり聖書そのものを民衆自らが読むことは、カトリック聖職者の権威を保つのに都合が悪かったわけである。そのために幾多の宗教会議を通じて、聖書を各国語に翻訳することが禁じられていた。したがってこうした当時の一般的風潮からは、聖書を印刷して普及させるという考えは生まれてこなかったといえる。

しかし当時のカトリック教会の内部にも、教会改革の立場から聖書の普及を奨励していたクースのような人物もいたのだ。1451年5月、クースは教皇特使としてマインツのベネディクト派修道会の70人の院長を前にして、よい翻訳によって編纂された聖書を修道院内の図書館に備えることが大切である、とその意義を説いたといわれる。

そしてクースとの関係が深いグーテンベルクは、このとき改革派修道会における聖書に対する需要を悟ったものとみられるのだ。聖書のような大型の書物は当然高価になるはずであったが、そうした負担に応ずることができる潜在的な買い手としては、そのほかにも司教、大学教授、世俗領主などが見込まれていた。

<グーテンベルクとフストの出会い>

こうして聖書の印刷を志すようになったグーテンベルクにとって、当面の課題となったのは、ラテン語教科書「ドナトゥス」のような小型印刷物とは違った大作としての聖書の印刷に必要な資金だった。それまでもたびたび各方面から資金を集めてきたのだが、この度融資を受けることになったのは、書籍印刷の歴史において重要な役割を演じたヨハネス・フストであった。

            ヨハネス・フストの肖像画

フストはマインツの商人で、それまで写本の「ドナトゥス」を売るために、各地の大学都市を渡り歩いたものとみられている。そして「グーテンベルク屋敷工房」では、印刷された「ドナトゥス」を販売してくれる商人を必要としていた。それが最初のきっかけとなって、グーテンベルクはフストと知り合うことになったのだ。そして1449年の夏にフストから800グルデンという大金を融資してもらった。おそらくフストはすでに印刷されていた「ドナトゥス」などの作品を見て、印刷業がもたらす可能性を信じて、これだけの大金をよそから借りて融資したものと思われる。

それはともかく、この金によってグーテンベルクは聖書を印刷するために必要な、従来の「グーテンベルク屋敷印刷工房」よりも立派な設備を備えた印刷所を建設することができたのである。その場所としては、遠い親戚のヘンネ・ザルマンが所有していた地所が選ばれた。その印刷所には、最初は3台、のちには6台の印刷機が設置された。グーテンベルク屋敷工房には1台の印刷機しかなかったのに比べると、大変な拡充といえる。さらに植字用の作業台が6台と羊皮紙や紙の保管庫も建てられた。

フストは融資に対する担保として、組み立てられた印刷機その他の機械設備一切と付属の材料並びに出来上がる予定の作品を指定している。二人はこれらを定めた契約を1450年に結んだ。こうして巨匠は念願の大作「聖書」の印刷という大事業に乗り出していったのである。

<「四十二行聖書」の印刷~発明のクライマックス~>

一般に「グーテンベルク聖書」と呼ばれているものは、この「四十二行聖書」を指している。「四十二行」とは一ページに収められた行数を言うが、「三十六行」その他の行数の聖書も印刷されているため、こう呼んでいるわけである。

さてグーテンベルクは念願の聖書を印刷するために、まずその活字製造に全精力を注いだものと思われる。従来からあった豪華で華麗な筆写による聖書に、美的観点からも匹敵するような書物を作り上げるためには、何よりも美しい書体の活字を鋳造することが肝要だったからだ。そのために彼は当時存在した筆写によるラテン語聖書を模範にした。そしてこの写本の中から最も美しい書体が選びだされ、合字や略字を含めた全アルファベットがトレースされた。(ちなみにドイツ語訳聖書の印刷本が世の中に出回るようになるのは、それから70年以上のちに、宗教改革者マルティン・ルターがドイツ語に翻訳したものが印刷されてからのことである。グーテンベルク以前にも、筆写によるドイツ語訳聖書は刊行されてはいたが、その数量はごく限られていたため、一般にはほとんど普及していなかったとみられている)

ついで活字父型が彫られ、それが活字母型の中に打ち込まれた。その活字母型は活字鋳造機の中に挟み込まれ、その中に溶かした鉛合金を流し込んだ。そして最終作業として高さが調整されて金属の活字が鋳造されていったのである。

活字鋳造工房の様子(これは1568年のものであるが、グーテンベルク時代   と変わっていない)

アルファベットは基本的には26文字であるが、活字としては、小文字、大文字、合字、略字、句読点などが作られ、その際組版の行の初めと終わりをそろえるための工夫として、幅の広い活字や狭い活字などいろいろ鋳造された。こうして字種の総数は290種類にも上ったのである。全体の組上がりの美しさを、こうした様々な文字や記号の組み合わせによって、生み出そうとしたわけである。こうして出来上がった聖書用の活字は実にエレガントである。そして大文字は創造力にあふれていた。これらの活字づくりの準備作業のために、半年の歳月が必要だったとみられている。

                             「四十二行聖書」に用いられた活字一覧表

いっぽう組版の作成には、同時に四人の、のちには六人の組版工がたづさわっていた。そしてそれぞれの組版工のために三つの組版ケースが用意されていた。聖書の一ページには2600文字が詰まっていたために、三つの組版ケースには7800個の活字が入っていた計算になる。組版が完了すると、紐できつく結わえられて刷り版として印刷に回された。印刷が完了すると、組版は解かれ、活字は再び活字ケースに戻された。こうして繰り返し使用された活字は摩耗するので、常に新しいものと取り換える必要があった。こう見てくると、必要とされた活字の総量は、膨大な数に上ったはずである。

       活字鋳造機,植字作業用ステッキ、組版など

さて印刷機を操作する印刷工であるが、一台の印刷機に対して二人の印刷工が必要だったので、六台分では十二人いたわけである。また一台に一人のインク塗工と、印刷機の上に紙を置く作業員がいた。そのほかにも、活字父型彫刻師、解版工、印刷インクを調合する者、校正係、その他の補助作業員がいた。つまり少なくとも二十人のレギュラーメンバーが、そこで仕事をしていた計算になる。これらの職人たちは、のちに述べるように、その後グーテンベルクのもとで仕事ができなくなり、ヨーロッパ各地に散っていった。そしてその中には1470年代になって、各地での最初の印刷者として名を挙げた者が少なくない。つまりマインツのフンブレヒト屋敷の印刷所は、初期印刷者にとっての研修所でもあったのだ。

<マインツのグーテンベルク博物館内に設置された印刷機による聖書印刷の実演>

グーテンベルクが生まれ育ったマインツ市の中心部に、「グーテンベルク印刷博物館」がある。私はこの建物を数回訪れたことがある。いうまでもなくこの博物館は、印刷に関する総合的な博物館で、印刷術の歴史から世界各国の印刷事情に関する豊富な展示物であふれている。とりわけ活字版印刷術の生みの親であるグーテンベルクの生涯とその業績に関しては、他に類を見ないほどの充実ぶりを示している。なかでもグーテンベルクが使用していた時代の堅牢で、堂々たる印刷機を中心にもろもろの関連設備を備えたコーナーが、この博物館の目玉になっている。そして定期的に、一人の印刷工による聖書の印刷の実演が行われている。私もこの実演を、ほかの見物客に交じって、まじかでじっくり観察したことがある。聖書の一ページの印刷が終わると、希望者には刷り上がった一ページが与えられるのだ。もちろん私もそれを一枚もらって、今でもわが書斎にしまってある。

その実演の様子を撮影した四枚の写真があるので、次にご紹介することにする。

           活字を鋳造しているところ

         組版上の活字にインクをつけているところ

            印刷作業をしているところ

        刷り上がった聖書の一ページを点検しているところ

<聖書印刷の工程>

ここでグーテンベルクが行っていただろう聖書印刷の工程に目を向けることにしよう。まず印刷の前に羊皮紙や紙に、適度な湿り気が加えられた。そして裏面や組版面をそろえるために、きちんと畳んだ紙の縁に、針で小さな穴があけられた。紙葉全紙(表裏合わせて16頁)で用意されたものが、複雑な手順を踏んで時間をかけて一枚、一枚印刷されていった。この印刷の作業は極めて面倒なもので、たった一か所にブレがあったり、十分インクが付いていないページがあるだけで、全紙全体がだめになって、もう一度初めからやり直さなければならなかった。

印刷のスピードは、印刷工二人を付けた一台の印刷機で、一時間あたり8~16ページといったところであった。「四十二行聖書」は二段組みであったので、二巻本あわせて1282頁にものぼった。そのため推定発行部数180部を全部刷り上げるためには、一日十時間という平均作業時間で、六台の印刷機が同時にフル稼働して、333労働日が必要という計算になる。

ところが中世には様々な祝祭日があったために、一年間の労働日は188日にすぎなかった。さらに当初は四台の印刷機しか稼働しておらず、仕事をしていない時間や職人が一時的に別の仕事をしていたこともあった。こうしたことを総合すると、180部の完成までにかかった時間は、およそ二年間と見積もることができよう。

さらに装飾的な要素の強いこの作品には、印刷されない部分つまり見出しのイニシャルを手書きで彩色する箇所が、170か所も残されていたのだ。それを彩色する時間と製本する時間は数か月から半年ほどかかったという。

推定発行部数は180部であったが、そのうち羊皮紙製のものが30部から35部、紙製のものが145部から150部ぐらい印刷されたものとみられている。ちなみに現存している「四十二行聖書」は、羊皮紙製が12部、紙製のものが35部である。現在日本には、1部だけ保管されている。

ついでながらこれまで羊皮紙と呼んできたものは、実は羊の皮ではなくて、ヴェラム(子牛の皮)が使われていたのだ。わずか30部から35部の「四十二行聖書」のために、五千頭の子牛の皮が必要とされたといわれる。そのほかにも鉛などの金属代、インク代、職人への賃金、印刷所の家賃などもグーテンベルクは支払わねばならなかったのだ。とにかく豪華本「四十二行聖書」製作のための全経費は、膨大な額に上ったものとみられている。

<最高の完成度を示した「四十二行聖書」>

以上みてきたように、「四十二行聖書」の印刷には莫大な費用と労力、そして長い時間がかかったのである。その際グーテンベルクが追求したのは、美的・芸術的観点からいっても当時最高のレベルに達していた筆写による聖書に匹敵する、あるいはそれを上回るような作品を、活字版印刷によって作り上げる事であった。最高の品質への努力の中にこそ、彼の絶え間のない注意の目がむけられていたのである。その際横310ミリメートル、縦420ミリメートルという大きな判型、並びに二段組みという書物の形態は、最良の筆写工房で作られた当時の写本聖書に倣ったものである。

        )

         「四十二行聖書」(ルカ福音書の一部)

         

            「四十二行聖書」の外観

このほかにもグーテンベルクの聖書には、様々な点で、早くも活字版印刷の最高の水準に達していたことが注目されるのである。たとえば初期の「ドナトゥス」はまだ各行の長さがまちまちで、行末が不ぞろいであったが、「四十二行聖書」にあっては、初めてすべての行が同じ長さで印刷されるようになったのである。これは模範とされた写本聖書でも見られなかったことである。これによって書物の視覚的な美しさは一段と増している。この点において、印刷本が写本を上回ったわけである。今日の印刷では、本文の行末がそろっているのは当たり前となっているが、当時は様々な工夫の末にようやく達成された成果であったのだ。

さらに組版の規則的な正確さ、印刷インクの色が均等になっている点、その他もろもろのことが、今日でも到達できないくらいの完成度を示しているのだ。このヨーロッパ最初の活字版印刷本が、限りなく上品な美しさと優れた技量を示したこと、そしてその水準に達するのがその後容易ではなかったことは、現在の我々にとっても奇跡に思えてくるほどである。

歴史に残る、このような最高度の業績は、最高の品質に対する情熱と責任感を持ち合わせ、その仕事熱心さをすべての仕事仲間に感化させることができた、一人の偉大な人物によってはじめて達成されたものと言えよう。

<フスト、グーテンベルクを提訴>

グーテンベルクはフストからの融資によって新しい印刷工房を作り、「四十二行聖書」を印刷したわけだが、その完成まじかという時期に、巨匠はこのフストから約束不履行で訴えられた。その訴訟の様子は、ある文書によって詳しくわかっているが、ここではその経過は省略して、その事情をごく簡単に要約して説明することにしよう。

結論から言うと、「聖書」の印刷がすべて完了する以前に裁判所の裁定が出され、グーテンベルクは敗訴したのであった。その結果、彼は抵当に入れていた印刷工房や印刷機器など、そして刷り上がっていた作品である「聖書」をフストに渡さざるを得ないことになってしまった。

この訴訟の結果はたしかにグーテンベルクにとって、大きな衝撃だったと思われる。何しろそのライフワークともいうべき「四十二行聖書」の印刷がようやく完了するというまさにその時に、それを売って利益を得るという手立てを奪われたうえに、印刷所や印刷機器まで取り上げられてしまったからである。

そのために古来グーテンベルクに関する通俗的な伝記や読み物では、ヨハネス・フストは冷酷この上ない金の亡者のように描かれ、グーテンベルクのほうは逆に悲劇の主人公として、同情が寄せられるといった具合であった。しかしここでは、あるドイツ人研究者の冷静な見方を紹介することにしたい。

それによると、金を貸したフストには、印刷術の完成とか、作品を芸術的・美的観点から完璧なものにすることへの関心は全く見られなかった。その関心はもっぱら多大な利益をもたらす高価な商品である「四十二行聖書」を、一刻も早く完成させて販売することにあったのだ。

そのためフストは二度にわたって大金を投入してその完成を待ったのだが、完璧主義を貫いてじっくり時間をかけていたグーテンベルクの態度に業を煮やして、提訴したのであろうという。そしてこうした態度は商売人としては当然であったとみている。またフストは、当時封建的秩序の中で目を出しつつあった初期資本主義の、成功した金融業者だったという。さらに当時の裁判官たちにとっては、印刷術発明の歴史的価値などは認識すべくもなく、ただその時代の法の規範に従ったまでであろうとしている。

<フンブレヒト屋敷印刷工房からフスト&シェッファー印刷工房へ>

「四十二行聖書」の印刷という世紀の大事業の舞台となった「フンブレヒト屋敷印刷工房」には、すでに大規模な書籍印刷を行うための、あらゆる前提条件が備わっていた。そこには、紙、羊皮紙、印刷インクが豊富にあり、活字鋳造機や性能の良い印刷機が4~6台設置されていた。そのうえ活字父型彫刻師、活字鋳造工、組版工、印刷工、校正係その他の専門家からなる有能な職人のチームができていた。

さらにグーテンベルクは、改良された二種類の書体の新しい活字を準備していたかもしくはすでに完成させていた。それは「マインツ詩篇」のための活字で、おそらく印刷も始められていたものとみられている。そこに欠けていたのは、印刷という仕事を全体として統率、指揮していく人物であった。

かつての主人のグーテンベルクは、大きな不満を抱きながらも、そこを去り、最初の「グーテンベルク屋敷印刷工房」へと戻らざるを得なかったからだ。彼に代わって複雑極まりない印刷という事業を、継続してやっていける人物が果たしていたのだろうか? 当時もっとも経験を積んだ印刷工としては、ベルトルート・ルッペルとハインリヒ・ケッファーの二人がいたが、この二人ともグーテンベルクの信頼厚い人物で、巨匠と行動を共にしている。

こうして今や工房の単独所有者となったヨハネス・フストが選んだ人物が、ペーター・シェッファ-であった。そして「フンブレヒト屋敷印刷工房」はこの後、「フスト&シェッファー印刷工房」と名前を変え、グーテンベルクの遺産を受け継ぎながら、さらにその事業を発展させていくのである。

ペーター・シェッファ-の青少年時代については、あまり知られていない。しかし1420年から1430年の間に、マインツとウオルムスの間にあるライン河畔の町ゲルンスハイムで生まれたことは確かである。そのためにゲルンスハイムの人々は、今から百年ほど前に、この郷土出身の有名人のために記念碑を建てている。

彼はやがてフストの養子になり、金細工師フストの家庭で、一定の金属加工技術を習得していたらしい。ついで1444年にフストはシェッファーをエアフルト大学へ入学させ、さらに1449年にはパリ大学に聖職者として登録させている。そこで彼はラテン語を習得しただけでなく、筆写生、能書家としても働いていたものと思われる。彼が書いた素晴らしい書は、オリジナルはなくなってしまったものの、ファクシミリを通じて知ることができる。

おそらく1452年ごろ、フストはシェッファーをパリからマインツへ呼び戻している。そして彼はグーテンベルクのもとで印刷技術を習得するようになった。師匠のグーテンベルクにとっても、彼は呑み込みの早い優秀な生徒だったようだ。そのために師匠のもとで、旧約聖書の一部である「マインツ詩篇」用の活字の製造に関与していたものと思われる。

       「マインツ詩篇」の、ある一ページ(1457年)

1457年8月、フンブレヒト屋敷内の「フスト&シェッファー印刷工房」で、豪華本「マインツ詩篇」の初版が印刷された。これは二つ折り判340頁のもので、すべてが羊皮紙に印刷された。そして特記すべきことは、この時初めて書物の中に印刷者の刊記がしるされたことである。そこには作り手として、マインツ市民ヨハネス・フスト及びゲルンスハイム出身のペーター・シェッファ-の名前が書きこまれたのだ。またフストとシェとッファーが考え出した、二人の印刷者標章(プリンターズ・マーク)が、赤い色で刷り込まれていた。

          ペーター・シェッファ-の肖像画(上のもの)

          フスト&シェッファー印刷者標章(下のもの)

これは世界で初めての印刷者マークで、これ以後初期の印刷者はこうした印刷者標章を作って、自分の印刷所で印刷した作品に刷り込むようになった。

ところでこの作品は、すでにグーテンベルクによってその印刷が始められ、フストとシェッファーのコンビによって完成されたものである。しかしこれだけの完成度を保証した技術的基盤は、やはりグーテンベルクの優れた金属加工技術にあった、という認識ではほとんどすべての研究者の一致を見ている。その準備作業はフストの提訴以前にすでに始まっており、裁判の進行中も続けられたと思われる。その意味で「マインツ詩篇」は部分的には、グーテンベルクの作品でもあったといえる。

それと同時に、巨匠のこの作品を、フストとシェッファーがいかに模範的に継続発展させることができたか、ということも確認されるのである。この二人としては自分たちの最初の作品であったから、古い主人に引けを取るものではないことを、従業員やマインツ市民に証明する必要があったのであろう。そしてさらに巨匠を乗り越えることによって、従業員の古い主人への思い出を払しょくしようとしたものであろう。

ところで詩篇というものは旧約聖書の一部をなすもので、150の詩歌から成り立っている。そしてそれらは教会の日々の典礼用詩歌や讃美歌として用いられていた。そのためにこうした書物は先唱者や、できれば合唱隊員も一緒に読めるように、大きな活字で印刷されねばならなかった。さらに書物のなかには、中世の音符であるネウマや定量記譜が、彩色工または合唱指揮者によって書き込まれていた。

  「マインツ詩篇」の一部分(中世の音符ネウマが上のほうについている)

とにかく詩篇はミサ典礼にとって欠かすことができないものだったので、修道院や教会で大きな需要があったものと思われる。そしてその素晴らしい出来栄えによって、フストとシェッファーは聖職者たちからお墨付きをもらっただけではなく、商売の点でも成功を収めたものと思われる。

次に印刷されたのは「カノン・ミサエ」と呼ばれる小さな作品であった。これは二つ折り判24頁のものだが、ミサ典書の中ですべてのカトリック教徒に共通するのが、この「カノン・ミサエ」だといわれる。それだけに大きな需要があったようだ。

さらに三番目の作品として、1459年に「ベネディクト詩篇」が出版された。これは「マインツ詩篇」を改編したものだが、聖歌の収集や順番はベネディクト派のブルンスト信心会の規定によって変更されていた。判型は大きくなり、大きな活字にふさわしいものになっていた。活字書体のデザインの美しさは、1457年の「マインツ詩篇」を上回っている。「ベネディクト詩篇」はベネディクト派修道会から直接注文を受けたものとみられている。グーテンベルクがフランシスコ派修道会との関係が深かったのに対して、シェッファーのほうはベネディクト派修道会とのつながりを深めていったようだ。

四番目に重要な作品として、典礼用規則集が1459年に出版された。これは当時教会当局から重視されて、その使用が奨励され、頻繁に用いられていたものであった。この作品のためにシェッファーはとても小さな活字を新たにデザインした。つまり当時の人文主義者の手書き字体をまねた読みやすい「ゴチコ・アンティクア体」である。さらに同じ活字によって、1462年に「四十八行聖書」が印刷されたほか、教会法を学ぶ学生たちが必要としていた教会法典に関する書籍数冊も印刷された。

こうしてシェッファーは、教会が必要とする書物の印刷者となっていったわけである。当時書物を必要としていたのは、教会関係の聖職者か大学の学者であったが、そのどちらかと固く結ばれることによって、売り上げも確保されたのであった。

これらの作品の印刷・出版をつうじて、ペーター・シェッファ-は師匠のグーテンベルクの真の後継者であることを実証した。とりわけブック・デザインの面では、数々の新機軸によって、師匠の果たせなかったことも成し遂げたのであった。

グーテンベルクと活字版印刷術

前回の「ヨーロッパ中世の書籍文化」に続いて、今回は「グーテンベルクと活字版印刷術」について、2004年10月に朗文堂から刊行された『ヨーロッパの出版文化史』に基づいて、本ブログに書いていくことにします。

その01 印刷術発明への歩み

<グーテンベルクについての常識>

活字版印刷術がグーテンベルクによって発明されたことは、わが国でもあまねく知れ渡っている。中学の社会科や高校の世界史の教科書にも、必ずといっていいぐらいその名前が記され、その業績も簡単ではあるが紹介されているからである。たとえば高校の世界史の教科書の一つには、次のように記されている。

「ルネサンス時代には、技術の開発や発明も盛んにおこなわれた。その中でも三大発明といわれる活字版印刷術・羅針盤・火薬の発明は、文化・社会全般の革新・発展に大きく貢献した。ドイツ人グーテンベルクの発明といわれる活字版印刷術がヨーロッパに広く普及したのは、良質の紙を比較的安く供給できる製紙法が知られていたからである。この結果書籍がそれまでの写本に比べると、速く正確にしかも安く作られた。人文主義・宗教改革の思想が各地にすみやかに伝播した理由もここにあった」

私自身もこうした内容のことを習ってきたが、多くの日本人にとっても受験などを通じて、このことはほぼ常識になっているのではなかろうか? しかしグーテンベルクの活字版印刷術というものが、具体的にはどのようなものであり、またこの人物がどのような生涯をたどったのかという点については、はたしてどれぐらいの人が知っているのであろうか? 現在わが国で発行されている百科事典を広げてみても、その記述はあまり詳しくはない。またグーテンベルクに関して日本語で書かれた文献や書籍も極めて少ない。

ヨーロッパの出版文化の歴史をたどるとき、やはり活字版印刷術の中身とそれを発明した人物について、ある程度詳しく語る必要がある、と私は考えている。そこで以下にグーテンベルクの生涯をたどり、あわせてその業績について紹介していくことにしよう。

<グーテンベルクの出生>

グーテンベルクの肖像画(1584年製作の銅版画。同時代の肖像画は存在しな    いので、この姿が本物にどれだけ近いのかは不明)

ヨハネス・グーテンベルクは、南西ドイツのライン川のほとりの町マインツで、西暦1400年ごろに誕生した。その正確な生年について記した記録文書は残っていないので、もろもろの傍証から推測したものである。

父親のフリーレ・ゲンスフライシュは豪商で、その家系はマインツの名門の都市貴族であった。おそらく父親は織物取引に従事していたとみられるが、数代前から市内に広大な家屋敷を所有していた。

        マインツ市の景観(15世紀の木版画)

マインツはライン川とその支流のマイン川が合流する地点にあり、古代ローマ軍の駐屯地であった。そして中世には「黄金の町」と呼ばれたほどの繁栄を見せていた。また8世紀にはカトリック大司教の所在地となり、それ以後も宗教的・政治的に大きな役割を果たしていた。やがてこの町はケルンとともに、ライン地方の商業の中心地としても重きをなした。それは主として大司教からの全国的規模の注文によって、織物や金細工製品などの取引が促進されたからだ。こうして大規模な遠隔地商業に従事する大商人の経済力が高まるとともに、大司教の支配から脱して、皇帝直属の帝国自由都市となった。そして「商人ギルド」に結集していた大商人階級は、マインツの都市行政を担う「市参事会」の中枢メンバーとして、特権的な都市貴族となっていったのである。

印刷術の発明者の父親はこうした都市貴族の一人だったが、その妻の父親は小売り商人で、都市貴族ではなかった。そのためにヨハネス・グーテンベルクには四分の一だけ違う社会階層の血が流れていた。そして当時はこうした社会階層の違いは、極めて大きな意味を持っていたのである。このころ小売商人や職人が作っていたギルドと都市貴族の間で、階級間の激しい闘争が繰り広げられていた。こうしたことが発明者の性格や行動に暗い影を投げかけていて、通常の都市貴族がたどる経歴とは違った、特異な人生を歩ませたものと思われる。

<その青少年時代>

ヨハネス・グーテンベルクが誕生したとき、父親はすでに50歳ぐらいだったが、母親のほうははるかに若く、発明者はこの母親の影響を強く受けて育ったとみられる。そしてマインツの修道院付属学校に通って、ラテン語も習得したものと思われる。

その後彼は創立間もない中部ドイツのエアフルト大学に通い、そこでラテン語に磨きをかけたものとみられる。後に彼は自分が発明した印刷術で聖書その他を印刷したのだが、これらの書物はラテン語で書かれていて、総監督であったグーテンベルクにとってラテン語の知識は必要不可欠だったからである。また当時のエアフルト大学にはカトリック教会の改革の精神が躍動し、イタリアからドイツへ流入していた新しい人文主義の理念についても語られ、さらに広く政治的・社会的な事柄にも目が向けられていた。

このころドイツに対して、ローマ教皇をはじめとするカトリック勢力の圧力が強まっていたが、エアフルト大学の周辺にはドイツ人の民族的権利を強調する動きがみられた。保守的なカトリックの聖職者は自分たちの権威を守るために、一般の民衆が聖書を読むのを禁じていたのだが、この大学に大きな影響を及ぼしていた進歩的な聖職者は、人々が聖書を直接読むことを奨励していたのだ。

このような進歩的な雰囲気に包まれていたエアフルト大学で、当然のことながら若きグーテンベルクは、各国からやってきた修士や学生たちと知り合ってその視野を広め、新しい思想や潮流の影響を強く受けたことと思われる。のちにグーテンベルクが印刷術を発明しようとした根本的な動機も、こうした思想的な背景と結びついていたのだろう。そのいっぽうこの大学生時代には、当時の学生がたいていアルバイトとしてやっていた筆写の仕事にも従事していたものと思われる。

1419年の秋、彼がまだ在学中に父親が死亡した。グーテンベルクは翌年学長から修了証書を授与され、故郷のマインツへ戻った。

<その後のグーテンベルクの歩み>

マインツに戻ったグーテンベルクは、その政治的な立場が異なるため緊張関係にあった実兄の家族とともに、広大な「グーテンベルク屋敷」に住んだ。そして活字の鋳造には決定的な意味を持つ金細工の技術を、二人の職人から習得したものとみられる。

いっぽう20代のころの生活を想像してみると、負けず嫌いで、鼻っ柱が強く、陽気な仲間とも付き合う青年貴族の面影が浮かび上がってくる。しかしそれ以上のことはわからない。そして1429年から5年間、マインツから姿を消している。その間どこにいたのか史料が残っていないので不明だが、ライン川上流のバーゼルの手工業職人組合の会員となって、金属加工の技術に磨きをかけていたともみられている。

      シュトラースブルク市の景観(15世紀の木版画)

そして1434年から11年間にわたって、同じくライン川に沿ったシュトラースブルクの町に住んでいたことが、記録によって知られている。この町は現在はフランス領のストラスブールだが、当時はドイツ帝国の一部だった。地図を見れば明らかだが、マインツ、シュトラースブルク、バーゼルは、ライン川に沿って北から南へと真っすぐつながっていて、当時としても比較的容易に移動できたものと思われる。グーテンベルクが生きていた15世紀の中頃にはこの町の人口は2万5千人で、ドイツ帝国有数の都会であった。そしてマインツ同様に商工業の盛んな町で、ライン川の西の支流イル河畔の建物が、水陸両用の貨物の積み替え地となっていた。また中心部には当時からすでに壮麗な大聖堂がそそり立っていた。

このシュトラースブルクの町でグーテンベルクは1434年から1444年まで過ごしたわけであるが、それは彼にとって34歳から44歳までの壮年時代であったといえる。この間、彼とエネリンという女性との関係について記した文芸作品が昔から数多く存在する。しかしこの女性との結婚などについて書いた記録文書は一切存在しない。おそらくグーテンベルクは一時期彼女と関係を持ったがそれも切れて、それからは印刷術の発明へ向けて没頭していったようである。

その時代、1438年の初め、グーテンベルクは手鏡を作るための共同事業に関して、三人の仲間とある取り決めを結んだ。当時アーヘン大聖堂への巡礼行が行われていたが、そこでは救済用の手鏡が聖遺物の奇跡的な力を集めて蓄えると信じられていて、巡礼者に売られていたのだ。グーテンベルクが結んだ取り決めとは、独特な生産協同組合ともいうべきものであった。アイデアと製造技術を提供したグーテンベルクが利益の半分を、出費をした人物が四分の一を、そして労力の提供を申し出た二人がそれぞれ八分の一を受け取るというものだった。こうして手鏡はかなり短期間に完成したが、巡礼行が二年先に延ばされたために、作った手鏡は手元に保管され、利益のほうはお預けとなった。

この手鏡の材質には鉛と錫の合金が用いられたが、これこそグーテンベルクが後に印刷業務に取り組んだ際に鋳造した活字の材料と同じものだったのだ。活字版印刷術発明への技術的な前提の一つが、この手鏡製造という形をとって、ひそかに準備されていたのである。

手鏡製造が終わってから、あるいはそれと並行して、彼は新たな事業に取り組んでいた。それは当時人に知られてはまずい、ある新しい技術ないし発明を、協同組合方式で生み出そうというものであった。当時「印刷術」はドイツでは長いこと「黒い魔術」と呼ばれて疑惑の目で見られてきた。その事業をグーテンベルクは協同組合方式で、成功させようとしたわけである。この発明のアイデアと資本と労働能率の三つを結集した共同事業の形態こそ、のちに彼が活字版印刷術の発明と実践の際に用いたやり方そのものだったのである。

こうして手鏡製造の時に労力を提供した二人の人物は、秘密の術を教わる形で新たな事業の助手の役割を務めた。さらに別の人物が圧搾機を組み立て、一人の金細工師が活字父型を彫る仕事を委託され、材料の金属も購入された。これらのためには資金が必要であったが、延期になっていた先のアーヘンの巡礼行がその後実施されて、予定されていた売り上げがグーテンベルクの懐に入ってきた。

このようにして新しい事業は順調に進んでいった。しかし協力者の一人の兄弟から、ある時秘密の事業に関連して訴えられたが、一定の金を支払うことによって決着を見た。これは秘密裏に進めていた印刷事業を世間に公表できないという弱みを突かれたものであった。

<シュトラースブルクでの印刷事業>

こうしたつまずきはあったが、その事業はさらに進展して、市内の各所に拠点が作られて、必要な人材が配置されるようになった。グーテンベルクが住んでいた家には活字鋳造所があり、先の金細工師が活字父型を彫る作業を手伝っていた。しかし印刷工房と組版の作業所は、市内の別の家にあった。このように各作業所が離れ離れだったことは、確かに不便ではあったが、秘密の保持という点ではかえって勝っていたというべきであろう。

1439年には新たに5年の有効期間を持つ契約が結ばれた。そして新しい場所にそれまでより大型で質の良い印刷機が設置された。また以前より大量に羊皮紙や紙が購入され、新しい活字の鋳造のために、大量の鉛、錫、アンチモンなどが運ばれてきた。これらのためには多額の資金が必要であったと思われる。とにかく当時としては巨大な一つの事業を立ち上げるためには、莫大な資本が前提となっていたわけである。

グーテンベルクは当時「黒い魔術」などと呼ばれて、胡散臭い目で見られていた印刷術の発明に向けて、長期にわたる努力を傾けていた。そしてすでに印刷事業にも取り組んでいたのであった。その意味ではすでに「印刷術」は発明されていた、と言えそうである。

ところがいったい何をもって活字版印刷術の発明とするのかを決めることは、そう容易なことではないのだ。後世の人々は、ある偉大な発明が決まった時期に行われ、それが世の中にはっきり宣言されるものと、とかく考えがちである。しかし19世紀や20世紀のことはさておき、15世紀という昔には、そういうことはなかったのである。グーテンベルク自身は、自ら印刷したものに自分の名前を入れたり、発行年月日を入れたりはしていない。そのため彼が印刷したものの製作時期については、副次的な史料からさまざまに推測しているわけである。

こうした事情があるうえに、グーテンベルクは印刷技術のいろいろな工程に、どんどん改良を加えていっている。そのために最初の印刷物がいったいいつ製作されたのかという事も、簡単には言えないのだ。しかし複雑な過程は省略して結論だけを言えば、1439年の12月ないしその少し後に、最初の出版物を世に出した、と推測されている。

ちなみにグーテンベルクが亡くなって少し経った1505年に書かれた書物の中では、
「ヨハネス・グーテンベルクが1440年にシュトラースブルクで書籍印刷術を発明し、のちにマインツでこれを完成させた」
と記されている。我々は1440年にはグーテンベルクはまだシュトラースブルクに住んでいたことを知っているので、この記述は正しいものと言えよう。

グーテンベルクの立像(シュトラースブルク市に現在立っているもの、私が撮影)

<東洋における活字版印刷>

いっぽう活字を印刷用の刷り版に用いた印刷の方法自体は、グーテンベルクよりずっと早く、中国や朝鮮半島で行われていた。中国では古くから木版印刷が盛んであったが、北宋の時代(960-1127)に、泥土を膠(にかわ)で固めて、その上に文字を彫り、それを焼いて作った、いわゆる「膠泥(こうでい)活字」が発明された。

印刷にあたっては、鉄板に蝋を流して温めながら活字を並べ、並べ終えると鉄板を火からおろして冷却させる。そして蝋で活字が固定されるのを待って、そのあとは木版印刷と同じように活字の上に墨を塗り、上から紙をあてて文字を写し取るのである。

この方法だと、活字を用いるとはいっても、実際には木版印刷とあまり変わるところがない。片面印刷だという点と、文字が象形文字で膨大な数の活字を必要とした点、そして一枚一枚の組版を作るのがかなり面倒な作業であった点などの欠点があり、極めて能率の悪いものであった。その後の中国では、木や金属を材料とする活字が考案されたが、ほんの一部で使用されただけで、印刷の主流はやはり木版であった。

また朝鮮では、1230年に鋳造銅活字の印刷が行われた。しかし銅活字の鋳造が盛んになったのは李朝時代(1392年以降)に入ってからである。1403年に太宗は朝鮮に書物が少ないことを遺憾として、数か月の間に数万個の活字を鋳造させたという。そしてその2,30年後に儒教を広めるために、その関連の書物の印刷が奨励された。

しかしながら印刷物の内容は、国が指定したものだけで、民間で自由に印刷することは許されなかった。こうしたことから印刷の普及には限度があった。そして印刷機が用いられずに、上からこすりつける方式だったために、やはり能率の悪いものであったと思われる。これはグーテンベルクの発明に先立つことわずか半世紀のことであるが、彼が果たして朝鮮の活字印刷方式やその印刷物を、知っていたかどうかを立証する史料は存在しない。

<グーテンベルク方式の優れた点>

これらの東洋の印刷方式と比べて、これから詳しく述べるグーテンベルク方式は、大量生産方式に極めて適した効率の良いのもであった。その際多くの研究者が指摘しているように、活字に用いられた文字が表音文字のアルファベットだったという事こそ、グーテンベルク方式を可能にした大きな利点であったというべきであろう。この表音文字の持つ特徴によって、それほど数の多くないアルファベット活字を、随時組み合わせて植字をして組み版が作られた。そしてそれを刷り版として印刷し、印刷が終わるとその組版を解体して、再び新たな組版を作るという方法がとられたわけである。

後に明治時代の初めに、西洋からこの活字版印刷術が日本に入ってきたとき、本木
昌造などの努力によって象形文字である漢字の活字が作られ、それを組版にして活字版印刷をするようになったわけである。しかし15世紀半ばという時代に、膨大な数の象形文字の活字を作って、さらにその組版を作ることを考える人が果たして現れたであろうか?

次に活字版印刷術のどういう点が、グーテンベルクの独創であり、発明だったのか、考えてみたい。
まず第一に活字であるが、金属活字の製造方法そのものは、ヨーロッパでもグーテンベルク以前から知られていた。鋳造業者は13世紀ごろから金属や木に文字を彫って砂の鋳型を作り、そこに溶けた金属を流し込んで活字を作っていた。ただこれらの活字はばらばらのままで、製本業者が書物の丈夫な背表紙にそれらの活字を打ち込んで、書物のタイトルを作っていたわけである。

グーテンベルクは活字の鋳造そのものに改造を加えたうえで、さらに活字を自由に組み合わせて組版を作って刷り版とし、その刷り版を用いて印刷する方法を考え出したわけである。この点にこそ彼の発明の独創性があったというべきであろう。

第二に、有名なグーテンベルクの印刷機がどのようにして製造されたかということである。この点においては、彼は地の利を得ていたといえよう。彼が生まれ育ったライン川中流域は、名高いワインの産地で、マインツやシュトラースブルクには、ブドウの実を絞るのに用いられた、らせん状の圧搾機があった。こうした圧搾機を、彼は子供のころからマインツやエルトヴィル近くのエバーバッハ修道院で見ていたはずである。また布の上に模様を押圧する機械や、写本を製本する工程で圧搾を加える機械もあった。グーテンベルクはこうしたものにヒントを得て、圧搾式(プレス式)の印刷機を発明することができたのである。ちなみにこの押し付ける圧搾機の意味から、のちにドイツ語のDruckや英語のpressという言葉が生まれたわけである。

第三に、彼が活字版印刷に適したインクを作り出したことも、やはり高く評価されよう。それ以前に筆写や木版印刷に用いられていたのは、油煙や煤煙を水と膠(にかわ)類で溶いた水性インクであった。これは金属活字にはのりが悪く、うまく印刷できなかった。ところが1401年に、フランドルの画家ヴァン・アイク兄弟によってワニスを用いた油絵具が作られた。そして煮沸アマニ油を用いた油性の印刷インクの製造も行なわれるようになっていた。グーテンベルクはこれらに改良を加えて、鉛合金活字にのりの良いインクを作ったのだ。

第四は、技術というよりは生産体制の問題であった。グーテンベルクは様々な職種の人々を一つの事業目的に結集して、効率よく生産していく共同事業体制を採用して、印刷の大量生産方式を確立したのである。こうした初期資本主義的な生産方式こそ、グーテンベルクが単なる技術者ないし職人ではなくて、優れた経営者でもあったことを証明するものだといえよう。

グーテンベルクの印刷機(マインツのグーテンベルク博物館内に展示されている復元された印刷機)

<グーテンベルク、マインツへ帰還>

その後、シュトラースブルクが外国勢力の略奪を受けるという出来事があったりしたが、グーテンベルクは1444年には11年間住んだこの町を離れている。そして空白の4年間の後、1448年に故郷のマインツに帰還した。故郷を離れた時は30歳前後の青年であった。それから20年近くたって、この時には既に48歳になっていた。活字版印刷術の原理をすでに発明し、その共同事業体において、ラテン語教科書「ドナトゥス」などの印刷・刊行は軌道に乗っていた。

マインツでは、昔住んでいた「グーテンベルク屋敷」に再び住むことになった。そこにはもともと仲の良かった義兄が住んでいて、この義兄がヨハネスに対して、屋敷への居住とその中に印刷工房を建てることを許可したのだ。そしてここでもシュトラースブルクでやっていたように、豊富な資金の融資を受け、印刷工房を建て、印刷機その他の設備を設置し、必要な備品を備える事ができた。

グーテンベルクはこの印刷工房で、ラテン語文法書「ドナトゥス」を、継続して印刷した。その後の10年間で「ドナトゥス」は実に24もの異なった版で発刊されている。しかしわずか28頁というこの小型の書物は、もともとが消耗図書であったためか、現存するものはすべて不完全なものばかりである。

とはいえこの小型の教科書は、マインツ最初の印刷工房の能力に見合ったものだったようだ。後の聖書やほかの作品が二段組みだったのに対して、この書物はまだ一段組であった。それは印刷機の加圧版の大きさや押し付ける力が限られていたことによるのだ。一枚の組版の中に、たくさんの文字を入れ込むのはまだ無理だったのだ。さらに高価な羊皮紙の在庫数や、活字が摩耗するまでの耐久度などから、一度の組版でたくさんの印刷部数を見込むことはできなかったのだ。

そのために「ドナトゥス」のそれぞれの版の印刷部数は、200部から400部だと推測されている。こうしてこの教科書は数年かけて、4800冊から9600冊が、「グーテンベルク屋敷印刷工房」で印刷されたものとみられている。

    ラテン語文法書「ドナトゥス」の一断片(パリ国立図書館所蔵)

ヨーロッパ中世の書籍文化

私はこれまでヨーロッパの書籍文化の歴史を研究してきた。その一環として、2004年10月に朗文堂から『ヨーロッパの出版文化史』と題する著作を刊行させていただいた。今回の「ヨーロッパ中世の書籍文化」は、その「第一章 グーテンベルク以前の書物の世界」に基づいて、その内容に多少の手を加えて書きあげたものである。

第一章 ヨーロッパ中世・写本の時代

<書物の製作は修道院で>

古代ローマ帝国が崩壊した5世紀末から12世紀まで、書物の世界はもっぱらキリスト教の修道院の中で展開されていたといえる。それに先立つ時代については、私がこのブログの中で5回にわたって書いてきた「ギリシア・ローマ時代の書籍文化」で詳しく述べているので、参照していただければ、幸いである。

それをお読みいただければ分かることだが、ローマ帝国後半の4世紀ごろから、書物の形態が、巻物状の「巻子本(かんすぼん)」から現在普通にみられる「冊子本(さっしぼん)」に大きく変化した。しかし書物は依然として、古代と同様に手書き(筆写)によって作られていた。ヨーロッパにおいては、15世紀半ばにグーテンベルクによって活(字)版印刷術が発明されるまで、基本的に写本の時代が続いていたのだ。

モンテ・カッシーノ修道院

たとえば西暦529年に聖ベネディクトゥスによって中部イタリアのモンテ・カッシーノに設立された修道院では、教会文書の書き写しが奨励されていた。この修道院はカトリック伝道運動の中心地となったのだが、創立者によれば、こうした筆写作業は神への奉仕事業の一つであったのだ。かくしてこの修道院の中には、立派な筆写工房が作られた。そして修道僧たちによって、キリスト教に関連した書物であった典礼書、聖者伝、聖書、教父の著作などが、せっせと筆写されていた。

やがて8世紀後半、フランク王国のカール大帝は、このベネディクトゥスのやり方を王国内のすべての修道院に見習わせた。そしてそれ以降に中・西部ヨーロッパに設立された修道院には、そうした筆写工房が作られるようになった。そこではキリスト教関連のものや、ギリシア・ローマ時代の古典作家の作品などが筆写された。そして製本された書物は修道院や聖堂内の図書館に保管された。これらの施設こそが、中世ヨーロッパにおける知識・教養及び伝統を保持し、後世に伝えていく文化機関だったのだ。

その実態については、日本でも翻訳書があるイタリアの作家ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』の中にいきいきと描かれている。ここでは北イタリアの修道院が舞台となっているが、当時の西ヨーロッパのほかの修道院でも、事情は大差なかったと思われる。この小説は1980年にイタリア語版が出版されたが、大評判となり、周辺のヨーロッパ諸国の言語に翻訳された。例えばその独訳は1982年に刊行されたが、その少しあとから私が長期滞在するようになった西ドイツでも、大ベストセラーとなっていたのをよく覚えている。西ドイツの高級週刊誌「デア・シュピーゲル」の書評欄では、『薔薇の名前』が数か月にわたってベストセラーの首位を占めていたからだ。その後日本語訳が1990年に刊行された。またこの小説は映画化され、「007」シリーズで名高いショーン・コネリーが主役を演じている。この映画のほうも、とても興味深い作品であったが、書籍のほうは一段と格調が高く、挑戦して読んでみる価値が十分あるので、お勧めする

『薔薇の名前』ウンベルト・エーコ著 河島英昭訳 東京創元社

ところがこうした知識や教養が宗教関係者によって独占されていたために、長い間これらは他の階層の人々から遮断されていた。そして写本としての書物も一般の人々の手の届くところにはなかった。ちなみに12世紀ごろの写本の販売量は、古代のヘレニズム時代(前334年-前30年、ギリシア風文化の時代)やローマ帝国時代(前27年ー後476年)の規模より劣っていたといわれる。

また13世紀に紙がヨーロッパに登場するまで、書写材料としては羊皮紙ないし子牛の皮紙が用いられていた。そしてこれらの素材は高価なものであったため、古いテキストを消してその上に新しいテキストを書くという事すら、まれではなかったという。

<大学の中に筆写工房が>

やがて12世紀になってヨーロッパに大学が生まれると、学問研究はもはや修道院や宗教関係者の独占物ではなくなり、大学の中にも筆写工房ができた。まず当時の先進地域だった北イタリアのボローニャやパドヴァ、あるいはフランスのパリなどの大学が、書物の生産と需要の新たなセンターとなった。

ローマ教皇の認可を受けて生まれた大学は、ラテン語を学ぶための文法書や、神学、哲学の書物あるいは医学や法学の著作を必要としていた。こうした書物は、修士や学士自身によって筆写され、さらに製本されて販売されていた。

中世の筆写生(木版画、パリ、1526年)

ただし、筆写生や製本工としての学生たちは、スタチオナリイと呼ばれた役人によって監督されていた。つまり出来上がった書物を学生たちが勝手に貸しあったり、コピーをとったりすることに対して、厳しい監視の目が光っていたわけである。現在の日本の大学で「コピペ」を悪用している大学生が問題となっているが、初期のヨーロッパの大学でも学生たちは、こんなことをしていたことが分かって、興味深い。それでも14世紀初めのパリ大学には、一定の範囲内で書物の販売を許可されたリブラリイという役職がうまれている。このほかパリには、民間の書籍販売人も出現していた。

当時のパリ大学は全ヨーッロパの知の焦点であったため、パリ大学の学者による著作物は、やがてそこに留学していた南独バイエルンやオーストリア地域出身の学生たちによって、故郷の修道院にもたらされた。そして14世紀にドイツ語圏の各地に大学が誕生すると、それら大学内の写本工房のスタチオナリイや写本販売者は、パリやイタリアの大学と同様の機能を持つようになってきた。

13世紀の写本(聖書の抜粋)

<その他の筆写工房>

いっぽう14,15世紀になると、修道院や大学のほかにも中級規模の都会に、一般の筆写工房が作られるようになった。その背景としては、主として都市において、書くこと(文章で表現すること)の重要性が増していたことがあげられよう。

都市間の争いごとや、都市、諸侯、聖職者間のもめごとは、しばしば公証人によって決着がつけられた。武器による戦争に先立って書類による戦いが行われたわけである。その際、争いの当事者は、教会法やローマ法を熟知していた大学出の法律家を、争いの場に送り込んだわけである。

この点でもイタリアが先んじていた。そのイタリアでは各地に都市が発達していて、都市の新興市民層は、言葉を操る術や博識の点で田舎貴族をうわまっていた。
そして彼らは一つの教養階層を形成するようになっていたのだ。そのため書物はこうした大商人階級にとって、実質的な意味を持つものとなっていた。かくしてイタリア各地の都市に筆写工房が生まれた。そこでは数多くの筆写生が、主として公正証書や商業文書の筆写を請け負っていた。また頼まれれば、彼らは一般の書物も筆写していた。

このころイタリアではすでに、マニュファクチャー方式で仕事をする巨大な筆写工房も出現していた。これらの工房では、装飾文字担当の画家が、筆写された書物に赤インクで見出しの文字や頭文字を描きこんでいた。高価な写本の場合は、さらに挿絵画家の仕事が加わり、芸術味豊かに、各章の飾りぶち、枠ぶち、装飾文字などが描かれた。

宗教関連ではない世俗的な文書や書物に対する要請は、アルプスを越えてドイツでも沸き起こり、やはり各地の都市で一般の筆写工房が誕生した。そして書物に対する需要の増大を促すことになった。そこでは12,13世紀の十字軍の遠征の後に各地に学校が設立されたが、その児童生徒用の教科書や読本も必要になっていた。

そのいっぽう、14世紀にはキリスト教徒の自由な協同組合組織ともいうべき「共同生活兄弟団」の手によって、宗教関係の聖書や祈祷書、さらには教科書などの筆写が商売として行われるようになっていた。その際ラテン語の宗教的文献は、当時の民衆が理解できる自国語に翻訳されたうえで筆写されていた。こうしたやり方で彼らは写本の売り上げを伸ばして、書物の民衆への普及を図ったわけである。この組織は1386年に設立され、オランダからドイツへ入っていった。そこには写本の正確さを監視する係もおり、彩色と製本はその技能をもった職人に依頼していた。こうした民間の聖職者による筆写工房は、一種の工場のような様相を呈していたといわれる。

「共同生活兄弟団」の筆写工房は、とりわけ当時のドイツで先進地域であった南ドイツの各地に点在していた。また南ドイツとはライン川をはさんで反対側にあったアルザス地方(当時はドイツ帝国領)にも、このような筆写工房はたくさんあった。なかでも大規模だったのが、同地方のハーゲナウで教師をしていたディーボルト・ラウバーが経営していたものであった。このラウバーが筆写工房を営んでいたのは、15世紀つまり1425-67年までの間であったが、この時期はまさにグーテンベルクが活(字)版印刷術の発明に取り組み、完成させた時期であったことが注目される。

ラウバー工房で製作された写本70冊が今日なお残っている。また読者向けの宣伝パンフレットの一つには、40点の作品が記載されている。そこには聖書、祈祷書、ドイツ語の叙事詩などのほかに、ラテン語で書かれた法律書や医学書などもみられる。ラウバー工房で製作された書物はアルザス地方にとどまらず、南はチューリヒ、コンスタンツ、東はヴュルツブルク、ニュルンデルク、そして北はライン川下流地域にまで運ばれていた。その生産量といい、販売ルートの広さといい、ラウバー筆写工房に匹敵するものは、当時のドイツには見られなかった。

グーテンベルクは若いころにこのアルザス地方の中心都市シュトラースブルクで、活字版印刷術のの発明に没頭していた。ここを含めた南ドイツ一帯には筆写工房が各地に点在していて、書物製作のための一種のマニュファクチャーも存在していたわけである。そしてこれによって需要の増大に見合った供給の増加がかなり図られたのだ。

  • このような一般的な環境の中で、書物の生産をさらに高めるための手段の改善つまり技術革新への要望が強まっていた、と考えてもおかしくはないであろう。印刷術の発明に対して、時代はまさに熟していたのである。

15世紀半ばの写本
(需要の増大に応えて製作された大量生品)

第二章 書体の重要性

<カロリングの小文字>

中世ヨーロッパでは、筆写するにあたって、文字の形というものが重視されていた。キリスト教(ローマ・カトリック)が浸透していた当時の西ヨーロッパでは、文字の形は、内面の姿勢や宗教的信条の表現であると、みなされていたからである。

そうした背景のもとで、キリスト教をフランク王国(カロリング朝)支配の要として重視していたカール大帝(在位768-814)は、イングランドの神学者ヨークのアルクィン(735頃ー804)に依頼して、文字改革を実行させた。その結果、カロリングの小文字と呼ばれる新しい書体が生まれた。これはカロリング・ルネサンスと称される文化運動の一環として行われたものであった。当時の俗化したラテン語に対して、古典を模範にした正しいラテン語を復活させるための運動だったのだ。

 

カロリングの小文字(9世紀、ザンクト・ガレン)

この結果ラテン語教育が盛んとなり、修道院ではこのカロリング小文字で多くの写本が作成され、古典文化の遺産が継承されることとなった。そしてこの書体は、やがてローマ・カトリック教会の影響力が及んでいたすべての地域(西ヨーロッパ地域)における統一文字となった。これはその後数世紀にわたって生き続け、ついには西ヨーロッパ諸国で用いられるアルファベットの小文字の基本形となったのである。

<ゴシック書体>

やがて13世紀になって、北フランスに初期ゴシックの書体が現れた。これは垂直方向に文字が屈折したもので、書き出しの細い線も、表現豊かに形成された。そしてゴシック建築と同様に、ゴシック書体も宗教的な効果を示して、内面化していった。つまり行と行との間隔、文字の上端と下端の間隔が狭くなり、ついには一ページ全体が、織物のように見えるようになった。このように成熟したゴシック書体に対して、テクストゥーラ(織物風)体という呼び名が生まれたのである。

テクストゥーラ体(15世紀半ばのラテン語聖書の一部)

この書体を使って、ミサ典書、詩篇、福音書などキリスト教の典礼文書が、ラテン語で書かれた。のちにグーテンベルクはその聖書を印刷するにあたって、このゴシック文字(テクストゥーラ体)に倣った活字を鋳造した。

いっぽうこの重々しくて読みにくいゴシック書体は、商人たちの書類や都市の裁判所の書類には向いていなかった。そこではもっと実用的で、速く書くことができる
書体を必要としていた。こうした要請にこたえるようにして、ゴシック書体の雑種やゴシックのドイツ書体が作られた。ゴシック書体の雑種は、表現力が豊かで、ラテン語ではない当時の各国語で書かれた世俗的な書物によく用いられた。またゴシック体のドイツ文字やイタリック体の文字は、公証人や商人によって、しばしば使用されるようになった。その後この二つの書体を基にして、ヨーロッパ各国の個性あふれる変種(ヴァリエーション)が生まれていったわけである。

<さまざまな書体>

いっぽうギリシア・ローマ時代の古典作品を研究していた人文主義者たちは、例のカロリング小文字を注意深く模倣して、それを洗練し始めた。この人文主義者の小文字が、今日一般にみられるローマン体の筆記体の原初形態だったのである。その一例がイタリア人文主義詩人のペトラルカの自筆の文字である。これはゴチコ・アンティクア体と呼ばれている。

人文主義詩人ペトラルカの自筆文字(1368年)

ペトラルカのゴチコ・アンティクア体から、さまざまなヴァリエーションが生まれていった。これはイタリアで出現したものだが、やがてドイツ人留学生によって、アルプスの北のドイツへともたらされた。

グーテンベルクは印刷用の活字を作るとき、その時代に存在していたさまざまな筆写文字の書体を用いていた。その際印刷すべき書物の種類に応じて、いろいろな書体を使い分けていた。ゴチコ・アンティクア体は、免罪符、小型の暦、大型のラテン語辞書などを印刷する際に使っていたのだ。

第三章 木版印刷の出現

<カルタと聖像版画>

グーテンベルクによって活字版印刷術が発明される少し前、ヨーロッパに木版印刷が現れた。それがいつ、どこで、どのよにして生まれたのか正確にはわからない。しかしその始まりがカルタや聖画像を大量に製作するという要請に従って、出現したものであることは、十分想像される。

カルタは西暦1120年、宋の徽宗皇帝治世下の中国ではじめて考案され、14世紀後半にヨーロッパに伝わったといわれる。そして14-15世紀世紀には、イタリアのヴェネツィアや南ドイツで、カルタの印刷は重要な産業の一つにまでなっていた。またこのころ宗教画の木版印刷がヨーロッパで盛んにおこなわれていた。その最初の製作年代は、14世紀の終わりの2,30年の間であったろうと考えられる。

木版「聖母像」(ブリュッセル図書館所蔵、1418年

印刷年代のはっきりした最古の木版画は、1418年という年号の入ったブリュッセル図書館所蔵の「聖母像」だとされている。そのほか聖像版画の多くは南ドイツの修道院から発見されている。それの初期製作の中心地のひとつがヴェネツィアであったことは、1441年の同市の議会布告によって明らかである。

以上のことから、カルタと聖像版画の印刷は、ほぼ同じころに、同じ地域で出現したものと考えられるのである。そして活字版印刷術が発明された1450年ごろには、木版による版画印刷の技術は、中央ヨーロッパ全土に広がっていたものと想像される。

初期の版画は「聖母像」、「聖クリストファ」、「十字架上のキリスト」など聖書の中の物語や、使徒の生涯からとったものである。ただその絵は極めて粗雑で、画線部分だけが印刷され、残りの部分はあとから着色されるか、または型紙で彩色されていた。これらはたくさんの信徒たちに売られていた大量生産品だったのだ。

いっぽうカトリック教会が金銭の支払いと引き換えに、宗教的な罪を許すための保証書として発行していた免罪符は、はじめは手書きであった。ところがこれもやがて木版印刷に変わり、素朴な聖像版画と一緒に、教会で売りに出されるようになった。聖像版画は、我が国の神社仏閣で売られている守り札と同じように、家内安全や商売繁盛を願うもので、旅の土産物として家に帰ってから、壁や戸口に貼られた。

これらの聖像版画は、画題から見て当然であるが、もっぱら修道院の内部で製作されていた。多年にわたって写本の製作に携わっていた修道院の写字僧の仕事であったのだ。同種のノウハウを持っていた者が、技術革新の波に乗って新たな分野に進出したわけである。

写字僧たちは、木に印刷用の版を彫り、印刷・着色の作業をしていた。ただ忙しい時には、修道院の外の画家に下絵を注文することもあった。そのようにして製作した聖画像を、彼らは教会の前に立つ市(いち)で大量に売りさばいて、修道院財政の確保に役立ていていたのだ。

<木版本の誕生>

15世紀後半の木版本の一部(文字はドイツ語)

以上のような版画から、やがてこれらを集めて一冊の本にした、いわゆる「木版本」が生まれた。この木版本は主としてドイツやオランダを中心に作られた。初期の版画には文字は伴わなかったが、やがて絵の下や絵の中に簡単な文章が書かれるようになった。そして一冊の書物に、そうした絵と文章が混じった版画がたくさん貼られていった。

それらの文字入りの版画は、我が国の和本と同じように片面刷りで、絵や文字が印刷されていない面を内側に二つ折りにして、書物の形態で製本された。これは紙を版木の上に置いてこすりつけて印刷するため、裏面には印刷できなかったのである。我が国の浮世絵などの版画を考えれば分かるように、この木版印刷は画像の印刷には適していたが、文字、とりわけローマ字のアルファベットの印刷には、一枚一枚版木に彫っていかねばならず、能率の悪いやり方であった。しかも版木は材質が柔らかくて、何度か印刷しているうちに摩耗して、文字や画像の輪郭がぼやけて、鮮明な印刷ができなくなるという欠点があった。

これら木版本の発行年月日を記したものを見ると、グーテンベルクの活字版印刷による初期の作品(1430年代)といくらも年月を隔てていないものもある。おそらく木版本と活字版本の最初の作品との間には、数年あるいは10数年の隔たりしかなかったとみるのが妥当なようである。

ギリシア・ローマ時代の書籍文化 05

その05 ローマ時代の図書館

第一章 ローマ人の私設文庫

<ギリシア文化の影響下に生まれた私設文庫>

ローマの場合、ラテン語による執筆行為は、ギリシアより数百年遅れて始まった。それは紀元前3世紀の末ごろのことであったが、最初はギリシア語作品の書き写しのようなものであった。とりわけギリシア出身のアンドロニクスやナエウィウスなどはギリシア語作品をラテン語に翻訳する形で、執筆していた。ローマ人がギリシア人と戦争したとき、ローマへ連行されてきた捕虜の中には、高い教養を持った一連の人々がいた。今あげた二人の人物は、いわばギリシア文化の使節として、略奪した多くの美術品に勝るとも劣らない重要な存在だったわけである。

共和政時代の政治家で文筆家の大カトー(前234-前149)のように、こうした傾向がローマの古くからの習俗にとって危険なものであるとした人もいた。しかし貴族層の中には、新しい思想を熱心に受け入れ、ローマ的なものと結びつけようとした人たちもいたのだ。たとえば政治家で将軍のスキピオ・アエミリアヌス(前185-前129)は、ギリシア人の歴史家ポリュビオス(前200-前118)を友人として自分の家に受け入れていた。彼とスキピオとの間の友情が、書物を一緒に読み始めたことから生まれた事を、ポリュビオス自身その著作(『歴史』)の中で証言しているのだ。これらのことからスキピオの家には、ギリシア文学の作品をたくさん集めた私設文庫が存在していたことが推測される。

またアエミリウス・パウルスが前168年にマケドニア王ペルセウスとの戦いに勝った時、その図書館の蔵書を略奪して、文学好きの自分の息子たちに贈ったことは、先に述べたとおりである。ペルセウス王のこの蔵書は、ローマ人の手に落ちた最初のまとまった文庫だったといわれる。

<スッラの私設文庫>

同じく政治家で将軍のスッラ(前138-前78)はアテナイにおいてアペリコンの文庫を手に入れたのだが、その中にはアリストテレス及びテオフラストスの書物が含まれていたため貴重なものであった。スッラはナポリ湾北岸のクマエに別荘を持っていたが、文庫はたぶんそこへ運ばれたものと思われる。そしてその息子のファウストゥス・スッラが、父親から別荘と文庫を受け継いだ。
この息子は貴重な蔵書を自分だけで独占しなかった。そのため同時代の名高い政治家で文筆家のキケロはその別荘を訪れて、私設文庫の蔵書を読むことができたという。「私はここファウストゥスの文庫を読んで、楽しんでいる」と、キケロは前55年4月に友人のアッティクスに書き送っているのだ。そのうえキケロは後に、この文庫から貴重な書物を手に入れている。それは大浪費家のファウストゥスが金に困って、その蔵書を競売にかけることになったからである。

<ルクルスの私設文庫>

スッラの忠実な部下として小アジアに遠征した政治家で将軍のルクルス(前117-56)も、ポントスのミトラダテス王からの戦利品として持ち帰った書物によって、その別荘に私設文庫を作った。そして政界から引退した後は、学問・芸術の愛好家として生活を楽しんだ。ローマで最も富裕で食通でもあったルクルスは、上流貴族の「殿様」であった。狭苦しい雑踏と古いしきたりに縛られた首都のローマから離れて、広々とした田舎の領地で、ギリシア的理想が刻まれた生活を送ったのである。豪壮な邸宅、柱廊玄関、庭園そして美術品を展示した広々としたホールを備えた別荘で、殿様たちは公務を離れて文学や芸術三昧の暮らしを享受していたのだ。

彼らは自ら朗読したり、文学奴隷に朗読させたり、詩や散文を作ったり、客人と知的な会話を楽しんだりした。ルクルスの生涯に関するプルタルコスの記述(『対比列伝』42)を見てみよう。「書物を得ようとする彼の努力には、真剣な配慮が感じられた。彼は多くの美しい書物を集めた。・・・そしてその文庫を誰にも開放し、屋敷内のロビーやラウンジにギリシア人がいつでも入れるようにしていた。その詩神の館にやってきた人々は、日常の仕事から逃れて、一日を互いに心行くまで過ごすことができた。しばしばルクルス自身そうしたロビーにやってきて、学者たちの議論に加わったりした。」

<キケロの私設文庫>

共和制末期(前1世紀)の代表的な政治家で文筆家であったキケロは、自分の私設文庫について友人のアッティクスとの文通の中で、再三にわたって触れている。スッラやルクルスのような将軍ではなかったため、キケロは戦利品としての文庫というものを所持していなかった。そのため彼は書籍を集めるために、相当の財政的負担を負わねねばならなかった。とはいえキケロは、ローマのパラティヌスの丘の上にあった住宅のほかに、少なくとも7か所の別荘を持っていた。そしてこれらの別荘に、その蔵書を分散して保管していた。

彼が前68年にトゥスクルムの別荘を買った時、数年前からアテナイに住んでいた友人のアッテイクスに、その別荘を飾るための美術品を探してくれるよう依頼したのと同時に、私設文庫のための書物をあつらえてくれるように頼んでいる。それに対して書籍商であったアッティクスは、ギリシアの作家たちの作品をひとまとめにしてキケロに送っている。その価格は相当な額になったはずである。そのためその費用をすぐには払うことができなかったが、それらを他人に手渡さないよう懇願しているのだ。その一方前60年には、友人のパエトゥスから、その異母兄弟の蔵書をそっくり贈与されるという幸運に恵まれている。

前58年に護民官ブルケルによってキケロは追放され、同時にその財産も護民官の暴力行為の犠牲になった。ところがその翌年には戻ることができ、元老院から活動再開のための補償金が支給された。こうした成り行きの中で、彼は再び私設文庫の蔵書を増やすために精力を傾けた。その手助けをしたのは、またしても友人のアッテイクスであった。その際図書整理の専門家として、ギリシア出身の文学奴隷二人が送られた。本箱および個々の巻物につける表題ラベルの製作の際に、彼らは大変な尽力をしたが、そのことについてキケロはアッティクスに感謝の言葉を伝えている。

<書籍発行者アッティクスの文庫>

これまでもたびたびキケロとの関連で登場してもらってきたアッティクスは、キケロとは縁戚があり、少年時代からの学友でもあった。そして古い家柄の貴族で、幅広く事業を営み、同時に学問的素養も深かった。そのため豊富な蔵書を備えた文庫を自ら所有しており、文化史的観点から見ても興味深い人物であった。ローマの七丘の一つクィリナリスにあった彼の邸宅には、文学的な素養を有し、同時に書誌学にも通じていたたくさんの奴隷が働いていた。キケロもこのアッティクスの文庫から、様々な恩恵を受けていたわけである。

キケロの兄弟クィントスは、自分のラテン語の書物を売って、ギリシア語の書籍を増やそうとした時、このアッティクスの援助を受けていた。その間の事情については、兄弟の間の文通にも表れている。

<その他の私設文庫>

もちろん当時のローマの百科全書的な大学者ウァッロも、大きな私設文庫を有していた。そしてキケロもそこの客人になったりしていた。しかしウァッロが前43年に追放の憂き目を見た時、その文庫も略奪にあったという。

帝政時代の数百年間、文学や学問に関心のあった人たちは、可能であれば、その都市の住宅または田舎の邸宅に、自分の私設文庫を持つことができた。文献上で伝えられている私設文庫の所有者だけでも、列挙すれば、次のような人たちの名前を挙げることができる。
ラテン文学第一級の詩人ヴェルギリウス、ペリシウス、シリウス・イタリクス、3世紀の無名詩人のサモニクス、顔の広い作家マルティアリスとその友人たち、さらにアヴィトス、小プリニウス及びその同時代人の学者セヴェレス、そしてアテナイオスとその「食卓の客人」ラレンシスなどである。それから注目すべきは、アウグストゥス帝の時代に活躍した建築家で建築著述者のヴィトルヴィウスが、ローマ人有力者の立派な邸宅を建てる際の設計プランの中に、当然のことながら、私設文庫を考慮に入れていたことである。

そのいっぽう多くの金持ちが知識人のふりをするために、自宅に立派な文庫をこしらえたりしていた。しかしその持ち主は邸宅に置かれていた書物をほとんど見ることをしなかったため、作家たちの格好の嘲笑の種にされていた。例えばペトロニウスの小説では、成り上がり者のトリマルヒオという金持ちが、ギリシア語とラテン語の蔵書を備えた文庫を自慢しているのだ。また2世紀にはルキアノスが、『たくさんの書物を買った無教養の人へ』という風刺的な小冊子を書いたりしている。そして哲学者のセネカは、書物の内容よりも、高価な巻物の輝く外観や象牙とヒマラヤスギでできた本棚を自慢する同時代に対して、厳しい言葉を投げかけているのだ。

ちなみにギリシア語の文庫とラテン語の文庫とを別々なものとみなすシステムは、都市ローマの公共図書館でも引き継がれた。そして古代末期になると、金持ちの教養人たちは、新しい信仰に帰依したにも関わらず、なお古い文化になじんでいた。そのため伝統的な分類のほかに第三のものとして、キリスト教の文庫というジャンルを作り出したのであった。

ローマ時代の私設文庫の蔵書規模については、古代からの伝承では、三つだけ数字が明らかになっている。まず後62年にわずか28歳で亡くなった詩人のペルシウスは、700巻の書物を残している。次いでスーダ百科事典によれば、文献学者のエパフロディトゥスは、3万巻の書物を所有していたという。いっぽう無名の詩人サモニクスは、父親から受け継いだ6万2千巻を、皇帝ゴルディアヌス二世に遺贈したという。ただこれらの数少ない事例だけからでは、一般的な結論をひきだすことは、もちろんできないが。

<ヘルクラネウムの「パピルスの館」>

紀元後79年に起きた南イタリアのヴェスヴィウス火山の噴火によって古代都市ポンペイが埋没し、その後の発掘によってその実態が解明されてきた。そのポンペイの近くにあった古代都市ヘルクラネウムもこの時埋没し、その後発掘された。そしてこの都市の一角にあった「パピルスの館」と呼ばれている別荘は、1750年代に地下の坑道の中から発見されたのである。その際豊富な美術品ならびに1800巻のパピルス文書(様々な大きさの巻物と断片)が取り出された。と同時に建物のしっかりした平面図を再現することができたのである。

     ヘルクラネウムにある「パピルスの館」の平面図。B=書庫

上の図面を見れば明らかのように、左側には左右に長く伸びたペリステュリウムと呼ばれる中庭があり、エクセドラと呼ばれる張り出しによって、右側の柱廊広間につながれている。そしてその横に居住部分のウィングが接している。これらペリステュリウムとエクセドラにおいて、数枚のパピルス文書が発見されたが、多くのパピルス文書は、右側のBと書かれた3メートル四方の小さな書庫で発見されたのだ。

発掘の状況については、イタリアの各地で古代遺品の調査にあたっていた有名なドイツ人の考古学者兼美術史学者ヴィンケルマンの報告から知ることができる。「文書保管庫に普通よく見られるように、壁の周囲には人間の高さぐらいの戸棚があった。そして部屋の中央には、両面に開かれたもう一つ別の戸棚があった。その周囲を人が歩いて回ることができた。」炭化して断片となった巻物を開いて、解読しようとする試みは、これまでたいてい失敗に終わってきた。しかし1969年になってナポリに、マルチェロ・シガンテを所長とする「ヘラクラネウム・パイルス文書研究国際センター」が設立され、パピルスを新鮮なパピルス溶液で扱うという方法が導入されてから、研究は大いに進展した。そしてパピルス文書の解読は、どんどん進むようになった。その推進役は、グリエルモ・カヴァッロで、パピルス学及び古文書学的視点から、研究が進められているわけである。

小さな書庫で発見されたパピルス文書の中身は、もっぱらギリシアのエピクロス派の哲学に関するもので、それらは大きく二つのグループに分類されている。一つは前3世紀から前2世紀にかけてのエピクロス及びその弟子たちの巻物であった。もう一つの大きなグループは、ガダラのフィロデモスの数多くの論文であった。このフィロデモスは前1世紀のエピクロス派の哲学者で、カンパーニャ地方に滞在していたことが確認されている。そしてこの人物の著作物の中からは、断片的なメモ、草稿から完成度のことなる様々な作品に至るまで、いろいろ見つかっている。そのためその部屋はフィロデモスの仕事部屋ではないかといわれているのだ。

フィロデモスはエピクロス及びその弟子たちの初期の作品を、たぶんアテナイでまとめて手に入れて、その別荘に運んだとみられている。またこの別荘のほかの場所で発見されたパピルス文書の中には、ギリシア語で書かれた、フィロデモスより後の時代の著作が数点と、わずかながらラテン語の作品が含まれていた。そしてそこには前31年にアントニウスとオクタヴィアヌスの間で行われた「アクティウムの海戦」を謡った詩もあったのだ。
このパピルスの館には、当時の習慣に従って、ギリシア語の書物とは別にラテン語の書物を保管した場所も作られていたことが、十分想像される。さらにフィロデモスの特別な仕事部屋のほかに、様々なテーマのギリシア語文庫が存在していたものと思われる。この別荘におけるさらなる発掘が期待されるところである。

<私設文庫の目録作成>

ところでこれらの私設文庫を整理分類するために、目録の作成が行われた。そうした目録はラテン語で  index(インデックス)と呼ばれた。これらのカタログは、ギリシア・ヘレニズム時代の「ピナケス」のような作り方がなされていた、と想像される。つまりそれらは単なるアルファベット順の著者別目録ではなく、書物の内容別の目録だったようだ。そうしたものとして例えば、悲劇作家の目録とか哲学者の目録などへの言及を我々は知っている。その際同じ著者の作品は、普通時代順に並べられている。小プリニウスは叔父の大プリニウスの作品を整理するにあたって、書かれた順に作品を並べて目録を作っていく、と述べているのだ。ともあれ個々の詩人の著作目録が普及し、例えば喜劇作家のブラウトゥスの作品目録などは、様々な文献学者によって作成されている、とゲッリウスは述べているのだ。

第二章 首都ローマにおける公共図書館

<カエサルの公共図書館設立計画>

共和制末期の混乱に終止符を打ち、独裁者になったのがユリウス・カエサル(前100年ー前44年)であった。そのカエサルが首都ローマに、最初の公共図書館を設立する計画を立てたのである。この図書館は、それまで私設文庫で行われていた習慣に従い、ギリシア語文庫とラテン語文庫の部屋を分けて作り、蔵書はできる限り広範に集めるべきとされた。そしてその図書館が公共のものであり、限られた学者層だけが利用できる(アレクサンドリアのムセイオンの図書館のような)ものであってはならないともされた。

その際独裁官カエサルは、書物の調達や整理分類の仕事を、ギリシア人の文献学者ないし作家ではなくて、ローマ人の偉大な学者ウァッロに委託した。ウァッロはそれまでに文庫について三巻にわたる専門書を書いていた人物であった。そこにカエサルの、ローマという国に対する愛国心が読み取れるのである。つまり新興のラテン文学をギリシア文学と肩を並べる同等の存在とみなしたわけである。
しかし独裁官カエサルが前44年に暗殺されてしまったため、この公共図書館設立の大計画は実現しなかった。そしてウァッロも身の危険にさらされたのであった。

その後、首都ローマの最初の公共図書館の設立者として、ポッリオという人物が歴史にその名を刻むことになった。ポッリオ(前76-前4)はカエサルの側近であったが、カエサル亡き後も、前40年に執政官にまで昇進した。そしてその翌年にはマケドニアに遠征し、イリュリア人を打ち負かして、ローマへ勝利の凱旋を行った。文献資料が伝えるところによれば、その時の戦利品を基にして、彼は前39年に図書館を設立することができたという。戦利品であった書物は、のちのトラヤヌス広場の近くにあった建物の一部をなしていたアトリウム・リベルタティスに運び込まれた。そしてポッリオはその建物を見事に改築して、立派な図書館にしたのであった。建物の中には、当時なお生存していたウァッロの彫像ならびに過去の偉大な著作者たちの彫像が飾られた。

<アウグストゥス帝の公共図書館設立>

首都ローマにおける第二の公共図書館は、カエサルの甥で、ローマ帝国の事実上の初代皇帝であったアウグストゥス帝(前63-後14年)がパラティヌス丘の上に建てたものである。そこには様々な私的な部屋の数々や、公共的性格の部屋を含んだアウグストゥスの館のほかに、前28年に建てられた豪華なアポロン・パラティヌス神殿と柱廊玄関施設があった。そしてこの柱廊玄関の東側に、二つの図書館の建物が接していた。ここでもギリシア文庫とラテン文庫が、別々の建物に収蔵されたのであった。

図書館が神殿や支配者の宮殿近くに建てられたのは、アレクサンドリアやペルガモンの場合と同じであったが、守護神はアテナ女神ではなくて、アウグストゥスによってとりわけ崇拝されていたアポロン神であった。この図書館の創設にあたっては、アウグストゥスはギリシア出身の詩人で、属州の総督を務めていたポンペイウス・マケルに全権を委任した。そしてパラティヌス図書館長の職は、文献学者のユリウス・ヒュギヌスに委嘱された。この人物は同時に多くの生徒に授業をしたり、時として友人の世話になったりして生活を支えていたという。つまり図書館長職というものには、あまり高給が支払われなかったようだ。そして図書館の下位の職務は、皇帝の奴隷たちによって遂行されていたのだ。

ラテン図書館の蔵書の重点は、明らかに法律関係の書物に置かれていた。とはいえそこには、同時代の文学作品も欠けてはいなかった。つまり当時の代表的な作家のホラティウスの作品は収蔵されていたわけである。ただ皇帝の不興を買って追放された詩人のオヴィディウスの著作は受け入れを拒否されていた。

いっぽうパラティヌス図書館には、有名な詩人や雄弁家の彫像あるいはアポロン神像などが飾られていたが、この建物は元老院の会議室としても使われていた。ところがネロ帝(在位:後54-68)ないしティトゥス帝(在位:後79-81)の時、この図書館は柱廊玄関を含めてすべて大火の犠牲になった。そしてドミティアヌス帝(在位:後81-96)によって再建された。その時同皇帝はアレクサンドリアに人を派遣して、書物の筆写を行わせ、図書館の所蔵書物にしたという。そののちこの新図書館は、後191年コンモドゥス帝の時に火事に会い、さらに後363年、アポロン神殿が炎上したとき、最終的に消失したという。

アウグストゥス帝の下では、もう一つ図書館が設立された。それは皇帝の姉君をたたえて「ポルティウス・オクタヴィアエ」と称した、四角いホール状の建物であったが、そこには名高い美術品が収蔵されていた。またそこに収められた書物は、ダルマティア征服の際の戦利品であった。この図書館の落成式は、前23年に亡くなった息子のマルケルスを記念して、姉君オクタヴィアによって、執り行われた。その初代館長には文法学者のガイウス・メリススが皇帝によって任命された。ここもやはりギリシア文庫とラテン文庫に分かれていた。

<ティベリウス帝の公共図書館>

第二代皇帝ティベリウスの下でも、公共図書館が造営された。それは神格化されたアウグストゥス帝のためにティベリウス帝によって建てられた神殿の近くに設けられた。そしてその名も「アウグストゥス神殿図書館」とか「新神殿図書館」とかと呼ばれることになった。その場所はフォルム・ロマーヌムの中の南に位置していた。この図書館も後79年に焼失し、のちに第11代ドミティアヌス帝(後81-96)の時に再建された。

ところでローマ帝国初期の公共図書館の収蔵図書選定にあたって、皇帝個人の文学的嗜好によって左右されるところがあったことを、スエトニススのティベリウス帝伝の記述が明らかにしている。「彼(ティベリウス帝)はエウフォリオン、リアヌス、パルテニウスを模範にして、ギリシア風の詩を書いていた。彼はこれらの詩人たちが大変気に入っていたので、公共図書館の中でも、それらの詩人の著作や肖像を、古典期の著名な著作家たちの間において、飾っていた。そのため数多くの学者たちは、できる限りたくさんこれらの作家について注釈して、ティベリウス帝にそれらを献呈していたのだ」

<平和神殿域内の公共図書館>

後75年に皇帝ヴェスパシアヌスは、平和神殿の落成を祝った。

        平和神殿と図書館ホール。復元された平面図。

上の図に見られるように、平和神殿の広大な敷地内には、平和の女神の聖域のほかに、二つの図書館ホール(公共図書館)が存在していた。その図書館の熱心な利用者であった作家のゲッリウスによれば、そこで彼は古い時代の文法学者の珍しい著作を閲覧することができたという。後191年、この平和神殿は、図書館ともども火災に見舞われたが、その際古代ローマ最大の医学者ガレノス(後130-200)の医学書も焼失した。この神殿の再建は、第21代セヴェルス帝(後193-211)のもとで行われた。この再建された平和神殿は、後4世紀の歴史家マルケリスによって、首都ローマの素晴らしい豪華建築物と呼ばれているのだ。またほぼ同時期の『ヒストリア・アウグスタ』の中でも、そこの図書館について触れられている。
前にも述べたように、とりわけこの平和神殿周辺の道路や小道には、数多くの書籍商が集まっていた。そして図書館で、ある著作を読んだ後その購買を決めた図書館利用者は、そのすぐ近くで自分の希望が叶えられたのであった。

<トラヤヌス帝の公共図書館>

トラヤヌス帝(在位:後98-117)は、ダマスクス出身の宮廷建築家アポロドロスの傑作ともいうべき巨大な公共広場の一角に、ローマで最も重要な図書館の一つを作った。この大建築プロジェクトを実現させるためには、カピトリヌスの丘とクィリナリスの丘を結んでいた丘の鞍部を平らにする必要があった。そのためポッリオが首都で最初の公共図書館を設立した場所であったリベルタティス・アトリウムも取り壊された。その際ポッリオの図書館の収蔵図書が、新しいトラヤヌス図書案に移し替えられた、という事も十分考えられる。

         トラヤヌス帝の図書館。復元された平面図。

上の図に見られるように、二つの図書館のあいだには、皇帝のダキア戦役の記念レリーフのついたトラヤヌス記念柱が建てられた。またこの二つの図書館には、それぞれギリシア文庫とラテン文庫の書物が収蔵されていたわけである。ただし建物のレンガに、後123年という刻印が刻まれていることから、その完成は次の皇帝ハドリアヌス帝の時であったことが推測される。そのことは、その正式名称が「神として崇拝すべき(つまり死せる)トラヤヌス帝の図書館」であることからも分かるのである。

この図書館の利用者の中に、またしても作家のゲッリウスの名前が登場する。彼はそこで元来別の文書を探していたのだが、思いがけず古い時代の法務官の告示(法令集)が手に入った、と書いているのだ。そしてトラヤヌス帝をたたえる神殿にちなんで「トラヤヌス神殿図書館」と記している。

<首都ローマのその後の公共図書館>

これまで首都ローマの代表的な公共図書館をいくつか紹介してきたが、全体としてその数は幾つぐらいあったのであろうか。コンスタンティヌス一世(在位:後306-337)の時代のローマ市に関する記述によれば、公共図書館の数は28を下らなかったようだ。ただしこの中には大きな浴場施設内の図書館も含まれていると思われるが。

後4世紀末に、歴史家アミアヌス・マルケリヌスは、その時代に良風美俗や古い文化が失われたと嘆いているのだが、その中で図書館についても触れている。「以前には学問の保護奨励に携わっていた数少ない家々は、今や気晴らしや退屈しのぎの営みに満たされ、そこからは歌や弦楽器をかき鳴らす音が響いてくる。そしてしまいには学者の代わりに歌い手を、雄弁家の代わりに道化師を呼んでくるといった始末だ。図書館は墓場と同様に、永遠に閉鎖されてしまった。」

このアミアヌスの記述は、ローマの公共図書館がこの時代にその門戸を永遠に閉ざしてしまったことを示すものとして、古代の図書館に関するたいていの著述に引用されてきた。しかしこの見解は訂正する必要がある。そこでアミアヌスは公共図書館について全く触れずに、元老院階級の金持ちの私設図書館について述べているわけである。しかも彼が描いた状況は過度に暗い。
ところがこうした上流階級に属した人々の中にも、古典文化の遺産を意識的に保存していた人もいたのだ。例えばシュマンクスとその仲間たちの存在を思い浮かべることができる。その際彼らはますますエリート化し、当時増え続けていたキリスト教信者の大衆からは、ほとんど共感を得られなかった。つまりこうした階級の人々の間で、異教的精神文化の遺産が、いわば遅咲きの花となって咲いていたわけである。しかしこれらのエリートの古典作家の著作物保存への努力によって、ホメロスやヴェルギリウスといった作家の作品の豪華冊子本のいくつかを、今日われわれは見ることができるのである。

ローマの公共図書館の一つが後5世紀になってもなお活動していたが、それはトラヤヌス広場の図書館であった。前にも述べたように、アポリナリスは、後450年ごろ、そこに立っていた著作家たちの彫像の中の一つを手に入れたのである。とはいえその直後に、都市ローマの一般的な窮乏化によって、古い公共図書館は終末を迎えることになった。

<キリスト教の図書館>

ローマにおいて古い皇帝の図書館が後5世紀まで存続していたとしても、新設のものはもうなかった。このころになるとキリスト教会だけが、精神的ならびに物質的財産を所有していたのだ。そうしたキリスト教の図書館は、もちろん意図的に、その蔵書の中身をキリスト教に合致したものにしていたことは言うまでもない。ただしその蔵書の分量はわずかで、主として聖書に限られていたと思われる。そしてそれらの書物は教会の内部に保管されていたのであろう。そうした実例としては、ノラのバウリヌスがカンパーニャ司教座のフェリックス・バジリカの中に作った図書館を挙げることができる。

しかし初期の教皇の伝記集に伝えられていることだが、教皇ヒラリス(在位:後461-468)が教皇宮殿の近くの洗礼堂のわきに建てた図書館は、そうしたものではなかった。そこには二つの図書館つまりラテン文庫とギリシア文庫の二つがあったが、それは都市ローマにあった皇帝の公共図書館の伝統を受け継いだものであったのだ。

後6世紀になると、そこからあまり遠くない現在のサンクタ・サンクトゥルム礼拝堂の地下の発掘によって見つかった、新しい図書館が建てられた。その発掘の際に、読書する聖アウグスティヌスを描いたフレスコ画の断片が発見された。古代末期及び中世には、ラテラノ大聖堂周辺には、歴代教皇の宮殿や仕事部屋があった。教皇ヒラリスの図書館及びサンクタ・サンクトゥルムの地下の図書館は、さしずめ後のヴァチカン図書館の先駆的存在だったわけである。もう一つ別の、少し規模の大きな図書館が、カウェリウスの丘の聖ジョバンニ・エ・パオロ教会近くに建てられた。この建物はその一部が現存している。

第三章 ローマ帝国の各地における図書館

<イタリア地域の図書館>

帝政時代、公共図書館の設立は首都のローマに限られてはいなかった。イタリアに関して言えば、例えばヘルクレス・ヴィクトル聖域であるティヴォリに、図書館があった。この聖域の施設については、すでに共和制の時代から知られていたが、図書館はもっと後になってから作られたようだ。そのことについては、例のゲッリウスがここを訪れた時の様子を書き残している。(『アッティカの夜話』) ゲッリウスはその図書館でアリストテレスの著作を借り出したという。

帝政初期の政治家で著作家の小プリニウス(後61-113)は、ドミティアヌス帝の時代に、生まれ故郷のコモ市に対して公共図書館の設立基金を出し、その落成式には市民に向かって演説している。小プリニウスに対する記念碑には、図書館の運用資金として10万セステルティウス、建物及び内部施設の費用として100万セステルティウスを拠出したことが記されている。これだけの巨額の費用が掛かった建物であったが、残念ながら現存していない。

比較的小さな諸都市においても、民間人の基金提供によって、図書館が設立されたことは、ウォルシーの碑文によって明らかである。その碑文には、建物だけではなくて、書物や飾られていた彫像についても記されている。また北イタリアのピエモンテ地方のデルトーナには、前22年という早い時期に、図書館が作られているのだ。さらに「ビブリオテカ・マティディアーナ」という名称の図書館が作られたが、その名称からトラヤヌス帝の妹マティディアの寄付によるものと思われる。この図書館のホールでは、市参事会の会議も開かれていたという。
ただこうした散発的で、いわば偶然われわれが知ることになった碑文史料や文字史料だけからでは、イタリア諸都市の公共図書館が実際には、どのくらい存在していたのかを、明らかにすることはできないが。

<西部地域の図書館>

図書館の存在に対する文字資料の数の点で、イタリア地域よりもさらに少ないのが、ローマ帝国のラテン語を話す西部地域であった。それでも豊かで、高い文化水準にあったガリアや北アフリカの大都市に図書館があったことは間違いない。ローマに次いでラテン語を話す最大の都市であったカルタゴの場合、『黄金のロバ』を書いた作家のアプレイウス(後123ころー?)によって、図書館の存在が確認されている。この作家は魔術に関する容疑で起こされた裁判に際しての弁明演説の中で、公共図書館において魔術についての書物を見つけたと語っているのだ。

北アフリカ地域には、アプレイウスが訪れたものを含めて、いくつかの公共図書館が存在していたことが知られている。なかでもアルジェリアのタムガディの図書館は幸運に恵まれたケースといえよう。碑文にはロガティアヌスと称する市民が、自分の町の図書館の建物のために、40万セステルティウスの基金を出したことが記されている。この建物は実際の発掘によって、その構造が調査されているのだ。

それに対して現在のチュニジアにあったブッラ・レギアの建物の場合は、図書館といわれているが、実際にその目的に使用されたかどうか、実証されていない。また小規模な図書館(図書室)ならば、ギュムナシオン(学校)にもあった。そしてこれへの基金を拠出した帝政時代の富裕な市民が北アフリカにもいたことは、しばしば碑文を通じて伝えられている。

<旧ギリシア地域の図書館>

うち続く災厄と苦難の後に、今やローマ帝国の支配下にはいることになった旧ギリシア地域の諸都市にも、「ローマの平和」が新たな興隆をもたらした。これら豊かな地域が再び経済的・軍事的危機に見舞われるようになった後3世紀までは、文化領域においてもレヴェル・アップを図るために、皇帝と富裕な市民たちが気前の良さを競い合ったのであった。かくしてこの地域では、劇場、ギュムナシオン、高等教育機関と並んで、図書館もその新設が続いたのであった。

アウグストゥス帝の神殿、貴重な奉納物、そして図書館を擁した聖域であった、アレクサンドリアのセバステイオンは別として、コス島出土の碑文は、ギリシア地域における図書館建設に対する初期帝政時代の史料の一つである。基金の拠出者として、ガイウス・ステルティニウス・クセノポンの名前が記されている。この人物はクラウディウス帝(在位:後41-54)の侍医であるが、この皇帝の暗殺に加わったとされている。彼は次のネロ帝の時、有名なアスクレピオス聖域のあった故郷のコス島に戻った。そこで彼は医術の神の神官及び慈善家として務める傍ら、「皇帝及び住民のために、自分の懐から図書館設立の基金を出した」という。しかしその建物は、今日まで発掘によって実証はされていない。

同様のことが現在のアルバニア領のドゥラッゾにあった図書館に当てはまる。この図書館建設のために、フラヴィウス・アエリミアヌスと称するトラヤヌス帝の将校が17万セステルティウスを出した。ただその建物の完成を、この将校は剣闘士の闘技をもって祝ったといわれている。

さらにこのトラヤヌス帝(在位:後98-117)の時代には、雄弁家クリュソストモスによって、小アジアのブルサに図書館が建てられている。われわれはこの図書館については、小プリニウスが小アジア地方の長官時代に、皇帝トラヤヌスにあてて書いた手紙を通じて知っているのだ。当時この図書館をめぐって法律上の争いが起きたのだが、それは図書館内の列柱に囲まれた中庭に、この雄弁家が妻と息子のために墓を作ったのは、不遜なことだというわけである。ちなみに図書館内にはトラヤヌス帝の彫像があった。

またギリシア有数の都市コリントスの図書館は、その設立の日付が不明である。基金拠出者のファウォリヌスは先の雄弁家クリュソストモスの弟子であったが、その活躍の時期はハドリアヌス帝(在位:後117-138)の時代であった。その図書館はおそらくギュムナシオン内の図書館だったろうと推測されている。そしてこの雄弁家がコリントスを最初に訪ねた時、町の人々は図書館の中に彼の彫像を置くことによって、たたえたという。しかし10年後に彼が再び訪ねた時には、その彫像は外されていた。そのことを知ってファウォリヌスは、そうした栄誉のはかなさを嘆いたといわれている。

<アテナイの図書館>

アゴラ(広場)周辺でのアメリカ隊の発掘によって、その存在が確認されたアテナイの図書館は、まちがいなくトラヤヌス帝(在位:後98-117)の時代のものであった。アッタロスの列柱廊の南にある古代末期の防壁の中から、再利用された建築資材として、碑文入りの梁が発見された。その碑文によれば、ムーサイの殿堂の祭司を自称していたパンタイノスという人物が自分の息子、娘ともども、「外側の列柱廊、中庭、図書並びに内部設備を含めた図書館」のために私財を投じて寄付したのだという。図書館創立の年号は、皇帝の称号からいって後102年以前になる。

いっぽう古代の「旅行案内人」といわれるパウサニアス(後115-?)は、アテナイについて極めて詳しく記述しているのだが、このパンタイノス図書館については、全く触れていないのだ。そしていま述べた碑文がなかったら、建物のわずかばかりの残存物だけでは、図書館であることを認識できなかったであろう。古代の図書館に関する我々の認識は、このように現在まで残ったものがあるかないかといった、偶然性に依存しているわけである。

<アテナイのハドリアヌス帝の図書館>

その規模からいってそれほど目立たないパンタイノス図書館を、パウサニアスは単に見過ごしただけだと思われる。それに対して、ローマ皇帝の中でも極めつけのギリシア愛好者であったハドリアヌス帝の記念碑的な図書館については、パウサニアスもはっきりと敬意を表して述べている(『ギリシア案内記』)。とはいえアテナイにおいてはこの図書館は、なお建物の残存物がかなりみられるとはいえ、オリュンピエイオン、ハドリアヌス門、ゼウス神殿及びヘラ神殿を伴ったパンヘリオンなど、市がハドリアヌス帝の恩恵を被っている巨大建築物の中の一つに過ぎないのだ。アクロポリスの北に位置しているこの図書館は、同皇帝のアテナイ滞在中の後132年に建てられたが、孤立してはいなかった。それは隣接した講義室、列柱廊とエクセドラを伴った広い中庭などとともに、記念碑的な複合建築物を形成していたのだ。

ギリシア本土にはほかにも図書館の存在が確認されている。例えばゲッリウスは港町パトラスの図書館を訪れ、そこにラテン初期の詩人アンドロニクスの「オデュシア」の写本を見つけた(『アッテイカ夜話』)。そこに古代ローマ文学の宝物があったという事は、パトラスという所が属州アカエアのローマ総督の所在地で、同時にローマ市民の植民市であったことを考えれば、それほど驚くべきことではないのだ。ギリシア北部のフィリピもローマ市民の植民市であった。後2世紀のある碑文によれば、そこである慈善家が図書館の建物に基金を出したのだが、その建物の一部は現存している。

<ギリシアの聖域内の図書館>

都市と同様に比較的大きなギリシアの聖域が、後2世紀に新たな花盛りを迎えた。当時再び知識人たちがたびたび訪れる集会所となっていたデルポイにも、図書館が建てられたが、おそらくギュムナシオンの付属図書館であったろう。ルフスという人物の寄付によって、エピダウロスにあった有名なアスクレピオス(治療の神として広く信仰されていた)の聖域も、図書館で飾ることができた。

エピダウロス、コスに次いで後2世紀に図書館が作られた第三のアスクレピオス聖域がペルガモンにもあった。そこでの基金拠出者は、ある裕福な婦人フラウィア・メリテネであった。ペルガモン市参事会及び市民は、この慈善家に感謝して記念碑を建てた。またドイツの発掘隊の調査によって、図書館のホールに、同じメリテネからの贈り物であった「神ハドリアヌス」の彫像が発見された。

また各地のアスクレピオス聖域には、医科大学も作られていた。それらの施設は一義的に、現代のサナトリウムに匹敵するような医療施設だった。そのためこうしたアスクレピオス聖域の図書館は、医学の専門書というよりは、むしろ保養客のための「読み物」を備えていたものと思われる。

<エペソスのケルスス図書館>

小アジア西岸にあるエペソスにも、ローマの属州アシアの州都として栄えていた時に、ある民間人の寄付によって建てられた図書館がある。この図書館の建物本体は、古代の図書館の中では最も保存状態が良いとみなされている。

エペソスのケルスス図書館の正面。その壁面などに基金拠出者に関する碑文が記されている

とりわけ豪華な建物正面の柱の上に水平におかれた角材の上の大きな碑文、並びに建物奥の壁面に詳しく書かれた碑文によって、我々は次のことを知っている。つまりティベリウス・ユリウス・アクィラ・ポレマエアヌスが、「その全ての装飾、奉納品、書物とともに、私財を投じて、ケルスス図書館を」、その父ティベリウス・ユリウス・ケルスス・ポレマエアヌスをたたえるために、建てたという事を。この建築物の完成前に亡くなった息子のアクィラは、遺言によってその相続人に、利子付きで2万5千デナリウスを遺した。この金で書物を買い、図書館員の給料を払い、ケルススの誕生日の祝祭日に、図書館内のケルスス及び他の家族の彫像を花輪で飾るようにとの遺言であった。

ケルスス及びその家族は、ローマ市民権を持ったギリシア人で、帝国貴族階級の頂点にまで上り詰めた一族であった。ケルススは後92年に執政官に、そして106年または107年に属州アシアの総督になり、114年に亡くなった。その息子のアクィラは後110年に執政官になった。20世紀の初め、この図書館の発掘調査の時、ケルススの徳をあらわす四つの女性の彫像が発見された。それはソフィア(賢さ)、アレテ(有能さ)、エピステーメ(知識)、エイノア(分別)の四つである。それらの彫像はかつてそこに置かれていたのだが、今では建物正面の壁のくぼみの中に、その複製が設置してある。また外側の階段のわきの所には、かつてケルススの騎馬像が置かれていた。

それから図書館内部の半地下の場所に、ケルススの大きな石棺が置かれている。この巨大な箱は、その大きさからみてすでに建築作業の初めに、その場所に持ち込まれたものに違いない。つまりこの図書館は、最初からケルススを称える施設として計画されたものなのである。

<東部地域のその他の図書館>

いっぽうコリントス及びデルポイの図書館は、ギュムナシオンの中にあった、と推測されてきた。同様のことが、小アジアのキリキア地方の町ハリカルナッソスの図書館に当てはまる。後127年、町の有力者たちは、今日では無名の偉人である詩人のロンギニアヌスに対して、「その様々な詩作の披露を通じて老人を楽しませ、若者を益したというので」、度重なる栄誉を与え続けた。彼はハリカルナッソスの市民権を授与されただけではなく、法律に記された最高の栄誉を受けた。そしてその銅像を町の最も目立つ場所やムーサイの聖域あるいはギュムナシオンの中の「ホメロス」の彫像の横に建ててもらったのであった。さらに彼の著作を図書館に正式に収めることも決定された。

また医者で詩人のシデ出身のマルケルスに対しては、もっと大きな栄誉が与えられた。この人物は動物、植物、鉱物の治療効果に関する42巻に上る教訓詩を著しているのだが、ハドリアヌス帝及びアントニヌス・ピウス帝が、この作品をローマ市の図書館に収蔵するよう指示したのであった。さらに富裕な同時代人で、マルケルスの同僚であったヘラクレイトスに対しては、「医学的詩作のホメロス」という尊称のついた記念碑が建てられた。そして彼の作品の写本を、故郷の町及びアレクサンドリア、ロドス、アテナイに向けて贈り物にしたのであった。そしてこれらの書物は間違いなくそれぞれの町の公共図書館に届いた。

ローマ帝政時代には、伝統的な中心地と並んで、ほかの地域も名声を博するようになった。例えばキリキア地方のタルソスは、文法、雄弁術、哲学で知られ、ベイルートは法学の大学で知られていた。それらの地域では、おそらくそうした学問に対応した図書館が存在していたはずである。
リュディア地方のニュサにも、そうした高度な学問センターの一つがあった。この大学で学んだギリシア人の歴史家兼地誌家であったストラボン(前64-後23)は、その町に関する記述では図書館については触れていない。しかしその後ニュサには図書館が生まれ、今日なお建物のかなりの部分が残っているのだ。たぶん後3世紀にユリウス・アフリカヌスが書いているアルケイオンが、それであると思われる。

<キリスト教の神学者オリゲネスとカエサレア図書館>

特別な種類の図書館が、パレスティナの地にあった「カエサレア・マリティマ」であった。初期の最も重要なキリスト教神学者オリゲネスは、長年故郷の町アレクサンドリアで活動していたが、その地の司教と意見が衝突した。そして後231年に、パレスティナの港町で、精神文化の中心地としても知られていたカエサレアへ移住したのであった。その地でオリゲネスは、従来の異教哲学の手法を用いて、神学上、解釈学上の教職活動を活発に繰り広げた。そのため異教徒の代表を含めて数多くの生徒が、各地から彼のもとに集まってきた。

彼の授業の基盤は、実に豊富な独自の著作物と並んで、アレクサンドリアで習得した精緻を極めた文献学を用いた聖書解釈であった。オリゲネスの最大の業績の一つは、ヘブライ語のテキストと5つの主要言語による翻訳を含んだ6言語による聖書解釈である「ヘクサブラ」であった。豊かな文献に基づいた、そうした授業には、速記者、筆記者、校正者を抱えた独自の筆写工房が不可欠であった。オリゲネスがデキウス帝のもとで行われた拷問によって後253年に命を落とすまで、主として彼の著作を中心とする内容豊かな文庫が形成されたのであった。

カエサレアの学校とりわけその図書館は、しばしの停滞期間を経たのち、3世紀の末から4世紀の初め、つまり長老パンフィロス及びその弟子で、有名な「教会史」の著者であったエウセビオスの時代に、新たな興隆を体験した。個人的に良い関係にあったコンスタンティヌス大帝(在位:306-337)から、エウセビオスは、コンスタンティノポリスの教会のために、50巻の聖書をカエサレアの筆写工房で製作するよう委託された。

パンフィロスの下で3万巻を下らないと言われた図書館の蔵書は、エウセビオスによって、伝統的な「ピナケス」という表題を付けたカタログが作られて整理された。そして4世紀の末頃、司教エウゾイオスは、図書館に収蔵されていた古いパピルス文書の巻子本を、羊皮紙の冊子本に作り直させた。
首都ローマや帝国のその他の諸都市にあった公共図書館とは違って、オリゲネスによってカエサレアに設立された図書館は、その神学校の付属施設として永続的に存立していった。多かれ少なかれ「内部の人たち」によって独占的に利用されていたカエサレア図書館は、昔のアレクサンドリアのムセイオン図書館のやり方を引き継いでいたわけである。

古代末期に、とりわけ帝国の東方で栄えていた修道僧の共同体の多くには、時として書き写すために友人や信仰仲間に貸し出すことはあっても、一義的には自分たちで使用するための書籍コレクションがあった。
その一方書籍の普及という観点から、一般に開放された文庫もあったのだ。そうしたものは比較的大規模な教会によって作られていった。例えばカンパニア地方のノラ近傍のフェリックス・バジリカは、そうした図書館を持っていた。ノラの司教バウリヌスは5世紀の初めに、この教会を建てたのだが、同時に優れた詩人でもあった同司教は、詩の形で次のような言葉を残している。

「法つまり神の言葉について熟慮し、聖なる意思を持てる者は、
ここに膝まづき、聖なる書物にその注意を向けること可なり」

つまりこの教会を訪れたものすべてに対して、信仰の書、とりわけ聖書を読む機会が与えられていたわけである。

<コンスタンティノポリス帝立図書館>

コンスタンティヌス大帝はボスフォラス海峡に臨むギリシアのビュザンティオンを、コンスタンティノポリスという新しい名称のもとに後330年、帝国東半分の首都に定めた。その時この「新しいローマ」は古いローマと、政治面、文化面で同等であるべき、あるいは古いローマを凌駕すべきものとされた。

この地の最初の大規模な図書館は、その息子コンスタンティウス二世(在位:337-361)のもとで設立されたようである。357年1月1日に行われた皇帝の執政官職就任の儀式の際、雄弁家のテミスティオスは長い賛辞を述べた。その中には、それまで私設文庫に散在していたギリシアの詩人、哲学者、文法家の著作物を書き写し、それらの作品の消滅を防ぐために、書写工房を設立すべく、コンスタンティウス帝は国家の金を投じた、ということが述べられているのだ。そうした委託は事実上、図書館建設を意味しているわけである。雄弁家の言葉からは、さらにこの図書館が何よりも、コンスタンティノポリスの大学の利益に供すべきものだったことが分かる。

後361年に新しい首都に住むことになった異教の皇帝ユリアヌスは、自ら高い文学的教養を備えた人物であったが、この図書館に書物を寄贈しただけではなくて、新しい建物の建設のために寄付を行っている。さらにヴァレンス帝は後372年に、筆写人の数を、ギリシア文献に対して4人、ラテン文献に対して3人と定めたが、そのほか数人の補助員もつけた。その際筆写の仕事の中身は、古いパピルスの巻物を、新たに羊皮紙の冊子に書き写すことであった。

こうして12万冊の蔵書を所蔵するようになったコンスタンティノポリスの帝立図書館であったが、やがて後473年に焼けてしまった。その直後に新しい図書館が建てられたが、その蔵書数は神学書を含めて36,500冊にすぎなかった。そしてこの図書館もレオ帝治下の後726年に崩壊した。
コンスタンティノポリスの帝立図書館は、かつてアレクサンドリアのムセイオン図書館がしたような、すべての文献を集め保存することを目指した、古代世界の人々の最後の試みだったのだ。

ギリシア・ローマ時代の書籍文化 04

その04 ギリシアにおける図書館

図書館(文庫)と文書保管所

古代において「図書館」という概念がどのように理解されていたか、という事について、帝政ローマ時代(後2世紀)のラテン語文法学者のフェストゥスは、その大型の辞書の中で、次のように述べている。「ギリシア人にとっても我々(ローマ人)にとっても、bibliothecae(ビブリオテカ)という言葉は、多数の書物という意味と、これらの書物を保管しておく場所という意味の両方を指していた」。この後のほうの意味は、今日の「図書館」に相当するといえようが、実際には立派な建造物ではなくても、単に専門文献を含む文学的著作物のコレクションの保管所といった意味合いのものも指していたようだ。つまり日本語の「文庫」に相当するものだったといえよう。

いっぽう国家・行政・商業に関連した記録文書を保管するための「文書保管所」というものも、すでに古代に存在していた。これらの記録文書は、神の保証を受けた聖域の中にあった神殿に保管されるか、もしくはそれぞれの機関の建物の中に保管されていた。こうした文書保管所のことをギリシア語でarcheion(アルケイオン)と呼んでいたが、この言葉から後に、ドイツ語のArchiv(アルヒーフ)や英語のarchive(アーカイブ)が生まれた。現在ではアルヒーフは、公文書館とか古文書館とか、さらにフィルム、ビデオ、テープなど様々な種類の記録集ないしその保管所まで指す言葉にもなっている。英語のアーカイブも、しばしば複数形のアーカイブズで、同様の用い方をされている。そしてコンピュータ用語として、インターネットなどで、データなどの長期保管場所の意味で使われているという。

僭主たちの図書コレクション

帝政ローマ時代の随筆家ゲッリウスによれば、ギリシアで最初の図書コレクション(文庫)を作ったのは、前6世紀の僭主ペイシストラトスだとされている。後にそれはアテナイ人によって拡張されたが、前480年にペルシア王クセルクセスによってアテナイが攻略されたとき、その図書コレクションは略奪された。しかし前300年ごろ、それはセレウコス朝のニカノル王によって取り戻されたという。

また帝政ローマ時代に活躍したギリシア人の著作家アテナイオスも、その著作『食卓の賢人たち』の中で、ペイシストラトスは、もう一人の僭主ポリュクラテスとともに、偉大なる書物収集家であると語っている。ただその規模は、後のヘレニズム時代(前3~1世紀)の図書館と比べれば、ずっと小さいものではあったが、その存在を疑うことはできないとされている。

その主要な作品についてみると、ホメロスの詩歌(『イリアス』、『オデュッセイア』)を初めとして、叙事詩人ヘシオドスの作品(『労働と日々』、『神統記』)、初期イオニアの哲学者たちの著作、そしてさらに当時花開いていた抒情詩などであったと思われる。ペイシストラトスの家族は後にアテナイから追放されたが、彼の書物コレクションは引き続き拡張されていった。その内容は主として公共の祝祭の際に歌われたり、演じられたりした詩歌や演劇を書物の形にまとめたものであったと思われる。

もう一人の僭主ポリュクラテスの輝ける王宮には、医学者のデモケデスや、アナクレオン、イビュコスなどの「モダンな」詩人たちが集まっていた。アリストテレスによって「詩神の友」と呼ばれたヒッパルコス(ペイシストラトスの息子)は、抒情詩人のラスコスやシモニデスそしてアナクレオンもアテナイへ呼び寄せた。その際それらの詩人たちは、君主たちに彼らの詩作を献呈したものと思われる。当時そうした抒情詩や叙事詩は朗読されていただけではなく、書物(巻子本)の形に編纂されて読まれていたことは、少し後の時代の壺絵に描かれていることから、わかるのである。

アテナイ市民の個人文庫

先にも述べたように、少なくともアテナイでは書籍取引が前5世紀の後半に確立していた。ここで書籍取引というのは、書物が買われることを意味する。かくしてアテナイ市民のかなりの家庭には、ちょっとした書物のコレクションが存在していたことが、十分考えられるのだ。そして家庭によっては書物の収集が熱を帯びていて、かなり大量の書物が集められ、その結果「個人文庫」と呼べるほどのものもあったと想像できる。

そうした実例として、ソクラテスの弟子エウテュデモスを挙げることができる。これに関連して、先生と弟子の間で交わされた会話に耳を傾けてみよう。
「エウテュデモスよ、お前は本当に賢人とみなされる人たちから、たくさんの書物を集めたのかね。それに対してエウテュデモスは、ゼウスに誓ってそうですと答えた。続いてソクラテスは、私もできる限りたくさんの書物を集め続けるつもりだ、と述べた」(クセノポン『ソクラテスの思い出』)

またアテナイの最高執政官として前403年にイオニア式アルファベットをアテナイに導入したエウクレイデスも、大規模な書籍の収集をしていたものと見られている。このことは、先のアテナイオスの著書『食卓の賢人たち』の中で述べられているのだが、そこには三大悲劇詩人のひとりエウリピデスの名前も挙げられている。この作家について、喜劇作家のアリストファネスは、「彼の悲劇にはあまりも多く書物の上での知識が盛り込まれている」、と皮肉っている。

プラトンの文庫

ソクラテスの弟子でアテナイの哲学者プラトンも膨大な文庫を所持していたことが、多くの証言から明らかである。この哲学者は、入手困難な珍しい書籍でも、必要とあれば大枚を払っても手に入れようとした、と言われている。彼がピュタゴラス学派のフィロラオスの著作を購入したことも、知られている。さらにその弟子ヘラクレイデスを通じて、イオニアの町コロポンからアンティマコスの詩作を手に入れようとした。それから演技の身振りに関する研究のために、それまでアテナイでは無視されていたソフロンの戯曲作品を、わざわざシチリアから取り寄せている。ついでに言えば、プラトンはソフロンの身振り・物まねをとても高く評価していて、これらの書物を死の床の枕の下にまでおいていた、という。

ちなみにこのプラトンは、真に実在するのは善や美という観念(イデア)で、現実世界はその観念がいろいろな形をとって現れたものにすぎないとする「イデア論」を唱えた。そしてアテナイ郊外にあった英雄アカデモスをまつる聖域に、「アカデメイア」という学園を建て、たくさんの弟子を養成した。ここから学術、文芸、美術の殿堂を意味するアカデミーという言葉が生まれたのだ。

アリストテレスの文庫がたどった数奇な運命

アカデメイアでプラトンに学んだアリストテレス(前384-前322)も膨大な文庫を所持していたことは、間違いない。なぜなら彼の研究の仕方や学問上の著作物、そしてとりわけ彼によって創立された学園「リュケイオン」における教育・研究上の手法にとって、豊かな資料の収集が前提となっていたことは確かだからである。かくしてすでに何度も引用してきたアテナイオスの著作の中でも、アリストテレスは「偉大なる書籍収集家」と呼ばれているのだ。

<アリストテレス文庫の変転>

さてアリストテレスの死(前322年)の後、彼の弟子テオフラストスが「リュケイオン学園」運営の後継者となり、同時に「アリストテレス文庫」も引き継いだ。その後テオフラストスは彼の死後のことを、遺言の形で、次のようにするよう命じた。それはつまり庭園を含む学園の建物は、ストラトンおよびネレウスをはじめとした弟子の集団が受け継ぐこと。そしてのちに取得した書物やテオフラストス自身のコレクションを加えた「アリストテレス文庫」は、ネレウスが引き継ぐこと、というものであった。この遺言によって、ネレウスはストラトンではなくて自分がリュケイオンの学園長に選ばれたもの、と考えた。そして引き継いだ文庫とともに、小アジアのトロアスという町に移ってしまった。つまりこれによってアテナイのリュケイオン学園は、建物だけ残って、アリストテレスの原著作を含めた基本的な研究手段はなくなってしまったのだ。

いっぽうネレウスの死後、その文庫は故郷の町スケプシスの遺産相続人によって引き継がれた。しかしこの相続人は精神的な事柄に特別な関心を持たない人物であった。そのためそれらの書物は鍵をかけて建物の中に保管されることになった。そしてそれ以後アリストテレス文庫は顧みられることがなくなった。

ところがその地域を支配していたペルガモンの国王たちが、独自の図書館建設のために熱心に書物を探していることを、遺産相続人は知った。そして自分が管理している文庫が奪われることを心配して、文庫を地下の横穴の中に隠した。そしてそれらの書物は長い間、湿気と虫によって傷んだまま放置されていたのであった。

<アリストテレス文庫、再びアテナイへ。そして恣意的な改変>

その後時がたって、書誌学者のアペリコンという人物が、これらの書物を大量に買い取ることになった。そしてそれらの書物を再びアテナイに持ち帰り、写本を作らせることになった。その際彼は、巻子本の原本に生じていた傷んで判読できない部分を、まったく恣意的に埋め合わせていった。

先に述べた事情によって、「リュケイオン学園」に残ったアリストテレスの後継者の弟子たちは、彼らの先生の著作をわずかしか利用できなかったわけである。しかしそのあとの人々は、アペリコンが作った写本によって、確かに「彼らのアリストテレス」の全作品を利用することができたのであった。とはいえ、それらはひどく改変された内容のものであった。このアペリコンという人物は、(書物の内容に興味を示す)愛書家というよりも、書物を収集することに強い関心を持っていたコレクション・マニアともいうべき人物であったようだ。ついでに言えば、彼はまた、アテナイのメトロオンにあった文書館から、国家的決議に関するオリジナル文書を盗んだこともあるのだ。

<アリストテレス文庫、ローマへ。そして学問的な改訂>

さてこのアペリコンが死んだ直後に、ローマの将軍で政治家のスッラがアテナイの町を征服した。それは前86年のことであったが、アペリコンの文庫も戦利品として、スッラはローマへ持ち帰った。そしてやがてそれらの「アリストテレス文庫」は、文法学者のテュラニオンのもとに落ち着くことになった。
そしてこの文法学者は、この文庫に属していた書籍の中身をじっくり吟味して、学問的な改訂を加えていった。こうして一度は恣意的に改変された「アリストテレス文庫」は、内容的に元の形によみがえったのであった。そしてこれはのちにアリストテレスの作品目録を編纂する時に役に立った。アリストテレスは、哲学だけではなく諸学を集大成したことから「万学の祖」と呼ばれている。そして生前すでに弟子たちに多大な影響を与えていた大学者であったが、その作品はのちのイスラーム哲学や中世ヨーロッパの哲学・神学に大きな影響を与えた。その後さらに近代ヨーロッパにまでその学問。思想は脈々と受け継がれていったのだ。その意味で古典の継承という問題を考える場合、テキストをじっくり吟味していく文献学の存在が極めて大きいわけである。

ついでに言えば文法学者のテュラニオンは、小アジア出身のギリシア人地理学者ストラボン(前64-後21、その「地理誌」は、ヨーロッパ・北アフリカ・西アジア・インドの、史実から伝説までを記した史料的地誌)の先生で、同時にローマの代表的な政治家キケロ、カエサル、文人アティックスといった人達の友人でもあった。

<「アリストテレスの書物」の意味するもの>

ここではひとつのエピソードをご紹介することにしよう。後200年ごろ活躍したギリシアの著作家(主著:「食卓の賢人たち」)アテナイオスが伝えるところでは、エジプトのプトレマイオス二世フィラデルフォスは、アリストテレス及び後継者テオフラストスの書物を、ネレウスから買い取り、アレクサンドリアへ運ばせたという。この時テオフラストスの後継ぎであったネレウスは、かなりの苦境に立たされていた。一方ではネレウスは、アリストテレスの著作をエジプト王に渡すつもりはなかった。しかし他方では強力なエジプト王の使者を、冷たくあしらうわけにはいかなかった。そこで彼はしぶしぶ「アリストテレスの書物」の全てもしくは大部分を、エジプト王に売ったのであった。とはいえここで言う「アリストテレスの書物」というのは、実はアリストテレスによって書かれた書物ではなくて、アリストテレス文庫に所属していた書物であったのだ。ネレウスは「アリストテレスの書物」という言葉が持つ二重の意味を巧みに利用して、その場を切り抜けたというわけである。

いずれにしてもアリストテレスが自ら執筆し、公にした初期の著作の数々は、とてもよく知られていたし、注目もされていた、という事を古代の文献は明らかにしているのだ。それに対してアリストテレス及びその弟子たちによってリュケイオン学園の授業用に編纂された研究者向けの作品は、前1世紀のローマの著作家で政治家のキケロの時代以後になって初めて評価され、利用もされるようになったのである。それらは文法学者テュラニオンが編纂した改訂版を通じて、あるいは哲学者のアンドロニコスの研究以降になって初めて、人々の手に入るようになったのである。

アテナイにおける諸学園の文庫

前にも話したが、ネレウスがアリストテレス及びテオフラストスの文庫を携えて、引越しをしてしまった後、リュケイオン学園に書物のない状態が長く続いたわけではなかった。ストラトンがリュケイオン学園の学園長を引き継いだ後、再び書物が集められたからである。その次の学園長になったリュコンは、それらを引き継いだ。その際ストラトンは自分が書いた著作以外の作品をリュコンに遺贈することを、遺言に書いたのであった。

この事は後3世紀前半ごろのギリシアの科学史家ラエルティオスによって記録されているのだ。彼は多くの哲学者の伝記を著しているが、その中にそれぞれの哲学者が残した遺言の言葉を収録している。これは古代の書物や図書館のことを知るための重要な史料になっているのだ。

例えば快楽主義の哲学者エピクロス(前341-271)は、有名なkeposと呼ばれる庭園付きの邸宅の中に、哲学の学園を作っている。そしてその中に自分の文庫を作っているのだ。科学史家ラエルティオスはエピクロスについて、次のように書いている。「彼は第一級の多作家だ。彼によって著された巻子本の数は300巻に上るのだ。その著書の数の点では、すべての人を凌駕している。ちなみにエピクロス派の哲学である<快楽主義>というのは、瞬間的な肉体の快楽ではなくて、持続する精神的な快楽を得ることである」と。

プラトンの「アカデメイア学園」、アリストテレスの「リュケイオン学園」そしてエピクロスの学園など、アテナイにおける諸学園の文庫は、これらの機関が教育・研究のためにもっぱら必要とした書物のコレクションであった。決して公共的な性格を有していたわけではなかった。つまりそれらは国家的な施設ではなかったのである。

その組織のメンバーは私法上、一つの団体を形成していたのだが、その際そこの学園長は不動産の所有者であり、同時に文庫の所有者でもあった。ただしアリストテレスは、よそから来た在留外人として、土地の所有を許されていなかった。

そこで最大の価値が置かれていた授業や学問的な対話は、庭園の中や散歩の途上、あるいは柱廊を逍遥しながら行われた。そのためそこの文庫にとっては、まさに必要とされたときに手に取ることができる簡単な保管所があれば、十分なのであった。

アレクサンドリアの「ムセイオン」及び「付属図書館」

          古代アレクサンドリア市街図

    プトレマイオス一世ソテルの肖像がついたドラクマ銀貨

                 アレクサンドロス大王が東方遠征で獲得した地域

かのアレクサンドロス大王はその東方遠征の途上、前331年にナイル川のデルタ河口に一つの都市を作ろうとして、アレクサンドリアという名前を付けた。しかし大王は大帝国建設の途中、前323年に突然死亡したため、その武将プトレマイオス一世ソテルがアレクサンドリアを中心とするエジプト地域を引き継いだ。そしてそこを都として、プトレマイオス王朝を建国したのであった。                  その初代ソテルは、幼いころマケドニア王国のペラの宮廷でアレクサンドロスとともに、アリストテレスから直接指導を受けたといわれる。そのため長じてもなお、この国王は狭義のアリストテレス学派である逍遥学派への崇敬の念が強かった。そこへ逍遥学派の学徒であったファレロンのデメトリオスという人物が、その文化顧問として呼ばれたのであった。広い学識と多才ぶりが高く評価されてのことであった。

<ムセイオンの誕生>

デメトリオスは逍遥学派の理念を実現するものとして、「ムセイオン」と称する総合的な学術研究センター及びその付属の大図書館を、アレクサンドリアに建設することを提言し、それが承認されたわけである。この研究機関では、当時の学問全てが奨励された。それらは数学、博物学(動物学及び植物学)、天文学、物理学、医学そして文献学などであった。
ちなみに「ムセイオン(Museion)」という名称は、アテナイからの土産物であった。なぜならプラトンのアカデメイア学園やアリストテレスのリュケイオン学園の中心部には、文芸や学術をつかさどる女神たち「ムーサイ」の神殿が建っていたからだ。そしてこの言葉は、のちにミュージアム(博物館)の語源にもなったのだ。

前25年にアレクサンドリアを訪ねたストラボンによると、王宮のすぐ近くに建っていた「ムセイオン」には、リュケイオン学園において逍遥学派(ペリパトス学派)という名称のもとになった(逍遙する散歩道)が作られていた。そして談論風発の学者たちのために作られた、三方を柱廊によって囲まれた広場が続き、最後に会員達の食堂として使われていた大ホールがあったという。

ムセイオンの会員は、はじめプトレマイオス朝の王、のちにローマ皇帝によって任命された。この学術機関にはヘレニズム王朝の新しい時代精神がみなぎっていて、会員達には、最適な条件のもとに自由闊達な研究活動が許されていた。また、税の免除、住宅の貸与そして糧食及び固定給支給という形で、その身分が保証されていた。
同時にこれらの学者たちの緊密な共同体は、騒がしく、いらいらした雰囲気をあちこちにまき散らしていてもいた。そのため風刺詩人のティモンなどは彼らのことを、籠の中に閉じ込められて、餌を与えられるときに争ってばかりいる鳥にも似た「本の人々」などとからかっているのだ。

この学者共同体の長は国王によって任命された官僚であったが、同時に女神ムーサイ神殿の神官職もかねていた。またムセイオンの財政を担当していた財政官はtamiasと呼ばれていた。そして付属図書館の司書は極めて重要な役割を果たしていた。

<付属図書館の設立>

学術研究機関ムセイオンを設立したとき、初代プトレマイオス一世ソテルは、付属図書館も併設した。そして二代目のフィラデルフォスはこの図書館の拡張に多大な尽力を払った。その目標はすべての文献を一堂に集めるという野心的な試みであったのだ。それはあらゆる時代の、あらゆる民族の書物を集め、外国語の書籍はギリシア語に翻訳すべしというものであった。この翻訳活動の一つの実例が、いわゆる七十人訳聖書であったが、これはヘブライ語の旧約聖書をギリシア語に翻訳する事業であった。

図書館の蔵書の拡充に関する取り組みについては、先に述べたネレウスからの「アリストテレスの書物」の購入が、そのよい実例である。また今日の我々の目から見ればまさに過激だと思われるようなことまで行われたのだ。それはアレクサンドリア港に停泊していた船の中に積まれていた書物を、系統だって捜索したことである。書物が十分興味深いと思われた場合には、それは直ちに押収され、元の持ち主に対しては、大急ぎで写し取った写本のほうを返したのであった。そしてこのようにして図書館にもたらされた書物は、「船よりもたらされた(書物)」と書かれた特別な部屋に収められた。

もう一つの実例は、アテナイで前330年代に行われた国営写本を、15タラントンの補償金を払って借用したという話だ。それらは前5世紀の三大悲劇詩人の作品を政治家のリュクルクルゴスの命令によって公式に写し取られた写本であったが、国王フィラデルフォスによってアレクサンドリアの図書館のために借用された。そして写本が製作された後で、写本のほうが返却され、オリジナル作品はアレクサンドリアにとどめ置かれたという。

これが果たして真実なのか、あるいは競合相手のペルガモン図書館による悪意ある作り話なのか、分からない。しかしいずれにしてもこの話は、アレクサンドリア人のあまりに過度な収集熱を示す証言だといえよう。そしてこれらの書物が切望されたのは、そのテキストの内容によることもさることながら、その由来(ブランド)の持つ名声によるものでもあったのだ。またそうした状況は、偽造者によって悪用されたりしたこともあった。

<所蔵図書は49万巻>

初期ヘレニズム時代の史料に基づいて研究を行ったビザンツの学者ツェツェスから我々は、プトレマイオス二世フィラデルフォス時代の付属図書館の所蔵図書の数を知ることができる。それによれば1巻で完結している小規模な巻子本が9万巻、数巻に及ぶ大規模な巻子本が40万巻あった。合計して49万巻であるが、たとえばヘロドトスの『歴史』は9巻に及ぶ大規模なものであった。
この49万巻の巻子本は当時としては最大規模のものであった。しかしこの数字からは作品の数を知ることはできない。1巻の中にいくつもの作品が収録されている場合もあれば、一つの作品が数巻に及ぶものもあったからだ。また同じ本が2巻以上ある複本もかなりあった可能性もある。

<歴代の図書館長>

ビザンツのスーダ百科事典やパピルス文書などから、我々は歴代の図書館長の名前を知っている。それによれば、はじめの百数十年の間、著名な学者、作家、詩人が館長職を占めていた。それを列挙すると、初代がゼノドドス(前285-270)
二代目がアポロニオス・ロディオス(前270-245)、三代目がエラトステネス(前245-204)、四代目ビザンツのアリストファネス(前204-189
)、五代目アポロニオス・エイドグラフォス(前189-175)、そして六代目アリスタルコス(前175-145)と続いた。

しかしそのあとは一人の無名な軍人によって館長職が占められることになった。それは国王プトレマイオス・エウエルゲテス二世の反ギリシア的な政策によって、アリスタルコスをはじめとする学者たちがアレクサンドリアを追われることになったからである。その後、前120-80年の間は、再び一連の文法学者の名前がパピルス文書に挙げられているが、彼らは明瞭に図書館長とは記されていない。
いずれにしてもアリスタルコスがいなくなってからは、図書館長の地位の低下は紛れもないものとなった。

<蔵書の系統的な整理分類>

ムセイオンの付属図書館に課せられた課題は、できる限り完璧な形で書物を収集し、それらを系統立てて整理分類することであった。館長を初めとして多くの学者が総動員されて、分野別に著作者が分類され、その名前や作品がアルファベット順に並べられた。そして新たな写本が入ってきたときは、慎重に吟味して、適切な分類項目の中に仕分けされたのであった。

そうした分類作業に当たっては、文学についてはゼノドドスが叙事詩を、アレクサンドロス・アイトレウスが悲劇とサテュロス劇を、そしてリュコフロンが喜劇を担当するといった具合であった。それらの作業を総合してカリマコスが、その『ピナケス』(表札ないし看板)という120巻に及ぶ記念碑的作品の中で,全ギリシア文学の一覧表的な外観を作り上げたのであった。

この『ピナケス』は全体としては消失してしまっているが、のちの作家の引用に基づいて、そのある程度の姿かたちを知ることができる。それによれば、まずすべての文学は、叙事詩、抒情詩、雄弁術、戯曲などに分類された。そしてそれぞれの項目の中で、著作者がアルファベット順に並べられた。また個々の著作者には、簡単な経歴が添えられた。それからたぶんアルファベット順に並べられた作品が、その表題、書き出しの言葉、総行数をつけて並べられた。そうした作業によって、著作者の観点から言っても、その作品の観点からいっても、確固とした年代順の骨組みを利用できる点が重要であった。

これによって演劇の一般的な上演記録、とりわけアテナイの演劇の公式講演記録、そしてまた大オリュンピア競技会、イストミア競技会、ピュティア競技会などの優勝者のリストを知ることができたのである。それらはまた例えば、懸賞詩歌の年月日を特定する際にも重要であった。そうした詩歌はしばしば、スポーツ競技会の勝者のために書かれたからである。例えば抒情詩人のピンダロス(前518-446)の詩がよく知られている。さらに普通は地理学者ないし数学者として知られているエラトステネスの名前が、オリュンピア競技会の優勝者のリストに載せられていることが、わかるのだ。

このカリマコスの仕事の補足改訂に尽力したのが、アリストファネスであったが、この二人によって作られた『ピナケス』は、単にアレクサンドリア図書館の書物を探すためのカタログであるにとどまらず、ギリシア文学史の基盤を形成した偉大なる総合文献目録でもあったのだ。

<古典の改訂版の作成>

それに続いて次世代の学者たちが、次の段階へと一歩踏み出した。最初の段階では、文学テキストの筆写や伝承にあたって、正確な字句内容にはあまり価値が置かれなかった。そのせいで同じ作品でも、互いに食い違った内容のものや、語句の勝手な挿入や省略が行われたテキストが、世に出回ったりしていた。そのため、次世代の研究者たちは、著者のオリジナルな字句内容に立ち戻ることを、その課題としたのであった。
かくしてテキストの比較検討が行われ、古典の新しい版が作成されたのである。そしてレベルの高い読者のために本文批評や、とりわけ注釈をつけた版も作られたのだ。

この事については先に「書物の普及」の話の中で、ホメロスの詩歌を取り上げて、述べたことがある。その際前2世紀以降のパピルス文書が実際に発見された事によって、テキストの統一がアレクサンドリア図書館における文献学的な作業のたまものであったことも、述べている。
ローマ帝政時代の終わりに至るまで、文法的な問題の処理と並んで、注釈書の作成が、古代文献学の主要な課題であり続けた。エジプトにおけるパピルス文書の発掘物が、それに対する直接的な証拠となっているのだ。

<アレクサンドリアの図書館のその後の運命>

古代の他の図書館とは比べものにならないくらい、アレクサンドリアのムセイオン付属図書館は、現代においてもなお我々の気持ちを強く引き付けるものがある。この古代文献の巨大にして完璧なコレクションは、古代ローマの最大の人物であったユリウス・カエサルによって焼かれてしまった、と古来言われ続けてきた。

しかしこの昔からの言い伝えを、もう一度厳密に検証しなおしたカンフォーラは、カエサルの名誉を回復する形で、別の結論に達したという。カンフォーラが強調しているように、前48/47の冬に行われたアレクサンドリアの戦いで実際に炎上したのは、港湾地域にあった倉庫の建物であった。その中には当時穀物のほかに、(輸出用に指定されていた)4万巻の巻子本が置かれていた。しかし王宮内に設立されていた「ムセイオン」及び、その付属図書館は、この時燃やされることはなかったのだ。

古代アレクサンドリア市街図(モスタファ・エル=アバディ著『古代アレクサンドリアの図書館』P.19、中公新書) ここでブルケイオン地区内のムーゼイオンと記されているのが「ムセイオン」

上記の市街図をご覧になればお分かりいただけると思うが、倉庫と図書館及びムセイオンはかなり離れている。このアレクサンドリア戦争の少しあとエジプトを旅行したギリシア人地理学者のストラボンは、ムセイオンについてはわずかな記述しか残していない。しかも彼はこの施設が何らかの損傷を受けたとは、まったく書いていないのだ。

ところでローマ皇帝クラウディウスは学識のある人物で、ギリシア語とエトルリア語で、エトルリア人の歴史20巻とカルタゴの歴史8巻を著した。そして「アレクサンドリアには古い図書館とは別に、彼の名前の付いた新しい図書館も作られた。さらに毎年特定の日々に、エトルリアの歴史とカルタゴの歴史について図書館内のホールで朗読する催しが開かれた」(スエトニウス『クラウディウス伝』42)という。ただこの図書館のその後の運命については、何も分かっていない。

ただスエトニウスが伝えるところでは、ローマ帝政時代においてもなお、ムセイオンは依然として高い威信を維持していて、支配者の著作を受け入れ、その朗読が行われていたという。そしてまたムセイオンとその会員のことは、いろいろな著作やパピルス文書や碑文の中で、引き続き触れられていた。またハドリアヌス帝は彼の先生であるフェスティヌスをムセイオン館長ならびに付属図書館の館長に任命している。

先の研究者カンフォーラによれば、ムセイオン付属図書館の実際の終焉をもたらしたのは、紀元後3世紀に、パルミュラの女王ゼノピアとアウレリアヌス帝(在位:後270-275)との間に行われた戦争であったという。この時アレクサンドリアでは古い王宮のあったブルケイオン地区が破壊され、付属図書館も焼け落ちたのであった。しかし少し離れたところに位置していたムセイオンの施設は、このときも破壊をまぬかれたという。

ビザンツのスーダ百科事典に掲載されていたムセイオン最後の会員は、アレクサンドリアのテオンという人物であった。彼は著名な数学者で、後415年にキリスト教徒によって殺された学識ある女性ヒュパティアの父親であった。

<セラペイオン図書館>

上に述べたアウレリアヌス帝の時代に行われた付属図書館の破壊の後、アレクサンドリアの学者たちは、主としてセラペイオン図書館を利用していたようだ。その図書館は、上に掲げたアレクサンドリア市街図のなかの左側にあるラコティス・エジプト人地区の下のほうに書かれている「セラペウム」の中に建てられた。このセラペウムというのは、プトレマイオス三世エウエルゲテスによって開発された地区で、その中心に、エジプト人とその土地のギリシア人とを統合する意図のもとに国王によって建設された「セラペイオン神殿」があった。そしてその場所に作られたのが、「セラペイオン図書館」であった。

この図書館は、ムセイオン付属図書館がもっぱら研究者向けの学術図書館であったのとは違って、一般の人々にも公開されていた。そしてその蔵書は、42800巻の巻子本であった。49万巻を誇った「ムセイオン付属図書館」に比べれば、はるかに少なかったわけである。「セラペイオン図書館」は、一般に「娘(の施設)」と呼ばれていた。このアレクサンドリア第二の図書館に関しては、これぐらいのことしか、知られていない。

そして後391年、キリスト教徒の司教テオフィロス指揮下の熱狂的な集団が、異教の神が祭られているセラペイオン神殿を破壊したとき、その図書館も滅んだのであった。イギリスの歴史家エドワード・ギボンは、有名な『ローマ帝国衰亡史』の中で、この悲しい出来事について感動的に叙述している。

それはそれとして、「娘」は「母」よりも120年余り長生きしたわけである。ここで疑問になるのは、のちの時代になって、これらの図書館の元来の蔵書のうち、どれぐらいが残っていて、人々が利用できたのかという事である。それらが創立されて以来、すでに500年以上の歳月がたっていた。古代の文献については、時としてきわめて古い巻子本のことが伝えられることがある。しかしこれらの図書館のかなりの数の作品は、歳月の破壊力によって、損傷を受けたろう事は、容易に想像できる。その場合、系統的に新たなパピルスの上に写し直しが行われたものと思われるのだ。

ヘレニズム諸王朝の図書館

アレクサンドリアのムセイオン付属図書館は、プトレマイオス朝に大きな名声を与えた。そしてヘレニズム時代(前3~前1世紀)の他の王朝支配者たちにも、大きな刺激を与えたものと思われる。かくしてペルガモンにも、立派な図書館が建てられたわけである。そしてまたセレウコウス朝の首都アンティオキアにも図書館が建てられたが、そこは一般の人々にも公開されていたという。その館長には、アンティオコス王(在位:前223-前187)によって、カルキス出身の詩人エウフォリオンが任命された。

またローマの将軍パウルスが前168年にマケドニア王ペルセウスと戦って倒した時、戦利品としてそこにあった文庫本をローマに持ち帰った。そして文学好きの息子たちに分け与えたという。このことを伝えているプルタルコス(「対比列伝」アエミリウス編28)は、「国王の書物」という言い方をしているので、それらはペルセウス王の個人的な文庫であったかもしれない。これらの書物はすでにアンティゴノス・ゴナタス王(在位:前276-前239)の時代のさかのぼり、同王はその宮殿に詩人や学者たちを集めていた、という事を書いている現代の研究書もあるが、それはもちろん推測にすぎない。

もう一人のローマの将軍ルクルスは、黒海に臨む小アジアの国家ポントゥスの国王ミトラデス4世との戦いに勝ち、その戦利品としてこの国王の文庫をローマに持ち帰った。それは大きな箱に入った医学書で、最終的な勝者となったポンペイウスが自分のものにして、ラテン語に翻訳させたのであった(プリニウス『博物誌』)。しかしこうした文献によって推測できる実例よりはるかに数の多い「国王の文庫」が、実際には存在していたはずである。

こうした仮設の正しさへと我々を導くのは、例えばヘレニズム世界のはるか辺境に位置していたアフガニスタン北東部のギリシア植民都市アイ・ハヌムの宮殿にあった書物が発掘されたことにもよる。その建物は前2世紀に、ギリシア=バクトリア王エウクラティデス統治下に建てられたが、ほどなくして暴力的に破壊されたものであった。その破壊された層の泥の中から、パピルス製や羊皮紙製の巻物が発見されたが、それらのテキストは部分的には解読することができた。それらはギリシアの哲学的対話や戯曲の断片であるが、その文字形態は前3-前2世紀のエジプトのパピルス文書に極めて近いものである。

ローマの建築著作家ヴィトルヴィウス(「建築十書」)はギリシア人の住宅の構成要素として、図書館を考慮に入れている。その際彼はヘレニズム時代の王の宮殿を思い描いていたと思われる。そこから我々としては、そうした宮殿の中にたくさんの書物を入れることのできた、広々とした図書館があった、と想像できるのだ。

ペルガモン図書館

アレクサンドリアの図書館に次いでヘレニズム時代で最も注目すべき存在は、間違いなくペルガモン図書館であった。アレクサンドロス大王の死後、帝国はいくつかの地域に分かれて統治されたが、その一つが小アジアの西岸に作られたペルガモン王国であった。後継者の一人フィレタイロス(在位:前281-263)はペルガモン王国の最初の支配者として、王朝の基礎を固めた。その際巨額の銀を取得することによって、王国の財政的基盤を確立することができた。

かくして彼及びその後継者たちは、活発な文化政策を展開することができたのであった。その際彼らがライヴァルとみなしたのは、強大で財政力豊かなエジプトのプトレマイオス王朝であった。やがて後を継いだアッタロス家諸王(前241-前133)の文化政策は、その支配領域の内外に様々な建物を建てただけでなく、美術品の収集や図書館の建設にまで及んだのである。

ペルガモン図書館の基礎を作ったのは、アッタロス家の初代国王アッタロス一世(前241-前197)であった。図書館の建物は、女神アテナ・ポリアスの聖域にあった。次いで二代目の国王エウメネス二世は、その事業を継承し、さらに発展させていった。この点についてローマの建築史家ヴィトルヴィウスは、その「建築十書」の中で次のように書いている。「アッタロス家の王たちは文学の魅力に取りつかれて、それを享受するためにペルガモン図書館を建てたのだ」

この図書館は、「ムセイオン」の共同体のために作られたアレクサンドリア図書館とは違って、広く学問や文学に興味を抱いていた人々が利用できるように、という意図のもとに作られたものであった。いっぽう書物を集め、蔵書を増やすという熱意の点では、ペルガモンの支配者たちも、エジプトの先輩たちに負けてはいなかった。例えば「アリストテレスの書物」を彼らの図書館で所蔵しようとした時の事については、すでに述べた。またエジプトのパピルスがペルガモンに運ばれないという事態が発生したが、ペルガモンのエウメネス二世とエジプトのプトレマイオス六世との間の、図書館をめぐるライヴァル関係に、その原因を求めたローマの学者もいた。

とはいえ蔵書の分量に関しては。ペルガモン図書館はアレクサンドリア図書館に太刀打ちできなかったのだ。ペルガモン図書館は、なんといってもアレクサンドリア図書館のあとに建てられたわけであり、アッタロス三世(在位:前138-前133)の死後、ペルガモンはローマの属州にされてしまった。そのためその図書館は以前と同じような保護を受けることはできなくなったと思われる。

<ペルガモンにおける文献学的・学術的活動>

とはいえ、ペルガモンにおいても蔵書は豊富にあったため、熱心な文献学的活動が行われていた。アレクサンドリアでカリマコスがやったように、ペルガモン図書館の場合にも、「ピナケス」(標札ないし看板)の形で、批判的な書籍目録が作成された。その構成と形態において、このペルガモン図書館のピナケスは、あらゆる点で、カリマコスのものに対応したものであった。ただそれらは古代の文献史料には、常に匿名でしか引用されていないので、我々としてはこの重要な文献学的業績の編纂者の名前を挙げることができないのだ。

いっぽうペルガモンにおいても、偽の書物を除去し、古典の作家や雄弁家の本物の作品を確保しようとする努力がなされていた。そしてテキスト批判も行われていた。アレクサンドリアの文献学者たちは、アリストテレスの思考法に根差した合理的な方法に基づいて、もしある個所や言葉が同じ作家の他の部分に対応していなかったり、独自の慣習がみられなかったりした場合には、それらは真正なものではない、と断じられた。それに対してストア派の影響を受けていたペルガモンの人々は、まさに暗く、尋常ではない個所に隠された、比喩的な意味を探して、それらを真正なものとしたのである。しかしアレクサンドリアとペルガモンの間の文献学上の論争は、終わることがなかった。そうしたことは、古典の注釈の中で、今日なおみられることだが。

精神的なセンターとしてのペルガモン図書館は、数多くの学者たちに豊かな活動の場を与えた。次にそうした人々の名前をいくつか列挙することにしよう。まずアッタロス二世がローマ駐在公使の役を委嘱したマロスのクラーテスは、偉大なるホメロス学者として名を成した。ついでカリストス出身のアンティゴノスは、哲学者及び芸術家の伝記を書いた。イリオン出身のポレモンは、各地の地誌を書いて有名になった。またペルゲ出身のアポロニオスは、著名な数学者兼天文学者であったし、ビトンは軍事技術の専門的著者であった。さいごにアテナイオス(「食卓の賢人たち)によれば、カッサンンドレイア出身のアルテモンは、図書館及び書籍収集の専門書を初めて書いたという事だが、残念ながらその著作は現存していないのだ。

ギュムナシオン付属図書館

ヘレニズム時代の支配者たちが彼らの宮廷に建てた大図書館の話はこれくらいにして、次に学校施設としてのギュムナシオン付属図書館についてみてゆくことにしよう。我々はすでに前4世紀の喜劇作家アレクシスの作品の断片の中で、教師用ないし学校用図書館というものの存在を知ったわけである。これらギュムナシオン付属図書館は国家の管理下にある図書館として、ヘレニズム時代になって初めて登場したものであった。

そうしたギュムナシオンの一つに、後2世紀の地理学者で旅行家のパウサニアスが言及しているアテナイのプトレマイオンがあった。パウサニアスの言葉によれば、この施設はエジプト王プトレマイオス六世(在位:前181ー前145)の寄付によって建てられたものであった。このプトレマイオンおよびその付属図書館については、前2世紀から前1世紀にかけて、数多くの碑文に記されている。それらによれば、市民の決議に基づいてエフェーボス(18歳から20歳の若者)たるものは、学校を卒業するときに、百巻の書物を寄付しなければならなかったのだ。こうした碑文の断片が明らかにしているところでは、このようにしてもたらされた書物の中には、エウリピデスの作品やホメロスのイリアスも含まれてたという。アクロポリスの北に建っていたというプトレマイオンの建物は、これまでのところその場所は確認されていない。

アテネの臨海地区ピレウスにおいて、前100頃の碑文の断片が発見されたが、それはある書籍目録の一部をなすものであった。ただそれは、図書館を建設するにあたっての寄付趣意書とそこに記された寄贈図書一覧なのではないかといわれている。そしてこれもあるギュムナシオンの付属図書館なのであった。またその碑文には、ホメロス、アッティカの悲劇作家、喜劇作家アンフィス、ニコマコス、メナンドロスなどの作品や、哲学者、雄弁家たちの著作も記されているのだ。

さらに数多くの碑文の断片に記された書籍目録が、ロードス島で発見されている。前2世紀ころのこの目録には、雄弁家や歴史家の作品の名前が記されているが、図書館建設のための寄付に関する市民の決議を記した碑文の断片もあった。これらの寄付を受け取ったのはギュムナシオンの幹部だった。また隣接するコス島でも、同様の図書館建設について伝える前2世紀の碑文が出てきている。

豪華船中の図書館

古代においても豪華船の中で人々が旅のよすがを過ごすための図書館があったのだ。それはイタリア半島の南にあるシチリア島のシュラクサイのヒエロン王(在位:前269-前215)が建造させた船であった。この「シュラコシア」と称する、古代にしては巨大な貨物船は、その上甲板に旅客を収容できるように設計された、豪華な貨客船だった。そこには船室のほかに、本物の植物を配した遊歩道、体育室、アフロディテ神殿、ならびに余暇のつれずれを過ごすための図書を備えた部屋まであった。

しかし西地中海海域にはこのような巨大な船を停泊させることができる港がなかったため、ヒエロン王はプトレマイオス三世エウエルゲテスへの贈り物として、その船をエジプトへと航行させたという。こうした話は、モシオンという人物が書いたものを、例のアテナイオスがその『食卓の賢人たち』の中で、長々と引用しているのだ。

ギリシアの成人用図書館

我々がこれまで、そのいくつかを知ることができた文献や碑文は、結局のところ偶然我々のところに届いた実例にすぎない。それでもヘレニズム時代のギリシアの都会では、どこにでも存在したものだったことが、そうした史料によって漠然と分かるのである。おおくの場合それらの図書館は、エフェーボス(18歳から20歳までの若者)用の図書館であった。

ロードスのような「大学都市」では、かなりの数のギュムナシオン付属図書館が、大学からの要請にも応えられる態勢を整えていた。たとえばニュサ出身のアリストデモスのような人物は、午前中は大学レベルの修辞学を教え、午後の遅くにはエフェーボス用に文法を教えるという風に、二種類の授業を受け持っていたのだ。ロードスの書籍目録には実際に古典の科目については、エフェーボス段階を超えるようなものも記載されている。

ところがヘレニズム時代の幾つかの都市においては、ギュムナシオンの授業のための図書館のほかに、広く文学や学問に関心のある一般教養人が利用できるような図書館も存在した。ストラボンがその『地理書』で記しているスミュルナの図書館がその一例である。これに関連して前2世紀の歴史家のポリュビオスは、年代記編集者のティマイオスとの論争の中で、次のように述べている。「書物から知識をくみ取るものは艱難辛苦に耐える必要もなく、危険からも離れていられる。ただたくさんの記録史料を備えている図書館を探せばいいのだ。そしてそこで静かに座って、知りたいと思っていることを、書物の中に求めればいいのだ。そして先人の過ちを静かに確認することもできるのだ。」

 

ギリシア・ローマ時代の書籍文化 03

その03 書物の普及と書籍取引

Ⅰ ギリシア世界における書物の普及

<ホメロス作品の文字化>

いったい、いつどこで書物がギリシア世界に登場したのだろうか? このことを明らかにする史料は、残念ながら存在していない。しかし古代ギリシアにおける最古の大英雄叙事詩といわれるホメロスの『イリアス』及び『オデュッセイア』の中身を書き留めるために書物が生まれた、と言われているのだ。これら二つの叙事詩は、ヨーロッパ文学の源泉と仰がれている。そのため日本でも1943年以来、いくつかの翻訳がある。また岩波文庫には松平千秋の邦訳があり、私もこれを所持している。

            岩波文庫版、ホメロス『オデュッセイア』(上)松平千秋訳

さて、これらの作品の作者または編者といわれているのがホメロスという盲目の詩人なのであるが、その実在には疑問があるとされている。それはさておき、『イリアス』及び『オデュッセイア』は、もともとはホメロスと呼ばれる詩人が、人々の前で語り聞かせたものだった。彼はいわば「語り部」だったわけである。『イリアス』はトロイア戦争での英雄たちの活躍を描いた叙事詩であり、『オデュッセイア』はこのトロイア戦争の英雄オデュッセウスの、トロイア攻略から帰国までの冒険を描いた叙事詩である。トロイア戦争というのは、ギリシアの英雄たちが、今日のトルコの小アジア西北岸にあったトロイアの地を攻め、10年間の包囲ののち陥落させたという伝説上の戦争である。

とはいえ、ホメロスの叙事詩を夢中になって読んで、この戦争があったことを信じて発掘調査した19世紀のドイツ人シュリーマンが、その実在を証明したのである。彼の著作『古代への情熱』は、私も愛読したものである。現在ではその発掘現場は観光地として人々が押しかけているが、私も1984年に家族と一緒にここを訪れている。有名な「トロイ(ア)の木馬」の巨大な模型が展示されていて、私の子供たちは大喜びしていたが、親日的なトルコ人から声をかけられたりした。そこの遺跡の9層のうち第7層が、古典古代のギリシアより古いミケーネ文明と同時期のトロイア文明にあたるとされている。ミケーネ文明というのは、前1600~前1200年頃に、ギリシア人の第一波のアカイア人が、ペロポネソス半島のミケーネ地方を中心に形成した青銅器文明であった。その中心地ミケーネの遺跡もシュリーマンが発掘しており、私も1985年のギリシア旅行の際に訪れている。

ミケーネ文明のことはその後、いろいろな考古学者などによって研究が進んでいて、さまざまなことが解明されているが、トロイア文明の実態については、あまり研究が進んでいないようだ。しかしミケーネ文明が滅びた前1200年ごろに、トロイア文明も滅んだらしい。そしてトロイア戦争はその末期の時代に行われた戦争らしい。ミケーネ文明が滅んだあと、ギリシアの地については、前8世紀までの400年間史料に乏しく、ほとんど不明であることから、暗黒の時代といわれている。ただこの地では、この間に青銅器時代から鉄器時代に移行し、前8世紀ごろからポリスを中心とした新たなギリシア文明の時代に入ったのである。

謎多き盲目の天才詩人ホメロスは、この新たなギリシア文明の時代のごく初期に位置していたらしい。そして400年ほど前に起きた戦争についての言い伝えを、叙事詩にして、人々の前で朗誦していたようだ。その後ホメロスのあとも、『イリアス』と『オデュッセイア』は、吟遊詩人たちによって、語り伝えられていった。これら初期の吟遊詩人たちは、本来のテキストにあまりとらわれずに、それぞれ自由に名人芸的に歌っていたようだ。そのため語り部である詩人によって、物語の中身に大きな差異が生じていた。

しかし前6世紀に、アテナイの女神アテナを祭る大祭が開かれ、ホメロスの叙事詩の朗読が行われることになった。その時、一人の吟遊詩人が詩の一つの章(歌)を朗誦したのだが、その詩人は自分の前の詩人が歌い終えた個所から歌い始めたといわれる。このことは、すでに信頼のできる統一的なテキストが書物の形で出来上がっていた証拠である、と見ることができるのである。つまり大勢の吟遊詩人たちはホメロス作品の手書き原稿ないし書物を旅行鞄の中に入れて、持ち歩いていたようなのだ。

これを要するに、前6世紀にはホメロス作品は文字化された、と見なすことができよう。同時に前700年ごろに活躍した叙事詩人ヘシオドスの『労働と日々』(怠け者の弟に与えた教訓詩の形をとって、農民の苦しさ、勤労の尊さを説いた作品)や『神統記』(天地創生以来の神々の系譜を語った叙事詩。特にゼウスをたたえた)、さらに前7世紀の抒情詩人たちの作品も文字化されて、ギリシア各地に普及していったわけである。

<ギリシアの僭主たちの文庫>

僭主というのは、民衆の不満を利用し、その支持を得て、非合法的に政権を握った独裁者のことを言う。前7~前6世紀の貴族政治から民主政治への過渡期に、この僭主政治が出現した。なかでもアテナイの僭主ペイシストラトス(前600年ごろ~前528年)は亡命貴族の土地財産を貧民に分配して、中小農民を保護・育成し、アテナイの美化や文化事業にも力を注いだ。この人物はサモスの僭主ポリュクラテスとともに、後200年ごろに活躍した著作家アテナイオスによって、その大規模な文庫のために有名だった人物に数えられている。ただしこれらの文庫は大規模といっても、書物が生まれて間もない頃だったので、のちのヘレニズム時代(前3世紀~前1世紀)の図書館に比べれば、小規模だったといわざるを得ない。なにしろ前5世紀以降の偉大なるギリシア文学の作品の数々はまだ生まれていなかったのだから。

ついでながら僭主ポリュクラテスはエジプト王アマシスと親密な関係にあったことが知られているので、パピルス巻子本を所有していた可能性がある。他方イオニアのギリシア人は、パピルスが知られる以前の時代には、ヤギや羊の革に書いていた。そうした革の上に、ミレトスのアナクシマンドロスなどのような初期イオニアの哲学者たちが、その著作を書き記していた可能性が十分あるのだ。

いっぽう当時すでに初歩段階の書籍取引が存在していたのかどうか、史料が不足していて明らかではない。とはいえ原則的にはその可能性を排除することはできない。ただこの時代にはまだ、ある特定の作品を所有しようとするときは、それを書き写すのが普通だったようだ。

<前5世紀のアテナイ市民と書物>

ギリシアにおける書物の存在と使用を明らかにした最も初期の同時代の証拠物件は、前にも紹介したことがある前500年ごろのアッテイカの壺絵である。これは下の写真に見られるように、巻子本を手にした人間を描いたものである。

        この壺絵の上部中央に、巻子本を手にしている人物が描かれている

当時一般に読み書きの知識がどの程度あったのか、という点に関していくつかの具体例が明らかにされている。またアッティカの三大悲劇詩人や古喜劇作家の著作などを通じて、前5世紀のアテナイ市民にとって書物がごく普通のものになっていたことも、知られているのだ。さらに書籍販売人の存在についても、彼らからしばしばその証拠を提供してもらっている。例えばかのソクラテス(前469頃~前399)の発言(プラトン『ソクラテスの弁明』26D)に注目することにしよう。「私は哲学者アナクサゴラスの本を、アテナイのアゴラ(広場)にあるオルケストラ(劇場の平土間のことで、その一角に書籍販売所があったのかもしれない)において、1ドラクマで買うことができた」 この値段をほかのものと比べてみると、例えば当時羊一頭の値段は12-17ドラクマであった。

<前5世紀末、書物はギリシア世界の辺境まで到達>

当時、前5世紀末ごろには、書籍取引はすでにアテナイを超えて行われていて、書物はギリシア世界の境界線地域にまで到達していた。このことは古代ギリシアの軍人で歴史家のクセノポン(前426頃ー前355頃)の著作『アナバシス』から明らかである。将軍クセノポンは1万人のギリシア人傭兵を率いての行軍の際に、小アジアを通ってトラキア(現在のブルガリア)の黒海沿岸にやってきた。その時彼は、そこに数隻の船が座礁していて、船から流れ出た家具や箱やその他のものと一緒にたくさんの書物を見たのであった。

また哲学者プラトン(前427-前347)の弟子ヘルモドロスは、師匠の著作を許可なしにシチリア在住のギリシア人に、大々的に売りさばいたという。前4世紀以降になると、書籍取引や書物の普及についての言及はもっと豊富になる。例えばハリカルナッソスのディオニュシオスは、次のように述べている。「当時書籍商は修辞家イソクラテス(前436-前338)の法廷弁論書をすべて携えて、各地を回っていた。このアッティカの修辞家にとっては、自分の弁論書がスパルタでも読めることは至極当然のことであった。

<前4世紀後半以降については、書物自体が発掘>

前4世紀の最後の数十年間は、古代の書物に関する我々の知識にとって、根本的な転換の時期を意味していた。これに関連した言及や証拠などは、これまでも極めて有益なものであったが、それらはいずれも二次史料であった。つまり我々の関心の元来の対象物である古代の書物自体を、我々は直接的には把握していなかったのである。

しかしそれ以降の時代になると我々はギリシア文学のテキストを、発掘物の形で手中にしているのだ。我々の持つギリシアの書物のもっとも古い断片は、マケドニア(ギリシアの北部に位置する)のデルヴェニ近くの墓の中から発見された、ある宇宙論作品への論評を記載したパピルス巻子本の切れ端である。この地域の湿度の高さにもかかわらずこれが残存できたのは、このパピルスが死者の副葬品の一部として、薪の山の中で燃やされ、炭化したおかげであった。

また1902年にドイツ人のエジプト学者ボルヒャルトはエジプトのアブシーアにおいて、木製の棺桶の中にミイラと並んで置いてあったティモテオス・パピルスを発見した。それは初めと終わりの部分が欠けたままの状態で、死者の副葬品として入れられていた巻子本で、デルヴェニのパピルス断片とほぼ同じころのものである。このパピルスの現存している部分(長さ1.11メートル)は、前5世紀の詩人ティモテオス作の詩『ペルシア人』の中の、音楽的朗誦の最後の三分の一の個所である。

このティモテオス・パピルス以降古代末期に至るまで、エジプトの乾いた気候のおかげで、つぎつぎと書物が、もちろん多かれ少なかれ断片の形で、発見されていくことになった。そしてこれらの発掘物のおかげで、研究者たちは、アレクサンドロス大王の遠征(前4世紀末)によってギリシア世界の辺境に組み込まれた、この地域において、当時の書物についての図像による表現や古代の作家たちの特別の言及を、一次史料によって立証することができるようになったという。

<書籍取引の枠外での書物の普及>

古代の全時期を通じて、書籍取引が書物を手に入れるための唯一の手段というわけではなかった。書籍取引が広く普及した後でも、書籍商のもとで買うやり方と並んで、自ら書物を作ることがしばしば見られたのである。当時の書物製作は、冊子本の登場以前には、パピルスの巻物の上にテキストを書いていく事によって成り立っていた。つまりオリジナルの書物を筆写することで、新しい書籍を作ることができたのである。

それにはいくつかのケースがあった。まず第一に、ある作品が書籍商のもとで見つからなかった場合。第二に、ごく限られた読者層のために書かれた専門科学や哲学分野の作品の場合。第三に、ほしいと思った書物の価格が高くて買えない場合などである。当時はまだ著作権や版権などというものは存在していなかったので、ほしいと思った書物をどこかで借りて、書き写したわけである。その際テキストを自ら筆写したか、あるいは筆写の仕事に経験がある奴隷に依頼したか、それとも謝礼を払って「書写工房」に任せたか、そのやり方はいろいろあった。

そうした筆写の実例としては歴史に名をのこした人物の名前があげられる。前4世紀の政治家で雄弁家のデモステネスは、歴史家のトゥキュディデスの全作品を自らの手で8回も書き写したといわれる。その作業は、まだ無名の貧しかった時代に行われたものとみられるが、金銭上の理由以外にもあったようだ。次いでマケドニア国王カッサンドラは厚顔無恥の乱暴者であった反面、高度な教養を身に着けた人物でもあった。この人物はイリアスとオデュッセイアの大部分を暗誦することができたばかりでなく、この二つの叙事詩をすべて自ら筆写したといわれる。またマケドニア王朝の彼の後継者は、哲学者のゼノンに対して、書籍を筆写するための奴隷を、贈り物として与えたといわれているのだ。

ll ローマ時代における書籍取引

<作品の文字化~口述筆記~>

古代ローマの著作家は、自分の考えを文字化する場合、口述筆記のやり方をとる場合もあったようだ。これに関連して、優れた抒情詩人のホラティウス(前65-前8)は、詩人ルキリウスは1時間に200詩句も「乱造」していて、それらを口述筆記させていると嘲笑している。詩的作品とりわけ抒情詩の場合は、普通、詩人が自らの手で書いていたからであろう。
これに対して、分量の多い記録的な作品を書き残そうとする人は、自分の手で書いていくのは労力を要するので、口述筆記に頼っていたわけである。全37巻、項目数2万にのぼる膨大な百科全書『博物誌』を著した大プリニウス(後23-79)は、速記者に自分の考えを口述筆記させていた。この速記者は、寒い冬でもいつでも仕事ができるようにと、常に手袋を携行していたという。その叔父の仕事ぶりについて我々に伝えている小プリニウスも同様に、速記者に口述筆記させるのを、常としていた。彼の場合はとりわけ弁護士としての弁論を筆記させ、それを書物の形(巻子本)で刊行していたようだ。

ところがこの小プリニウスの師匠であったクインティリアヌスは、口述筆記よりも自分の手で書いてゆくほうを好んでいた。その理由として彼は、もし速記者の仕事がゆっくり過ぎるときには、自らの考えが滞ってしまうし、早すぎる速記者の場合には口述する自分が駆り立てられて好ましくない、と書いている。
その反対に「信じられないほどの生産性」を誇っていた神学者オリゲネス(後185-後253)は、男女からなる速記者・清書人工房を営んでいたために、その膨大な文筆上の生産実績を積むことができたといわれている。

<講演筆記>

口述者がそのテキストの文字化に責任を有する口述筆記とは違って、講演や演説の筆記の場合は、記述という仕事に興味をもった聴衆が、いわば速記者の代わりに書き写すことが行われた。講演者や演説者がきっちりとした原稿を用意していない時あるいは話が興に乗って脱線する回数が多かった時には、この聴衆の筆記したものが、書籍販売人によって刊行されるときに役に立ったという。

それに対する具体例として、哲学者エピクテトス(後50-後138)の講演を挙げることができる。ローマの政治家でギリシア語で書く作家でもあったアリアヌスが若いころ(後117-後120)ニコポリスで、このストア派の哲学者の学校をたびたび訪れて、その講義をすべて筆記した。そしてエピクテトスの死後、その講義ノートを編集し、刊行したが、そうすることによってはじめて、この哲学者の教えが文字化されて、後世に残ったのである。

<朗読会>

古代ローマにあっては、詩人ないし作家が自分の書いたものを刊行して、広めたいと思った時、発行人の関心を引き付けるために、一般公衆の前で朗読したりした。例えばローマで最初の公共図書館を創立した(たぶん前39年に)アシニウス・ポッリオは、自分の文学上の新作を、招待した公衆の前で朗読したといわれる。そして帝政時代に入ると、この朗読会は流行するようになった。それは多かれ少なかれ自分のことを多くの人々に知ってもらいたと思っている人の虚栄心を満足させるものでもあったのだ。
その反面、朗読を聞かされる聴衆たちは少なからず退屈し、ただ耳に届く響きの良さのために、その場に居合わせるという事もあったようだ。そうした朗読会の様子をまざまざと描いているのが、先に紹介した小プリニウス(後61-後113)であった。「今年は詩作の豊かな実りがもたらされた。四月いっぱい、誰も朗読しない日はほとんどなかった。詩作がそのように花開き、才能が示された。とは言え人々は不機嫌な顔をしてやってくるのだ。たいていの人は朗読する場所の隣の集会所にいて、おしゃべりをしてから、会場に入っていった。そして最後まで会場にいることができず、途中で退席してしまうのであった」

<巻子本の製作~著者原稿からの筆写~>

さて、いよいよプロの発行人が巻子本を製作する際の最初の仕事は、著者原稿を筆写する作業であった。その場合、目の前にある原稿を一人の人が筆写するやり方と、一人の口述者の声を聴きながら、複数の筆写人(筆写奴隷)が同時に書き写していくやり方とがあった。前者の場合は写し間違いが少なかったが、皆無ではなかったようだ。ただし一人の筆写人が一巻の巻子本を完成させる間に、口述筆記のほうは数巻の巻子本を完成させることができて、能率がよかった。しかしこの複数人による同時進行の筆写では、間違いがかなり多かったようだ。そのため時間はかかっても、一人の人が目の前の原稿を書き写していくやり方が、普通だったといわれている。
いずれにしても、15世紀に活版印刷術が発明されるまで、古代から中世ヨーロッパにかけて、この筆写という方法だけが書籍製作の唯一のやり方だったわけである。

さて筆写が終了すると、今度は校正の作業という段取りになった。書物の質はもちろん校正係の仕事の精密さ、厳密さにかかっていた。現存する写本を見ると、極めて厳密なものから全くいい加減なものまで、さまざまである。そのうえ未校正の書物も市場に出回っていたことを、帝政時代の初めの皇帝アウグストゥス帝時代の地誌家ストラボンは嘆いているのだ。

しかしその反面、職業上の名誉を尊重する書籍発行人もいた。その書籍商はローマの歴史家ファビウス・ピクトルの作品を刊行したとき、その本には全く誤りがないと胸を張って保証した。ところがある文法学者が、その本の中に一か所、綴りの誤りを発見した。現在でも、どんなに校正を重ねても、誤りを皆無にするのは困難であることを考えれば、ただ一か所の誤りは許されよう。
いっぽう著者と発行人との間の関係が緊密で、両者が良心的であった場合には、すでに写本が作られ、販売用に書籍商のもとに送られた作品でも、一つの誤りの削除が行われたこともあるのだ。

<書籍商用写本と私的写本>

あるパピルス巻子本が書籍販売用の写本なのか、それとも私的に作られた写本なのかを、現存している実物から、区別することは、ほとんど不可能である。ただ、もしその文学テキストが一度書かれたパピルス紙の裏側に記され、しかもあまり手慣れていない筆写の場合には、ある程度の確実さで、私的な写本だと判断することができる。しかしそれが再使用されたパピルス紙というだけでは、私的な筆写本だとする十分な根拠にはならないのだ。それが廉価な書籍販売用の本である可能性もあるからだ。

いっぽうその文学的テキストがパピルス紙の表側に記され、しかもその筆写がプロの手によるもののように見えれば、書籍販売用の写本である可能性が高い。とはいえその場合にも私的な写本である可能性を排除することはできない。金持ちの依頼主が筆写素材に金を惜しまず、プロの書き手に頼んだ場合も考えられるのだ。

<首都ローマの書籍商たち>

ここでは帝政時代の首都ローマで活躍した幾人かの書籍商たちを紹介することにしよう。まず抒情詩人ホラティウスの書簡集を刊行したことで知られているのがソシウス兄弟である。その名前が、エジプトで発見された、あるパピルス断片に記されていたのだ。それはアテナイの学者アポロニオスの書いた「イリアス第14書への文法上の諸問題」と題する巻子本の断片であるが、その巻末にソシウスという名前が書かれている。そのためこの人物が同書の発行人である可能性がきわめて高いのだ。ただソシウスの商売上のつながりが直接エジプトにまで伸びていたのか、それともこの本がその所有者によってエジプトまで運ばれたものなのか、いずれなのかはわからない。

次にストア哲学者のセネカ(後4-後65)の証言によれば、ドールスという書籍商がリヴィウス(前59-後17)の大部の歴史書を刊行して、販売したという。この書籍商はまた、政治家であり同時に散文家としても名高いキケロ(前106-前43)の著作の原本を、アッティクスの蔵書の中から獲得するのに成功したという。そうした「原本」はもちろん、のちに刊行された数々の版を考えた場合、特別な価値を持っていたわけである。

第3の書籍商はトリュフォンというが、修辞学者クィンティリアヌス(後35-95)に対して、大部な修辞学の手引書を書くよう再三再四促して、ついに刊行にこぎつけたという。トリュフォンが発行した書籍の数は、先のソシウスと同様に、かなりのものであったといわれている。さらに詩人マルティアリスの詩作品も引き受けている。そしてこの詩人からビブリオポラ(書籍販売人)と呼ばれているのだ。つまり書籍を発行し、同時に販売もしていたのだ。

いっぽう純粋な書籍販売人には、アトレクトゥス及びセクンドゥスという人物がいた。詩人のマルティアリスによれば、アトレクトゥスはローマ市内の中心部である
カエサル広場の向かい側に店舗(書店)を構え、詩人作家の作品を豊富に取り揃えて、販売していたという。そこでは5デナリウスで、詩作品を買うことができた。
セクンドゥスのほうは、平和神殿とネルヴァ広場の裏手にあった書店で、マルティリアスの詩作品を、小型の羊皮紙製冊子本という新機軸で売っていた。
そして第三の書籍販売人としてはヴァレリアヌスという人物の名前を挙げることができる。

          ローマの平和神殿。復元された平面図

そのほかローマには、書籍販売人がたくさん書店を構えて商売をしていた、神田の神保町のような地区があった。その場所は公共図書館付きの平和神殿からほど遠からぬ所にあるヴィクス・サンダラリウス地区である。同様にしてシギラリアという地区にも、たくさんの書籍商たちが店を構えていた。

<拡大していた書籍販売網>

ローマの随筆家にゲッリウス(後123-後169)という人物がいるが、この著作家の主著『アッティカの夜よ』の内容は百科万般に及び貴重な文献とされている。この人物は何度か上に挙げたローマの書店街について触れている。そして彼は、そうした書店がしばしば知識人たちの交流の場になっていたことを明らかにしている。そこに集まった詩人・作家の何人かは、自分たちの作品が帝国の辺境地域にまで普及して読まれていることを口にしていたのだ。

つまり紀元後1~2世紀のローマ帝国の最盛期には、書籍販売網が帝国の隅々にまで拡大していたわけである。先に紹介した大プリニウスもその著書『博物誌』の中で、ウァッロのイラスト入り人物事典が帝国の全領域に普及していたことを伝えている。さらに雄弁家で弁護士のレグルスの亡くなった息子への追悼の書が、千部といった単位で、イタリア及び属州のあらゆる地域に広まっていたという。

    ローマ帝国の支配領域(実教出版「世界史B 53頁)           

とりわけ南仏リヨンや南イタリアのブリンディシにおける書店の存在や、あるいは一連のキリスト教関連書籍の売れ行きが良かった古代末期には、ドイツ西部のトリーア、北アフリカのカルタゴ、アレクサンドリア、トルコのコンスタンティノープル、シリアのアンティオキアにおける書店が注目される。
南イタリアの港町ブリンディシについて、ゲッリウスは次のように伝えている。そこの港湾地区では、ギリシア語の書物が束になって売りに出されていたが、それらは古くなって保管が悪いため、みじめな状況にあった。とはいえ、その中には探していた昔の重要な書物も見つけることができた。ゲッリウスはその場で決断して、多くの書籍を大変安い値段で買ったという。
ついでに言えば、首都のローマで店ざらし品として買い手のつかなくなった本や、見本として汚れてしまった書物は地方に送られて、古本として処分されたようだ。

<古書商人>

こうした古本を扱う古本屋のほかに、質が高く、人々が探し求め、したがって値段が高い古書を扱う古書商人もいた。ゲッリウスによると、文法学者のオプタトゥスは、古代ローマ最大の詩人といわれるヴェルギリウスが書いた『アエネイス』の第二の書を、きわめて古い版で所有していたという。それは元来ヴェルギリウス自身が所持していたものだが、のちにこの学者がシギラリアの古書商人から金貨20枚で手に入れたものであった。

いっぽう書籍商が古くて高価な貴重書を、短期間、金と引き換えに貸し出すということも見られた。またしてもゲッリウスが語るところによると、雄弁家のユリアヌスは、こうしたやり方で文法家ランパディウスが入手した詩人エンニウスの古い版の作品を閲覧することができたという。ランパディウスは前2世紀の人物であったので、借り出したこの書物は約250年前のものだったわけである。

またこうした商売では、詐欺も見られた。例えばギリシアの雄弁家クリュソストモスは、後1世紀の末に、ある書籍商のやったことを次のように非難している。「古い本が求められているのは、丈夫で長持ちのするパピルス紙に書かれているからだという事を、あなたはご存じなのだ。それであなたは価値の低い現今の書物を穀粉の中に入れて、古い本と同じような色にして、古書として売っているのだ」と。

いっぽう人々は古書を定価以外でも手に入れることができたし、本の競売も普通に見られた。それからエジプトの田舎を歩いて本を売っている書籍の行商人のことが知られているが、こうした商売をやっていたのは彼一人ではなかったはずだ。
また帝政ローマ時代には、飲食店の中にも書店があった。数階建ての建物の一階の道路ないしは中庭に面した居酒屋がそれであった。そうした店はとりわけ首都ローマの外港都市オスティアに今も残っていて、印象深いものがある。

そうした居酒屋内の書店では、巻物状の巻子本は、アルマリア(本箱)やニディと呼ばれた、仕切りのついた本棚に置かれていた。

         仕切りのついた本棚に置かれた巻子本

そこにはまた客に見せるための陳列用の机もあった。そして外の戸口の側柱には、書物の表題を書いたものが貼られていた。

<著作者への謝礼はなし>

今日、出版社が著作者に対して支払っている原稿料ないし謝礼というものは、古代にはなかったと思われる。それでも古代の著作者の多くは、ほかに経済的基盤を持った人たちだったようだ。たとえばギリシアの哲学者プラトン、アリストテレス、テオフラトスなどはアカデミーの長もしくは王子の教育係として収入が保証されていた。またローマ時代のキケロや両プリニウスやタキトゥスといった人たちは十分な資産を所持していた。そうした人たちにとって自分の著作を刊行することは、謝礼が目当てではなくて、自分の考えや思想を多くの人々に知らせる手段なのであった。

とはいえ、すべての著作者が財産や収入に恵まれていたわけではなかった。有力者の支援を必要としていた物書きは、裕福で影響力のある人物に自分の著作を献呈したり、朗読したりすることは、金銭的な利益をもたらすものであった。そして社会的な地位の上昇をも、もたらすきっかけになった。社交詩人であったマルティリアスは、時の皇帝たちをほめちぎる詩を書き連ね、ティトゥス帝とドミティアヌス帝によっ騎士階級にまで引き上げられたのであった。これらの文学者たちにとっては、彼らの作品が書籍商によって広く世の中に普及し、成功した作家というイメージが植えつけられることが、重要なのであった。

いっぽう書物の献呈という行為は、もっぱら受け取り手から利益を得ようとしてなされた、というわけでもなかった。地位の高い人への感謝の念から、行われたこともあったのだ。例えば前1世紀の建築家で建築理論家でもあったヴィトルヴィウスは、年を取って退職したときに、それまで受けた厚意への感謝のしるしに、建築に関する自分の著作を、アウグストゥス帝にささげたのである。ちなみに彼の主著『建築十書』は、古代ギリシア・ローマの建築状況を知るうえで不可欠の史料といわれているのだ。

<贈り物としての書物>

古代ローマ社会では、書物を贈り物にする習慣があった。これまで何度も紹介してきた社交詩人のマルティアリスは、ローマで重要な役割を果たしていたサトゥルヌス祭の贈り物として、受け取り手がきっと喜ぶに違いない著者あるいは作品について、次のような名前を列挙している:
ホメロス、『蛙とネズミの戦争』、ヴェルギリウス、キケロ、メナンドロスの『タイス』、プロペルティウス、リヴィウス、サルティヌス、オヴィディウスの『転身物語』、ティブルス、ルカヌス及びカトゥルス。

また教育手段としての書物の贈与については、伝記作者のスエトニウスの言葉が残っている。それによれば、皇帝アウグストゥスの孫の家庭教師もしていた著名な文法学者のフラックスは、つねづね最優秀の生徒に対するご褒美として、古い貴重書を贈ることによって、生徒を勉強に駆り立てていたという。

ギリシア・ローマ時代の書籍文化 02

その02 古代における書物の形態など

古代における書写材料

今日、私たちは書物を印刷したり、手紙を書いたり、記録文書を作成したりするとき、一般に紙を用いるのが普通である。
しかし紙がまだ存在していなかった古代にあっては、人々は実に様々なものの上に、文字を書き記していたのだ。それらは驚くほど多様なものだったことが、考古学的な発掘調査を通じて知られている。文字が書き記される素材を、ここでは書写材料と呼ぶことにするが、便宜上、無機の書写材料と有機の書写材料とにわけて、その多様な姿を、これから紹介していく事にしよう。

無機書写材料

これをざっと列挙してみると、陶片(陶器のかけら)、化粧漆喰、そして青銅、鉛、錫、銅、銀、金などの金属である。
まず世界史の教科書を通じてよく知られている「陶片追放」の制度に使われていたのが、陶器のかけらであった。アテネの市民は、追放したい政治家の名前を陶器のかけらに書いて投票していたわけである。陶片はギリシア語でオストラコンと呼ばれるが、それらはとりわけエジプトで最もよく発見されている。ただそれらの陶片ををよく調べてみると、陶片追放に使われた以外にも、税金の領収書、各種証明書、手紙、学童の文字の練習用などに用いられていたのだ。
また陶片に似た原始的な書写材料は平らな石片で、とりわけエジプトで数多く発掘されているのが、石灰石のかけらである。

さらに家の壁に使われていた化粧漆喰も、書くための材料として使われていた。後1世紀に起きたヴェスヴィオス火山の噴火で埋もれたポンペイなどの諸都市からは、ある家族の家計簿や人間生活の様々な側面を描いた壁画や記録的な文章が発掘されているのだ。

いっぽう書写の重要な材料として、いろいろな金属を挙げることができる。碑文に対する材料としては、まず青銅が来るが、銅と錫の合金である青銅は、柔らかい尖筆では彫れないぐらい硬い素材であった。そのためもっと柔らかい鉛を用いることが多かった。たとえば、ある人に悪い結果をもたらそうとして、薄い鉛の板に呪いの言葉を書き記すという風習が、古代には広まっていたという。また神託をうかがう言葉がしばしば鉛の板に書かれていた。

さらに手紙を書く材料としても、鉛は用いられていた。そうした私信は数多く残っているが、その最も早いものが、南ロシアのクリミア半島近くのベレサン島で発見されたものである。イオニア・ギリシア人によって書かれた手紙だが、前6世紀というから、現存する最古のパピルス文書より以前のものである。その手紙が発見されたとき、それは書類の束のように巻き付けてあった。いっぽうパピルスがまだ使われていなかったローマの初期の時代には、鉛の巻物が公式の文書に用いられていたという。鉛の巻物はあまりしばしば巻いたり広げたりすると壊れてしまうので、主として保管用の文書に使われていたようだ。

また柔らかい錫も書写材料に適していた。そのため錫に書かれた呪いの板が残っているし、錫製の巻物もあった。前369年にテバイの将軍エバミノンダスがスパルタからメッセニアを解放したとき、青銅製の容器に入った錫製の巻物を人々の前に見せたという。次に銅製の巻物も発見されている。死海近くのクムランの洞窟内で発掘されたおびただしい数のユダヤの聖職者たちの神聖な文書の中には、大量の革製とパピルス製の巻物のほかに、二枚の銅製の巻物が見つかったのだ。

高価な貴金属である銀や金は、日常的な書写材料にはなっていなかった。ただ銀製の呪いの板やオルペウス教の金製の板を含む様々な金製の護符が出土している。加えてエトルリアの聖地ともいうべきカエレで発見された黄金の書き板が注目される。これは女神ウニへの奉献の言葉をエトルリア語と古代カルタゴ語で書いたもの(前500年ごろ)で、エトルリア研究にとっては戦後最も注目すべき発掘物であった。さらにギリシアのコリント地峡で開催された音楽と体育の競技会(イストミア祭)の詩の部門で、女流詩人アリストマケが優勝した後、奉納品としてささげた黄金の巻物も発掘されているのだ。

有機書写材料

A 木材、亜麻布など

植物性の有機書写材料の中では、木材が古代のどの時代を見ても、またどの場所でも、とりわけ短いテキストに用いられていた。その最も簡単な形が木製の板で、その上に直接インクで書かれていた。その際文字をはっきりと読みやすくするため、板の上に石灰や石膏を塗って、白くしていた。その発掘物が最も多かったのはエジプトであったが、乾燥した風土のために有機物質がどこよりも良い状態で保存されてきたからだ。そこに書かれた内容は、ミイラ運搬の際に必要な氏名、年齢、目的地を記したミイラ・ラベルのほかに、手紙や領収書の類いが多かった。そのほか文学的な内容の授業用書き板もあった。

その中でも最も注目されたのが、1988年にエジプトで発見された「木製の本」であった。それはたくさんの木の板の片側に穴をあけて、複数の木の板を紐で結びつけたものであった。縦25センチ、横10センチ、厚さ3ミリの板が9枚結び付けてあった。そこに書かれていたのは、ギリシアの雄弁家イソクラテスの演説を記したもので、紀元後4~5世紀に雄弁術を学んでいた学生が、自分用に写し取ったものであったのだ。

それとは別に、ローマ帝国の最北端にあったブリタニアのヴィンドランダの宿営地で、1970年代に行われた発掘調査の際に見つかった大量の木簡が大きな話題となった。そこのゴミ捨て場で、数百枚に上るシラカバとハンノキの断片が発見されたのだ。それは紀元後100年ごろそこに駐屯していたローマ軍に関する直接的な記録であった。当時パピルスが手に入らない北国では、書写材料として木簡が使用されていたことを示すものであった。その形状は、薄い木片を何枚も重ねて使われた「折り畳み式メモ帳」とでも呼ぶべきものであった。それを再現したものが、下のスケッチである。

イギリスのヴィンドランダで出土した木製の「折り畳み式メモ帳」

ヴィンドランダの発掘物の中には、上記の「メモ帳」のほかにも、長方形の書き板がたくさん見つかっている。その片面は平らで、他の面は縁の部分が盛り上がっていた。そして中の低くなったところに蝋が引かれていた。その部分に尖筆でもって文字を刻みこんでいったのだ。その蝋はたいてい暗い色または赤い色に染められていて、文字がより鮮明に読めるようにしてあった。そして蝋を引いた板2枚が紐または蝶番でつないであった。3枚折り、4枚折りのものもあったが、その数はせいぜい10枚が上限であった。下の写真がその実例である。

生徒が使用していた10枚重ねの書き板

これらの木製の書き板は、一枚のものであれ、数枚を結んだものであれ、ギリシア人、エトルリア人、ローマ人のいずれにおいても、最古の時代から用いられていて、その用途もさまざまであった。あるいは手紙やメモ帳として、あるいは文学的な文章の草稿ないし抜粋として、あるいは学校の授業用として使われていた。とりわけローマ地域では、勘定書きとしての用途が多く見られた。古代ローマの会計制度や経済制度を知るうえで重要な資料になっているのが、1959年にポンペイの町はずれにある銀行家一族の館から発掘された書き板である。

いっぽう通常の木製の二枚折り書き板のほかに、高価な材料として象牙製のものもあった。これは客への贈り物として使われたのだが、古代末期になると政府の高官とりわけ執政官が就任の際に、豪華な彫刻を施した象牙製の二枚折り書き板を、贈り物にする習慣ができていたという。それらは中世になると豪華本の装丁として再利用されたので、数多くの現物が今に残っているのだ。

後1世紀の帝政期ローマの著述家プリニウスによると、ローマでも古い時代には、棕櫚の葉や樹皮を使った本もあったという。ただしギリシア・ローマ世界に関しては、そのオリジナルも図版も発見されていないのだ。しかしインドや東アジアでは、近代にいたるまで棕櫚の葉や樹皮は書写材料として用いられている。スマトラ島のバタクの樹皮の本は、祭式に関するものだが、アコーデオンのような形に折り曲げられている。これは先のヴィンドランダの木製の手紙に似ているが、また古い時代のイタリアの亜麻布制の本にも似ているのだ。

前1世紀のローマの歴史家リヴィウスによれば、前293年のサムニウム戦争の最中、あるサムニウムの神官は、古い亜麻布製の本に書かれた典礼儀式にのっとり供物をささげたという。また皇帝マルクス・アウレリウスは若い時、古いラテン人の町で、いたるところにある神殿や聖域とは別に、亜麻布の本も見たという。そしてローマ時代の神託集も亜麻布製だった。総じて初期のイタリアでは、宗教的な内容のテキストや公式の官吏のリストは、亜麻布製の本に書かれるのが普通だったのだ。

代々政府の高官を出していたローマの古い時代の家族には、私的な記録というものがあった。同様のことはエトルリアの貴族にも当てはまったが、こうした「家族の記録」も亜麻布で作られていた。エトルリアのカエレで出土した前4世紀の石棺の蓋には、遺体の頭の後ろのところに、平らな包みの形に丁寧にたたまれた布が置かれている。

エトルリアの石棺の一部の拡大図。折りたたまれた亜麻布製の本

これとは別に、エトルリアの亜麻布製の本のオリジナルが現存している。クロアチアのザグレブの博物館には、エジプトの少女のミイラが保存されているが、そのミイラが普通のやり方で亜麻布製の帯で巻かれているのだ。そしてその布には、エトルリア文字によって文章が書かれている。現存する5枚の帯はもともとは一枚の大きな布を切ったものであった。その一枚の長さは340センチ、もともとの幅は40センチである。エトルリアの習慣に倣って右から左へと書かれた文字は、黒いインクで、明らかに練達の書記によって丁寧に記されたものである。

エトルリア文字が書かれたミイラ保存用の布

文字が書かれたこの布地はイタリア半島で書かれ、エトルリアの移民によってエジプトへもたらされ、そこでミイラ製作者の手に渡ったものと思われる。およそ1200文字からなるこの文章は、大体の内容が解読されている。その結果それらは、数字、月の名前、神々の名前、容器の名称、祭式関連用語などであり、祭礼暦の形で記された礼拝用の本であることが明らかである。

B パピルス

古代における書写材料としてもっとも一般的なのが、パピルスである。これはヨシ科の宿根草であるパピルス草から加工して作られたものである。このパピルスを素材として作られた巻物状の本(巻子本 かんすぼん)をギリシア語で byblos という。 ドイツ語ではこの言葉から、外来語として、Bibliothek(図書館)、Bibliographie(書籍目録)、bibliophil(書籍を愛好する)そしてBibel(聖書)といった言葉が生まれている。

さてパピルス草は湿度と暖かさを好むため、古代においては、その産地はナイル河全域に及んでいた。とりわけナイル河下流のデルタ地域に繁茂していた。そこは古代エジプト王国の支配地域だったのだ。その地域では、パピルス草から、書写材料以外にもいろいろな製品が作られていた。まず澱粉を含んだ茎の部分は、安くて味の良い食品として食べられていた。またその繊維からは、籠、むしろ、綱、ランプの芯、衣服、サンダル、そして簡便なボートなどが作られていた。根の固い部分は燃料になり、また道具を作るときに用いられていた。そして花序の部分は花飾りとして編まれ、燃やした後の灰は薬として使われていた。

<書写材料としてのパピルスの作り方> 

私たちの関心の的である書写材料は、茎の下部にある髄から加工したものが用いられていた。パピルス製造について、明らかにしてくれたのが、シチリア島のシラクーザにあるパピルス博物館のコラド・バシレ館長である。ちなみに私は2001年のシチリア旅行の際、このシラクーザにも立ち寄り、同博物館の中でパピルス製造の実演を見たことがあるのだ。そしてそれに先立って、博物館の近くの池にびっしり繁茂していたパピルス草を見た。それは私にとってとても貴重な経験であった。

さてパピルス作りの大要は次のようである。まず茎は新鮮な状態で何本かに切られ、髄が現れるまで皮をむく。その後、その髄を、薄くてできる限り幅の広い帯に切り裂く。そしてそれらを、あらかじめ水で湿らせておいた板の上に、少しはみ出すぐらいに並べる。この第一の層の上に、第二の髄の層を、第一のとは垂直に交差するようにして並べる。

第一の層の上に交差するように並べられたパピルス草

それから平らで幅広の石で表面をたたいてゆく。その際、澱粉を含んだ髄の粘着性のおかげで、個々の部分は互いに密着していくのだ。こうしてできた葉は日に当てて乾かし、それから軽石または貝殻や象牙の棒で、滑らかにされる。その後、接着剤(澱粉および酢)を用いて、数枚の葉(通常は20枚だが、ときとして50枚も)を張り合わせて、巻物状にする。その際植物の繊維がつねに同じ方向に並ぶようにすることが肝要なのだ。
パピルスは常にそうした巻物の状態で取引されていた。短い文章で済む手紙のような場合は、この巻物から必要な分だけ切り取って売買していた。

<パピルスの品質と等級>

このようにして作られたパピルスは、明るいクリーム色をしており、しなやかな書写材料であった。そうしたしなやかな柔軟性は、しばしば開いたり閉じたりする巻物状の書物に、まさにぴったりのものであった。現存する古代のパピルスがたいていの場合茶色く見えるのは、長い歳月が経ったためである。もちろん様々な品質のパピルスが市場に出されていたのだが、それらは素材の良し悪しのほかに、巻物の幅によってもランク付けされていた。

後1世紀のローマの博物学者プリニウスはその著書『博物誌』の中で、パピルスについてもいろいろ書いている。そこでプリニウスは、パピルスの等級付けをしているのだ。最高の品質のものは24.3センチ幅のパピルスで、もともとcharta
hieraticaと呼ばれていた。これは主として祭礼用の文書に用いられていた。しかし後になると皇帝アウグストゥスをたたえるために、charta augustaと呼ばれることになった。そして第二の品質のものに対しては、その妻リヴィアの名前が付けられた。初めに挙げたhieraticaはこれら二つのものによって第三のランクに下げられ、20.3センチ幅のパピルスを指すようになった。

次いで時代が下って、皇帝クラウディウスの時代に、新たな品質のパピルスが導入された。このcharta claudia はaugustaより丈夫だったので、上回る第一位の評価を受けることになった。いっぽうhieraticaの下の16.6センチ幅のものは、
charta amphitheatricaと呼ばれた。これはその生産地アレクサンドリアの競技場
Amphitheaterの名前をとったものだが、ハンマーでたたいて滑らかにしたため、雑な品質になった。さらにその下には12.95-14.8センチ幅のパピルスが来るが、その生産地ナイル・デルタのSaisからcharta saiticaと呼ばれる。その下にcharta taeneoticaが来て、最下等にcharta emportica がランク付けされた。これはもはや書写材料には向かないので、包装紙として使われていた。

ローマ帝政時代の後半(紀元後3世紀以降)になると、パピルスの品質はどんどん下がっていった。そしてエジプトにおけるパピルスの生産は、後10世紀から11世紀にかけての時期に、終了したとみられている。

<パピルスの需要と供給>

ギリシア・ローマ時代を通じて、その支配下にあった地域全体、とりわけ行政管理機構を伴った大都会地域で、パピルスの需要と供給は大きかったはずである。そしてそれに見合ったパピルスの取引も盛んであったと思われる。すでに前408年にアテナイの行政機構がパピルスを用いていたことは、エレクテイオン建設に要した金額の支払いを記した勘定書きが現存していることから、実証される。

おそらくこれより一世代古いと思われるアッティカの詩人ヘルミボスの喜劇作品の断片には、当時の一連の輸入物資が列挙されている。そしてその中にはエジプトからの帆布とならんでパピルスも含まれているのだ。そしてエジプトのプトレマイオス朝(前304年~前30年)の役所でのパピルス消費量が莫大なものであったことは、前258年のパピルス文書が明らかにしている。それによると宰相アポロニオスの下にあった一部局が、33日間で434巻のパピルス文書を使ったとのことである。

C 革と羊皮紙

<動物の皮>

書物に対する書写材料としてパピルスにかなり匹敵する存在が動物の皮であった。動物の皮はその仕上げの方法の違いに応じて、二つの製品つまり革と羊皮紙に分けることができる。革は脱毛した動物の皮を、タンニン酸を含んだ植物性の布地でなめすことによって製品となる。羊皮紙の製造については、動物の皮をなめすのではなくて、石灰液で処理した後、強く張って乾燥させ、薄く削り取って滑らかにするのだ。

古代の文献には、書写材料としての皮のことが、しばしば述べられている。前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスの証言によれば、イオニアのギリシア人たちは、パピルスをまだ使っていない古い時代には、ヤギや羊の皮の上に文字を書いていたという。ここではたぶん革のことを指していると思われる。同様にペルシア王国の公式の記録、とりわけ前5世紀のペルシアの地方長官の文書で革に書かれたものが、エジプトで発見されているのだ。

さらに死海近くのクムランで発掘された、かの有名な巻物状の文書が注目される。これはユダヤ人社会の宗教について記したものであるが、その大部分は革に書かれていて、互いに縫い合わせて書物にしてあるのだ。また蛇の皮に黄金のインクでイリアスとオデュッセイアを書いたものがイスタンブールの宝物館にあるが、これなどは珍品といえよう。

<羊皮紙>

ユダヤの神官エレアザ-ルがエジプト王プトレマイオス二世(在位前285-前246年)に贈ったといわれる書物状の法律文書は、間違いなく羊皮紙製であった。国王はその時、皮の薄さに驚いているからだ。現在羊皮紙は、一般にpergamena(ペルガメーナ)と呼ばれているが、この言葉は、比較的後の時代になって使われるようになったものだ。つまりこの言葉は、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの後301年の価格勅令に初めて登場するものだ。その語源は当時の小アジア地方の都市ペルガモンの名前からきている。

この事については、プリニウスによって後世に伝えられたローマの学者ウァッロの報告が特に興味深い。すなわちエジプトのプトレマイオス二世(在位、前180-前145年)とペルガモン図書館の創立者エウメネス二世(在位、前197-前159年)の間に図書館をめぐって生まれた嫉妬から、プトレマイオスはパピルスのペルガモンへの輸出を禁止した。その結果ペルガモンでは羊皮紙を発明したというのだ。しかし考古学的に現在では、羊皮紙はそれ以前から存在していたことが分かっている。そのため次の説明のほうが説得的なのだ。

前170-168年にシリア王アンティオコスがエジプトに侵入したが、その時アレクサンドリアが包囲され、パピルスが輸出できなくなった。こうした状況の中で、ペルガモンでは図書館をさらに拡張していくために、昔から知られていた書写材料である羊皮紙に手を出したというものである。そしてのちに書物の新しい形態として「冊子本(さっしぼん)」が発明されてから、書写材料として羊皮紙は盛んに用いられるようになって、ついにはパピルスを駆逐したわけである。

古代における書物の主な形態:巻子本と冊子本

これまで私たちは古代における「書物」のいくつかの特殊な形態について、ご紹介してきた。それらは金属や木材や木の葉を材料にしたものから、古代のローマ人が用いていた亜麻布製のものまで、実に様々な材料を使った「書物」であった。ただそれらは文字が記してあるとはいえ、たいていは書物とは呼べないものであった。その中で、これまで何度となく触れてきた「巻子本(かんすぼん)=巻物」だけは、本格的な書物である。これに対して紀元後の帝政ローマ時代になって登場したのが、「冊子本(さっしぼん)」なのであった。そしてその後長い紆余曲折を経て、現在普通にみられる書物の形になったわけである。

ここでは古代ギリシア・ローマ時代をとおして最も重要な書物の形態であった巻子本について、まず詳しく見ていく事にしたい。

巻子本(かんすぼん)

この巻子本は、古典古代のギリシア時代いらい、数世紀にわたって、書物そのものを意味していた。巻物の形をした文書は、古代エジプトで発明され、のちにギリシア世界に入ってきた。その年代は史料が不足していて、定かではない。とはいえギリシアにおける巻子本の存在を示す資料があるのだ。それは前回のブログ「ギリシア・ローマ時代における文字の誕生とその活用」のなかでもその図像を紹介した「紀元前490年ごろのアッティカの画家オネシモスが描いた壺絵」である。

オネシモスが描いた壺絵。ベルリン国立博物館所蔵

その絵には、一人の若者が前かがみに腰かけに座り、両手に巻子本をもって読んでいる場面が描かれている。この壺絵を見るだけでは、巻子本がどんな材料からできているのかは断定しにくいが、多分その材料はパピルスだと思われる。書写材料としてのパピルスについて最初に言及しているアテナイの文字史料の時期が、この壺絵の時期とあまり隔たっていないからである。

<パピルス紙を張り合わせて作られた巻子本>

先にパピルスの項目で説明したが、通常パピルス紙は20葉(枚)またはもっと多くの葉を張り合わせて、巻物状にして、市場に出されていた。これら市場に出されたパピルス紙の巻物は、作成すべき書物の内容に応じて、短く切ったり、余分に張り合わせたりして売られていた。

パピルス巻子本の実物。ベルリンのエジプト博物館所蔵

先に述べたように、ギリシア語でもラテン語でも、文章は横書きで、文字は左から右へと書いていった。その場合一行の文字数は決められていた。さもないと長い巻物の左端から右端まで書いていっては、その文章を読むときに巻物を右端まで広げねばならず、まったく実用的ではなかったからだ。具体的にそれがどのようなものであったのか、下記の図像をご覧になれば大体お分かりいただけよう。

巻子本を広げた図像。発見された実物を克明に模写したもの

古代の巻子本の大きさについてみると、巻物の上下の幅は、現存するパピルス文書から判断して、普通は19センチから25センチの間にあった。ただ例外的に上下の幅が37センチもある大型の巻物もあったし、上下の幅が12センチから15センチの間というものもあった。現在知られているもっとも小さな巻子本は、上下幅が8センチである。それはエロティックな警句詩を載せたものであるが、ある研究者はそれについて次のように書いている。「そうした小型本は、妙齢な淑女がひそかに衣服のふくらみの中に忍ばせて、こっそり読んでいたのであろう」

いっぽう巻物の長さのほうは、理論的には限度がなかった。パピルス紙を好きなだけ張り足していくことができたからである。しかし現実問題として、あまり長いものは、両手でひろげて持った時に、その取扱いが難しく、不便であった。現存する不完全な巻子本から類推して、長さが10メートルを超えるようなものはなかったと思われる。長さが6メートルの巻物は、巻き取るとその厚みは5~6センチとなるが、これなら読むときにその扱いが容易である。例えばプラトンの作品『饗宴』は、長さ7メートルの巻物1巻に収められている。

さて模写された巻子本の図像を眺めると、一行の文章が一定の文字数で左から右へ書かれ、次の行へ移っている。そして下端近くの最後の行に来ると次の右側の欄の第一行へと移っている。ここで一つの欄は、私たちの本(冊子本)の1ページに相当するものと考えればよい。また模写された図像を見ると、パピルス葉を張り合わせた個所が縦の線となって描かれている。この張り合わせ部分は滑らかになっていて、その部分を横切って文字を書いていくのに支障がなかったようだ。

ところで一つの作品としての巻子本の場合、巻物にすべてを書き終えると、最後の欄の右側に細い棒が取り付けられた。そしてその棒を軸にして、巻物は巻かれた。その巻物にはしばしば、その本の表題を書いた小さな標札が付けられた。この標札の取り付けは、おおむね巻子本の所有者がやる仕事だった。それとは別に作品の表題は、本文の初めの部分か、あるいは巻物の外側にも書かれることがあった。さらに巻子本は円筒形の筒に複数入れて保管されたりした。

<再利用されたパピルス文書>

古代においては書写材料は高価で、貴重なものであったので、節約して使わねばならなかった。そのため一巻のパピルス文書は、多くの場合その裏側も再利用された。こうした二度目の使用はほとんどの場合、商売用あるいはお役所の文書に対して行われた。そのような文書には、しばしば正確な日付が記されていたから、研究者にとっては、その表側に書かれた文学テキストの年代測定に対しても役に立っている。

パピルスは乾いた状態で保管されれば、極めて長持ちする材料である。帝政ローマ時代のギリシアの医学者ガレノスは、紀元後2世紀に、自分は300年前のパピルスの巻物を用いたと語っている。発掘された現物によって、そうしたパピルスの長命が証明されているのだ。

冊子本(さっしぼん)

冊子本というのは、現在私たちが本として認識している書物の形態である。ところが、先にも述べたように、紀元前の古代ギリシア時代から紀元後の帝政ローマ時代にかけての長い間、書物といえば「巻子本」のことを意味していた。

<ローマの詩人マルティアリス、最初の冊子本を刊行>

最初の冊子本として実証できるのは、紀元1世紀に帝政ローマ時代のエピグラム詩人のマルティアリスが刊行したものである。この詩人は最初に出した巻子本による詩集の中で、旅行の時に持ち歩くのに便利な小型の冊子本でも自分の詩は読むことができる、と書いている。そしてそれは書籍販売人のセクンドゥスを通じて買うことができる、とも宣伝しているのだ。
彼はまた、自分の作品だけではなくて、ホメロス、キケロ、ウェルギリウス、オヴィディウス、リヴィウスなど古典作家の質の高い作品も、冊子本で刊行し、それらには次のような宣伝文句もつけている。

<羊皮紙に書かれたホメロス、イリアス及びプリアモス王国の敵の運命、
オデュッセウスの運命が折り重なるようにして、この皮のなかに
入っている>
<羊皮紙に書かれたキケロ、もしあなたがこの羊皮紙の本を持ち歩くならば、
あなたはいつでもキケロと一緒に旅している、と考えてもいいのだ>

しかし詩人マルティアリスが書籍販売人セクンドゥスとともに行った新しい試みは、当初はわずかな成果を上げたにすぎなかったようだ。その理由としては、社会的地位の高い保守的な当時の読者は、冊子本を日常的な、過行くことどもを書き記す「ノート・ブック」の類いと考えていたことがあげられる。後2世紀から後3世紀にかけての時期に刊行された冊子本が12冊現存しているのだが、その中のわずか3冊だけがピンダロス、クセノポン、プラトンといった古典作家の作品を扱っていた。そして残りは、神託の詩句、学校生徒用のホメロスからの引用、技術・医学的なもの、大衆文学などであった。

このマルティアリスより数十年後に刊行された羊皮紙冊子本が、エジプトの砂漠の中から発見されているが、それはラテン語で書かれた歴史作品で、ローマ人の対マケドニア戦争を扱ったものである。次いで作られた冊子本は、後200年ごろのもので、遺産相続争いに絡んだ法律家ウルビアヌスの著作である。そのほか後2世紀末から後3世紀初めにかけての冊子本が、いくつか発見されている。そして後3世紀末から4世紀にはいると、発見された冊子本の数は増大している。

<キリスト教と冊子本>

一般に知られているように、キリスト教はローマ帝国の東方辺境に出現し、ペテロ・パウロなどの使徒の活動によってローマ帝国の下層民の間に広がった宗教である。そのため帝国の社会的地位の高い人々からは嫌われていた。このことと冊子本の普及との間には、密接な関係があるのだ。ローマ帝国では皇帝は神として崇拝されていたが、この皇帝崇拝をキリスト教徒は拒否したため、たびたび迫害の対象とされていた。

こうしたキリスト教徒下層民に対しては、帝国のエリート層は反発していた。そのため下層民のほうも上流層に対しては意識的に距離をとって、その行動も違ったものになっていた。そして初期のキリスト教徒は自分たちの信仰を広める手段として、上流層の間では常識になっていた巻子本ではなくて、冊子本を選んだといわれている。つまりキリスト教徒にとっては、当初から冊子本こそ自分たちが選んだ書物の形態だったのだ。そのことを端的に示しているのが、下の図像である。

本箱に入れてある4福音書(聖書)の冊子本。ラヴェンナの霊廟内に描かれた
モザイク画。紀元後5世紀前半のもの

紀元後2世紀末から3世紀にかけて作られたもっとも初期のパピルス冊子本は文学的な内容の標準的なパピルス巻子本に比べて、文字の美しさの点でずっと劣っている。それらは書物の外形的な側面よりも、むしろ書かれた内容のほうに強い関心を抱いていた当時の利用者(庶民であるキリスト教徒)のために書かれた、いわば実用的な文字だったのである。

実際の話、巻子本に対して冊子本は、実用面で明らかに大きな利点を持っていた。まず第一に冊子本の場合、紙の両面に書くことができたので、片面しか書けなかった巻子本より、はるかに多くの分量のテキストを収めることができた。第二に巻子本は手に取って読むときに、その扱いが面倒であった。第三に書写作業にかかる平均的な経費の点で、同じ分量のテキストに対して、パピルス冊子本のほうがパピルス巻子本よりも26%も安くなるという。第四に冊子本のもう一つの利点は、書物の本体と表紙がコンパクトなため、傷みに対して相対的に抵抗力があった。そして冊子本の最大の利点は、巻子本のように読み終わったときに巻き戻す必要がなく、極めて使いやすいことである。さらに冊子本では、必要な個所に栞(しおり)などを入れて、読み直したい部分をすぐに見つけられることも、大きな利点といえる。

とはいえギリシア・ローマ時代の長きにわたって、巻子本こそがまずもって書物だったわけである。冊子本は、上に挙げたような多くの利点を持っていたにもかかわらず、直ちに伝統的な巻子本にとってかわったわけではない。そのためにはローマ帝国の政治・経済・社会情勢の大きな変化が必要であった。ローマ帝国は、後2世紀末から後3世紀にかけて、さまざまな危機的な状況に陥った。属州反乱の頻発、ササン朝やゲルマン人との戦いなどが重なり、経済混乱も生じて社会不安に至った。また政治的にも軍人皇帝の時代という混乱期でもあった。

こうした経緯を経て、コンスタンティヌス帝によって、後313年、キリスト教が公認されることになった。それに伴って主としてキリスト教徒がかかわってきた冊子本が、従来からの巻子本にとって代わったわけである。およそ二百年にわたった巻子本と冊子本の競合状態に終止符が打たれた。そして古い古典古代の担い手の中から生まれた新たな形の書物(冊子本)が、それに続くヨーロッパの中世を経て、今日の私たちの書物の形態として定着したわけである。

<巻子本から冊子本への古典作品の写し替え>

数百年来使われてきた巻子本と並んで冊子本が登場し、最終的には巻子本を駆逐してしまったことは、ヨハネス・グーテンベルクの活版印刷術の発明と、それに続く写本に対する印刷本の勝利に匹敵するぐらい重要で、しかも後世に大きな影響を及ぼした出来事であった。

その最も大きな影響の一つが、古典古代の文献が、古代末期、中世を経て、さらに私たちの時代へと伝承されてきたことであった。とはいえローマ帝政末期に、私的な文庫を含めた当時の図書館の巻子本の蔵書を、新しい書物の形態である冊子本に移し始めた時、人々は文学上のその時代の嗜好と彼らの価値観に従って、古典古代の作品を取捨選択したのであった。
その結果、例えばアリストファネス(前450~前385)の44の喜劇作品のうち、わずか11作品だけが残ったのである。また以前には大変好まれたが、冊子本への移し替えの時代には、評価が下がっていたメナンドロスの作品も、わずかなものしか冊子本にならなかったのである。しかもこれらは今日には伝わっていない。そのため私たちが現在メナンドロスの作品について所有しているテキストは、いくつかの引用は別にして、エジプト出土のパピルス巻子本だけなのである。

また東西両ローマ帝国の貴族層およびコンスタンティウス二世統治下のコンスタンティノポリス図書館をはじめとする当時の大規模な図書館も、率先して古典古代の数々の作品を、パピルス巻子本から羊皮紙冊子本へと書き写す作業を奨励するようになった。これらはスポンサーの嗜好と財力を反映した豪華本であったが、少なからぬ数の豪華本が、多かれ少なかれ、完全な形で現存しているのだ。それらを列挙すると、次のようになる。

後4,5世紀の二冊のヴェルギリウス冊子本、 ミラノのアムブロアシアーナ図   書館所蔵の後5世紀末のイリアス、ウィーンのオーストリア図書館所蔵のディオスクリデスの植物標本(献呈の銘により後512年より前のもの)、大英博物館所蔵の後5世紀の創成期、紫の羊皮紙製の3冊の『ウィーン創成期』、ロッサリーノの福音書、パリ国立図書館所蔵の後6世紀の『シノペ福音書』、

これらはごく著名なものであるが、それらがよく知られているのは、イラストが豊富に入った冊子本という理由によるのだ。ただそうしたイラスト入り冊子本は、テキスト伝承の点でいうと、必ずしも良いわけではない。たとえば後4世紀に書かれたテレンツ冊子本は、文字の字面は美しいのだが、テキストの書写にあたって間違いが多いので、文献学者の間では評判が悪いのだ。

<冊子本の形態>

冊子本の形態については、下の図像に見られるように、二つの基本形を区別することができる。

冊子本の形態(右側ー基本形A、左側ー基本形B)

基本形Aは今日の学校で生徒が使っているノートのようなものである。つまりたくさんのパピルス紙葉を中央で折り曲げて、再び開いたものである。この一束の紙葉は、折り目の線に沿って、糸で縫い合わされた。この形に属するもので代表的なものは、紀元後300年ごろの「ボドマー・コーデックス」と呼ばれるものである。そこにはメナンドロスの喜劇『気難し屋』の全文および『サモス島から来た女』と『アスピス』の大部分が収められている。
ただこの冊子本には次のような欠点があった。そこに使用される全紙の数が増えれば増えるほど、本を閉じるときに緊張が加わる。その結果、本の背中の部分に裂け目ができるか、もしくは綴じ糸が全紙の内部に食い込むようになる。そのため、しばしば折り目の個所に羊皮紙または革の細い帯状のものを貼り付けて、保護していたのだ。

基本形Bは基本形Aの技術上の欠点を改善するために、考案されたものだといえよう。この基本形Bは一折の紙葉を複数重ねて、その束(これを帳と呼ぶ)ごとに、その背中を縫い合わせていったものである。このやり方が、中世から現代にいたるまで伝えられた。こうした製本上の技術については、冊子本をよく観察するとわかるが、普通は気が付かないものである。

古代の冊子本にあっては、そうした個々の帳は全紙4枚からなっていたが、その全紙4枚から8葉、ついで16ページとなるのだ。1帳が全紙4枚から構成されているもののほかに、全紙1枚のもの、全紙3枚のもの、全紙5枚のもの、さらには全紙9枚のものまであった。

<冊子本の大きさ>

冊子本の大きさについてみると、後2世紀及び後3世紀の現存するもっとも古い冊子本では、縦長の長方形で、厚さ300ページ以下となっている。パピルス冊子本と並んで、羊皮紙の冊子本が登場するようになった後4世紀以降になると、もっとサイズの大きな本が現れてきた。これまでに知られているものの中でもっとも大型のパピルス冊子本の一つに、後4~5世紀のコプト教の詩篇を収めた冊子本があるが、これは少なくとも638ページある。さらに聖書全編を収めた後4世紀の羊皮紙製冊子本は1600ページある。また本の縦横のサイズについては、縦40センチ、横34センチという巨大本もあった。

いっぽう小型本のほうは、縦45ミリ、横38ミリというものもあった。それでも厚さは192ページもあった。その製作年代は後4世紀から後5世紀にかけてのもので、内容はマニ教の開祖の生活を記したものである。これよりさらに小さな本としては、縦40ミリ、横26ミリであるが、パピルス冊子本とはいえ、折りたたんだ1紙葉のものである。これはおそらく魔よけのお守りとして使われていたものと思われる。教父ヨハネス・クリュソストモスも、「キリスト教徒は福音書のテキストをお守りにして、首からかけていた」と書いているのだから。

<冊子本の装丁>

巻物状の巻子本とは違って、冊子本にはしっかりした表紙がついていた。この点現在の書物と共通している。ただ古代の冊子本の装丁に関する私たちの知識は、長い事わずかであった。ところが1945年から46年にかけてエジプトのナグ・ハマディで発掘された後4世紀の13冊に及ぶコプト教のパピルス冊子本によって、私たちの知識は著しく豊かになった。この冊子本は、その製本が唯一の束(帳)からなっている基本形Aに相当するものである。下図のように、その装丁はとても良い状態に保たれている。

エジプト出土のパピルス冊子本とその表紙

13冊の冊子本の装丁は、それぞれわずかな違いがみられるものの、おおよそ次のようになっている。まずその表紙にはヤギまたは羊の革が使われている。その大きさは、その上部、下部そして右側が、製本された紙葉よりも数センチ広い。そして左側には、三角形の布切れが付いている。パピルス紙葉を重ねて作った厚手の表紙を革の内面に貼り付けた後、革のはみ出した部分は折り曲げて、表紙に貼り付けた。その後、製本された紙葉の折り目には、革の細い帯がくっつけられた。それから細い革紐で綴じ合わせることができるように、表紙の一部に穴があけられた。そして最後に、表紙の革は、本の背中のところで穴があけられ、本の紙葉を内側に置く。それから細い革紐をこれらの穴に通す。こうして製本された本を閉じると、表紙の上部に取り付けられた三角形の布切れを、その先端に着いた細紐で動かして、冊子本全体をしっかりと綴じることができるのである。

 

<冊子本の場合の筆写のやり方>

冊子本の場合、紙の上への書き込みの作業は、通常装丁を行う前になされた。書き手はまず書くべきテキストの中身を吟味して、パピルスにするか羊皮紙にするか、その書写材料を選択した。それからあらかじめ1帳(紙葉を束ねたもの)ごとの全紙の数を確定しておく必要があった。というのは書き始めてからでは、1帳のページ数を変更できなかったからである。

また書いている間、ページや帳の順番をきちんと把握しておかねばならなかった。そのための一番簡単なやり方は、事前の丁付け(ページ数をつけること)であった。冊子本の多くで、こうした丁付けが、たいていの場合、上端の中央部になされていた。この丁付けの作業は、本を製本した後で行われていた。それは読者がテキストの中の特定の個所を、いつでも速やかに見つけられるようにとの、配慮であった。これは巻子本の場合にはできないことであった。
この実利的な便利さという考えは、官庁や商売上の実務に伴って生じてきたものといえよう。

また羊皮紙冊子本の場合は、書く前に羊皮紙の上に尖筆によって罫線が引かれた。これによってページごとに書くための面積が同じになり、上下同じ間隔で書くことができたのである。また文字を収めるスペースがページごとに異なることがないようにするために、1帳ごとに紙葉を重ねて、1ページの中の各部分の四隅に穴を通して開け、文字を書く範囲を確定したのである。

ギリシア・ローマ時代の書籍文化 01

その01 ギリシア・ローマにおける文字の誕生とその活用

私が<ギリシア・ローマ時代の書籍文化>の研究を始めた動機

私はこの30年ほど、ドイツおよびヨーロッパの書物ないし出版の歴史を研究してきた。そしてその過程で、数冊の研究書を著した。ドイツの出版史の通史ともいうべき『ドイツ出版の社会史』(1992年)から始まって、19、20世紀のドイツ出版文化史の一側面としての『レクラム百科文庫』(1995年)、15世紀半ばに活版印刷術を発明したグーテンベルクの生涯と業績について書いた『グーテンベルク』(清水書院「人と思想シリーズ」、1997年)、そして15世紀から18世紀までを扱った『ヨーロッパの出版文化史』(朗文堂、2004年)などである。この最後の著作において、いわば導入部としてグーテンベルク以前のヨーロッパ中世の書物(写本)の世界について、一般的状況を述べた。

その後私の関心は、中世以前つまり古代ギリシア・ローマ時代の書籍とそれをめぐる状況は、いったいどんなものだったのか、という事に向かった。そうしたときに出会ったのが、“Das Buch in der Antike”(ギリシア・ローマ時代の書物)というドイツ語の本であった。この著作をざっと読んでいくと、本書こそ私が求めていた研究内容の要諦を十二分に満たしてくれるものであることが分かった。そこで私は、本書を日本語に翻訳して、広く日本の読者に提供することにした。翻訳が終わった段階で、ギリシア・ローマ史の専門家に読んでもらった。その際古代ギリシア・ローマ時代の人名、地名、官職名、建築物の名称その他もろもろの表記法ならびに西洋古代史の知識一般について、ご教示いただいた。

こうして刊行されたのが、『ギリシア・ローマ時代の書物』(朝文社、2007年10月)であった。このブログでは、本書に基づいて、<ギリシア・ローマ時代の書籍文化>一般について、わかりやすく紹介していくことにしたい。

ギリシア人はフェニキア人から文字を借用

今日の日本では、時代も空間も遠く離れた古代ギリシアに発するもろもろの事柄が、驚くほど豊富に浸透している。それはなぜであろうか? 日本は長い事、中国文化圏の辺境にあって、その影響を強く受けてきた。そして実に長い間、中国以西の事柄については、シルクロードを通じてもたらされた正倉院御物などの文物や、遣隋使、遣唐使などによる事物や知識の受け入れによって知ってきたに過ぎない。

遠く離れた西洋の事情について日本人が本格的に知るようになったのは、端的に言って、今から170年ほど前の幕末維新の文明開化の時代からのことであった。
その後、その西洋文明の基盤を作ってきたギリシア・ローマ文明についても、少しずつ日本に伝わるようになってきた。現在、日本でも、ギリシア神話やローマ神話に関する一般的な書物、ギリシア悲劇の上演、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどのギリシアの哲学者たち、古代ギリシアのオリンピアで発祥したオリンピック・ゲーム、ギリシア文字のアルファベット(アルファ、ベータ、ガンマ・・・)、アテネのパルテノン神殿、ローマのコロッセウムや各地に残る水道橋などなど、様々なことが一般の日本人の間に知られている。

いっぽう<ギリシア・ローマ時代の書籍文化>となると、日本ではほとんど知られていないと言えよう。いうまでもなく、書籍は文字によって書かれたものであるが、例えば古代ギリシア時代に、書かれていた文字はいったいどのようなものであったのだろうか?

その前に古代のギリシア人とはいったいどのような人々であったのか、ざっと紹介しておくことにする。この民族はインド・ヨーロッパ系で、紀元前20世紀以降、バルカン半島北部からギリシアに南下、定着した。方言により、東方方言群(イオニア・アイオリス人)と西方方言群(ドーリア人)に分かれる。このうち、イオニア人は半島東部や小アジア西岸に定着したが、アテネが代表である。

これらのギリシア人は、前8世紀ごろ、有力者(貴族)が中心となって軍事的・経済的要地へ移住し、周辺の村々を統合した。それらがポリスと呼ばれる都市国家であったが、城壁で囲まれた中心市と、周囲の田園地帯とからなっていた。それぞれ政治的に独立しており、1000以上のポリスが存在していたという。

いっぽうギリシア人たちは、航海が得意で、これらのポリスを離れて、エーゲ海沿岸やさらに地中海沿岸、イタリア半島沿岸などに、植民市を作っていた。これらのギリシア人たちはギリシア語の方言を話していたが、はじめは、文字を持っていなかった。そのため現在のレバノン海岸に多くの都市国家を建設し、地中海貿易を独占していたフェニキア人の文字を、ギリシア人は前8世紀に借用した。その場所は、フェニキア沿岸のギリシア(イオニア人)の在外公館だったといわれている。

フェニキア・アルファベットの借用と改良

フェニキア人は、セム系の民族であったが、エジプトの象形文字から発達したシナイ文字を基に自分たちの文字を作った。それは22の子音からなる表音文字であった。ヘブライ文字やアラビア文字と共通しているといわれる。いっぽうギリシア人は、インド・ヨーロッパ系で、言語系統は異なっていた。そのためフェニキア文字を借用する際に、根本的な修正を加えた。ごく大ざっぱにいって、ギリシア語には表れない子音価を持つ5つのフェニキア文字を、母音aeiou,を表す文字としたのだ。たとえて言うと、古代の日本で、中国の文字(漢字)の発音だけを借用して、万葉仮名を作ったのと事情は似ているといえよう。

ところでドイツ人の文献学者キルヒホッフは、初期ギリシアのアルファベットを東部ギリシアと西部ギリシアに色分けした地図を作製した。それによってそれぞれのアルファベットの普及図を、東部は青色、西部は赤色という具合に色分けしたのだ。前750年ごろから導入されたアルファベットは、前5世紀初めには、全ギリシア語圏に定着したという。ただ東部と西部という具合に大きく区分けされただけではなく、個々の都市国家や地方で、アルファベットの無数のヴァリエーションも生まれていた。

地域文字の統合へ

ギリシア・アルファベットはその後、「地域文字」を統合する方向に向かった。それはすでに廃れてしまった記号を廃棄することによっても示された。これに関連して、極めて重要で、しかも後世に影響するところの大きかった出来事が、前403年に、アテナイの首席執政官エウクレイデスの時代に起こった。それは住民投票によって、ミレトス市のアルファベットを借用するとの決定が行われたことだった。その改革によってアテナイに、新たに4つの文字が導入されたのであった。そして時期の差はあれ、すべてのギリシアのポリスや地方で、このいわゆるエウクレイデスのアルファベットを事実上、習得するようになったのである。その結果ギリシア語のアルファベットは、最終的に24個になったのであった。

ところでギリシア文字で書かれた最も古い証拠物件の一つが、イタリア半島のナポリ近くに浮かぶイスキア島にあったイオニア人の植民市ピテクサイ出土の陶器である。これは前8世紀後半のものである。もう一つの証拠物件は、エーゲ海南部に浮かぶかなり大きなロードス島から持ち込まれた飲用容器である。そこにはある書くことの達者な人物が、宴会の場で上機嫌に一つの格言を書き込んでいるのだ。「ネストルの杯は飲むによし、されどこの盃により飲みし者は、直ちに美しき冠を付けしアフロディテの求めを受けることになるべし。」この盃が回し飲みされたところでは、人々がただホメロスを知っていたというだけではなくて、このような詩を作ることさえできたのだ。

ギリシア文字からエトルリア文字ができた

イタリア半島の中部トスカーナ地方を中心に、系統不明の民族エトルリア人が定住していた。その最盛期は紀元前7~前6世紀で、王政の12の都市国家が都市連合を形成していた。一部のエトルリア人は前7世紀末にローマを支配したが、前5世紀以降衰えて、前3世紀にローマに征服された。とはいえこのエトルリア人は、建築のアーチ・水道橋をはじめ、衣服、官制、習慣などで、ローマに大きな影響を与えたのであった。

さてこのエトルリア人は、イタリア半島中部にあったギリシア人の植民都市に居住していたイオニア人の使っていたギリシア文字を借用したのであった。それはギリシア人がフェニキア文字を借用してから数十年もたたない時期であった。エトルリア文字で書かれたもっとも古い銘文は、前700年ごろの陶土製の容器に刻まれたものであるが、それらは南エトルリアの中心地で発掘されたものであった。

当時エトルリア人は西南アジア及びギリシア世界と活発な商業活動を展開していたが、その過程で大規模な都市施設が作られ、また豊かさの上に貴族制度が生まれていた。貴族たちは物質的な財とともに、意識的にオリエント的、ギリシア的な生活様式も取り入れていた。この生活様式には、文字の知識とその習得も含まれていたわけである。

中部トスカーナ地方で発掘された「王侯貴族」の墓(前670年)に入れられていた副葬品の中から、象牙製の書き板が発見された。この書き板の平面には蝋が塗られ、その上に子供が尖筆で書いていたのだが、上部の縁には手本として26のアルファベット文字が書き込まれているのだ。これは児童用の文字の練習板だったのだ。

副葬品の中から発見された象牙製の書き板。上部の縁に手本用のアルファベットが書かれている。

とはいえエトルリア人はそうした模範的な26のアルファベットの文字すべてを使っていたわけではないようだ。ギリシア人がフェニキア人のアルファベットを借用したときにしたように、エトルリア人も借用したギリシアのアルファベットを、彼らの言語の音価に適合させねばならなかったからだ。そしてそうした作業を行ったうえで、エトルリアのアルファベット文字を作り上げたわけである。その際彼らは、横書きで右から左へと書いていたことが注目される。ギリシア人は横書きで、左から右へと書いていたのだが。

ローマ人(ラテン人)もギリシア人からアルファベットを借用した

この時期イタリア半島には、エトルリア人と並んで、インド・ヨーロッパ系のイタリア人が、北から南下して居住していた。その第1波(ウンブリア系)は、前16世紀ごろに、半島東南部の山岳地帯に、そして第2波(ラテン系)は前11世紀末ごろに半島中西部の丘陵地帯に定着した。
この第2波のイタリア人はラティウム地方に定住したため、ラテン人と呼ばれている。そしてラテン人が建設した都市国家の一つローマが、のちに大帝国に発展したのであった。このラテン人が使っていたラテン語が、その広大な領域で用いられるようになり、そこから後にロマンス語と呼ばれる諸言語(フランス語、スペイン語、イタリア語など)が生まれたわけである。

さてラテン人が都市ローマを含めて、その隣接する地域の大きな中心部において、エトルリア人とほぼ同じ時期にアルファベットを借用したことは、考古学的に立証できる。その際エトルリア人が仲介の役割を果たしたことは、大いにありうることである。ラテン人の言語においても、借用したアルファベットの中にいくつか不必要な文字が混じっていた。そのためそれらを削除して、21文字から構成されることになった。またラテン文字を書く方向は、横書きではあったが、初期にあっては一様ではなかった。しかし前6世紀の終わりごろから、左から右へ書くのが増えてきて、最終的にそれに定着した。

いっぽうギリシア人はその文字に対して、極めて響きの良い名称を与えていた。つまりアルファ、ベータ、ガンマ、デルタ・・・といった風にである。同様にラテン人も簡明な音で文字を表した。つまり母音は(a, e, i, o, u) とし、子音に対しては母音を一つ加えて、発音しやすいようにした。(be, ce, de, ef, ha, kaなど)である。例外は後にアルファベットに加えられた、「純粋なローマ文字」ではないyとzである。それらに対してはギリシア語の名称ypsilonとzetが与えられた。

文字の活用(書くことと読むこと)

フェニキア文字がそれ相応の改良を加えられて、前8世紀にギリシア人によって借用されたとき、この新しい成果はしばらくの間、住民のごく限られた層の間で、なじまれていたにすぎない。そのおよそ百年後にアルファベットの借用が行われたエトルリア及び隣接したラティウムでは、発掘状況ならびに最古の碑文を記した証拠物件の種類から見て、文字の「所有」が初めは富裕な上層貴族に限られていたことは明らかである。アッテイカの最古の碑文であるアテネ出土の水差しに刻まれた六歩格の詩は、踊りや宴会との関連から見て、上流層の生活様式を示すものである。

しかしギリシアでは前7世紀以降になると、文字は公衆の間でも読まれるようになった。公衆向けに書かれた最古の碑文は、前7世紀のものである。最初それは法律文書や墓碑銘の類いであったが、その数はやがて数千に及んだはずである。そしてそれらはかなりの数の人々によって読まれ、理解されたものと思われる。前7世紀には既に、壺に書かれた碑文の中に、絵画に添えて画家の署名もみられるのだ。アテネのアゴラ(広場)から発掘されたものの中には、落書きが書かれた陶器の破片がたくさんあるが、その中にはごく普段の日常生活で書かれた手紙なども含まれている。

人々はいったいどのようにして書くことを覚えたのであろうか? その際、書くことに対して、人から人へと何らかの教授があったことが推測されるのである。とはいえ前7世紀や前6世紀のギリシアで、読み書きを教える学校が存在したかどうか、我々は知るところではない。しかし個人的な家庭教師や子供の親による授業があったことは、考えられる。ただ前5世紀になると、初等学校の存在を示す確かな証拠があるのだ。「歴史の父」と呼ばれるヘロドトスは次のように書いているのだ。「ラデ島近くの海戦を前にしたイオニア・ギリシア人の蜂起(前494年)の最中、キオス島にある学校の建物の屋根が崩落して、そこで文字を習っていた子供たち119人が死亡した」 ヘロドトスにとっては、学校の存在自体はもはや当たり前のことになっていて、そこで起きた大事故について伝えているのだ。

ドゥリスの壺絵に描かれた授業風景。ベルリン国立博物館所蔵

また前5世紀初めのものとして、学校生活をテーマにした現存する最古の壺絵が存在する。この種のものとしてもっとも有名なものが、ベルリンにあるドゥリスの壺絵である。そこには3つの授業科目の様子が描かれている。それはまずグランマタ(読み書きの授業)、ついで散文や詩の講義と暗唱の時間、そしてムシケ(音楽と踊り)とギュムナスティケ(体育)の時間である。上の壺絵を見ると、椅子の上にひげを生やした教師が竪琴をもって、座っている。その前には、同じ楽器の弦をつま弾いている少年が座っている。もう一方の絵柄は、ひげを生やした男が背もたれのついた椅子に座って、巻物を開いている様子を描いている。その巻物の中に、壺絵の作者は詩句を書き込んでいる(壺絵を見る人が読めるように横の方向に)。下の壺絵を見ると、一人の少年に対して二重の笛を吹いて聞かせている若い男の様子を描いている。その横の絵柄は、椅子に座っている男から暗唱の試問を受けている少年を描いたものだ。その横に椅子に座って、後ろを振り返っている男の姿がある。

アテナイの民主主義と文字の習得

上に述べたドゥリスの壺絵は、初期アテナイの民主主義において、文字の習得とその使用が、市民にとって重要な事柄になってきた、という事を示している。同時代に書かれた文学もそのことを反映しているのだ。たとえば有名な悲劇詩人アイスキュロス(前525~前456)の場合、正義の女神ディケが主神ゼウスの書き板の上に人間の犯罪行為を書き記す場面がある。また別の悲劇詩人ソフォクレス(前496~406)が書いた作品の中では、アカイア人の王がトロイアへの進軍を前に、皆がその誓いに従っているかどうか、調べさせているのだ。さらに第三の悲劇詩人エウリピデス(前485~前406)では、その作品『テセウス』の舞台の上に一人の無教養な羊飼いが登場し、ある人物の名前のつづりを書く場面が出てくる。無教養とはいえ、その羊飼いはギリシア文字のアルファベットは書けるのだ。

こうした偉大な悲劇の場合より、むしろ喜劇の中でしばしば読み書きの習得が事実上当たり前のことになっていた事が示されている。例えばアテナイ最大の喜劇作家アリストファネス(前450~前385)の作品『騎士』の中では、神のお告げを読むことができる、小アジアのパフラゴニア出身のソーセージ売りと一人の男が登場している。また彼の別の作品『鳥』の中では、文字を読むことのできる重装備の装甲歩兵たちに対して、出征のあとで家に帰るときに掲示板の告知に注意するようにとの指示がなされている。同じ作品の別の個所では、占い師クレスモロゴスが巻物状の本(ビブロス)をもって舞台に登場し、それを読んでいる。

前5世紀のアテナイでの書籍販売人

同様にして喜劇の中で、前5世紀のアテナイでは書籍販売人が当たり前の職業として現れていることを確認できるのだ。例えば喜劇作家ニコフォンはその作品『手仕事で生活する人々』の中で、書籍販売人を、市場に販売スタンドを持っているというので、八百屋、魚屋、炭販売人、菓子屋などと一緒に扱っているのだ。また先に述べたアリストファネスは『鳥』の中で、朝早く書籍販売人の陳列品を眺めている人々の群れをあてこすっている。

いっぽう同じアリストファネスは、皆の前で朗読するのではなくて、一人で静かに本を読んでいる人の存在を立証する最も早い時期の文学を提供しているのだ。そこでは、最近船の上でエウリピデスの『アンドロメダ』を一人で読んでいたのは、人間ではなくてディオニュソス神であると、ユーモアたっぷりに書かれている(『蛙』)。この箇所は、一義的に舞台での上演用に書かれた戯曲作品を、人々が黙って読んでもいたことを、示している。

オネシモスの壺絵。中央の人が巻物を広げて読んでる。

「一人で読書する習慣」は、すでに前5世紀の80年代からアッティカの壺絵作者によって、画題としてとりあげられている。その際しばしば、人々の中で朗読したり、楽器の伴奏とともに本を読んでいる場面も描かれている。もし描かれた対象が若い女とか娘の場合は、詩歌・芸術をつかさどるムーサイの神が選ばれている。またそれはしばしばアテナイの「良家の子女」だったりするが、いずれにしてもムシケやグラマティケにふさわしいのは、男ではなくて女性であると考えられていたようだ。

陶片追放と文字

ペイシストラトスの僭主政治が力を失った後、アテナイの初期民主主義はいわゆる陶片追放という制度を導入した(前487年)。これは国家の中で一人の人間があまりに強くなることを防ぐものであった。この制度の実施が決められた時、すべての市民がアゴラ(広場)に集まった。そして権力乱用の疑いがもたれた政治家の名前を陶片に書いて、投票した。投票総数が6000票以上あったときは、最多得票の政治家は10年間、アテナイから追放されたのであった。この陶片追放の最初の犠牲者は、ペイシストラトスの後継者ヒッパルコスであった。

陶片追放の際に用いられた陶片は一万個以上発見されているが、それによるといくつかの名前が、ある同一人物によって書かれていることが明らかにされている。それは政治闘争の中で有力な世論形成者がやったことかもしれないし、あるいは文字を書ける人物が書けない人の代わりをしたのかもしれない。また文字を書けない田舎者が、アリステイデス本人だとは知らずに、近くにいた本人にアリステイデスの名前を書くように頼んだ、という笑い話もあるのだ。そうした文盲がいたにしても、アッティカ市民の大多数が、名前を読んだり書いたりできなかったとしたら、陶片追放の制度自体が成り立たなかったであろう。

アテナイ及びギリシア世界の他の中心地域においても、前5世紀初頭以降には、大部分の人々が読み書きできたのである。ただ前3世紀初頭以降、ギリシア人によって支配されるようになったエジプト地域では文盲の数が相対的に多かったといわれている。そこに住んでいたエジプトの住民は自国の言葉を話し、読み書きできていても、支配者だったギリシア人やローマ人から文盲とみなされていたようなのである。

児童の文字習得

ギリシアでは読み書き習得のために、子供が6歳か7歳になったとき授業が始まった。まずは文字の習得にあたって、児童たちはアルファベットを初めからも終わりからも言える必要があった。普通の家庭の子供たちには、木片や象牙に文字を刻んだものを与えて、遊びながらアルファベットを覚えさせた。それから子供たちは文字を書くことを学ばねばならなかった。ごくまれにパピルスが書くための材料として用いられたが、たいていの場合は、蝋を引いた木版の上に尖筆で文字を書いていた。ただアテナイでは、児童が使っていた石盤が発見されているが、一般的なものではなかったようだ。

最初の段階では、初等学校の教師は学童の手を取って教えた。まず教師が蝋を引いていない木版のうえに文字を書き、学童は自分の尖筆でもってその跡をなぞりながら、正しい形を覚えるまで書いていったのだ。その後これらの文字は、いろいろな綴りに結ばれていった。そうした後になってようやく、やさしいものから難しいものへと、言葉や名前を全体として書くことができたのだ。こうしたやり方については、数多く現存している学童の練習帳や宿題帳の類いによってみることができるばかりではなくて、古代の作家たちのコメントによっても分かるのである。

次の段階では教師が個々の文章(たいていは道徳的な文章)を韻文形式で書き記し、子供たちはそれを真似したのである。プラトンがプロタゴラスに口頭で伝えた比喩から我々は、教師が書き板の上に二本の線を引き、その線の間に学童が文字を書かねばならないことを知っているのだ。そのような書き板の上部に教師は正確にある格言を記したが、学童はその下に二度同じ格言を書き写している。下の写真は後2世紀のものだが、これを見れば初等教育のやり方というものは、何世紀たっても基本的には変わらないものであることが分かる。

学校での文字練習用の書き板

読むことの習得

読むことの習得は、書くことの習得と切り離すことはできないものである。つまり互いに不即不離の関係にあるのだ。したがって読むことの練習も、同じ方法で行われたのである。個々の文字の次には個々のつづりへ、そして個々の単語へと進んだ。そしてその単語も発音の易しいものから難しいものへと。また名詞や動詞の語形変化の練習も済まさねばならなかった。そして最後に書き取りや読むためや暗唱するために、かなりの分量のテキストが用意された。

それは短い物語であったり、有名な詩人や散文作家の作品からの抜粋であったりした。まずホメロスがきて、それから悲劇詩人のエウリピデスや喜劇作家のメナンドロス(前342~前292)、アッティカの雄弁家デモステネス、ヒュベレイデス、イソクラテスとなった。

前4世紀後半のアレクサンドロス大王の大遠征の後、エジプトや西南アジア一帯が政治的、文化的にギリシアに組み込まれた。ヘレニズム時代と呼ばれるその時代になると、その地域の都市にはいたる所にギュムナシオンと呼ばれる教育機関が生まれた。これは主として若者の身体教育を担う所であったのだが、上級学校の人文科学的科目の授業の場所としても用いられた。ここではグラマティコス(文法学者)が教えていた。授業の主たる教材としては、偉大な詩人や散文作家の作品がそのまま用いられた。生徒たちは今や積極的にこれらの作品に取り組み、考えたり、論じあったりしなければならなかった。さらに一連の課題が与えられたが、それについては我々はオリジナルな形で残っているものによって直接知ることができるのだ。

今や書くための材料としてはパピルスが用いられたのだが、真新しいものではなくて、すでに書かれたものの裏側を使うのである。ギュムナシオンの生徒に対する課題の一つに、本文を解釈する仕事があった。例えばホメロスの章句のわきの欄外に、詩人によって用いられた言葉の解釈を書き加えねばならないのだ。さらにある文学作品の一節を自分の言葉で言い直すという課題もあった。あるいは与えられたテーマに即して作文をするという作業もあった。それから音律に従った正しい朗誦を習うために、一語一語綴りや節に従ってアクセントをつけて唱える練習もあった。

ローマにおける読み書きの習得

前4世紀初頭、中部イタリアのファレーリの町に小学校の教師がいて、数多くの家庭の子供たちにギリシア風の授業を行なっていたことが伝えられている。またラティウムの都市トゥスクルムにも、この時代すでに学校があったという。そして前234年にローマで最初に報酬をとった学校が、ある解放奴隷によって開かれたことが、プルタルコスによって伝えられている。さらに前310年ごろ、エトルリア文学を学ばせるために、子息たちをカエレに送ったことも知られている。当時エトルリアの教育制度は相当高かったと言われる。

いっぽうエトルリアの美術には、モノを書く神々が表されているが、それはたいて死者の名前を書いた巻子本あるい二枚折の書き板を手に持った死の悪霊なのである。発掘されたエトルリアの石棺や骨壺はおびただしい数に上るが、それらの石棺の上には、書き板や巻子本を手にした人物の像が乗せられている。そしてそこにはしばしば死者の名前や年齢が記されているのだ。タルクィニアのラリス・プレスナ出土の巻子本には死者の簡単な経歴も記されている。それは文字や文学にかかわった一人の人物だったことが分かる。

出土した石棺の蓋の上に横たわる人物。ひろげた巻子本を手にしている

ローマ人がヘレニズム時代にギリシア世界の一部をその支配下におさめていったとき、彼ら、とりわけその上層の人々は、物質的な財のほかに、被支配者の文学、学問そして教育面での文化財などを、自分たちのものにしていったわけである。その一環としてギリシアの作品をラテン語に翻訳する作業もなされた。最初の翻訳者はリウィウス・アンドロニクスという人物であったが、彼は前3世紀の後半に『オデュッセイア』をラテン語に翻訳した。また前1世紀のローマの哲学者キケロが言っているように、ローマの教養人にとって二つの言語を話すことは、ますます自明のことになっていったのだ。

さらに都市ローマや他の中心的な都会では、紀元前1世紀の共和制末期から帝政時代にかけて、一般に書くことや読むことが多くの人々にとって当然の能力になっていったわけである。このことは壁に書かれたグラフィット(落書きの類い)や壺などの容器に書かれた銘文、あるいは公的・私的を問わず無数に存在した銘文などによって証明されるのだ。壁に書かれたグラフィットの多くには詩の引用が見られたりするが、こうしたものは必ずしも文学にかかわっていたわけではなかった。中には計算が上手にできることや、碑文を読めることを自慢しているものも少なくないからだ。さらに詩文を軽蔑した成り上がり者たちもいたのだ。

ローマにおける上級学校教育

ローマにおける上級学校教育の開始は、前3世紀から前2世紀への転換期のころのことである。最初のラテン語の教師は、先に紹介したリウィウス・アンドロニクスであった。彼はギリシアの伝説を材料にして、数多くの戯曲を作ったのだが、とりわけホメロスの『オデュッセイア』を大変正確にラテン語に翻訳した人物である。次いで前2世紀の前半には南イタリア出身のエンニウスが教師として活躍する傍ら、数多くの戯曲や風刺作品のほかに、ラテン語による最初の国民叙事詩を書いている。それはローマの歴史に題材をとった『年代記』であった。

   レリーフに描かれたアウグストゥス帝時代のラテン語授業の風景。

ラテン語文法の授業がしっかりした形をとるようになったのは、ようやく前1世紀終わりのアウグストゥス帝の時代のことであった。そのやり方はギリシアの上級学校を模倣したものであったが、唯一の違いはラテン語の詩文が使われたことであた。ローマ第一の詩人ウェルギリウスを初めとしてホラティウス、オウィディウス、ルカヌス、スタティウスなどである。ウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』は、その死後公刊され、授業にも直ちに取り入れられた。そして長らくこの作品は、授業での教材として第一位を占め続けた。もっとも重要な散文作家としては、政治家でもあったキケロ及び歴史家のサルティウスを挙げることができる。

ローマの教養層の間では、少なくとも前1世紀前半のキケロの時代以降は、二言語を用いるのが普通だったので、ラテン語の授業と並んでギリシア語の授業も重要であった。首都ローマ並びにローマ帝国のラテン語圏の都市では、ギリシア語学校の教師はほとんどがギリシア出身者、それもしばしば解放奴隷の身分のものであった。また上流階級の間では、文学的教養を身に着けた解放奴隷を、秘書や朗読者あるいは私設文庫の司書として雇う習慣があった。

雄弁術のための修辞学学校

前5世紀以降、古代ギリシア・ローマ時代を通じて、雄弁術というものが重要な意味を持っていた。明晰にそして説得的に、さらに人々の心をかき立てるように演説できることは、当時の政治家や弁護士や将軍たちにとって、必須の前提であった。
こうした伝統はその後ヨーロッパにも受け継がれて、現在においても欧米世界では、演説の重要性は公的世界で活躍するリーダーたちにとって、自明の理になっているわけである。この点は、以心伝心や忖度など、言葉によらない意思疎通がまかり通っている日本とは大きく事情を異にしているようだ。

さてギリシア・ローマにおいて、公の世界で指導的な役割を果たそうという者には、修辞学の勉強が不可欠であった。そのためアリストテレスやキケロなどの著名な人物は、雄弁術について数多くの手引書を書いている。また後1世紀に活躍した雄弁家のクインティリアヌスも、『弁論術教程』という著作をものしている。我々はそこから学校の低学年の授業における有用な助言をくみ取ることができる。著者によれば、雄弁家になるためには、すでに子供の時からの教育が大事だというのだ。

雄弁術の習得は、主として散文作品とりわけ著名な雄弁家が残した作品に基づいていた。とりわけゴルギアス、アンティフォン、イソクラテスといった雄弁家の著作が、授業で取り上げられていた。その最も重要な路線を定めたのは、バロック的な言葉の誇張を嫌った前4世紀アッティカの偉大な雄弁家たちであった。そのためデモステネスをはじめとするアッテイカの雄弁家たちのテキストが、パピルスなどに数多く残っているのも、何ら不思議ではない。そうしたパピルスの中には、学生が書き写したものも少なからずあるのだ。

声を出してする読書

今日われわれは、書物や新聞やその他のテキストを、通常声に出して読むことはしない。ところがこの読書の習慣は、古代ギリシア・ローマにあっては、逆転していたのだ。つまり少なくとも文学ないし詩に関するテキストは、一人でいるときも、声に出して読んでいたのだ。そしてこの習慣を破った場合には、奇妙なことをする人だと思われたようだ。古代にあっては、文学は読むときにも、音の響きとともに受容されていたわけである。そのため芸術的な内容の散文作品の場合にも、耳に心地よいように工夫がなされたのだ。文章はリズムに乗って流れるように書き、母音が連続することは避けていた。また富裕な人々の間では、詩や散文のテキストを、手慣れた家内奴隷に読ませることが、普通に行われていたという。

とはいえ古代の人々が全く黙読しなかった、とまでは主張することはできない。とりわけ記録文書や手紙などの場合は、黙読されていたことを証言する資料も若干ながら存在する。そしてまた、少なくともローマ時代には存在していた公共図書館の読書室において、すべての人が声に出して読書していた、などと想像することは難しい。他方、ヘレニズム時代の図書館には、利用者のために倉庫のような蔵書保管棚、広々とした柱廊広間あるいは遊歩廊が備わっていたので、これなら「声に出してする読書」に向いていたと言える。

読書する時の姿勢

次に人が読書する時の姿勢であるが、前5世紀初めのアッティカの壺絵に、読書する人間の姿が、初めて登場するのだ。そしてこのテーマは古代末期から、さらに後の時代にも引き続き好まれた。時として巻物状の本(巻子本)を手にして立っている人の姿も描かれている。とはいえ、もっと楽な姿勢で読書するのが普通だったようだ。つまり描かれたものを見ても、たいていは椅子に座って、両手でひろげて巻子本を読んでいるのだ。

巻子本を読んでいる人を描いた壺絵

いっぽう巻子本を読むときの動作と、そのさまざまな段階について調べた本が公刊されている。それによると、まず読み始めるとき、読む人の左手は巻物の初めの部分を開いている。いっぽうその右手はまだ沢山残っている膨らんだ部分を握っている。次いで巻物の中間部を読む姿が示され、最後には巻物の膨らんだ部分は左手が握っているのだ。また読書を中断したときの様子も描かれている。その時巻物は片方の手でつかまれ、その中間部は、巻き取られた最初の部分とまだ開かれていない終わりの部分の間で、たるんだ状態になっているのだ。次の図版をご覧になれば、このことはよく理解できよう。

         巻子本を読んでいる途中の姿を描いた墓石立像

この図版には、墓の中央に立ってその左手に巻子本を握っている一人の男の像がみられる。この立像の周辺に書かれた碑銘によって、帝政ローマ時代の後94年に、時の皇帝ドミティアヌスによって催された詩のコンクールで、立像に描かれた少年が詩を朗読して、優勝したことが分かる。

ドイツの冒険作家 カール・マイ

その09 後期作品の特徴

研究者による高い評価

カール・マイは「オリエント大旅行」のさなか、その内面にそれまで経験したことのないほどの大きな衝撃を受けたわけである。想像力の限りを尽くして営々と築きあげてきた自らの虚構の世界と、自分の目で見た現実の世界との間に、この時亀裂が生じたからである。そしてその頃外部から、前期作品の文学的な質を問う声も出てきたことも加わって、マイはその作風を大きく変えることになった。

こうして生まれた後期の作品は数こそ少ないのだが、その文学的な質は研究者の間で高く評価されているのだ。後期の作品には、「銀獅子の帝国 3・4」、「そして地上に平和を」、戯曲「バベルと聖書」、「アルディスタンとジニスタン 1・2」、「ヴィネトゥー 4」そして自叙伝「わが生涯と苦闘」などがある。

『そして地上に平和を』

これらの作品は、自叙伝は別として、現実の地理的背景を持たない象徴的な内容の物語になっている。とはいえ前期作品の主なジャンルであった世界冒険物語の基本的な性格は、依然として受け継がれている。つまり見知らぬ場所の風景や環境の描写を背景にして旅の冒険が展開されているわけである。しかし地球上のある地域から出発しながら、その舞台はいつの間にか作者が頭の中で作り出した架空の地域に変貌したり、あるいは初めから遠い星の世界で物語が展開されたりしている場合もある。そのため物語の世界が、神話の国のような幻想性と神秘的な雰囲気を漂わせているのだ。

象徴的な作品「アルディスタンとジニスタン 1・2」

ここでは1909年に刊行された後期を代表する最大の作品「アルディスタンとジニスタン1・2」の内容を詳しく紹介することを通じて、後期作品の特徴を明らかにしていきたい。この作品はそれまで読者の間で人気の高かった世界冒険物語に属する作品とは違って、文学的により高度な精神的レベルへと自分の創造力を転化させようとしたものである。そのため作家のアルノ・シュミットは、この作品及び「銀獅子の帝国3・4」を、<ドイツの高級文学>を豊かにするものとして大変高く評価しているのだ。同時に彼はこれらの作品を通じて、マイを「ドイツ最後の神秘主義者」と呼んでいる。またジェームズ・ジョイス作品のドイツ語訳者であり、「カール・マイ学会」の主要メンバーでもあるハンス・ヴォルシュレーガーも、後期作品において前面に出ている哲学的思考に注目する一方、それらは美的感覚に満ちた作品だと称賛しているのだ。

さてこの作品の舞台はこの地球の上ではなく、伝説の星「シタラ」に設定されている。そしてその星の上に、アルディスタン、メルディスタンそしてジニスタンという地域を作り出し、そこに作家の頭脳から自由自在に紡ぎだされた地理や風土や人々を登場させている。とはいえ主要な人物としては、前期作品の世界冒険物語に再三再四登場させてきた、読者におなじみの人物たちが、従来とは全く違った姿で現れているのだ。つまり「オリエント・シリーズ」の主役たち、カラ・ベン・ネムジ、ハジ・ハレフ・オマール、マラー・ドゥリメーそしてシャカラの四人である。

物語の素材をシュールレアリズム化させるにあたってマイは、偉大なる先人作家たちの作品から強い刺激を受けたものと思われる。すなわちダンテの「神曲」、トーマス・モアの「ユートピア」、バンヤンの寓意物語「天路歴程」、ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」そしてニーチェの「ツアラトゥストラはかく語りき」などである。

物語のあらすじ

『アルディスタンとジニスタン』第一巻の表紙

宇宙船「誕生号」に乗って星の国「シタラ」に到着したカラ・ベン・ネムジとその従者ハレフの二人は、この「星の花の国」の年老いた伝説的な女帝マラー・ドゥリメーを訪れた。そして高台の上にある彼女の宮殿の客人となる。女帝の支配領域は、広々とした低湿地と荒野の国アルディスタン及び明るい高地にある、豊饒と美と清潔の国ジニスタンの二つである。アルディスタンは暴力人間の国であり、ジニスタンは高貴な人々の住む国である。その一方の国から他方の国へ行くには、その中間に横たわっているメルディスタンつまりほとんど道らしい道がなく、岩がごろごろしている地峡地帯を通過しなけれならない。ちなみにこれらの国の「スタン」という語尾は、中東イスラム圏のアフガニスタンとかパキスタンといった国々の名称をほうふつとさせるものがある。

それはともかくこの「メルディスタン」の中心に「クルブ」という心の森があり、その森の中に人の魂を鍛える「魂の鍛練場」がある。そこへ入った者はさまざまな拷問によって試練を受ける。この試練に耐えられなかった者は、深い奈落の底にある沼沢地へと突き落とされる。いっぽう耐え忍んだ者は、あらゆる悪の要素や低劣な要素を清められて、高貴で威厳のある存在として人間性の国であるジニスタンへ送り込まれる。

さて女帝マラー・ドゥリメーは、アルディスタンとジニスタンの間に戦争が勃発したとの知らせを受ける。すると彼女は和平への特使として、カラ・ベン・ネムジとハジ・ハレフを、アルディスタンの支配者のところへ派遣する。この専制君主はアラブの首長に倣ってエミールを称している。この人物はその国民を苦しめ、虐待し、人権などは全く認めない。そして人々が逃げ出さないように、軍隊によって国境を厳しく監視させている。カラ・ベン・ネムジの使命は、この暴君の良心に訴えて、講和を結ばせ、ジニスタンで行われているような社会的公正と善良さに基づいた統治へと導くことであった。

主人公とハレフはその旅の途上、じめしめとした低湿地に住む巨人族ウスールに出会うが、策略を用いて巨人たちを退治して、手なずけた。ついで隣接した砂漠の国チョバンを通って、アルディスタンの暴君が邸宅を構えているアルドの町へ向かった。そしてその暴君と会見した。ところがちょうどその滞在中に、その地で謀反が起こった。「パンター(豹)」という名前の王子が、日頃圧政に苦しんでいたイスラム教徒の民衆の力を利用して、クーデターを起こしたのである。その結果、それまで忠実な家来だと思っていたパンターによって暴君は誘拐され、荒野の真っただ中にある「死者の町」に閉じ込められてしまう。そしてそのあおりを受けて、主人公とハレフもその廃墟の要塞都市に幽閉されることになった。

そこに長い間囚われの身となり、苦痛のうちに過ごすことになったアルディスタンの暴君は、やがて自分が犯してきた誤りに気が付いて、悔い改める気持ちになっていった。しかし新しい支配者となったパンターはかつての主人に対して、なんら同情の念を示すことなく、厳しい監視の目を光らせていた。そしてジニスタン軍との戦いに備えて、軍備の増強を図っていた。

いっぽう奇妙なことに、かつての暴君も主人公主従も、この「死者の町」の地底の闇の中で、囚われの身ながら、それぞれ一定の行動の自由を得ていた。そのため両者は様々な対話を行い、暴君も過去の数々の悪行を深く反省していく。そして主人公及び暴君がそれぞれ頭の中で考えたことが、あるいは独白の形であるいは対話の形で、延々と展開されてもいる。とはいえ優れた物語作家としてのカール・マイは、この作品においてもやはり複雑極まりないストーリー展開を繰り広げている。

第一巻、第二巻あわせて1200ページを超す長編小説でもあり、この場でそれらについて詳しく紹介していく余裕はないので、その結末へと急ぐことにしよう。やがてカラ・ベン・ネムジはその強力な精神的な影響力を発揮して、暴君を新しい人間へと生まれ変わらせるのに成功した。つまりクルプの森の中にある「魂の鍛練場」で、暴君は鍛えられて再生したのである。そして巨人族のウスールやチョバンやキリスト教徒民衆の支援を受けたうえ、さらにジニスタンの支配者から送られてきた援軍の力を借りて、ついにパンターを撲滅して、再びそこの支配者に返り咲いたのであった。こうしてかつての暴力支配者はいまや威厳と公正さを身に着けた「平和の君主」となり、アルディスタンの幸せのために尽力することになった。

この結末をもって二巻にわたる長編のユートピア小説は終わりを迎えた。しかしその長さにかかわらず、この物語は内容的には未完の書になっている。その結びの言葉は次のようになっている。

「我々はさらに歩みを続け、深く山々に分け入っていく。そしてその道はジニスタ
ンへとつながっている。我々はさらに高い目標に向かって、歩みを続けていくの
である。」

『アルディスタンとジニスタン』第二巻の表紙

物語の中に秘められた寓意

ところでマイは作品を文学的に高度で、精神的なものへと高めようとして、冒険物語に、より深い意味と比喩性を与えようとした。そして意識的に新しいスタイル、つまり登場人物の行動や物語の舞台あるいは小道具の寓意化と暗号化を試みた。かつて主人公を自分自身と同一視して痛烈な批判を受けたため、作者はこの作品では主人公である「私」を、「人類の魂」とか「世界平和の理念」といったものへの寓意化に機能転化したのである。

『アルディスタンとジニスタン』は極めて複雑な内部構造をとっているため、そこに描写された外的行動や個々の登場人物あるいは様々に起こる出来事の中から、作者が用意した寓意を読み取るのは、一般の読者にとって容易ではない。またそうした寓意のために、ストーリーの持つ首尾一貫性や実際の行動が示す緊張感が損なわれているというマイナス面もある。そのため前期の世界冒険物語を夢中になって読んできた読者の多くが、後期の作品から離れていったのであった。

そのいっぽうで作者が仕掛けた寓意をめぐって、多くの研究者が様々な解釈を発表してきた。しかし物語に登場するいろいろな人物や出来事あるいは「天使の像」、各種の建築物、様々な風景などが持つ寓意を解き明かすことは容易ではないのだ。とはいえこの作品を覆いつくしている謎めいた神秘的な雰囲気こそが、詩的な魅力となっているわけである。先に挙げた研究者のヴォルシュレーガーによれば、この作品に含まれている解き明かすことのできない謎と非合理性は、作者が若いころに受けた、精神分析で言う、「精神的外傷」に基づいているという。

マイはまた、寓意の意味を解くカギを、別の作品「銀獅子の帝国3・4」や自伝の中に収められた「シタラの伝説」あるいは死の直前にウィーンで行った講演「高貴な人間の住む天空に向かって」などに隠しておいた。そうした暗示に従えば、この作品には、二つのテーマが隠されていることが分かる。一つは個々人の存在と生成の問題ならびに野蛮な暴力人間から高貴な人間への発展の問題である。もう一つは、いつか本格的な戦争が始まるかもしれないという不安を解消して、世界の恒久平和を確立することが重要である、という作者の強い願望の念である。これはこの作品が書かれた1909年という年が、第一次世界大戦勃発(1914年)前の局地的紛争や小競り合いに彩られた不安に満ちた時代であったことと関係があろう。

この作品に登場している人物は、生成発展する現実の出来事の中に積極的に関与し、行動し、政治的な動きも見せるのである。そうした中で、結局は、「精神」の具現者であるカラ・ベン・ネムジによって計画されてきた「世界平和の理念の確立」という目標に向かって、すべての人々が動いていったわけである。

神秘主義のヴェールに包まれた詩的な作品

とはいえ、そうした過程にあって、魔術めいて神秘的な地下の冥府の力が働いていた。主人公一行は、巨人族の住む低湿地帯から二つの海に挟まれた狭い地峡地帯を通り過ぎ、乾いた砂漠地帯へと入っていく。そしてそこにそそり立つ巨大な天使像の中に、大きな地下の泉を発見する。その後神秘的な「死者の町」に入った一行は、罠にはまって地下の奥深くに閉じ込められる。

その後も波乱万丈のストーリーが展開されていくのだが、一連のファンタジーに満ちた叙述を通して、作者マイは「夢見がちな」世界の光景を描き上げている。そうした叙述は、言語表現の上で極めて洗練された境地に達している。その意味で『アルディスタンとジニスタン』は、マイのポエジーつまり詩的な能力が頂点に達した作品だという事ができよう。1200ページを超えた長編の叙事詩でありながら、そこには抒情詩的な魅力もふんだんに含まれているのだ。

この遠い「星の花の国」シタラで展開される恍惚の物語を書いていたころ、マイは新聞・雑誌などによる非難攻撃の矢面に立たされ、また長くつらい裁判にも巻き込まれていた。この物語が、初め『ドイツ人の家宝』という雑誌に掲載されたとき、長年この雑誌を通じてマイ作品を愛読してきた一般読者の多くは、この作品に対して苦情を訴える手紙を寄せたのであった。つまり難解過ぎてついていけないというわけなのだが、そうした苦情は殺到して、ついには雑誌の予約購読を取り消す人も現れた。こうして『ドイツ人の家宝』の発行部数は減り、出版社はマイに対して、こうした難解な実験はやめるように警告した。とはいえこの作品の掲載は、最後まで続けられはした。

前期の数々の冒険物語の愛読者が、後期作品を敬遠するという事情は、マイの生前の時代も現在も変わりない。そのいっぽうでマイ作品を研究している人々、とりわけ1969年に西ドイツで設立された「カール・マイ学会」に所属する研究者によって、マイの後期作品がいわば再発見されて、高く評価されるようになったわけである。この学会は、マイの全ての作品を取り上げて、批判的・学問的な研究の対象にしてるもので、けっして後期作品だけを扱っているわけであはない。

しかし先に挙げた現代作家アルノ・シュミットや、「カール・マイ学会」所属の評論家ヴォルシュレーガーなどの努力を通じて、今日、ドイツの読書界で、カール・マイの後期作品は、ドイツの高級文学の流れの中に置いていいもの、という評価が定着しいているのだ。

ドイツの冒険作家 カール・マイ

カール・マイ研究

カール・マイ評価の逆転~非難攻撃から客観的評価へ~

カール・マイが著した作品を客観的に研究しようという動きは、その死後あまり時のたたない時期に始まった。その先駆となったのが、カール・マイ出版社の創立者であったオイヒャー・シュミットであった。マイの晩年に法律家としてその弁護にあたったシュミットは、マイの名声と名誉を復活させるために、「カール・マイを弁護する」という文章を著した。そしてそれを小冊子の形で、1918年に刊行した。そこで彼はマイへの変わらぬ信頼の念を表明するのと同時に、マスコミなどからの不当な罵詈雑言を排除し、世間の誤解を解くことに尽力した。

その直接のきっかけとなったのは、ウィーンの文学史家アントン・ベッテルハイムが、その前年に編集刊行した『死亡したドイツ人作家の略伝』であった。その中にカール・マイについても書かれていたが、そこには憎しみと非難攻撃の言葉が満ち満ちていた。つまりそれはドイツ文学史研究の信ぴょう性を疑わせるような調子に彩られていたのだ。それに対してシュミットは、別の出版社経営者のワルター・ド・グリュテアの協力を得て、事実関係に関する十分な証拠書類を取り揃えて、力強い反ぱくを加えたのであった。

もう一人、手ごわいマイの敵として、F・アヴェナリウスという雑誌発行人がいた。この人物は、マイの生前から激しいマイ攻撃を展開していたが、その死後も信じられないぐらいに事実関係を無視した非難中傷を、自分の雑誌を通じて続けていた。それらは度を越したものであったので、シュミットも反撃に立ち上がったのである。それが先に紹介した小冊子『カール・マイを弁護する』であったが、これが功を奏して、アヴェナリウス陣営は総崩れとなって、とどめを刺されたといわれる。その皮肉たっぷりの反撃の文章の一部を、次に引用することにする。

「アヴェナリウス氏は将来有名になるであろう。彼は第一に商売人であるが、第二に模倣的な(人まねの)批判の言葉を吐いている。しかしそれは決して創造的な才能を示すものではない。したがって彼は、死んでしまえば、すぐに忘れ去られてしまう類いのちっぽけな人物なのだ。しかるにその名前は後世に残るものと、私は信じている。つまり後世の人は、彼の名前を、カール・マイの思い出とともに、見出すことになるであろう。」

次いでマイ弁護に乗り出したのは、革新派の教育学者ルートヴィヒ・グルリットであった。彼は同僚の学者の反対を押し切って、1919年に『カール・マイに対して正当な評価を』と題する書物をものして、マイ擁護に一つの貢献をなしたのだ。

これらのマイ擁護運動のおかげで、大小数十にのぼる新聞雑誌を巻き込んでのカール・マイ騒動は、かなりの程度鎮静化し、反対派の言動にも、変化がみられるようになった。その一例としてベルリンで発行されていた代表的な日刊紙「ベルリーナー・ターゲブラット」の論調の変化を取り上げよう。この新聞ははじめ文学史家ベッテルハイムの側についていて、1918年5月16日の朝刊では、次のように書いていた。

「『死亡したドイツ人作家の略伝』のような学問的著作にあっては、事実がゆがめられているなどという事は、ありえないことである。この作家に対する訴訟は、もしそれが特別な文学的意義を持った作家に関するものならば、その生涯と業績についての供述が事実に基づいたものであり、しかも冷静な調子で語られて、はじめて、有罪かどうかの判定を下すことができるわけである」

これに対して、カール・マイ出版社のシュミット氏の要請で協力に乗り出したド・グリュテア氏は、同新聞社に必要で十分な資料を提出した。それに基づいて新聞社側は、『死亡したドイツ人作家の略伝』が含むものは、単に死んだカール・マイに対してだけではなくて、現在生きている人々にとっても侮辱を意味するものであることを理解した。そしてそれ以後、同新聞のマイに対する論調は、肯定的なものに変化したのであった。それから数週間後には、ドイツの出版界のみならず言論界にも大きな影響力を持っていたライプツィヒの『ドイツ書籍取引所会報』も、ド・グリュテア氏側についた。こうした動きを通じて、『死亡したドイツ人作家の略伝』は、権威を失い、その普及が阻止されたのであった。

バッタグリアによる批判的マイ評価

続いて登場したのが、ウィーンの歴史家で社会学者のオットー・フォルスト・バッタグリアである。彼は1931年、初めての本格的なマイ研究書ともいうべき『カール・マイ~ある人生、ある夢』を著した。これはノーベル文学賞を受賞した20世紀ドイツの代表的な作家トーマス・マンの称賛を勝ち得たほどのものであった。

この本の著者は、マイに対して限りない愛情を注ぎながらも、盲目的な礼賛に陥らずに、終始批判的・客観的な筆致を忘れていない。同書の中で著者は、カール・マイを「偉大なる夢の実現者」とみなし、この夢想家の生涯を描くのと並んで、その作品を批判的に詳細に論じている。さらにその筆は、マイの犯罪者の素質と作品との関係にも及んでいる。そして最後にマイの作品が社会に与えた影響と評価の問題にまで触れている。ちなみに本書は、第二次大戦後、社会情勢とマイを取り巻く状況の変化を考慮して、大幅に手が加えられ、1966年にあらたに『カール・マイ~ある人生の夢、ある夢想家の人生』という題名のもとに刊行されている。

哲学者ブロッホによる熱烈なマイ賛歌

      エルンスト・ブロッホ著『希望の原理第一巻』

同じころドイツの高名な哲学者エルンスト・ブロッホによる熱烈なカール・マイ賛歌が現れた。この哲学者は、その主著『希望の原理』(日本語版も刊行)などを通じて、日本の知識人の間にも知られている人物である。このブロッホは1929年3月31日(マイの命日の翌日)付けの日刊紙『フランクフルター・ツァイトゥング』紙上に、「夢の市場」なる一文を寄せた。そしてそこでマイに対する熱烈な賛歌をうたい上げたのである。そこでブロッホは次のように書いている。

「カール・マイはドイツの物語作家の中で最も優れた者の一人である。・・・この人物が作家になったなり方には先例がない。つまり彼は監獄の中ですでに書き始めていたのである。・・・彼が描いたのは、花のような夢ではなく、野生の夢つまり人の心をとらえて離さないメルヒェンなのであった。」

ちなみにブロッホは、この文章を書いた時より以前の学生時代に「カール・マイとヘーゲルがあるだけだ。その間にあるすべてのものは、みな不純な混ざりものだ!」と叫んだという(『希望の原理第一巻」(白水社、1982年4月、649ページ、「あとがきにかえて」)。

          エルンスト・ブロッホの肖像

さらに彼は処女論文集の表題を「砂漠への挑戦」としているし、生涯で全著作を読んだのはカール・マイだけだ、と語っているという。またブロッホは同じく『希望の原理第一巻』の第三部(移行)鏡の中の願望像(陳列品、童話、旅、映画、舞台)の二七「歳の市、サーカス、童話、民衆小説における、もっとましな空中楼閣」の冒頭に、カール・マイの自伝『わが生涯と苦闘』の中からの引用を掲げている。

「それから、私たちは寝に行きました。けれども私は眠らずに目を覚ましていました。どのようにして助けを求めようかと考えました。思案の末に私は決心しました。以前読んだ本の題名に『シエラ・モレナの盗賊窟あるいは困った人たちの天使』というのがありました。父が帰宅して眠ってしまうと、私はベッドを抜け出し、こっそり部屋を出て、服を着ました。それから一枚の紙片に、<血で手を汚すような事はしないでください。僕はスペインへ行って、助けを呼んできます>と書きました。私はこの紙片をテーブルの上に置くと、かちかちのパンを一切れポケットに突っ込み、九柱戯用の小遣い数グロッシェンをもって、階段を駆け下りました。そして扉を開き、もう一度誰にも聞こえないようにしくしく泣きながら、深く息を吸い込みました。それから足音を忍ばせて広場を下り、裏通りを抜けて、ルングヴィッツ通りへ出ました。この道がリヒテンシュタインやツヴィッカウを経て、苦難の救い主である高貴な盗賊の国スペインへ続いているのです」

このエピソードについて一言補足しておく。マイが14歳で国民学校を卒業する時、その後の進路決定について、貧しい両親が話し合っていた。父親は自分が身を粉にして働いて、師範学校の学費を稼ぐといって部屋を出ていった。そうした話し合いを、息子のマイは部屋の片隅で、スペインを舞台にした盗賊騎士の物語を読みながら聞いていたわけである。

ところで本筋に戻ると、ブロッホが新聞紙上に掲載した、先の決定的な一文によって、長い間マイを縛っていた呪縛が解かれ、再びマイの上昇が始まった。人々は再びマイについて、自由に語ることができるようになった。そして青少年や庶民の間だけではなくて、教養ある階層の中でも、マイを話題にすることが可能になったのである。

第二次大戦後、マイの本格的研究始まる

しかしただ一つドイツ文学史の中では、戦前には、まだマイの名前は取り上げられていなかったのである。マイの再評価のために尽力してきた文学研究者のハインツ・シュトルテは、それまでドイツで編纂されてきた文学史の本を子細に点検してきたが、「二三の例外を除いて、マイの名前を載せているものはない」と言っている。そして彼が1936年、カール・マイについて学位論文を書き、提出したとき、受けた反応は、肩をすぼめたり、眉をしかめたり、首を横に振ったりする、といった体のものだったという。そしてさらに「まさに人跡未踏の地に単身降り立った思いであった。カール・マイを博士論文にするなどとは、だいぶ頭がおかしいのではないか、と思われた」とも、告白しているぐらいである。

ところが時代が変わって、第二次大戦後になると、主として西ドイツで、マイを学位論文や国家試験のテーマにする学生が現れてきたのである。その際興味深いのは、文学研究者のみならず、社会学者や文学心理学者、とりわけ精神分析の専門家が、マイを格好の研究対象として取り上げていることである。

作家アルノ・シュミットの登場

作家で評論家のアルノ・シュミットは、1963年、『シタラ、そこに至る道~カール・マイの本質、作品および影響に関する研究』という大部の書物を著した。これは批判的文学分析の代表例とみなすことができるもので、その手法を通じてシュミットは、ドイツの一文学現象に光を当てたわけである。この研究において彼は、精密なテキスト解釈と精神分析的手法を援用して、カール・マイの世界ならびに登場人物が、非日常的規模のエロス抑圧の産物として理解されることを示した。

彼は意識下のマイを、ホモ・セクシャルであると断定し、またドイツ最後の神秘主義者(後期の作品に基づいて)である、とも決めつけている。シュミットはさらに彼一流の皮肉や嘲笑を盛んに飛ばしているが、そのため篤実なマイ研究者の反発を買ったりした。その反面、マイ作品にしばしば登場する誇張されたユーモアを楽しんでいる節もうかがえる。

しかしマイ作品の華やかな表面の裏に、実はそれまでほとんど誰も気が付かなかった、ある種の<魂の風景>が隠されていることを如実に示した点にこそ、彼の功績であるといえよう。アルノ・シュミットのこの研究書は、世に衝撃を与え、賛否両論を巻き起こした。そこで彼が用いた批判的文学分析の手法は、その後マイ研究の有力な手段として一般化していった。この点は注目すべきことである。

カール・マイ学会」の誕生(1969年)

かくしてこのような機運に乗って、戦前では考えれれなかったほど活発に、各方面にわたって、マイ研究は進展してきた。そして1969年には、ハンブルクで、文学研究団体としての「カール・マイ学会(Karl May Gesellschaft)が誕生した。この学会は、様々な分野の学者ならびにマイ愛好者が集まって、情報と研究の交換を行う学際的な学会なのである。

マイの故郷エルンストタールで開かれたカール・マイ学会の総会に参加した会員達
(1999年)

年一回の『年報』と季刊の『報告』が発行され、総会シンポジウムが隔年に開かれている。場所はカール・マイゆかりの地が選ばれ、4日間ほどの日程で、かなり大規模な催しとなっている。私自身もこの学会の存在を知った1980年以降学会員になって、総会シンポジウムにも数回参加してきた。1990年のドイツ再統一以降は、東ドイツ地域にまで拡大された。この旧東独地域こそは、マイが生まれ育ち、作家として活動し続けた所だったのである。そのため再統一後には、もちろんマイが成功してから住み続けたラーデボイルのすぐ近くの大都会ドレスデンでも、生まれ故郷のエルンストタールでも、総会シンポジウムが開かれている。そして2012年3月には、マイ没後百年祭を記念して、ドレスデンでシンポジウムが開かれたが、これには私も参加した。

その学会活動は年を追って活発さを増し、そうした研究の一つの集大成として、1987年に、実に内容の濃い浩瀚な研究書が刊行された。それが『カール・マイ・ハンドブック』(Karl-May-Handbuch)である。小型版だが、751ページと分厚い本である。ドイツのクレーナー出版社(シュトゥットガルト)から発行されている。学会の主たる研究者をまさに総動員しての分担執筆で、カール・マイの全てを、余すところなく明らかにしている。私もマイ研究にあたり、この本に大いに世話になっているので、次にその目次を紹介することを通じて、大体の内容をお伝えすることにしよう。

     『カール・マイ・ハンドブック』の見返しとマイの肖像

『カール・マイ・ハンドブック』
発行者ゲルト・ユーディング 編集者ラインハルト・チャプケ
目 次
まえがき
序 言
時代背景と伝承
A 三月前期と第一次大戦の間
B 文学的伝統
C 一九世紀における文学市場
人物と人生を取り巻く事情
A 伝記研究の歴史
B マイの生涯
C 年表(誕生から逝去まで)
作 品
A テキスト
B 内容の展開と散文形式
C 個々の作品
1.世界冒険物語
2.青少年向け作品
3.分冊販売小説と初期長編物語
4.初期の作品
a   ユーモレスク
b 村の物語
c 旅行冒険物語
5.G・フェリーの作品の翻案
6.自伝的文章
7.論文、講演その他の記録
8.戯曲「バベルと聖書」
9.抒情詩
10.断片、草稿、習作
社会的影響と評価
A   カール・マイ批判とマイ受容
B 作品への加筆および改訂
C オーストリア、スイス、東ドイツにおけるカール・マイ
D 翻訳版
E 戯曲化
F 映画化
G 音楽化
H 商業的利用
I マンガ、絵物語
J 博物館、記念館、展示
K カール・マイ出版社
L カール・マイ研究機関とその展望