ドイツの冒険作家 カール・マイ

その07 その社会的影響(カール・マイ現象)

 「社会現象」になったカール・マイ

カール・マイはその生涯に膨大な分量の作品を書きあげた作家であったが、その影響は、単なる文学的な次元を超えて、広く社会的な性質を帯びていた。

戦後の西ドイツを代表する高級週刊誌『シュピーゲル』(社会を反映する<鏡>という意味)は、1960年代に、マイに関して特集記事を組んだ。そこでは、カール・マイは単なる人気作家であるにとどまらず、社会全体に広範な影響を及ぼしてきた、ひとつの「社会現象」である、と指摘された。この週刊誌は、そのレベルが非常に高く、広く政治、経済、社会、文化にわたって、鋭い論調を展開してきた。その主な読者層は、広範なエリート層であるが、この特集記事は、社会批判的な立場から、カール・マイを高く評価するものであった。そのためマイの作品を読んだことのないインテリ層に対しても、改めてこの作家への関心を呼び起こしたのであった。
1990年のドイツ再統一後も、この雑誌は健在である。

       ドイツの高級週刊誌『シュピーゲル』の表紙
2012年3月19
日号(カール・マイ特集号ではない)

しかしこの『シュピーゲル』の特集記事に先立ち、「カール・マイが一つの社会現象である」と言い出したのは、マイの先駆的な研究者であるハインツ・シュトルテであった。このブログの「カール・マイの生涯」の中でも述べたように、マイがその成功の頂点にあったころ、熱狂的なファンの間で幾つもの愛好会が作られていた。彼らはインディアンやアラビアの酋長の格好をしてマイを取り囲んで楽しんでいた。

また戦後の西ドイツ(再統一後には東独)でも、子供たちはマイの西部ものの影響で、カーニヴァルの仮装にインディアンの衣装を好んで身に着けたりしている。さらに北独のバート・ゼーゲベルクやエルスペでは、マイの作品を基に、毎年野外劇が演じられている。私も1983年に、子供たちを連れてその野外劇を見に行ったものである。またマイ作品の映画化やテレビ化(ビデオやDVDでも)は、数えきれないほど。また耳で聞くドラマの形で、数多くのレコード(CD)も販売されている。物語の主人公やわき役などのフィギュアや関連グッヅも、本屋に置かれ、その大衆的人気にこたえている。

いっぽう本来の書物のほうも、ドイツでは広く国民の間に浸透していて、復活祭やクリスマスのプレゼントとして、子供たちに贈られているのだ。さらに青少年時代に読んだカール・マイ作品は、家庭の書棚に数多く並べられていて、大人になってから読み直されているという。つまりマイの作品は、聖書に次ぐほどの人気なのだ。

カール・マイ出版社から刊行されている「バンベルク版」全集は、私が入手した1970年代半ばには74巻であったが、2009年には93巻に達している。またマイ没後50年たった1963年以降は、その著作権が消滅したため、廉価なポケット・ブックの全集も、様々な出版社から発行されている。それらを合計すれば、総発行部数はいったいどれほどになるのであろうか。

他方、外国語への翻訳に目を向けると、すでにマイ生前の1883年にフランス語に翻訳されたが、その後英語、オランダ語、スペイン語、チェコ語、イタリア語、ロシア語など周辺のヨーロッパ諸国の言語にも、次々と翻訳されていった。そして遠く中国語やわが日本語(私および他の3人の翻訳者による)にも翻訳されている。2006年現在で、合計35か国語に翻訳・刊行されているのだ。

     中国語版のマイ作品(第6巻)の表紙(1999年発行)

19世紀の他の多くのドイツの大衆作家がいまや忘却の彼方に消え去っているのに比べて、マイが今日なお、生前にもまして広く世界で読み継がれているのは、まさに驚嘆すべきことであろう。こうした作品受容の広がりと、それに付随したもろもろの社会的現象を含めて、一口に「カール・マイ現象」と呼ばれているわけである。

 カール・マイへの評価(賛否両論)

以上述べてきた絶大な人気の傍ら、ドイツでは昔から、青少年に与える教育面での影響が、一般に問題とされてきた。この点に関しては、これまで肯定と否定、賛成と反対の意見が真っ向から対立してきたといえる。先に挙げたマイ研究者シュトルテは、1970年ごろに書いたものの中で、次のように述べている。
「この数十年間ドイツでは、評論家、ジャーナリスト、政治家、教育学者、教師、図書館司書など、ありとあらゆる人々が、マイをめぐって賛否両論を表明してきた。そして新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどを通じて、再三再四論争が繰り返されてきた。そこで反対陣営が強調しているのは、マイに夢中になって勉強をおろそかにすることへの心配である。彼らはマイとその作品から、まるで悪魔のように遠ざけようとしてきた。それにもかかわらず青少年は、あるいは教室の片隅で、あるいは家のどこかで、夢中になってマイ作品を読みふけったのである」

マイに対する評価は、青少年への教育的影響に限らず、その全般にわたって、賛否両論が対立してきた。それを図式化すると、次のようになる。ある人が「天分ある青少年向け作家」といえば、他の人は「青少年をだめにする人間だ」と答える。左派からは「帝国主義の産物」と批判されるかと思えば、右派からは「ドイツ魂の典型」と称えられる。また「真の長編作家」と呼ばれる反面、「生まれながらの犯罪者」と非難される。「労働者階級の敵」という声には、「時代の枠を抜け出したプロレタリア」という反論がなされる。「三文小説の文士」という人もいれば、「千夜一夜物語に匹敵する物語作家だ」とほめちぎる人もいる。そして「ナチス突撃隊の教師」という言葉には、「世界平和運動と平和主義の先駆者」という言葉が返される。「素朴な国民的作家」という軽蔑的な言葉が発せられると、「いやマイこそはドイツ文学最後の偉大な神秘主義者だ」という反論が出てくる、といった具合なのだ。

 「マイは現代のメルヒェン作家」

以上、マイに対する賛否両論を標語として列挙してきたが、ここでマイを偉大なる「現代のメルヒェン作家」と称揚している先駆的なマイ研究者ハインツ・シュトルテの肯定的評価をご紹介することにしよう。彼は「犯罪とファンタジー」について、次のように考察しているのだ。

「かつて放浪者として警察の追及を受けた教師の犯罪と、のちの作家の華麗な冒険の世界との間には、直接的な関係が存在するのだ。両者は同じ精神的源流から流れてくるものである。・・・生まれながらの詩人作家そして自分の抱いた夢のとりことなった人物は、しばしば犯罪の暗闇へと道を踏み誤ることがある。・・・天才的な空想力の持ち主である詩人は、市民社会や無味乾燥で制約の多い職業生活に適応する能力を欠いているため、しばしば打ちひしがれる。

そうした例は、かのホメロスに始まり、シェイクスピア、クライスト、ヘッベルからトーマス・マンにいたるまで、枚挙にいとまがない。・・・新しいフランス抒情詩の偉大なる開拓者であるフランソア・ヴィヨンは、一連の天才的犯罪者の先鞭をつけた人物でもあった。偉大なるセルヴァンテスは悲喜劇的な騎士ドン・キホーテに関するヴィジョンを、牢獄の中で手に入れた。カサノヴァはヴェネチアの獄舎に入れられた。マルキ・ド・サドはかの悪名高いバスチーユ監獄に、ドストエフスキーはシベリアの<死の家>にいたが、これらはいずれも世界文学の有名な一章に属することである。

同様にしてカール・マイも、夢想家で精神的な夢遊病者そして極めて創造力にとんだイマジネーションの持ち主であった。それは地獄への道を踏むべく運命づけられていた。しかしその天才的な夢見る力は、成熟するに及んで、文学創造という正しい道を見出すことができたのである。・・・マイの書いた物語の多くは、かつては素晴らしく驚きに満ちていたが、その後世界の変転と技術的進歩によって、はるかに追い抜かれてしまったかに見える。すでに人類は月にまで到達してしまった。それなのにマイの冒険談の中では、人々は自動車も電話も通信機も知らないのだ。人々は馬やラクダにまたがって、苦労して旅をした。連発式ヘンリー銃が魔法の兵器として、驚きをもって受け取られていた。それにもかかわらず、これら全ては決して古びてはいず、読者の空想力を十分かき立てるのに役立っているのである。この事はどのように説明されるべきであろうか。

カール・マイは、時の流れに流されないものを作り出すのに成功したのだ。それはまさしく<メルヒェン(童話)>と呼ぶことができよう。・・・かつて民衆向けの童話は、夕べの一家団欒の中心として、糸つむぎ部屋の中や村の菩提樹の下で、口から口へ、世代から世代へと読み継がれていった。しかしこうした世界は今や、はるか過去のものになった。技術や交通といった現代生活のあらゆる形式が、古き良き時代の共同体にとってかわった。そして民衆向け童話は語られなくなった。

しかし民衆向け童話が消えたところに、民衆(国民)文学が登場してきた。古典作家たちの高級な作品と昔の民衆向け童話のちょうど中間の領域に、民衆(国民)文学が現れたのだ。そこではかつてのメルヒェンが、新しい衣装をまとって存続することが許されたのだ。カール・マイの緑色版を眺めていると、すでにその表紙の絵から、そこに登場する世界が童話の世界であることが分かる。この文学ないし精神の中間領域において、カール・マイは<民衆(国民)作家>になったのである。彼において古い<童話の魂>は、今一度、その驚くべき性能を発揮したのである」

忘却の危機からマイ復活へ~カール・マイ出版社の歩み~

1912年3月、カール・マイが死んだとき、その大衆的人気は地に落ちていた。そしてそのままいけば、他の大衆作家と同じように、永遠に忘れ去られる運命にあったかもしれない。その運命を大きく変え、作品を永続化させる契機をつくったのが、若き法律家オイヒャー・シュミットであった。子供のころからの熱心なマイ愛読者であったシュミットは、新聞・雑誌などを通じて非難攻撃され、また裁判沙汰に巻き込まれていた晩年の作家を、何とかして救いたいと思っていた。

       オイヒャー・シュミット(1884-1951)

その意思を伝えるために彼はマイに手紙を出し、1910年の夏つまり作家の死の二年前に、ラーデボイルの屋敷を訪れた。そしてその翌年マイはクラーラ夫人と一緒に、シュトゥットガルトのシュミットの家に出向いた。その時作家は直々に「あなたに私の作品のすべてを出版してほしい」と頼んだ。この言葉がカール・マイ出版社誕生の契機だったと言えるのだ。そして同出版社のその後の尽力がなければ、今日の「カール・マイ・ルネッサンス」は考えられなかったかもしれない。

1910年、マイ作品の年間の総発行部数は7万7千部だったが、1911年には3万6千部に減り、1913年には1万4千部へと谷を下る勢いであった。当時マイ作品の多くは、フライブルクのフェーゼンフェルト社から刊行されていたが、その有能な出版社主をもってしても、この退潮を食い止めることができなかった。

こうした状況の中で、夫の死後、未亡人のクラーラ・マイは、先にシュミットに向かって夫が語った言葉を思い出した。そしてその実現の手立てを相談した。その結果、フェーゼンフェルト、マイ未亡人そしてシュミットの三人で「カール・マイ出版社」が、1913年7月、ラーデボイルに設立された。その経営責任者としてシュミットが同社を切り盛りしていくことになったのである。

この若き経営者はその販売戦略として、拡大方針を打ち出した。それはフェーゼンフェルト社から刊行されていた緑色の装丁のフライブルク版『世界冒険物語』全33巻を基本にして、他のもろもろの作品や未発表原稿を、その中に取り入れて、新たにラーデボイル版の「カール・マイ全集」を作るというものであった。しかし翌年に始まった第一次大戦のため、印刷用の紙不足となり、全集刊行は困難な状況に陥った。それでもシュミットは新たな全集の第34巻として、マイが晩年に書いた自伝「わが生涯と苦闘」を、「私」というタイトルで1916年に刊行した。この自伝には、マイが当時陥っていた精神的苦境と時間不足のために、かなりの誤りが含まれていたため、それらを修正する作業が行われた。そして第35巻から第41巻までは、以前ウニオンドイツ出版社から出されていた「青少年向け作品」が収録された。その版権取得にあたっては、かなりの高額を支払ったという。

その後1920年代になって、カール・マイの人気は回復していった。そしてすでに高齢となっていたフェーゼンフェルトは、出版社から身を引き、それ以後はオイヒャー・シュミットが、名実ともに出版社を率いていくことになった。彼は同社の仕事を手伝っていたカタリーナ・バルテルと、1921年に結婚した。彼女は夫の死去まで忠実に出版社の業務を補佐していった。そしてこの結婚から生まれた4人の息子たちのうち3人は、それぞれ一定の年齢に達してからは、出版社の仕事に従事していったのである。1920年代は、インフレと経済危機の時代であったにもかかわらず、マイ作品の売れ行きは上昇傾向をたどった。そして新しい作品を全集の中に取り入れていく作業は、順調に進んでいった。

1933年1月にヒトラーが政権を握って、第三帝国の時代になった。ヒトラー自身熱烈なカール・マイの愛読者であったが、出版社にとってはこのことはかえって面倒なことだったようだ。それでも社主のオイヒャー・シュミットは、持ち前の巧みな才覚と外交的手腕を発揮して、ナチス側からほとんど邪魔されずに、同社を運営していくことができたという。そして第二次大戦が勃発した1939年には、全集は65巻に達したのであった。

しかし大戦末期の1943年には、マイ作品の製作(印刷や製本)を行っていた出版都市ライプツィヒへの連合国側の爆撃が激しさを増した。そして関連施設や書物を保管していた倉庫も著しい損傷を受けた。さらにカール・マイ出版社のあるラーデボイルに近い大都会ドレスデンも、1945年2月に大爆撃を受け、その町の倉庫に保管されていたマイ作品の多くは損なわれてしまった。

 第二次大戦後のカール・マイ出版社

それらの都市があったドイツ東部地方は、戦後ソ連によって占領されたが、カール・マイはソ連流の社会主義体制に合わない存在となった。カール・マイ出版社はマイ作品の発行を許可してくれるよう、あの手この手を尽くしたが、許可は得られなかった。

長男のヨアヒムは書籍販売の専門教育を受けていたが、1945年に出版社の幹部社員になった。彼は直ちにドイツ西部地区への移転を考え、父親オイヒャーの生まれ故郷バンベルクに、1947年7月、まずはカール・マイ出版社の支社を設立した。そしてそこで、伝統ある緑色の装丁の「カール・マイ全集」の発行を行うことになった。1951年7月、創立者のオイヒャー・シュミットが事故でなくなった。そのためヨアヒムが社長に就任した。

その後東ドイツの社会主義体制がずっと続く見通しになったので、ラーデボイルに残っていた出版社の機能を廃止し、カール・マイ出版社はバンベルクだけになった。そこでは戦前にラーデボイル版として発行されていた65巻のマイ作品が受け継がれた。そのうえで、いろいろな雑誌などに掲載されていた作品や未発表原稿などを基に、第66巻以降の刊行が続けられた。

その際文学的な才能に恵まれていた四男のローラントが、文章の修正作業に当たった。こうして第66巻から第70巻までが刊行された。いっぽう三男のロタールは、長男のヨアヒムを補佐する形で経営に参画した。そして販売や版権問題の面で、尽力した。

1960年には姉妹会社のウスタッド社が、カール・マイ出版社に合併された。さらにラーデボイルでマイがその晩年を過ごした邸宅「ヴィラ・シャターハンド」の総財産、とりわけ貴重なマイの図書室と書斎を、カール・マイ出版社が獲得した。そしてそれらはバンベルクの出版社のそばに建てられた「カール・マイ博物館」の中に、移築された。(これらはドイツ再統一後の1994年に再びラーデボイルの邸宅の中に戻された。

          バンベルクのカール・マイ博物館の外観

    博物館内に移築された図書室(書棚及びマイと妻クラーラの胸像)

1960年、ウィーンのカール・ユーバーロイター出版社が版権を得て、廉価なポケットブック版によって、「カール・マイ全集」と同じ内容の全集を出版し始めた。これによってマイ作品の普及はさらに進んだ。いっぽうカール・マイ出版社の伝統的な緑色の全集は、74巻に達した。私がカール・マイの存在を知って、書店から全巻を購入したのは、この74巻だったのだ。

さらに1970年代から80年代にかけて、「カール・マイ全集」のほかに、昔のウニオン出版社の青少年向け作品や、そのたの個別作品のリプリント版が刊行されていった。そしてフライブルク版全33巻のオリジナルテキストのリプリント版が、新たな校閲と解説をつけて、1982年から84年にかけて発行された。それらはマイ研究者や熱烈なマイ愛好者向けの豪華限定版であった。

ドイツ再統一の年1990年に四男ローラントが死去し、その後長男ヨアヒムが高齢のため経営から手を引いた。そして三男のロタールが社長になり、その息子のベルンハルトが補佐する形で、1993年に出版社に入った。この年から二人の共同作業によって、いろいろな雑誌に掲載されていた作品や未発表の原稿、そして幾多の関連資料や往復書簡などを編集して、「カール・マイ全集」の中に収録する作業が急ピッチで進められていった。

2003年7月、カール・マイ出版社の創立90周年を祝う祝賀行事が、バンベルクのホテルにおいて、大々的に行われた。そこでは記者会見、スライドやフィルムの上映、マイ作品のオークション、研究者によるシンポジウム、展示会のほか、大勢の招待客を集めて、盛大な祝賀パーティーが開かれた。その席で社長のロタール・シュミットは、90年にわたる同社の歴史を振り返って、挨拶を行った。その際父オイヒャーが苦難の渦中にあったマイを助け、弁護したことにより、作家の遺志を受け継ぐ形で出版社を設立したことを強調した。そしてロタールの息子ベルンハルトは、同社の未来への展望を語ったのである。

2010年の夏、私は全く久しぶりに、南ドイツの古都バンベルクに、カール・マイ出版社を訪れ、旧知のロタール及びベルンハルト・シュミット父子に再会して、旧交をあたためた。

 ロタール(右)及びベルンハルト(左)シュミット父子と私(中央)

その前年の2009年には、「カール・マイ全集」は93巻に達した。そしてカール・マイ没後百周年の記念行事が、2012年3月に盛大に行われた。これに私も参加したが、その時の様子について、ブログの01「没後百年祭に参加して」で、詳しく報告している。その少し前にロタール・シュミットはなくなった。そのためこの時は、息子のベルンハルトと再会した。そして彼の主催によって、2013年にカール・マイ出版社の創立百周年が大々的に祝われたのであった。

ドイツの冒険作家 カール・マイ(06)

その06 全作品の概観

カール・マイはそのおよそ35年におよぶ作家活動(1875-1910)を通じて、実に膨大な作品を執筆した。そしてその多くを当時存在したあらゆる出版メディアに、次々と発表していった。その間に書いた作品は、その種類が多岐にわたっていたのと同時に、発表の仕方や発表の場もさまざまであった。それは、とりわけ19世紀ドイツにおける出版物の出版及び販売の方法と深くかかわりがあった。そして世紀半ばからの産業革命の進展や政治・社会体制の変革とも連動していたのだ。

ところでマイの場合、大衆作家としては珍しく、その死後も忘却のかなたに葬り去られることはなく、生前未発表・未整理の原稿を含めて、おおむね全ての作品が発刊されてきた。そのため現在我々は、ほぼすべての作品を概観できる状況にあるのだ。その際手掛かりになるのは、もっぱらマイの作品を刊行している「カール・マイ出版社」の全集及び同社が所有している膨大な資料、ならびに「カール・マイ学会」が刊行している定期的な小冊子や年報(学会誌)そしてその集大成ともいえる「カール・マイ・ハンドブック」などである。

そこで私としては、その膨大な作品を、出版メディアとのかかわりにおいて形態的に分類して、概観することにしたい。ただその前に、マイが手掛けた作品が、いったいどんなジャンルのものであったのか、一応分類して、一瞥することにする。

ジャンル別の作品の分類

1 世界冒険物語
a   波乱万丈の冒険物語
b   象徴主義的な後期の作品
2 青少年向け冒険物語
3 分冊販売長編小説及び初期長編小説
4 初期の小品と単独の物語
a 滑稽小説、ヨーロッパの歴史物語
b マイの故郷の村の物語
c  その他の冒険小説
5 戯曲、抒情詩、音楽作品
6 自伝的作品

出版メディア別ないし刊行形態別の分類

第1節 雑誌、民衆カレンダー、新聞

まずカール・マイが作家活動を開始したころのドイツの雑誌文化に目を向けてみよう。1848年の三月革命以降、ドイツでは交通手段が発達し、また法的な規制が緩む中で、数多くのポピュラーな娯楽雑誌が市場に出回るようになった。これらの非政治的な週刊の家庭向け雑誌は、読者に娯楽と教養を提供していたが、やがてその発行部数をぐんぐん伸ばしていった。それらの雑誌は、はじめ行商人によって配達されていたが、後にはこれは郵便に代わった。

そこにはポピュラー・サイエンスの記事、なぞなぞ、連載小説、読者からの便りなどが掲載され、イラストや写真がふんだんに盛り込まれていた。そして連載小説はこれらの雑誌の中核的存在に位置付けられ、宣伝価値のある有名な作家に執筆を依頼していた。当時の慣習として、家庭向け雑誌にオリジナル作品を掲載することは、作家の評判を傷つけることにならなかった。そして作家に、経済的な利益をもたらすものであったのだ。

マイは社会的活動を始めた初期のころ、これらの雑誌の編集に携わっていたが、自らの作品もそこに掲載してもらっていた。『ドイツ家庭雑誌』に6編、『立坑と精錬所』に1編、『炉端での夕べのひと時』に3編そして『楽しいひと時』に12編の作品が掲載された。また雑誌編集者をやめてフリーの作家になってからは、作品の数は急速に増え、1880年までの3年間に46編も掲載された。

それらの作品の内容は、ジャンル別分類の4「初期の小品」に属するものである。そこのb「村の物語」というのは、マイの生まれ故郷である東部ドイツのエルツ山地の村を題材とした短編の物語である。それらは明るく、牧歌的な環境の中で展開されており、おおむね軽快でユーモアに満ちたものになっている。こうした要素は当然のことながら、滑稽小説の中心を占めているが、のちに執筆するようになった長編の冒険物語の中にも、波乱万丈の活劇や背景の情景描写などと程よいバランスで織り込まれている。

やがてマイにとって重要な位置を占めるようになったのが、南独レーゲンスブルクのプステット社から発行されていたカトリック系の家庭向け週刊誌『ドイツ人の家宝』であった。この雑誌は北独ライプツィヒで成功を収めていたプロテスタント系の家庭向け雑誌『あずまや』に対抗して、1874年に創刊されたものであった。
ここでドイツにおける宗教事情を一瞥すると、16世紀における宗教改革以降、幾多の騒乱を経て、おおむね南部・西部地域がカトリック、東部・北部地域がプロテスタントという風に、色分けされるようになった。マイは東部ドイツで生まれ、元来プロテスタントの家系であったが、やがてカトリックに傾いていったのである。

     カトリック系の家庭向け週刊誌『ドイツ人の家宝』

さて、それまでいくつかの雑誌を転々としてきたマイであったが、1879年に『ドイツ人の家宝』を発行していたプステット社との間に、永続的な契約を結んだ。そして1899年まで、マイはかねて計画していたジャンル「世界冒険物語」に属する作品を次々と発表していったのである。やがてそれらの物語は人気と評判を呼び、マイ及び雑誌の名前は宗派の垣根を越えてドイツ全国に知れ渡るようになった。
それらはジャンル別の作品分類では、1世界冒険物語のa波乱万丈の冒険物語に相当するものである。

いっぽう1890-1909年の間、マイは作品発表の場として、「民衆カレンダー」とか「マリア・カレンダー」とか呼ばれていた印刷物を利用していた。これは16世紀に起源をもつマリア信仰を基にした地方農民向けの出版物であった。日付を伝える本来の「暦」としての目的のほかに、読者の要望に応じて、薬の処方箋や農業上の助言、さらに歌謡、逸話、冒険物語などが掲載されていたのだ。プステット社からも、「マリア・カレンダー」が刊行されていて、マイはこれにも自分の作品を発表していた。

           マリア・カレンダーの表紙

一方、19世紀から20世紀への転換期のころから、マイの作品とその人物をめぐって盛んに論争が繰り広げられていたが、そうした渦中にあって日刊新聞や週刊新聞が、マイにとって重要な発言の場となった。彼は論争及び自己弁護の文章を、こうした新聞に発表したのである。またマイに好意的であった新聞には、晩年に書かれた「世界冒険物語」が掲載たりもした。その一つとして最晩年の作品「ヴィネトゥー4」が、「アウクスブルガー・ツァイトゥング」に連載されたのが注目される(1909-10年)。

第2節 分冊販売小説

マイはその創作活動の比較的初期の一時期(1882-87年)、ドレスデンのミュンヒマイヤー社から5巻に上る大長編小説を、分冊販売小説の形で発表した。(ペンネームまたは匿名で)。これはドイツ語で「コルポルタージュ・ロマーン」と呼ばれているもので、1冊が大八つ折判で平均24ページという薄い小冊子を、毎週連載小説の形で発行していくものである。そしてその連載は100回以上の分冊になって続いたため、それが完結すれば、1巻が全部で2400ページにのぼる大長編小説になったのである。

主として経済的な生活保障の観点からマイが大量生産した「コルポルタージュ・ロマーン」は、元来は行商人が村の奥までは配達して歩いていた娯楽本を指していた。そしてこの方式が19世紀に、フランスからドイツに入ってきて、マイがせっせと分冊販売小説を書いていた1880年代は、この書籍行商業の最盛期にあたっていたのである。ちなみに1860年から1903年の間に、ドイツ全土で、年間500編の分冊販売小説が出回っていたといわれる。

次にマイが書いた5巻の小説の題名、発行期間及び分冊の回数を記すと、以下のようになる。1『森のバラまたは地の果てまでの追跡』(1882-84年、109回)、2『放蕩息子または哀れな君主』(1883-85年、101回)、3『槍騎兵の恋』(1883-85年、108回)、4『ドイツの心、ドイツの英雄』(
1885-87年、109回)、5『幸運への道』(1886-87年、109回)。

第3節 青少年向け雑誌

これは雑誌の一種には違いないが、マイにとって特別な意味を持っていたので、ここに一項を設けて扱うことにする。具体的には青少年向けの絵入り雑誌『よき仲間』が、これに該当する。この雑誌はシュトゥットガルトのシュペーマン出版社から1887年1月に創刊されたものである。その編集方針として、青少年に健全な読み物を提供することが示されていた。そしてこの編集方針に沿って、当時人気上昇中の作家カール・マイに、この雑誌への連載が委嘱されたわけである。

             雑誌『よき仲間』の表紙

この時初めてマイは作家としての使命を自覚したという。つまり元教師であったこの作家は、青少年のために教育的で、しかも無味乾燥に陥らない作品を書くことが自分に課せられた使命ではないかと考えたのである。それ以後彼は、分冊販売書小説の執筆はやめ、これに全力を注いだのであった。こうして1887年から1897年までの間に、いくつかの短編作品のほかに合計8編に上る、いわゆる「青少年向け作品」が、雑誌『よき仲間』に掲載されたのであった。

この一連の作品は質的に優れた内容を持ち、今でもドイツ青少年文学の古典に数えられるものである。これらの作品は外国を舞台とした旅行冒険物語であるが、主人公が三人称になっている点が、「世界冒険物語」とは異なっている。そのため研究者の間で、「青少年向け作品」というジャンルに分類されているものである。

それらの作品を列挙すると次のようになる。(1)『熊狩人の息子』、(2)『リヤノ・エスタカードの幽霊』、(3)『名誉をかけた誓い』、(4)『奴隷の隊商』、(5)『シルバー湖の宝』、(6)『インカの遺産』、(7)『石油王子』、(8)『黒いムスタング』。これらの作品は、内容もさることながら、挿絵画家ヴァイガントの描いた魅力的な挿絵によっても評判を呼んだ。

1890年、シュペーマン出版社は他の二つの出版社と合併して「ウニオン・ドイツ出版社」を設立した。同社は引き続き青少年向け雑誌『よき仲間』を発行し続けた。そしてマイ作品の評判が良かったため、先の青少年向け作品8編は、雑誌への連載が終わると順次書物の形で刊行されていったのである。これら8冊の本は、前述した挿絵と並んで、色彩豊かな表紙絵並びに赤色の総クロス装丁の美しい外観を呈していて、「ウニオン版」としてポピュラーになった。

第4節 個人全集の発行

 1 フライブルク版

1891年、作家マイにとって大きな転機が訪れた。それは個人全集の発行という大きな出来事であった。マイ49歳のことであった。それはフライブルクの出版社主フェーゼンフェルトとの出会いを契機としていた。この若き出版人は雑誌『ドイツ人の家宝』に連載されていた世界冒険物語の中の、とりわけ「オリエント・シリーズ」にいたく感激した。そしてこの雑誌を中心に、それまで各種雑誌にばらばらに発表されていた世界冒険物語を、個人全集『カール・マイ世界冒険物語』の形で発行していくことを決意した。そしてこの計画は翌1892年から実施に移された。

フェーゼンフェルトはこの全集を発行するにあたって、作家マイ及び自社の評判を高めるための用意周到な工夫を凝らした。なかでも造本には知恵を絞った。緑色のハード・カバーの背表紙に唐草模様をあしらい、金色の文字を付し、表紙には各巻の内容にふさわしい色彩豊かな絵を載せて、全体として上品な装丁に仕立てた。それは従来の読み捨ての娯楽読み物というよりは、むしろ高級文学のイメージを与えるものであった。そのため読者層も従来より広がり、マイの名声は大いに高まった。これがマイ最初の「フライブルク版個人全集」であるが、緑色の装丁のため、一般に「緑色の全集」と呼ばれている。

         緑色の装丁のフライブルク版個人全集

一方、それまで雑誌に発表されてきた作品をこの全集に収めるにあたって、一巻ごとの物語の長さが調整された。そして作品の題名も一巻ごとに新たに付け直された。またこの全集のためにマイが新たに書き下ろした作品もいくつかある。かくしてこの個人全集は、彼がオリエント大旅行に出かける1899年までに、27巻に達した。大旅行後はマイが外部との争いに巻き込まれたため、全集の刊行は休止した。しかし晩年の象徴主義的な内容の冒険物語6編を組み込んで、、マイが亡くなる2年前の1910年に、6巻が追加されて、フライブルク版個人全集は全33巻をもって完結した。

この33巻の題名を列挙すると、次のようになる。(カッコ内の数字は発行年)

(1)砂漠とハーレムを越えて(1892年)、(2)荒野のクルジスタン    (1892年)、(3)バグダードからイスタンブールへ(1892年)、(4)
バルカンの峡谷にて(1892年)、(5)スキペタール人の国を通って(1892年)、(6)ジュート(1892年)、(7)~(9)赤い紳士ヴィネトゥー1~3(1893年)、(10)オレンジとナツメヤシ(1893年)、(11)太平洋にて(1894年)、(12)ラプラタ河にて(1894年)、(13)アンデス山中にて(1894年)、(14)(15)(19)オールド・シュアーハンド1~3(1894-1896年)、(20)~(22)サタンとイシャリオット1~3(1896-1897年)、(23)見知らぬ道で(1897年)、(24)クリスマス(1897年)、(25)彼岸にて(1899年)、(26)~(29)銀獅子の帝国にて1~4(1898-1903年)、(30)そして地上に平和を(1904年)、(31)~(32)アルディスタンとジニスタン1~2(1905年)、(33)ヴィネトゥー4(1910年)

これとは別に、今日の我々から見て非常に魅力的なのは、その内容にふさわしく、ち密な出来栄えの挿絵が豊富に入った絵入り全集が、同じくフェーゼンフェルト社から、1907-1912年に発行されていることである。内容的には、先のフライブルク版の1~30巻を収めたものであるが、各巻の順番は部分的に異なっている。この全集は青色の表紙の装丁で、先の「緑色の全集」と区別している。

 2 ラーデボイル版

1912年にマイが死亡し、その翌年の1913年に「カール・マイ出版社」が、ラーデボイルに設立された。そして「フライブルク版」は、新しいシリーズのタイトル「カール・マイ全集」のもとに継続発行されていった。この全集はマイ未亡人の同意のうえで、同社の社主オイヒャー・シュミットが作家の遺志をついで、マイの全作品を個人全集の形にまとめたものである。そのためフライブルク版には収録されていなかった数多くのマイの作品が順次、収録・出版されていった。そして第二次世界大戦勃発の1939年には、「ラーデボイル版」全65巻になった。それはまずフライブルク版の1~33巻に相当する世界冒険物語を基本としていた。その上に、ウニオン版の青少年向け作品8巻、分冊販売小説15巻、初期の村の物語
や歴史小説7巻、そしてさらに自伝及び詩作品、戯曲の2巻が追加収録されたものである。

このラーデボイル版の発行にあたって、言語面及び内容面で、かなり大幅な編集の手が加えられたことが注目される。具体的には、外国語の引用の誤りの修正、過度に使用されていた外国語の削減、卑猥な表現の除去ならびに全作品の外面的な統一と規格化などである。こうした大幅な編集作業の狙いは、「マイの作品は低俗で汚辱に満ちた文学である」とする、晩年に行われた非難攻撃から作家マイを救うという点にあった。

こうした編集の度合いは、とりわけ分冊販売小説と晩年の作品に著しかったが、カール・マイ出版社は、このラーデボイル版をなお、オリジナル版と称し続けた。その理由として同社は、マイ未亡人クラーラが1930年に行った説明を引き合いに出している。それは「カール・マイ出版社が行っている編集作業は、作家マイが生前出来なかったことを代行してくれているもので、作家自身が行ったのと同じである」というものであった。

 3 バンベルク版

第二次大戦後ラーデボイルが東ドイツ領に組み込まれたため、カール・マイ出版社は西ドイツのバンベルクへ移転した。そしてその地で引き続き全集の補完作業を続けていった。2009年現在、それは93巻に達している。これがバンベルク版であるが、書物の体裁や編集方針は、戦前のラーデボイル版をそのまま引き継いでいる。そしてラーデボイル版、バンベルク版ともに、書物の装丁として、緑色のハード・カバーに唐草模様というフライブルク版の格調の高さをそのまま踏襲している。このバンベルク版が、現在ドイツの一般書店に並べられているカール・マイ全集の正統版である。

     バンベルク版個人全集の表紙(第1巻 砂漠を越えて)

このほかマイ生前のオリジナル版(カール・マイ出版社による編集の手が加えられていない)へのマイ研究者ないしマイ愛好家の熱心な要望に応えて今日、それらの再販やリプリント版が発行されている。各種雑誌に発表された作品や、様々な単行本が数多くリプリントされて、発行されているわけである。その中でもとりわけ注目されるのは、前に述べたフライブルク版全33巻の完全復刻版の刊行である(1982-84年)。これは内容、装丁ともに完璧なものと言え、マイ研究者や愛好家の期待に十分こたえたものと言える。

さらにマイの死後50年たった1962年以降は、その著作権が消滅したこともあって、廉価なポケット・ブック版のマイ全集も、各種発行されている。この中でパヴラク出版発行の全集74巻(1976-78年)は高い評価を得ているが、そのほかは、造本が粗雑であったり、ミスプリが目立ったりといった欠点が多い。

第5節 単行本

マイの青少年向け作品が雑誌『よき仲間』に発表された後、書物の形でも順次発行されていったことは、すでに述べた。このほかにもマイの作品は、全集ではなくて単行本の形でも、1879-1912年の間に、数おおく出版されている。

なかでも注目すべきは、マイの個人全集を最初に出したフライブルクのフェーゼンフェルト社から刊行された単行本のことである。それらは内容的にみて、それまでマイが書いてきた小説や物語とは違ったものであった。マイの数少ない詩作品「アヴェ・マリア」と「忘れな草」に作者自身が曲をつけた楽譜入りの本が『厳かな響き』と題して、1896年に出版されたのである。

          楽譜入りの本『厳かな響き』の表紙

また1900年には、オリエント大旅行の文学的成果として生まれた、詩と警句を集めた詩集『天国の思想』が発行された。さらに同社からは、1902年に、論争の渦中にあったマイが自己弁護のために書いた『教育者としてのカール・マイ』及び『カール・マイの真相』が出された。
そして1906年には、マイ唯一の戯曲作品『バベルと聖書~アラビア幻想』が刊行されている。この二幕の戯曲は、当時ヨーロッパで展開されていた、バベルつまり古代バビロンとバイブル(聖書)との関連に関する論争に触発されて書かれたものである。

一方、1907年には、一連のエルツ地方の村の物語がまとめて単行本となり、また1910年にはマイの自伝『わが生涯と苦闘』が、フェーゼンフェルト社から出版されたのであった。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(05)

その晩年(1900~1912)

 後期作品の執筆

後期作品の特徴は、すでにオリエント大旅行の直前に書いていた『彼岸にて』にもみられるように、隣人愛と平和主義という新しい理念に基づくものであった。もはや男性の英雄ではなくて、祖母の姿に似せて作られた人間精神の象徴ともいうべき女性マラー・ドゥリメーが、中心的存在になった神話的な作品群であった。
そして日常生活の面でも、カール・マイは、新しい生き方をするようになった。オールド・シャターハンドやカラ・ベン・ネムジといった英雄的主人公になりすますという生活態度は捨て去り、またそうした衣装も片づけられた。そしてその館「ヴィラ・シャターハンド」の中を飾り立てていた家具調度類も整理された。

帰国後の最初の作品であった『そして地上に平和を』(1901年5月~9月)は、オリエント大旅行の印象を生かしたものであった。そこには帝国主義及び植民地主義に対する強い反対ならびに人種主義的、宗教的優越意識への断固たる拒否の態度が貫かれている。そして世界の人々を結び付けている連帯の理念と平和主義の教義が延々と展開されているのだ。また当時中国の山東半島へドイツが進出し、キリスト教の布教を行っていたが、それに対する反感から武装蜂起した義和団の反乱というトピックも取り上げられている。そして反乱に対する八か国共同出兵とそれによる残酷な弾圧が厳しく批判されているのだ。

(左)小説『そして地上に平和を』
(右)ノーベル平和賞受賞者ベルタ・フォン・ズットナー女史

 ノーベル平和賞受賞者ズットナー女史との出会い

いっぽうこの作品は、のちの1905年にノーベル平和賞を受賞したベルタ・フォン・ズットナー女史(1843-1914年)とマイとを結びつけることになった。その年の10月、このウィーン出身の作家・ジャーナリストはドレスデンにおいて講演を行ったが、その時マイは彼女と知り合い、自著の『そして地上に平和を』を献呈した。それが縁となって彼女とはその後死ぬまで、いわば「平和主義思想」の同志として親交を重ねたのであった。ズットナー女史はのちにマイにあてた手紙の中で、次のように書いている。
「あなたは平和の問題やその他のことで、私の思想上の同志です。”上へ向かって高く!”こそ、私たちに共通した合言葉です」

マイの平和主義思想はさらに、第一次大戦前のヨーロッパの平和主義運動とも接点を見出したのである。マイのこの著作を知った、フランスの平和主義を代表する雑誌『法を通じての平和』の編集者から、マイに対して1907年初め、独仏の接近への方策に関して質問状が寄せられた。それに対するマイの回答を短くまとめて、次に紹介しよう。
「1.フランスとドイツの接近の試みは願ってもないことです。・・・誤った道に導かれていないドイツ人はだれしも、フランス人を評価し、尊敬しています。2.フランスとドイツは、20世紀の入り口の門を支える二つの女神の柱にならなければなりません。3.それを達成する一つの試みとして、私は次のことを提案します。それは廉価な週刊誌を両国で発行することです。その雑誌のただ一つの目標は、フランスとドイツの住民を互いに心の内面で結びつけることです。そのために同じ内容の記事をフランス語とドイツ語で発行することです。」

またカール・マイの宗教的信条の面でも、この時期に大きな変化が見られた。北東ドイツのザクセン地方に住んでいたマイの先祖は代々プロテスタントであったが、彼自身はレッシングやヘルダーなどの影響を受けて、一種の啓蒙的キリスト教の立場に立っていた。ところがヴァルトハイム刑務所の教理教師コホタとの接触とそこでのカトリックの礼拝実践、そしてさらにカトリック系の雑誌『ドイツ人の家宝』への寄稿を通じて、やがてカトリックへと接近することになった。そのため「世界冒険物語」をせっせと執筆していたころは、マイはカトリックの作家とみなされていたのだ。

しかしオリエント大旅行の後に、事情は再び変わることになった。今や彼は超宗派で反教義の立場にたって、愛のキリスト教をを唱えるようになったのだ。それは狭い意味で信心に凝り固まる立場を、拒否するものであった。その一方で自分は確固たるキリスト者であると主張していた。しかし後期作品の中で展開されている宗教哲学は、オカルト的、神智学的、神秘主義的要素ならびに他の宗教からの影響をも示しているのだ。

 この時期のマイの私生活

ここで再びマイの私生活に目を向けることにしよう。このころ妻エマとの結婚生活は、マイにとって大きな負担になっていたようだ。二人は精神面で結びつくところがほとんどなかった。エマはマイの作品を読もうとはせず、その思考世界にも関心を持とうとはしなかった。そのため読者やファンからの手紙への返事などで、多忙な夫の手伝いをしなかった。さらに彼女は、自分が交際していた女友達を家に連れてきたりしていたが、マイはそれが仕事の邪魔になると感じて、不愉快な思いをしていたという。

こうしたことが重なって、すでにオリエント旅行の途上でも、少なからず好意を感じていた友人の妻クラーラ・プレーンにマイは接近したりしていた。そしてその夫のリヒアルト・プレーンが1901年2月に腎臓病で床に臥せ、やがて死亡した。そのあとクラーラはマイの秘書として雇われることになった。彼女はエマ・マイの名前で、読者からの手紙に返事を書く仕事を任されたのである。そのためもあって、マイとエマとの関係はますます悪化し、しまいにはエマに殺されるのではないかという被害妄想に陥り、彼女が調理した食事を食べなくなった。

後期作品の傑作のひとつ『銀獅子の帝国にて、第3巻』が完成したのをチャンスととらえたマイは、1902年夏、はエマとクラーラという二人の女性を連れて、しばし転地療養の旅へと出かけた。その旅の途中、マイはエマに対して離婚の話を持ち出し、自分はクラーラと結婚すると伝えた。その条件として、年額3000マルクの金を毎年エマに支払うことが提示された。そしてそのことを裁判所に訴え、その訴えは裁判所によって認められた。その後カール・マイは1903年3月30日に、正式にクラーラと結婚することになったのである。

                                         結婚後のマイとクラーラ夫人

この結婚生活は、とても幸せなものだったという。クラーラも性格の上で難しい側面を持ってはいたが、マイを深く愛し、また尊敬もしていた。そして生活面でも精神面でも、カールを強く支えていた。彼女はマイの作品を理解していたため、そのあと起きた裁判でも彼を強力に支援し続けたのであった。とりわけ情緒面でマイをやさしく支えたが、それなしにはマイはその後の歳月を生き延びることはできなかったと思われる。

 マイに加えられた非難攻撃

カール・マイは晩年の10年間、様々な種類の非難攻撃にさらされた。初期のころ各種雑誌や分冊販売誌に発表していた作品が、ほじくり出されて、俗悪で青少年に悪い影響を与えてきた、という非難のキャンペーンを一斉に受けたのであった。それらは主として、彼が経済的な窮状を逃れるために、1880年代の前半から半ばにかけて執筆し、ミュンヒマイヤー社発行の分冊販売誌に匿名で発表した大量の物語に関するものである。それらは推敲する暇もないほど急がされて書いたため、内容的に冗長で、装飾過多で、ぞんざいな出来栄えのものであった。ただ報酬は大変よかったという。
これらは匿名で発表されたのだが、実名が明らかになれば、評判を落とすことは明らかであったので、マイはひた隠しにしていたのだ。

ところがミュンヒマイヤー社の経営をその後引き継いだアダルベルト・フィッシャーという人物が、いわば金儲け目的でそれらの長編小説を、今度はカール・マイという実名を出して、発行しようとしたのである。大人気作家マイの名前を出せば、大きな利益を得られることは間違いない、と踏んでのことであった。オリエント大旅行の最中にそのことを知ったマイは、旅先からフィッシャーに対して発行を差し止めるよう伝えた。しかしマイの前科を知っていたフィッシャーは、マイがそれ以上強くは反対しないだろうと考えて、発行を強行したのであった。

              『絵入りカール・マイ全集』の中の一つ「放蕩息子」の挿絵

こうして全五巻の分冊販売小説が、今度は二十五巻に分けられ、大々的な宣伝広告のもとに『絵入りカール・マイ全集』として刊行されたわけである。旅行から帰ったマイはフィッシャーと何度か話しあって、発行停止を申し出たが、無駄であった。そして弱気になったマイは、1903年2月に、自分の前科を世間に公表しないことを条件に、発行継続を認めてしまったのであった。

しかしその分冊販売長編小説がもとで、青少年に不道徳的な悪影響を与えた作家であるとの非難が、各方面から起こったのである。そのためマイは妥協を後悔して、1905年に再びフィッシャーに発行停止を申し入れた。これも無視されたが、この経営者が1907年に死亡したタイミングで、後継の経営者に対して訴訟を起こした。その結果、分冊販売小説には第三者によってかなり手が加えられたというマイの申し立てが1907年10月に認められて、それ以後それらの作品からマイの名前は削除されることになった。この成果を勝ち取るまでに、実に7年もの歳月がかかったのである。

次に各方面からの批判キャンペーンに目を向けることにしよう。これは彼のオリエント大旅行中に始まり、以後断続的にマイの最晩年に至るまで続いたのであった。
1890年代の成功の絶頂期には起らなかったことが、鳴り物入りの宣伝広告を通じて刊行された『絵入りカール・マイ全集』によって、たぶんに「ねたみ・そねみ」の気分に彩られて、批判・非難の嵐が巻き起こされたのである。それらの批判の基調は、「清らかな世界冒険物語のかたわら、不倫とも不道徳とも言えるような
俗悪小説を書いて、青少年に悪影響を与えてきた」というものであった。

すでにマイのオリエント大旅行中の1899年に『フランクフルター・ツァイトゥング』の文芸欄では、「世界をくまなく旅行してきた世界漫遊者である、とのマイの主張は欺瞞である」と書かれていた。その後、以前はマイのことを高く評価していたカトリック系のジャーナリストによって、「マイは敬虔なカトリック信者を装ってきたが、実はプロテスタント信者なのだ」と指摘された。そして「いっぽうでカトリック系の家庭雑誌ではカトリックの立場にたって、敬虔なタッチで冒険物語を書きながら、同時に性的な描写を含み、不倫や不道徳に満ちた長編小説をカール・マイはたくさん書いていたのだ」と非難された。つまりマイは道徳的・文学的二重人格の持ち主である、というのだ。

この非難の根拠になっている不倫や不道徳な描写については、マイ自身は、「ミュンヒマイヤー社側が、販売効果を狙って、第三者に書き加えさせたものだ」と主張している。1880年代にマイが書いて同社に渡したオリジナル原稿を、同社はその後も公表していないので、この点は明らかではない。しかし『絵入りカール・マイ全集』を読んでも、そうした問題の箇所は量的に少なく、現代の視点から見れば全く無害なものである。それにもかかわらず、非カトリック陣営に属する保守主義者や国家主義者からも、誹謗中傷はやまなかった。

こうした各方面からの攻撃に対してカール・マイは沈黙していたわけではなく、盛んに防戦に努めていた。それは新聞への寄稿、新聞・雑誌への広告、パンフレットの配布、裁判関連の文書、数多くの名誉棄損の訴えなどを通じて行われたものであった。そしてそれらは一定の成果を上げ、マイを支持する賛成派の人々も少なくなかったのだ。彼らは革新派の社会民主党員、数多くの反体制派の人々、前衛の作家・芸術家たち、そしてカトリック伝統派の人たちであった。彼ら支持者たちは、言論発表の機会をマイにいろいろと与え続け、講演会なども用意した。

 名誉回復(1907年)

                                              雑誌『ドイツ人の家宝』

そうしたこともあって1907年には、カール・マイは多くの新聞雑誌に対して、おおむねその名誉を回復することができた。そしてその年の9月には、例の雑誌『ドイツ人の家宝』も、昔の同社の人気作家に再び接近してきたのである。その結果、1907年11月から、マイ最後の大長編小説「アルディスタンとジニスタン」が、その雑誌に掲載され始めた。それはマイが渾身の力を振り絞って取り組んだ大長編の物語で、後期作品の中でも最も代表的な作品といえるものとなった。そのころ彼は健康面でも元気を取り戻していたため、この大作の執筆にあたることができたのであった。

       北米旅行へ向かう船中にて。(左)マイ(右)後列右から2人目がマイ

そうした執筆の合間をぬうようにして1908年の晩夏に、マイは妻クラーラとともに、かねてからの北米旅行に出たのであった。9月5日「ブレーマー・ロイド社」の汽船でドイツを出発し、16日にニュー・ヨークに到着した。そこに一週間滞在した後、アルバーニ、バッファローを経てナイアガラの滝を見物した。その後カナダ側のクリントン・ハウスに宿泊した。そこからタスカロラ・インディアンの住む地域へ向かい、さらに五大湖周辺をトロント、デトロイト、モントリオールという具合に移動した。

10月5日には、マサチューセッツ州のローレンスで金持ちになって住んでいた旧友のペッファーコルンに再会した。そしてその町のドイツ系アメリカ人を前にして、講演を行った。それは「人間に関する三つの問題~我々は何者か? 我々はどこから来たのか? 我々はどこへ行くのか?」と題する講演であったが、大好評を博した。そのあとはローレンスを基地にして各地へ赴いたが、それらは主として休養を兼ねたものであった。そして11月にはボストン、ニュー・ヨークを経て大西洋を渡ってイギリスへ移動した。そこでは主としてロンドンで二週間を過ごしてから、マイ夫妻は12月初めに故郷の家に戻ったのである。

この二回目の海外旅行はオリエント大旅行のような、人生の転機を画すといった性質のものではなかった。またそれは広大なアメリカ合衆国のごく一部を動いたものに過ぎず、マイの作品の舞台になっている大西部にも行かなかったのである。それはすでに老境に入った人物の、息抜きの観光旅行であったのだ。

旅から戻ったマイは仕事を再開して、翌年の1909年6月には、雑誌に連載していた「アルディスタンとジニスタン」の最終原稿を書きあげた。そしてその夏、推敲の手を加えて、同年のクリスマスにはその作品は書物の形で刊行された。この著作は、童話的に場所と時間の制約のないユートピア風にして、人類の歴史を暴力から平和への発展としてとらえて、描いたものである。

そして1909年12月10日には南ドイツのアウクスブルクで、この作品に関連して、「人類の魂の故郷 シタラ」と題する講演を行った。地元の新聞によれば、会場は感激した聴衆であふれかえる大盛況で、隣接したカフェーまで人の群れでいっぱいになったという。その中にマイ作品の熱心な読者で、のちの大作家のブレヒトもいたと思われる。

 最晩年

この時期マイは再び大きな不幸に見舞われた。彼の最晩年を苦しめたのは、ルドルフ・レビウスという執念深い、ある種の政治ジャーナリストであった。はじめは社会民主党に属していたが、のちに転向して反社会民主主義、反ユダヤ主義、国家社会主義の立場に立つようになった人物である。雑誌編集者であった1904年春、この男はマイに接近してきて、かなりの額の借金を請求し、その見返りに支援を申し出た。その要求をマイは拒絶したが、その後もレビウスは半ば脅迫をちらつかせながら、要求を繰り返した。それに対してマイは法的手段に訴えて、その要求を退けることができた。

しかし執念深いこの人物は、その後マイと離婚してヴァイマルに一人寂しく住んでいたエマ・ポルマーを訪ねて、マイとの結婚生活や離婚した時の事情を探り出した。そしてさらにマイの故郷エルンストタールにも行って、その若き日の犯罪行為を調べ上げた。そしてその結果が出版物として公表された。そこではマイは「生まれながらの犯罪者」と呼ばれていた。それに対してマイは再び法的手段をとって、レビウスを名誉棄損で訴えた。ところが1910年4月に行われたベルリン・シャルロッテンブルクの裁判所での公判では、レビウスに無罪判決が下された。これはマイを犯罪者として公的に認めたことになり、マイは破滅的な衝撃を受けることになったのである。レビウスがまき散らした害毒は広くマスコミや世間に浸透し、いまや再びマイに対するかつての誹謗中傷の炎が燃え上がった。そのため彼の本の売れ行きのほうも、激減することになった。

こうした世間からの非難攻撃に対する弁明と反撃そして自己反省と自戒の書としてマイは、自伝『わが生涯と苦闘』を、それこそ最後の力を振り絞って書きあげ、これが1910年10月に刊行された。しかしこのころには心身ともに疲れ果てていたことが、自伝の中でも述べられている。「一年前から夜になると眠れなくなった。・・・そして絶えず激しい神経の痛みをを感ずるようになっている。・・・できることなら死んでしまいたいものだ。」そして1910年のクリスマスに肺炎に襲われ、1911年には病気と心身の衰えで仕事をすることができない状態になった。そのため医師の強い勧告を受けて、5月から6月にかけて妻のクラーラに伴われて、ラディウム療養のためにカールスバートに出かけ、その後さらに南チロルのホテルでのんびり過ごした。こうした長期療養のおかげで、その健康状態は一時的に回復した。

その年の12月初めマイは先のベルリン・シャルロッテンブルクの判決に対する控訴審手続きのための文書147ページを書きあげた。そしてその控訴審裁判がベルリン・モアビットの裁判所で、1911年12月18日に開かれた。レビウス側の検事が、マイの生き方は常軌を逸した奇行に満ちていると非難したのに対して、エーレッケ裁判長は次のように述べた。「しかし犯罪というものは、一人の作家によって作り上げられた奇抜な事柄などではないのだ。私はマイ氏を作家だと思っている」 この時マイは、この理解に満ちた裁判長によって救われたのであった。先の判決は取り消され、レビウスに対しては重度の侮辱罪によって罰金100マルクが課せられた。

 ウィーンでの最後の講演

このようにしてマイはその最晩年において、その名誉を回復することができたのであった。そして世間の風向きもマイに対して暖かいものに変わった。1912年2月1日には、ウィーン在住の作家ローベルト・ミュラーによるマイ擁護のエッセイが公表された。ウィーン文学・音楽アカデミーの責任者でもあったこの作家は、さらにマイに対して、その70歳の誕生記念にウィーンで講演してくれるよう依頼した。この講演依頼の目的は、マイの個人的・文学的名声を再び世の人々の前で明白に回復することであった。当時マイの体調は思わしくなく、医者からは長旅をしないよう勧告されていたが、それを振り切って彼はウィーンに向かったのである。

                        ウィーンの講演会場「ゾフィーエン・ザール」

1912年2月22日、ウィーンの講演会場「ゾフィーエン・ザール」の二千人以上にのぼる聴衆を前にして、マイは二時間以上にわたって(途中脱力状態の発作で短時間中断したが)話をしたのであった。その演題は「高貴な人間の住む天空に向かって」というものであった。このテーマはジニスタンへ向かって上昇しようと懸命に努力してきたマイ自身のことを表している。平和主義運動の担い手ベルタ・フォン・ズットナー女史もやってきて、事前にホテルでマイに会ってから、講演を聴いたのである。彼女の願いを入れて、マイはその講演の中で、最新作『人間の高貴な思想』からの引用もしている。「高貴な人間」という概念も彼女から借りたものであった。そこでは平和の理念が語られたほか、自らの人生の告解も行われた。

この講演は彼の公的人生の最後の成功を画するものとなった。ウィーンの新聞はこのことを詳しく報じた。「彼は歓呼の声で迎えられた。そして最後に、ぎごちなく、頼りなげに、そして明らかに驚いた感じで、みなへの感謝の言葉を述べた。拍手は十倍に強まった。少年たちが席から立ちあがって、彼らにヴィネトゥーをプレゼントしてくれた人物にあいさつした。講演が終わると、拍手は鳴りやまず、退場しようとしたマイの周りを人々が取り囲んだ。」
そうした人々の暖かいまなざしの中で、マイは感極まって「いつまでも変わらぬ心で私のことを!」と叫んだのである。

 ウィーンのカール・マイとクラーラ夫人。生前最後の写真(1912年3月20日)

そのあと3月の冷雨の中、風邪をひいて熱を帯びた体で、彼はラーデボイルの家へ戻った。しかし病床に就くことはなく、クラーラとの結婚記念日である3月30日には再び元気を取り戻したかに見えた。しばらくの間彼は静かに時を過ごし、半ば眠ったようにして、自分が作り出した人物たちと話をしていたという。そして夜の8時ごろ、カール・マイはただ一人妻のクラーラに付き添われて、息を引き取った。
「勝利だ! 大勝利だ! バラが・・・赤いバラだ」
これがその最後の言葉だった。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(04)

オリエント大旅行(1899年3月–1900年7月)

世界冒険物語の大成功によっていまや安定した経済的基盤を築いたカール・マイは、その作品の主な舞台となっていたオリエント(中近東地域)への旅行に出かけることになった。それは一年四か月に及ぶ大旅行であった。

<ドイツの自宅からの出発>

1899年3月26日、妻のエマおよび親友のプレーン夫妻に伴われてラーデボイルの家を出たマイは、途中、南独フライブルクに立ち寄り、全集の出版社主フェーゼンフェルトを訪ねた。そして北イタリアのジェノヴァ港でみなと別れ、一人で汽船「プロイセン号」に乗り込み、地中海を渡って、エジプトのポートサイド港に到着した。マイにとってはヨーロッパの外で初めて見た港町であった。

エジプトのポートサイド港

そして4月14日に、カイロに移動したマイは、そこでサイード・オマールというアラビア人の召使を雇った。この男は以後一年余りにわたって、旅のお供をすることになった。5月24日までカイロをゆっくり見て回った後、ナイル河をさかのぼって、古代エジプト王国の遺跡の宝庫ルクソールやアスワン地域まで足を延ばしてから再びカイロに戻った。
それから今度はポートサイド港を経由して、6月末に船でレバノンのベイルートに着いた。そしてパレスティナ地方の各地を行ったり来たりした。この辺りはユダヤ教、キリスト教、イスラム教ゆかりの名所旧跡もおおく、見るべきものが多かったためかと思われる。
そのあと9月初めには、再びポートサイド港からスエズ運河を南下し、紅海を通ってアラビア半島の西南の地にあるアデンの港に着いた。そこから汽船「バイエルン号」に乗って、はるばるインド洋を東へと進んで、セイロン島(現在のスリランカ)のコロンボまで足を延ばした。そしてさらに東へ向かい、スマトラ島の西岸にあるパダンに到達した。そこがマイのオリエント旅行の最東端の地であった。

セイロン島のコロンボからスマトラ島のパダンまでの航路

その後12月11日には、再びポートサイドへ戻ってきたが、そこで彼の妻及びプレーン夫妻と再会する予定であった。ところが親友のリヒアルト・プレーンがイタリアで病気になってしまい、この再会はかなり長いこと延期されることになった。

<第二の旅、再びエジプトへ>

やがてプレーン氏の病気が治り、1900年3月半ば、四人そろってナポリ経由で、再びポートサイドへ向かうことになった。こうしてオリエントへの第二の旅が始まったのであった。二組の夫婦は4月9日にカイロに到着した。そして4月27日までそこに滞在したが、その間にギザのピラミッドを訪れている。そのピラミッドとスフィンクスを背景に、マイと妻のエマ、リヒアルトとクラーラ・プレーンがラクダにまたがり、傍らに召使のサイード・オマールが立っている写真が残されている。

ピラミッドの前。マイとエマ、リヒアルトとクラーラ・プレーン
召使いのオマール

その時の様子をマイは次のように書いている。
「カイロからピラミッドへ向かう道路の左手に、村が二つ見えた。右手には運河によって灌漑されている緑の野原が横たわっている。ピラミッドはもうすぐだ。それは遠くから見ると三角形の平地のようであったが、近づくと立体的な姿を見せるようになった。・・・ピラミッドの東側の足元にアラビア人の村エル・アフルがあった。そこの住民は観光客によってすっかり堕落させられていて、誰かれ構わずの厚かましさで、なんでもやってのけるのだ。彼らはピラミッドからまだ遠くの地点から姿を現し、町からやってきた観光客に襲い掛かるようにして、土産品を買わせるのだ。それらは偽の硬貨や上手にまねして作ったスカラベ(コガネムシの形をした古代エジプトの護符)などの安物だ」

<地中海東岸地域へ>

その後一行は、エジプトの北にある地中海東岸地域へ移動した。パレスティナ、ヨルダン、レバノン、シリアなどである。5月1日から6月18日まで、ジャッファ、エルサレム、ヘブロン、ジェリコ、ティベリアス、ハイファ、ベイルート、バールベック、ダマスカスなどの都市を訪れた。そして再びベイルートに戻り、そこで長いことお供をしていた召使のサイード・オマールと、6月18日に別れた。

その間、一行はエルサレムの南東2㎞のところにある聖書ゆかりの地ベタニアにも立ち寄っている。そこの「かんらん山」には、ヨハネによる福音書の中に書かれていることだが、イエスの友人で、死後四日目にイエスによって復活したラザロの住まいと墓がある。キリスト教や聖書に特に強い関心を抱いていたカール・マイは、廃墟となっていた「要塞風の館」と墓を訪れたのである。崩れた石壁の上にマイが立っている写真が残されている。

廃墟の崩れた石壁の上に立つカール・マイ

その時の様子について、マイは次のように書いている。
「私たちはラザロの墓がある石壁の上に腰を下ろした。そして私たちの心のうちを打ち明けた。まるで教会の中にいるように静かだ。私たちだけだった。墓守は遠くに離れていた。墓は開いていた。この開いた扉から見つめているものは、いったいどんな思いをしているのだろうか」

さらに一行は、この間、ジャッファの北東3キロにあるドイツ人移民の農耕用入植地サロナを訪れている。そこは「神殿の友」という、南西ドイツのヴュルテンベルク地方出身者が結成した組織によって1868年に開発されたところである。一行はリップマンとヴァイスの二組の家族と知り合っている。

ドイツ人入植地サロナにて。前列左端がマイ、後列右端が召使のオマール

カール・マイ一行はもちろん聖地エルサレムも訪れている。「エルサレム。聖なる場所の数々を訪問した。・・・ジャッファ門をくぐって・・・まっすぐ石段を登って行ったが、その道は”神域”へと通じている・・・左手に曲がって狭いバザール(街頭市場)に入り、やがてダマスカス門に達する。そこで・・・”苦難の道”に出て、そこからゴルゴタの丘へと向かう。とはいえ正しい場所は今では分からなくなっているので、その場所はファンタジーの対象になっているのだ。そのずっと奥に”嘆きの壁”がある。ここではかつて救済を求める真摯な声が聞かれた。しかし今では、人々はわずかばかりのチップを求めて指を血に染めて石を削り取っているのだ。こうした人々の物乞いの行為は、聖なるエルサレムだけに見られるわけではない。人々を高い理想へと導いていく指導者がいなくなった所では、どこにでも見られることだ。」

それから一行はカペルナウムにあるドイツ・パレスティナ協会の会長ビーヴァー神父を訪問したが、そこで思いがけずうれしいことを耳にした。その時の様子を、クラーラ・プレーンが次のように書いている。
「ビーヴァー神父のところで私たちはカール・マイの作品を目にした。神父自身が熱心なマイの読者なのだ。そしてカール・マイこそは、私がベドウィン人と付き合ううえで、教師の役割を果たしてくれました、と神父は語ってくれたのだ。今やマイはこの人たちの間で、あらゆる事柄にかんして彼らの助言者であり、協力者なのだ。」

ドイツ・パレスティナ協会会長のビーヴァー神父

<召使サイード・オマールとの別れ>


もう一つカール・マイにとってオリエント旅行で忘れることのできない思い出となったのが、一年余り召使としてマイに同行したサイード・オマールである。このアラビア人の本当の名前はサイード・ハッサンなのだが、マイは自分が作り出した作品の中に登場するアラビア人の召使ハジ・ハレフ・オマールのオマールをとって、勝手にそう呼んでいたものなのだ。この召使はマイに対してとても忠実で、ありがたい存在だったのだが、前述のようにベイルートで別れたわけである。しかしその時自分の家族をおいて、マイと一緒にヨーロッパへ行きたいと言い出した。この時は別れたのだが、のちに一行をギリシアへと運ぶロシアの汽船までやってきて、自分も連れて行ってくれるよう再度頼んだという。とはいえハッサンの家族を見て、その家庭の事情を知っていたマイ一行は、その願いは無理だと説得したようだ。

ベイルートでは一行はまた、ドイツ人の世界漫遊者二人に出会っている。1900年6月のことである。彼らは二人ともライプツィヒの出身で、自転車に乗って世界中を動き回っていたのだ。そのうちの一人ケーゲルはイスタンブールを経由して、もう一人のシュヴィーガースハウスはダマスカスを経由してテヘランに向かうところだったという。ケーゲルは二度もアメリカ合衆国を横断旅行して、世界漫遊者の世界選手権者に選ばれている。そしてシュヴィーガースハウスは数年後にマイ一行が住んでいたラーデボイルを訪れて、世界旅行について講演を行ったという。ドイツ人は今でも外国旅行好きの国民として知られているが、すでに百年以上前にもそうした冒険家はいたのだ。

世界漫遊者のケーゲル及びシュヴィーガースハウス

このベイルートを最後にマイ夫妻とプレーン夫妻の四人は、本来のオリエント(中近東地域)を後にして帰途に就いた。その途中に一行はギリシアに立ち寄り各地を見て回っている。ピレウス港から上陸し、アテネに向かい、アクロポリスを見た後、7月中旬にはコリントの神殿遺跡にも足を延ばしている。

この後、一行は南イタリアのプリンディシに上陸してから、ボローニャ、ヴェネチア、ミュンヘンを経て、7月31日に、故郷ラーデボイルの自宅に戻った。こうして一年四か月に及んだマイのオリエント大旅行は終わったのである。

<大旅行によって起きたマイの心の変化>

これまで大旅行の具体的な日程と、おおざっぱな行き先そしてその体験について述べてきたが、そもそもカール・マイがこの旅行を企てた目的は、「自分は世界漫遊者である」という作り話を本当のことであると、後で読者やファンに実証することであった。事前にはこの旅行について、狭い範囲の関係者を除いて、ほとんど誰にも知らせていなかった。ただ旅先からはかなりの数の人々に絵葉書を出していた。またポートサイドへ向かう船中では、ファンの一人が乗客名簿の中にマイの名前を見つけてしまい、しばらくの間同行したいと言い出したりした。ファンとしては、それまで数十回にわたってマイが行ってきた旅行の一つと考えたに違いない。実はそれが最初の海外旅行である、などとは口が裂けても言えず、内心苦しい思いをしたと思われる。

その旅行の間、かなり長期にわたって、アラビア人の召使が随行したものの、マイにはその気持ちや思いを語る相手はいなかった。それは長い、長い極度に集中した執筆生活を癒すはずの、初めてのかなり長期の休養期間であった。そしてまた熱心な読者や崇拝者から離れて静かに過ごす期間でもあったわけである。

ところが故郷の日常生活から遠く離れた孤独な旅は、マイにとって慣れないものであった。と同時に実際に見聞し、体験したオリエント世界は、それまで多年にわたり築き上げてきた「虚構のオリエント世界」とは大きくかけ離れていた。そしてその乖離にマイは強烈な心理的衝撃を受けたのであった。
それまでのものは、いわば「ヨーロッパ人の優越的視点」から見た「オリエント」だったのである。その優越的視点に疑問を抱くことになったマイは、同時に自分は世界のどこにでも旅をしてきた世界漫遊者であるという作り話を、いつまでも流し続けていくことには、到底耐えることはできないと思うようになったのである。

そうした気持ちの激変のために、マイは孤独な旅の間、二度も精神分裂症にかかって、療養しなければならなかった。大旅行の一年目の1899年の9月16日には、親友のプレーンにあてた手紙の中で、次のように書いている。
「自分は今やかつてのカールとは正反対のものになりました。昔の自分は、紅海の中に捨て去りました」
その翌日マイは、あまりの辛さに心臓が張り裂けんばかりに慟哭したという。

それまでマイが作り続けてきた世界冒険物語では、キリスト教に導かれたドイツないしヨーロッパ世界こそが、アジア、アフリカ、中南米の世界より優越しているのだという意識が、その根底に置かれていた。確かに彼が描いたドイツ人の主人公は、イスラム教その他の宗教や現地の人々の風俗習慣によく通じており、またよく理解しているとも自称している。そのため現地住民を善悪に色分けし、善の側に立つ人々からは大変な信用を勝ち得ている。おまけにそのオリエント・シリーズの主人公はオスマン帝国の皇帝が発行する信用状を持参しているため、いざというときにはそれは極めて大きな役割を果たすのだ。
しかしそれらは十九世紀後半から二十世紀初めにかけての「帝国主義時代」において、ヨーロッパ列強諸国が、その他の世界に対して抱いていた優越感や偏見がもたらしたものであったのだ。

精神分裂症に悩みながらもなんとか旅を続けることができたカール・マイは、次第に立ち直り、心の病を克服していった。そしてそれまでの偏見や優越感を捨てて、進んで中近東・アジアその他の地域に住む人々との相互理解と平和主義の理念を持つようになっていったのである。

2019年7月ドイツ鉄道の旅(その3)

第3回(最終回)は、南ドイツの古都ニュルンベルク及び大都会ミュンヘンについてお伝えする。

ハンブルクからニュルンベルクへ

7月24日(水)晴れ

午前6時半、ハンブルクのホテルで朝食。7時半、チェックアウト。そしてホテルに隣接したアルトナ駅から地下鉄でハンブルク中央駅へ移動。今日は北ドイツから南ドイツまで、かなりの長距離の鉄道の旅となる。8時28分ハンブルク中央駅発の新幹線ICE1085に乗り込む。そして予約しておいた1等の指定席に3人は座る。
ドイツの鉄道は、日本の新幹線と同じ広軌だが、1等車の場合、片側が1座席、反対側が2座席になっている。2等車の場合は、両側が2座席だ。そのため日本の新幹線の座席のように窮屈ではなく、ゆったりしている。それから昔ながらのコンパートメント式の座席もあるが、私見では最近は、日本と同じ方式が多くなっているような気がする。

列車は、3日前に北上した時とは逆に南下して、フルダ経由で約5時間で、ニュルンベルク中央駅に、13時25分に到着した。そして大きなトランクを引っ張って、駅に近いインターシティ・ホテルへ移動した。14時、そのトランクをホテルにおいて、近くのレストラン”Schwaenlein(小白鳥)”に入って昼食をとる。ここではニュルンベルク名物の小ぶりの焼ソーセージ6本に大量のサラダなどの添え物が付いた料理を注文した。飲み物としては、地元産の黒ビールを頼んだ。
ドイツに限らす、ヨーロッパの普通のレストランでは、食事の際に、昼でも夜でも、飲み物を何にするか聞かれる。久しぶりに食べたニュルンベルクの焼ソーセージは、期待通りおいしかった。

デューラー・ハウス

昼食後、旧市街をぐるりと取り囲んでいる城壁の外側を走っている市電に乗って、城壁の北側に位置している「デューラー・ハウス」へ向かった。アルブレヒト・デューラー(1471-1528)は、ニュルンベルク出身であるが、ドイツ・ルネッサンス絵画の完成者と言われる画家・版画家である。

ニュルンベルクは、中世末期から近世(15,16世紀)にかけて、南ドイツ有数の商工業都市として、商人や職人の経済力を基にして、文化が花開いた所である。ちなみにワグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー(親方歌手)」は、この町の親方(マイスター)であるハンス・ザックスを主人公にしているが、当時の町の雰囲気を今によく伝えている。またこの町は当時は出版都市としても名高かった。15世紀の後半、大規模な出版社を経営していたアントン・コーベルガーがその代表的人物である。彼は印刷者、出版者、書籍販売者を一身に兼ねた偉大な事業者であった。

私はこの「デューラー・ハウス」を、1970年代前半にも訪れているが、今回その内部展示は、以前に比べ一段と工夫が施されていて、実に見応えがあった。

皇帝の城(Kaiserburg)への入り口

そのあと隣接した高台の上にある「皇帝の城]へ行こうとしたが、家内の足が痛んで高台へは登れないというので、断念する。たしかにごつごつした石畳みの道は、大変歩きにくい。その上今日も強い日差しが照りつけた猛暑日で、やむおえないことではあった。条件が良ければ、さして広くはない旧市街を歩いてみて回るのは、特に困難なことではないのだが、今日も異常な暑さなので、仕方がない。

そのため「デューラー・ハウス」近くの停留所から市電に乗って、午後6時ごろホテルに戻った。そして部屋に入り、シャワーを浴び、ゆっくり休息をとってから、一室に三人が集まって、途中で買った大きなサンドイッチを食べて、夕食とした。長旅なので、とにかく無理をして病気になったり、怪我をしたりしては、元も子もない。そのためホテルの部屋の中で、書類を整理したり、テレビを見たりして、その晩はゆったり過ごした。

ニュルンベルク二日目(近郊の町への遠足)

7月25日(木)快晴

ニュルンベルクのホテルで朝食をとる。そして今日は、長男の提案で、近郊にある小さな町「バート・ヴィンツハイム(Bad Windsheim)」へ日帰り旅行をする。
9時5分、ニュルンベルク中央駅発のローカル列車に乗って、北西方向へ向かった。そしてノイシュタインで乗り換えて、目的地に9時58分に到着。1時間足らずの行程であった。

本来はそこからバスに乗って、郊外の野外博物館へ行く予定であった。しかしじりじり照り付ける日差しの中、野外に長時間滞在するのはつらいので、計画を変更。町中にあるユニークな博物館を訪れることにした。

バート・ヴィンツハイムの郷土博物館の入り口

そこは教会を改造した建物で、一種の郷土博物館になっていた。中を見て歩くと、教会の設備はそのまま残されていて、その間に様々な展示がなされていた。全体としてカトリック勢力が優勢なバイエルン州でも、この北部のフランケン地方は、宗派的にプロテスタント地域なのだ。そのためこうした斬新なやり方で、教会の設備を刷新して、地域の活性化を図っているようだ。

木造の教会の建物のすぐ横に、コンクリートの付属の建物がつけられ、エレベーターで二階と三階へ登れるようになっている。三階まで上がってみると、教会の屋根裏の木組みの部分を見ることができて、興味深かった。

バート・ヴィンツハイムの街角

次いでこの小さな町の曲がりくねった狭い道を、少し歩いた。その途中、この写真に見られる街角があった。道の中央には噴泉があったが、19世紀のロマン主義の歌に出てくるような牧歌的な風景だ。その少し先に「コウノトリ亭」と称する一軒のレストランがあったので、その店に入って昼食をとった。ここでもたっぷりとした郷土料理とフランケン地方の地ビールを堪能することができた。

食後は再び列車に乗って、ニュルンベルクへ戻った。そして中央駅の近くにある堂々たる鉄道博物館を訪れた。この町はドイツの鉄道の発祥の地ともいえる所で、1835年、隣町のフュルトとの間にドイツ最初の鉄道が開設されたのだ。イギリスにおける鉄道開設に遅れることわずか数年ということである。それ以来、ドイツ全国津々浦々に鉄道網が張りめぐらされていったのだが、その先駆けとなったのが、ここニュルンベルクなのである。

ドイツにおける産業革命は鉄道網の発達によって促進された面が強いが、そうした輝かしい歴史の第一歩を記したという光栄を、ニュルンベルクの町は担っているのだ。館内にはそうしたドイツにおける鉄道網発達の様子が手に取るように分かる展示がなされていた。中でも注目すべきは、入り口近くにあった堂々たる機関車である。それはニュルンベルク~フュルト間の最初の列車を引っ張っていった機関車「アドラー(鷲)号」で、まさにこの博物館を代表する目玉なのだ。

レクラム百科文庫の自動販売機

博物館を出ようとした時、偶然私にとっては忘れることができないものに遭遇した。それはドイツの文庫本の元祖ともいうべき『レクラム百科文庫』の自動販売機であった。私はドイツ書籍文化史の一環として、このレクラム百科文庫の歴史を研究し、その成果として『レクラム百科文庫~ドイツ近代文化史の一側面~』という本を刊行した(1995年12月、朝文社)。その269ページに「文庫自動販売機の設置」という項目を設けて、これについて説明している。自動販売機による文庫の販売は、1912年から開始されたのであった。そして1930年代の後半まで注目されたといわれている。

そのあと家内と長男はホテルへ戻ったが、私は一人でなおニュルンベルクの旧市街を見て歩くことにした。先にも述べたが、旧市街の周囲には、城(Burg)を守るようにして、ぐるりと城壁が張り巡らされている。ドイツの多くの都市では、中世以来、城を取り巻くかなり広い囲壁の内部に、商人や職人が住んでいた。そのため元来要塞を意味していたBurg(ブルク) が町を意味するようになり、そこに住む人々(市民)は、Buerger (ビュルガー)と呼ばれるようになった。これはフランス語のブルジョアに相当するものだ。日本では「ブルジョア」は単に「金持ち」といった意味合いで使われているが、ヨーロッパでは、中世以来、商工業の担い手として、やがて都市の実権を握るようになったのだ。

19世紀に入ってドイツ語圏の大都会では、旧市街を取り巻く囲壁は町の発達を妨げるものとして取り壊されていった。しかし南ドイツの中小都市では、ここニュルンベルをはじめとして、日本人観光客に人気のあるロマンチック街道沿いのローテンブルクなど、いまだに城壁が残っているのだ。

さて私は二人と別れてから、囲壁の所々に設けられている城門の一つを潜り抜けて、旧市街に入った。そしてまず、囲壁近くにその堂々たる威容を見せている「ゲルマン国立博物館」を訪れた。40年ほど前にも一度この博物館に入ったことがあるが、当時は煉瓦造りの重厚な建造物であった。その後建物全体がぐんと拡張されたようで、コンクリートとガラス張りの新館には驚かされた。
「ゲルマン」という名称がつけられているが、その実態は、さまざまな分野の展示物を所蔵・展示している総合的な大博物館なのだ。その展示があまりに多岐にわたっているので、短時間ではとても見切れない。そうこうしているうちに、午後6時となり、閉館の時刻となって、追い出された。

そのあとは旧市街を北上して、ローレンツ教会に入った。この辺りは旧市街の中心部に近く、人々の往来が激しくなっていた。教会の中にも見るべきものはあったが、午後7時にはホテルに帰ると二人に約束したので、そそくさと出てきて、大通りを急ぎ足で南下した。そして囲壁のすぐ手前にあるマーケットに立ち寄った。そこはかつての職人たちの生活の場だったところだが、狭い小路に立ち並ぶ店を短時間で見て回った。

そして家内と長男が待つホテルへと戻った。そのあと一休みしてから、三人で外に出て、夕食をとる場所を探した。ドイツ料理には飽きていたので、この時は中央駅近くのイタリア料理店に入って、パスタ料理とイタリアワインの食事を楽しんだ。

ニュルンベルクには玩具博物館があるが、昔から玩具の生産と販売が盛んであった。70年代にドイツの放送局に勤めていた時、私は玩具見本市を取材したことがある。また12月にはドイツで最も有名なクリスマス市が立ち、日本からも大勢の観光客が押し寄せている。さらにナチスの時代には、近郊で定期的に華々しく演出された党大会が開かれていた。その様子は、今でもテレビなどを通じて繰り返し、紹介されている。その広大な広場は、なお残っていて、私も一度見に行ったことがある。そのがらんとした空間は、私の目には、まさに「つわもの共の夢のあと」のように映った。

ミュンヘン一日目

7月26日(金)晴れ

午前8時、ニュルンベルクのホテルで朝食。9時20分、チェックアウト。ニュルンベルク中央駅9時55分発のICE503に乗り込み、11時にミュンヘン中央駅に到着した。この町はバイエルン州の州都で、南ドイツ随一の大都会だが、ここへはこれまで何度か来ている。しかし最近は足が遠のいていて、1993年以来、
26年ぶりのことだ。

中央駅構内は大変な雑踏で、その中をガラガラとトランクを引きずりながら移動し、ロッカーにそれらをしまう。そしてただちに地下鉄に乗り、中心部にあるマリーエン広場で下車。そして人々の間を潜り抜けるようにして、新市庁舎前の広場に上がっていく。

ミュンヘンの新市庁舎

この新市庁舎はネオゴッシック様式の建物で、1867年~1909年に建てられた。このマリーエン広場辺り一帯は、ミュンヘンの中でも、一番人気のあるところだ。三人はまずは人ごみを掻き分けるようにして、新市庁舎の中に入り、長い行列に並んでエレベーターに乗り込んだ。降りたところは高さ85mの展望塔の上部であった。この広場周辺は何度も来ているが、塔の上に上がったのは、初めてだ。大都会ミュンヘンのたたずまいを眺望するのに、ここは格好の場所なのだ。

仕掛け時計の人形

そのあとエレベーターで下へ降りて、再びマリーエン広場に出た。12時5分前だ。広場には、前にも増して大勢の人々が集まっている。人々は、新市庁舎正面に取り付けてある仕掛け時計と2階と3階の人形たちを、じっと見ているのだ。正午の時報が鳴り出すと、まず3階の騎士たちがぐるぐる回りながら、正面に出てきては背後に消えていった。次いで2階の町民たちが踊りながら回転して、背後に消えていった。今回はちょうどタイミングよく、この仕掛け時計と人形の踊りを見ることができた。

このイベントが終わると、人々は三々五々、広場を離れていった。我々三人も、すぐ近くの聖母教会の中に入っていった。この教会の2本の塔はミュンヘンのシンボルになっているが、内部はステンドグラス以外は質素だ。そのあと、ミュンヘンで最も古く、11世紀前半からあったペーター教会の中を見学した。この方は内部が大変装飾的で、数多くの人間の彫像が見事だ。

外に出ると、ヴィクトアーリエン市場にぶつかった。たくさんの屋台では、新鮮な野菜、果物、肉類その他の食品などが売られている。市場のそばの一軒のレストランに入り、昼食をとった。外は人々の雑踏でうるさいが、一歩店の中に入ると静かで、バイエルン風の肉料理と本場の地ビールを大ジョッキで堪能する。日本ではドイツビールと言えば、ミュンヘンのビールが最もよく知られているが、自分としてはドイツ各地の地ビールを味うことを楽しみにしている。

食後は、イーザル門を通り抜けて、イーザル川の畔に出た。ミュンヘン市内を流れているイーザル川の名前は、日本ではほとんど無名だが、大河ドナウの支流で、ドイツとオーストリアの国境付近で合流しているのだ。

イーザル川での水遊び

今日もまた、じりじりと太陽が照りつける猛暑の一日で、この暑さをしのぐためか、人々はさして幅の広くない川の中で、水遊びをしている。こちらもできることなら、一緒に川の中に入りたいぐらいだ。ただ、そうもいかないので、三人は近くの山岳博物館の中に入った。

ミュンヘンは南ドイツの中でもかなり南部にあって、町の南には大小の湖が点在している。そしてさらにその南には、オーストリアとの国境をなしているバイエルン・アルプスが、東西に横たわっている。その最高峰はツーク・シュピッツェと言い、ドイツで最も高い山で、高度は3千メートル弱だ。その山頂へは北麓の中腹から空中ケーブルが通じていて、一挙に到達できる。三十数年ほど前に、その空中ケーブルに乗ったことがある。山頂の反対側は、もうオーストリア領なのだ。

この山岳博物館自体はあまり見るべきものがなかった。それで長居はせずに、市電に乗ってミュンヘンの中心部を通り抜けて、中央駅にたどり着いた。そしてロッカーの中からトランクなどを取り出して、地下鉄で市内の西方にあるイビス・ホテルへ移動した。そして途中で買ったサンドイッチ、サラダ、飲み物を、ホテルの部屋で食べて、夕食にした。

ミュンヘン二日目(ローゼンハイムへ小旅行)

7月27日(土) 晴れ

今日は、ミュンヘンの東南部に位置している町ローゼンハイムへ日帰りの小旅行。
ホテルから地下鉄でミュンヘン中央駅へ移動し、ローカル列車に乗り込んだ。そしてほどなくローゼンハイム駅に到着した。駅の周辺はのどかな雰囲気で、ここまで来るともう、アルプスも近い。同時にオーストリア国境もまじかだ。駅前でタクシーを拾い、ただちに中心街から離れた所にある「イン博物館」へ向かった。

イン博物館の外観

そこはイン(Inn)川の畔にある郷土博物館だ。イン川を中心に、この地域で昔から営まれてきた産業や人々の生活について展示した博物館なのだ。館内には人影がなく、受付の老人も手持無沙汰の感じ。それだけにとても親切に、いろいろとこちらの質問に答えてくれた。

このイン川は、源をスイス・アルプスに発し、オーストリア領を通って、やがて南ドイツに入り、このローゼンハイムの町の中を流れているわけだ。そしてさらに北東方向へと向かい、パッサウで大河ドナウに合流している。全長517Kmで、途中にはスイスのサン・モリッツや、かつて冬期オリンピックが開かれたオーストリアのインスブルックなどがある。

展示を通じて知ったことだが、イン川はアルプス周辺のこの地方の人々にとって、昔から物資を運ぶ重要な交通路になっていた。そして素朴な木造の平底船によって、穀物、ワイン、食用油、岩塩、たばこその他が運搬されていたという。館内にはその平底船の等身大の精巧な模型が置かれていて、とても興味深かかった。

平底船の模型

川下への航行には労力を必要とせず楽だが、急流を通過するときは危険が伴った。いっぽう川上への航行は、動力を使わない時代には、人間や動物が川の両側で船を引っ張らねばならなかったという。有名な「ボルガの舟歌」を描いた絵画を思い出し、おもわずその歌の一節を口ずさんでみたくなった。ただし歌詞がうろ覚えだったので、歌うことはやめにした。

やがて19世紀の半ばに蒸気船が導入されると、この点はぐっと改善されたという。博物館で入手した蒸気船を描いた絵ハガキには、1854年という年号が書かれている。

イン川の畔

「イン博物館」を出てから、すぐ近くを流れているイン川の畔に沿って、しばらく散歩した。この辺りは、ローゼンハイム市の郊外にあって、なんとものどかな風景であった。時計を見るとすでに昼時になっていたので、町の中心までかなりの道のりを歩いて行って「木槌亭」という一軒のレストランに入った。ここでも外の席は満員であったが、室内に入ると客が少なく、テーブル席もたっぷり空いていた。しかも外の騒音もあまり聞こえず、落ち着いた雰囲気であった。ドイツ人は,日の長い夏の季節には、太陽の下で過ごすのが好きなようで、たいていの料理屋は、夏には室内ががらがらなのだ。

「木槌亭」の外のテーブル席

今日は土曜日のせいか、町の中心部は、人でいっぱいだ。大道芸人の周りには、人だかりがしていた。帰路、アイスクリームを食べながら、ローゼンハイム駅へと向かった。そして再びローカル線の列車に乗り、午後4時ごろミュンヘン中央駅に戻った。

家内は暑さのために疲れたといって、長男の付き添いでホテルへ戻っていった。こちらは、せっかくの機会で、まだ時間もあったので、中央駅北部の美術館へ向かった。しかし目指す古代美術館は、閉鎖中だったので、近くの近現代美術館に入った。そこではドイツ表現主義の一派「青騎士」グループのカンディンスキーやフランツ・マルクなどの絵画を見て回った。
そして中央駅から地下鉄に乗って、やや離れた所にあるイビス・ホテルに戻った。

ミュンヘンからケルンへ

7月28日(日)曇りのち雨

昨日までの猛暑から一転して、今日は曇天のやや涼しい気候になった。ミュンヘンのホテルで、朝食をとり、チェックアウト。タクシーで中央駅へ向かった。この駅は現在工事中で、外壁の装飾などは隠れていて、中央駅としてのたたずまいは感じられない。その構内を大勢の人々が、忙しそうに動き回っている。この点は、東京の新宿駅とか渋谷駅などとあまり変わりがない。

今日は長男が住むケルンまでの長旅だ。9時28分発のICE61号に乗ったが、列車は西北方面へ向かって走り出した。そしてアウクスブルク、ウルムといった南ドイツの都会を通って、西南ドイツの大都会シュトゥットガルトに着いた。さらに列車は西北へ進み、ライン川畔の町マンハイムに、12時28分に到着した。

この間、前方と斜め向かいの席には、ドイツ人の祖母、両親、姉一人、男児二人の大家族が陣取っていた。そして男の悪ガキ二人が、通路を走り回ったり、寝そべったり、大声を発したり、傍若無人の振る舞いを重ねていた。親も祖母も特に叱ったりする風もなく、周囲の人たちも知らん顔。こちらとしては、困惑はしていても、直接注意するわけにもいかず、迷惑千万であった。1970年代にはじめて西ドイツに赴任した時は、他人の子供であっても、迷惑行為に対しては厳しく叱責する大人がいて、感心したものだ。今回目撃したのが特別なケースなのかどうか知らないが、ドイツの列車の中で初めて体験したことであった。

ライン中流域の渓谷を走る

我々三人は、マンハイム駅でケルン行の特急に乗り換えたが、それによってようやくこの悪ガキ共と別れることができ、ほっとした。そして列車は少し先のマインツからは、ライン川中流域の風光明媚な渓谷の中を走ることになった。マインツからリューデスハイム、コブレンツそしてボン、ケルン辺りまでの間は、いわゆるライン川観光の遊覧船がゆっくり動いているのだが、汽車のほうは谷底の狭いところを川の両岸に沿って走っている。

その間、崖の上には中世以来の古城の数々が見え隠れしている。また岸辺からの斜面にはワイン畑が広がっている。それからまた、歌にもよまれ、日本人にもよく知られているローレライの断崖絶壁もある。このあたり、ラインの流れは曲がりくねっていて、しかも急流である。伝説によれば、このローレライの断崖の上に、一人の乙女が座って、歌を歌っていたが、流れを進んでいた船乗りがその美声に聞きほれるあまり、かじ取りを間違えて岩にぶつかり、命を落としたという。

私が長期滞在していた1970年代や80年代には、日本人へのサービスとして、断崖の下のところに、ドイツ語と並んで日本語のカタカナで「ローレライ」と書かれた看板が取り付けてあった。その後その看板は取り外され、”Lorelei”
というドイツ語の看板だけが残っている。

やがて列車は15時5分、ケルン中央駅に到着した。そして小雨降る中、ただちにタクシーに乗り込み、長男の自宅に戻った。ゆっくり休んでから、夜には長男手作りのスパゲッティとビールの食事をとった。

ケルン滞在(ドイツ最後の日)

昨夜はたっぷり寝て、今朝は午前7時に起床。8時過ぎ簡単な朝食。
11時過ぎ,133番のバスに乗って、旧市街のホイマルクトで下車する。そのあたりから中央駅や大聖堂までがケルンの中心街だ。近くの大型電気店「ザトゥルン」に入り、CD音楽カセットやパソコンなどを見て歩く。そのあと趣のあるレストランや居酒屋が集中しているアルターマルクト地区へ移動した。

そして我々三人が訪れたのは、その中の老舗の居酒屋”Brauhaus Sion(ブラウハウス・ジオン)であった。ここはケルン産のビール(Sion)を醸造している店の直営酒場(レストラン)なのだ。この店で我々は、私が昔務めていた放送局の同僚である吉田慎吾さんと鈴木陽子さんに会って、会食したわけである。もう一人ベルリン在住の同僚永井潤子さんが来る予定であったが、連日の猛暑のために体調を崩して、急きょキャンセルになった。

とはいえ店内は客が少なく、静かな環境の中で、五人は午後1時から5時ごろまで、さまざまな話題を巡ってお喋りを楽しんだ。この二人とは、これまで私がケルンを訪ねると必ずと言っていいほど、しばしば会ってきた仲で、一昨年2017年8月にも、別の居酒屋で会っている。この時は放送局の上司のドイツ人クラウス・アルテンドルフさん及び旧同僚の佐々木洋子さんとそのドイツ人のご主人も出席していて、賑やかであった。アルテンドルフさんは2014年4月に85歳を迎え、それを祝って放送局の旧同僚がおおぜい集まって祝賀会が開かれた。それから数えてもう5年が過ぎ、90歳の高齢で、今年の会食には出てこられなかったのだ。

ケルンの居酒屋での会食(2017年8月)

左から家内、長男、鈴木さん、吉田さん、アルテンドルフ氏

左からアルテンドルフ氏、ケーベルレ氏、佐々木さん、戸叶            

日本への帰国

本日はドイツ滞在の最終日だ。長男の家で午前7時半過ぎに起床。遅い朝食の後、帰国の準備を始めた。大きなトランクやリュックサックに荷物を詰めていく。いろいろ詰めなおしたりした後、結局私のトランクの重量は23キログラム、家内のは20キログラムで、航空機に預ける制限重量の中に納まった。

13時過ぎ、三人はタクシーでケルン中央駅へ向かった。そして14時55分発の列車ICE109号で、フランクフルト空港駅へ移動した。鉄道駅でも空港でも、最近はすべて自動化していて、機械操作を正しくすれば、いとも簡単に済んでしまう。ただ今回は幸い長男がすべて手続してくれたのでよかったが、そうでなかったら困難に陥ってしまったかもしれない。昔私が一人で旅行して回っていた時は、こうした自動化はまだなく、言葉によって問題は解決していたのだ。

それはともかく、そうした手続きを済ませた長男とは、フランクフルト空港駅で別れた。家内と私は二つのトランクをカウンターに預け、出国手続きをしてから、出発ロビー内の免税店などに立ち寄り、お土産を買い足し、搭乗口近くの待合場所についた。
そして18時10分発のルフトハンザ機に乗り込んだ。機内は日本人を中心にほぼ満席。私の隣の席の日本人S氏とすぐに話を始めたが、その人は大学と高校で数学を教えているという。そして今回は数学者の足跡をたどって、イタリアの各地を旅してきたという。私も自己紹介をして、これまでのヨーロッパ滞在中のことを、いろいろお喋りした。そのため機内でも退屈することなく、過ごすことができた。

11時間の長旅の後、翌31日(水)の正午過ぎ、無事羽田空港に到着した。日本を出発した7月16日(火)には日本はまだ梅雨のさなかで、羽田も雨だったが、本日は梅雨が終わり、猛暑の真夏になっていた。預けた荷物を受け取ってから、タクシーで世田谷の自宅に戻った。

 

2019年7月ドイツ鉄道の旅(その2)

第2回は北ドイツの港町で、旧ハンザ同盟都市のリューベック及びハンブルクについてお伝えする。

フルダからリューベックへ

7月21日(日) 晴れ

朝食後、フルダのイビス・ホテルでチェックアウト。そしてタクシーでフルダ駅へ。9時4分発のICE886号に乗り、ドイツ中央部を北上する。はじめトンネルの多い中部山岳地帯を通り抜け、やがて北ドイツ平原に出る。そして見本市でよく知られた中都会ハノーファー(日本ではハノーバーと言われている)に到着。ニーダーザクセン州の州都だが、第一次大戦以前、ハノーファー王国の都だった。

この王朝からは、18世紀の初め、血縁者が、イギリス国王ジョージ一世として迎えられている。本人は英語ができず、ドイツ滞在が多かったため、その治世、王に代わって行政を担当する首相と内閣の制度が発達したといわれている。「王は君臨すれども統治せず」をモットーとしていた当時のイギリスの政治家にとっては、政治にくちばしを入れられなかったので、都合がよかったのだろう。『世界史用語集』によれば、ハノーヴァー朝(1714~1917)は、その後実に2世紀余りにわたって続いたのだ。

この間、この地域はイギリスと親しい関係になり、さまざまな分野で先進的なイギリス文化や制度が、導入されていったという。たとえば同王国のゲッティンゲン大学は、イギリスからの先端的な文化の導入や人事面での交流があって、当時のドイツの一流大学へと発展した。明治以降、日本からも多くの学生・研究者がゲッティンゲン大学へ留学しているのだ。

さて話は横道にそれたが、列車は12時半に大都会ハンブルクの中央駅に到着した。そして13時4分発のローカル列車に乗り換えて、その北東部にある港町リューベックへ向かった。そしてその中央駅に13時48分に着いた。港町と言っても、この町はバルト海のリューベック湾には直接面してはいず、トラーヴェ川を少し遡った所に位置している。

とはいえ中世後期には、バルト海を中心に北ドイツ、ポーランド、ロシア、スカンディナヴィア地域の諸都市から、さらにライン川をさかのぼった所にあるケルンそして北海に通じたハンブルクや、かなり西のロンドンなどの都市にまで広がって、国際交易のための「ハンザ同盟」の盟主だったのが、このリューベックなのだ。そのため「ハンザ都市リューベック」という称号を持ち、いまなおその伝統を誇りにしているわけである。

さてわれわれ三人は、中央駅のコインロッカーに大きな荷物をしまい、身軽になって、昼食をとるために旧市街へ向かった。そこは中央駅から歩いて行ける距離にあるが、四方を運河で取り囲まれた中の島の上に位置している。この点第1回でお話ししたストラスブールに似ているといえよう。その地域に入る少し手前に、リューベックの象徴としてよく知られ、紙幣の図柄にもなっている「ホルステン門」が見事な姿を見せていた。

ホルステン門

三人はこの門の傍らを通り過ぎて、運河にかかった橋を渡って島の中に入った。そして左折して運河に面した一軒の魚料理店に入った。店の名前は「Seewolf
(おおかみうお)」という。時刻は午後2時半で、店内に客の姿はなかった。しかし尋ねてみると、営業しているという。
三人は席について、まず地元の生ビールを注文。食事のほうはそれぞれ別の魚料理を頼んだ。私は衣つきのタラ料理だが、添え物は好物のジャーマンポテト。ビールにぴったりだ。空腹を十二分に満たしてくれた。店内にはいたるところに、海に関連した品々が置かれていた。また天井からはいろいろな漁具や船の模型などがつりさげられ、まさに港町の雰囲気を堪能できた。

レストラン”Seewolf(おおかみうお)”の店の人は素朴で、親切。ドイツ語でこの辺りのことをいろいろ尋ねてみたが、北ドイツ人の特性と言えるのかどうか、静かな調子で淡々と答えてくれた。

レストラン”Seewolf(おおかみうお)”

食後には、近くの比較的狭い通りを散歩する。そこは石畳を敷き詰めた道だが、風情はあるものの、でこぼこしていて歩きにくい。とはいえ道路の両側には、北ドイツ特有の茶色ないし黒色の煉瓦造りの数階建ての建物が立ち並んでいる。

煉瓦造りの数階建の建物

その一角にマリーエン教会があったので、中に入る。この教会の目玉は天文時計と立派なパイプオルガンだ。そのオルガンは何故か”Totentanzorgel(死者の舞踏オルガン)と呼ばれている。そして北ドイツ地域の代表的なオルガンだということを、事前に、オルガン奏者でもある家内の実兄の馬淵久夫さんから聞いていた。またバロック音楽の作曲家ブクステフーデが、この教会のオルガンを弾いていたという事も、聞いていた。そのため家内は教会内の売店で、ブクステフーデが演奏した作品を収録したCDを買い求めた。

マリーエン教会の天文時計

マリーエン教会を出ると、日曜の午後という事で、あたりは大勢の人で混雑していた。教会の隣には、見上げると空高くそびえ立つ建造物が建っていた。その建物にはいくつもの尖塔があり、その下に円形がくりぬかれている造形が、特徴と言えよう。大変印象的だ。それがリューベックの市庁舎なのだ。

リューベックの市庁舎

市庁舎前の広場も、人々でごったがえしていた。長男の提案で、その市庁舎の中には入らずに、二・三軒先にある聖ペトリ教会へと向かった。そして教会の塔を、エレベーターで上って行った。そこからの眺めは、旧市街全体を十分見下ろせるばかりでなくて、ホルステン門や遠くの市街地まで、まさに眺望絶佳であった。

そのあと旧市街を離れ、先ほどは傍らを通り過ぎたホルステン門に入っていった。
門の内部は博物館になっていて、昔の人々の暮らしに関連した品々が展示してあった。三階建になっていて、狭い石段を上って、それらの展示を一通り見て回った。

そのあとリューベック中央駅構内のロッカーにしまっておいた、大きなトランクを引き出して、タクシーで町はずれのイビス・ホテルに入った。夕食は、そとで買ったサンドイッチやサラダ、飲み物をホテルの部屋で取った。そして一日の疲れをいやすため、早めに就寝した。

リューベック二日目

7月22日(月)小雨 イビス・ホテルで8時半、朝食。9時半、ホテルを出て、タクシーで、島の一番北の旧市街はずれにある「ハンザ博物館」へ直行する。この博物館は、運河の北側と島の内部を結ぶ城門のすぐ近くにある元修道院の建物を改造して2015年に開設されたばかりだ。ハンザ同盟に関連した本格的な博物館である。中の展示は豊富で、いろいろと体験することができる「体験型の博物館」だ。

ハンザ同盟は、『世界史用語集』によれば、リューベックを盟主として、13世紀後半から発展したもので、ハンザは「商人の仲間」の意味。1358年に明確に都市同盟の形をとった。加盟都市は100を超え、共通の貨幣・度量衡・取引法を決め、陸海軍を維持し、国王や諸侯に対抗して北海・バルト海一帯を制圧した。しかし、主権国家体制が成立し始めた16世紀以降次第に衰え、17世紀初めには、ほぼ実体を失った。
展示を見終わって、博物館の中にあるレストランで昼食をとった。

博物館を出ると、小雨が降りだしてきた。今回の旅行で初めて雨傘を取り出して、石畳の狭い道を移動していった。そして「ヴィリー・ブラント・ハウス」に入った。この町出身のブラントは、1969年から1974年まで、社会民主党の党首として、自由民主党との連立政府で、西ドイツの首相を務めた人物である。
この「ハウス」では、ブラントの生涯と業績を詳しく説明した展示がなされていた。彼の最大の業績は、米ソの冷戦体制のはざまにあって、ソ連、ポーランド、東独、チェコスロヴァキアとの間に、それぞれ条約を結んで、東西間の融和と緊張緩和を図ったことである。その政策は新東方政策として歴史に名を残している。そしてその功績によって、ノーベル平和賞を受賞した。

私はブラントが西独の首相を務めていた時期にほぼ重なる1971年10月から1974年末までの三年間、NHKから派遣されてケルンのドイチェ・ヴェレ(ドイツ海外放送)の日本語番組を担当していた。その時、毎日のようにラジオのニュースや番組などで、ドイツを中心としてヨーロッパ全般の政治・経済・社会・文化などに関して、日本の聴取者に知らせていた。そんなこともあって、ブラントのことは三年間、常に私の関心の的であった。

1972年のことだったと思うが、西ドイツで総選挙が行われた時、ブラントは私が住んでいたケルン市の中心にある広場で、演説を行った。その時私は広場の聴衆の一人として、彼独特の ゆっくりとした、粘り気のある話ぶりに、すぐ近くで接したわけである。また新聞、テレビ、ラジオでは、毎日のようにブラントをめぐる話題に触れていたのだ。
私はその後1983年4月から1986年3月まで、三年間再び同じ放送局で仕事をした。その時は保守系のキリスト教民主同盟のコール首相の時代で、政治ばかりでなく、さまざまな面で、70年代とは違っていた。

さてブラント・ハウスを出てすぐ近くに、西ドイツの作家でノーベル賞を受賞したギュンター・グラスの家もあった。彼もリューベックの出身である。革新系の政治信条の持ち主かどうか、詳しいことは知らないが、ブラントの選挙を応援していたのだ。作品としては『ブリキの太鼓』が代表作と言われ、映画化もされていて、私もその映画を日本で見ている。しかし時間の関係で、その家はパスして、近くにある「ブッデンブローク・ハウス」に入った。                 この建物は「マン兄弟博物館」とも呼ばれているが、ドイツの有名な作家ハインリヒ・マンと弟のトーマス・マンの記念館なのだ。ノーベル賞作家のトーマス・マンは、名高い小説「ブッデンブローク家の人々」を書いているが、彼の親や祖父やさらに数代先の先祖も、リューベックの商人で、市の有力市民なのであった。その代々の家が「ブッデンブローク・ハウス」なのである。マン兄弟はこの祖父母の家を、しばしば訪れていたという。

ドイツを代表する知識人・作家の博物館だけあって、訪れる人は多く、その中には若者たちも少なくなかった。またその展示は実に豊富で、短時間ではとても見切れないものであった。

そこを出てしばらくすると、昨日も見た市庁舎の前の広場が現れた。晴れていたらトラーヴェ川の河口でバルト海に面しているトラーヴェミュンデまで遠出したいと思っていたが、あいにく小雨が降り続いていたので、残念ながらその計画は断念することにした。
そしてそれ以上石畳の狭い道を雨の中歩くのは、決して楽ではないので、早めにホテルに戻って休息した。

そのあと元気を回復したので、夕方の5時半ごろ再び外へ出て、歩いて中央駅周辺へ向かった。そして駅前のイタリアレストランに入って、今回初めてスパゲッティー料理を口にした。味も大変よく、分量もたっぷりしていて、十分満足した。そしてホテルに戻って、早めに就寝した。

ハンブルク見物

7月23日(火)晴れ

今日は再び天気が良くなった。7時起床。8時半ホテルをチェックアウトして、タクシーでリューベック中央駅へ。9時8分リューベック発のローカル列車に乗り、ハンブルク中央駅に9時51分着。そして近郊電車(S-Bahn)に乗り換えて、ハンブルク・アルトナ駅へ移動した。そして駅に隣接した所にある「インターシティ・ホテル」に入った。チェック・インして部屋に入り、荷物を置いて、身軽になって、ただちにハンブルク市内観光へ出掛ける。

ハンブルクはドイツ第二の人口の大都会。これまで何度も訪れたことがある。リューベックと同様に、中世以来の「ハンザ同盟都市」であることが、今でもこの町の誇りとなっている。ドイツ有数の大河であるエルベ川の河口近くの港町であるが、北海に面したその河口からは70キロほどさかのぼった地点に港としての機能が集まっている河川港である。

リューベックはユトランド半島の東側のバルト海に面していたため、16世紀の大航海時代の幕開けとともに大西洋に国際交易の重点が移り、次第に没落していった。それに反して同じハンザ同盟都市であったハンブルクは、大西洋に近い北海に面していたこともあって、その後もうまく立ち回って、貿易を中心に発展してゆき、ドイツ有数の大都会になって、今日に至っている。

私が初めてドイツを訪れたのは1971年秋であった。日本からの飛行機はアラスカのアンカレッジで一度乗り換え、北極上空を飛んでスカンディナヴィア半島を越えて、ハンブルクに到着した。飛行機が空港近くで高度を下げ始め、ハンブルク市が窓の外に見えてきたとき、緑あふれる森の中に赤褐色の屋根の住宅が見事にその色をそろえていた。日本のように建物の色彩がバラバラでなく、実に程よく調和していて、なんと美しいのだろうと感激したものである。

さて今回のハンブルク観光はわずか一日の行程であるため、目的地を港湾地区の見物に絞ることにした。我々三人はホテル近くの停留所からバスに乗って、その港湾地区へ向かった。最初に訪れたのは、エルベ川に面した所に立っている音楽ホール
「エルプ・フィルハーモニー」であった。2017年1月に開館したばかりで、昔の赤レンガ倉庫の上部に,波の形をイメージした総ガラス張りの構造物を載せた、大変ユニークな外観になっている。夏場のため、この時期は演奏会は開かれていないが、開館以来すでにハンブルクの新名所になっていて、この日も大勢の人々が建物を見物するために、押し寄せ、周辺からもうごった返していた。

エルプ・フィルハーモニーの外観

その人ごみに交じって、1階の入り口から長いエスカレーターに乗って、上階へ上った。そこは演奏会場の手前の広々としたロビーになっていて、ガラス張りのため、窓際に近づくと、外の景色への眺望がすばらしい。窓際に沿って移動していくと、ハンブルク市内の街並みがよく見え、また反対側に回ると、眼下に広々としたエルベ川の景観が目に入ってきた。

フィルハーモニーから見たエルベ川

あいにく演奏会場への扉は閉まっていたが、その音響設計には、日本人の豊田泰久氏が携わったという。本当はその音楽ホールも見たかったのだが、それはまたの機会にという事にして、ロビーの一角の土産物コーナーへ向かった。そして記念にブラームスの「交響曲3・4番」が収録されているCDなどを買い求めた。演奏は北ドイツ放送局管弦楽団。ブラームスはハンブルクの出身で、その音楽は北ドイツの重々しい風土を反映しているといえよう。私の大好きな作曲家だ。フランスの女流作家フランソワーズ・サガンに「ブラームスはお好き?」という作品があるが、フランス人の中にもブラームスが好きな人は、少なくないと見える。

「エルプ・フィルハーモニー」を出てから、歩いて港湾地区の一角に集まっているポルトガル料理店の中の一軒の店”Casa Madeira”に入る。どこの国でも港には世界各国の船乗りなどが立ち寄るものだが、この地区には昔からポルトガル人が集まって、一つのコロニーを形成しているらしい。先日ある新聞記事で、16世紀にスペイン・ポルトガルで、カットリック教徒以外のユダヤ人などが、迫害された時、このハンブルクにもかなりのユダヤ人(ポルトガル人)が逃げてきたという事を読んだ。その事と、このポルトガル人コロニーとどんな関係があるのか、調べてみたら面白いだろう、と思った。

この店では三人とも、イカのグリル料理とポルトガル産のビールを注文した。先にリューベックでも魚料理を食べたが、やはり港町にふさわしいものと言えよう。味も分量も満足のいくものであった。ただ一般に内陸部に住む多数派のドイツ人の庶民はあまり魚を食べないようだ。たとえば私が住んでいた内陸部のライン川の畔の都会ケルンで、1970年代、80年代に付き合っていたドイツ人の庶民の中には、魚を食べたことがないといった人も結構たくさんいた。                昼食の後は「エルプ・フィルハーモニー」近くの桟橋から無料の遊覧船に乗って、しばらくエルベ川の両岸の景色を楽しんだ。その船は5分ばかりで、別の桟橋に着いた。そこには、かなり大きな三本マストの帆船が停泊していた。

帆船”Rickmer Rickmers(リックマー・リックマース)号

その船は観光用の博物館になっていて、一人5ユーロ(625円)で、内部を詳しく見て歩くことができるようになっていた。その入場券には、”Museumsschiff   Rickmer Rickmers(博物館船リックマー・リックマース)”と書かれていて、さらに「ハンブルクの浮かぶ象徴」とも付け加えてあった。リックマーは、代々この帆船の持ち主だった一族の名前なのだ。内部の展示を見ていくと、リックマー家が、貿易商人として、19世紀から20世紀にかけて活動してきた様子が、つぶさに分かるようになっていた。

聖ミヒャエル教会

次いで我々は、「水上から見たハンブルクの目印」と言われている聖ミヒャエル教会に入った。北海からエルベ川をさかのぼって数十キロ進んだ地点に立っている、この教会を見た船乗りたちは、ハンブルクの港に着いたことを実感するのだそうだ。
そのあと三人は港湾地区から地下鉄に乗って、ハンブルク市の中心部へ移動した。市の中心には大小二つのアルスター湖があって、緑豊かな地域だが、湖の周辺には高級ホテルや高級レストランが立ち並んでいる。大都会のど真ん中に、これだけ広々とした湖がある風景は、ドイツの他の都市には見当たらない。

その一角に風格のある、壮麗な市庁舎(Rathaus)が建っている。ドイツでは昔からこの市庁舎は、どの町でも、国王や領主から独立した豊かな経済力を持った市民階級が、町の権力を象徴する建物として、誇りにしてきた建造物なのだ。
その近くの屋外カフェーに我々は席を占めた。そして暑さしのぎに、冷たい飲み物を飲みながら一息入れた。昨日リューベックでは小雨が降っていたためかやや涼しかったが、今日のハンブルクでは、再び晴天となり、暑さのほうもぶり返してきたのだ。その暑さをしのぐには、冷たい飲み物だけではなく日陰にいることが肝要だ。幸いわれわれのテーブル席は大きなパラソルによっておおわれていた。そして湖から吹いてくる涼しい風に当たりながら、堂々たる市庁舎を眺めることができた。

アルスター湖畔のカフェ、背後に市庁舎

市内見物はそれぐらいにして、我々はホテルに戻って、一休みした。そして午後7時15分、アルトナ駅近くのレストラン”Schweinske”に入り、夕食をとった。奇妙な名前の店だが、Schwein はドイツ語で豚のことだ。料理のメニューを見ると、やはりポーク料理が目に付いた。そのためこちらもその中の一つを注文し、生ビールをたっぷり飲みながら、ハンブルクの夜を過ごした。

2019年7月ドイツ鉄道の旅(その1)

私は家内とドイツ在住の長男とともに、2019年7月16日から31日まで、ドイツ各地を鉄道で旅行した。以下3回に分けて旅の模様をお伝えする。第1回は、フランスのアルザス地方及び中部ドイツのフルダ。第2回は北ドイツの港町で旧ハンザ同盟都市のリューベックとハンブルク。そして第3回は南ドイツの古都ニュルンベルクと大都会ミュンヘンについてお話していく

東京からドイツのケルンへ

7月16日(火) この日東京は朝からどんよりとした梅雨空。午前9時、家内と私は迎えのタクシーに大きなトランク2つを載せ、世田谷の自宅を出て、羽田空港へ向かった。9時40分ごろ、国際線ターミナルに到着。ANAの受付に荷物を預け、海外旅行保険の手続きをした。そして構内をしばらく散歩してから、出国手続きをして、出発ロビーへ向かった。窓ガラスの外には、しきりと雨が降り続いていた。

やがて案内アナウンスに従って、ANA(NH223便)の機内に入る。中型機ながら、機内はすいていて、エコノミークラスの座席は半分ほどしか埋まっていなかった。それだけ快適だったのだが、7月16日(火)が、まだ学校の夏休みに入っていないためかと思った。
午前11時15分出発。それから12時間の空の旅だ。日本海を越え、ユーラシア大陸北方のロシア連邦の上空をひたすら西へと進んでいった。その間イヤホーンを耳に入れて、座席の前に設置された画面で、2時間ほどの映画を3本見たり、音楽を聞いたり、あるいは新聞雑誌を読んだりして過ごした。その間に2回の食事と飲み物のサービスを受けた。

途中特に問題もなく、同じ日の午後4時過ぎ、ドイツのフランクフルト空港に到着。入国手続きをし、預けた荷物を受け取ってから、空港内のロビーで長男の出迎えを受けた。今回はケルン大学で宇宙物理の研究員をしている長男の休暇に合わせて、以後2週間、主としてドイツ各地を鉄道に乗って、3人で旅をしたわけである。汽車の切符や宿泊するホテルの予約などは、すべて長男が手配してくれた。

18:09フランクフルト空港駅出発のICE104号(ドイツの新幹線)に乗車。19:05ケルン中央駅到着。ただちにタクシーでケルン市の西郊にある長男の家へ直行。夏時間ということもあって、夏のドイツはまだまだ明るく、日没は午後10時ごろだ。長男の手作りの夕食をとって、その日は彼の家に泊まる。

7月17日(水) この日はそのまま彼の家に滞在して、これからの2週間弱の旅の支度を整える。特に外出もせず。テレビを見たり、3人で雑談したりして、のんびりと休息を取る。3度の食事は長男が作ってくれる。

ストラスブール市内見物

7月18日(木)晴れ

朝食後3人は迎えのタクシーに乗り、ケルン中央駅へ向かう。汽車に乗ってフランスのストラスブールへ行くのだ。8時55分、ケルン中央駅からICE103号に乗り込み、南下してカールスルーエ駅に10時58分着。そこで乗り換えて、11時32分発のICE9574号(パリ行)で、ライン川の西側にあるストラスブールへ向かう。この新幹線はパリ行きだ。ちなみにパリはストラスブールの真西500キロほどの距離だという。

列車はライン川の東側の平地を、しばらく南下した。やがてある地点で西へと曲がり、すぐにライン川を渡ると、そこはもうフランス領のストラスブール(Strasbourg)である。ドイツ語ではシュトラースブルク(Strassburg)というが、フランス東部のアルザス地方の中心都市だ。車中では切符の検札はあるが、国境を越えるからと言って、旅券の検査はない。

ご存知の方もいらっしゃることと思われるが、このアルザスと隣のロレーヌ地方は、近世に入って、ドイツ領とフランス領の間を何度も行き来してきたところだ。中世には神聖ローマ帝国(ドイツ帝国)領であったが、17世紀の後半太陽王ルイ14世の時代に、フランス王国領に組み込まれた。その後19世紀に入り、1871年ビスマルクがドイツを統一したとき、フランスのナポレオン三世を倒して、アルザス・ロレーヌ地方をドイツ第二帝国領に併合した。その後第一次世界大戦でドイツは敗北し、この地方は戦後のヴェルサイユ条約に従って、再びフランス領になった。しかしこの条約に対するドイツ人の恨みの気持ちは強く、ヒトラーが第二次世界大戦を起こすと、またもやこの地方は(フランスの他の地方とともに)ドイツ占領下におかれた。そしてドイツの敗北とともに、フランス領となって、今日に至っている。

説明が長くなってしまったが、そうこうするうちに列車は12時13分、ストラスブール中央駅に到着した。トランクを引きずりながら、駅前広場に出ると、真夏の太陽がさんさんと降り注いでいた。幸い長男が予約したIbisホテルは駅前にあり、すぐに冷房の良く効いたホテルの中に逃げ込むことができた。日本を出発する前から、フランスの猛暑のことはニュースを通じて知っていたが、その暑さがまだ続いていたのだ。チェックインをし、荷物を部屋の中に移し、一休みした。

ストラスブール旧市街の地図

しかし昼時だったので、部屋には長居せずに、外に食べに行くことにした。中央駅のすぐ近くに、運河にぐるっと取り囲まれるようにして旧市街がある。その運河はライン川に通じていて、中世以来交易のルートになってきたのだ。その旧市街の西南地域に、”Petite France” (小フランス)と呼ばれている一角がある。

我々3人はその地域へ向かって歩いて行ったが、やがて運河を渡ると趣のある地区が現れた。そこには小さな運河が張り巡らされ、優雅な建物が軒を連ねていた。そのあたり一帯には緑も多く、家々は美しい草花で飾られている。また運河には小さな遊覧船の姿が見えた。

その中の一軒のレストラン”Lami Schutz”(ラミ・シュッツ)に入ることにした。建物の周囲は緑に囲まれ、屋外にもテーブルと椅子が並べられていた。そこは小さな運河に面していた。午後1時ごろであったが。幸いその店は込み合っていなかった。運河の反対側の店などは、大勢の人でごった返していたが。3人が座ったテーブルには大きなパラソルが立ててあって、ちょうどうまい具合に強い日差しを遮ってくれていた。幸先の良いスタートだなと感じた。

(屋外レストランの食卓と料理)

3人はまず飲み物として、それぞれ白ワイン(Verre Riesling),四分の一Lを注文した。次いで食べ物として、この店の特別ランチのコース料理を頼んだ。はじめに出てきた野菜と肉を混ぜたサラダは美味で、分量もたっぷり。メインディッシュはカスラー(肉)料理だが、添え物としてドイツ料理でよく出てくる[酢漬のキャベツ(Sauerkraut)]がついていた。人によって好き嫌いはあろうが、私などはドイツ料理で、この添え物には慣れていて、すんなり口に入ってくるのだ。こんなところにもドイツとフランスの中間にあるアルザス地方独特の味があるといえよう。周りを見渡すと、人々は真夏の昼下がりを、のんびりとたっぷり楽しんでいる様子だ。

(グーテンベルクの立像)

食後には旧市街の雑踏の中を散歩して、やがてグーテンベルクの銅像が立っている広場に出た。この銅像を見るのは二度目のことだ。私はドイツの印刷出版の歴史を研究しており、今から20数年前にも、この活版印刷術の父の足跡を訪ねて、一人でストラスブールへ来ているのだ。

グーテンベルクは、西暦1400年ごろ、ドイツのライン川の畔の町マインツで生まれたのだが、若き日に金属加工の技術を習得するために、ライン川をさかのぼって、このストラスブールにやって来たのだ。そこで習得した金属加工の技術を基にして、鉛などの活字を作ったわけである。そして活版印刷術を発明し、その後のヨーロッパの文化や社会の革新・発展に大きく貢献したことは、高校の世界史の教科書にも書かれているところである。19世紀以降、活版印刷術の父としてのグーテンベルクの評価と名声は定まり、それに伴ってフランスでもこの人物は顕彰されるようになったのだ。

そのあとこの町の観光の目玉となっている大聖堂に入り、その中にある有名な天文時計を見る。次いでトラムに乗って、旧市街からやや離れたところにあるヨーロッパ議会を訪れた。ご存知のようにEU(ヨーロッパ連合)の主要機関はベルギーのブリュッセルにあるが、立法機関であるヨ-ロッパ議会の建物は、ベルギーからかなり離れたストラスブールに置かれたのだ。19世紀以来、ヨーロッパの覇権をかけてフランスとドイツは戦ってきた。しかし第二次世界大戦後には、独仏融和を目指しヨーロッパ共同体が生まれ、今日のEUへと発展したわけである。

そして独仏融和のいわばシンボルとして、両国の間を行ったり来たりしてきたアルザス地方のストラスブールにヨーロッパ議会が設置された。去る5月このヨーロッパ議会の議員の選挙が行われたばかりで、日本でもかなり大きく報道されたので、皆様も、ご存じのことと思われる。ちなみにEUの執行機関であるヨーロッパ委員会の新しい委員長として、ドイツの国防大臣フォン・デア・ライエン女史が、このヨーロッパ議会によって承認されたのが、一昨日(16日)の夕方であった。就任は今年の11月であるが、そのニュースをドイツ到着後に、長男の家のテレビで知ったばかりで、その意味でもヨーロッパ議会の建物を見られたことは、私としてはひとしお感慨深いものがある。ドイツの放送では、メルケル首相に次いでドイツの女性が国際機関のトップに選ばれたことを大きく報じていた。

(ヨーロッパ議会の建物)

アルザス欧州日本学研究所訪問

7月19日(金)晴れ

午前7時、ホテル・イビスで朝食。8時半、ストラスブール中央駅へ。8時51分発のバ-ゼル行の列車に乗り込み、9時21分コルマール(Colmar)で下車。駅では、旧知のレギーネ・マティアス女史が出迎えてくれる。このドイツ人女性は、ボーフム大学を三年前に定年退職した日本学研究者だ。私が日本大学経済学部に在職していた1998年、彼女と協力して、両大学間に留学生交換制度を作り上げた。毎年一年間、日本人とドイツ人の学生2~3人が、相手の大学へ留学するというもので、21年経った現在もなお、この制度は続いている。

さて我が家の3人はマティアス女史の運転する車で、アルザスの平原を走り、やがてキーンツハイムという小さな村にある元修道院の建物に到着した。この中に
CEEJA(アルザス欧州日本学研究所)があるのだ。同じく日本学研究者のご主人エーリヒ・パウアーさんとともに、長年収集した日本学関連の蔵書をこの研究所に譲渡し、日本人の同僚や研究者から寄贈された文献資料を加えて、研究所の一角に『日本図書館』を作ったわけである。元修道院の広い建物には、数年前まで成城学園の小・中学校があったという。

(アルザス欧州日本学研究所の建物

建物前で車から降りた3人は、久しぶりにパウアーさんの出迎えを受けた。私はその昔、マティアスさんとパウアーさんの結婚式に参列したことがあるが、それ以来の旧知の間柄なのだ。敷地内にはいくつか建物があり、その中のかなり広い場所をパウアー、マティアス両氏が使用して、『日本図書館』を作っているわけだ。膨大な文献資料はまだ未整理のものも多く、今なお現在進行形であり、二人の生涯の仕事だという。また研究所の中には、ほかの人々も仕事をしていた。

私たちは広大な敷地内を順次案内してもらった。そして目玉の『日本図書館』にも入った。まだ未完成だが、すでに欧州の日本学研究者を中心に、日本からも、我々3人のように、関心を抱いた関係者が視察に訪れているという。

未整理資料を我々に見せてくれるパウアー氏

一通り施設を見せてもらった後、眺めの良い二階の部屋でお茶とケーキで一服し、さまざまな話題を巡って話し合い、旧交をあたためた。さらにパウアー、マティアス両氏が住んでいる居間にも案内された。二人はドイツのマールブルク近郊に家を持っていて、今のところは随時、車で往復している。将来はアルザスに移住する予定だという。居間の一角にある本棚には、マティアスさんも大のファンだというドイツの冒険作家カール・マイ関連の本が並べてあり、その中には私が彼女に贈呈した日本語訳の「カール・マイ冒険物語」全12巻も置かれていた。

(パウアー、マティアス両氏の居間で、私と家内も

12時半、近くのレストランへ移動し、5人でテーブルを囲む。そこでもアルザス料理とアルザスの白ワインを堪能しながら、さらに歓談を続けた。その際最近のドイツ事情を、さまざまな側面にわたって聞かせてもらう。二人は日本語が上手で、時にドイツ語を交えて、主として互いに日本語で会話した。

この昼食の後、パウアー氏と別れ、マティアスさんの運転する車で、近くのカイザースベルクにある『アルベルト・シュヴァイツァー博物館』へ案内された。アフリカの聖者として日本でも知られている人物の生家を改造したものだ。オルガン奏者としても名高く、館内には彼が弾いていたオルガンも展示されていた。シュヴァイツアーは医者として長年アフリカで人々の命を救う活動をしていたが、人類の平和を祈願して、幅広い啓蒙活動にも従事していたという。

そのあとマティアスさんは、ヴォージュ山脈の前に続いている小高い丘の上へ連れて行ってくれた。丘の上から東のほうを眺めると、ぼーっとかすむようにして、ライン川の向こうの[黒い森」(Schwarzwald)が見えた。そこはもうドイツ領で、南北に長く続く丘陵地帯だ。モミの木が群生していて、遠くから見ると黒く見えるので「黒い森」と呼ばれているのだ。また我々が上った丘の上の斜面には、たくさんの墓が立ち並んでいた。十字架の形をしたものが多かったが、中には形の違うユダヤ人の墓とイスラム教徒の墓が混じっていた。第二次世界大戦末期の1944年、ドイツ人に占領されていたこの地方で反抗する戦いが起こり、多くの人が死んだ、ユダヤ人やイスラム教徒の人たちは、フランス解放のためにフランスの植民地から駆り出されたのだという。

そのあとコルマール市に移動し、マティアスさんと別れた。そして市内の「ウンターリンデン博物館」に入った。見るべきものはいろいろあったが、なかでも中世ドイツのグリューネワルトの祭壇画に、圧倒的な印象を受けた。この博物館を最後にして、コルマールと別れ、再び列車に乗りストラスブールへと戻った。

フルダ大聖堂見学

7月20日(土)晴れ

午前7時。ストラスブール駅前のホテル・イビサで朝食。8時半、ホテルをチェック・アウト。そしてすでに日の照りつけている駅前広場を通りぬけて、ストラスブール中央駅に入る。古典様式の格式ある駅舎は、すっぽりガラス製の構造物によって、おおわれている。駅舎の壁面や柱には見事な装飾が施されているのだが、人々の往来や雑踏に紛れて、ゆっくり鑑賞している余裕がなかった。

9時11分発の列車に乗りこみ、ドイツのフランクフルト中央駅で乗り換え、12時10分には、中部ドイツの小さな町フルダの駅に到着した。この町は冷戦時代には東西の境界線近くに位置していた。しかし統一後は、東のライプツィヒ、ドレスデン、ベルリンなどへ向かう鉄道の幹線に組み込まれるようになり、私は何度もこのフルダ駅を通過したことがあった。

今回はまだ訪れたことがないフルダ大聖堂を見たいと思って、この町に一泊することにしたのだ。時間を節約するために、駅構内のロッカーに大きな荷物を入れ、身軽になってフルダの町見物へと歩き出した。とはいえ今日も真夏の暑さで、強い日差しが照りつけている。駅前からゆるやかな下り坂になっているメインストリートを歩いて、人々の込み合う通りに面した一軒のレストランにまず入る。

”Schwarzer Hahn” (黒い雄鶏)と称する、この料理屋の店の奥まで入っていくと、外の雑踏や喧騒がまるで嘘のように、聞こえなくなった。広々とした店内にはちらほら客がいるのだが、快適そのものだ。肉料理を注文したのだが、出てきた料理の分量に多さに驚く。

腹ごしらえができたところで、いよいよお目当ての大聖堂へ向かう。西暦8世紀の初め、ライン川の東にはゲルマン民族が住んでいて、住民は古くからの自然崇拝の習慣を維持していた。そこへローマ法王の委託を受けた聖ボニファティウスがイングランドからキリスト教の布教にやって来た。そしてここフルダの近くで、神が宿っているとされ、住民の信仰の対象となっていた大きな樫(かし)の木を、聖ボニファティウスは斧で切り倒した。はじめ神の祟りがあるのではないかと住民は恐れおののいていたが、何事もなかったので、やがてキリスト教を信じるようになったという。そしてその地にドイツで最初のキリスト教の教会堂が建てられた。

十字架をかざす聖ボニファティウスの立像

我々は大聖堂に着くとまず隣接した所に立っている地味なミヒャエル教会を見て、この教会と大聖堂について詳しく説明してある小冊子を入手した。それから大聖堂に入ったのだが、現在立っている建物は、18世紀初めに建て直されたバロック様式の華麗な教会堂なのだ。地下には聖ボニファティウスをまつった堂々たる霊廟があった。黒大理石とアラバスター(雪花石膏)を用いたもので、その品格と威厳に圧倒された。ちなみにボニファティウスは、ここでの布教の後、北の北海岸のネーデルランドの地でも、布教活動を行っていた。しかし志半ばで、異教徒によって殺され、その遺骨はフルダの教会堂にほおむられた。そして以後、殉教者として崇拝されているわけである。

フルダ大聖堂の外観

これに関連してドイツ在住の日本人の友人で、敬虔なるカトリック教徒である吉田慎吾氏から、今回次のようなメールをいただいた。
「フルダにおいでになるなら、ドイツにキリスト教を布教して殺害された聖ボニファティウスの墓にお参りすることを、お勧めします。実はこの人の骨のほんの小さな一部(レリクエ)が東京・小岩のカトリック教会に安置されているのです。分骨の世話をしてくださったのは、当地(ケルン)の故マイスナー枢機卿で、私が帰国の時に持ち帰って、東京教区にお渡ししたものです」

この話を私は今回初めて知って、ドイツ旅行の最後にケルンで吉田さんに会った時、さらに詳しく聞くことができた。
フルダの町の別のところも見て回った後、午後の7時過ぎイビス・ホテルに入った。そして旅の疲れをいやした。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(03)

その03 冒険作家として成功の頂点に(1887-1898)

<絵入り少年雑誌『よき仲間』への作品掲載>

1887年、カール・マイの人生に大きな転機が訪れた。それまでの13年間は、彼に社会復帰と作家生活への基盤をもたらすものであった。ところがこの後の13年間は、彼をドイツで最も成功した作家のひとりにし、彼に富と社会的栄光を与えたのであった。前述した雑誌『ドイツ人の家宝』への「世界冒険物語」の掲載を通じて、マイはすでに人気作家になっていたが、絵入り少年雑誌『よき仲間』とのつながりによって、彼の文学的成功はより確かなものになったのである。

1886年10月、彼はシュトゥットガルトの出版社主ヴィルヘルム・シュペーマンと出会った。この人物は当時、雑誌『よき仲間』の発行を、翌1887年1月から始めるべく準備していたが、この時マイの作品をそこに掲載することを強く望んだ。シュペーマンは青少年のために、教育的であると同時に彼らの心をしっかりとつかみ、彼らに大きな夢とファンタジーを与えるような物語を書いてくれるよう、マイに依頼したという。

元教師であったこの作家は青少年のためにそうした作品を書くことは、いわば自分に課せられた使命ではないかと考え、喜んで引き受けた。そのため、それ以降、ミュンヒマイヤー社の分冊販売小説の執筆を断ったのである。こうしてアメリカ西部を舞台にした「熊狩人の息子」が、1887年1月から9月まで『よき仲間』に掲載されていったのである。この作品は大成功をおさめ、雑誌の名声をも一挙に高めた。そのためシュペーマンはマイと継続的な契約を結び、それ以降1897年まで10年間にわたり、さらに7編の作品が掲載されていった。この一連の作品は質的に非常に優れた内容を持ち、今でもドイツ青少年文学の古典に数えられている。そしてこれらは1890年以降、魅力的な挿絵を付けて順次、書物の形でも発行されていった。

「熊狩人の息子」他2篇の表紙)

またこの間にも『ドイツ人の家宝』には「世界冒険物語」のジャンルの作品が、引き続き掲載されていった。それによって文学的名声は上がっていったが、1880年代の終わりごろにはまだ、マイの財政状況はあまり良くなかった。なぜなら雑誌『ドイツ人の家宝』も『よき仲間』も、その原稿料は分冊販売小説に比べて低かったからだ。また作品執筆のためには、言語や地理や地誌などの研究を十分しなければならず、その表現にも慎重さが必要であった。そしてそのための時間もかかったわけである。

<個人全集の発行へ>

しかし1891年、マイに文学的名声のみならず、経済的な豊かさと社会的な地位の上昇をもたらす、大きな転機が訪れたのであった。マイはこのころ50歳になろうとしていた。『ドイツ人の家宝』などに掲載されていた「世界冒険物語」の中の、とりわけオリエント・シリーズを読んでとても感激した、若き出版社主フリードリヒ・フェーゼンフェルトは、この年の夏、マイあてに手紙を書き、それらの作品を書物の形にまとめて出版したいと申し出た。

個人全集の出版社主 フェーゼンフェルト)

全く未知の人物からの手紙に最初は戸惑ったマイであったが、やがて返事を出してその来訪を促した。その結果、フェーゼンフェルトは南西ドイツのフライブルクから東北ドイツのドレスデン近郊に住んでいたマイの住まいを訪れたのであった。そして二人の会見は順調に進み、1891年11月に出版契約が結ばれた。その第一条には次のように書かれている。「両署名者は、これまで『ドイツ人の家宝』及びその他の雑誌に掲載されているカール・マイ氏の冒険物語を、書物の形で出版することに合意した」

オリエント・シリーズの第2巻と第3巻

つまりマイの、世界を舞台にした冒険物語が、個人全集の形で発行されることになったわけである。そしてその最初のものとして中近東(オリエント)シリーズの六巻が、1892年のうちに刊行されていった。

マイは経済的に困った状況にあったため、フェーゼンフェルトに前借を頼んだが、この申し出は認められた。その後この最初の六巻が大成功をおさめたため、1892年には5、000マルクの報酬が入り、1895年と1896年にはその額は60、000マルクにも達したのであった。そしてフェーゼンフェルト社から発行された作品によって、マイは平均して年収30、000マルクを得ることになった。その上雑誌『ドイツ人の家宝』と『よき仲間』からの原稿料、カトリックの『マリア・カレンダー』に発表した短編の作品群その他から得た印税が加わった。かくしてカール・マイは、ようやくにして富に恵まれることになったのである。

<社交生活の始まり>

それまでは執筆などによる超多忙が原因で家に引きこもっていたマイであったが、このころから社会的な結びつきにも目を向けるようになった。1890年代の初めからマイ夫妻は、ドレスデン近郊のラーデボイル在住の包帯製造工場主リヒアルト・プレーン及びその夫人クラーラと親しく付き合うようになっていた。このクラーラ・プレーンは後にマイの第二の妻となったのである。

この二組の夫妻の関係は、とりわけ妻同士の心霊術への興味によって促進されていった。1895年、マイのかつての学友で、アメリカに住んでいた医師のペッファーコルンがマイ夫妻を訪問し、心霊術について詳しく教えた。そのためマイも、この教えに対して理論・実践両面で深入りしていったのである。ただ彼は晩年になって、心霊術からはっきりと距離を取るようになった。それでも彼の蔵書の中には70冊以上もこの関連の文献があったし、そのうちいくつかは彼の作品に取り入れられたのである。

1893年の最初の数か月は、最初から書物の形で刊行するために、「世界冒険物語」のジャンルの中でも傑作として評価されることになった『ヴィネトゥーⅠ』を書くことに費やされた。そして同年夏にはマイ夫妻はフェーゼンフェルトの家族とともに、スイスへ休暇旅行をしている。フェーゼンフェルト夫人が残した文章によると、このころのマイ夫妻の仲はよかったようだ。しかしマイは「しばしば気まぐれで、いらだちやすかった。・・・機嫌のいい時には、彼は親切でよくしゃべり、機知にとんだ社交家であった。・・・」
また1893年のマイの誕生日には、マイの自宅で「歌と踊りの夕べ」が開かれた。

1894年の春、マイは胸膜炎を患い、同時に目の病気にも悩まされた。そのため彼はハルツ地方へ療養に出かけたが、その年の末には体調が回復し、再び仕事に取り掛かることができるようになった。そのころマイは金があると、気前よく人にあげたりしていたので、妻のエマから叱られていた。

<豪邸を取得。ヴィラ・シャターハンド>

しかし収入は増えるばかりだったので、1895年には初めて自分の邸宅を購入することができるようになった。そのことは妻を大変喜ばせた。1895年12月30日、ドレスデン近郊の高級住宅街ラーデボイルに、37、300マルクで一軒の邸宅を購入したわけである。そして自分が作り出したアメリカ西部の英雄で、自分自身の分身でもあったシャターハンドにちなんで、その屋敷を「ヴィラ・シャターハンド」と名付けた。そして夫妻は翌年1896年1月14日にそこへ入居した。

マイの邸宅「ヴィラ・シャターハンド」

エマは、後年その時のことを思い出して、次のように書いている。「私たち二人は、人形部屋をもらった子供たちのように大喜びをしました。・・・そのころはまさにこの上なく幸せな、黄金時代でした」 マイはその後、隣接する土地を買い足して、熱心に庭づくりにいそしんだ。この「ヴィラ・シャターハンド」に、マイはその後1912年に亡くなるまで住み続けた。そして晩年の傑作はその家で書かれたのである。後年東独時代の1985年以降。この家はマイを記念する品々を展示した博物館になっている。

その後1899年までの歳月は、作品面で実りある時代であったばかりでなく、私生活の面でも最も幸せな時期であった。彼が長いこと望んでやまなかった社会的認知を、この時ようやく十二分に手にしたのであった。「世界冒険物語」の評判は、まったく申し分のないものであった。そのうえ、出版社主のフェーゼンフェルトは、ドイツ人司教からの推薦の言葉を、その全集の宣伝に用いることができたのである。

ヴィラ・シャターハンド」は、数多くの読者や崇拝者の訪問を受け、マイとしてもその応接にいとまがないほどであった。そうした様子についてマイは1896年、『ドイツ人の家宝』に寄せた「売れっ子作家の喜びと悩み」という文章の中で、感激の気持ちと、距離を置いた冷めた観察の間を揺れ動きながら報告している。1896年から1899年の間の4年間で、その作品はそれぞれ年間あたり10万部が印刷された。そして書物の形での全発行部数は、1899年には72万2千部に達したのである。当時としては、大変な数字と言えよう。

<マイ、虚構の世界の主人公に!>

今やマイは、広い世界にも飛び出していった。しかもそれは常にきわめて奇抜なやり方を取ったのである。その際「オールド・シャターハンド伝説」なるものを作り出したわけである。それはアメリカ西部を舞台にした冒険物語の主人公であるオールド・シャターハンドは、自分自身であるとの主張であった。そしてそこで語られている冒険の数々は、自ら体験したものである、とも彼は付け加えた。

彼は1874年以降、完全に社会復帰することができたのであるが、その風変わりな性格のため、良識ある市民として日常生活を過ごしていくことは無理であった。そのため自分が書いた作品の中の虚構(夢)の世界で、自分を限りなく展開させる道を選んだのである。その際、彼の作品を特徴づける善悪のはっきりした区別は、自らを教育するのにも役に立った。

そして虚構と現実との境界線を消し去ろうとする傾向は、今や彼の実生活の中に織り込まれていった。すでに1892年以来、その物語の中で、オールド・シャターハンド及びカラ・ベン・ネムジ(オリエント・シリーズの主人公)は、作者カール・マイの変名なのであるということを、常に明らかにしていた。
1894年ごろから彼は読者宛の数えきれない手紙の中で、次のように書いている。「そう、私はすべてを体験してきたのです。私には今でも、そのころ受けた傷跡が残っています。」彼はそうしたことを、驚くほど詳細に飾り立てるすべを知っていた。たとえば1874年9月2日に、インディアンの若き酋長ヴィネトゥーが死ぬ間際に緊急洗礼を施したとか、すでにアメリカには20回以上行ったことがあるとか、自分は40もの外国語を知っている、といったたぐいのことである。

そして1896年には、オールド・シャターハンドとカラ・ベン・ネムジの衣装を身に着けて、写真を撮らせて全世界に向けて売り出したのである。さらにその書斎を、数多くの野獣の毛皮やはく製のライオン、鹿の角から様々な猟銃やライフル銃、アラビアの水煙管やペルシア製のジュータンなどで、いっぱいに飾り立てた。

珍奇な品々で飾り立てたマイの書斎

<読者やファンとの直接交流>

1897年マイは夫人とともに、5月10日から7月15日まで、ドイツ各地を訪ね回って、彼の読者や崇拝者と直接コンタクトをとった。まず北ドイツのハンブルクで、あるコーヒー店夫妻と会い、次いで南ドイツのダーデスハイムでブドウ園主家族の客となった。さらにシュトゥットガルトとティロルに立ち寄ってから、ミュンヘンにたどり着いた。
そこでは「ホテル・トレフラー」に泊まったが、三日間の滞在中に600人から800人の訪問者や新聞記者などと会い、彼らに信じられないような話を聞かせたのである。たとえば、今少し前にメッカから帰ってきたところで、その年の秋にはアパッチ族のもとで3万5千人の部隊を指揮する予定であり、翌年にはアラビア人の召使いハレフに再会することになっている、などとまことしやかに語って聞かせたという。まさに「講談師、見てきたような嘘を言い」を、地で行く見事な役者ぶりだといえよう。

翌年1898年には、マイは高貴な人々との交際を重ねることができた。2月22日、ウィーンでオーストリア皇帝陛下、大公夫人マリー・テレーゼをはじめとする皇室のお歴々などから手厚くもてなされた。そうした貴族たちの中にあって、マイは臆することなく振る舞い、彼の物語の人気者アパッチの若き酋長ヴィネトゥーの人生から、まだ一般に知られていないエピソードの数々を話して聞かせたのである。
その後マイは2月27日から病気になったが、やがて回復して、今度はリンツ経由でミュンヘンへ行き、バイエルン王室から心からのもてなしを受けた。そこのヴィルトルード王女とは以後、晩年にいたるまで手紙のやり取りが続いたという。そしてそれに続く3日間は、ミュンヘンのカール・マイ・クラブの会員との会合に出席した。そこでもヴィネトゥーの死について、涙ながらに話して、拍手喝さいを浴びた。

この1898年には、そのほかドイツ語圏の各地を行ったり来たりして、結構忙しく動き回っていた。しかしそうした旅の間にも、執筆活動を中止したわけではなかった。かつてのような大量生産はしていないが、1896年から1899年の間、いくつかの作品を執筆した。それらは質の点では以前のものを上回るようになっていた。心理的、宗教的にみて深さを追求していたし、物語の構成や言語表現の点でもずっと進化していたのだ。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(02)

その02 作家としての活動

第1節 職業人としての出発~雑誌編集者兼作家(1874-1878)~

<ミュンヒマイヤー社に就職>

1874年5月、カール・マイは両親の家に帰った。その後しばらくの間は定職がなかったが、1875年になって事情は大きく変わった。同年3月初め、すでに以前からの知り合いであったドレスデンの出版者ミュンヒマイヤーはマイのところにやってきて、同社の雑誌の編集者になってほしいという申し出を行った。もちろんマイはそれに同意したが、年収600ターラーということで、それまで無収入であった状態から見れば、願ってもないことだったわけである。

カール・マイは、ミュンヒマイヤー社で発行されていた4種類の雑誌つまり『エルベ河の監視人』、『ドイツ家庭雑誌』、『立坑と精錬所』および『鉱山労働者、精錬工、機械工のための教養娯楽雑誌』の編集の仕事に携わることになったのだ。そしてそれらの雑誌の予約購読を取り付けるために、ルール工業地帯のエッセン市にあった当時の大企業クルップ社やベルリン市のボルジッヒ社を訪ねて、営業の仕事もしていた。

雑誌編集者としてのカール・マイ。1875年

<作家としての活動も始める>

これらの雑誌の編集の仕事に携わる傍ら、マイは自らの作品も発表するようになった。それらの内容は、故郷の村や外国を舞台にしたものであった。その最初の小説「エルンストタールのバラ」は、ドレスデンで発行されていた雑誌『ドイツ短編小説の花』に掲載された(1875年4月)。

いっぽうマイは、雑誌にポピュラーサイエンスの記事も書いていた。1848年の革命が挫折した後、ドイツでは1850年代から、鉄道などの交通手段が発達し、出版物の輸送が楽になり、同時に法的な規制が以前に比べて緩やかになっていた。そうした状況の中で、数多くのポピュラーな教養娯楽雑誌がどっと市場に出回るようになっていた。革命前後の騒然とした政治の季節は、すでにすぎ去っていたのである。

それらの中の多くは、一般市民の家庭向けの非政治的な内容のものであった。これらはおおむね週間発行で、あらゆる科学分野の新しい話題、連載小説、なぞなぞ、読者の便り、イラスト、写真などが盛り込まれていた。そこに掲載されていたポピュラー・サイエンスの記事は、誰にでも理解できる平易なものであった。19世紀のこの種の雑誌は、当時ヨーロッパにおいて急速に発達していた科学技術について、貪欲に知りたいという一般読者の要望を満たす、いわば教科書の役割をも果たそうとしていたのであった。

一方そこに掲載されていた連載小説は、宣伝価値がある有名な作家たちに、出版社が依頼して書いてもらっていたものである。これらの作家にとって、この種の家庭向けの雑誌にオリジナルな作品を発表することは、その作家の評判を傷つけることにはならなかった。むしろ狭い範囲の同人雑誌に掲載するよりも、広くその名を知ってもらえたし、同時に経済的な恩恵も得られたわけである。T・フォンターネ、T・シュトルム、シュピールハーゲン、F・ラーベなど、当時の一流作家が名を連ねていたのだが、そこへ新進のカール・マイも加わっていったのだ。明治末から大正期にかけて、夏目漱石が『朝日新聞』にその作品を掲載していったのと、事情は同じだといえよう。

<エマ・ポルマーと婚約>

カール・マイはミュンヒマイヤー社の仕事の傍ら、ほかの出版社の雑誌に短編作品を送って、掲載してもらったわけである。それでも社主のミュンヒマイヤーは、マイの編集者としての積極的な仕事ぶりに満足していた。ところが出版社の業務に大きな影響力を与えていたミュンヒマイヤー夫人は、マイを同社の仕事にいつまでも結び付けておくという魂胆のもとに、自分の妹をマイと結婚させようとした。

マイの婚約者エマ・ポルマー

しかし当時すでにマイはエマ・ポルマーという若い女性と親しく付き合っていて、結婚も考えていた。そのためマイはミュンヒマイヤー夫人の申し出を断り、同時に同社での編集者としての仕事を辞める決断をした。それは1877年2月のことであった。彼女は1856年生まれで、当時21歳、マイよりも14歳若かった。早くから両親のもとを離れ、隣町のホーエンシュタイン在住の祖父の手で育てられていた。二人は相愛の仲であったが、祖父の反対で、すぐには結婚できなかった。ポルマー氏はマイの文学的業績を評価し、その前科も気にしていなかったが、彼の経済的能力に不安を感じて、結婚に反対したという。マイは編集者の仕事を辞めたために、定収入がなくなり、結婚して彼女を養っていくことが難しくなっていたわけである。そのためマイとしてもその結婚は、しばらくの間引き伸ばさざるを得なかった。

<この時期の作家活動>

再びこの時期の作家活動に目を向けると、新たにいくつかの出版社に働きかけて、その作品を発表していた。その一つがブレスラウのトレーヴェント社で、同社が発行していた『トレーヴェンツ民衆カレンダー』という出版物に、彼の作品を掲載してもらったのだ。民衆カレンダーというのは、昔からドイツに暦の形で存在していたもので、いろいろな宗教的・実用的情報や娯楽読み物を織り込んだ出版物であった。そしてこれはとりわけ地方の村や町に出回っていた。

18世紀には啓蒙主義者たちが、この伝統的な民衆カレンダーに内容を徐々に改善することに、成功していた。そして19世紀の後半になってもなお、勢いを保っていたのだ。そこには読者の要望に応じて、医薬の処方箋、農業上の助言、歌謡、逸話そして冒険物語などが掲載されていた。同様にして、フレミング社の民衆カレンダーにも、マイはユーモア小説二編を掲載してもらっている。

<オリエントを舞台とした最初の物語>

このころマイは、オーストリアの詩人・作家で月刊誌『故郷の庭』を発行していたペーター・ローゼッカーのもとにも原稿を送っている。ローゼッガーは未知の作家から送られてきた原稿を採択する前に、知り合いの大学教授に次のように、問い合わせをしている。「先ほど私はドレスデンの編集者カール・マイ氏から、『カヒラのバラ、エジプトでの冒険物語』という作品を受け取りました。この話は大変才気に満ち、手に汗を握るものです。一方で私はこれを歓迎するものですが、他方はたしてこれがオリジナルなものか、疑念もあります。教授殿、もしかしてカール・マイという名前をお聞きになられたことがあるか、またどんな雑誌の編集をしているのか、ご存知でしょうか?
その書き方から見て、長いことオリエントで生活していた、経験豊かな人物のように思えるのですが」(ロ-ベルト・ハマーリングにあてた1877年7月12日付けの手紙)。こうした経緯はあったが、マイが書いたこの作品は結局採択され、雑誌に掲載されることになった。

<再び、雑誌編集者に>

このようにいろいろな雑誌にその作品を掲載してもらってはいたが、定収入がなくなったため、マイは経済的にかなり苦しい状況に陥っていた。まだこの段階では、フリーの作家として自立してはいけなかったのだ。そんな時、ドレスデンの出版者ブルーノ・ラデリーのもとで、彼は編集者のポストを得ることとなった。1878年のことであった。
同社が発行していた娯楽雑誌『楽しい日々』の編集に携わったわけであるが、この雑誌にもマイは12編の小説を掲載することができた。その中には外国を舞台にした短編8編と、最初の長編『海上で捕われて』が含まれていた。この長編小説は、アメリカの西部を舞台にしたインディアン物語であった。

雑誌『楽しい日々』掲載のマイの長編「海上で捕われて」

こうしてマイは才能豊かな新進作家として次々と新作を発表していったが、その名声も徐々にではあるが、上がっていった。とはいえ、この段階では、「生活の糧」を得るために、まずは稼がねばならなかったのである。

そして収入が増えたことによって、彼はドレスデン市内に家具付きの住まいを借りることになり、婚約者のエマ・ポルマーをそこに迎えることになった。この時マイは、エマを自分の妻として公表している。しかしやがてエマは一人で住んでいる祖父の面倒を見るために、ホーエンシュタインに戻ることになり、マイはその隣町であるエルンストタールの両親の家に再び、住むことになった。
しかしラデリー社での編集者としての仕事は長続きせず、1878年末には同社を辞め、その後はフリーの作家として、筆一本で生活していくことになったのである。

第2節 フリーの作家となる(1879年以降)

<マイ最初の単行本の刊行>

フリーの作家として自立していく覚悟を決めたカール・マイは、それまで以上に熱心に作品執筆に取り組んでいくことになる。新たな出発のきっかけは、シュトゥットガルトの出版者ゲルツ・リューリングとの結びつきの中で生まれた。同社で発行されていた絵入り家庭向け雑誌『世のすべての人に』に、マイが書いた二編の長編小説「王笏と槌」および「宝島」が、1879年8月から1882年4月にかけて連載されたのである。

さらに同社を買い取ったノイゲバウアー社からは、1879年11月に、マイ最初の単行本『遥かなる西部』が刊行されている。これはすでに1875年に『ドイツ家庭雑誌』に掲載されたものに手を加えたものであった。この作品の中には、のちに彼が好んで書いていった「インディアンもの」の若き主人公ヴィネトゥーが、すでに登場している。この名前はマイが生み出した作品の中で最も代表的なものとして、今なお作家マイの分身のように扱われている。

<人気週刊誌『ドイツ人の家宝』への連載の開始>

このころ人気作家としての前兆を示していたマイは、そのほかいくつかの出版社とも作品発表の契約を結んでいた。なかでも南独レーゲンスブルクのカトリック系の出版社プステット社が発行していた人気週刊誌『ドイツ人の家宝』に、その作品が掲載されることになったことが、注目される。この雑誌は、北独ライプツィヒで成功を収めていたプロテスタント系の家庭向け雑誌『あずまや』に対抗して1874年に創刊されたものであった。

人気週刊誌『ドイツ人の家宝』の表紙

1879年3月、彼はこの雑誌掲載の件で、プステット社と契約を結んだ。そこで彼はアメリカ西部を舞台とした冒険小説を提供していくことになった。それは彼がかねてから計画していた、遥かなる世界を舞台とした冒険物語の一つであった。そして第二作以降、マイが書いた原稿は同誌に継続的に掲載されることになった。こうしてマイ作品の最も代表的なジャンルである「世界冒険物語」に属する作品の数々が、雑誌『ドイツ人の家宝』に次々と発表されていったわけである。ただそれらの中の多くは習作というか初期作品の色合いが濃いものであって、のちに書き直されていった。

しかし1881年から1882年にかけて発表された、中近東一帯を舞台にした「オリエントもの」三部作は、大変優れたものであったし、マイが作り出した独特の叙事詩のジャンルともいうべき「世界冒険物語」の特徴をすでに持ったものでもあった。この雑誌とマイとの関係は、わずかな中断期間を除いて、1897年まで続き、さらに1907~8年に復活している。

<妻との関係のその後>

それはさておき、ここで再びマイの私生活に目を向けることにしよう。彼は1879年以降、故郷の町で暮らしていた。エマ・ポルマーとの関係は続いていたが、二人の間に当時すでに緊張がなくはなかった。何しろマイは休みなく、馬車馬のように仕事を続けていたため、退屈したエマは社交生活で憂さ晴らしをしていたが、そのことでマイに不興や嫉妬心を起こさせていた。そのため1879年の4月には両者の間に衝突が起こったが、それは一時的なものにとどまった。

そして翌1880年5月にエマの祖父が亡くなった後、ようやく二人は同年8月17日に、エルンストタールの町役場に結婚届を提出した。次いで9月12日にホーエンシュタインの聖クリストフォリ教会で、アルヴィル牧師の立会いの下で、結婚式が執り行われた。そしてその後3年間、二人はホーエンシュタインの町で一緒に暮らした。

カール・マイとエマ夫人

この時期マイは人気作家になってはいたが、そのころの雑誌の原稿料だけでは二人の生活を十分に賄うのは、無理であったといわれる。1881年当時のマイの年収は1500マルクほどであったが、これはミュンヒマイヤー社での雑誌編集者としての年俸より少なかった。当時二人は田舎町で質素な暮らしを続けるよりも、大都会のドレスデンへ引っ越ししたいと思っていたようだ。そのためにはもっと多くの収入が必要だったわけである。

<分冊販売小説での経済的成功>

そのような時期の1882年の晩夏、マイは妻のエマとともに一週間の休暇を取って、ドレスデンへ出かけた。そしてその地のレストランで、以前マイが雑誌の編集者をしていた出版社の社長ミュンヒマイヤーに再会した。その後同社は「分冊販売小説」の発行元として、大いに発展していた。これは長編の大衆小説を、薄い小冊子の形に分冊して、ごく短い間隔でどんどん発行し、読者の手元に届けるというものであった。一冊の値段が安く、一回の分量が少ないため、資力のない人々にも、手軽に読めたのである。

ミュンヒマイヤー社はこの分野で有力な出版社ではあったのだが、同業者との競争が激しく、当時苦境に陥っていたのであった。そのためもあって、ミュンヒマイヤーは旧知のマイに、分冊販売の形で作品を書いてくれるよう懇願した。これは高収入をもたらす仕事であったので、妻のエマは大いに乗り気になり、夫に引き受けるよう促した。マイはいろいろ考えたが、結局その執筆依頼を承諾した。

その小冊子は毎週の発行で、一回当たり24ページ、およそ100回分を予定していた。一回の発行部数は2万部で、原稿料は一回当たり35マルクであった。そして全部発行された後には、一巻が2400ページという大長編小説になるが、作品の著作権はマイに帰属することと、特別賞与が支給されることも約束された。ただこれらは、出版契約書に記されず、口約束であったため、のちに問題を引き起こすことになる。

もう一点は、締め切りの時間が短いため、推敲する暇がなく、どうしても冗長でぞんざい、装飾過多な文章になりがちであった。そのため雑誌『ドイツ人の家宝』に掲載し始めた作品によって獲得するようになっていた文学的名声を傷つける恐れがあった。そこでマイとしては、本名ではなくて、ペンネームを用いることにしたのであった。

かくしてカール・マイは1882年11月から、『森のバラ、または地の果てまでの追跡」という小説を発表し始めた。これはメキシコで起きたある悲劇を基にした冒険活劇もので、1884年まで109回続き、大八つ折判で2612ページにも達する大長編になった。この作品は大成功をおさめ、数多くの海賊版や翻訳本も出回ったりしたという。

分冊販売小説『森のバラ』の表紙

ペンネームを用いたのだが、作品の内容面ではマイには、自分の思うとおりに書くという自由が与えられていた。そのためもあってか、この作品執筆にあたって、作話術の巧みさや職人芸のさえも存分に発揮していた。後年カール・マイはドイツの文学界において、偉大なるストーリー・テラーと呼ばれるようになったが、その兆候はすでにこのころから現れていたのだ。

この成功に気をよくした出版社側は、一回当たりの原稿料を50マルクに引き上げた。マイもそれに応じて、その後4年半の間に、さらに4編の大長編を次々に発表していった。

これらの仕事を通じて、マイは年収5000~6000マルクを得ることになったが、これはそれ以前の三倍に達した。これによって当時の大学卒の高級官僚の年俸に匹敵する年収をマイは手に入れることになったわけである。それによって派手な社交生活や贅沢な暮らしを求めていた妻のエマを満足させることができたのであった。

その反面マイ自身は、寝ても覚めても原稿執筆という生活を強いられ、この間、ほかの事をしたり、ほかの人々と交際したりすることは、ほとんど不可能だったようだ。その上ミュンヒマイヤーの度重なる訪問や、妻が暇つぶしに自宅に招いた客たちによって、仕事をしばしば妨害されたりした。エマは夫の文学作品には興味も理解も示していなかった。そのことに不満を感じながらも、マイとしては、ますま執筆にのめりこむほかなかったようだ。

<母の死によって受けた衝撃>

しかしこの時期にマイを襲った大きな出来事は、母親の死であった。1885年4月15日、母クリスティアーネ・ヴィルヘルム・マイは、68歳でこの世を去った。それによってマイは途方もない衝撃を受けたのであった。それまでほとんど母親のことをかえりみる暇もなく、自分の好きなことばかりをしてきた、という悔悟の念に、この時マイはさいなまれたようだ。

後にエマと離婚したあと迎えた第二の妻クラーラは、マイの死後次のような文章を明らかにした。
「彼の母親がその腕の中で死んだとき、彼は彼女の遺体を晩方から明け方まで、抱き続けていた。・・・母親の墓は通常より二倍の深さに掘られた。彼は母親の傍らに埋葬されたいと願っていたのであろう」

この時以来、マイの男性的な英雄の理想像の中に、母性原理が少しづつ入り込んで行って、やがて晩年になってその作品の中に、平和主義と神秘主義が見られるようになったといわれる。

ドイツの冒険作家カール・マイの生涯(01)

その01 作家になるまで

第1節 幼年時代から少年時代まで(1842-1856)

<貧しい家庭>

カール・フリードリヒ・マイ(Karl Friedrich May)は、1842年2月25日、東部ドイツ・ザクセン地方の小さな織物の町エルンストタールにおいて誕生した。彼の父親ハインリヒ・アウグスト・マイは貧しい織物職人であったが、1836年5月にクリスチアーネ・ヴァイゼと結婚した。二人の間には全部で14人の子供(男6人、女8人)が生まれたが、そのうち9人は2歳までに死亡していた。幼児死亡の高さの原因は、一家の経済的貧しさに基づく不十分な栄養及び医療と衛生状態の劣悪さにあったという。息子たちのうちで生き延びたのは、5番目のカール・マイだけであった。

カール・マイ生誕の家

当時のドイツは王政復古期の、安定はしていたが、自由が抑圧されていた時代であった。一方ドイツの産業革命は、鉄道の建設を基軸として、1840年代以降急速に展開していた。そして機械制工業の誕生によって、工場労働者という新しい社会層を生み出していたが、彼らがおかれた状況は悲惨なものであった。マイが生まれた町エルンストタールは、まさにこうした貧窮にあえぐ機織りの町であり、マイの父親はその町の哀れな織物工だったのだ。

幼いカールは栄養失調などが原因で、4歳のころまで失明の状態にあったが、ドレスデンの医者のもとで目の手術が行われ、1846年3月にカールの視力は回復した。そして70歳で亡くなるまで、マイはその健康を維持することができた。

とはいえ当時のザクセン地方の織物職人の純収入は、生存の最低線を何とか支える程度だったという。こうしたその日の食事にも事欠くほどの経済的窮境は、幼いカールの心に、現実の背後にある「より良き世界」への切実な願望を植え付けたようだ。

<童話の祖母の影響を受ける>

そうしたファンタジーの世界へ彼を導いたのが、祖母のクレッチュマーであった。マイはその自伝の中で次のように述べている。「私は一日中、両親のもとではなくて、祖母のもとにいた。彼女は私の父親であり、母親であり、また教育者でもあった。私が視力を失っていた間は、私の太陽であり、光であったのだ。彼女は教育は受けていなかったが、天性の詩人でもあった」

この祖母は幼いカールに、童話や伝説、説話の類をいろいろ話して聞かせ、それが幼児の心の奥に、深く刻印されたのであろう。そして視力を回復したカールは、すでに5歳の時に、祖母から聞いていた童話を、近所の子供たちの前で話して聞かせていたという。そして皆から拍手喝采を浴びていた、と当時の学校友達が、のちに証言しているのだ。

母親についてはマイの筆は奇妙に沈黙を守っているが、子沢山の貧しい一家を切り盛りしていた母親は、一家の成員を飢えから守っていくだけで、せいいっぱいだったようだ。その代りを果たしていた祖母に9歳のとき連れて行かれた巡回の人形劇について、マイは自伝の中で感激の筆致で語っている。「入場料は二人で15ペニヒだった。外題は『ミュラーのばら、またはイエナの戦い』であった。私の目は輝いた。そして内心が燃えた。人形、人形、人形! 彼らは私の目には生きていた。そして彼らは話をしたのだ」

そのあとカールは祖母から人形劇の仕組みについて説明を受け、興味をさらに増した。そして親にせがんで、『ファウスト博士または神、人間、悪魔』と題された人形劇も見に行っている。これはゲーテの作品ではなくて、昔から伝わっていた民衆劇であった。そこで演じられた民衆の苦難からの救いの叫び声に、共感したことも自伝に書かれている。そしてさらに巡回の田舎芝居が演じたジプシーを主題にした『プレツィオーザ』という作品では、父親から頼まれて宣伝役として舞台の脇で、太鼓をたたいて人集めをしたことも、自慢げに書かれているのだ。

<父親から受けた早期教育>

国民学校ではカールは学業もよくでき、成績もよかった。そして自ら知的な職業に憧れていながら、その希望を果たせなかった父親は、その夢をただ一人幼児期を生き延びたカール少年に託したのであった。この少年が当時知的好奇心の萌芽を見せていたことを知って、父親は未来への希望を膨らませたわけである。

宗教上の立場では、マイの両親はルター派のプロテスタントだったため、カールもルター派の洗礼と、14歳の時には堅信礼を受けている。そして教会では早くから聖歌隊員になっている。そんな関係から、教会の音楽指揮者の下で、オルガン、ピアノ、ヴァイオリンなどを次々に習わされていった。また子供には内容が理解できないような難しいテキストを、大量に書き取ることもやらされた。さらに語学の才能も見込まれて、教会音楽のテキストを読むために、ラテン語を学ばされたほか、英語とフランス語の習得も強制されたのであった。こうした早期教育を施されたため、学校時代のカールは、ほかの子供たちと一緒に遊んだり、付き合ったりする時間がほとんどなかったという。

その代りにのちに作家になるには良いことであったのだが、父親の指導によって、さまざまな種類の読み物を、次々と乱読していく習慣が身に着いたという。はじめは童話、薬草本、父祖伝来の注釈つきの絵入り聖書、次いで過去や現代の各種教科書や父親が集めてきたさまざまな種類の本であった。さらに完本の聖書を、はじめから終わりまで、繰り返し読んだことが自伝に書かれている。

<塾通いの費用をアルバイトで稼ぐ>

しかし家庭に経済的な余裕がなかったため、塾通いの費用は子供のカールがアルバイトをして稼ぎ出さねばならなかった。その仕事として選ばれたのが、近くの九柱戯場(ドイツに古くからあるボーリング場に似た遊技場)で、倒れたピンをもとのように並べる仕事だった。ただこの九柱戯場は、飲食の設備を備えた男の遊び場だった。つまり居酒屋が経営する庶民のための娯楽施設ないし社交場だったのだ。

ドイツの学校は、授業は午前中だけだったので、カール少年は午後から夜遅くまで、日曜日も午前の教会ミサが終わってから、そこで仕事をしていたという。とりわけ月曜日には近隣の地域から町に立つ市場に人々が集まってきたので、九柱戯場もにぎわった。しかし人々がプレーをしたり、飲食をしたりするときに交わされる会話は、学校や教会や家庭では聞くことがない、下卑た、汚濁に満ちたもので、少年の心には耐えられないような苦しみを与えたという。

もう一つマイが恥を忍んで告白していることは、そこに置かれていたいわゆる「俗悪本」のことである。これらは九柱戯場にやってくる一般の庶民からは愛好されていたが、当時のドイツの教育関係者や教会関係者あるいは教養人からは、低俗本として非難されていたものだった。それらの貸本を、カール少年は、仕事のないときにはその場で読んだり、あるいは家に持ち帰ったりすることができたのだ。そのため彼はそれらの本を夢中になって読みふけったばかりでなく、家族やよその人の前でも朗読していたというのだ。それらは盗賊騎士や幽霊屋敷の住人あるいは殺人犯や死刑執行人や義賊に関する物語であった。

<国民学校を卒業>

1856年、14歳の年、カール・マイは国民学校を卒業することになった。しかしその日が近づくにつれ、将来の進路を決めることが、彼自身にとっても、また父親やその他の家族にとっても、切実な問題となってきた。織物職人という父親の職業を受け継ぐ気持ちは、カール少年にはなかったし、またその能力もなかった。そして息子に早期教育をたたきこんできた父親としても、もっと社会的地位が高く、尊敬されるような職業へと息子が進むことを望んでいた。マイは自伝の中で、自分はギムナジウム(九年制の中・高等学校)から大学へと進学することを切望していた、と書いている。しかしそれを許すような経済的余裕はマイの一家にはなかったわけである。そこで一家としては、経済的な負担がより軽い師範学校へと進ませ、その後学校の教師になる道を選ばざるを得ないことになった。

第2節 師範学校生と教師の時代(1856-1862)

<抑圧的な師範学校>

当時のザクセン王国における師範学校の教育は、1848年の三月革命の挫折後に生まれた政治的反動の時代の主導理念を、まさに反映したものであった。悪名高い1854年のプロイセンの学校条例が、このザクセン王国でも取り入れられていたのだ。

カール・マイは1856年9月、ザクセン王国のヴァルデンブルク師範学校に入学した。この学校では革命の再発を防ぐために、自由や民主主義は上から抑圧され、教師や生徒に対して厳しい規律と詰め込み教育ばかりが強制されていた。元来、自由を求める性向を強く持っていたマイは、この学校のやり方に耐えられず、教師に反抗するようになった。そして余暇には作曲をしたり、文章を書いたりしていた。そして16歳の時、インディアン物語の原稿を、当時の有名な家庭向け雑誌「あずまや」に送ったが、雑誌の発行人から丁重な断りの手紙とともに送り返された。

そして1859年、17歳の時、クリスマスを前にして、貧しい家族を喜ばせようとして、寄宿舎にあったローソク六本を盗んだことが発覚して、マイはヴァルデンブルク師範学校から追放されることになった。ところが幸いにして、ザクセン王国の文部省のとりなしで、同王国内のプラウエン師範学校に移ることができた。この師範学校では、最初の学校に比べて、かなり自由が認められていた。そしてプラウエンの町にある感じの良い、評判のレストラン「トンネル・レストラン・アンデルス」に行くことが、生徒たちに許されていた。マイは自伝に次のように書いている。「プラウエンは私にとってとても大事な存在になっていた。アンデルスのガラス張りのサロンで、私は素晴らしいビールを飲み、最上のオムレツ付き豚肉料理を食べることができたのだ。それにフォークトランド風団子が添えられていて、何たる美味か!」それまであまり美味いものにありつけなかった貧しい青年にとって、その料理は最高の贅沢であったのだろう。

<教師の時代>    

1861年9月、マイは19歳で師範学校を卒業し、教師になるための試験に優秀な成績で合格した。そしてグラウヒャウの貧民学校の代用教員になった。そして64人の児童に対する授業を受け持つことになった。給料は年に175ターラーと定められていた。ところがその勤務はわずか12日間しか続かなかった。下宿先の主人から、その夫人(19歳)に対する不倫を訴えられて、解雇されてしまったのだ。
しかしその直後に、アルトケムニッツの紡績工場付属学校の教師として採用された。その工場では10歳から14歳の間の児童が働かされていて、その合間に付属学校の授業を受けていたのだ。

ところがこの学校でも、マイの勤務は長続きしなかった。今回は同じ年のクリスマスのころ、懐中時計窃盗の科で、6週間の禁固刑を受けることになったのだ。工場経営者は付属学校との契約に従って、マイに住まいを提供したのだが、経営者の部下の簿記係が使っていた部屋を、マイと共同で使用するように決めた。そのため簿記係はそのことに不満を感じ、マイとの間に感情のもつれが生じ、トラブルにまで発展したのだ。

ある時この簿記係は新しい懐中時計を買ったので、古いのをマイにも授業の際に使わせることにした。ただし授業が終わったら返すようにとの条件を付けた。クリスマスの日、マイは授業にその時計を持って行ったが、返却するのを忘れて、家に帰ってしまった。簿記係はその行為を窃盗とみなして、警察に届け出て、マイは警察に連行され、6週間の禁固刑を受けたというわけである。そしてこれ以後、学校の教師への道は絶たれ、父親は息子の前途を悲観して、嘆き悲しんだという。

第3節 フリーター、詐欺師そして服役者(1862-1874)

<フリーターとしての活動>

1862年10月下旬、カール・マイは釈放されたが、その前途には何の見通しもなかった。しかし当面の糊口をしのぐために、家庭教師として語学や音楽を教えたり、朗読の仕事や合唱団の一員としての仕事をしたり、あるいは作曲をしたり、物書きをしたりしていたという。
また1862年12月、20歳の時マイは徴兵検査を受けたが、近眼のために「不合格」になった。1863年1月25日、3月8日そして3月25日には、彼は故郷の町の「音楽と朗読の夕べ」という催しに、朗読者として出演している。また1863年4月及び7月には、故郷の教会が主催した夕食会に出席している。作曲の腕前はなかなかのものだったようで、個人的な楽譜は数枚残っているが、公表されてはいない。
物書きの仕事もすでに行っていたようだが、それらの原稿は残っていない。とはいえ、のちに作家として活動を始めた初期の時代(1875年)に書いた「ユーモア小説」や「エールツゲビルゲの村の物語」などの構想は、すでにそのころ練られていたらしい。

<精神分裂症にかかり、詐欺行為も>

このような活発な知的、精神的活動の傍ら、その気持ちのほうは暗く、沈んでいて、精神分裂症にかかった状態にあったようだ。師範学校生と教師の時代に、国家当局から受けた虐待が、依然として彼の心に重くのしかかっていたのだ。精神錯乱から、夜中に突然ベッドから飛び起きて、雨や雪の降りしきる路上を走り回ったという。
そして国家当局への復讐の気持ちが心の中で高まっていったようだ。その結果、虚言癖に強く彩られた自我は、どんどんその強度を強め、ついには刑法に触れるところにまで達してしまった。

1864年7月、22歳のマイは、医学博士の名前をかたって5着の服の仕立てを注文して、受け取ってから、後で支払うといったきり姿をくらましてしまった。
ついでマイは同年12月に、師範学校教師ローゼとしてケムニッツ市に現れた。そして勤め先の校長からの委託だと称して、毛皮の服と襟とを、宿泊先のホテルに届けさせた。その後、彼は隣室にいる病気の校長に見せるからと言って店員から品物を受け取り、そのまま姿をくらましたという。

しかし第三の試みではマイの悪運も尽きたようだ。1865年3月20日、ライプツィヒ市にヘルミンと称する楽譜彫刻師が現れ、宿泊用の部屋を借り、毛皮加工職人の店でビーバーの毛皮を買った。ちなみにヘルミンは、ギリシア神話の商人兼盗人の守護神ヘルメスのことなのだ。今回は毛皮を受け取った後、事情を知らない人間を通じてその毛皮を質屋に移させた。しかしこの不審な行動に気が付いた店員が、警察に通報して、質屋に現れたこの人物は、つかまってしまった。そして本名を告白して、以前に行った詐欺行為のことも自白したという。

<厚生施設での服役とその後>

そして1865年6月にライプツィヒ地方裁判所において、マイは三件の詐欺行為によって、4年1か月の更生施設行きを言い渡された。その結果ツヴィッカウの更生施設に収監されたのである。
そこは収監された人を社会復帰させる施設だったので、それぞれの個性に対応したやり方がとられていた。マイははじめ財布と煙草入れを作る仕事に従事させられた。しかしマイを観察していた監視人の推薦で、1867年からはトロンボーン奏者及び教会音楽歌手として施設内で活動することや、作曲をすることが許された。さらに1867年末には、更生施設所長の特別書記に任命された。つまりツヴィッカウ管内における刑執行に関する統計面と文書作成面での助手になったのだ。

ツヴィッカウの更生施設

そして施設内の図書館(四千冊を超す蔵書を備えていた)の仕事も任され、自らもそこの書物を自由に読むことができるようになった。こうした状況の中で、カール・マイは、将来作家としてやっていくための計画を、大いに促進させることができるようになった。
家族がたくさんいる自宅にいるよりは、この厚生施設のほうが、はるかによく勉強できたのである。彼がその頃書き記した文学上の執筆計画書が、その遺稿の中から発見されている。それによると、彼が書こうとしていたジャンルは、オリエントを舞台とした物語、アメリカ・インディアンに関連した物語そして故郷の村を舞台とした物語の三つであったことが分かる。

以上のべたように、マイにとってこの施設で過ごした歳月は、いわゆる「娑婆」で詐欺師として放浪していた時よりも、ずっと恵まれていたわけである。そして施設内での模範的な態度が認められて、元来の刑期より八か月早く、1868年11月2日に釈放されたのであった。

しかし久しぶりに家に帰って分かったことは、マイの服役中の1865年に、最愛の「童話の祖母」が亡くなっていたことであった。その文学計画を伝えて、夢を語り合いたいと思っていた、その肝心の相手の死は、彼にどれほど大きな衝撃を与えたことか!

またマイがその後再開した文学面での活動から得た収入は、家計を支えるにはあまりに僅かなものであった。そして前科者のマイに対して近隣の人々から、敵意に満ちた冷たい視線が向けられた。こうして再びマイは、精神錯乱状態に陥ることになった。あてどなく森や野原をさまよい、ある時は放火の罪を着せられたこともあった。更生施設でせっかく獲得した再生への道は、冷たい「世間」の風にあたって、再び崩壊してしまったのだ。

1869年4月までは彼は両親の家に住んでいたが、その間しばしば家を留守にしていた。文学関連の用事で何度もドレスデンに行っていたほか、当時の恋人であった女性に会うために、ラッシャウという所へ出掛けていた。

しかし間もなく再びマイは、悪の道へとさ迷いこんでいった。つまりその後一年あまりにわたって彼は、詐欺や窃盗、偽造などの軽犯罪を数回繰り返した。そのたびに言い逃れをしたりしてごまかしていたが、故郷を離れ遠くへ行きたいと思うようになっていた。そんな時、商売と観光を兼ねてザクセン地方に滞在していたアメリカ人バートン父子と知り合った。そしてその人物から息子の家庭教師としてアメリカに来てくれないかと頼まれた。

これに関連してマイは両親あてに1869年4月20日付けの手紙で、次のように書いている。「・・・私は旅に出ます。人々は私のことを忘れ、許してくれるでしょう。そして私は前途有望な新しい人間になって、再び帰ってきます・・・」
しかしこのアメリカ行きは、旅券関連の障害があって実現せず、4月末には再びザクセン地方に現れている。

<再び刑務所へ。そして再生して社会に出る>

そして結局1870年1月に警察に逮捕され、窃盗、詐欺、偽造その他及び前科が考慮されて、4年の刑が言い渡された。その結果彼は、1870年5月3日から1874年5月2日まで、ライプツィヒ管区のヴァルトハイム刑務所で服役することになった。刑務所内の生活及び労働条件は、極めて厳しかった。労働時間は一日最低13時間で、他人と話をしてはいけないという沈黙規定もあった。その上マイは最下等の懲戒クラスに入れられ、逃亡の危険性と乱暴狼藉、反抗気質のゆえに、最初の一年ほどは独房に隔離された。また労働として、葉巻つくりの作業に従事させられた。

ヴァルトハイム刑務所内の教会

いっぽうヴァルトハイム刑務所の中には、教会の施設があった。そして服役者の更生のために、教会専属の聖職者がいた。そうしたうちの一人でカトリックの教理教師であったヨハネス・コホタという人物がいたが、この聖職者によってマイは、初期のもろもろの困難を克服して、次第にその精神も平穏になっていった。この清廉で高潔な聖職者は、マイとの会話の中で十分な理解を示して、その心をつかんでいったのである。そして刑の軽減を図ってくれ、懲戒クラスからの引き上げもしてくれた。

この人物についてマイは自伝の中で、次のように書いている。「カトリックの教理教師の名をコホタといった。彼はアカデミックな背景を持たない、ただの教師だった。しかしいかなる点から見ても高潔な人物で、人間味あふれ、しかも教育者として、あるいは人の心理を見抜くことにかけては、豊富な経験を積んでいた。・・・彼は私をプロテスタント信者として扱い、私にオルガンを弾くことを許可してくれたのである」

やがて刑務所内での彼の評判は高まり、ここでも図書館の管理の仕事に従事することができた。そのおかげで彼は図書館の書物を自由に読むことができるようになったのである。この点についてマイは自伝の中で次のように書いている。
「何ものにも邪魔されない孤独と豊かな資料のおかげで、私ははるかに先に進むことができた。・・・そして以前から準備していた小説の執筆計画を完成させ、実行に移すことになった。私は原稿を書き、書きあがるとそれを家に送った。両親は私と出版社との間を仲介してくれた」
カール・マイという極めてユニークで、毛色の変わった人物は、刑務所を書斎代わりにして、その作家活動を始めたわけである。

そしてやがて4年の歳月が流れ、刑期を終えた32歳のマイは、1874年5月初め、ヴァルトハイム刑務所を出ることになった。その時、看守のミュラーは冗談交じりにマイに対して、次のように言ったという。「なあ君、いつまた私たちはここで会えるのかね?」それに対してマイは極めて真面目な顔つきで、その手を看守の肩にかけ、相手の目をじっと見つめて、ゆっくり一語、一語区切ってこう答えた。「看守殿、私にここで会うことは、二度とないでしょう」と。