16~17世紀の出版業の諸相(06)

オランダ出版業の発展ほか

<オランダにおける出版業のはじまり>

16世紀の後半、現在のオランダ・ベルギーを中心としたネーデルラント地方を支配していたのが、スペイン・ハプスブルク家であった。その圧政に抵抗した北部7州の新教徒は1568年に独立戦争を開始し、1581年に独立を宣言。そして1609年の休戦条約で事実上独立を達成してスペイン=ハプスブルク家の支配を脱した。それに先立ち、比較的カトリック教徒が多かった南部10州(現在のベルギーに相当)はこの戦争から脱落し、その後もスペインの支配を受け続けた。

独立戦争の中心となって戦ったのが、北部7州の中で最も有力なホラント州であった。ちなみに戦国時代末期に日本にやってきたのが、この「ホラント州」の人々だったのだ。そのため当時の日本人はその人々を「オランダ人」と呼びならわし、ネーデルラントではなくて、オランダという呼び名が、日本では定着したわけである。ちなみに「ネーデルラント」というのは低地を意味している。

さて、スペインの支配を脱した北ネーデルラントつまりオランダでは、政治、経済、社会、文化なと、すべての面で、新興国家の勢いがみられた。印刷・出版業もその例にもれず、印刷工房の数が増え、ホラント州がプロテスタント系出版業の中心地となった。                                                                                                とりわけオランダ独立運動の指導者オラニエ公ウィレムが1575年に大学の設立を奨励したり、エルゼヴィール家が開業したりしたライデンにおいて、印刷・出版業がまず起こったのであった。

<エルゼヴィール家の開業>

エルゼヴィール家の開祖ルイス・エルゼヴィール(1542-1617)は、前にも述べたカトリック・ルネサンス時代の代表的な出版業者プランタンの印刷所に勤め、プランタン社の経営術を身に着けた人物であった。

生まれて間もないライデン大学では、神学と並んで文献学が君臨していた。そうした状況を反映して、エルゼヴィール家では、やがてヨーロッパのすべての教養人が探し求めていたギリシア・ローマの古典作家の書物を数多く出版するようになった。当時、同家は出版業、製本業、書籍販売業に従事していた。同家の最初の出版物は1583年に刊行されたが、本格的な出版部門の展開は1592年以降のことであった。創業者のルイスはまた、印刷されたカタログをもとにしてオークションを催したりした。

ルイスが亡くなった1617年、彼の事業所は二人の息子マッティースとボナヴェントゥラによって引き継がれた。そして1625年にマッティースは息子のアブラハムに、自分の株を売り渡した。またこの年にはルイスの孫のイサクが所有していた印刷所が吸収合併された。ボナヴェントゥラとアブラハムによる経営は1652年まで続いたが、この期間がエルゼヴィール家の黄金時代であったといえる。

同家の印刷物は一般に「エルゼヴィリアーナ」と呼ばれていたが、なかでも学生向けの小型本シリーズは大成功を収めた。そのほか『共和国』のシリーズや、コルネイユなどのフランス文学の出版を通じて、エルゼヴィール家の出版物は、ヨーロッパ中に知れ渡った。

エルゼヴィール家の出版物の表紙。ラテン語の書物。印刷社標章が付いている。(1662年)

こうしてライデンのエルゼヴィール家本店は、ライデン大学の公設印刷所に指定されたのであった(1620-1712)。この間、支店がオランダ国内のハーグ(1590-1665)及びアムステルダム(1638-81)に設立され、17世紀の後半にユトレヒト(1667-75)にも設けられた。そしてさらに国外の主要都市フランクフルト、ヴェネツィア、パリ、ロンドンに、その代理店が開設された。

これらの数多くの支店、代理店の中で、ライデン本店に次いで重要な地位を占めていたのが、アムステルダム店であった。ここではデカルト、コメニウス、ホッブズなど、同時代の代表的な思想家の著作を刊行したり、ギリシア・ローマの古典作品などを出版することによって、名声を得ていた。

いうまでもなくデカルト(1596-1650)の名前は、皆さんもよくご存知かと思われるが、「われ思う、ゆえにわれあり」は有名な『方法序説』の中の一節で、合理主義哲学の出発点となった、といわれている。私も若い時に『方法序説』は読んでみたが、正直言ってよくわからなかった。それはともかく、デカルトは、その研究活動の大部分をオランダで行っていたのだ。当時のフランスはこの思想家にとって束縛の多い住みにくい国だったようだ。これを裏返して言えば、当時のオランダは世界に向かって開かれた自由な国だった、という事であろう。

それからホッブズ(1588-1679)はイギリスの哲学者・社会思想家で、経験論や唯物論を説いた人だ。その名前は、日本の人文・社会学者の間では、よく知られている。もう一人のコメニウス(1592-1670)は、教育学者として日本でも、その名前だけは知られている人物だ。しかしどんな人物であるのかという点については、専門家以外には広がりがない、というのが実情であろう。今回調べてみると、当時のボヘミア王国(現在のチェコ)出身で、民衆の間に大きな勢力を持っていたボヘミア兄弟団の僧侶・長老という人物である。三十年戦争(1618-48)の渦中に、ハプスブルク家の圧迫を受けて、兄弟団の人々とともに国外に追放された。その後生涯をポーランドその他の地域で送り、祖国の解放を最大の念願として、国際的な平和運動を策した。そしてそのためには学校教育が重要との認識のもとに、学校教育の体系づくりに生涯をささげた人物だと言う。

コメニウスは、その際、あらゆる思想と学問とを調和的に統一した<パンソフィア>を学ぶべきとした。そして一般向けに易しく解説した絵入り教科書『世界図絵』が刊行され、これはそのご世界各地に普及したといわれる。

ライデンのエルゼヴィール本店の印刷物(『共和国』シリーズ)の表紙(1632年)

ライデンの本店は1652年以降、アブラハムの息子ダニエルによって、ついで1655年以降はボナベントゥラの息子ヤンによって引き継がれた。しかしこの時代にはもはや黄金時代の輝きは見られなくなった。ヤンはその事業の再編を行なったが、その結果書籍販売部門は売り渡され、印刷部門だけが残った。そしてその印刷所は、ヤンの息子アブラハム二世によって1712年まで営まれたのであった。

いっぽう17世紀の中ごろ、同家の活字父型彫刻師として活躍したのがクリストフェル・ヴァン・ダイク(1601-69)であった。彼は1647年ごろからアムステルダムに活字鋳造所を設立して、本格的な活動を開始した。このヴァン・ダイクは、質の高い活字父型を彫ることのできた彫刻師として、オランダが初めて自国に持つことのできた人物であった。このあとも優れた活字父型彫刻師として、アントン・ジャンソンやニコラス・キシュなどが続くが、オランダ活字はやがて海を渡って、イギリスの活字に大きな影響を与えていくことになるのだ。

<地図出版社ブロウ家>

      ウィレム・ヤンスゾーン・ブロウの肖像画

いっぽうアムステルダムでは、ウィレム・ヤンスゾーン・ブロウが、地図帳と大型地図を専門とする強大な印刷工房を開設した。大航海時代の海洋国家オランダに、いかにもふさわしい部門の印刷所であった。

ブロウ社から出版された地図帳の一部。アジアと日本も描かれている(アムステ ルダム 1650年)

この人物は出版業に乗り出す前に、天文学者のティコ・ブラーエの協力のもとに、様々な天文機械を作っていた。がんらい技術者であったブロウはやがて印刷機の製作にも手を染め、印刷機を頑丈にするための工夫をして、その大幅な改良に成功した。この「オランダ式」印刷機は、次第にネーデルラント全体に広がり、その性能の良さはたちまち評判になったという。そしてこの印刷機は、イギリスにまで普及していったのである。

こうして優れた性能の印刷機を備えることができたブロウ印刷工房は、ドイツのコーベルガー家、フランドル地方のプランタン家、パリ王立印刷所などと並ぶ、ヨーロッパ有数の規模を誇る印刷所となったのである。しかも16世紀後半から17世紀にかけて世界の海へと乗り出していったオランダの印刷・出版業者として、最もふさわしい、地図の製作・出版の分野で、ブロウ家は計り知れないほど大きな仕事を成し遂げたのであった。

<オランダ出版業発展の一般的状況>

ここではオランダ人の『黄金の世紀』である17世紀に栄えた出版業の、一般的な発展状況についてみていくことにしよう。
自由を愛し、技芸と精神の所産を尊重するこの国の商人にとって、書物の出版と取引ほど、ぴったりしたものはなかったのだ。小国ながらその地理的な位置の良さから、オランダの芸術家や文化人、科学者たちは、周辺の国々の知識人、教養人と絶えず交流を重ねていた。多かれ少なかれ、お互いに無視しあっていたイギリス、フランス、ドイツ三国の知識人たちとも、それぞれ関係があったことから、やがてオランダ人は彼らの間の仲介者として働くようになった。当時オランダで無数の新聞が出されていたことも、こうした動きと関係があったのだ。

ゲ・ド・バルザック、テオフィール・ド・ヴィヨンそして前述したデカルトのように、オランダに来て仕事をするフランス人も少なくなかった。オラニエ公マウリッツ・ファン・ナッソウの宮廷では、フランス語が話され、ハーグの書店にはフランス書が大量におかれていた。

しかも国民の大半が新教徒であるカルヴァン派に属していたこの国には、迫害があるたびにカトリック国フランスから、同じカルヴァン派の信者が逃れてきた。特にルイ14世の時代に、それまで新教徒にも旧教徒とほぼ同じ権利を与えていた「ナントの勅令」が廃止された(1685年)。このときもカルヴァン派信者が大量に亡命したわけである。そしてデポルト、ユグタンといったフランス出身の大出版者は、オランダでフランス人作家と再会したのであった。こうして17世紀末からアムステルダムは、パリに次いでフランス語書籍の第二の中心地になっていったのである。

いっぽうロッテルダムのレールス家のようなオランダの大書籍商は、パリで出版されたフランスの最良の作家の作品を海賊版にした。そしてその見事に組織された取引網を利用して、西はロンドンから東はベルリンに至るヨーロッパ全土に売りさばいていたのであった。

この時代には著作権や版権というものがまだなかったので、どの国でもこうした海賊版は、大手をふるって通用していたわけである。この商売は18世紀になってフランス語が国際語になるにつれて、ますます発展した。そしてオランダの書籍商は、フランドルやスイスの出版業者とともに、当時のフランスのいわば反体制派ともいうべき「百科全書派」の最良の支援者になったのである。

<17世紀半ば以降のヨーロッパは、出版不況の時代に>

1640年から1660年にかけて、オランダを除いたヨーロッパの出版業界には、全体として大きな変化が訪れていた。それは一つにはカトリック・ルネサンスの偉大な時代の幕が下りたことによる。宗教書専門の富裕な出版業者は、以前のように容易には出版物を、さばけなくなった。そして教父の著作のような記念碑的な書物の売れ行きが、落ち込んだ。また宗教戦争の間に略奪にあった修道院に向けて復元された書物も、今や一通りそろってしまった。

その一方フランスでは、国家の栄光を称えるのと同時に、国家によってカトリック教を広めるための手段として、文芸を発展させるという措置が取られた。それはつまりルイ13世治下の1640年に、枢機卿リシュリューによって、パリのルーヴル宮殿内に、王立印刷局が設立されたことを指すのだ。

その反面、このころラテン語を知らない読者や女性の読者向けの世俗文学や通俗書が、フランス、スペイン、イギリスで流行し、やがてオランダでも同じことが起きた。またそれまでラテン語での出版が主流だった学術書が、各国語で印刷され始めた。そして最初の新聞も誕生している。ただこれらの動きは、出版業者にとっては、大規模な利益にはつながらなかったのだ。

こうして書籍市場が細分化の方向に向かう中で、出版業界の経営危機が広まったのである。たとえばかつてカトリック・ルネサンスの時代に大いに栄えたアントウェルペンの出版業が日ごとに衰えを増し、大出版者プランタンの後継者モレトゥスは、いつでも必ず売れる教会典礼用の書物だけを印刷し、販売していた。

またドイツのケルン、フランスのルーアンやリヨンの書籍商にとっては、生き延びるための手段として、もはや海賊版の出版しか残されていなかったのだ。そしてリヨンでは完全な集中化現象が起こった。つまりアニソン社がこの町で唯一の大出版業者となって、パリの同業者に仮借ない競争を挑んでいたわけである。

老舗の出版都市ヴェネツィアの出版業も衰え始めた。ドイツでも三十年戦争(1618-48)の影響で、1620年ころをピークに、出版業も低迷期に入った。フランクフルト書籍見本市での書物取扱量は、前にも述べたとおり、とりわけこの戦争の後半の時期(1631-45)に落ち込んでいる。戦争終了後はいくぶん活気を取り直したが、外国人にとってもドイツ人にとっても、この書籍市はもはや出会いの場ではなくなっていた。

フランスでは、1650年ころから数十年に及ぶ激しい商戦が始まった。そしてパリで印刷されて多少とも当たった書物の海賊版を系統的に作り、邪魔な相手を倒産に追い込む業者も出てきた。その犠牲者となったのが、例えばアントワーヌ・ベルチエだった。この人物はかつてリヨンに見切りをつけてパリで開業し、スペインの書籍商と活発に取引をしていたのだが、この時破産に追い込まれたのである。

そのほか狙われた書籍業者の中には、パリの最大手のクールベ、クラモワジー、デブレなどがいた。フランスではそれまで二百年間にわたって、印刷工房がどんどん増え続けてきただけに、この出版不況を乗り切るのは難しかった。どんな村にも印刷工房の一つくらいはあったのだが、その親方といえば、このころ公式文書、つづり字練習帳、初等教科書から、しばしば誹謗文書まで印刷して生き延びていたのであった。

パリでは1644年には印刷工房の数は75あった。そして印刷機は181台備え付けてあった。ところがこの出版不況の時代には、その半分は、断続的にしか動いていなかったのだ。こうした事態を打開するために、フランス当局は1666年にいくつかの印刷工房を閉鎖させた。そして新しい親方の任命と工房の新設を禁止した。それ以降も印刷工房の数は、1789年のフランス大革命まで、厳しく制限されたのである。

<この時代のドイツの書籍取引>

この時代にヨーロッパ各地で行われていた書籍取引のやり方は、「書物の交換と為替手形の利用」であった。この方式はドイツでは17世紀の初めから18世紀中ごろまで、用いられていた。この時代には宗教上の新旧両勢力の対立が激化する中で、ドイツが無数の領邦国家に分立する傾向が強まったことと、この取引方法の発展との間に密接な関係がみられた。

これらの領邦国家では、フランスに倣って、経済史で言う重商主義の一種「カメラリズム」が採用されていた。その経済政策によれば、金(きん)はできるだけ国内にとどめ置くべきだとされていた。そして外国製品に対して金を支出することが、極力抑えられていた。またそうした領邦国家では、ちょうど日本の江戸時代の藩札のように、自分の領内でしか通用しない通貨を発行していた。

そのために領邦国家の枠を越えた取り引きでの為替決済は、きわめて複雑だったと想像される。このために領邦の枠を越えた書籍卸売り業者間の取引には、直接現金を用いないで、書物や印刷物を交換し合う方法が、便利だったわけである。とはいえ、すべての場合に書物と書物の交換だけで済んだいたわけではなかった。当然差し引き勘定が生じたが、これはかなり長い期間をおいて、為替決済という形で処理された。

この交換取引の大きな利点は、経営資本に対する投資が、比較的少なくて済んだ点にもあった。そして「この時代のドイツの書籍取引は、いわばただ一つの巨大な協同組合的出版社とその支店網によって、運営されていた」とも言われるぐらいなのである。

そうした組織の中で、互いによく知り合った同業者仲間は、円滑な書籍取引ができたのである。そして当時のドイツは、一つの国家にまとまっていなかったが、ドイツ文化圏ないしはその影響が及んでいた地域は、今日のドイツの領域よりはるかに広かったのである。現在の国家で言えば、オーストリア、スイス、ハンガリー、チェコ、ポーランド、バルト三国から北欧に及んでいたことを忘れてはならない。

そのために当時はただこの方法を通じて、ドイツ文化圏内の全ての書物が滑らかに循環していた。そして細かに枝分かれした協同組合的な販売網を通じて、互いに遠く離れたドイツ東北部のケーニヒスベルクやスイスのバーゼル、あるいは北欧のデンマークや東南部のブダペストといった所にまで、書物が届けられたのであった。

このように幾多の領邦国家が分立していたドイツを中心とした地域において、書物を摩擦なく流通させることができたのが、交換取引制度なのであった。しかし時とともに人々は、この交換取引制度にも、様々な欠陥や不利な点があることに気づくようになった。つまり書物がその内容や造本などに関係なく、単にモノとして量的に取引されたことから生じたマイナス面にである。

17世紀後半、かの有名なドイツの哲学者ライプニッツは、これに関連して次のように書いている。
「ドイツで出版されている本は、しばしばその外観、内容ともに極めて劣悪である。ところが本がそのように劣悪でも、売れ行きのほうはよいのだ。なぜなら書籍販売業者が互いに結託して、交換取引しているからだ。経営規模が一定の水準に達していさえすれば、その出版社から発行された書物は、一定限度売れるものなのだ」

こうした状況の中で、ドイツのフランクフルト書籍見本市にも影響が現れた。この書籍見本市は15世紀半ばから16世紀を通じ、さらに17世紀前半ごろまで、ヨーロッパにおいて、書籍取引の中心的な役割を果たしていた。しかしその後発展目覚ましいオランダの出版界で真摯に、念入りに本づくりをしていた人々が、総じてお粗末なドイツの書籍との交換に大いなる不満を示した。そしてこの見本市から撤退してしまった。同様にフランスやイギリスなどの書籍業者も、フランクフルトから離れていったのだ。

しかしドイツの領邦国家体制に適合していたために、書物の交換取引制度は、なお18世紀半ば過ぎまで存続したのであった。

 

随想。タリバンのアフガン支配と「カール・マイ冒険物語」

<はじめに>

周知のとおり、2021年8月15日、アフガニスタンのガニ大統領が隣国に逃亡し、アフガニスタン政府は崩壊した。そしてイスラム主義勢力の「タリバン」が、実権を握った。その後9月1日、20年という最長の戦争を終えて、アメリカ軍は撤退した。タリバンは、「占領軍」を追い出したことに祝砲をあげ、「完全な独立」を宣言した。その前後の動きについては、日々の報道で詳しく伝えられている。

これらのニュースに私は大きな衝撃を受けている。というのは、私は、ドイツ史が専門であるが、このイスラム地域にも、年来強い関心を抱いて、その歴史や地理について、多少は勉強もしてきた。そしてまたライフワークとして、「カール・マイ冒険物語~オスマン帝国を行く」というイスラム地域を舞台にした作品の翻訳も行った。

そんなわけで、今回はいつもとは違った随想という形で、この150年前の物語を紹介しながら、いろいろ思うことを、書いていくことにしたい。

<物語の時代背景>

はじめに、この物語をご存じない方のために、作品と作者そして何よりも物語の時代背景と舞台となっている地域について、説明しておこう。作者は19世紀後半に活躍したドイツ人の冒険作家カール・マイ(1842-1912)である。彼は生涯に膨大な作品を書き遺しているが、その主な作品群はイスラム圏のオスマン帝国を舞台としている。そのため、これらは後世の研究者によって「オリエント・シリーズ」と呼ばれている。私はこのシリーズに属する作品を12巻にまとめて翻訳・刊行したのだが、それについては、このブログの右上の「自己紹介・戸叶勝也」をクリックして、参照していただければ幸いである。

さて作者のカール・マイが活躍した時代は、19世紀後半で、まさに1871年に成立したドイツ帝国(いわゆるビスマルク帝国)の時代に重なっていた。このころは、大英帝国、フランス共和国、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国と並んで、宰相ビスマルクによって指導され、列強の一つに加わったドイツ帝国の動きが、際立っていたころである。

そして宰相ビスマルクを追い出す形で実権を握った皇帝ヴィルヘルム二世は、大変な野心家で、「太陽の当たる場所」を求めて帝国主義政策を推進した。それは北国のドイツから見れば、南に位置する諸地域への遅ればせながらの進出であった。ドイツはアフリカや南太平洋地域へ出て、植民地化した。皇帝はドイツ語ではカイザーであるが、明治時代の日本では「カイゼル」と呼ばれ、その威張りくさった髭(ひげ)は、新聞などで「カイゼルひげ」などと書かれていた。この皇帝は、さらにイスラム教のオスマン帝国とも交渉したりして、首都のベルリンからイスタンブールをへて南のバグダードへと到達する鉄道路線の計画を立てた。数年前に私がイスタンブールへ旅したとき、カイザーの訪問にちなんだ記念碑が、今なお町の中心に立っているのを見たものである。

ところでカール・マイが書いた「オリエント・シリーズ」の舞台は、19世紀半ばのオスマン帝国である。その舞台を示したのが、下記の地図である。

 

  19世紀半ばのオスマン帝国領(主人公カラ・ベン・ネムジの冒険行路)

<イスラム教とキリスト教の対立>

上の地図を見ていただければ、大体19世紀半ばのオスマン帝国領の範囲がおわかりになろう。しかしその前に、オスマン帝国の歴史をざっと振り返ってみよう。まずこの国は1300年ごろトルコ人のオスマンが作ったイスラム教の国である。そして最盛期(17世紀)にはその領土は上の地図に書かれた範囲より広く、西は北アフリカのアルジェリアが含まれ、また北はバルカン半島の北部、現在のハンガリーあたりにまで広がっていた。そしてその境界の先には、ハプスブルク家のオーストリア帝国があったが、この帝国はオスマン帝国と対峙して、キリスト教世界の守護役を演じ、16世紀以来、幾度となく戦争を繰り返してきた、

イスラム教のオスマン帝国は、西暦14世紀初めから、20世紀初めの第一次大戦時まで、およそ600年にわたり、キリスト教の西ヨーロッパと対峙してきたわけである。とはいえ互いに戦争ばかりしていたわけではなく、文化を含めて、様々な面で関係を保ち、東のオスマン側が西のヨーロッパに影響を与えてきた。例えば18世紀のモーツァルトのトルコ行進曲は、日本人にもなじみのものだろう。この曲は、太鼓をたたいて整然と進軍していく、オスマン軍の勇ましい姿を描写したものと思われる。またチューリップという名前は、その形がトルコ人がかぶっていたターバンに似ているというので、つけられたものだ。さらに真偽のほどはわからないが、16世紀あるいは17世紀に、オーストリア帝国の首都ウィーンをオスマン軍が包囲して、その後撤退したときに、陣営の中に残されたコーヒーがヨーロッパに初めて伝わったなどといわれている。

カール・マイ冒険物語の時代は、19世紀半ばの、帝国の末期に当たっていた。そしてその勢力は衰え、領土も減少していた。しかしその時点においてもオスマン帝国領には、発祥の地であるアナトリアと対岸の首都イスタンブールを中核として、なおバルカン半島南部地域並びにアラビア地域が属していた。これらの地域を含めて、オスマン帝国は、当時のヨーロッパ人から、自分たちのすぐ東にある地域という意味で「近東」と呼ばれたのだ。

<近東について>

これに関連して、カール・マイ冒険物語第6巻「バグダードからイスタンブールへ」の第5章(158頁)には、「近東」に関する興味深い話が、出てくるので、次に紹介したい。

今しも二人の男がイスタンブールの旅館「ドゥ・ペスト」の一室に座って、宿の  主人のついだ素晴らしい酒を飲みながら、思案気な顔つきでタバコをふかしていた。・・・・
「サー、近東問題をどう考えるね?」
「それは問題というよりは、感嘆符を伴った事柄ですな」
灰色の男は再び口を閉じ、眼を開け、”賢者の格言”を直ちに理解しなければならない、といった顔つきをした。この灰色の男はデービッド・リンゼイ卿で、褐色の男は私(注:物語の主人公カラ・ベン・ネムジ)だったのだ。私は一度たりとも真面目に政治に取り組んだことはなかった。そのためトルコ、バルカンなどを巡る政治上の問題は、私にとって恐怖と嫌悪の対象だったのだ。その概念を説明できる人は、この質問にも答えられるであろう。しかし近東問題だとか、いわゆる”病人”が持ち出されると、どんなにぎやかな社交の席でも、私は直ちに沈黙せざるを得なくなるのだ。私は政治医学を学んだわけではないので、この病人の症状についてとやかく言うことは出来ないのだ。しかしその地域を旅している私の素人考えでも、とても健康だとは呼べないことは確かだ。 (注:”ボスフォラス海峡の病人”と、かつて強大であったオスマン帝国も、19世紀にはヨーロッパの列強諸国から、馬鹿にされていたのだ)

ところで第一次世界大戦にオスマン帝国は敗北し、その領土は大幅に削減された。その中核地域は、トルコ共和国として生まれ変わった。しかし、その南部のアラビア地域にあった領土は、列強のイギリスとフランスによって、都合よく線引きされて、いくつもの国家が作られた。それが現在のシリア、レバノン、ヨルダン、イラク、パレスチナそしてサウディアラビアの一部などである。ペルシア湾岸のアラブ首長国連邦、クエートその他の小さな国々は、それより後になって生まれたのだ。そしてそれらの地域の中でも石油が出る地域や国は、エネルギーの供給地として脚光を浴びることになったわけである。

これらのアラビア地域はやがて「中東」と呼ばれるようになった。ヨーロッパから見て「近東」より遠いが、インド、中国そして日本など「極東」などと区別するために、その中間の東の国々という意味で「中東」と名付けられたのであろう。いずれにしても、19世紀以来のヨーロッパ中心の考えを反映した命名に違いない。

この近東と中東を合わせて、中近東とよばれることもある。第二次大戦後も、ある時期までは「中近東を行く」といった紀行文やテレビ番組があった。しかし最近ではこの言葉はあまり聞かれなくなった、と思われるが、どうであろうか。

<物語の概要>

次に「カール・マイ冒険物語」の概要について、簡単に紹介していこう。キリスト教徒であるドイツ人のカラ・ベン・ネムジはイスラム教徒のアラビア人召使ハジ・ハレフ・オマール(ハジはメッカ巡礼者に与えられる肩書)を従えて、広大なオスマン帝国の領域内を、馬にまたがって移動していく。そして行く先々で、冒険の数々が展開される。その行路は、先に示した地図をご覧になればお分かりいただけよう。

ドイツ人の主人公カラ・ベン・ネムジは、武力にも知力にも優れ、母語であるドイツ語のほかに、英語、フランス語などのヨーロッパの言語はもとより、現地の言葉であるアラビア語、トルコ語、ペルシア語から、クルド語までできるスーパーマンである。職業は一応「物書き」で、旅する地域の文化や風土を探求するために、その語学力を駆使して、現地の人々と積極的に交わっていく。単なる冒険家というのではなく、「異文化理解」をモットーとした文化人類学者の側面も発揮したりしている。

ただマイは流行作家であったため、自分の足で現地を訪ねて物語を書く時間的余裕はなかった。19世紀後半にあって、売れっ子の作家が遠い「オスマン帝国」の地を探訪することはできなかった。そのため自分の書斎に集めた膨大な書籍や百科事典、あるいは各種の精密な地図や探検家、学者の調査報告書などを基にして、書いている。その点、司馬遼太郎のやり方に、似ているといえる。また司馬と同様、ドイツではマイは「国民的作家」呼ばれているのだ。

さて主人公はオスマン帝国の各地を移動する際に、召使と二人だけの孤独な一匹オオカミというわけではなかった。実はうまく立ち回って、「オスマン帝国」の皇帝(スルタン)から、特別なビザが与えられている。水戸黄門ではないが、現地の悪党などとやりあうときには、そのスルタンのビザが「葵の御紋」として、ものをいうのだ。

<物語の発端>

まず北アフリカのアルジェを出発した主人公と召使は、チュニジアの塩砂漠での冒険の後、サハラ砂漠の北のはずれを通って、ナイル河に到達する。そこでは地元の有力者のハーレムにとらわれていた美女を救い出す。次いで紅海を船で渡って、対岸のアラビア半島にある港町ジッダに上陸する。そして主人公は、ヨーロッパ人にとっては禁断の、イスラム教の聖地メッカに入る。そこの中心施設カーバ神殿を見た後、異教徒であることが発覚し追跡されたが、ほうほうの体で逃げ延びる。

その後、舞台はメソポタミアのティグリス河へと移る。そこではアラビア人の部族争いで、一方の陣営の参謀に収まって、勝利に導く。そんなことができるのも、アラビア語が達者で、現地事情にも通じているからだ。「アラビアのロレンス」を思わせるものがある。主人公は さらにティグリス河をさかのぼって、上流の大都会モスルのトルコ人代官の屋敷に入り込む。このモスルは数年前、凶悪なイスラム過激派「イスラム国」によって、一時占領され、壊滅的な破壊を受けた所だ。その後アメリカ軍などによってイスラム国は滅ぼされたが、瓦礫となった町並みは依然として、無残な姿を見せている。

このモスルから主人公と召使は、クルディスタンの山岳地帯へと、分け入っていく。そこにはイェジディと呼ばれる少数民族が住んでいた。彼らはキリスト教の一宗派の信仰を守っていたので、同じくキリスト教徒の主人公カラ・ベン・ネムジは、大いに親近感を抱く。しかしかれらはその特異な宗教儀式を実践していたため、周囲のイスラム教徒から、「悪魔崇拝者」と呼ばれ、迫害されていた。思えばそうした迫害は現代でも行われたのだ。例の「イスラム国」はシリア、イラクにまたがる地域を一時支配したが、その時イェジディ(ヤジディ)の女性たちは「イスラム国」の兵士によってレイプされたり、残酷な被害を受けたりした。これはまだわずか数年前のことで、国際的な非難を浴びたものだ。

さて主人公が分け入った山岳地帯はクルディスタンと呼ばれているが、そこには主流の民族として、イスラム教徒のクルド人が住んでいた。この民族は現在なおトルコ、イラク、シリアそしてイランの広大な地域に、散在して居住しているのだ。その人口はざっと三千万人といわれる。そのため「国家を持たない最大の少数民族」として、話題になっている。

さらにその山岳地帯には、ネストリウス派のキリスト教徒も住んでいた。この一派は遠く中国でも布教を行ったが、そこでは景教と呼ばれている。このあたりの山岳地帯は、まさに民族と宗教のるつぼであった。そしてイスラム教徒のクルド人とキリスト教ネストリウス派の人々は、互いに抗争を繰り広げていた。そこでも主人公はその抗争に介入して、両者の代表と知り合って、和解と融和に努めている。

また物語の地の文章で、主人公は、当時この地域に入り込んでキリスト教の布教活動をしていたアメリカ人牧師のことを批判している。つまりその牧師は複雑な地域事情や宗教事情を知らないため、その布教に成功していないのだとしているわけだ。これは150年前の19世紀半ばのことだが、20,21世紀のアメリカは、「世界の警察官」を自任して、各地にアメリカ流の自由と民主主義を根付かせようとして失敗を繰り返してきているわけだ。今回のアフガニスタンからの軍事撤退も、しかりだと私は思っている。

<タリバンとイスラム法>

ところで現在アフガニスタンで国の統治を始めようとしているタリバンは、女性の権利について、「イスラム法の範囲内で尊重する」と主張している。そのイスラム法(シャリーア)については、物語の主人公はこう述べている。「自分が関与した裁判で、裁判官はシャリーアを、都合よく恣意的に使っているのだ」と。

この法律について、イスラム学者の松山洋平氏は最近の新聞のインタビュー記事で、次のように述べている(朝日新聞、21.8.27朝刊)

「人間の行為に関するイスラム教の決まり事のことだ。刑法や商法などにあたる規定のほか、礼拝の方法や巡礼の手順、衣服や排せつの決まり事といった日常の問題も扱われる。イスラム教初期の7世紀から存在する」。また同氏は「古典的な解釈において、男女の不平等や、(むち打ちなどの)身体刑が存在することが、国際的に問題視されている」とも述べている。

<クルディスタンからイスタンブールへ>

再び物語に戻ることにしよう。主人公と召使はクルディスタンを離れ、東側のペルシア(現在のイラン)との国境に連なっているザグロス山脈に沿って南下していく。その途中、偶然シーア派イスラム教徒のペルシア人亡命貴族と知り合う。この人物は、メソポタミア地域にあるシーア派の聖地(ナジャフ)へ向かう途中だったのだ。主人公はこの亡命貴族と意気投合して、バグダードまで同行する。

この辺りは、歴史的経緯からイスラム教のスンニ派とシーア派の両派が混在している地域で、現在はイラクである。独裁者サダム・フセインは政治的思惑からスンニ派を優遇していた。しかし2000年代初めのイラク戦争で、アメリカ軍によって殺された。その後できたイラク政権は、シーア派の隣国イランと関係が近く、シーア派優遇策をとるようになった。ただ一時は「イスラム国」の支配を受けたりして、このテロリスト集団の国が撲滅された後も、イラクの地はなお混乱を極めている。

このように現代においては、この地方はまったく精彩を欠いているが、古代にはシュメール文明やその後のバビロニア文明などが栄えていたのだ。そのため物語の中で、主人公は聖書に登場する「バベルの塔」があった古代バビロンの廃墟に立ち寄った。そしてはるかな古代に思いをはせた。しかしそれに先立ちシーア派教徒の巡礼の葬列を、好奇心から見物に行った主人公と召使は、この廃墟でペストを発症して瀕死の憂き目にあった。死者を運ぶ葬列からは、死臭が立ち込め、非衛生極まりないものと、描かれている。幸いユーフラテス河の支流の静かな場所で、ゆっくり静養して、やがて二人は元気を回復した。ただコロナ禍の現在、物語のこの部分を読み返すと、身につまされるものがある。

その後シリアの古都ダマスカスへ向かった主人公と召使は、途中で知り合った宝石商の屋敷に招かれる。それに先立って、次のような街並みの描写がつづいている。

「背後にはアンティレバノン山脈の絵のような山並みが天に向かってそそり立ち、前方にはイスラム教徒が誇りにしている天国のようなダマスカス平野が広がっている。その平野には果実をつけた樹々が茂り、花が咲き乱れ、その間を縫うようにして大小八本の川が流れている。そしてこの広々とした緑の園の背後には、荒野を旅して疲れ果てた巡礼者たちにとって、まるで蜃気楼のように、ダマスカスの街並みが浮かび上がってくるのだ。」
(第6巻「バグダードからイスタンブールへ」第3章ダマスカスにて。57頁)

実にロマンに満ち溢れた街並みの描写だが、これが19世紀半ばのシリアの古都の本当の姿かどうかはわからない。たぶん美化しすぎていることはないのであろう。しかし私が思うのは、2011年の「アラブの春」によって始まったシリアの内戦のことである。独裁的なアサド大統領の政権を倒そうとした反体制派は欧米の支援を受けて、はじめは優勢で一時はアサド大統領は追い詰められ、倒される寸前までいった。しかしシリアに基地をもつロシア軍の強力な軍事支援によって徐々に盛り返した。とはいえトルコなどの支えで、反体制派もすぐには容易に絶滅するまでには至っていない。いっぽう長引く戦火によって発生した数多くのシリア難民は、周辺の国々から果ては遠いヨーロッパにまで逃れ、その受け入れを巡ってEUの国々に大きな問題が生じたわけである。

ここでも小国の紛争にいくつかの大国が介入することによって、問題がこじれ、国土が荒廃し、普通の人々の犠牲が大きくなったのだ。シリア内戦の場合は、単純にイスラム教勢力とキリスト教勢力の戦いではなくて、もっと複雑に絡み合っているわけだ。

カール・マイが描く19世紀のダマスカスの美しい町並みは、今はもはや残っていないのだろうか。一度専門家の話を聞いてみたいものだ。あるいは古都ダマスカスをいつか訪れてみたいという私の夢は、幻想にすぎないのだろうか。

それはともかく、主人公と召使は、その後ダマスカスの宝石商とともに、宝石泥棒を追跡して、古代ローマのバールベク遺跡にたどり着く。そこでの活劇の後、再び逃亡した泥棒の後を追って、一行は地中海沿岸のベイルートから船に乗って、イスタンブールへ向かう。そして盗賊団追跡の過程で、当時「魔都」と呼ばれた大都会の暗黒面がさまざまに描かれ、その中での冒険活劇が犯罪小説的な色合いを帯びてくるのだ。

ここまでが長い長い物語の前半である。後半には主人公のカラ・ベン・ネムジと召使いのハジ・ハレフ・オマールは、悪党団の親分を追跡して、バルカン半島の南部を東から西へと移動していく。そしてその親分を打ちとった後、最後にアドリア海に到達して、物語は終局を迎える。

まだまだ書きたいことは山ほどあるが、きりがないので、今回の随想はこの辺で終わりにしたい。

 

 

 

 

16~17世紀の出版業の諸相

その05 カトリック・ルネッサンス(対抗宗教改革)時代の出版業

<対抗宗教改革の動き>

16世紀の半ば頃、ヨーロッパのカトリック勢力は様々な側面で、プロテスタント勢力との対決姿勢を鮮明にして、対抗宗教改革の動きを活発化していた。カトリック国のスペインに、イエズス会が生まれ、世界中にその影響力を伸ばし始めていくのも、このころのことであった。

そのためにヨーロッパの各地で、カトリックとプロテスタントの抗争は激しさを増して、ついには宗教戦争に突入する地域も見られた。当時ヨーロッパを支配していた大勢力であったハプスブルク家のスペイン国王やオーストリア皇帝そしてフランス国王は、ともにカトリックの強力な支持者であったため、ヴァチカンの教皇と結託して、プロテスタント教徒を弾圧するのにあたって、あの手この手を用いていた。彼らはプロテスタント思想の普及を妨げるために、プロテスタント系の出版物に対する検閲を厳しくしたり、規制を強化したりしていた。

<教会及び国家による検閲と規制の強化>

教会と国家というヨーロッパ中世を支配していた二大勢力は、活字版印刷術の普及によって、危険で好ましくない思想が急速に広まることをいち早く察知した。そしてこれに対して、検閲という手段をもって対抗したのであった。

たとえば1479年に時の教皇は、ケルン大学に、異端書籍の印刷者、購入者、読者を起訴する権限を与えた。ついで1485年には、マインツ大司教が書籍の検閲に関する布告を発している。さらに1487年の教皇教書は、「カトリックの教えに反し、神に逆らうような」書物は、すべて焼き払うようにと書いていた。次いで1517年に宗教改革の火ぶたを切ったマルティン・ルターに対して、教皇は皇帝と力を合わせて弾圧に乗り出し、ルターの全ての著作の発行停止という措置にでた。

ルターの著書を燃やしているところ(16世紀の木版画)

しかしこうした検閲や規制の強化措置は、あまり効果を上げることができなかった。ルターによって書かれた小冊子やパンフレットが、広く人々の間に浸透していったことについては、すでに述べたとおりである。当時ドイツでは、おおざっぱに言って、国の半分の地域にルターの教えを支持する勢力が広がっていたからである。

それでも1547年に、プロテスタント側のシュマルカルデン同盟との戦争に、皇帝カール五世が大勝利を収めると、皇帝からの規制は再び強まった。その翌年「帝国警察規則」が布告され、印刷に対する完全な管理権を皇帝が握ることが明らかにされた。その後もこうした布告や規則は、繰り返し出されたが、期待したほどの効果は上げられなかったようである。

<帝国書籍委員会の専横>

この委員会は1524年に書籍検閲の控訴法廷として、皇帝のおひざ元のヴィーンの宮廷内に設置された。しかし初期のころはこの委員会は、さしたる活動をしていない。ところが1555年にそれがイエズス会に委任されてからは、うるさい存在となったのである。このイエズス会というのは、1534年にイグナチウス・ロヨラらによって創立された組織であったが、その後ローマ教皇によって認可され、対抗宗教改革で大きな役割を果たした戦闘的な集団であった。

たとえば1567年、皇帝に対する誹謗文書が出た時、イエズス会の差し金で、皇帝は印刷者に対して厳罰を下すよう、フランクフルト市参事会に命令した。その結果この不幸な男は鎖につながれて、ヴィーンに護送されたのである。同委員会はさらにその2年後には、市参事会に対して、市を訪れるすべての書籍商への出版許可の有無を検査し、かつ過去5年間に出版された書物を調査するよう命令した。そして書籍一点につき一冊を献本として提出するよう命じた。そしてこの調査がきっかけとなって、1579年には帝国書籍委員会は、フランクフルトに移ったのである。

この後イエズス会は同委員会を牛耳ることによって、これを対抗宗教改革運動の一部に組み込んだのである。その委員はフランクフルトの書店を訪ねては、下劣で扇動的な文書の流布を抑えた。そしてまた皇帝の出版許可を検査し、不法出版物を押収し、献本集めの監督を行った。そして先に述べた献本要求をエスカレートさせていった。

その献本は、三十年戦争中の1621年には3冊、1648年には4冊、そして1666年には、ついに6冊までになった。このような献本の要求はすべて書籍商の負担となっていた。とりわけ大型の高価な書物で何巻にもわたるような場合、6冊もの献本を無償で行うことは、書籍商にとってかなりの損失を意味していた。

フランクフルトの大市ないし書籍市は、たしかに皇帝の許可と保護によって発展してきた。そのためにこの町は帝国都市とも呼ばれてきた。しかし住民の宗派を見ると、プロテスタント2万人、カトリック5千人、ユダヤ人3千人という人口構成で、プロテスタントが優勢な都市であった。そのためにイエズス会側のこうした態度は、耐え難いものであった。

確かに献本要求に黙って応じた者もいたが、プロテスタントのザクセン地方の書籍商たちは、同地を支配していた選帝侯に苦情を申し入れた。しかし皇帝との和を乱したくない選帝侯からの支持は得られなかった。またヴェネツィアの書籍業者たちの反対の声を高かった。それにもかかわらず、皇帝はそうした声に耳を貸さず、書籍委員会の横暴ぶりは激しさを増すばかりであった。

こうした圧迫が17世紀の間に書籍業者たちの足を、フランクフルト書籍市から遠ざけさせる大きな原因となったのである。1625年以降は、フランス人がほとんど姿を現さなくなった。ヴェネツィアの書籍商も来なくなり、他の国からの書籍業者の訪問もなくなっていった。最後に残っていたオランダの書籍商たちも不当な献本要求に抗議したのち、1701年にはついにフランクフルト書籍市から撤退することになったのであった。

<出版業におけるカトリック・ルネッサンス>

いっぽう対抗宗教改革運動は、プロテスタント陣営を弾圧することにだけ情熱を燃やしていたわけではなかった。広く民衆の間に再びカトリック信仰をよみがえらせることにも力を入れていたのである。その手段としては、やはり出版業を通じて、カトリック・ルネッサンスを実現しようとしていたのである。

イエズス会はヨーロッパ中に多数のコレージュを開き、その近くに印刷工場の開設を促した。またヨーロッパのカトリック圏全域に、多くの修道院が出現して、書物集めに力を注ぐようになった。さらに民衆のカトリック信仰が復活し、それに伴って宗教文学というジャンルが生まれた。そしてこうしたことが相まって、宗教書の出版が発展を示すようになった。こうした変化は、カトリック・ルネッサンス運動の影響が表れ始めた1570年ごろから起こった。典礼書のテクストを統一し、それらをローマの慣習に合わせるために、改訂することがトリエント公会議で決定された。

これによってカトリック系の出版業の復興が促進された。そしてカトリック教会またはカトリック諸侯の支援を受けていた大出版業者は、これらの書物の独占出版権を手に入れて、事業を著しく発展させたのであった。その典型がプランタン・モレトゥス家であった。それについてはこの後、詳しく述べることにする。

当時のヨーロッパのカトリック圏の大中心地といえば、ことごとく宗教ルネサンスの中心地であった。すなわちドイツでの印刷業は南部諸都市と西部のケルンで、活況を取り戻した。またフランドル地方でも、スペインに再度征服されてから対抗宗教改革の砦となったアントウェルペンでは、プランタンの義理の息子モレトゥスが、おおいに商売を発展させた。つまりトリエント公会議の決定に従って改訂された教会用の書物を、彼は長期にわたって大量に出版して、それらを全ヨーロッパとアメリカに流布させていたのである。

フランスでは教会とイエズス会の庇護を受けて、クラモワジーとその共同事業者がパリの出版業界を牛耳っていた。そしてリヨンの出版業界も、やはりイエズス会のおかげで、1620年から幾分勢いを取り戻した。ヴェネツィアも同様で、またパオロ・マヌツィオが教皇庁の側で開業していたローマでも、カトリック関係の書物の印刷が中心になっていった。

<アントウェルペンの大出版業者クリストファー・プランタン(1520-89)>

カトリック・ルネッサンスの時代に、時代の流れを巧みに利用して、アントウェルペンで大出版業者として大々的な商売を展開したのが、クリストファー・プランタンとその義理の息子やヤン・モレトゥスであった。

アントウェルペンはフランドル地方(現在のベルギー)の商業都市として、15世紀後半から急速に発展していた。そして書籍・出版業も栄えていた。この町へフランス人のクリストファー・プランタンが移り住んだのは、1548年か49年のことであった。

クリストファー・プランタンの肖像画(1572年)

1550年にアントウェルペンの市民権を得たプランタンは、しばらくの間製本と皮細工を商売としていたが、その商売は大いに成功した。その後1555年に「愛の家」という宗派から資金援助を受けて、印刷業と出版業を開業した。そして2年後には、金のコンパスに「労働と不変」という言葉を添えた、有名な印刷者標章を定めた。以後それは同社のシンボル・マークとなった。

印刷者標章として採用されたシンボル・マーク(1557年)

印刷・出版業者として初めは苦労したプランタンであったが、1559年にカール五世の葬儀に関連して出版した立派な書物によって、その名声を確立した。ところが1562年に異端の書物が、彼の印刷所から発見されたことから、一時彼はパリに身を隠した。しかしその潔白が証明され、翌年にはアントウェルペンへ戻ることができた。

帰国後数年間は4人の共同経営者とともに、印刷・出版業を営んだ。この4人の協力関係は5年間続き、その間に実に260点もの作品が刊行されたのであった。これは年間およそ50点ということになるが、当時として驚異的な多さといえた。内容的には、それらは古典作品のポケット版、ヘブライ語聖書、祈祷書、豊富な図解入りの解剖学書などであった。

プランタン社のヘブライ語聖書(1566年)

<五か国語聖書の編纂及び刊行>

その後1567年には、共同経営を解散して、プランタンは再び一人で印刷・出版業を経営することになった。このころ彼は科学的で信頼できる大規模な聖書の編纂と出版を企画した。そのための資金は、当時フランドル地方を支配していたスペイン国王フェリペ二世からから得られることになった。この国王はカトリック信仰がとても厚く、この事業に強い関心を示した。そして偉大な古典研究家アリアス・モンタヌスを、その編集顧問としてプランタン社に送った。こうして詳細な付録が付いた五か国語による聖書が、1568年ら73年にかけて、全八巻で刊行された。

プランタン社の最高傑作、五か国語聖書(1568~73年)

この五か国語というのは、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、シリア語そしてカルデア語またはアラミア語であった。そして付録というのは、ヘブライ語、カルデア語、シリア語、ギリシア語の文法、語彙、それから古いヘブライの慣習を記したものであった。この五か国語聖書の出版こそ、後世にまで残るプランタン社の最高の業績であった。ともかくフェリペ二世からの信頼が厚く、1570年には「王室御用印刷者」という称号が与えられたのである。

さらにプランタンはスペイン国王から、スペイン及びその植民地において、祈祷書、ミサ典書、時祷書などを独占的に販売する権利を得た。そしてこれによって同社の富の基礎は築かれたのであった。プランタン社は、フェリペ二世のために、何千何万というミサ典書、日課祈祷書、日課書、交唱聖歌集などを出版し、国王はそれらをスペイン国内や海外の植民地へ向けて販売させていたのだ。

<黄金時代のプランタン社(1568-76)>

この時期プランタン社の印刷・出版事業は頂点に達していた。1574年には全部で16台もの印刷機が稼働し、そこでは70人ほどが働いていた。フランスのエティエンヌ家でさえ印刷機は4台だったことを考えると、プランタン社の規模の大きさが分かろうというものである。

プランタン社の出版物は、宗教書だけではなかった。彼はその時代のもっともすぐれた科学研究書の刊行にも力を入れた。その中にはドトネウス、クルシウス、ロベリウスによる植物学の本も含まれていた。さらに彼は自ら編纂した初めてのオランダ語の辞書も出版した。

ロベリウスによる植物学の本(1581年)

しかしオランダの独立運動に関連して、オランダの南部にあっフランドル地方も、やがて戦乱の影響を被ることになった。1567年アントウェルペンにスペイン軍がやってきた。プランタン社は略奪は免れたものの、その出版活動に悪い影響が出て、生産量はかなり落ちた。1577年には印刷機は、5台が働いていただけだった。その後この数は増えたが、二度と10台をこえることはなかった。

こうして出版物の量は最盛期に比べて落ちはしたが、その質は保たれていた。戦時にもかかわらず、極めて重要な作品が、依然としてプランタン社の印刷機から生まれていた。それらはアブラハム・オルテリウスの地図、ラ・ヘレのミサを含む楽譜、ギッチャルディンによるオランダの歴史及び地理の研究書、人文主義者ユストゥス・リプシウスの著作などである。

ラ・ヘレのミサを含む楽譜

<その後のプランタン>

スペインの侵略後、アントウェルペンは決定的に反逆者の立場をとらざるを得なくなった。そのためにプランタンも困難な状況に陥ることになった。かつての「王室御用印刷所」は、反逆勢力の指導者たちの訪問を受け、反スペイン側の文書を印刷していた。その一方スペイン側の公式文書も印刷していた。また宗教改革者ヘンドリク・ヤンセン・バーレフェルトとの友情も、このころから続いていた。この人物は、アントウェルペンに残って、その著作をプランタン社から匿名で出していたのだ。

その後も戦火は衰えず、プランタン社はアントウエルペンにとどまっているのが、困難になった。そんな時ライデン在住の人文主義者リプシウスからの誘いがあって、1583年にその地に新設された大学の印刷社として赴任することになった。自らは依然としてカトリック信者にとどまっていたが、カルヴァン派の人々からも、丁重に扱われた。

ライデンで印刷された最初の近代的海図帳の表紙(1585年)

ところがプランタンはライデンでは居心地の悪さを感じて、1585年8月、永久にオランダを捨てるつもりで、伝統的なカトリックの町であるドイツのケルンに移った。しかしちょうどその頃アントウェルペンがスペイン軍から解放されたことを知って、急遽彼はこの第二の故郷に戻った。そして1589年に亡くなるまで、そこで印刷・出版業を続けたのであった。

その34年間にわたる活動期間にクリストファー・プランタンは、実に2450点もの出版物(そのうち書籍は1850点)を刊行した。プランタンはカトリック・ルネッサンス(対抗宗教改革)時代の最も重要で、最大規模の印刷・出版業者だったのである。

<プランタンの後継者ヤン・モレトゥス(1543-1610)>

プランタンは5人の娘を遺したが、そのうちの3人は彼の助手ないし協力者と結婚した。長女のマーガレットは、東洋語の専門家ラフェレンジウスと結婚したが、この人物は1585年にライデンのプランタン印刷所を引き継いだ。

そして次女のマルティーヌは、ヤン・モレトゥスと1570年に結婚した。彼は才能ある男で、1557年に14歳でプランタン印刷所に勤め始めていた。そしてその才能を見込まれたモレトゥスは、プランタンの右腕として働いたが、とりわけ事業経営の面で第一人者となった。

プランタンは遺言で、アントウェルペンの家と印刷所(オフィチナ・プランタニア)を、モレトゥスに残した。そして以後モレトゥス家の子孫が代々、プランタン・モレトゥス印刷所を引き継いでゆくことになったのである。

その初代のヤン・モレトゥスは、前任者に劣らない熱意とエネルギーで、印刷・出版事業を推進していった。彼はカトリック・ルネッサンスの出版者として、もっぱら祈祷書や宗教書を刊行していった。その反面、当時オランダ南部に台頭してきた人文主義の印刷・出版業者が、古典書や科学書を出版するようになったために、この方面からは撤退せざるを得なかった。

プランタンはまず本の内容に重きを置いたが、モレトゥスのほうはとりわけ書物の外観に注意を払った。そのために初代ヤン・モレトゥスのもとでは、プランタン印刷所は、その書物の外観の美しさと優雅さとで、国際的な名声を保ったのである。

ヤン・モレトゥスによって出版されたオランダ語聖書の表紙(1599年)

<モレトゥスの息子たちの活動とその後>

ヤン・モレトゥスは1610年に亡くなり、その二人の息子バルタザール一世(1574-1641年)とヤン二世(1576-1618)がその後を継いだ。しかし実質的には長男のバルタザール一世が主導権を握っていた。彼は非常に豊富な知識と知性を持っていて、すべての点でモレトゥス家の中で最も優れた人物であった。彼はその時代の主な芸術家や学者と交際があった。こうした環境の中で、プランタン・モレトゥス出版社は、再び文化の中心地になった。なかでも彼は画家のピーター・ルーベンスの親友であった。バルタザールはこの友人に、自分の印刷所で出版するものの押し絵や口絵のデザインを依頼した。巨匠ルーベンスはこの方面でもすぐれた作品を残しており、それがまたプランタン・モレトゥス出版社の評判を高めたのであった。バルタザール一世は独身のまま1641年に他界した。

その後を継いだのは、弟の息子バルタザール二世(1615-74年)であった。彼は依然として独占的な宗教書の出版に力を注ぎ、それによって一家の富の増大を図った。しかし彼の死後、同印刷所は不振となった。それでもその後継者は昔から与えられていた特権を利用して、スペイン及びその植民地向けにミサ典書や祈祷書の再発行を続けた。しかしこの特権も18世紀の半ばに消滅し、以後出版量は激減した。

バルタザール二世の息子バルタザール三世(1646-96年)は、1692年に貴族に列せられたが、モレトゥス家の人々にとって、印刷所はもはや生計のもとではなくなっていた。すでに十分金持ちになっていた彼らは、その資金を土地などに投資して、ますます増やしていた。18世紀後半からは、モレトゥス家は先祖を敬う意味で印刷所を保持していたにすぎない。

1867年、同印刷所はアントウェルペン市が買い取って、それ以後その建物は「プランタン・モレトゥス印刷博物館」となった。この博物館には、立派な印刷機をはじめとする印刷関係の器具類、活字箱にいっぱい詰まった各種の活字、その他印刷関連の資料などが、実に豊富に保管されていて、今なお一般に公開されているのだ。

この「プランタン・モレトゥス印刷博物館」を、私は2005年の夏に訪れた。これまで何度も繰り返し述べてきたアントウェルペン市は、日本ではこれまで普通、英語風にアントワープと呼ばれている。しかし私が所持している世界地図帳(昭文社、2002年)の74頁には、ベルギーの首都ブリュッセルの北部にある大都会として、はっきりアントウェルペンと記されている。そして赤字で大きくそのわきに「プランタン・モレトゥス印刷博物館」とも記されている。つまりこの博物館は現在、この都市を代表する存在になっているのだ。

「プランタン・モレトゥス印刷博物館」の内部。
印刷機と活字箱に詰まった活字

次回は「オランダ出版業の発展とその他の国の出版業の低迷」について、述べることにしたい。

16~17世紀の出版業の諸相

その04 フランクフルト書籍見本市の繁栄

<大市(おおいち)の伝統>

書籍市の町としてはリヨンよりやや遅れて発達したが、やがてこれを追いこしたのが、ドイツのフランクフルトであった。今日のドイツにおいて、フランクフルト(アム・マイン)は、ドイツの最大の金融都市としてドイツ連邦銀行の所在地になっている。そればかりではなく、EUヨーロッパ連合の金融機関である欧州中央銀行の所在地でもあるのだ。そして株に関心のある方にとっては、フランクフルト証券取引所の名前はよく知られていよう。

このフランクフルトは、実は中世の昔から商業都市として、重要な存在だったのだ。その証(あかし)が、これからご紹介するフランクフルトの大市(おおいち)なのだ。印刷術の発明よりはるか昔に、すでにフランクフルトでは、毎年春と秋に大市が開かれていた。そしてここへはドイツ全土はおろか、ヨーロッパ各地から商人たちが集まってきていたのだ。

交易のための制度としての市(いち)は、キリスト教の影響が強かった中世にあっては、教会行事と結びついて発生した。そして毎日あるいは毎週開かれていた普通の市とは別に、年に二回、大市が教会の大きな祭礼の時期を中心に開催されていたのだ。

大勢の群衆があつまる祭式や祈禱が終わった後に、社交と取引のための時間がやってきた。ちなみに大市ないし見本市を表すドイツ語のメッセという言葉は、キリスト教のミサからきているという。このメッセつまり見本市は、現代のドイツにおいても取引の手段として、様々な産業の分野に分かれて、各地で盛んにおこなわれている。その影響を受けて、今日の日本においても、このメッセという言葉は「幕張メッセ」といった具合に使われているのだ。

ところでフランクフルトの大市に対して、1240年皇帝フリードリヒ二世によって特権が与えられた。つまり大市に集まるすべての商人、旅行者、訪問者に対してドイツ帝国が特別の保護を与えたわけである。その後のフランクフルトの発展は目覚ましく、とりわけ15世紀半ば以降、ケルンに次いでライン川流域で最も重要な商業都市になった。

その理由としては、まず第一にフランクフルトが交通の要衝にあったことがあげられる。同市はライン川との合流点からほんのわずかさかのぼったマイン河畔に位置している。そのため東西南北あらゆる方面と結ばれていたのだ。西側へはライン川を下って、フランス、フランドル地方、オランダと、東へはボヘミア(現在のチェコ)やオーストリアと、南へはライン川をさかのぼってスイス、さらにアルプスを越えてイタリアと、そして北ドイツ方面とは、優れた郵便サービス網で結ばれていたのだ。

当時フランクフルトは、その市の規模の大きさのために、「ドイツ人の市場」とか、「ドイツの七不思議のひとつ」とか呼ばれていた。そこで取引されていた商品も多種多様で、まさに国際的な雰囲気をかもし出していた。ここでは英国とネーデルラントのラシャ商人が出会い、東洋産の香料や南ヨーロッパ産のワインやドイツ諸都市の加工品が売られていた。

さらにバルト海沿岸都市を中心としたハンザ同盟都市の魚類、馬、ホップ、金属、ボヘミアのガラス製品、シュタイアーマルク地方の鋼鉄、銀、錫、テューリンゲン地方の銅、ウルム地方の亜麻、アルザス地方のワイン、シュトラースブルクのラシャ、金銀細工品、イタリアのワインや油など。そしてヨーロッパ以外の産品の売買の取り決めも行われていた。

<書籍市の発達>

やがて活字版印刷術が発明されて、初期の印刷・出版業者は、自分たちの製品である書物を売るために、フランクフルトにやってきた。また先に述べたように、マインツからはフストやシェッファーが訪れたし、1478年からはバーゼルのヴェンスラーやアマーバッハもしばしば訪れて、イタリアの書籍商と出会ったりしていた。

さらにニュルンベルクのコーベルガーは、1493年から1509年までこの町を訪れた。とりわけⅠ498-1500年にかけては、連続して春・秋6回の書籍市に参加している。1506年コーベルガーが泊まっていた宿屋の主人は、書物を並べたり保管できるようにと、彼のために常設の店を建てた。こうしてコーベルガーはフランクフルトに居ながらにして、バーゼルの書籍商たちと盛んに取引を行ったのであった。

このようにフランクフルトは書籍商の町として急速に発達したのだが、この町での印刷・出版業の始まりは、かなり遅かった。旅回りの活字製作者兼印刷者であったクリスティアン・エーゲノルフがこの町にやってきて、市参事会の支援を受けて、印刷所を開いた1530年が始まりであった。しかし、それ以後フランクフルトの印刷・出版業は順調に発達していったのである。

<ヨーロッパの書籍センター>

ドイツの二大出版都市フランクフルトとライプツィッヒを中心にした地域
(16~18世紀)

やがてフランクフルト書籍市に足を運ぶ書籍商たちの数は、年を追って増大していった。マールブルク、ライプツィッヒ、ヴィッテンベルク、テュービンゲン、ハイデルベルクなどのドイツの都市ばかりではなくて、近隣のヨーロッパ諸国からも書籍関係者が姿を見せるようになった。イタリア、スイス、オーストリア、フランス、イギリス、オランダ、フランドル、ハンガリーなどの諸国からである。

とりわけ大書籍業者アルドゥス・マヌティウスがいたヴェネツィアとの間には、いつも活発な取引があった。記録に現れるヴェネツィアとの最初の取引は1498年のことで、フランクフルトの教会参事会員ヨーハン・ローバッハは、その日記につぎのように書いている。
「1498年の秋市において、教皇の認可のもとに出版されたるゴットフリート著『製錬に関する監督実習』を、2フロ-リンにて購入。ヴェネツィアにて印刷されしマインツ市便覧一巻を、製本せしむ』

フランクフルト書籍市で扱われていたものは、なおラテン語の書物が中心だった。当時のラテン語はヨーロッパ諸国の学者・聖職者の共通語であったから、ラテン語の書物はそのまま各国に持ち帰られて、翻訳することなしにそのまま読まれたのである。

ヨーロッパの書籍センターとしてのフランクフルトの役割は、16世紀も半ばになると、ますます鮮明になっていった。1540年からはパリのジャック・デュ・ピュイ一世が、そして間もなくロベール・エティエンヌも毎回訪れるようになった。そして1557年の秋市には、書籍商がリヨンから2名、パリから4名、ジュネーヴから2名、アントウェルペンから5名、そのほかユトレヒト、アムステルダム、ルーヴァンからもやってきた。

1569年の秋市には、地元のフランクフルトから17名、ヴェネツィアから3名、リヨンから4名、ジュネーヴから5名といった具合に、合計87名の書籍商が集まってきている。彼らは当然のことながら、出かけてこられなかった同僚の要件も携えてきていた。現代の目から見ると、これらの数字はわずかなものに思われようが、当時の交通事情は、前にも述べたように、今日とは比較にならないぐらい悪かったことを考慮する必要がある。またこうした外国からの商売人にとって、フランス語やラテン語を知っている地元の人は大変重宝がられた。訪問者の多くはドイツ語を話せなかったからである。

フランクフルト書籍市には、書籍商だけではなくて、書籍に関係したあらゆる業種の人々が大勢やってきた。校正係、活字鋳造人、活字父型彫刻師、組み版工、木版工、製本工などであった。そのためそこに集まった同業者は、必要な場合には、かれらから印刷用資材を直接買うこともできた。さらに様々な国や地域から、多くの学者たちもやってきて、出版者にあったり、最新の書物を手に入れたりしていた。

つまりフランクフルト書籍市はこのころ、ヨーロッパの知的生活の一大中心地となっていたのだ。フランスからの有力な書籍商アンリ・エティエンヌは、1574年にこの書籍市を訪れたが、その後フランクフルト市の市長及び参事会にあてて、賛辞の言葉を送っている。彼はその中で、
「空に輝く綺羅星のごとく、そこにはきわめて多くの品物であふれています」と述べているのだ。そして「皆さんは、フランクフルトと呼ばれているドイツの都市にいるのではなくて、かつて全ギリシアで最も栄えた都、文芸活動の最も華やかであった都、つまりアテネにいるのだと思われることでしょう」と付け加えている。

フランクフルト書籍市はこうして16世紀後半から17世紀前半にかけて、ドイツ語の印刷物の普及の一大中心地であるのと同時に、ラテン語書籍の国際市場となっていたのである。この時期は、日本で言えば、戦国末期から江戸時代の初期に相当する時代であった。いっぽう目を現代に向けると、第二次大戦後の西ドイツで復活したフランクフルトの書籍市が、「フランクフルト国際書籍見本市」と呼ばれているように、当時の西ヨーロッパ世界での国際市場だったのだ。

あとで詳しく紹介するアントウェルペンの大出版業者クリストファー・プランタンは、そこで大規模な取引を行い、店舗も構えていた。そして書籍市が開かれるたびに、自ら出向くか、娘婿のヨハネス・モレトゥスをそこに差し向けていた。またイギリスの書籍商たちも姿を見せていた。彼らはそこで、自国で転売するために、大陸で印刷された書物を仕入れていたのだ。1617年には、書籍商ジョン・ビルがロンドンで、フランクフルト書籍市の書籍目録を定期的に復刻する事業を開始さえした。

<フランクフルトの本屋街>

フランクフルトの本屋街の近く。マイン川岸に横付けされた船から、
印刷した紙や製本された本を詰めた樽を積み下ろしているところ

ここでフランクフルトの神保町ともいうべき「本屋通り」をのぞいてみよう。この通りとそれに続く近辺、つまりマイン川とレオナルド教会の間の一帯が、書籍取引の中心地であった。ここに書籍商たちは仮小屋や、ときには常設の店舗を設け、その上に店主の名前を入れた看板を掲げていた。これらの仮小屋の中には、毎年賃貸しされるものもあれば、町の財産として公的に所有されているものもあった。

店の扉や窓には、新刊書を告げるポスターが貼られていたが、より組織的な商売は店や小屋の中で行われていた。また戸外の通りでは、呼び売り屋が新刊書のタイトルを大声で叫んで、通行人に売りつけようとしていた。また行商人が暦、版画、三文小説、新しい歌謡集そして時事問題を扱った小冊子などを売り歩いていた。

書籍商人たちは、春秋二回の書籍市の開催期間が、飛び切り忙しかった。まず第一に樽詰めで送られてきた未製本あるいは製本された本を樽の中から取り出さねばならなかった。それらは時にひどく傷んでいたり、しばしば落丁も見られた。これは発送の段階で、店員が倉庫で刷り紙を選んで一冊づつまとめる時に起こる手違いによるものである。

樽から取り出された本は書店の棚に並べられ、リストとつき合わされた。その際落丁があれば、不足ページを請求しなければならなかった。ついで書籍商は同業者が準備した新刊書のリストを急いで検討し、どの本を何部買うか決めた。そして製本されずに届けられた印刷紙の場合は、製本工に依頼して製本してもらわなければならなかった。

さらに旧刊本の交換を行ったり、返品を受けたり、また印刷中の近刊本の予告を準備したりした。そして出版者でもあった彼らは、最後に自分のところの書物を、よその出版者や一般の客に売らねばならなかったのである。

そのために書籍市で再会した出版者同士は、互いに最新の情報交換を行った。現在どんな本を印刷中なのかとか、これからどんな本を印刷する計画なのか、といったことを互いに話し合い、次回の書籍市のために注文したりしたわけである。

<書籍見本市の目録発行>

書物の目録そのものは、書写の時代から存在していた。しかし活字版印刷術が生まれて間もなくの1470年ころ、大出版業者の代理販売人は、提供できる書物の目録を、最初は手書きで、のちには印刷物として作成するようになった。そしてこれらの書籍目録は、フランクフルトの書籍見本市で、しばしば配布されていた。

しかしやがて書籍商たちは、書籍市に出展する書物の総目録を作成することが、商売上有益であることに気が付いた。そうした要請にこたえて、1564年アウクスブルクの書籍商ゲオルク・ヴィラーは、書籍市に出品される書物のリストを作り、フランクフルト書籍市目録として発行したのである。この書籍市目録は、1592年まで毎年、春市・秋市ごとに定期的に、四つ折り判で発行されていた。やがてヨハン・ザウアーも1567年から書籍市出品目録を発行するようになった。

さらにフランクフルト在住の出版業者ファイアーアーベントによっても、こうした書籍目録が作られ、さらに1590年にはペーター・シュミットが、フランクフルト書籍市に出品されるすべての書物の完全な目録を作成しようと試みた。しかしそれらはいずれも一書籍商の私的な企てであって、それぞれ貴重なものではあったが、完全無欠なものというわけではなかった。

実際、フラックフルト市当局が、1596ー97年の目録の中に、記載の間違いを発見したことがあった。そのために市当局はそれ以後私的に書籍市目録を作ることを禁止した。その代わりに翌年から市当局が自らの責任において、公式の書籍目録の発行を行うことになったのである。

フランクフルト書籍見本市の最初の公式書籍目録の表紙(1598年)。
ラテン語とドイツ語で書かれている。

こうして1598年に「総合書籍目録」となずけられたフランクフルト書籍見本市の秋市の最初の公式書籍目録が刊行されたわけである。そしてこれは書籍市が始まるときに、参加者に配布されたのである。

<フランクフルト書籍市での書籍取扱量の推移>

ここにフランクフルト書籍市で取り扱われていたドイツ語、ラテン語及びその他の外国語で書かれた書物の、1561年から1735年まで五年間の年平均発行点数の推移を示した統計表がある。これは書籍市目録にもとづくものであるが、当時発行されていた全ての書物を含むものではない。この書籍市に出品されなかった書物もあったからである。とはいえこの統計表からは、当時取り扱われていた書物の量のおおよその傾向を読み取ることはできる。

書物取り扱い量の推移
(出典:J.W.トンプソン著・箕輪成男訳『出版産業の起源と発達』出版同人
1974年。102-103頁)

この表からは、ラテン語の書物がピークを示すのが、1616-20年の時期であることが、まず読み取れる。この傾向は16世紀後半からこの時期までは着実に伸びを示していた。ところが次の1621-25年に入ると、減少に転じ、以後多少の伸縮はあるものの、ラテン語の書物はゆっくり衰退していくのが分かる。

17世紀の初めの20年間は、ドイツ語やその他の外国語の書物も増えている。総体としてドイツにおける書籍取引が頂点を示すのは、三十年戦争(1618-48年)直前のこの時期であったのだ。三十年戦争はドイツ社会の様々な面に、計り知れない損害をもたらしたが、ドイツの書籍産業もその被害をまともに受けたわけである。

三十年戦争中の1631年に出されたチラシ。
戦争による荒廃をなげいたもの

<フランクフルト書籍見本市の衰退>

この統計表によれば、フランクフルト書籍市での書籍取扱量は、とりわけ三十年戦争の後半の時期(1631-45年)に落ち込んでいる。戦争中の不安定期には、多くの書籍商がこの書籍市に来るのをやめていた。しかし戦争が終わってフランクフルト書籍市は、いくぶん活気を取り戻した。

とはいえフランクフルトとの取引を再開しようとしない書籍商も少なくなく、とりわけ外国人の書籍商は、めったに来なくなった。もはやここは書籍の国際市場ではなくなり、そればかりか、やがてドイツ人出版業者たちにとっても、重要な出会いの場ではなくなっていくのである。書籍市に出品される書物も一年一年少なくなり、その目録も年を追って薄くなっていった。

とはいえ、そこでの書籍取扱量は、そのごも一進一退を続け、急激に減少したわけではなかった。しかし総体として、三十年戦争の後遺症は重く、戦争直前のピークに戻ることはなかった。そして17世紀の後半には、その地位を、同じドイツのライプツィッヒ書籍見本市に譲ることになったのである。とりわけ1690年代にはライプツィッヒはフランクフルトを大きく引き離し、それ以後さらに大きく発展していくのである。
ライプツィッヒの発展の模様については、のちにまた詳しく述べることにする。

 

16~17世紀の出版業の諸相 01

その01 印刷術とヨーロッパ各国語の形成

<中世から近世への移行と各国語の形成>

先に述べたように、活字版印刷術は宗教改革の発展に大きく貢献したのであるが、同様に印刷術は、西ヨーロッパ各国の国語の形成とその固定化に対しても、本質的な役割を果たしたのであった。

キリスト教が支配原理となっていたヨーロッパ中世の時代、千年の長きにわたって各地域の共通語としての役割を果たしていたのが、基本的に書きことばであったラテン語であった。ところが、まさに活字版印刷術が発明された15世紀半ばから、16世紀の初頭にかけて、大きな変化がみられることになったのだ。西ヨーロッパ諸国においては、それぞれの地域の民衆が話していた俗語が「書きことば」として表わされるようになったわけである。そしてそれが各国の共通語として役立てられたのであった。その際それらの書きことばは印刷物の形で人々に提供され、普及していったのである。つまり千年の長きにわたってヨーロッパの共通語としての役割を果たしてきたラテン語に代わって、この時期に、各地域の民衆が用いていた言葉がそれぞれの地域の共通語になっていったわけである。

イタリア語版『アイソポスの生涯と寓話』
(1485年、ナポリの印刷業者
トゥッポによって印刷)

こうした各国語形成の流れは16世紀の全期間を通じて続き、17世紀には西ヨーロッパ諸国の国語はほぼ結晶化されていた。それらはフランス語、ドイツ語、イタリア語、オランダ語、英語、スペイン語、ポルトガル語など今日においても用いられている言語であるが、それらの言語はそれぞれの地域に対応するようにして使われているわけである。ただしそれらの言語は、今日においては厳密にいえば「国語」とは呼ばないほうが良いと思う。というのは現在の日本人が普通に考えているようには、国家と言語は厳密に対応しているわけではないからである。たとえばスイスという国にはスイス語というものはなく、ドイツ語、フランス語、イタリア語そして少数のレト・ロマン語などが用いられている。またベルギーには、ベルギー語というものはなく、オランダ語系のフラマン語、フランス語系のワロン語、そしてドイツ語も使われているからだ。

ところでヨーロッパの中世から近世への移行を象徴するものとしては、ルネサンス、人文主義、宗教改革などがあるが、ヨーロッパ各国語の形成も、その一つの重要な要素だったといえよう。ただ各国語の形成を促したのは、もちろん活字版印刷術だけではなかった。それ以前からも、各地の宮廷書記局はさまざまな語法を一般化しようと努めていたわけで、多くの場合これらが文章語の語法になったといわれる。中央主権を推進する各国の王権が16世紀に出現して、それが強化される中で、この言語の統一も推し進められたのである。とりわけフランスやスペインの国王の政策は、この観点から見る時極めて明確であった。

それでも印刷術が果たした大きな役割には、なんら疑いはなかったといえる。先に述べたフランスのエティエンヌ一族のロベール一世やアンリ二世の著作や出版活動は、まさにフランス語の形成に大きく貢献したのであった。この二人に限らず、この時代の出版業者はこぞって、多くの領域でラテン語ではない自国の国語が発展していくように努力したわけである。

<ラテン語のゆっくりとした衰退>

16世紀はギリシア・ローマの古典古代文化が再生した時代であると同時に、中世に栄えたラテン語がその地歩を失い始めた時代でもあった。この傾向はとりわけ1530年ごろから明白となった。書籍商の顧客は、従来の聖職者や学者や高級官僚などの知識人のほかに、少しづつ俗界の人間によって占められてゆき、時にはそれが女性であったり、商人であったりした。

これらの人々の多くはもともとラテン語に縁がなかったので、宗教改革者たちは断固として近代の自国語を用いたのであった。また人文主義者たちも、広い範囲にわたって読者を獲得しようとして、自国語を援用することをいとわなかった。そのためにこの時代には、ヨーロッパ各国語で出版される書物の割合が増加していったのである。

たとえばフランドル地方(現在のベルギー)の新興都市アントウエルペン(アントワープ)は商人の町であっため、そこの出版業者の顧客のある部分は、金持ちになったばかりで、ほとんど教養のない市民によって構成されていた。そのためもあってか、1500-40年にかけてアントウエルペンで出版された書物のかなりの部分が、彼らが使っていた言語であるフラマン語で書かれていたのだ。つまりその間に出版された2254点の書物のうち787点がフラマン語(35%)で、そのほか148点が近隣のフランス語、88点が英語、そしてデンマーク語、スペイン語、イタリア語がそれぞれ20点ほどで、残りの半数あまりがラテン語であった。

これほど顕著ではないにしても、西ヨーロッパの多くの都市で、同様の報告がなされている。パリの場合は、16世紀の初頭と同じ世紀の四分の三が過ぎたころとでは、フランス語の書物とラテン語の書物との割合が大きく変化しているのだ。1501年には、刊行された総数88点のうちフランス語の書物はわずかに8点(約1割)に過ぎなかった。それが1549年になると、総数332点のうちフランス語の書物は70点(約2割)となり、1575年には総数445点のうち245点(半数以上)がフランス語の書物になっていた。この四分の一世紀の間に、ラテン語とフランス語の割合が逆転したわけである。たしかにこれらの数値の中には、宗教戦争の間にばらまかれた宣伝文書やチラシなど書物とは呼べない代物が含まれてはいる。しかしフランスでの宗教戦争が終わった後でも、パリでは相変わらず過半数の出版物がフランス語で出版され続けたのである。

近代の各国語の台頭の前に、ラテン語が後退していく様子はドイツでもうかがわれた。先に述べたようにルターによる宗教改革の影響で、それまで俗語であったドイツ語の書き言葉が発達した。この時代のルターによる聖書のドイツ語への翻訳などを通じて、文章語としてのドイツ語が形成されていったといわれる。その際ルターがとりわけ注意を払ったのは、語彙(ごい)であったという。彼は、翻訳にあたって最も適切な単語を探したが、多数ある同義語の中から、民衆が使用することの最も多い単語を選び出すという選択に意を用いたのであった。こうしてルターが編み出した言語は、あらゆる分野において、近代ドイツ語の形成へと向かっていったわけである。

<イギリス及びスペインにおける事情>

16世紀の初め、いわゆる大航海時代の幕開けの時代、イギリスとスペインの両国は、ヨーロッパにおいては、なお辺境国であった。もちろんこの世紀の間に両国は大きな発展を遂げたが、印刷・出版業に関しては、この世紀を通じてもなお、「補完的」な地位にあったのだ。

当時はまだ国際語(共通語)であったラテン語の書物については、イギリス、スペイン両国とも、フランスやドイツ、イタリアといったヨーロッパの中核国で出版されたものを輸入していた。それでもイギリスにおいては、ドイツと同様に、宗教改革運動が聖書の翻訳や宗教関連書の出版を促し、そこに使われた英語が、その後のイギリス文学や文化全般に大きな影響を及ぼしたのだ。その時聖書の翻訳を刊行したのは、ウィリアム・ティンダルであり、それに続いたのがマイルズ・カヴァーデールであった。

とはいえ、何よりも国語としての英語の尊厳をイギリス人に意識させた書物は、1549年に刊行された『通常祈祷書及び秘跡の授与』ならびにスターンホールド及びホプキンズが共同で翻訳した『詩篇全書』(1567年)であった。これらの書物の大きな特徴は、なによりも使われていた語彙が、わかりやすく簡明なことにあった。たとえばあのシェークスピアが使った語彙が全作品で2万1000語にも及んだのに対して、こちらのほうは6500語であった。シェークスピアが、その高度な文学作品の中で駆使した言葉の数々は、当時の一般民衆にとっては難解な代物であったに違いない。それに比べれば、こちらのほうはわかりやすく、多くの人々に受け入れられたわけである。

さらに英語散文の記念碑的作品と呼ばれている『欽定訳聖書』が、時の国王ジェームズ一世の命によって1611年に完成した。これはイギリスの近代散文の発展に大きな影響を及ぼしたといわれているものである。また16世紀には、イギリスへはフランスやスペインなどの大陸からたくさんの書物が流れ込み、それらの多くは英語に翻訳されていた。と同時にギリシア・ローマの古典作品も、どんどん翻訳されていた。そしてフランス語、スペイン語、ラテン語から成句類を借り入れて、英語は言語として豊かになっていったのである。しかしそれらの豊富な語彙は、日本人にとっては、英語学習の難しさに結びついていると、私は考えている。

いっぽうスペインでは、15世紀の末にアラゴン王国とカスティーリャ王国が合併して、スペイン王国が生まれている。それはコロンブスが新大陸の近くの島にたどり着いた1492年に先立つころのことであった。まさに大航海時代の幕開けのころであったが、ヨーロッパにおいては、そのスペイン王国はイスラム勢力を追い払った直後の時代で、まだ強国ではなかった。そしてまだ統一国家の実態ができていない頃であった。

その片割れのアラゴン王国についての記録が残っているので、次に紹介する。この王国では1501-10年に、ラテン語で25点、スペイン語で15点の書物が出版された。それに続く30年間には、ラテン語が115点、スペイン語が65点刊行された。そして次の1541-50年には、ラテン語が14点と減少し、逆にスペイン語の出版物が72点へと増えている。ここでもラテン語の衰退が如実にみられるのだ。

その02 この時代の書籍取引

<書籍の発行部数>

活字版印刷術が発明されてから2-30年間の草創期にあっては、まだ書物の市場が十分には組織化されていなかったために、一点あたりの発行部数もささやかなものであった。たとえば1469年、ヨハネス・シュパイヤーは、ヴェネツィアで、古代ローマの作家キケロの『親しき者への手紙』を、わずか100部しか刷っていない。また1471年にフィレンツェの修道院で出版された作品も、同じく100部であった。

さらに1471年にフェラーラで、200部印刷されたことが記録に残っている。そしてイタリアに印刷術をもたらしたドイツ人印刷工のスヴェインハイムとパナルツの二人は、一点あたり275部から300部を印刷していたが、それらの本の売れ行き不振を、時の教皇に訴えている。

ところが先にも述べた、ニュルンベルクを本拠地とした国際的な出版業者アントン・コーベルガーが大活躍を始めた1480年ごろから、書籍市場は組織化され始め、それに伴い書物の価格が低下し、平均発行部数も急速に伸びるようになった。

書誌学者ヘーブラーによると、このころから平均発行部数が400部から500部になったという。さらにコーベルガーのような幾人かの大出版業者の場合は、このころすでに発行部数1500点を達成していたという。しかしその後は長い間、発行部数はこの程度で固定化していたようだ。ちなみに人文主義者エラスムスが著わした『痴愚神礼賛』の初版(1515年)の発行部数は1800部であった。

宗教改革者ルターのドイツ語訳聖書の初版発行部数が4000部だったのは、まさに例外といえた。16-17世紀を通じて、2000部を超えた書籍といえば、はじめから固定客が見込めた宗教書か教科書に限られていたようだ。

<書物の輸送と販路>

当時の印刷・出版業者は、自分の居住地だけでは買い手を確保することができなかった。そのために互いに離れ離れになっていた印刷・出版業者同士で書物を送りあって、販路を確保していた。その際、産業革命以前のヨーロッパでは、書物の輸送手段としては、水路を船で運ぶか、もしくは陸路を荷車で、または人間が背負って運ぶしかなかった。写本ではないにせよ、印刷された書物もまだまだ高価で、貴重な商品であった。そして同時に重くかさばるものでもあった。そのために輸送費がしばしば書物の価格に跳ね返った。

そこで少しでも重さとかさばりを少なくするために、書物は「未製本のまま」で輸送される場合も少なくなかった。もちろん製本されて運ばれる場合もあったが。そうした印刷された紙は船倉でぬれたり、雨風で台無しになる危険にさらされていた。

未製本の刷り紙は、一定数を束にして箱に詰められた。また荷造りした貨物である梱(こり)にして紐をかける場合もあった。そうした書物の梱や製本された書籍は、雨風や水に濡れるのを防ぐために、木樽の中に詰める必要があった。

書籍業者が本を樽詰めにしているところ。
背後の道具は製本機と思われる。
(1698年の銅版画。ドイツのレーゲンスブルク)

とはいえ、それほどまでに用心しても、書物が目的地に着いた時には水をかぶっているか、破損していることが、まれではなかったという。しかも書物の入った樽は、目的地に着くまでに何度も輸送手段を変える場合も少なくなかった。現在ならトラックでなんの困難もなく運べるような西ヨーロッパの比較的狭い地域の輸送でも、当時は大変なことだったのだ。

フランドル地方(現在のベルギー)のアントウエルペン(アントワープ)の書籍商が、パリへ書物を送る場合は、普通は専門の運搬人が陸路を荷車で送っていた。しかし船のほうが大量に運搬できるために、時として、船でイギリス海峡から少し入った港町ルーアンまで運んで行って、そこからセーヌ川の平底船に引き継がれて、運ばれることもあった。

ヨーロッパ西部の地図

またアントウエルペンから南フランスのリヨンあての書物は、たまにはリヨン直行の輸送人にゆだねられることもあった。しかし通常は、先ほどのルートでまずパリまで運ばれて、そのあとはリヨンの書籍商の代理人が引き取って、最終目的地であるリヨンへと、水上や陸路の運搬手段で送っていた。

あとで項を改めて詳しく紹介するが、16世紀後半から17世紀にかけて活動したアントウエルペンの大出版業者プランタンの場合、スペイン向けの書物は、まずルーアンかブルターニュ地方のどこかの港に運ばれ、そこからスペインの港へと運搬されていた。(ヨーロッパ西部の地図参照) そしてスペインからさらに大西洋を横断して、アメリカ大陸まで向かう場合もあった。プランタン社の販路は実に広く、ノルウエーのベルゲンやバルト海南岸のダンツィヒにまで及んでいた。その際同社の人々は、船の出港のタイミングを絶えず気にかけ、嵐を心配し、海賊が出るのを恐れていたという。

いっぽう陸路の場合も困難は大きかった。南仏リヨンの書籍商がイタリア方面へ書物を輸送する時、荷車でアルプスを越えるときの苦労は並大抵のものではなかったという。(ヨーロッパ西部の地図参照)

さらに、様々な輸送手段を用いる場合には、荷物の積み替えに対して、十分な対策を準備しておく必要があった。現場では積み替え作業をする人が文字を読めないため、代わりに大樽に絵文字を書いて目的地を表していた。しかしそれが紛らわしい場合もあって、書籍商の人が現場監督する必要があった。さもないと手違いが起こって、目的地につかない時もあったという。

こうした理由から、一般に印刷・出版業は、外部との交通・通信が容易な港町や、大商業都市に発達したわけである。

<この時代の取引方法
ー書物の交換と為替手形>

これまで述べてきたように、苦労を重ねて書物が取引先に届いたとして、その代金の支払いはどのようにして行われていたのであろうか? 当時の銀行組織は、このような取引にはほとんど適合していなかったという。

貨幣による現金払いはまず不可能であった。当時、外国や遠隔地に住む書籍商が、書籍を受け取るたびに送金するのは容易ではなかったのだ。そのために17世紀末まで広く用いられていた方法は、書物の交換と為替手形であって、普通はその両者が組み合わされていたらしい。

つまり書籍商は、書物を受け取ったときは支払うべき金額を帳簿に控えた。そして書物を送ったときは、取引先が支払うべき金額を帳簿に記入した。しかしその決済は通常かなり長い期間をおいて行われ、債務者は差し引き残高を、三者間の決済という方法で精算していた。

例えば、パリのAはアントウエルペンのBから書物を余計に受け取っているために、Bの債務者ということになる。いっぽうこのAはブリュッセルのCに多数の書物を送っていたので、Cの債権はAに委譲される。その際アントウエルペンとブリュッセルは近隣の都市で直接接触できるので、この三者間の決済はうまくいくというわけである。

しかし互いに遠隔地である場合や、取引相手がもっと増えた場合には、複雑さがまして、危険を伴ったようだ。例えば二国間の通商が中断すると、支払いができなくなり、倒産に追い込まれる出版業者も出てきた。それを防ぐために、書籍商たちは倒産のおそれのある同業者に資金を出して、救うという方法をとったという。

以上述べてきたやり方は、互いに離れたところに住んでいた出版業者が書物を取引するという、いわば卸の段階の話である。

<書籍市場の組織化>

それでは次に印刷業者ないし出版業者は、どのようにして書物を買い手に販売していたのであろうか。そのためには書籍販売人というものが必要であった。この書籍販売人は印刷・出版業者の委託を受けて、大小さまざまな都市を訪ね歩き、書物を買ってくれそうな客を一人も残さず、探し出そうとした。そのため彼らは書籍移動販売人とも呼ばれていた。

彼らが訪ねた場所は、人々が多く集まる教会、市庁舎、ラテン語学校から居酒屋まで、さまざまであった。彼らは持参した書物の一覧表を印刷したビラを携えており、泊まる宿の名前と住所を書き添えて、人々に配ったり、目立つ場所に掲示したりした。

このようにして買い手に密着した販売方法によって成果を上げた場合、そうした代理販売人は何度もその町を訪れるようになり、ついにはそこに常駐するようになった。そしてその町で書籍店を開くようになった。こうして大出版業者が刊行した書物を一般の客に売ることを専門とする小売りの書籍商が、ヨーロッパの多くの都市に現れたのであった。

そしてヨーロッパ各地を結ぶ書籍市場が、急速に組織化されていったのである。マインツのペーター・シェッファーやヴェネツィアのニコラ・ジェンソンなどの、ごく初期の印刷・出版業者も、すでにこうした販売網を利用していた。そしてリヨンのバルテルミー・ビュイエやニュルンベルクのアントン・コーベルガーが、1485年以前に極めて広範な取引網を持っていたことについては、すでに述べたとおりである。こうして1490年ごろには、書物の取引網はヨーロッパ各地に、くまなく張りめぐらされていたのである。

その03 書籍取引の場としての書籍市

<大市(おおいち)から書籍市(いち)へ>

ヨーロッパの中世にあっては、物資の大規模な取引の場として、大市というものが発達していた。そしてすでに写本の時代から、書物はそうした大市で売られていた。この習慣は例えばパリ地方の大市や、英国のスターブリッジの大市で長く続いていた。

その際、書物は移動販売人によって、他の商品と一緒に売られていたのだ。たとえば1462年には、ある大市で、一人の移動販売人によって、聖書2冊、祈祷書15冊、大砲20門が売られたことが記録に残っている。しかし活字版印刷術が発明されて、書物の生産が増大するに及んで、そうした販売人は、その扱う商品を書物だけに限定するようになった。

大市に出向いてくる商人には特権が与えられていたので、商品の輸送は楽だった。またそこには両替商が姿を見せていたので、取引がしやすく、人がたくさん集まるために、書物はよく売れた。こうして主要な大市は、書籍商と印刷・出版業者の落ち合う場所となった。そこでは定期的に会うことができたし、決済したり、借金を返済したりすることもできた。

さらにそこには活字鋳造人や活字父型彫刻師まで来ていたので、必要な印刷用資材を買うこともできた。そして各地からやってきた出版業者は、互いに共通の問題を論じ、近刊書を予告し、書籍商と取引条件を決めることもできたのであった。つまりそこはもはや様々な物資を扱う大規模な市としての大市(おおいち)ではなくて、書籍関係者だけが一堂に会する大規模な「書籍市(いち)」になっていたのだ。このような書籍市としては、とりわけ南フランスのリヨンとドイツのフランクフルト及びライプツィッヒが著名であった。

<リヨン書籍市>

初期のころに最も重要な書籍市であったのは、リヨンであった。当時この都市は、国際的な大市の開催地であった。リヨンの大市が栄えたのは、まず何より商業活動にとっての立地条件の良さにあったといえよう。リヨンはその頃フランス王国の南東の国境近くにあって、イタリアに接していた。そしてスイスを経由してドイツとも結ばれていた。もちろん北のパリへも道は通じていたし、トゥールーズを経由して、南のスペイン・ポルトガル方面へも道は開かれていたのである。まさに物資の集散地として、理想的な位置にあったわけである。(ヨーロッパ西部の地図参照)

リヨンには、絹製品や香料をはじめとして、当時のヨーロッパで取引されていた商品は、すべて入ってきていた。コメ、アーモンド、香辛料そしてイタリア・ポルトガル・中近東産の薬用・染色用植物なども、ここを通ってフランス全土に流れていったのだ。

歴代のフランス国王と市当局は、商業活動を振興させるために、そこへ出向いてくるすべての商人に、最大限の特権を与えた。こうして年に4回、それぞれ2週間にわたって、商人たちが荷車をひかせて、この町に押し寄せてきたのだ。取引の中心地は、ソーヌ川にかかる橋の上とサン・ニジェ教会周辺の路地界隈であった。

リヨンの大市はやがて書籍市としても大規模なものになっていった。リヨンの印刷業者と書籍商のほとんどは、メルシエール街に店を構えていた。そして彼らは書籍市での取引の中心に位置していたのだが、そこに集まった書籍関係者には外国人も多かった。ちなみに1500年以前にこの町で営業していた49人の内訳をみると、フランス人が20名、ドイツ人が22名、イタリア人が5名、ベルギー人が1名、スペイン人が1名となっていた。

様々な物資の集散地であったリヨンは、書物の国際的な集散地の一つでもあった。リヨンの書籍商は、当時イタリア、スイス、ドイツなどで大量に出版されていた書物を輸入していたばかりか、それらの書物の海賊版を平気で作っていた。そしてそれらの書物をさらにフランスやスペインへ発送する交渉もそこで行われていた。

その一方、リヨンで印刷された書物とりわけ大部の法律書を、イタリア、ドイツ、スペインへと送る商談も進められていた。さらに民衆でごった返していたこの書籍市では、挿絵の入った暦、占いの本、薄手の民衆本なども売られていた。とくにラブレーの『ガルガンチュア大年代記』が大当たりして、聖書が9年間もかかった部数を上回る量が、わずか2か月で売れたという。

以上のような書物の売買の陰では、先に述べたような支払方法が行われていた。つまり売買の後に支払いという段になると、成立した商取引はおおかた債権相殺の形で決済された。ただ為替の取引がある場合には、純然たる商取引の後にそれは行われた。つまり2-3日の間に支払いをすべき者によって、為替手形の引き受けが行われた。それが終わると、商人の代表が寄り集まって、他の場所で支払われる為替手形の支払期限と次回の書籍市までの公定利率が決められた。そして3日後に、過去の債権の決済が、現金払いあるいは相殺の形で行われたのである。

こうした金融取引にひかれて、イタリア人の銀行家をはじめとして、大勢の銀行家がリヨンにやってきた。この伝統は書籍市が衰退した後まで残り、そののちこの町はフランス最大の銀行業の中心地となったのである。

16世紀前半に大いに栄えたリヨンの書籍出版業は、この世紀の中ごろになると、カトリック陣営からの対抗宗教改革の運動の余波を受けて、衰退し始めた。リヨンの書籍商と出版業者の大半は新教のカルヴァン派を信仰していたために、カトリック側からいろいろ迫害を受けるようになった。そのため彼らは、こうした迫害をのがれ、落ち着いて仕事ができる場所を求めた。その場所が、リヨンから近く、カルヴァンがその教えを広めていた町ジュネーヴであった。

書籍出版業者がいなくなって仕事にあぶれたリヨンの職人たちも、やがてジュネーヴへ向かうようになった。かくして、かつて栄えたリヨンの書籍出版業も、16世紀の後半から徐々に衰退していったのであった。

次回は、「その04 フランクフルト書籍見本市の繁栄」について、お伝えする。

15世紀末から16世紀前半の出版業

その02 ドイツ宗教改革と印刷物の普及

ルターの改革思想の急速な普及

イタリアのヴェネツィアやフランスのパリ、リヨンそしてスイスのバーゼルで、人文主義をてこに出版業が繁栄していたころ、アルプスの北のドイツでは、マルティン・ルター(1483-1546)がひき起こした宗教改革が印刷物の普及に大いに貢献することになった。

マルティン・ルターの肖像画。
同時代の画家ルーカス・クラーナハによって
1521年に描かれた銅版画

つまり同じドイツ人のグーテンベルクの発明した活字版印刷術は、そのほぼ半世紀後になって、ルターが発表したキリスト教の改革思想を広く民衆の間に急速に普及させるための、極めて有効な手段となったのである。

よく知られているように、ルターが始めたキリスト教の改革運動は、単にドイツだけではなくて、ヨーロッパ全体に激動を生み出した。そしてそのことは、印刷物の広範な普及なしには考えられなかった、といわれている。つまり印刷物こそは、当時の最先端のメディアだったわけである。

ルターの宗教改革500年祭見聞(2017年8月)

ところでルターが宗教改革を起こしたのは、1517年のことであった。そしてその500年祭が2017年にドイツの各地で、大々的に祝われたが、私はその年の8月に、その様子を見聞するために、ドイツを訪れた。その時のことは、「ルターの宗教改革500年祭見聞記(2017年8月)」と題して、写真入りで発表し、親しい人たちにメールでお送りした。詳しいことはその見聞記にゆだねることにする。その時の旅では、アイゼナハ郊外の丘の上にある「ヴァルトブルク城」(ルターがこの中で聖書を翻訳)、ルター生誕の地アイスレーベンその他ルターゆかりの地を見て歩いた。そしてその後、宗教改革の発祥の地であるヴィッテンベルクを訪れたのであるが、その時の事を、次にごく簡単に紹介する。総じてルターゆかりの場所は中部ドイツ一帯にある。

さてヴィッテンベルクは北ドイツを流れる大河エルベ川のほとりにある小さな町である。首都ベルリンの南西に位置しているので、興味のある方は地図で探していただければ幸いである。ちなみに私が愛用している昭文社の世界地図帳(2013年2版)の76ページ(中部ヨーロッパ)では、カタカナで「ルターシュタット ヴィッテンベルク」と記されている。シュタットはドイツ語で町の意味であるが、町の名称の一部にルターという文字が入っているぐらい、ドイツ人はこの町とルターとまずの結びつきを重視しているわけである。

私はまず、鉄道の駅前の特設案内所で、一人当たり19ユーロ(約2500円)の一日見学券を購入。それで市内の主な見学施設に入場できるのだ。つまりこの町は500年祭の期間中、宗教改革一色に塗りつぶされていて、町中に様々な仕掛けやプロジェクトが待ち受けているわけだ。駅前から向かい側をみると、巨大な建物が目に入り、側面に大きく「ルター聖書」と書かれていた。

ルター聖書とルターのバラが描かれた建物

近づくと、それは鉄骨組の構造物の周りを覆ったもので、上へは階段でもエレベーターでも上がれるようになっていた。恐る恐る登ってみると、ヴィッテンベルク旧市街の素晴らしい眺望が得られた。そして美しい甍(いらか)の波の一番奥に、「95か条の論題」で有名な城教会の尖塔が見えた。

 城教会の尖塔(左)            ゲートが連なる参道(右)

そこを降りると鉄道の線路沿いに、旧市街の入り口まで、人々を歓迎するための参道ができていて、鳥居のようなゲートが連なっている。そこを通りぬけて旧市街に入り、まず大きく立派な「ルターの家」に入った。

ルターの家の前(左側が私) 

そこはルターが、妻や6人の子供たちと一緒に住んでいたところだ。家の中では、ルターとその家族の日常生活の様子が、様々な模型やジオラマや絵画などを援用して、生き生きと再現、説明されていた。「見聞記」には、そのほかいろいろと詳しく書いたが、ここでは省略して、先ほど遠くからその先頭を眺めた「城教会」へと急ごう。

城教会の青銅製の扉の前(右側が私)

この写真の扉は、ルターの時代には木製であったが、その後消失して、現在は青銅製になっている。世界史の教科書などでは、この扉の上に有名な「95か条の論題」が書かれた、と記されている。しかし現在の研究では、それは出来事を劇的に盛り上げるための後世の作り話だという。それはともかく、この日は城教会のなかは大勢の観光客でにぎわっていた。

小冊子「95か条の論題」

いま紹介した「95か条の論題」は、ヴィッテンベルク大学で神学の教授を務めていたルターが、1517年秋に発表したもので、一般に宗教改革の発端を告げるものとされている。それは学者や僧侶向けにラテン語で書かれた神学論争の文書であった。しかしその翌年の1518年春には、ルターはこれの最も重要な項目をドイツ語で要約して、『免罪符と神の恵みに関する説教』と題した小冊子にして発表し、これが印刷されて世に出たのである。

ラテン語で書かれた「95か条の論題」

このドイツ語版は、一般向けに分かりやすく書かれた小冊子であった。前に紹介したバーゼルのヨーハン・フローベン社で印刷されたが、わずか数か月の間に売り切れてしまったという。

それは当時、カトリックの総元締めとしてのローマ教皇の権力によって、精神面のみならず、間接的ながら政治。経済。社会面でも支配を受けていたドイツ人一般の間に、広範で根強い不満が広がっていたためである。ちなみに免罪符というものは、当時ローマ・カトリック教会が教会財政をまかなうために、それを買えば罪が免除されるとして大量には発行していたものである。

免罪符売りを嘲笑した木版画(1617年)

小冊子は翌1519年2月に、同じ出版社から第2版が発行されたが、これもまた
瞬く間に品切れとなった。こうして1518-20年の間に、実に25版を重ねたことから見ても、ルターの書いた小冊子がいかに多くの人々の心をとらえたか、という事が理解できよう。

このドイツ語版と並んで、ラテン語版のほうも同じフローベン社から1518年秋に出版され、こちらも売れ行きが良かったという。フローベン社からルターにあてた手紙の中で、これがドイツ国内にとどまらず、フランス、スペイン、イタリア、オランダ、イギリスなどでも一定数、売れたことが伝えられている。同社の出版物の中で、これほどよく売れたものは、それまでにはなかったという。いうまでもなくラテン語は当時のヨーロッパの教養人であった学者・僧侶の間の共通語だったのである。

ドイツ語印刷物の増大

以上のようにして、ルターが提起した問題は、活字版印刷を通じて、より速くより広く人々の間に普及し、それをめぐる論争はどんどんその幅を広げていった。それに応じてルターの著作へのエネルギーも爆発的な勢いをつけていったという。

ルターは1520年にはいわゆる三大改革文書をあいついで書いていき、それらは直ちに出版された。その中の一つの『ドイツ国民のキリスト教貴族に告ぐ』は、社販が4000部印刷されたが、わずか5日で品切れとなり、以後も15版を重ねた。

ルター著『ドイツ国民のキリスト教貴族に告ぐ』の表紙(1520年)

これら三大改革文書はドイツ語で書かれたが、その読者である当時の世俗貴族が一般にあまり教養がなく、ラテン語が読めなったからであった。文化的レベルでは、貴族といっても、民衆とあまり隔たりがなかったようだ。

ルターの宣伝用小冊子

これらの宣伝用の小冊子は、外形のうえからも、従来の学者向けのラテン語文献とは異なっていた。従来の大型の二つ折り本に代わって、手軽な四つ折り本や八つ折り本が登場したのだ。また書体もラテン語用のローマン体ではなくて、ドイツ語特有の書体であるシュヴァーバッハ体が採用された。これは中世ゴシック体の変形といえる書体であった。

こうした状況の中で、当時の民衆のことばであったドイツ語の印刷物一般の出版にも、有利な状況が生まれてきた点も注目される。ちなみにドイツ語印刷物の出版点数は、ルターによる宗教改革開始の年とされる1517年には81点だったが。6年後の1523年には10倍以上の944点にまで増大しているのだ。

ドイツ語本の内容は、時代の枠を16世紀後半にまで拡大すれば、まずは教訓物語、滑稽物語、騎士道小説。そして家庭医学宝典や算術書。さらに料理宝典や植物の本、耕作に関する本、書式集、酒税法に関する本など実用書が目に付く。

ヴィッテンベルクの繁栄

ルターの登場によって、当時小さな田舎町にすぎなかったヴィッテンベルクは一挙に国際的な学者・僧侶の論争の中心地になった。同時に印刷および書籍販売の世界にも、ルターは大きな影響を与え、そこに巨大な変化を起こしたのであった。そのためヴィッテンベルクは、それ以後100年以上にわたって、ドイツの印刷及び書籍販売の一つの中心地になったのである。

この町には1502年フリードリヒ選帝侯によって大学が設立されたが、大学そのものは印刷出版界に対して、さしたる役割を果たさなかった。ライプツィッヒの印刷御者W.シュテッケルがここで印刷所を開いたが、わずか2年しか続かなかった。

ところが1508年になって、ラウ・グルーネンベルクと称する印刷業者が来るに及んで、この町の印刷事情は大きく変わることになった。ルターが1523年までに公表したものは、この印刷業者によって出版されたが、その活字版印刷の能力は不十分で、その仕事ぶりは粗雑であった。そのためルターはこのことを嘆いて、次のように述べている。

「もしそうした不注意な印刷の結果、ほかの印刷業者がオリジナル版の誤りを何倍かに拡大してしまうとすれば、そこにはいかに大きな危険が生ずることか。そうした場合には、著者が払った多大な努力は水泡に帰すことになろう」

この「ほかの印刷業者が・・・」という事は、海賊版に関連したことなのだ。19世紀の前半に著作権の制度ができるまでは、ドイツでは海賊版はごく普通のことであったのだ。このこともあってルターはライプツィッヒの著名な印刷業者メルヒオール・ロッター社が1519年末にヴィッテンベルクに開設した支社とも関係を持つようになった。そして三大改革文書のうち、『ドイツ国民のキリスト教貴族に告ぐ』と『教会のバビロン捕囚について』を、このロッター社から刊行したのである。

ルターによる聖書の翻訳とその出版

ロッター社とのつながりの中で、今日にまで最も広範な影響力を保ち続けてきたルターの仕事といえば、なんといっても聖書のドイツ語への翻訳とその出版である。聖書のドイツ語への翻訳そのものは、すでに中世にも行われていた。ところが当時は、まだ写本で、その数量はごく限られていたため、一般にはほとんど普及していなかった。

そして15世紀後半になって、シュトラースブルクのヨハネス・メンテリンによって、ドイツ語訳聖書が印刷出版された。その際その100年ほど前にバイエルン地方で翻訳された、質の点でいろいろ問題のあるテキストが使用された。とはいえその後もルター訳が現れるまでは、そのテキストに基づいて13回にわたってほかの出版社からも刊行されたのであった。

さてルターがヴァルトブルク城内で、1521年12月中旬から翌年3月までのわずか11週間という信じられないほどの短期間に行った新約聖書のドイツ語への翻訳は、1522年9月にヴィッテンベルクで印刷・出版されたのであった。印刷所は前述のメルヒオール・ロッター社、出版社はデ-リング・クラーナハ社であった。初版の発行部数は3000部と推測されている。これは瞬く間に売り切れ、3か月後の同年12月に第2版が発行された。そしてルターの新約聖書は、1522年ー33年の間に、高地ドイツ語で14回、低地ドイツ語で7回印刷された。そしてルターの生存中に,合わせて10万部以上出版されるという、当時としては破格のベストセラーになったのである。さらに数多くの海賊版も出たため、実際の数はもっと多かったといえる。

このルター版新約聖書は、ルターがエラスムスの忠告に従って、ギリシア語のオリジナル・テキストからドイツ語に翻訳したものであった。そしてそのドイツ語のテキストは、当時まだ地域によってさまざまであったドイツ語表現に対して、一つの基準を作ったものとして、文化史の面でも高く評価されているものである。

その後ルターは旧約聖書の翻訳にも取り掛かり、1534年になって新約聖書と旧約聖書を合わせたものが、ハンス・ルフト社によって印刷・出版された。これは1534-1626年の間に、都合84版を重ねるという息の長い大ベストセラーになったのである。

ルター訳新約・旧約聖書。
1534年にハンス・ルフト社から印刷・出版されたもの

このルター訳新約・旧約聖書も、初版発行の翌年には早くも海賊版が出されたが、それ以後にも様々な出版社からこうした海賊出版が繰り返された。こうしたルター人気によって、教会の神父や学者たちの著作はおろか、それまで人気のあった人文主義者エラスムスさえ、影が薄れてしまった。ルターを出版しなければ古い出版社といえども経営が危うくなったほどだという。その逆にルターを出版することによって、新しくエネルギッシュな多くの出版社が誕生したのであった。

「ルターの新約聖書が出てからというもの、出版業全体が全くルターによって支配されるようになった」
とエラスムスもこぼしているぐらいである。

カトリック側の聖書翻訳と出版

以上みてきたように、マルティン・ルターが翻訳したドイツ語版聖書は、それ以後100年にわたって、ドイツのプロテスタント教徒の「家庭の書」となった。
ドイツでは、1517年にルターが宗教改革を行った後、旧来のカトリック信仰を維持した地域とあらたなプロテスタント信仰に乗り換えた地域とに分裂した。
そのためこの二つのキリスト教信仰に基づいて、精神・文化面のみならず、政治・社会面でも大きく二つの勢力に分かれたのである。

つまり16世紀前半以降のドイツ社会は、カトリック陣営とプロテスタント陣営に分かれて、対立していったわけである。そのことを知っていないと、カトリック側の聖書翻訳と出版という動きも、よく理解できない。

さてルターに基づくプロテスタント陣営の動きに対抗するようにして、カトリック陣営でも、同様の聖書翻訳と出版が行われた。例えば、当時北ドイツのザクセン公国を支配していたゲオルク大公は、カトリックの信奉者であったが、この大公の指示に従って、司祭のヒエロニムス・エムザーが、まず新約聖書の翻訳を行った。その際エムザーは、ずっと以前にヘブライ語からラテン語に翻訳されていた、いわゆる「ウルガタ聖書」からドイツ語への翻訳を行ったのである。それは重訳だったわけである。

これは1527年にドレスデンのシュテッケル出版社から発行されたが、その後カトリック地域のケルンやフライブルクでも何度か版を重ねて出版され、その動きは18世紀に至るまで続いた。しかしこれは旧約聖書を欠いていたため、コブレンツのドミニコ派修道院長のヨハネス・ディーテンベルガーが、新旧両約聖書のカトリック版作成に乗り出した。その際彼は新約聖書は先のエムザー訳を引き継いだ。そして旧約聖書のほうは、ルター訳のほか、ヘツァー・デング及びツュルヒャーが訳していた聖書を合わせて仕上げた。出版はケルンのクヴェンテル社、印刷はマインツのペーター・ヨルダン社であった。

これは初版が1534年に出版された後、16世紀の間に17版を重ねた。そしてさらに18世紀に至るまで、このディーテンベルガー版は100版を重ね、プロテスタントのルター約聖書に対抗する形で、カトリックの家庭で読み継がれたという。

印刷物の普及と書籍行商人の活躍

ルターをはじめとする当時の宗教改革者は、活字版印刷を一つの奇跡ないし神からの贈り物と考えていたようだが、同時に彼らは、印刷物が国中に広がっていった、その速度に驚嘆の念を抱いていたという。当時としては短い三か月以内に、印刷物はドイツ帝国の隅々にまでいきわたっていたのであるが、その頃の交通事情の悪さや、物資の運搬配達に伴う様々な困難さを考えて、驚いたのであろう。

当時印刷物を読者の手元に届けるうえで大いに貢献したのが、書籍行商人であった。彼らは書籍移動販売人とも呼ばれているが、遠いところからやってきて、町や村の週市を訪れたり、学校に潜り込んだり、一軒一軒戸口をたたいて個別訪問したりして、精力的に印刷物や書物を売りさばいていたのだ。

ルターの『ドイツ国民のキリスト教貴族に告ぐ』は、初版4000部のあと、実に15版を重ねたが、これなども書籍行商人の存在なしには考えられないことであった。彼らは印刷物や書籍を背中に担いで、ドイツの各地を渡り歩いていたわけであるが、この移動販売システムは、その後も19世紀に至るまで続いていたという。

15世紀末から16世紀前半の出版業

その01 ルネサンス人文主義と出版業者

<ルネサンス人文主義と出版業>

中世ヨーロッパでは一般にキリスト教が深く人々の生活に浸透し、さまざまな面で人々の意識を支配していた。そのいっぽう一部には9世紀のカロリング・ルネサンスや12世紀ルネサンスなど、ギリシア・ローマの古典精神や文化を見直す動きも見られた。

とりわけそうした動きが活発になったのは、15世紀ルネサンス期であった。この時期には人文主義が人々に新鮮な関心を呼び起こし、活発な人間意識を目覚めさせ、新しい生活態度を生み出すもとになった。

つまり「神」中心の中世キリスト教世界から、「人間」中心の近代社会への移行を促したのが、ルネサンス人文主義だったのである。このルネサンス人文主義の特徴として、ギリシア・ローマの文学的研究という側面と、よりよき人間を形成するための知識追求という側面とがあげられる。そして古典研究に没頭するのと同時に、明確に人間尊重の姿勢を打ち出したペトラルカの態度にならって、15世紀のイタリアに、このルネサンス人文主義が開花したのであった。

この時代、ギリシア・ローマ時代の古典文献を研究することを通じて人文主義を推進しようとしていた人々にとって、その頃に生まれた活字版印刷術は、復元された古典文献やそれへの注釈を、より多くの人々の間に広めるためのまたとない手段になったわけである。

つまりギリシア・ローマ時代のオリジナルどおりに復元された古典のテクストを広めることこそ、印刷術の使命であると認識され、それらのテクストが元通りのものかどうかを調べる文献批判学というものが、学問の中心に据えられたのであった。

そのためにおびただしい数の学者や著述家が、出版者のもとで校正係として働いたり、さらにその中の多くが自ら印刷者や出版者になっていったのであった。彼らは人文主義者であると同時に、行動の人でもあった。そして経済の繁栄期に生き、彼らの才能を認めた出版者や出資者に支持されて、しばしば輝かしい成功を収めたのである。

そして類を見ない経済的な繁栄と人文主義の時代となった16世紀前半には、書籍産業はかつてなく強大な資本家が牛耳る大産業になったのである。これらの大出版業者は、ヨーロッパ全域において通商関係を結び、それらは教養人の知的ネットワークの媒体ともなっていた。この時代、書物の取引は、大規模な国際貿易の観を呈し、印刷業は黄金時代を迎えていた。そして依然として小さな工房があちこちに誕生し続けたものの、これらの大資本家出版者の主導のもとに、書籍産業は大学都市と商業都市で集中化に向かっていったのである。

<人文主義者が印刷業者になった最初の人物~ヨハネス・アマーバッハ(1443/45-1513)>

ヨハネス・アマーバッハは南ドイツのロイトリンゲンに生まれたが、グーテンベルクとはかかわりがなく、パリ大学で学んでいる。そしてそこでほどなく印刷工房を建てることになるヨーハン・ハイリンリンに師事している。そこの同窓には、のちに著名な人文学者になるヨハネス・ロイヒリンがいた。その後人文学士になったアマーバッハは、ニュルンベルクの大出版業者コーベルガーに雇われて、働くことになった。この時彼ははじめて書物にかかわる仕事に従事して、文献を世に広めるには印刷術がいかに大きな可能性を秘めているかを知ったわけである。

やがて1475年ごろに彼はロイヒリンとともにスイスのバーゼルに移住し、そこに小さな印刷所を開いた。その際援助をしたのは、おそらくコーベルガーであろうとみられている。そして1478年にはロイヒリンが編纂したラテン語の辞典を出版した。その後彼はラテン語の注釈付き聖書、キリスト教の教父、スコラ哲学者、ギリシア・ローマの著作家そして彼と同時代の人文主義者の著作を、立派な大型二つ折り判に仕上げて、出版した。

その際彼は、それらの著作が原本に忠実なものであるように心がけた。そのために、ドイツの最も優れた学者たちが写本との照合の仕事を引き受けている。また若き日にともに仕事をしていたロイヒリンは、1510年から再びアマーバッハの家に住み込んで、協力するようになった。また同じ人文主義者のベアトゥス・レナヌスは、イタリア旅行を取りやめて、彼のところで校正係を務めた。

さらにオランダのロッテルダムからバーゼルに移り住んでいた著名な人文主義者のエラスムスに協力を求めて、4世紀にヘブライ語からラテン語に翻訳されたヒエロニムスの「ウルガタ聖書」の出版に着手した。

エラスムスの肖像画。
アルブレヒト・デューラーによって1526年に描かれた銅版画

アマーバッハの息子たち、ブルーノとバジリウスはパリで学んだのちに故郷に戻り、ニュルンベルクの名高い修道士ヨハネス・クーンのもとでさらに学ぶと同時に、古典出版の仕事にも協力した。そして二人は父親が死亡したのちには、引き続きエラスムスの協力を得て、「ウルガタ聖書」を、同じバーゼルのフローベン印刷所から出版した。

いっぽう書体に関しては、1486年にイタリア以外では初めて、アマーバッハが純粋なローマン体の活字を用いて、書物を出版したことが注目される。またコーベルガーとの関係から、同じニュルンベルクに住んでいた高名な画家アルブレヒト・デューラーのバーゼル滞在を支援したことが知られている。

<エラスムスとの協力のもとに仕事をしたヨーハン・フローベン(1460-1527)>

アマーバッハよりやや遅れてバーゼルで活躍した人文主義出版者が、ドイツ人のヨーハン・フローベンであった。彼は1491年に最初の印刷物として、小型のラテン語聖書をゴシック体活字で世に出した。ついで1494年からフローベンは、同じドイツのフランケン地方出身の同業者ヨーハン・ペートリ及びアマーバッハと手を結んで、印刷を進めた。そして1502年から1512年までの間、この三人は一種の共同事業として神学や教会法関係の書物を出版していった。

ペートリ及びアマーバッハが相次いで死去すると、フローベン印刷所は比類のない独自性を発揮するようになり、ドイツ人文主義の中心となったのである。それは1513年からロッテルダム出身の高名な人文主義者エラスムスとの間に、友情と実り豊かな協力関係が生まれたことによるのだ。はじめ数日間のつもりであったというエラスムスのバーゼル滞在は、3年間にも伸びた。その間二人の協力によって、人文主義の薫り高い作品が、内容にふさわしいローマン体の活字によって、次々と生み出されていった。またフローベンはアマーバッハにやや遅れて、ローマン体やイタリックの活字を採用したのであった。

ヨーハン・フローベン印刷の書物の表紙(1513年)

1515年、エラスムスの代表作『痴愚神礼賛』の初版が、1800部印刷されて、世に出た。ついで1516年にはギリシア語版新約聖書の初版が、出版された。そしてさらにエラスムスが翻訳または編集したギリシア・ローマの著作家やキリスト教の教父たちの作品が、刊行されていったのであった。

ヨーハン・フローベン印刷の『ギリシア語とラテン語による新約聖書』
(エラスムスによる校訂)

そうした作品の刊行にあたって、フローベンは名のある学者たちに校正の仕事を依頼して、テキストの質の確保に腐心した。それと同時に書物の見た目の美しさにも、特別の配慮をした。それは活字自体の美しさから始まって、本扉の縁飾り、挿絵などの装丁を含めた造本への並々ならぬ尽力であったといえよう。

そうした仕事を彼は当時の優れた画家グラーフや、ドイツ・ルネサンス絵画の代表の一人ハンス・ホルバインやその兄アンブロジウスに依頼している。そのためにフローベンが本格的な出版活動をした1513年から1527年までの時期は、バーゼルにおける美しい本づくりの黄金時代といわれているのだ。フローベンは宗教改革とのかかわりは薄かったが、それでもルターのラテン語の著作をすこし出版している。またフローベン社はステッキに二匹の蛇を絡ませた印刷者標章で知られている。

<人文主義出版業者の中で最大の人物アルドゥス・マヌティウス(1450ころー1515)

人文主義印刷・出版業者の中で最大の人物は、ヴェネツィアで活躍したアルドゥス・マヌティウスであった。

アルドゥス・マヌティウスの肖像

彼はその後半生の20年に及ぶ出版業者としての活動において、後世に残る様々な業績を生み出した。それらの業績を初めに列挙すると、以下のようである。

(1) 中世の写本文字の模倣ではない新たな活字書体を生み出して、
後世に残したこと。

(2) ギリシア・ローマ時代の作品の学問的な校訂版を
生み出したこと。

(3) 小型のポケット版を出して、ヨーロッパ中に新たな読者を
獲得したこと。

(4) アップライト・ローマン体、イタリック体、ギリシア語文字を
作ったこと。

ところでアルドゥス・マヌティウスは、1450年ころローマ近郊の寒村バッシアーノに生まれた。長ずるに及んで彼はローマ大学に行き、そこでガスパーレ・ダ・ヴェローナ及びドミッツイオ・カルデリーニに学んだ。とりわけガスパーレ晩年の弟子として、1467年から74年まで、ラテン語とギリシア哲学、特にアリストテレスの理論を習得した。

当時の彼は人文主義の学者になることを目指していたが、ローマに活字版印刷術をもたらしたスヴェンハイムとパナルツが印刷した書物を、師匠のガスパーレが称賛するのを耳にした。さらにこの印刷者に印刷を注文した学者や聖職者などの知人たちとの交流を通じて、アルドゥス・マヌティウスの心に印刷術のことが刻まれたのであった。

ついで1475年、言語学的な教養や理論をさらに磨くために、彼はフェラーラへと向かった。そしてそこの大学でグアリーノ・ヴェロネーゼからギリシア語を学び、ジョバンニ・ピコ・デラ・ミランドラという友人を得た。この人物は後にアルドゥス工房で編集者としての役割を果たすことになる。このころアルドゥスはジョバンニの出身地ミランドラで、その甥や隣国カルビの公爵の姪や甥の教育係を務めたりしている。

この間、彼はさまざまな貴族や知識人との交流を重ねたが、彼らとの会話の中から、ギリシア語やラテン語の古典作品を、学術的に完ぺきなものとして出版するための印刷所を設立する計画が出てきた。そのきっかけの一つとして次のようなこともあった。

つまり1453年にビザンチン帝国(ギリシア的文化の継承国家)の首都コンスタンチノープルがオスマン・トルコによって征服されたのちに、多くのギリシア人学者がイタリアに亡命してきていた。そうしたことがイタリア人とギリシア人の直接的な接触を促し、それを通じて当時、古代ギリシアの古典作品へのイタリア人の関心が高まっていたのである。

<アルドゥス、ヴェネツィアで印刷・出版業を始める>

こうしてアルドゥス・マヌティウスは、ギリシア語の古典作品を印刷・出版することを目指して、すでに印刷・出版の中心地のひとつとなっていた北イタリアのヴェネツィアへと向かったのである。それは1489年ないし1490年のことといわれている。

それに先立って彼は、何人かのパトロンから印刷所設立のための財政的な援助と協力を得ていた。そしてヴェネツィアに入ってからは、かつてグーテンベルクがやったように、活字父型彫刻師、活字鋳造者、組版工といった職人たちや、編集者、監修者、校正者などの有能な学識者を集めた。さらに紙の仕入れ、書物の販売、経理事務などは、のちに義父となるヴェネツィアの印刷者アンドレア・トッレザーニに依頼した。

グーテンベルクの項目で詳しく述べたように、印刷・出版業というものは、ある程度以上の規模で行なおうとすると、いま述べたような様々な職種の人間を束ねていかねばならないわけである。アルドゥス・マヌティウスの場合も、大規模な印刷・出版業者として、このような総合的な役割を果たしたのである。

ヴェネツィアに現存するアルドゥス工房跡

ともあれ用意周到なこの人物は、こうした設立準備期間に4,5年の歳月を費やして、本格的な印刷に取り掛かったのは1494年ないし95年のことといわれる。ところがいったん仕事を開始してからというもの、アルドゥス印刷工房は休むことなく活動を続けた。そしてそのおよそ20年間に及ぶ活動期間に出版された書物は134点にも達した。

これは単純に計算して、およそ2か月に一点の割合で書物が刊行されていたことになる。この間、ギリシア・ローマの古典文献に詳しい人文主義者でもあったアルドゥスは、そうした古典文献の写本などを収集して選び出したり、新刊書のために著者を探したりした。そして時には編集や校閲の仕事もこなし、活字のデザインにまで注文を出したり、印刷現場に出向いて、立ち会ったりした。

アルドゥス社から出版された書物には、有名な印刷者標章(プリンターズ・マーク)が記されていた。それは熟慮と正確さをあらわす「錨」を中心に据え、その回りに速さを象徴する「イルカ」がからみついた絵柄であった。これはアルドゥスが好んだラテン語の格言「ゆっくり急げ」という言葉を具体的に視覚化したものといわれる。

アルドゥス・マヌティウス社の各種印刷者標章(プリンターズ・マーク)。
現在までに56種類ものマークが確認されている

<アルドゥス工房20年の歩み>

それではアルドゥス・マヌティウス印刷工房の20年の歩みを、順次見ていくことにしよう。まず1495年11月から1498年6月にかけて、大規模な「アリストテレス全集」がギリシア語のオリジナルで刊行された。しかもこれには人文主義学者による学問的な注釈がつけられていた。それ以前の中世を通じて、西ヨーロッパ地域では、アリストテレスをはじめとするギリシア古典は、ラテン語に翻訳されたものを読んでいて、それに基づいていろいろ解釈や議論がなされていたのであった。

しかし翻訳という作業を通じて解釈することには、問題も出ていたために、それらをオリジナルで知る必要性が当時の人文主義者から叫ばれていた。そしてそうした要請がアルドゥス・マヌティウス社によって叶えられたというわけである。その際アルドゥスは才能豊かな若いギリシア人に協力を求めた。その一人にクレタ島の出身で、のちには大司教にまでなったマルクス・ムスルスがいたが、この人物はアルドゥスが死ぬまで学問上の問題に対して助言を与え続けたという。

アルドゥスはまた、自分が出版する作品についてその意図を「出版者前書き」の形で書いて、作品の初めの部分に掲載するというやり方をとっていた。これ自体には既に先例があったが、彼によってはじめて高い水準に達したのであった。その意味でアルドゥスは単なる印刷者の域をはるかに超えて、一流の出版者になっていたといえる。

アリストテレス全集以外の初期のギリシア語の作品としては、ムサイオスの詩、聖書の『詩篇』、『お魚の戦争』、ラスカリスの『ギリシア語文法書』、ガザの『ギリシア語文法書』そして『テオクリトス作品集』などを挙げることができる。

ギリシア語で書かれた聖書の『詩篇』(1496/98年)

ところが高い理想のもとに刊行されたギリシア語の作品の売れ行きは悪く、長いこと出版社の倉庫に眠るといった状況が現れた。そのことは、例えば1498年の同社の出版カタログでも確認されているのだ。そのためにアルドゥス社の出版方針は変更を余儀なくされ、以後ラテン語の人文主義作品、それも文学作品を中心に刊行されることになった。ついでに言えば、このころ彼は書物にページナンバー(ノンブル)をつけることを始めている。

1495年には、今日専門家の間でいろいろ取りざたされている名高い作品『ポリフィラスの夢』が出版された。これはフランチェスコ・コロンナによって、ラテン語とギリシア語の混じったイタリア俗語で書かれたものなのだが、一般には挿絵として掲載されている作者不明の華麗な木版画によって有名になっている作品なのである。

ついで1500年、『聖カタリーナ書簡集』の刊行にあたって、今日「イタリック体」として知られている斜めの活字が初めて使われた。この活字は手書きの文字にも似た親しみやすさがあった。しかもこのイタリック体で印刷された書物は、それまでの大型判ではなくて、八つ折りの小型判となっていた。

この小型のポケット・ブックは、当然のことながら持ち運びやすく、どこででも読めるという特徴があった。これは現在世界中にあまねく普及している文庫本のいわば先駆をなすものだが、今から500年も前にこれが存在したことは、本当に驚くべきことといえよう。

この小型判で刊行されたのは、ヴェルギリウス、ホラティウスをはじめとした古代ローマ文学の著名な作品や、ルネサンス時代のイタリアのダンテ、ペトラルカ、ボッカチオなどの作品であった。

イタリック体活字が本格的に使われた
ヴェルギリウス著『作品集』(1501年)

これらはラテン語であったために、当時の学生や教養人がいわば気晴らしや娯楽として読むことができたものであった。当時のイタリアの教養人の間でも、ギリシア語が読める人はそう多くはなかったものと思われる。こう考えると、イタリック体による小型判シリーズの刊行は、アルドゥス出版社の経営戦略の転換を示すものと言えよう。

しかしその後アルドゥスは、古代ギリシアのトゥキディデスやヘロドトスなどの歴史家、あるいはソフォクレス、エウリピデス、ホメロスなどの詩人の作品も、小型判で出版するようになった。これは多少の経営上の困難は覚悟のうえで、より広い教養人の間にギリシアの古典を伝えようとの意図の表れであったのだ。

<アルドゥス工房を支えた学者たち>

自ら教養ある人文主義者であったアルドゥス・マヌティウスの周囲には、多彩な人文主義者が集まっていた。ヴェネツィアの元老院議員、未来の高位聖職者、大学教授、医師、ギリシア人学者など、名のある人から名もなき文学青年までが、朝から晩までひっきりなしに工房を訪れていたという。

そのためアルドゥス工房は同時に、ギリシア研究の成果の普及機関の役割をも果たしていたのだ。つまりそこには「アルドゥス・アカデミー」ができていたのだ。そしてそれらの人たちは、前にも述べたように、印刷工房の校正係や編集者といった実務に携わっていたわけだ。バーゼルの人文主義出版者フローベンやアマーバッハとの関係が深かった例のエラスムスも、アルドゥス工房にやってきて、『格言集』を出している。

とりわけアルドゥスと関係が深かったピエトロ・ベンボは、ヴェネツィア出身の学者、作家、詩人であった。この人はやがてヴェネツィア共和国の年代記の編集を手掛けたり、図書館長を務めたりして、のちには枢機卿にまでなっている。しかし若いころこのベンボはアルドゥス工房の発足の時から書物の編集を担当していた。詩人ペトラルカやダンテの著作の編集にも携わったほか、自らの著作『デ・エトナ』も、1495年に刊行している。これは友人と一緒にシチリア島のエトナ山に上った時のことを、父親に話すという対話形式のラテン語の書物であった。

<アルドゥス印刷工房と活字>

アルドゥス・マヌティウスは人文主義の思想を多くの人々に伝える際に、その活字の書体も大変重要であると考えていた。そして書物の内容に見合った活字の製作に腐心した。

その際工房のほとんどの活字を製作したのが、フランチェスコ・グリフォ(1450-1518)であった。この人物はもともと金細工師であったが、やがて活字父型彫刻師兼活字鋳造者となり、様々な印刷業者に活字を提供していた。その後グリフォはアルドゥスの求めに応じて、ギリシア語活字のデザインを考え、鋳造するようになった。その活字デザインの考案にあたっては、前にも述べたギリシア人のマルクス・ムスルスの助言ないしは彼自身の筆跡が、直接的ではないにしても、影響を与えたといわれる。こうして生まれたギリシア語活字はギリシア人の学者から高い評価を得て、後世に大きな影響を及ぼすことになったのである。

そのいっぽうアルドゥス工房では、新たなローマン体活字書体が生み出された。それが先にも述べたピエトロ・ベンボのラテン語による著書『デ・エトナ』に使われたものであった。これもやはりグリフォによって製作されたが、活字史ではその書名から「エトナ活字」と呼ばれ、今日に至るまでアルドゥスとグリフォの名声を伝えるものとなっている。なお現在では「エトナ活字」は、『デ・エトナ』の著者の名前から「ベンボ活字」とも呼ばれている。

エトナ活字によって印刷された『デ・エトナ』の本文(1496年)

それ以前のニコラ・ジェンソンなどによるローマン体活字は、ヴェネツィアン・ローマン体と呼ばれているが、そこにはまだ中世以来の手書き文字の個人性と芸術性が残っていた。ところがエトナ活字では、それらは抑制されて、はじめて普遍性と公共性を持った印刷用の書体が生まれたのである。

最後に、先に述べたイタリック体活字について、もう一度詳しく述べておきたい。実はこの斜めの活字は、当時のローマ教皇庁の公文書の書記官が非公式に用いていた筆記書体を印刷用活字にしたものであった。このチャンセリー・カーシヴとも呼ばれる活字は、草書体のように流麗で、しかも一文字一文字がつながらないために、一文字単位で鋳造していく金属活字にとっては、うってつけの文字なのであった。

この手書き文字の親しみやすさという特徴を持ったイタリック体活字は、またたくまにイタリアだけではなくて、周辺の国々へと伝わっていって、とりわけ詩や散文に使われるようになった。イタリア国内ではアルドゥスの活字という意味で「アルダーノ」と呼ばれているが、フランスではイタリア風の活字つまり「イタリック」と呼ばれるようになり、その後この呼び方が定着した。そしてその魅力のために、この活字体は多くの模倣者を生み出したのであった。

<パリの出版産業を牛耳った資本家ジャン・プティ>

パリにおいて人文主義を広めるのに最も貢献したのが、書籍商兼出版者のジャン・プティであった。この人物は15世紀末から16世紀初頭にかけて、パリ書籍市場で比類のない力を持った真の資本家であった。1492年ないし95年ごろ、彼はパリのサン・ジャック街において、はじめは銀獅子のちには百合の花をかたどった看板を出して商売を始めた。

ジャン・プティ社から出版された書物の表紙。
中央にその印刷者標章である二頭の銀獅子が見える。

彼はその先輩であるアントワーヌ・ヴェラールに倣って、印刷費を自分が持ち、印刷用具を準備し、必要があれば印刷機を貸与し、さらに資金の前貸しを行った。このようにして彼は1493年から1530年までの間に、じつに1400点もの書物を出版したのであった。その大部分は極めて重要な書物であり、この1400点という出版点数は、当時のパリの全印刷機が生み出した書物の十分の一に当たるといわれる。

この人物はもともと富裕な食肉業者の出であったが、自らは印刷業務につかず、しばしばほかの書籍商あるいは印刷業者と費用を分担して書物を刊行したのであった。こうして彼は、当時パリで活動していた最良の書籍商と、最も上手な印刷工のほとんどすべてをその傘下に集めたかたちで、それらのボスになったわけである。その活動範囲はパリに限らず、ノルマンディー地方の町ルーアン、中部フランスのクレルモン・フェラン、さらにリモージュやリヨンにも店舗や支店を持っていた。

印刷工との関連で言えば、その最も顕著な例が、リヨン出身の若き印刷技術者ジョス・バードであった。彼はリヨンで働いているときから、その名前がパリの人文主義者の間でよく知られていた。そのためジャン・プティは、彼の才能を見込んで自分の手元に置こうとした。こうして初めは校正の仕事を託したが、やがてプティは彼に印刷所を一軒任せることを考えた。このよにしてジョス・バード印刷所が誕生した。しかしこの二人の共同作業は排他的なものではなくて、とりわけ費用が少なくて済む場合は、バードは自分の金で仕事をした。そしてさらに同業の書籍商のためにも印刷の仕事をした。

ジャン・プティの長男も書籍商となり、1518年から父の仕事を手伝い始め、1530年に父親が死ぬと、その後継者となった。その次男も書籍商となり、1540年には兄の仕事を引き継いだ。しかし1567年に彼はプロテスタントに宗旨替えをしたために、書籍商の免許を取り上げられてしまった。

<国境を越えた出版業者の活躍~ジュンタ家の場合>

活字版印刷術が生まれて半世紀足らずの15世紀末には、出版業は、以上述べてきたフランスのジャン・プティのように、資本家の手中に入ることとなった。ドイツでも何人かの書籍商が多くの印刷業者を働かせていた。イタリアでも同様の現象が起きていた。次にその最も典型的な例を見ることにしよう。

それは中部イタリアの町フィレンツェから出たジュンタ一族であった。この一族は15世紀末から16~17世紀にかけて、イタリアで最も重要な印刷業者兼出版業者であった。その活躍の場はヴェネツィア、フィレンツェを本拠地としていたが、ローマ、ジェノヴァ、リヨン、パリ、フランクフルト、アントウェルペンからスペインのブルゴス、サラマンカ、マドリード、サラゴサに、代理店や外国支店を置いていた。

この全ヨーロッパをまたにかけた出版業者一族の開祖は、フィレンツェの豊かな織物の二人の息子ルカ・アントーニオ・ジュンタ(1457-1538)とフィリッポ・ジュンタ(1450-1517)であった。弟のルカ・アントーニオ・ジュンタは毛織物の商売を営むかたわら、1489年にヴェネツィアで印刷・出版業を始めた。彼はまずこの町の何人かの印刷業者に注文を出して、印刷させるというやり方をとった。しかし1499年には自分自身の印刷工房を作っている。その際彼は商人らしく、採算が取れるような売れるものを選んで、印刷させた。それはとりわけ需要がはっきりしているカトリックの典礼書などであった。

やがて毛織物の商売によって得られた利益を、書籍印刷に投資するようになっていった。このようにして彼は1489年から1538年の間に、およそ400点の書物を刊行した。こうして彼はヴェネツィアの大出版業者アルドゥス・マヌティウスやトッレザーニの強力なライヴァルになったのである。

その印刷者標章は、百合の花にルカ・アントーニオの頭文字LとAを配したものとなっている。

ルカ・アントーニオ・ジュンタの印刷者標章(1497年)

この創業者の死後には、息子のトマーゾが事業を受け継いでいる。そしてさらに、その子孫によってルカ・アントーニオ・ジュンタが始めた印刷・出版業は、うけつがれ、ようやく1670年に他人の手にわたっている。

ついでに言えば、当時のイタリアの都市国家では、政治的な抗争が盛んであった。そしてジュンタ一族は共和派に属していた。そのためにフィレンツェでそうした争いが起きて共和派の人々がヴェネツィアへ逃れてきたときなど、ルカ・アントーニオの店では、亡命者を積極的に受け入れていた。当時のフィレンツェの支配者メディチ家はルネサンス芸術の保護者として知られているが、反共和派であったから、次に述べる兄のフィリッポ・ジュンタの印刷・出版業を妨害していた。

そのフィリッポは、1489年に弟がヴェネツィアで始めた出版社に入って、書籍販売に従事していた。そして1497年には、故郷のフィレンツェに戻って、自ら出版業を始めた。フィリッポの場合も、自ら印刷工房を持つかたわら、よその印刷業者にもどんどん注文を出していた。そして刊行すべき書物の種類や内容の選択に当たっては、知り合いの文学者や人文主義者からいろいろ助言や助力を受けていた。

フィリッポ・ジュンタが出版した書物の表紙。
下のほうにその印刷者標章が見える。

このようにしてフィリッポ・ジュンタは、1502年以降、主にイタリア語やラテン語の古典書を、八つ折りの小型本で出版していった。その際、例のアルドゥス・マヌティウスが始めたイタリック体によく似た活字が使用された。そしてフィリッポ・ジュンタはアルドゥス・マヌティウスに次いで、教皇レオ十世から、古典書出版に対する特権を得ている。こうして彼は生涯におよそ100点の書物を刊行した。

フィリッポ・ジュンタが1517年に死ぬと、その二人の息子ベネデットとベルナルドが、父親が始めた古典書刊行という仕事を受け継いだ。そして1527年には有名なボッカチオの『デカメロン』を出版している。二人の中でもベルナルド(1487-1550)のほうが、最高責任者として刊行すべき作品の方針を定めた。それは父親がその路線を決めた人文主義出版社という性格に沿ったもので、それによって高い文化的水準が保たれたのであった。

いっぽう自分の出版社の社員は、主としてフィレンツェの都市貴族の家庭教師の中から、社主のベルナルドが選んでいた。このベルナルドが死んでからは、その二人の息子が仕事を受け継いだ。当初彼らは仕事の量を減らさざるを得なかったが、1560年代になると商売は回復し、ライヴァルが消えてからは、新たな発展を見せた。この時代、同社からは全部で350点の出版物が刊行された。

いっぽう開祖のルカ・アントーニオ・ジュンタの甥にあたるジャック・ジュンタ(1487-1546)は、1519年からヴェネツィアの叔父のもとで出版業を学んだ後、翌年には南フランスのリヨンに移って、印刷・出版業を始めた。自己資金の上に叔父の援助も受けて、その出版業は急速に発展し、リヨンでも重要な出版者の一人になった。そして1546年に死亡するまでの27年間に、20人以上の印刷業者に仕事を依頼して、神学、法学、医学関係の数多くの書物を出版した。

ジャック・ジュンタはリヨン大書籍商会の会長も務めたほか、商売上手のために、裕福にもなり、フランス国王や枢機卿に融資したりもしている。また彼が取り仕切っていた事業は、全ヨーロッパに及んでいた。

彼の死後はリヨンの書籍商と結婚した娘のジャンヌが、商売を引き継いだ。そして1599年まで同出版社はジュンタ一族のもとにあった。

<フランスの人文主義印刷者トリー及び活字父型彫刻師ギャラモン>

16世紀の初めに国王フランソワ一世によって、「王室御用印刷者兼製本師」に任命されたのが、ジョフロア・トリー(1480-1533)という多才な人文主義者であった。当時彼はイタリアの後期ルネサンスの息吹を、パリに持ち帰っていた。この人物にフランソワ一世は、フランス語の正書法の確立や文字改革を命じた。それに対してトリーは、当時のニューメディアであった印刷術を利用して、国王の要請にこたえたのであった。中央集権化を目指していた国王は、その一環としてフランス語の統一を図ろうとしたのであった。

ジョフロア・トリーの印刷物(パリ)

このトリーの指導ないし影響を受けて、フランスにおける新たな活字書体としての「オールド・ローマン体」を完成させたのが、クロード・ギャラモン(1500-1561)であった。彼は活字父型師としての腕の確かさから、「王の文字を彫る者」と称えられたのである。

その際ギャラモンはニコラ・ジェンソンの活字を参考にしたうえで、トリーの指導によって、アルドゥス・マヌティウスとグリフォの活字を研究して、最終的にフランス風に洗練された「オールド・ローマン体」を完成させたわけである。

左:ギャラモンの活字(1544年)  右:クロード・ギャラモンの肖像

この活字は、次の項目で述べる人文主義出版業者エティエンヌ一族によって、盛んに使われたのであった。さらにギャラモンは当初はギリシア語の活字も彫っていたが、それは「王のギリシア文字」とも呼ばれるほど評価の高いものであった。また彼のイタリック体は、大文字を傾けた最初の書体であった。

繊細で優雅なギャラモンの活字は、フランス国内ばかりではなく、やがてヨーロッパ中に広まって、その名声を確立した。彼の死後になって、彼の活字父型や活字母型は、イタリアへ逆流したり、フランクフルト見本市で売られたり、さらに後に述べるアントウエルペンのプランタンの手にわたるなどして模倣されていったのである。

<フランスの代表的な人文主義出版業者エティエンヌ一族>

エティエンヌ一族は、アンリ一世(1460-1520)を初代とし、1502年から1664年まで、五代にわたって出版業を続けたフランスの代表的な人文主義出版社の家系であった。

この家系はフランス語のステファヌスという名前でも知られていた。初代のアンリ一世は1502年から1520年までの活動期間中に、おもに神学と哲学の分野で、130点の書物を出版した。中でも同時代の著名な人文主義者ルフェーブル・デターブルやジョッセ・クリシュトヴなどの作品が代表的なものである。

このアンリ一世には3人の息子がいたが、3人とも父に倣って出版業を受け継いでいる。まず長男のフランソワ一世は、1537年に書籍業者としての活動を始めた。その際彼は義父のシモン・ドゥ・コリーヌや弟のロベールが経営していた印刷所に、印刷を頼んでいた。そして作品としては、もう一人の弟のシャルルの自然科学関連のものを出版した。

次に次男のロベール一世(1503-59)は、一族の中で最も活動的で著名な人物である。彼は人文主義の恩恵を十分に受けて育った。そのために真に学識のある印刷・出版業者といわれている。また彼は、ジャン・プティの項目で述べた印刷技術者ジョス・バードの娘ベレッテ・バードと結婚している。その仕事は、大きく分けて、聖書の出版、辞書の編纂・出版、そしてギリシア・ローマの古典作品を活字で刊行していくことであった。

まず聖書についてみると、1528年にはラテン語訳聖書を、次いで1539-44年の間にはヘブライ語原典による旧約聖書を、そして1546年にはギリシア語による新約聖書を出版している。

次に辞書出版についてみると、1531年に『ラテン語宝典』を編纂して出版したが、36年にはその増補改訂版を出した。次いで学生の便を考えて、1538-39年にかけて『羅仏辞典』と『仏羅辞典』をあいついで刊行した。こうした実績に基づいて、ロベール・エティエンヌは、1539年にはヘブライ語及びラテン語の、そして1444年にはギリシア語のための王室御用印刷業者の称号を与えられ、王権の庇護を受けるようになった。そしてその工房は人文主義者たちの交流の場ともなった。

いっぽうこうした辞書の編纂を通じて、彼はフランス語の正書法の問題に直面した。当時はヨーロッパ主要国において、聖職者や知識人の共通語であったラテン語とは別に、フランス語とかスペイン語とかドイツ語、英語といった各国語の文章語が形成されつつあったからだ。こうした状況の中にあって、人文主義者であったロベール一世は、フランス文章語の形成に、いやでも取り組まざるを得なかったといえる。その際彼は宮廷の大法官府、高等法院、会計院で採用されていた正書法に従おうとした。そうすることによって彼は、当時の法曹界や出版業界の要請にこたえようとしたわけである。そしてその意図は十分達成されたといえる。

また彼は、オリーブの樹木の横に使徒パウロが立っている図柄の印刷者標章を定めたが、これはその後長くエティエンヌ一族が長いこと用いるようになった。

ロベール・エティエンヌが出版した聖書の表紙(1540年)。
オリーブの樹木の横に使徒パウロが立っている
図柄の印刷者標章が、中央に描かれている。

ところがその後フランス国内で宗教弾圧の動きが激しさを増してきて、新教を支持していたロベール・エティエンヌは、1550年に、カルヴァン指導下のジュネーヴに亡命することになった。それ以後彼は同地で印刷出版に従事するかたわら、旧教側に一矢報いんとして、風刺文「パリ大学神学部の図書検閲を笑う」を著したり、『フランス語文法』を刊行したりした。

なおこの時代に彼が出版した聖書には、はじめて章節区分が導入されたことが、注目される。のちにこの区分はカトリック教会も正式に採用したために、現在に至るまで聖書の章節区分法は、彼が始めたものが踏襲されている。

次にアンリ一世の三男シャルル(1504-64)は、はじめ医学博士となり、ついで家庭教師をしながら自然科学関連の作品を著していた。ところが兄のロベール一世がジュネーヴへ亡命したのち、パリの印刷所を引き継いだ。そして1551年には王室御用印刷業者の称号を受けることになった。そこでの彼の出版活動を見ると、100点以上の作品を刊行している。

ロベール一世の長男アンリ二世(1528-98)は父に似て、若くしてギリシア・ラテン語に通じ、イタリアに留学している。やがて父親がジュネーヴに亡命すると、その後を追い、1556年には自分の印刷所を開いた。そして父親の死後には、その印刷所も受け継いだ。彼はさまざまな種類の聖書やプロテスタント教理問答集を刊行するかたわら、一家の伝統に従って、ギリシア・ローマ時代の作品も多数出版した。と同時に自らも著作家であったアンリ二世は、古典学者・国語擁護論者として、『フランス語の卓越性を論ず』や『フランス語とギリシア語の近似性を論ず』などの論文を著した。さらに彼は言語関係の主著として『ギリシア語真宝』全六巻の執筆に全力を注ぎ、それを1572年に出版した。

その一方カルヴァン支持者であったアンリ二世は、カトリック社会の腐敗に対する痛烈な風刺とラブレー流の奔放な逸話からなる『へロドトス弁護』なども著した。しかしやがて彼は旧教側からの検閲や、経済的な苦境に苦しむようになり、失意のうちにリヨンで世を去った。

ロベール一世の次男ロベール二世(1530-71)は、父に従っていったんはジュネーヴへ逃れたが、カトリック教を信仰していたために、再びパリへ戻って印刷業に従事した。そして叔父のシャルルが亡くなってからは、王室御用印刷業者の地位を引き継いだ。その出版点数は少なかったが、内容的には古典作品や同時代のフランスの詩人・作家の作品を刊行した。

ロベール一世の三男フランソワ二世(1536-82)も、父親に従ってジュネーヴへ亡命したが、父親が亡くなったのちの1562年に、自らの印刷所を設立した。そこでは主としてプロテスタント系の作品が出版された。

エティエンヌ一族の家系はさらにアンリ二世の長男ポール(1566-1637)が四代目として、その息子アントワーヌ(1592-1674)が五代目として印刷出版業を受け継いでいった。ポールは数多くの古典作品を刊行した。そしてアントワーヌは時代の風潮もあって、カルヴァン主義を捨ててパリに戻り、1612年フランス聖職者のための印刷業者として業務につき、翌年には王室御用印刷業者となった。そこで彼は古典作品、国王の勅令や規定、数多くの宗教的な作品を出版した。しかし彼は死の10年前の1664年にその活動を停止している。

活字版印刷術の伝播 ~15世紀後半~ 02 

その2 15世紀後半に活躍した代表的な印刷・出版業者

<商才に富んだ印刷・出版・販売業者ヨハネス・メンテリン(1410-78)>

グーテンベルクがシュトラースブルクにおいて印刷術の発明をひそかに準備していたころに、その助手として仕事を手伝っていたとみられるのが、ヨハネス・メンテリンと、次の項で述べるハインリヒ・エッゲシュタインの二人であった。

ヨハネス・メンテリンの肖像画

メンテリンはシュトラースブルク出身で、はじめは筆写の仕事で生計を立てていた。そしてある時期に、グーテンベルクのもとで印刷技術を習得した。グーテンベルクから、彼がいつ離れたのかは定かではないが、すでに1458年には自分の印刷工房を持っていたとみられている。元来ものを書くのが得意で、書類の扱いにもたけていたメンテリンは、1463年には司教の公証人にもなっている。

メンテリンは全部で40点の書物を印刷・出版しているが、そのうち4点には自分の名前を書物の中に入れている。このように自分が印刷したものに名前を入れるという習慣は、師匠のグーテンベルクにはなく、同じ弟子のペーター・シェッファ-に見られることである。その点からもこの二人の弟子は、師匠とは違って、近代的な考え方の持ち主であったといえよう。

さらにメンテリンは書籍販売にも力を入れるようになって、自分が刊行した作品の目録(出版目録)も作っている。ただそれは簡単なパンフレット状のもので、販売する書物の間に挟み込んでいた。これは現代の日本の出版社もやっていることであるが、メンテリンはそうしたやり方の元祖だったといえよう。たとえば1469年に出版された『スンマ・アステクサナ』の中に挟み込まれた出版目録は、まさにこのようなものであった。

ヨハネス・メンテリンは、主として神学および哲学関係の書物を出版した。そのいっぽう古代ローマの詩人ヴェルギリウスやテレンティウスなどの作品も出している。それと同時に、中世ドイツの詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの「パルチファル」なども手掛けるなど、幅広い出版活動を見せていた。そして1473年、ライヴァルの登場によってシュトラースブルクでの競争が激しくなった時には、表紙に赤い彩色を施したり、木版画を挿入したりするなど、販売するための工夫もいろいろ行っている。

そのためもあってか、メンテリンは短期間で出版業によって大金持ちになっている。そして1466年には、時のドイツ皇帝フリードリヒ三世から、紋章を授与されている。このことからも、彼は抜け目のない商売人であったことがうかがえる。

メンテリンが刊行したもので特に注目されるのは、1466年6月に出版された、最初のドイツ語版聖書である。ルター訳のドイツ語聖書に先立つこと半世紀のことであった。ただその原本として、異端とされたヴァルド派の人によって14世紀に翻訳されたものを使用したために、そのドイツ語が良くないと、批判されてきた代物ではあった。

メンテリンが印刷した最初のドイツ語版聖書(1466年)

それはともかくとして、メンテリンは名声と財産を維持したまま、1478年に亡くなっている。その後を継いだのは義理の息子のアドルフ・ルッシュであったが、この人物はもっぱら人文主義と古典文学の作品を出版した。

<最初期の最も重要な印刷・出版業者ハインリヒ・エッゲシュタイン(1415/20- ?)>

メンテリンとともに、シュトラースブルクの最も初期の印刷・出版業者であったハインリヒ・エッゲシュタインは、アルザス地方(当時はドイツ帝国領)のロースハイムに生まれ、1441年にシュトラースブルクに移った。そしてシュトラースブルク司教ルーブレヒトのもとで、印章を守る官職についていた。またこの地で彼はグーテンベルクと知りあった。

それが縁となって、エッゲシュタインは印刷術を習得するために、のちにグーテンベルクを訪ねてマインツへ移住した。そして1454年12月中旬、グーテンベルクの「トルコ・カレンダー」の印刷に際して、中心的な役割を果たした。

「トルコ・カレンダー」の最初のページ(1455年)   

しかしグーテンベルクが例の訴訟に敗れたのち、1457年に彼は再びシュトラースブルクに戻った。そして先のメンテリンとともに印刷所を設立した。この二人の間には緊密な関係があったことは確かで、当時シュトラースブルクでは彼らしか知らなかった印刷術の秘密を守ることを、二人は約束しているのだ。

このころ印刷された作品としては、ラテン語の『四十九行聖書』(二巻本)を挙げることができる。その後エッゲシュタインはメンテリンと別れて、1464年に自分の印刷所を設立した。この印刷所においてエッゲシュタインは、1466年に再びラテン語の聖書を出版している。そしてその第二版と第三版が、その後一、二年
の間隔で刊行されている。

このラテン語版聖書の第三版の販売促進のために、1468年、彼は最古の宣伝広告文を、パンフレットの形で印刷している。その少し後になって、その例に倣ったのがヨハネス・メンテリンとペーター・シェッファ-だったのだ。

エッゲシュタインによる最古の宣伝広告文(1468年)

その後エッゲシュタインは出版物の幅を広げるようになった。ラテン語による神学書と並んで、今や彼は主に法律関係の書物を印刷するようになったが、この分野でマインツのペーター・シェッファ-と競合関係に立つようになった。そして1470年代に入ると、人文主義的な作品やドイツ語の書物にも手を出すようになった。例えば、古代ギリシアの風刺作家ルキアノスの『黄金のロバ』のドイツ語版である。

そうした営業努力にもかかわらず、彼は1470年代の末には、経営危機に陥った。そのために1478年にはバーゼルの製紙業者アントン・ガリチアーニから、多額の借金をしている。そしてその借金を返済できなかったため、ガリチアーニから1480年にバーゼル裁判所に提訴されている。

このように晩年には営業面での成功は得られなかったものの、エッゲシュタインの印刷工房では、何人もの職人が印刷術を習得していたのだ。彼が活字版印刷術の初期の最も重要な印刷者の一人であったことは、間違いない。なおその没年は不明である。

<芸術家的才能と技術的能力を兼ね備えた初期印刷出版業者ニコラ・ジェンソン(1420-81)>

この人物は初期印刷本の有能な印刷出版業者の一人であった。そしてその芸術家的才能と技術的能力によって、とりわけ美しい活字書体を発明した人物として、近代において再評価されているのだ。

ニコラ・ジェンソンは1420年ごろ、パリの南東240キロにある、フランスのソムヴォア村に生まれた。塗装工として働いた後、パリ王立造幣局の金型彫り職人になり、1450年ごろにはトゥール造幣局の局長に就任している。

そのころパリ大学から、フランス国王シャルル七世に、グーテンベルクによって印刷された聖書が献上された。この最新技術の成果であった印刷物に、国王はすっかり感銘を受け、その技術をフランスに導入しようと考えた。そして金属加工の技術と文字についての知識を兼ね備えていたジェンソンに白羽の矢が立った。そして1458年10月4日に勅命を出して、彼をマインツのグーテンベルクのもとに派遣した。当時のグーテンベルクはフストとの訴訟に敗れ、「グーテンベルク屋敷印刷工房」で仕事をしていた。そのためにジェンソンはこの印刷工房で、グーテンベルクから印刷術を習得し、併せて巨匠の信頼も獲得した。

その後1461年にフランスではシャルル七世が亡くなり、ルイ十一世が即位することになり、彼は印刷術を故郷に持ち帰る必要がなくなった。そしてその翌年の1462年にはマインツで例の騒乱が起きた。この時は師匠に対する尊敬の念から、ジェンソンは巨匠とともにエルトヴィルへ移ったものとみられている。そして1463年に師匠のために、エルトヴィルで小さな印刷工房の設立を手助けしたと思われる。ちなみにこのエルトヴィルの近くにこのころ建てられたマリーエンタール修道院には、ニコラ・ジェンソンについての記述が残されている。彼はドイツではニコラウス・イェーンゾンと呼ばれていた。

その後ジェンソンがいつごろまでグーテンベルクのもとにいたのかは明らかではない。しかし1468年にはヴェネツィアに移り、グーテンベルク工房の同僚だったシュパイヤー(スピラ)兄弟のために活字を作っていたものと推測される。このシュパイヤー兄弟は、1469年にヴェネツィア大学から公認された活字版印刷術の独占権を持っていた。ところが翌1470年に、兄のヨハネスが死んでその権利を失った。

ニコラ・ジェンソンだとされる数少ない肖像画(左)
ニコラ・ジェンソンの印刷者標章(右)

その時ジェンソンは用意していたかのように、商人から資金援助を受けて、自らの印刷工房を設立したのであった。そして自ら考案した素晴らしい完成度のローマン体活字で、印刷業務を開始した。この時以来ジェンソンは、目覚ましい活躍を示すようになった。1471年には一年間で20点もの書籍を印刷したのであった。それらはキケロをはじめとする古代ローマの古典であった。そしてその翌年には、西暦1世紀のプリニウスが著わした名高い『博物誌』を刊行した。

ジェンソンが印刷したプリニウス著『博物誌』(1472年)

その印刷の出来栄えは実に精巧で、独特の気品をたたえている。総じてジェンソンが印刷した書物は、当時のイタリアの貴族や人文主義者から、大きな支持を受けていたといわれる。

やがてジェンソンは優れた商才を発揮していった。1470年代前半には会社を設立して、フランス市場に向けた書物の配送拠点をイタリア西北部に置くなどして、その事業をさらに拡大していった。そして1474年には、アルプスの向こうの北ヨーロッパの需要に合わせて、ゴシック文字(ブラック・レター)の活字も作った。

1475年にはローマ教皇シクトゥス四世によってローマに招聘され、教皇から報酬とパラティン伯爵の称号が与えられた。その後競合会社だったケルンの印刷者と合弁会社を作ったりした。このように独立してからわずか十年という短い歳月で、集中的に多面的な活躍をして、素晴らしい業績の数々を遺していったが、このころから本人は事業から手を引くことになった。そして1481年にその生涯を閉じたのであった。

ジェンソンは記念碑としての意味合いもある自らの墓石に、形見の言葉を記すのに際して、虚飾を配して質素にするよう依頼している。このことからも、活字に対するジェンソンの独自の造形感覚を垣間見ることができる。

ジェンソンの活字は、その後ヴェネツィアのアンドレア・トレッサーニという印刷者に売られた。このトレッサーニは、のちに項を改めて述べることになるルネサンスを代表する印刷・出版業者アルドゥス・マヌティウスの義父にあたる人物である。このことからアルドゥス工房で使われた活字は、ジェンソンから少なからず影響を受けていた、と考えられるのである。

またニコラ・ジェンソンの活字は、近代になってから、改めて注目されるようになったことも、ここで付け加えておきたい。

ジェンソンが印刷した『プルターク英雄伝』(1478年)

<イギリスに活字版印刷術を導入した印刷者ウイリアム・カクストン(1422-91)>

これまで述べてきた15世紀後半の初期印刷者たちは、ペーター・シェッファ-であれ、ヨハネス・メンテリンやハインリヒ・エッゲシュタインであれ、はたまたニコラ・ジェンソンであれ、すべてグーテンベルクから直接に活字版印刷術を習得した人物であった。

ところがこれから紹介するイギリス人のウイリアム・カクストンは、世代の点では以上述べてきた初期印刷者たちとほぼ同じであったが、印刷術の元祖グーテンベルクとは直接的なかかわりを全く持っていない人物であった。それにもかかわらず彼は、島国のイギリスに活字版印刷術をもたらし、同国の出版産業の基礎を築いたのであった。

カクストンは1422年、イングランド南東部のケント地方で生まれ、1438年から繊維商組合の有力者ラージに徒弟奉公をした。その前半生は毛織物輸出商組合の商人として活躍した。1463年にはその前進基地であったフランドル地方(現在のベルギー)のブリュージュで、イギリス商人コミュニティーの総督になっている。

このころカクストンが、写本の取引に従っていたのは確かで、さらに印刷本の取り引きもしていた可能性があるといわれている。同時に彼は、毛織物取引を有利に行うために、総督としてしばしば困難な外交交渉にもあたっている。その後彼はイングランドとハンザ都市のひとつケルンとの関係を取り持つために、1471年から翌1472年まで、この町に滞在している。そしてこの間に、ケルンの印刷者兼活字鋳造者ヨーハン・ヴェルデナーの工房で印刷術を習得した。

ウイリアム・カクストンの肖像画

その後彼は、印刷設備一式と職人数人を引き連れて、ブリュージュに戻って、印刷所を設立した。そして1473年末に、英語の最初の活字本といわれる『トロイ歴史物語』を印刷・発行した。港町ブリュージュのあったフランドル地方は、当時ブルゴーニュ公国の支配下にあった。そして商業上の利害からイングランド王国とブルゴーニュ公国の関係は緊密であった。さらにブルゴーニュ公爵とイングランド国王の妹マーガレットとの結婚によって、その関係は一層深められていた。そうしたことから、カクストンはこの公爵夫人マーガレットの勧めに従って、いま述べた物語を自らフランス語から英語に翻訳して、出版したというわけである。

その後1476年に、イングランドに戻ったカクストンは、商業の中心地であったロンドン市中ではなくて、宮廷と議会の所在地であったウエストミンスター(現在はロンドンの西部にある)に、印刷所を建てた。彼は元来は商人であったが、外交官としてイングランド王国とブルゴーニュ公国の宮廷に出入りしていたために、貴族や宮廷人との間に緊密な関係を築き上げていたからであった。そこで最初に印刷したものは免罪符であった。印刷所がおかれていたウエストミンスター寺院に集まっていた聖職者のために、彼はまず免罪符や祈祷書、信仰論文などを印刷したわけである。

それと同時に、貴族や宮廷人のために当時宮廷でもてはやされていた物語(ロマンス)や詩なども、フランス語の原書から自ら翻訳して出版した。それによって彼はその後の英語の発展に決定的な影響を与えたといわれる。イングランドにおいて、それまで地域によってさまざまに話されていた英語の方言は、カクストンの出身地ケント訛りの英語を通じて、初めて統一的な書き言葉へと発展したわけである。そして次の時代にイギリス文学の盛況をもたらしたのであった。

いっぽう中世イギリス文学の傑作で、14世紀イギリスの詩人チョーサーによって書かれた『カンタベリー物語』も、取り上げて、1476年に印刷・出版した。さらに14世紀から15世紀にかけて活躍した、同じくイギリスの詩人ジョン・ガウアーとジョン・リドゲイトの作品や、『アーサー王の死』などの写本市場の有力商品なども活字化していった。

そのほか学校の教科書や、英語で最初の法律書としてのヘンリー七世の法令集なども出版した。その際ラテン語の作品はゴシック書体で、英語の作品は折衷書体で印刷された。これらはイタリアやフランスで使用されたローマン体と比べると、中世以来の黒々とした印象を人に与えるために、「ブラック・レター」と呼ばれるようになった。イギリスではこのブラック・レターが、17世紀まで続くことになる。

ともかく多くの初期印刷者が経済的な困難に陥っていく中で、経験豊かな商人であったカクストンは成功をおさめ、その作品の多くは版を重ねた。彼が印刷した書物の前書きや後書きには、翻訳者や出版者としての彼の活動についてもいろいろ書かれていて、後世の研究者にとって大変有益である。

<出版事業を社会的に認知された産業へ育てたアントン・コーベルガー(1440/45-1515)>

初期の大出版業者コーベルガーはドイツ人であるが、グーテンベルクとの直接的なつながりはない。彼がどのようにして活字版印刷術を習得したのかは、明らかではない。しかし1470年には南ドイツのニュルンベルクにおいて印刷業を開始している。

当時ニュルンベルクは中央ヨーロッパ最大の商業都市で、ヨーロッパ各地から商人や銀行家が集まっていて、資材・製品の取引が極めて盛んであった。ワーグナーの楽劇として名高い『ニュルンベルクのマイスタージンガー(職匠歌人)』が活躍したのも、このころであった。

余談になるが私は一昨年の夏のドイツ旅行の際にニュルンベルクの町にも立ち寄った。中世からの城壁がぐるりと旧市街を取り囲み、その外側に市電が走っていた。この旅行については、「2019年夏、ドイツ鉄道の旅」として、このブログでも取り上げているので、興味のある方はお読みくだされば幸いである。ただ一つ、コーベルガーと同時代のドイツの画家アルブレヒト・デューラーの生家を訪問したことだけをここでは、お伝えしておきたい。

さてコーベルガーはやがて印刷者、出版者、書籍販売者を一身に兼ねた偉大な事業家となった。つまり都市貴族と組んで市参事会員の一人となり、出版事業を社会的に認知された立派な産業の一つに育て上げたわけである。その意味ではイギリス人のカクストンと相通ずるところがあるといえよう。

当時ニュルンベルクの彼の印刷工場には、24代台の印刷機があり、植字工、校正係、印刷工、彩飾工、製本工など100人余りの職人が働いていた。そしてそこの植字工は、30種類の異なった活字書体を使用することができたという。さらに彼はニュルンベルクのほかにも、スイスのバーゼルやフランスのリヨンでも、自分のところの出版物を印刷させていた。と同時にほかの印刷所の書物を販売していたりした。例えば1498年-1502年には、7巻本の注釈付き聖書の印刷を、バーゼルのヨハネス・アマーバッハ印刷所に頼んでいる。

そうした書籍販売のために、見本市の町フランクフルト・アム・マインをはじめ、アウクスブルク、バーゼル、ウルム。ウィーン、ヴェネツィアのほか、国の内外に数多くの販売店を持っていた。それは西はオランダから東はポーランドまで、北はドイツ北部の町から南はイタリア北部の町まで達していたのである。

その取引の範囲が広くて経営法が優れていた点では、コーベルガー社は他を大きく引き離していた。ほかの印刷所からの書籍は、あるものは委託で引き取り、またあるものは自社の出版物との交換で受け取っていた。

その印刷物は主として中世後期の学術書、とりわけラテン語の神学書や法律書であった。ギリシア・ローマ時代の作品は少なかった。またドイツ語の作品も多くはなかった。しかしその中には1483年製作のドイツ語版聖書や、ニュルンベルクの医学者で歴史家のハルトマン・シェーデルが編纂した1800枚以上の木版画入りの大部の書物『世界年代記』(1493年)といった重要な作品が含まれていた。

 

コーベルガー刊行のラテン語聖書(1481年ごろ)。
本文に注釈が付いているのが特徴

『世界年代記』は初めラテン語で出版されたものを、のちにドイツ語に翻訳して出版したものである。内容的には中世に好まれた一種の歴史書で、天地創造から世界の終末までを扱っている。編集者が住んでいたニュルンベルクの町をはじめとして、数多くの都市図や図版を多く含んだ大型の書物であった。そのため中世末期の最大の出版事業だといわれているのだ。コーベルガーが印刷・出版した書籍は、全部で200点から250点に達するものと推定されている。

シェーデル編集の『世界年代記』(ドイツ語版)。
旧約聖書のノアの箱舟を扱った

図版と説明書き

<南フランスのリヨンを出版都市にしたバルテルミー・ビュイエ(?-1483)>

ビュイエは南フランスのリヨンに初めて印刷工房を作り、出版都市としてのリヨンの基礎を築いた人物である。

15世紀半ばのリヨンの町は繁栄のただなかにあり、そこの太市(おおいち)は当時のヨーロッパ世界の商人たちの出会いの場所であった。イタリアの諸都市やドイツ語圏の諸地方から、商人たちは年に4回リヨンにやってきて、取引の決済をしていた。この町はドイツにもイタリアにも近く、パリ周辺地域と地中海沿岸の諸地方とを結ぶ街道に沿っていた。そのため地理的にも有利な交通の要衝であった。同時にリヨンは人文主義の精神が大司教を取り巻く人々の間に浸透するなど、知的な面でも一つの中心をなしていた。

ビュイエが生きていたのは、このような環境の中であった。初めは法学の道を進んで、一定の社会的な地位と財産を築いた。この人物が出版業に身を投じたのは、文物に対する愛好心からといわれている。1460年に彼はパリにいて、そこの大学に最初の印刷工房を作った。そこで例のギヨーム・フィシェーとヨハン・ハインリンと出会ったものと思われる。ともかく彼は印刷術が文明の利器であると同時に、資本に実りをもたらす手段でもあることを理解していた。

そこで彼はフランドル地方のリエージュ出身で、バーゼルをはじめとするスイスの各地を渡り歩いていた放浪の印刷工ギヨーム・ル・ロアを雇って、自宅に印刷工房を作った。そして1473年に、ロタリウス枢機卿の『教義の小道』というラテン語の書物を世に出した。これはリヨンで印刷された最初の書物であった。

ビュイエは印刷業に出資すると同時に、印刷すべきテクストを選んだ。彼が手掛けた書物は10年間で16点と、決して多くはなかった。そしてそれらに対してゴッシック書体の活字を用いた。書物の種類としては、法律書と医学書そして仏訳聖書であった。

ただし彼は自分の工房から生まれた印刷物が地元で流通するだけでは満足しなかった。幸いこのころ書籍商たちはリヨンの太市に集まり始め、その販路拡大が確実なものになった。そのためにビュイエはさらにパリ、トゥールーズ、アヴィニヨンに支店ないし倉庫を作った。

このビュイエのケースは、印刷術の初期の時代に、大きな資産を持っていた人物が、書物の商いにどのようにして関心を持ち、印刷術の発展に寄与するようになっていったのかを、よくわからせてくれる。

 

活字版印刷術の伝播 ~15世紀後半~ 01 

その1 ドイツの他の都市並びにヨーロッパ諸地域への伝播

<マインツにおけるその後のフスト&シェッファー印刷工房>

先に「グーテンベルクと活字版印刷術」の項目で述べた1462年のマインツ騒乱によって、一時閉鎖されていたフスト&シェッファー印刷工房は、二年後の1464年には、豊富な資金のおかげで、立派に再建された。

ここでは当初、免罪符の印刷を行っていたが、その経営は困難を極めたようである。しかし優れた商売人であったフストはこの受難の時代を無為に過ごすことなく、各地を旅して自分の工房の製品を売り歩いていた。当時のフストは印刷本の聖書を写本だと称して、しかも50クローネという安価で売ったという。当時はまだ印刷本に対して世間では、正当な評価が定着していなかったためだと思われる。

そのために書写本の製作に従事していた写字生たちによって、不当な安価を攻撃されたりした。あまつさえフストは魔法を使う者だと告訴されたとも、伝えられている。何しろ当時の聖書の彩飾写本は、一部400~500クローネはしたからである。その後ヨハネス・フストは、1466年にパリへの出張旅行中に、当時流行していたペストにかかって死亡した。

その後フスト&シェッファー印刷工房は、もっぱらペーター・シェッファ-が、その全体の経営にあたった。そしてこの工房はその頃から再び、輝かしい発展を見せるようになった。

そこではもっぱら神学書が出版されていた。たとえば「ミサ典書」などは、地元のマインツだけではなくて、かなり離れたマイセン、ブレスラウ、クラカウなどの東部地域にまで売られていた。こうした神学や宗教関係の書物は、カトリックの各司教管区の事務局によって一括して引き取られ、次いで司教管区内の教会や聖職者に引き渡された。これを現在の状況に置き換えてみると、学校を通じて教科書を売るようなもので、販路としては確実で、経営面での危険が少ない商売だったといえよう。

教皇グレゴリウス九世の教令(シェッファー工房で、1473年に印刷)

とはいえシェッファーは、印刷や書物づくりに誠意をもって、良心的に取り組んでいた。そのうえグーテンベルクについての項目で述べたように、書物づくりのうえで、巨匠グーテンベルクがなし得なかった、様々な改良と工夫を加えたのであった。

たとえば書物にページナンバー(ノンブル)を付け、刊記(奥つけ)を記し、印刷者の標章(プリンターズ・マーク)を入れ、さらに色刷りの印刷を行い、行間を適当な広さにあけるために挿入する薄板(インテル)を開発し、欄外に注記を入れる方法を創案しているのだ。

そしてフストの死後には、印刷技術者から印刷本販売者へと、その活動の重点を移していた。そのことによって商売は再び軌道に乗っていったわけだが、1470年には、書物の宣伝広告用に、一枚刷りの出版目録を発行している。これには本文に用いたのと同じ活字を使用したため、世界で初めての<活字書体見本帳>ともいわれている。

当時のシェッファーは、パリをはじめとしてヨーロッパの各地に、支店や販売店を設け、自家出版物だけではなくて、ドイツの他の印刷業者の手になる書物も、広く売りさばいていた。また当時ようやくドイツ書籍販売の中心地になりつつあったフランクフルト・アム・マインへも進出していた。

さらにシェッファーは、フランクフルトの市民権を入手して、事業の本拠地をそこに移す計画も立てた。しかしこれは実現せず、その事業は1480年ごろから、ようやく衰えの兆しを見せ始めた。そして同年以降、刊行書の数は減少の一途をたどった。これは同業の強力なライバルの出現によるもので、もはや昔の盛況を取り戻すことはできなかった。こうしてペーター・シェッファ-は、1503年にこの世を去った。

その後事業は息子のヨーハン・シェッファーによって継承されたが、この人物は祖父や父の収めた成果をわずかに守っていくのが、精いっぱいだったという。そして1531年に子供がいないまま死亡したため、その後継者はいなかった。

マインツにはほかにこれといった印刷工房がなかったために、誇り高き印刷術誕生の地マインツも、印刷・出版業の中心地としての名声を失い、その地位をほかに譲ることになったのである。

<バンベルク>

グーテンベルクがまだマインツで活動していたころ、そこからマイン川に沿って東へ200キロほど行ったところにある町バンベルクで、「三十六行聖書」が印刷された。その意味でシュトラースブルクを除けば、このバンベルクという町はドイツにおける二番目の印刷地ということになる。

この町と私の個人的なつながりで言えば、ドイツの冒険作家カール・マイの作品をもっぱら出版している「カール・マイ出版社」がこのバンベルクにあるため、私はこの作家の作品の日本語への翻訳・出版の交渉のために、何度も訪れた懐かしいところである。そして中世の面影がいまなお色濃く残っている静かな古都である。結局私は「カール・マイ冒険物語~オスマン帝国を行く」全12巻を2017年に完成させている。

さて本題に戻って、「三十六行聖書」の印刷のことであるが、グーテンベルクとフストとの裁判の際に公証人を務めたバンベルク出身のヘルマスペルガーという人物が、その裁判を通じて知ることができた印刷術について、同郷の芸術に関心のある司教に語って聞かせた。そしてそのバンベルク司教が同じ町の印刷者プフィスターという人物に、聖書の印刷の注文を出した。しかしこの印刷者にはその能力がなかったために、グーテンベルクの信頼の厚かった弟子のハインリヒ・ケッファーが、「グーテンベルク屋敷印刷工房」から改良されたDK活字を運び込んで、聖書の印刷を行ったわけである。

この聖書の印刷にあたってケッファーは、一ページの行数を、全体の視覚的なバランスを考えて、三十六行にした。そのために「三十六行聖書」と呼ばれているのだが、行数を減らしたために、ページ数が増え、全部で1768頁となり、三巻本になっているものである。

その推定発行部数は、羊皮紙製20部、紙製60部といわれている。これは当時のバンベルク司教区の直接の需要を満たす数字である。マインツの「四十二行聖書」に比べれば見劣りするものの、それでもなお、この「三十六行聖書」は傑作だといわれている。この印刷工程全体の監督にあたったケッファーは、この時グーテンベルクの弟子の地位から、一人の独立した親方の地位へとあがった、と見るべきであろう。ケッファーの「三十六行聖書」は、完本として13冊が現存しているほか、断片のかたちでも何枚か残っている。

「三十六行聖書」(バンベルクで、1458-60年ごろ印刷)

この二つの聖書の印刷の時期についてであるが、グーテンベルクの原活字であるDK活字で印刷されている「三十六行聖書」のほうがやや見劣りすることから、研究者の間では、「四十二行聖書」よりも古いものと長いこと信じられていた。

しかしながら後になって、そのテキストがマインツの「四十二行聖書」を原稿として用いていることが発見され、印刷の時期は「四十二行聖書」のほうが先であることが確認された。またパリ国立図書館所蔵の「三十六行聖書」の断片には、イニシャルなどを彩飾する人のメモ書きが記されていて、そこには彩飾の仕事が1461年に終了したと書かれている。そこから逆算して「三十六行聖書」は、1458年から1460年の初めころにかけて印刷されたものと推定されているのだ。

さらに「三十六行聖書」がバンベルクで印刷されたことへの傍証として、使用された紙の製造地の問題があげられる。15世紀後半に作られた印刷本は印刷の揺籃期に製造された本という意味で、「揺籃期本」と呼ばれているが、この時代に用いられた紙には透かし模様が入っていた。そのためこの透かし模様の形によって、紙の製造地を割り出すことができるのである。その結果、使用された紙のほとんどすべてがバンベルク周辺の紙すき所で作られたものであることが明らかになった。

さて「三十六行聖書」の印刷終了の後、ケッファーはバンベルクを去った。そしてその印刷工房は、再びアルブレヒト・プフィスターが運営していくことになった。この印刷者はその後、活字版印刷と木版イラスト画とを組み合わせた方法で仕事をしていった。たとえば寓話集『宝石』という作品を出版したが、それはグーテンベルク工房やフスト&シェッファー印刷工房の作品から見れば、質の点でぐんと見劣りした。しかしテキスト内容の易しさとイラスト入りのために、売れ行きは良かったという。

ここには印刷・出版業がその後たどった二つの行き方が、先駆的な形で現れているといえよう。つまり美学的・内容的に質が高く、後世に残るものの、高価で発行部数が少ない作品の印刷が第一。そのいっぽう、質は劣るが、内容的に易しく、値段も安いために、多くの人に売れる作品の印刷が第二である。

それはともあれこのバンベルクのアルブレヒト・プフィスター印刷工房を通じて、活字版印刷術はマインツの域外へと飛び出していったのである。

また「三十六行聖書」の製作に関与したとみられるヨーハン・ゼンゼンシュミットは、その後ライプツィヒ出身の修士ペッツェンシュタイナーとともに、バンベルク近郊のミヒェルスベルク修道院の中に、印刷工房を作った。そして1481年に最初の書物として、ベネディクト派の美しいミサ典書を印刷したが、これは高い評価を受けた。そのために最初の出版者兼販売人といわれるペーター・ドラッハから注文を受け、その委託販売人によって、現在のチェコにあたるベーメンやメーレン地方で売りさばかれた。当時それらの地方はドイツ帝国の領内にあった。

このゼンゼンシュミットはいわゆる遍歴印刷工であり、遍歴しながら場所を変えて「ミサ典書」を印刷していった。こうして1485年にはレーゲンスブルクで、1487年にはフライジングで、さらに1489年にはディリンゲンにおいて「ミサ典書」を印刷していったのであるが、それらの場所はみなバンベルグからそれほど遠くない南ドイツの諸地方にあったのだ。

さてアルブレヒト・プフィスターの死後、バンベルクではヨハネス・ファイルが典礼書や小規模印刷物の刊行を続けた。もう一人の印刷者ハンス・シュポーラーは、所によって既に発生していた農民戦争を告知した民衆向けの小刊行物を、印刷・発行した。しかしこの印刷者は、バンベルク司教選挙に落選したザクセンのアルブレヒト公を嘲笑する詩を印刷したため、バンベルクを追放され、エアフルトに逃れた。

<シュトラースブルク>

シュトラースブルクは、かつてグーテンベルクがひそかに印刷術の発明を準備していた場所であり、初期の習作「ドナトゥス」などがここで印刷されたことについては、「グーテンベルクと活字版印刷術~その01 印刷術発明への歩み~」の項目で、すでに述べた。

そのころグーテンベルクの助手として仕事をしていたとみられるのが、ハインリッヒ・エッゲシュタインとヨハネス・メンテリンの二人であった。この二人は後にグーテンベルクから独立して、シュトラースブルクにおいて自らの印刷所を作って活動しているが、そうしたことについては項を改めて、詳しく述べることにする。

この二人のほかには、力強く、表現力豊かな木版画で知られた書物の印刷者であったハインリヒ・クノープロホツァーと、ヨハネス・グリュニガーの名前を挙げておこう。

いずれにしても15世紀の末までに、シュトラースブルクでは50軒ほどの印刷所が仕事をしていたのである。

<ケルン>

15世紀のころは、交通路としては陸路よりも水路、つまり川の上を船で移動するほうがはるかに楽であったようだ。そのために活字版印刷術の伝播も、マインツからまずはライン川やその支流のマイン川に沿って行われている。先のバンベルクへはマイン川に沿って、シュトラースブルクへはライン川に沿って移動したわけである。

そしてこれから述べるケルンの町は、マインツからライン川に沿って160キロほど北上したところにあるのだ。古代ローマ時代、軍の駐屯地があった古都であるが、私にとっては最もゆかりの深いドイツの町である。というのは1970年代と80年代の6年間、この町にある海外向け放送局の日本語番組を担当していたからである。旧市街の中心にはゴシックの大聖堂がそびえ、その隣には「ローマ・ゲルマン博物館」がある。そして旧市街をぐるりと取り巻く環状道路の各所には、中世来の城門が遺跡として残されている。またカトリックの伝統によって、毎年冬にはカーニバルが盛大に祝われている。

余談はこれくらいにして本題に戻ろう。このケルンにウルリヒ・ツェルが初めて印刷所を設立したのは、1464年のことであった。この人物は1453年にエアフルト大学の学籍簿に登録している。そしてマインツの「フスト&シェッファー印刷工房」で印刷術を習得したのち、ケルン大学の学芸学部に登録してから、ケルン市において印刷所を設立したのだ。その翌年から最初の印刷物を世に出しているが、彼が出版したのはおおむねカトリックの神学書とギリシア・ローマの古典書であった。

その他のケルンの印刷者としては、バルトロメウス・ウンケル及びハインリヒ・クヴェンテルの二人が、木版画がたくさん入った低地ドイツ語およびニーダーザクセン語による聖書の印刷によって知られている。とりわけクヴェンテルは、1479年から1500年までの22年間に、およそ400点の書物を出版して、この時代の最も生産力の高い印刷者の一人とされている。

この時代のケルンには、30軒ほどの印刷所が稼働していたといわれる。

ケルンの印刷者ハインリヒ・クヴェンテル印刷の聖書。
木版画がたくさん入っている(1478年)

<バーゼル>

グーテンベルクも若いころに滞在していたといわれるバーゼルの町は、マインツからライン川に沿って300キロほど南に行った所にある。この町は現在スイス領の北端に位置しているが、ライン川をはさんで北がドイツ領、西がフランス領になっている。スイスのおよそ7割がドイツ語を話す人で占められていて、ドイツ文化圏に属している。その北端にあるバーゼルの町のはずれのライン川に面した場所に、スイス、ドイツ、フランスの三か国が相接している地点があるので、私は好奇心でその場所を訪れたことがある。そしてしばし感慨にふけったものである。ライン川は源流を発して、いったんボーデン湖に注いでから、ドイツとスイスの国境を西へと流れ、このバーゼルで北へと向きを変え、独仏の間を北上していくのだ。

さて印刷の話に戻すと、このバーゼルにグーテンベルクの昔の仲間のベルトルート・ルッペルが印刷所を作り、1468年には大型のラテン語聖書を印刷している。その商売は一時は順調に進んだが、やがて現れてきた新興のライバルによって追い抜かれてしまった。

またシュトラースブルクから移ってきた印刷者ミヒャエル・ヴェンスラーは、「ミサ典書」を印刷して、バーゼル、ケルン、マインツ、トゥリア、ソールズベリーなどで販売した。このヴェンスラーも最初のうちは結構な商売をやっていたが、やがて経済的な破局に見舞われ、印刷所は倒産して、夜逃げをしなければならなかったという。

バーゼルの印刷者としては、もう一人ヨーハン・ベルクマンの名前を挙げることができる。ベルクマンは若きアルブレヒト・デューラーの木版画をおさめたゼバスティアン・ブラントの「愚者の船」を出版したことで知られている。

ブラント作「愚者の船」
(1494年、ベルクマンが印刷。木版画は若きデューラーが描いたもの)

次いで15世紀末から16世紀の初めにかけて、二人の印刷・出版業者ヨハネス・アマーバッハ及びヨハネス・フローベンが、ここバーゼルで、当時の精神界の新潮流ともいうべき人文主義のために尽くすことになる。ただこの二人については、項を改めて詳しく述べることにする。

ともあれ以上あげてきたドイツ語圏の諸都市のほかに、南ドイツのアウクスブルク、ニュルンベルク、ウルムからさらに、ヴィーンへも活字版印刷術は伝播していったのである。

そして西暦1500年の時点で見ると、当時のドイツ帝国領には、あわせて62か所に印刷所が存在していたのである。

<ヨーロッパ諸地域への伝播>

1462年のマインツ陥落以降、ドイツの印刷工はドイツの各地に移っていったばかりではなくて、近隣のイタリア、フランス、スペインその他の諸国へも散っていった。

彼らは初め印刷の知識や経験を各地に伝え、商売のうえでも成功を収めた。しかし見知らぬ土地や環境の下で、印刷業を永続させていくのはなかなか困難なことであった。やがて新しい技術を習得した現地の人間が印刷業に進出してきて、次第に競争相手として成長するようになった。こうした全般的な状況の下で、しばしばドイツから移った印刷者は、地元の印刷者によって、とって代わられることも珍しくなくなっていったのである。

活字版印刷術のヨーロッパ諸地域への伝播の様子(15世紀後半)

上の地図をご覧になれば分かるように、15世紀後半には、ドイツ各地の諸都市をはじめとして、周辺諸地域へも活字版印刷術は伝播していったのだ。その中でもまずは、イタリアのローマ及びヴェネツィアそしてフランスのパリについて、ご紹介していくことにする。

<ローマ>

アルプスを越えて、イタリアに初めて活字版印刷術をもたらしたのは、コンラート・スヴェインハイムとアーノルト・パナルツという二人のドイツ人印刷工であった。この二人は1465年に、ローマ近郊のスビアーコにあった修道院の中に印刷所を開いた。そして1467年にローマに移って、そこに新しい印刷工房を建てた。

そこで彼らはイタリアの読者に合わせて、人文主義の手書き文字を基にして、新たに活字を作った。それはゴシック体からローマン体に移行する過渡期のものであるために、一般に「プレ・ローマン体」と呼ばれているが、すでにゴシック体の黒々とした威厳を脱し始めている。こうして二人は1472年までに28点の作品を、12、475部印刷した。

このような細かい数字が分かっているのは、実はこの二人が商売に困った末に、時のローマ教皇に嘆願の手紙を出しており、それが今に残っているからである。書物の売れ行きが悪くて、生活にも困るほどなので、何とか保護してくれるよう、二人はローマ教皇に訴えたのである。

これに対して教皇からは何の援助もなかったという。その後パナルツは1473年にスヴェインハイムと別れて、一人で仕事を続けたが、活字を更新することもできず、その印刷物は質的な低下をきたした。このように生活に困った末に、パナルツは1476年に死亡した。スヴェインハイムのほうはカード印刷に従事して、生活を支えたという。

同じドイツ人の印刷工でも、ウルリヒ・ハーンの場合は成功を収めている。彼は1443年にライプツィヒ大学で学び、バンベルクの「アルブレヒト・プフィスター印刷工房」で仕事をしたのちにローマに移った。

最初は枢機卿トゥレクレマータの注文を受けて仕事を始めたが、その作品『瞑想録』のために、当時イタリアで好まれていたロトゥンダ書体による金属活字を用い、34枚の木版画を添えた。おそらくはフラ・アンジェリコが描いたと思われるフレスコ画のシリーズをコピーしたものである。

後になってハーンは、教皇の勅書、演説集、規定集などを印刷した。そして1476年には楽譜付きの歌の本を印刷している。大部分が聖職者か修士であったドイツ人印刷者たちは、ローマでは15世紀末までは何とか優位を保つことができたという。

ところが人文主義が特に保護奨励され、印刷に関してイタリアにおけるもっとも重要な場所へと発展しつつあったヴェネツィアでは、ドイツ人印刷者に対して、イタリアの同僚が強力なライヴァルになってきたのである。

<ヴェネツィア>

ヴェネツィアの最初の印刷者は、ドイツ人のヨハネス・フォン・シュパイヤー(イタリア語ではスピラ)であった。シュパイヤーはおそらくグーテンベルクのもとで印刷術を習得したものと思われる。そしてヴェネツィアでは弟のヴェンデリンとともに仕事をしたが、兄が亡くなってからは弟がその仕事を受け継いだ。

二人は当時のヴェネツィアの人文主義者の間で起きていた書体の変化に対応して、新たな活字を作った。つまり人文主義者たちは、碑文に残されていた古いローマ時代の大文字を、彼らの理想的な書法とみなして、ペンで書かれることによって成立した小文字との間に調和を見出そうとしたのであった。

こうした考え方に合わせるようにして、シュパイヤー(スピラ)兄弟は新たな活字書体を作り上げたわけである。この場合、小文字も大文字と同様に、一つ一つのキャラクターがベースラインにセリフをもつことによって、独自のスペースをもって、全体として明るい紙面の形成ができるようになった。

また、それまで手書き文字の模倣にすぎなかった活字が、手書き文字から独立した印刷用の文字活字としての形態を、初めて持つことになったといえる。ともあれ彼らの注目すべき業績としては、1471年にイタリア語で書かれた聖書を初めて出版したことである。

シュパイヤー(スピラ)兄弟のローマン体活字(1471年)

ついで南ドイツのアウクスブルク出身のエアハルト・ラートルトも、ヴェネツィアで大きな名声を獲得した。彼は同郷の二人の手助けを得て、学術書を60点ほど印刷した。その作品の多くは縁取りの装飾が施されていたが、画家ベルンハルト・マーラーがその装飾模様を飾った。また木版画のうちのいくつかは、数枚の版木を重ねるようにして印刷された多色刷りのものであった。

ラートルトは年を取ってから故郷のアウクスブルクに戻ったが、そのヴェネツィアの装飾縁取りが、それ以後ドイツの各都市にも普及していった。当時アルプスを越えて、ヨーロッパの北と南で文化の相互交流が盛んだったことが、このことからもうかがえる。

ヴェネツィアで活躍した印刷出版業者としては、このほかにもフランス人のニコラ・ジェンソン(ドイツ語ではニコラウス・イェーンゾン)と、イタリア人のアルドゥス・マヌティウスがいるが、この二人については項を改めて述べることにする

ローマン体活字の比較(1464年から1470年まで)

ともかくもこの時代にイタリアで出版業が最も盛んだったのが、このヴェネツィアであった。ここでは西暦1500年までの揺籃期印刷時代に、150の印刷所において4、500点の書物が、一点200部から500部の発行部数で出版されていたという。

さらにローマとヴェネツィアのほかに、51のイタリアの都市で印刷が行われていたのだ。当時経済発展の著しかったイタリアは、かくして15世紀末までに、書物の量及び質の点で、活字版印刷術の発祥の地ドイツを追い越したのであった。

<パリ>

ドイツ以外でヴェネツィアに次いで、二番目に重要な印刷地は、当時人口20万人を擁していたフランスの首都パリであった。このころパリには6千人ほどの写字生がいたといわれる。彼らはドイツで印刷された「聖書」を目にして、失業の危機感を感じて抵抗を示した。

それでもパリ大学の二人の教授ギョーム・フィシェーとヨーハン・ハインリヒは、1470年にドイツ人の印刷者3人つまりコンスタンツのゲーリング、コルマールのフリブルガーそしてシュトラースブルクのクランツを、パリへ招へいした。

印刷所は大学図書館の隅に設置され、ハインリヒが出版すべき書物の選定を、フィシェーが財政面を担当した。印刷業務にともなうもろもろの職人はパリ大学側で用意した。

おそらく最初のうちは、校正職としてドイツ出身の教授資格を持ったマギステルが働いていたと思われるが、やがてフランス人の校正職も出てくるようになった。このあたりは明治時代の初めにわが国でも、欧米の専門家を「お雇い外人」として招へいしたが、やがて日本人がとって代わっていったときの事情と似ていて興味深い。

ところで3人のドイツ人印刷者はフランスの事情を考慮して、当時まだ勢力のあったゴシック体をやめて、スヴェインハイムとパナルツの活字を手本にした活字を用いて印刷を行った。フランス人はこのローマで流行していた活字書体を、「ローマの活字書体」略して「ローマン体」と呼び、それ以降この名称が定着することになった。

やがてパリでは、大学内の印刷所のほかにもいろいろな印刷工房が、市内に作られるようになった、そうした工房の一つを経営したのが、のちにパリの代表的な印刷者になったドイツ人のティルマン・ケルファーであった。ケルファーは自分の好きな「時祷書」の印刷に対してたくさんの注文を受け、そのために他の印刷者にも作業を頼んでいるぐらいだ。

いっぽうフランス人の印刷者ジャン・プティも成功をおさめ、自分のところだけでは印刷しきれずに、よその印刷者に仕事を頼んでいる。フランスでは当時中央権力が強化されていったが、そうしたことも追い風となって、やがて書籍の印刷も花盛りを迎えるようになっていった。そして16世紀後半に至って、ブックデザインの面で指導的な国になったのである。

パリのほかには、南フランスのリヨンの町が、もう一つの中心地になったが、それについては項を改めて述べることにする。ただ一言だけ先に言っておくと、リヨンでは多くのドイツ人印刷者がフランス人書籍販売者と良好な協力関係にあったという。そのことを証明するものとして、ドイツ人印刷者ヨハネス・トレクセルが、自分の刊行した書物の終わりに記した次のような言葉がある。

「私の周りには常にドイツ人のほかに、フランス人もいる。私が出した本はフランス中で称賛され、愛好され、買われてもいる。多くのフランス人が、私の本を求めて手を差し出してくれるのだ」

<ヨーロッパのその他の地域への伝播>

活字版印刷術は15世紀のうちに、スイス、オーストリア、ハンガリー、ポーランド、ベルギー、オランダ、デンマーク、スウェーデン、イギリス、スペイン、オランダその他へと伝わっていき、やがて全世界を征服したのである。

15世紀後半の50年間に、255の場所で印刷された揺籃期本(インキュナブラ)の総点数は、2万7千点とされている。これを使用された言語別にみると、77・5パーセントが、当時のヨーロッパの共通語であったラテン語で書かれ、残りの22・5パーセントが当時のヨーロッパの各国語で書かれている。

それらを列挙すると、ドイツ語、フランス語、オランダ語、スペイン語、英語、カタロニア語、チェコ語、ポルトガル語である。さらにごくわずかながらヘブライ語、ギリシア語、教会スラブ語で書かれた書物もあった。

次に印刷された書物の内容に目を向けると、そのおよそ半分はキリスト教関係の宗教書(神学書)であった。第二位はギリシア・ローマ時代の古典書であったが、これはイタリアでは第一位であった。さらにラテン語の文法書や辞書、各国の民衆本や暦などの実用書から、政治的なパンフレットまでが印刷されていた。

最後に当時の新しい職業だった初期の印刷者には、いったいどのような人がなったのであろうか? 一番多かったのは聖職者であり、ついで金細工師であった。さらに写本時代の筆写生や彩飾画家、活字鋳造人などであった。

グーテンベルクと活字版印刷術

その03 グーテンベルクのその後の活動

<「カトリコン」の印刷>

グーテンベルクが資金提供者ヨハネス・フストから提訴され、その訴訟に敗れたことは、前回の私のブログ(その02 活字版印刷術の完成と聖書の印刷)で記したところである。その後グーテンベルクは「フンブレヒト屋敷印刷工房」を立ち去り、元の「グーテンベルク屋敷印刷工房」に戻って、しばらくの間、小出版物の印刷に従事していた。しかし、おそらくそれだけでは満足できなかったのに違いない。何か新しいことを始めたいと思っていたことであろう。とはいえ新しい事業に取り組むためには、やはりかなりの額の資金が必要であったが、そうした資金の提供者を彼は再び見つけたのであった。その人物はマインツ市の書記官コンラート・フメリー博士であった。この時も印刷機と活字が抵当に入れられた。

こうして始まったのが久々の大作「カトリコン」の印刷であった。「カトリコン」というのは文法付きのラテン語大辞典であり、当時の教養人にとっては、一種の百科事典の役割を果たすものでもあった。これは1246年に編纂されて以来、数百回にわたって写本が出されてきたものなので、売り上げが当初から見込めるものでもあった。

二つ折り判744頁という大作で、その推定発行部数は300部とみられている。そのうち今日現存するのは、紙製64部、羊皮紙製10部である。そのテキスト量の多さから、当時使われていたものの中で、最も小さな活字が使用された。書体は当時の人文主義者が書いていたゴチコ・アンティクア体であった。

ラテン語大辞典「カトリコン」

聖書や詩篇のような宗教的な題材にはゴシック体が向いており、「三十行免罪符」のような一枚ものの印刷にはゴシック雑種体がふさわしかった。そして知識の宝庫「カトリコン」にはゴシック要素を少し残したゴチコ・アンティクア体がふさわしかったのだ。組版は、「四十二行聖書」と同様に、二段組みであった。ただし各行の長さはそろっていなかった。これは今日では雑な組版と呼ばれていて、消費財的作品に用いられているものである。

その意味では「カトリコン」は、時代とともに版を改めていく時事的な性格の出版物であったといえよう。それに対して、芸術的かつ美学的観点から永遠に残るものとしての「四十二行聖書」のほうは、数段美しく、調和のとれた組版になっているのだ。

そのために昔は「四十二行聖書」の印刷者と「カトリコン」の印刷者が同一人物であるわけがない、と主張されていた。グーテンベルクの全ての印刷物と同様に「カトリコン」にも印刷者の名前が記されていないために、古来この作品の印刷者をめぐって、いろいろ議論されてきたものである。しかしグーテンベルクがその内容に応じて、用いる活字を選んでいたことを考えれば、この点は解決されよう。

ところで「カトリコン」の末尾には、一種の「あとがき」のようなものが書かれている。それは全体として神や教会に感謝するといった言葉に満ちたものであるが、そこにはこの書物が「ドイツ人の母なる都市マインツで、1460年に完成した」ことが記されているのだ。と同時に、これが筆写によるものではなくて、新技術である活字版印刷術によって製作されたものであることも、強調されている。ただし印刷者の名前は記されていない。あるドイツ人研究者は、このテキストがその校正の仕事に携わったと思われる一人の司祭によって、グーテンベルクと相談のうえで書かれたもの、とみている。そしてこの研究者は、マインツ詩篇の刊記に印刷者の名前を明示したフスト&シェッファー印刷工房のやり方と、グーテンベルクの匿名性へのこだわりとを比較して、次のように述べている。

「カトリコン」の印刷者覚書と「詩篇」の印刷者覚書の異なったテキストは、ほとんど対立するような世界観を示している。こうしたことは、後期ゴシックから初期市民時代(ルネサンス)にかけての時期に典型的にみられたことである。「カトリコン」の印刷者はなお教会及び信徒の共同体と深く結びついていて、この者にとっては、印刷術の発明は感謝して受け止めるべき神からの贈り物であった。それに対して「フンブレヒト屋敷」内の印刷者は、個人的な業績に対して誇りを示している。商業的な宣伝の意味においても、その思考は中世的な価値体系から自由で、個人の商人的な発展を示しているのだ。

この文章からは、キリスト教的中世と深く結びついていたグーテンベルクと、初期資本主義的な姿勢を示していたフストという二人の人物の、対立した構図が浮かび上がってくる。しかしグーテンベルクも完全に中世人というわけではなく、資本や利益の持つ意味も十分に認識していたのだ。その意味でグーテンベルクは、まさに中世からルネサンスにかけての過渡期に生きた人物として、その意識も過渡的なものであったといえよう。

<巨匠の頭上に垂れこめる暗雲>

グーテンベルクが60歳のころ、ドイツ皇帝を選ぶ7人の選帝侯の中の第一人者だったマインツ大司教の座をめぐる激しい争いがおこった。1459年6月、ドイツに対するローマ教会支配に不満を感じていた、教会改革派のディーター・フォン・イーゼンブルクが、ドイツ人によってマインツ大司教に選ばれた。しかしこの決定にローマ教皇は反発した。こうしてマインツ大司教の座をめぐって、ドイツ人の中の教会改革派(ナショナリスト勢力)とローマ教皇派の間で激しい抗争が繰り広げられたのであった。

この時グーテンベルクはその教会改革的信条や愛国心から、ディーター・フォン・イーゼンブルク大司教の掲げた政治目標に大いに共感を覚えていたものと思われる。そのうえ彼に資金提供をしてくれたフメリー博士がディーター大司教の顧問になったこともあって、グーテンベルクもこの争いに間接的に巻き込まれた。

<印刷物による最初のプロパガンダ作戦>

16世紀前半のマルティン・ルター(1483~1546)による宗教改革の際に、彼の新しい教説をやさしく述べた小冊子やパンフレットが大量に印刷されて、多くの民衆の間に配られた。そのためにグーテンベルクの活字版印刷術は発明されてから半世紀余りたって、その威力を発揮したといわれている。しかしこうした印刷物によるプロパガンダ作戦は、実はグーテンベルクが生きていたマインツ騒乱の時期に、すでにその走りとでもいうべき形で展開されていたのである。

ディーター・フォン・イーゼンブルク大司教に不安を感じたローマ教皇は、その後大司教選挙に敗れたアドルフ・フォン・ナッソーを、新大司教に任命して、ディーター大司教を罷免する措置をとった。そして1461年9月、このアドルフがマインツ大聖堂で大司教に就任した。しかしマインツ市民の中にはなおディーター大司教を支持する人も少なくなかった。こうしてマインツでは、新旧の大司教を支持する二つの陣営に分かれて、激しい抗争が繰り広げられた。そして両陣営は新たなプロパガンダ作戦を展開したのである。

こうしたプロパガンダ作戦に用いられたビラやパンフレットの類いは、すべてフスト&シェッファー印刷工房で印刷されたのであった。最初のビラは同工房の新しい活字で印刷された皇帝フリードリヒ三世のアピールであった。ついで大司教の罷免に関する教皇ピウス二世の勅書のついた告知ビラがある。それに続いてアドルフを新大司教に任命することに関する教皇の小勅書がある。さらにアドルフの任命に関するマインツ大聖堂参事会にあてた教皇の小勅書を伝えた告知ビラが残っている。

いっぽうディーター前大司教も1462年3月には、その宣言書を印刷させている。それはたぶんフメリー博士によって書かれたものと思われるが、これらは各地の諸侯や都市の当局者ならびに都市のギルドにあてて送られている。この中では、発生した争いを、数人の選帝侯と司教によって構成された仲裁裁判所に持ち出すことが提案されている。また1462年春のビラの中にはアドルフ大司教の激しい争いの言葉を見ることができる。

これらの全ての闘争ビラは、世論を自分たちの陣営につけることを意図し、あわせて敵側の陣営を誹謗中傷するものであった。争いにあたって従来から使われてきた刀、槍、弓矢、火縄銃、大砲といった武器と並んで、ここに初めて印刷機から生み出された、新たな精神的武器が登場したのである。

<マインツにおける熱い戦い>

このようなプロパガンダ合戦の後、1462年6月、ついに熱い戦いが始まった。その後の戦闘の経過についてはここでは省略するが、同年10月28日に、マインツ市内で行われた激突の結果、教皇派のアドルフ陣営の勝利が確定した。

この日の戦闘で400人のマインツ市民が命を落とした。そして生き残ったディーター派の市民は、町から追放されることになった。彼らの家屋敷は収奪され、新しい大司教の支持者に与えられた。市の金庫の中の全ての金、店の商品、数えきれない宝物が侵略者の手に落ちた。いっぽうディーター前大司教はその地位を放棄したが、その代償としてかなりの額の補償を手にした。そして翌年には教皇特使から罪の許しを受けた。

<グーテンベルクとその弟子たちの消息>

この間活字版印刷術の発明者は、どうしていたのであろうか? ディーター派に属していたため、その運命は過酷であったものと思われる。グーテンベルクがその家屋敷を没収されたことは確かだとみられている。

巨匠とその従業員はマインツ陥落直後の1462年10月30日に、おそらく多くのマインツ市民と一緒に、武装したアドルフ側の傭兵の罵声を浴びながら、ガウ門を通って町を出ていったものと思われる。その折に授業員たちは市を取り囲む城壁の外でもう一度師匠の周りに集まって、将来のことをいろいろ語り合ったに違いない。

弟子たちのうちの何人かは、すでに印刷の経験があるシュトラースブルクやバンベルクへ、また何人かはライン川に沿ってバーゼルやケルンへ、そしてその他の者は国外とりわイタリアの諸都市を目指したことであろう。彼らは印刷術の秘密を守るという約束から、もはや自由になっていたのだ。またそのうちの何人かは、運よく印刷器具や印刷物などを持ち出すことに成功したかもしれない。しかしたとえそれができなかったとしても、グーテンベルクのもとで積んだ活字版印刷の経験とその技術こそが、彼らにとって何よりの財産であったのだ。

いっぽう「フスト&シェッファー印刷工房」も、おそらくマインツが陥落したときに破壊され、翌1463年の2,3月ごろまでは休業状態にあったと思われる。そしてそこの主であったフスとシェッファー及びその従業員も、一時的に町から追放されたであろう。しかし豊富な資金を持っていたフストとシェッファーは、町が平穏になると戻ってきて、再びその印刷工房をマインツ市内に再建して、仕事を開始している。ただその従業員の一部はマインツを離れたまま戻ってこなかったと思われる。

<グーテンベルクのその後>

兵火が消えやらぬマインツを後にしたグーテンベルクは、どこへ行ったのであろうか? その避難先はマインツの近郊ともいえるライン河畔の町エルトヴィルであった。そこには母親が相続した家屋敷があったために、彼も少年時代に家族と一緒に過ごした可能性があるのだ。ともかくそこは昔からグーテンベルク一族と縁の深い場所だったのだ。また彼が気を許すことができた友人たちも住んでいた。

その土地にもグーテンベルクは印刷所を設立した。新しいパトロンのフメリー博士からも財政援助があったものとみられている。そして活字鋳造器具、「カトリコン」用の活字やその母型、その他の印刷関連の道具類も持ち運ばれたものと思われる。その印刷所は、所有者の兄弟の名前から、「ベヒターミュンツェ印刷工房」と呼ばれた。

1465年1月14日、ヨハネス・グーテンベルクは、新しいマインツの大司教アドルフ・フォン・ナッソーから公印つきの一通の手紙を受け取った。それは彼を廷臣として大司教の宮廷に召し抱えるという内容の手紙であった。もともと彼はこの大司教と対立していたディーター旧大司教側の人物とみられ、そのためにマインツを追われてエルトヴィルへ逃れてきていたのだ。そういう関係にあった新しい支配者からの任官の申し出であったのだが、グーテンベルクはこの申し出を受けている。

任官といっても特別な仕事があるわけではなく、いわば名誉職であった。そのわりに待遇はよく、宮廷服、2180リットルの穀物、2000リットルのワインが支給されることになった。これには税金がかけられず、すべて自分で使うことができた。もともとワイン好きのグーテンベルクにとって、これはとてもうれしい事であったに違いない。再び友人や知人を招いて、一緒に杯を傾けることができ、長い苦労の歳月の後にようやく晩年の平穏な日々が訪れた、というところであろう。

大司教の宮廷人になったことで、再びマインツとの往来が自由になった。おそらくこの時から、多くの都市貴族が昔からしていたように、夏と秋をエルトヴィルで、その他の季節をマインツで過ごすことになったものと思われる。

新大司教アドルフは1462年10月末にマインツを制圧したのち、新しい秩序を打ち立てる必要を感じた。そのために対立していたディーター旧大司教とも翌年10月には講和を結んだ。そして例のフメリー博士に対しても、その損害に対する経済的な補償を行った。こうして自らが支配するマインツ大司教区内での政治的な分裂状態を克服していったのである。

このようにかつての敵との急速な和解の雰囲気が広まるのにつれて、マインツが生んだ偉大なる功労者であったグーテンベルクにも、光が当たってきたわけである。おそらくローマの枢機卿ニコラウス・フォン・クースやバンベルク司教あるいはパリ大学からも、活字版印刷術の発明者のほうに目を向けて、その功績を顕彰するようにとの示唆があったものとみられる。また大司教自らもその抗争を通じて、プロパガンダの新兵器としての印刷術に対して、認識を新たにしたに違いない。こうして初めに述べた公印付きの手紙の発送へと事態が進んだと思われる。そしてエルトヴィルの新しい印刷所も大司教の陰ながらの支援を受けることになって、なにかと商売がやりやすくなったと思われる。

いっぽうアドルフ大司教としてもグーテンベルクを顕彰することによって、「四十二行聖書」の出版以来、印刷術やその発明者に対して関心を持っていた教皇ピウス二世や枢機卿クースのいたローマ教皇庁に対して、自己の威信を高めることができたことだろう。

<その晩年と死>

巨匠に対する顕彰は、当時の政治情勢がもたらした幸運であったといえよう。60代半ばにしてようやく手にした経済的に恵まれた晩年の穏やかな生活ではあった。この間マインツでは以前住んでいた「グーテンベルク屋敷」からも遠くないところにあった「アルゲスハイム屋敷」が、アドルフ大司教から貸与された。マインツ滞在中にこの屋敷に住んでいたグーテンベルクは、先にも述べたように、友人や知人を招いてワインをふるまっていたと思われる。

そんな時、自分が発明した活字版印刷術がどんな都市や国へ、どんなふうに普及していったのか、ということもいろいろ彼の耳に届いていたことだろう。そしてそうした日々の中で、かつての共同事業者で訴訟の相手でもあったヨハネス・フストが、パリで死亡したという通知もその耳に入ったはずである。フストはグーテンベルクよりやや早く、1466年10月30日にペストにかかって亡くなっている。

グーテンベルクは、まちがいなく以前から、とりわけ聖ヴィクトーア兄弟団の団員として、死に対する準備をしていたものと思われる。この兄弟団はすべての団員に対して、敬虔なる埋葬と死者のためのミサの執行を保証していた。そのために活字版印刷術の父は、心安らかに最後の日を迎えることができたことであろう。

彼の死亡を公式に伝える役所の死亡証明書といったものは存在しない。しかし彼の死に関するメモ書きが、エルトヴィルの司祭で聖ヴィクトーア教会の参事会員であったメンゴスという人物によって残されている。このメモ書きは、グーテンベルクの死後に印刷された、ある書物の中に書き込まれているのだ。そこにはグーテンベルクが1468年2月3日に死去した、と記されている。生まれた年がはっきりしないため、死亡年齢は断言できないが、68歳前後だったと推定されている。

絶え間ない戦争、疫病、不慮の事故など、今日とは比べられないぐらいに死の危険にさらされ、平均寿命もずっと短かった15世紀に、この年齢まで生きたという事は、かなりの長生きだったといえるだろう。彼にとっての仕事とは、たえざる創造のプロセスだった。そうした目標追求の生の中にあってこそ、精神の若さと生き生きした意識を保ち続けられたのであろう。

マインツ市内に立つグーテンベルク像(私が撮影)

<グーテンベルクへの称賛の言葉>

活字版印刷術の父グーテンベルク、その発祥の地マインツあるいはドイツに対する称賛や感謝の言葉は、15世紀後半の時期にはまだ、様々な形で残されていた。パリ大学教授ギョーム・フィシェーは、グーテンベルクが死んだ三年後の1471年に、ある書物の前書きで、次のように記している。

「ヨハネス・グーテンベルクが活字版印刷術を最初に考え出した。それは書きペンや羽根ペンではなくて、金属でできた活字によって書物を作るというものである。これは今までよりも速く作れ、しかも美しく、趣がある。まことにこの人物は、すべてのミューズの神、すべての芸術愛好家、すべての書物の愛好家が、神への称賛にも似た賛辞をもって称えるのにふさわしい人物である」

またその少し前の1470年にパリで出版された書物の中には、次のようなラテン語の警句が載っている。

「ドイツは多くの不滅の業績を達成してきたが、その最大のものは活字版印刷術である」

さらにヴェルナー・ロヴェリングは、次のような言葉を残している。

「マインツにおいて発明された活字版印刷術は、芸術の中の芸術であり、また学問の中の学問である。その急速な普及によって、世界はこれまで隠されてきた知識と知恵の宝庫で満たされるようになり、明るく照らされるようになったのである」

長く苦しかったグーテンベルクの発明の仕事は、報われたのである。

マインツ市内にあるグーテンベルク印刷博物館